2011年06月07日

ホーヒー千年の怪獣退治

 それはカンコロリの館と呼ばれていて、誰も訪れることのない鬱蒼とした森の沼のほとりにあった。なぜそこには誰も来ないのかというと、沼の底が抜けて底なし沼になって、鼻もげる悪臭のガスがボコリ、ボコリと上がってきて容易に近づくことができなかったのである。カンコロリの館にはアカンワナ・オトー大王が海千山千の取り巻き将軍たちを怒鳴り散らしながら陣を取っていた。

 そのとき館の周辺は悪臭が931ヘコベルという強度で漂っていたが、館の内部は0.931ヘコベルまで軽減されていたし、大王は事態の深刻さにいくらかは目を泳がせつつも、ちょっとばかり為政者の余裕をかましてホーヒーした。実のところ大王はユッケヘド・ヤマ将軍とイチロンベ・ウザーワ将軍の謀反を疑心暗鬼しつつ、いつも叱咤激励してくれる最愛のアカンワナ・ノブー妃と覚悟の夫婦心中すら決意してワンマン独裁体制の頂点にいたのだ。

 有頂天の時は過ぎ大王の独裁はいまや支持されていない。だからこそカンコロリの館に来て、ここはチャンスと巻き返しの策に没頭しているのだ。それにまた、この国ではホーヒーが臭いことは致命的だったから、大王は極力その臭気を薄めようと大いに努力した。あえて周辺の悪臭が死ぬほど論外な館にいるのは、自分の少々の臭いホーヒーも許容範囲となるので、そこにいることだけで神々しさの演出となるからだ。

 もちろん清廉潔白の清々しいホーヒーこそが極上のホーヒーなのではあるが、しかしそういうものがあっても、もはや多分それはホーヒーとは呼ばれないものであろう。一般にそんなホーヒーなどまずありえないわけである。そこでホーヒーは、その臭さを隠蔽するか、もっと臭いものと比較対照し目をそらさせることで(絶対ではない)相対的な無罪性を獲得するほかない。

 大王には臣下を従わせる手練手管は備わっているという自負があり、それは揺らぐことのない自信であったし、自らの振る舞い方は耳元への妃の妖しいつぶやきによっても発信されていた。

 かつて大王は政変前の将軍の時代に四つの国の聖地を巡礼しホーヒー封じの願かけをしたことがあるが、当時の大王の前でにおいのキツイやつを派手に粗相してしまい、それを名誉挽回しようとした夫婦連携のパフォーマンスだった。それを思いついたのは呪詛のような妃のつぶやきからだ。

 大王の困った難点は突然の癇癪。他人には予測しがたい怒髪天を衝く激高はアホドリームな(=夢見心地のオバカな)形相の尊大な態度と相まって雰囲気をぶち壊しにする。並み居る家臣は毎度のことなので辟易し、館の執事団は怒鳴り声に恐れおののき面従腹背の愛想笑いで本心を閉ざした。

 大王ともなれば、そういう残念な自分の欠点は概ね理解しているのだが、そもそも国内統治というものは多数の民に喜ばしき果実がもたらされれば「すべてよし」なのだ。人格の少しばかりの難点は問題ではないのであり、要所要所でピタッと決まる頼もしい姿勢を打ち出せば、民はただただ拍手喝采し祝福して踊ってくれる。評判はいやがうえにも高まるだろう。そのように大王は考えていた。民のために喜ばしき結果こそが大王の切実なる願いなのだった。そこにたとえムンムンと邪心はあっても嘘はない。それは大王ならば誇ってよろしい矜持なのである。

 大王がカンコロリの館に滞在しているのは、国土を吸い尽くす(かもしれない)底なし沼に対処する陣頭指揮を執るためだ。ユッケヘド・ヤマ将軍が沼の底に怪獣ヘノコンドリアを退治しようと封じ込めてみたのはいいが、ヘノコンドリアは暴れまくって沼底が抜け、さらに次第に沼の面積が大きくなって周囲をのみ込もうとしているのである。沼底からは出るに出られぬヘノコンドリアの漏らすホーヒーが上がってきて一帯はすさまじい悪臭に包まれていた。

 ギョロ目のユッケヘド・ヤマ将軍はしでかした愚行にめげることなく意気軒昂だった。何しろ将軍は金満家でお育ちがよく世の中のことがよくわかっていない性向があり、あまりの能天気ぶりにかみついたら食あたりしそうで、怒鳴りまくるアカンワナ・オトー大王も進んでは言葉が出ない。もともと農民運動上がりの貧乏貴族だった大王とはクーデター以来の悪縁の同志ではあった。一応。

 このギョロ目の将軍の背後に影のようにピッタリくっついているのが、そろばん勘定にたけて子分も多いイチロンベ・ウザーワ将軍である。なぜか脇の甘いユッケヘド・ヤマ将軍とはウマが合うのだ。彼はユッケヘド・ヤマ将軍に調子を合わせて何かと手を差し伸べていたが、この二人は都合が悪くなるとサッサとためらいなく方針転換する性癖が共通していた。特にイチロンベ・ウザーワ将軍には歴戦錬磨の裏切り者という烙印があった。しかし、重大な場面で裏切りが成功したことはなく、結局はもとの鞘に収まったりボロボロに破れて散財するハメになっていた。

