2011年03月01日

謎かけの〈屁〉の理屈

 最近、流行っている「謎かけ」だが、◆◆とかけて××ととく」「そのココロは」「◇◇」というパターンで成立している。パターンの提示は、自分で完結する「自問自答型」と相手とやりとりをする「対話型」がある。自問自答型は自分で解答を用意するが、対話型は出題や解答を相手に求めるものだ。

 こういう言葉遊びのどこが可笑しいかといえば要するに、語呂を合わせの駄洒落だね。意味をこじつけるから、前提となる(高度な)知識がないと可笑しくも何ともない場合もある。

 この謎かけが〈屁〉になると、こういうことになる。
「『雪の日やあれも人の子樽ひろひ』と、ヤレヤレ、この大雪にさぞ大義であろう。まあまあ、手でも暖めてゆきやれ」といへば、御用「それはまことに深切」といふ。「なぞ坊主ではないが、私の足とかけて、もたれたおなら、その心は、九歳々々」「イヤ、これは感心、家はどこだ」「はい、私の家とかけて寝起きのおならサ」「フウ、その心は」「ハイ、浅草でござります」「さてもさても発明な、こういう小僧を御用の奉公にさせるとは、……しておぬしが両親は実の親たちか」「ハイ、私の両親とかけて、紅葉の名所」「フウ、してその心は」「アイ、真間でござります」
(『百の種』1824年)

 酒屋の御用聞きの小僧が雪の日にやってくる。主は「雪の日やあれも人の子樽ひろひ」の句を思い出し、同情して「あったまっていきな」と声をかけた場面である。句は「雪の日に得意先の酒の空樽や徳利集めか。小僧だって人の子、寒いよなあ」というような意味。年でも聞かれたのか、小僧は親切に感謝して謎かけを一発。

 私の足
 もたれたおなら
 九歳(くさい=臭い)

 まあ、上品ではないが九歳にしては上出来である。家はどこだと訪ねると、またしても謎かけ。

 私の家
 寝起きのおなら
 浅草(あさくさ=朝臭)

 主は感心し、こんな利発な奴を御用聞きの奉公に出すとはどんな親かといぶかる。「両親は実の親か」

 私の両親
 紅葉の名所
 真間(まま=継親)

 すべて謎かけで答えたわけだ。なお、「なぞ坊主」とは謎かけが巧みで、当時そう異名をとった都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)のこと。いまみたいに、謎かけが流行っていたんだろうねェ。真間は紅葉の名所。現在の千葉県市川市にあり、真間山弘法寺(ぐほうじ)の紅葉や桜がよく知られている。

 さて、ここまでは小咄の表面的な意味合いである。〈屁〉的な意味合いとしては、この小僧は〈屁〉が臭かった、ということがうかがえるわけだよね。「九歳」「浅草」はニオイからの連想であるが、これに対して〈屁〉に関係のない「真間」は意味や語呂から意味が派生している。ニオイは意味ではなく嫌がられるクサイ現象(=におう)なのだ。

 紅葉の名所(意味)の発生 →真間(意味)の派生
 ニオイ(現象)の発生→九歳、浅草(意味)の派生

 どちらにしろ、意外性のある新しい意味を獲得する点は同じだが、意味が一義的なのに対して現象は多義的であり、そこから意味を派生させるプロセスは若干違うようだ。

 我々の〈屁〉は、それを〈屁〉と呼ぶことで意味づけがされるのだが、この一語でいろいろな現象を包括するのだから〈屁〉のバックグラウンドは広いのである。解釈もいろいろだ。「紅葉の名所」とはちょっと違う。

 もたれたおなら
 寝起きのおなら

 もたれたり、寝起きにこいたり、この小僧サンはしきりに〈屁〉を現象させている(のだろう)。この段階では意味などないが、ちょっと意味づけしてみたのが「九歳」「浅草」である。対話が成立するには意味がないといけない。くさいニオイ(の連想)だけでは拒否されるのが〈屁〉なのだが、意味(根拠)を与えれば「紅葉の名所」並みに感心される。

 ──意味の病は〈屁〉には何かと有効なのだ。言うでしょ、屁理屈って。いやまあ、子どもが言っているから可愛げがあるんだけどさ。


posted by 楢須音成 at 18:23| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月09日

その〈屁〉は香か臭か

 ニオイに関しては「香」と「臭」が区別される。すると、これに対応する「匂い」と「臭い」が区別されるわけだね。しかし、これを「ニオイ」と表記すると、区別のどちらにも属さない(いや、どちらにも属するでもよいが、要はそこに漂う実態に価値付けをしない)中立的なニュアンスを確保している。(少なくとも音成の表記方針としてはね)