 アカンワナ・オトー大王は怪獣ヘノコンドリアを不用意に沼に追い込んだ愚かなユッケヘド・ヤマ将軍を叱責し、事後処理は俺の手柄とばかりに館に無理やり陣を取って号令をかけたまではよかったが、あんまり怒鳴るので家臣も執事も極度の自己保身に陥り、報告・連絡・相談も極度の尻すぼみ。大王の前で粗相のホーヒーをせぬよう尻すぼめして人知れずスコベに走ってしまう。そのため館の内のヘコベル値は本来ゼロのはずなのに0.931ヘコベル(人が臭味を感じ始める基準値)へと上昇したのである。

 ヘノコンドリアはいつもは森の奥に住んでいた。頭と尾が四分五裂して争っている醜悪な怪獣で民の田畑を喰い散らかし、戦いを好み、年に一人だけ一番臭いホーヒーをする屁娘を喰らうのである。しかし、このヘノコンドリアは国を脅かす外敵には牙をむいて戦う存在で、頻繁に海を越え戦闘船を繰り出してくるチュッコクベ国やキタチョンベ国を撃退する重要な戦闘力になっていたのである。

 しばらく平和が続いたためヘノコンドリアの悪徳面だけが次第に民を深く傷つけ、反ヘノコンドリア農民運動が起こり始めた。一向にヘノコンドリア対策を講じない当時のターロンベ・アッソ大王は神事の祝詞を言い間違えたのをきっかけに、大王の資質を疑われて農民運動に包囲されてあっさり死罪となった。そのときの農民運動の首謀者がアカンワナ・オトー、ユッケヘド・ヤマ、イチロンベ・ウザーワの将軍たちで、農民たちにヘノコンドリアの退治を約束したのだった。

 大義を連呼して王位を簒奪し最初は意気込みよろしく頑張ってはみたものの、国内統治は思うに任せず苛立ちの独裁色を深め、ヤケヤンパチ料亭で贅沢三昧して肝心のヘノコンドリアには手も足も出ないままである。これでは約束と違うと農民が騒ぎ出すと、ユッケヘド・ヤマ将軍が登場。深い考えもなく独断で乾季の森の沼に水を張って、誘い出したヘノコンドリアの足に鉄球をくくりつけて沈める作戦を決行した。地獄に行けと沼に落とし溺死させるつもりだったのだ。

 これがいけなかった。もともとヘノコンドリアは雨季になると泥浴びする沼地を好み、泥に馴染んでいたのである。鉄球の重みであえなく沼に沈んだのだが、泥の中でも生きる術があるため死なないどころか、大いに暴れて沼底が抜けてしまった。底が抜けた沼は岸を次第に崩壊させ沼地を拡大させていて、すでにカンコロリの館近くにまでせまっていた。ヘノコンドリアはいまも泥中でホーヒーしながら暴れているのだ。しかも、この怪獣のホーヒーは鼻粘膜を溶融するほどの悪臭であった。

 沼への勝手な注水を止めるように言ったのになんで止めなかったと、アカンワナ・オトー大王はユッケヘド・ヤマ将軍を激しく責めたが、そんな話は聞いていないと将軍は突っぱねていた。二人の「言ったさ」「聞いてないわさ」「知らんさ」「それじゃペテンさ」の押し問答に、イチロンベ・ウザーワ将軍が「アカンさ、アカンさ」と絡んできて、ユッケヘド・ヤマ将軍の言い分に耳を傾けたものだから、大王の胸には疑心暗鬼の雲がむらむらむらとわいて出た。

 しかし、おおもとの作戦自体は大王も承知していたし、注水(のタイミング)だけを責めて怒鳴っても仕方がないのだ。そういう振る舞いがまわりには大王の責任逃れに映ってしまうわけで、いくら館で陣頭指揮をとったところで、どうせまた手柄を自分に掌握するつもりなんだろうと、家臣も執事も適当にやり過ごしてしまう。

 こういう状況を見て憂慮したのが、前大王の寵臣であったヘノガキッペサ・ダカス将軍である。もはや零落してヘノコンドリアの野グソ集めを命じられている身だったが、ある重要なことに気がついた。国中の野原に散らばって悪臭を放っている野グソこそが、沼底で暴れているヘノコンドリアを始末する鍵だった。

 国中を汚染している危険な野グソを集めているうちに、ヘノガキッペサ・ダカス将軍は発見したのである。どうもヘノコンドリアは自分のクソを死ぬほど忌避しているのではないか──そう将軍は考えた。ヘノコンドリアは野グソをした場所に二度と戻ってくることはなかったようだし、野グソの周囲ではあらゆる生物が悶絶していたからだ。

 ヘノガキッペサ・ダカス将軍は未曽有の国難に自らの身は顧みず第二の作戦を進言した。崩壊する沼に野グソを放り込むという奇策に、取り巻きからの妙案がなかったアカンワナ・オトー大王は一も二もなく狂喜満喜して抱きついた。まるで満を持した自分の策であるかのようにもったいぶって厳かに指示を飛ばした。これこそ大王の矜持である。大王は勇躍してカンコロリの館に陣を取ったのだった。将軍たちとの不協和音でワンマン独裁色を強める大王にとっては、グダグダになっている政策の不首尾、移り気な民の不満を一気にガス抜きするチャンス到来だったのだ。だがそれは、諸刃の剣。

 野グソは沼に集められ次々に放り込まれていた。自分の野グソの毒素でヘノコンドリアは(多分)死ぬのだ。しかも野グソで沼を埋め立てるという一石二鳥なのである。もっとも、埋め立ては遅々として進まなかった。クサイ、キタナイ、キケンの3Kで兵士たちは疲弊し、やっていることの効果のほどもよくわからないのである。すでに三ヶ月を経過していた。

 さて、前置きが延々と長くなったが、先ほどから館の周囲が騒がしい。どうしたのか。931ヘコベルの悪臭をはね返す黒の防護服を着た将軍たちが、カンコロリの館を出て白と青の祈り札を手に手に捧げ持っているのだが、どうも様子がただごとでない。

 どうやら危機意識が満載のアカンワナ・オトー大王が現地視察を強行しようと館を出たが、将軍たちが追いすがって猛反対しているらしい。ヘノガキッペサ・ダカス将軍も大王を押しとどめようとしている。青札(反対)を振っている多くの将軍たちにとって「3Kだから」というのが表向きの反対理由だろうが、本心はこれ以上、野心満々のヘノガキッペサ・ダカス将軍と大王が結束し大野合するのを望んでいないのだ。多くの将軍たちは野グソで大王に近づくヘノガキッペサ・ダカス将軍の下心を疑い警戒していた。

 実は一方のヘノガキッペサ・ダカス将軍の本心は視察OK。ついでに沼にはまって昇天してくれれば、なおのことOKと不徳にも思っていた。野グソ集めをやらされた怨みは深い。ただそれを国難のいま表には出せないだけである。合言葉は大連合なのだ。嘘か真か半信半疑ながら、秘密教であるホーヒー教の確信的な信者にして盟友のインチョヤマグー・ナットー将軍によれば、ヘノコンドリアは(国の長たる)大王の生き血をもって死ぬだろうといい、よからぬ思いもよぎってしまう。ただ、ヘノガキッペサ・ダカス将軍は決断するにはすこぶる優柔不断なところがあった。

 ついにアカンワナ・オトー大王は寵臣のオカラカンジ・カッツー将軍に支えられて沼地へと向かうことになった。いささか異様な動きの黒の防護服の面々が、まるでポンコツロボットが隊列を組んだようにぎこちなく沼へと向かい始める。大王にぴったり従うオカラカンジ・カッツー将軍は用心深いことでは随一の人物であり、愚直(馬鹿)と評されるほどに忠誠と原則にこだわる傑物だった。大王の信頼も破格に厚い。一つ難点といえば、少し耳が小さかったので大声で命じないといけないことであったが。

 黒ずくめの一団はそこだけはかろうじて崩壊が止まっている沼を見下ろす崖の上までやってきた。見下ろすと、ボコリ、ボコリとヘノコンドリアのホーヒーの泡が上がってきているのがわかる。兵士たちがおびただしい量の野グソを投じていた。沼は巨大なクソ壷だった。

 そのときアカンワナ・オトー大王は防護服の中でこっそりホーヒーをしてめまいを覚えたのである。少し足許がふらついたので傍らのオカラカンジ・カッツー将軍に不機嫌にこう言った。

   「ちゃんと俺を支えてくれ」

 将軍の耳にはこう聞こえた。

   「ちょっと俺を押してくれ」

 そこでオカラカンジ・カッツー将軍は大王の背中をポンと押したのである。大王は沼へと真っ逆さまに落ちていった。

 ──それから千年。怪獣を退治した大王の名前は伝わっていない。沼は美しい湖に変わっていた。その名はアカン湖。


ラベル: 大王 アカン湖
posted by 楢須音成 at 07:57| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

それは〈屁〉なのか「糞」なのか

 普段はあまり感じないが、よくよく観察してみると人間の身体は何と繊細にできているのであろうか。例えば、我々は〈屁〉をこきたいナと思ったら〈屁〉をこき、糞をしたいゾと思ったら糞をするのだが、これを間違えることはまずない。よほどのことがない限り、同じ肛門通過現象である〈屁〉と「糞」を(概ね)識別して予知することを無意識のうちに行っている。つまり〈屁〉をするつもりで糞が出ることは(ほとんど)ない。糞をするのに〈屁〉がいっしょに出てくることはあるにしても、考えてみれば、我々には確かによくできている仕組みが備わっているね。

 前に糞尿屁の三兄弟のなかでは〈屁〉が一番ワガママである(先に出ようとする)と考察したことがあるが(参照)、ここでは〈屁〉と「糞」の関係を少し掘り下げてみよう。我々は〈屁〉なのか「糞」なのか、そのとき出てくるものを識別している。それは意識せずとも身体が反応している。この辺のメカニズムを解説した記述を引用する。
 ウンチをしようとしたら、オナラもいっしょに出てしまうということはよくある。しかし、オナラをしようとしてウンチも出てしまうということは、よほどひどい下痢のときでもないかぎり、ふつうはありえない。ウンチとオナラ、同じ腸管のなかから出てくるのに、区別されて出てくるのはどうしてなのか。
 腸管内には、固形物であるウンチだけをふくんでいる場所と、ガス体であるオナラを多くふくんでいる場所が入り混じっている。それらが弛緩と収縮をくり返す腸管の蠕動運動によって、上から下へと押し出されていく。
 腸管を押し出されたウンチがいきつくところは、直腸から数センチ上にある直腸膨大部という場所である。ここにウンチが溜まり、直腸にまで下りてくると、便意をもよおすことになる。そして、肛門括約筋が開く。
 直腸膨大部にまだウンチが溜まっていなくても、腸管内のガス体が増えると、ガス体は腸管とウンチのあいだなどをすり抜けて下りてきて、腸管膨大部を圧迫し、その圧力によって、やはり肛門括約筋を緩めたくなる。
 このとき肛門括約筋を緩めると、ガス体は直腸膨大部から直腸を通って勢いよく肛門から出る。
 ウンチをオナラでは、肛門括約筋の緩み方がすこし違う。ウンチは大きな固形物を出すため、ゆっくりと、大きく緩めて開く。いっぽう、オナラは気体であるため、肛門が開くというよりは、一瞬すこし緩めるだけで、瞬間的に通過していく。
 ウンチかオナラか、どちらを出したいかの判断は、腸管を圧迫する感覚の違いでわかると考えられているが、そのコントロールは自律性をもった神経調節によって行われている。神経系をコントロールできないような状態にならないかぎり、この機能が正常に働いて、ウンチとオナラが区別できるのだ。
(『人体-からだ-の不思議』博学こだわり倶楽部編、KAWADE夢文庫、2007年)

 なるほど、つまりは「腸管を圧迫する感覚の違い」が感知されているわけだ。これによって身体(肛門括約筋)が肛門の緩め方を制御している。身体は〈屁〉のときは少し緩めて瞬間的に肛門を通過させ、「糞」なら緩みっぱなしになるのである。重要なのは出てくるのが何か事前に察知しているということだ。

 ここで重要というのは、仮にそのとき何が出てくるのか(出てくるまで)識別できないとしたら、大変困ったことになるからだ。それは〈屁〉なのか「糞」なのか。間違えると大変なことになりかねない。前にも紹介したが、こういう話があった。音成のテキトー訳である。
 ある説経師が招かれて、いつになく素晴らしく格調も高く説法しようとしたとき、うんこがしたくなったのだが、そのうち大変な緊急事態となり、大慌てで布施も貰わずに帰って、履き物を脱ぎ散らかして大急ぎで便所に駆け込んだ。ところが屁ばかりが出てうんこは出ない。「こうだと知っていたら、高座の上でしばらく我慢して説教を続けたものを」と悔しく思っているうちに、その次の日も人に呼ばれた。説教をしていると、またまたうんこがしたくなったのを屁だと思って透かしてやろうとばかり、ちょっと座り直すようなふりをして透かしたのだが、まことのうんこが大量に出てしまった。この僧、万事休すと為す術もなく「昨日はうんこにだまされて屁をし、今日は屁にだまされてうんこをしてしまいましたぞよ」と言いつつ、高座を走りおりて逃げ出すと、うんこが上の袴からたれ落ちて堂の中がよごれてしまった。聴聞の人は鼻をおさえて興ざめした。まったく滑稽なことだわ。
(藤原信実『今物語』1239年〜)

 こういうふうに〈屁〉と「糞」を取り違えると滑稽話になってしまうが、普通にはあまりないはずだ。この説教師も排泄については一般人と同じだろうから、このような粗相は何かしら身体の異常という理由があると考えられるね。とすれば多分〈屁〉が出た日は便秘気味で硬便だったのだろう。次の日は間違いなく下痢気味の軟便だったのだろう。説教師は一日でこのような体調(排泄)の変化をきたしたわけで、生活(特に食生活)はかなり不摂生している人物ではなかろうか。あるいは「糞」が出なかったので下すようなものをあえて食していたのかもしれない──というような裏読みができる。ウンチとオナラの識別の混乱には説教師の(不摂生な)生活がある。

 人間の行動には身体の生理が裏打ちされているのであり、それは〈屁〉においても同じ。身体がいつもと違う動きをしていると、我々は失敗したり、望まずともいつもと違う行動を取ってしまうのであ〜る。
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posted by 楢須音成 at 18:10| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月18日

〈屁〉を裁判してみる

 何か罪に問われるにしても〈屁〉によって断罪されることは容易に承伏しがたいものだ。妻の〈屁〉が臭いので離婚の裁判を起こした(大正15年6月14日付けの東京控訴院刑事部第一号法廷の裁判)とかがあるらしいが、本当に〈屁〉だけが原因なのかは大いに疑問とするけどね。しかしまあ、異音異臭の〈屁〉を何とか裁判にかけようとする気持もわからなくはないよ。他人の〈屁〉ほど迷惑なものはないんだからね。

 時評戯文を集めた『拳骨百話』(大月隆編、1911年、東京滑稽社刊)に〈屁〉を裁判する話が出ている。少し長くなるが引用してみる。漢字は新字体にし、太字、改行などで読みやすくしてみた。
 珍々無類 放屁(おなら)之裁判

  原告(甲)    教育家
  原告(乙)    音楽家
  原告(丙)    美術家
  被告(甲)    美術家
  被告(乙)    焼芋屋
  裁判長      法律家
  陪席判事     物理学者
  立会検事     東京滑稽社
  弁護士(甲)   藪医者
  弁護士(乙)   経済家
  証人       貧乏人
  筆記       久保案外

 音に聞えた放屁の裁判は某月某日某クサイ判所に於て開かれた。開廷前より傍聴人は雲霞(うんか)の如く押寄せ来り、我こそはこの前代未聞の珍裁判を傍聴して子孫までの語り草にせんと、先を争ふ光景凄(すさま)じく、やがて時刻の来るや門を押開いて闖入(ちんにゅう)し、人雪崩(なだれ)打つて忽(たちま)ち立錐(りっすい)の余地なき大盛況を呈した。当日被告の服装は薩摩絣の衣に黄色の兵児帯(へこおび)を〆め、裁判長以下廷丁に至るまで威儀厳然(いぎげんぜん)として原告及び弁護士は傍(かたわら)に控へたり。

 裁判長「此度(このたび)原告教育家音楽家美術家の起訴によつて被告両人を訊問(じんもん)すべきにより正直に申述べよ。」
 判事「被告甲の原籍氏名を述べよ。」
 被告甲「恐れながら拙者は御奈良県国分寺村高井文平の伜音吉と申し、現今は東京市浅クサ区に住居致し居りまする。」
 判事「年齢は。」
 被告甲「シジウクサイ…。」
 判事「ナニ始終臭い。」
 被告「もしもし四十九歳で御座います。」

  此時傍聴人一同ブツと思はず噴出す

 判事「被告乙の原籍氏名を述べよ。」
 被告乙「拙者は豊後国(ぶんごのくに)大草村の百姓妹尾(いもお)安太郎、現今は音吉君と同区にて焼芋屋を営業致して居りまする。」
 裁判長「原告等は如何なる被害を受けたるや。」
 原告甲「拙者は社会の教育を以て任務と致し居るもの、常に風儀(ふうぎ)を正し礼式を重んずるものにて、不肖なれ共師弟を教導しつゝあるに、豈(あに)図らんや放屁家なるものありて我等を妨害し、連(しき)りに大砲を発し、人を笑はせ礼儀を乱すこと言語同断(ごんごどうだん)実に悪(にく)みても猶(なお)余りあれば速かに彼を社会の外に放逐せられんことを希望す。」
 原告乙「拙者は音楽家にして嚠喨(りゅうりょう)たる音楽を奏して人心を清快ならしめるつゝあるに、彼の放屁家なるもの濫(みだ)りに臭声を揚げて、大砲屁、寝息屁、鼓(つづみ)屁其他いろいろの屁を発して、清潔なる音楽の邪魔すること迷惑至極なれば、彼を厳重に処罰あらんことを願ひ奉る。」
 原告丙「我々は美術を以て宇宙間の美を発揮して、絵画彫刻のみならず精神をも高尚優美ならしむるに、放屁家なるもの矢鱈(やたら)に神聖なる美的精神を犯すこと極悪重罪なり。また彼に原料を供給せる焼芋屋も共犯者なれば、宜(よろ)しく共に御処分を願ひ上(あげ)る。」

 裁判長「被告は何故に斯く多くの屁を発するや、また如何なる工夫又は薬品あるや。」
 被告甲「別に工夫あるにも非(あら)ず、又薬を飲むにもあらず、猶(なお)又師匠あるにも非れども、拙者の父は常に屁踏多利(へふんだり)夜叉明王を信仰し給ひ、又母お文は常に芋を好み給ひ、或夜の夢に火吹竹を呑(の)むと夢みて懐胎し、鳳屁(ほうひ)元年へのえ鼬(いたち)の歳(とし)腹春辺の梅匂う頃拙者を誕生せしを以て、成人するに随つて功を屁、屁は身を助ける様(よう)に相成り、惚手(ほれて)もなければ贔屓(ひいき)もなけれども我大日本帝国のみならず支那朝鮮西洋各国に至るとも、未だ旧記にも見えず現代にもなき名人にて、我こそは屁道(へどう)開基の祖師なりと存じ候なり。」
 判事「然らば如何なる音を以て種々の屁をヒリ分けるや。」
 被告甲「ヘイヘイ、大砲屁とはヅドンと鳴り、寝息屁とはスースーと鳴り、法螺貝(ほらがい)屁とはブウブウと鳴り、言叱(こごと)屁とはブツブツと鳴り、鼓屁とはポンポンと鳴り、赤痢屁とはピリピリと鳴り、下手三味線とはブブンブンと鳴り、蜂の舞とはブンブンと鳴り、其他御好み次第にて、支那にては放屁と云ひ、上方にてはコクと云ひ、関東にてはヒルと云ひ、女中などはすべてオナラと云ひ、其語異ると雖(いえど)も臭きは同じ事なり。又音に三等ありて、スーとすかすもの下品にして細長く、ブウとなるもの中品にして其形やや四角なれども、ブツと鳴るものに至りては上品にして、其形円く、高尚優美にして其音高過ぎず、糟(かす)なく疵(きず)なく、尻の穴の掃除をなして腹中を快くし、有益無害のものなれば何とぞ御明察を仰ぎ奉る。」

 裁判長「被告の陳述尤(もっと)も至極(しごく)なれ共、風俗を乱すの罪逃るべからざれば、死刑より一等を減じて臭身(しゅうしん)懲役に処すべし、又被告乙は刑法の所謂(いわゆる)情を知て犯罪を輔助(ほうじょ)するもの、乃ち屁となるを知つて販売せるを以て同罪とす、然れども状情の大に酌量(しゃくりょう)すべきものあれば、特に二等を減じて軽禁錮に処す。」

と厳かに宣告した。弁護士は進み出で、

 弁護士乙「彼のお芋なるものは安価にして美味なるを以て、常に貧民社会の生活を助け、また如何なる痩地(そうち)にもよく成長し、殊に飢饉(ききん)の際には人名をつなぐ其功大且(かつ)多なりとす、もし疑ひあらば速(すみやか)に証人を呼出して御取調べあらんことを。」
 判事「只今弁護士の申立は、証人に於て事実相違なきことを承認するや。」
 証人「ヘイヘイ、全くそれに相違御座りません、お芋がなければ我等の生活が立ちません。」
 弁護人乙「既に芋を食せさるべからざる以上は、又屁を発するは自然の理にして止むを得ざるものなれば、宜しく被告乙を無罪放免せられんことを。」
 原告甲「芋を食するは止むを得ざるも放屁を発するに及ばず、昔は武士の誤つて人中にて屁を発したる時は切腹したりと云ふことあり。又品川のある女郎が客の前にて屁を取外して其座に居合す人に笑はれたるを恥ぢ、一間に入て自害をなさんとしたるを人々驚いて止むると雖も聞かず恥かしければ所詮生きて居られぬと云ひ遂に他言せぬとの証文を書いて漸(ようや)く自害を思ひ止どまらせた事あり。然るに近来は社会の風儀大いに乱れて人中にて屁を発して憚(はばか)らざるに至る、実に慨嘆に堪ゆべからざる次第なれば、譬(たと)ひ芋を食ふとも放屁を発せず堪耐すべき様申付け、もし犯す時は厳重に取締あらんことを願上げ奉る。」
 弁護士甲「古(いにしえ)より出もの腫(はれ)もの処(ところ)嫌はずと云ふ格言あり、放屁なるものは腹中の腐敗せる空気を排出し、停滞せる悪瓦斯を発散せしむるものにして、衛生上有益なるものなれば是非(ぜひ)共保護せられんことを乞(こ)ふ。」

 検事「只今の議論至極面白し、かく衛生上有益なるのみならず、これ又一種の音楽にして芸妓(げいぎ)の三味の如く多額の祝儀を要せず、道具も要らず、至極軽便ならずや。」
 原告乙「これはこれは又怪(け)しからぬことを聞くものかな、天地の間自ら貴賤上下の別ありと雖も、上の又上なる者を我等音楽家となし、下々の又下なるものを放屁となす、上天の事は音もなく香もなしと雖も、彼放屁なるものは音あれどもバイオリンの如きものに非ず、匂ひあれども伽羅(から)麝香(じゃこう)の如きものに非ず、空に出でゝ空に消え、微塵(みじん)何の役にも用にも立つことなきのみならず、悪臭を放つこと不都合に候はずや。」
 検事「バイオリンの音に似ずと雖も、ブンと鳴りブツと鳴りプウと鳴りポンと鳴りスーと鳴り、自ら五音五律を兼備すること奇とや云はん妙とや云はん。」
 原告乙「その臭きは如何にや」
 検事「臭しとて石炭瓦斯(がす)の如く人を窒息して死せしむるものに非ず、また爆発の危険あるものに非ず。」
 原告丙「憚(はばか)りながらそれは屁理屈と申すもの、石炭瓦斯は燈火及び熱用に供すれども、屁糞瓦斯は何の効用ありや。」
 検事「あるともあるとも」

 弁護士甲「其効用は第一に気分を好くし、第二に尻の穴の掃除をなし、第三に人を笑はせ、笑ふ門には福来ると云ふ諺もあり、人笑えば陽気となり、陽気となれば快活となり、快活となれば自(おのずか)ら病気も癒(なお)る道理ならずや。」
 判事「本官は放屁を分析試験した結果、毫(ごう)も害なきのみならず、多分のアンモニヤ及び塩分を含有せることを認めた。よつて将来科学の進歩と共に、この放屁中より肥料を採取し、又は石炭瓦斯の如く燈火を点じ、煮炊(にたき)用に供するの時期あることを信ず。よつて今より之を保護して他日有用のものたらしめすと欲す。」
 検事「判事殿の議論頗(すこぶ)る同感なり。夫れ天に霹靂(へきれき)あれば人に屁あり、これ陰陽相激するの声にして、猫鼬と雖も最後屁を以て敵を防ぐことを知る、況(いわ)んや人として屁なきは獣にも及ばざるなり、凡そ天下に鳴るもの大砲屁より甚(はなはだ)しきはなし、諸君又天下に名を鳴らさんと欲せば宜しく放屁を発すべきのみ。」

 と滔々(とうとう)と懸河(けんが)の弁を振つて、述べ立てたので、傍聴人一同はアツと感嘆して酔へるが如く、賛成賛成の声は彼方此方に起つた。

 裁判長「只今判事検事の論告により被告両人を無罪放免となす。」

 これが可笑しいのは原告が捨て置かれ、検事と判事と弁護士がいっしょになって〈屁〉を擁護していることだね。裁判の体をなしていない。ここには〈屁〉が一方的な勝利をもって語られているのである。

 しかし、考えてみると人倫において一番まともなのは、少々過敏ではあるものの原告かもしれない。放散する異音異臭は礼儀に反し、学問・芸術を深刻に妨害して不快千万というわけだ。まあ、その通りではある。それに対して〈屁〉をあえて擁護する論法が展開され無罪放免になってしまっている。

 裁判の展開で原告側は「他人の屁」を追及しているが、被告側たちは「自分の屁」を追求しているといえよう。そもそも〈屁〉は他人のものは許せないが、自分のものは許せる(理由が欲しい)のである。擁護の論法に漂うのは、根拠の中味はどうであれ首尾一貫したもっともらしい理屈。現代風にもっと探してみる? 斬新な屁理屈をね。
ラベル: 裁判 屁理屈
posted by 楢須音成 at 02:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月27日

揺れ動く〈屁〉への思い

 司法の場に〈屁〉が登場するのは、まあ現実にはあまりないだろう。そもそも〈屁〉の罪を追及することは馬鹿げたこと、滑稽なことと見なされるわけだ。前回紹介した裁判記録は戯文にすぎないうえに、結局は〈屁〉を弁護していた。我々は〈屁〉に甘いんじゃないか。

 もちろん〈屁〉に対する態度はさまざまあるが、厳しく追及して〈屁〉が罪になるとすれば、相手に対する「侮辱」という「行為性」に潜むだろう。このことは前にも考えてみたことがある(参照)。我々は本来恥じて秘すべき〈屁〉を、どこで血迷うのか威嚇的なものに転化して他者に向けて放出してしまうこともあるのだ。

 要するに我々は、ヘラヘラと〈屁〉に甘い態度を取るかと思えば、暴力的にブイブイと〈屁〉を振り回す──何ともはや〈屁〉の取り扱いには御都合主義が発揮される。それは〈屁〉の「存在性」に明暗があるからだろうねェ。〈屁〉は耳を塞ぎ鼻を覆わしめる異音異臭の嫌われる存在(暗黒面)なのだが、決して身体から抹殺することはできない。誰でも否応なく発生させてしまうのが〈屁〉なのだ。となると、ここは開き直って〈屁〉の効用(光明面)を、いささかなりとも主張せざるを得ない。たとえその主張が屁理屈になろうともね。

 暗黒面と光明面を持つ〈屁〉の二律背反する「存在性」の根底には、自分の〈屁〉はどうにも仕方がない(認めざるを得ない)が、他人の〈屁〉はチョット勘弁してよ(認めたくない)という我々のワガママな心的運動が激しく働いているのである。その連関はこうなる。

 暗黒面=異音異臭を出す(呪うべき物体性の噴出)→嫌悪すべき他人の〈屁〉
 光明面=屁を理屈で語る(祝うべき観念性の噴出)→受け入れる自分の〈屁〉

 このような暗黒面と光明面はお互いを否定し合いながら表裏の関係で共存している。お互いを否定し合うとは逆に、他人の〈屁〉を認めたり、自分の〈屁〉を否定(嫌悪)したりすることである。つまり、物体性や観念性の優先度合が入れ替わるので、他人の〈屁〉の異臭異音が気にならなくなったり、自分の〈屁〉の異臭異音を嫌悪したり恥じたりする(気にする)のである。

 一見このような〈屁〉の存在性(存在の在り方)は錯綜しているように思えるが、実は単純。本来〈屁〉は「あなたもこけば、私もこく」というのが基本的な構造である。そしてそういう、あなたと私の〈屁〉の相互性のゆらぎ(どちらに力点を置くか)によって、暗黒面と光明面は容易に入れ替わるのである。ここまでを整理すると、人は〈屁〉に対して、

(ア)暗黒面と光明面に陥る。
(イ)基本的に暗黒面は他人に向けられ、光明面は自分に向けられる。
(ウ)しかし時に、暗黒面は自分に向けられることもあり、光明面が他人に向けられることもある。
(エ)我々は常に自他の〈屁〉を意識しており、常に自他の〈屁〉が暗黒面にあるか光明面にあるかを選択している。
(オ)そのパターンは、暗黒や光明の強度を考慮に入れないなら、次の4つになるだろう。
        自分の〈屁〉  他人の〈屁〉
          ↓        ↓
         光明面─(1)─暗黒面
         光明面─(2)─光明面
         暗黒面─(3)─暗黒面
         暗黒面─(4)─光明面

 我々が〈屁〉を話す(つまり、意識する)とき、自他の〈屁〉を区別しながら同時に指し示しているが、そのときの認識は自他の〈屁〉に対して(1)〜(4)のいずれかのパターンになっている。

(1)自分のは許せる・無視する・自慢するが、他人のは許せない・無視できない・排斥する →自分のは顧みないで、他人のは極めて不快に思う利己的な態度である。
(2)自分のも他人のも許せる・無視する・自慢する →自他ともに気にならず次第に笑いのネタにまでする天真爛漫・鈍感・無神経な態度である。
(3)自分のも他人のも許せない・無視できない・排斥する →自他ともに潔癖であり崇高すぎる倫理的な態度である。
(4)自分のは許せない・無視できない・排斥するが、他人のは許せる・無視する・自慢する →自分に潔癖なのだが、それは倫理的ではなく自虐的態度である。

 例えば、ここにA君とB君が対面して二人が〈屁〉をこいたとしよう。A君はこっそり透かし屁、B君は豪快な一発である。このときのA君の態度は(1)で、B君の態度が(2)とすれば、二人のリアクションはどうなるか。こんな感じになるか。
 ──A君が「こんなときに失礼な。臭いじゃないか」と鼻をつまみ心底嫌な顔をして怒り出す。B君は「君もスカしたじゃないか。面白い人だなあ」と一向に気にすることもなくガハハと笑ってもう一発こく。

 こういうリアクションの基本型は、それぞれが選んでしまう(1)〜(4)のパターンの組み合わせで16通りあるわけだ。組み合わせで多彩な状況を醸すことになる。かりにB君も他人の〈屁〉に否定的な(1)の態度であったとして、うっかり一発やってしまった状況とすると、こんな感じに変わる。
 ──A君が「こんなときに失礼な。臭いじゃないか」と鼻をつまみ心底嫌な顔をして怒り出す。B君も「君もスカしたじゃないか。君のはケシカラン臭さだなあ」と顔をゆがめてA君の〈屁〉の悪質さを追及する。

 さて、いつもながら前置きが長くなった。ここで問題です。次の例文を読んで、文中の山田氏と検事はそれぞれ〈屁〉に対して(1)〜(4)のうち結局どの態度に帰着したか考えてみてほしい。
 大正四年に起つた大阪北浜銀行頭取以下数名の刑事被告事件で大阪新報社の山田敬徳氏が参考の為(た)め検事の取調を受け、記憶不確実な為め答弁に困難を感じて居る際、放屁を催(もよ)ふして堪(た)へられなくなつたが、検事の面前で不作法をすることも出来ず、又断りを云ふ暇が無いから無断で室外へ飛び出し、二連銃を放つて何喰わぬ顔で室へ帰ると、検事は其れと知る由なく山田氏が答弁に窮(きゅう)し気を抜く為めか他人に相談をする為め出たものと思ひ、無断退席の不都合を詰(なじ)つて居る最中折りも折とて検事自(みずか)ら空砲を一発した、検事は赤面して「之(こ)れは失敬」山田氏早速(さっそく)「ソゝ夫(そ)れです。私が室外へ出たのも夫れです」と云ふと、検事は笑い出し、山田氏も笑い出し、其後の訊問(じんもん)応答は互(たがい)に打ち解け友人の談話の如く至極(しごく)円滑に進行した、昔から談話も下に下ればお終(しま)いだと云ふから法曹紙屑籠(かみくずかご)も之れでお仕舞(しまい)。
(砂川雄峻著『法曹紙屑籠』1918年)

 山田氏も検事も最初は自分の〈屁〉に動揺し「室外に飛び出し」たり「赤面し」ているので、自分の〈屁〉に否定的な(3)または(4)と考えられるが、そのあとお互いに笑い出して劇的な変化が訪れている。二人は対立する敵味方であるにもかかわらず「其後の訊問応答は互に打ち解け友人の談話の如く至極円滑に」なるのである。つまり、二人とも(2)の態度になってしまう。〈屁〉に対する同じ肯定的態度の同調行動で通じ合ってしまった。

 これは我々が〈屁〉に対し状況に応じて(1)〜(4)を流浪しながら態度を決めているからだ。つまり〈屁〉に関して我々は必ずしも一つの立場を死守しているわけではないということである。しかし、基本的には「自分の〈屁〉は臭く(不快で)なく、他人の〈屁〉は臭い(不快)」となる(1)から出発するのは間違いないところであろうよ。
ラベル: 暗黒面 光明面
posted by 楢須音成 at 16:00| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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