 =匂いの系列
 =臭いの系列

 白川静の『字通』によると「香」は「正字は黍に従い、黍(しよ=キビ)+曰(えつ)。〔説文〕七上に『芳なり』とあり、黍と甘との会意字とする。甘はもと甘美の字でなく、嵌入の形であるから、甘美の意を以て会意に用いることはない。字の初形がなくて確かめがたいが、黍をすすめて祈る意で、曰は祝詞の象であろう。黍は芳香のあるものとされ、〔左伝、僖五年〕『黍稷(しよしよく)馨(かんば)しきに非ず。明コ惟(こ)れ馨し』『明コ以て馨香(けいこう=よいにおい)を薦む』とは、黍稷(しょしょく=モチキビとウルチキビ。転じて五穀)の馨香を以て神に薦めるもので、甘美の意ではない。〔詩、周頌、載芟(さいさん)〕に『飶(ひつ)たる其の香有り』というように、廟祭に供えるものは、馨香を以て第一とした」「香・薌xiang、馨xyengは声義が近い。薌は〔説文新附〕一下に『穀气なり』とあり、黍稷の香気などをいう。馨は香の遠く聞こえるもの、みな一系の語である」などとある。

 なるほど「香」には、もともと基本的な食料である穀物のニオイが根底に連想されるわけだね。穀倉に新鮮な穀物が充ち満ちている心地よいニオイである。人々はそれを素直に受動的に受け入れたのだろう。神に献じる神聖なものとして。

 同じく『字通』で「臭」を見るとこうだ。「旧字は臭に作り、自(じ)+犬。自は鼻の象形字。犬は嗅覚のすぐれたものであるから、自(鼻)と犬とを以て臭香の字とする。〔説文〕十上に『禽走りて、臭(か)ぎて其の迹を知る臭は犬なり』という。臭はもと芳・臭を分かたずに用い、〔易、繋辞伝上〕に『其の臭、蘭の如し』と蘭芳を臭といい、〔礼記、内則〕に『皆容臭を帶ぶ』とは、香囊(=においぶくろ)をいう。のち臭腥・臭穢の意となり、人に移して臭行(=醜行)・臭聞(=醜聞)のようにいう」とある。

 こちらの「臭」は嗅覚の優れた犬が何かのニオイを(能動的に)嗅ぎ出す動作を連想する。そこには、当初はニオイの善し悪しを最初から想定した区別はなかった(らしい)。

 以上をまとめると、

 =匂いの系列=受動的な関わり(先天性の受容)
 =臭いの系列=能動的な関わり(関係性の獲得)

 とまあ、考えられるわけである。ニオイは人間の能動性の発動(嗅ぎ出し)によって、もともとの先天的な「香」から能動的な「臭」へと進化したといえるだろう。そこから「臭」がもっぱら悪臭へと転落していくのは、嗅ぎ出しの関係性という人間活動の業のようなものだ(ろうか)。

 こういう「香」と「臭」の歴史的な経過について考察した人がいる。
香と臭との差別は、誰も知りて好を香とし、悪を臭とすることながら、古書通じ用ひたりも少なからず。易繋辞伝、二人同心、其利断金、同心之言、其臭如蘭、といひ、詩皇矣篇に、上天之載無声無臭至矣、と云ひ。左伝僖公四年に、一薫一蕕、十年猶有臭、疏云、臭是気之総名、元非善悪之称、但既以善気為香、故以悪気為臭耳、とも見え。又礼内則、男女衿纓、皆佩容臭、鄭云、容臭、香物也、疏云、廋氏曰、以臭物可以修飾形容、故謂之容臭、といひ。又郊特牲云、周人尚臭、灌用鬯臭欝、合鬯臭、陰達於淵泉、と見え。又荀子王覇篇にも、口欲綦味、鼻欲綦臭、楊w注、臭気也、凡気香亦之臭、礼記曰、佩容臭綦極也、など証文あり。或やごとなき方より尋ねたまひし時、抄してまゐらせたりき。
(日尾荊山『燕居雑話』1837年)

 日尾は江戸後期の儒学者だが、中国古典を引いてきて「香」と「臭」の説明をしている。概略をテキトーにまとめる。

 ──香と臭の差別は誰にでもわかることだが、古典では臭を良い意味(良いニオイ)として用いたものが少なくない。易経では「二人で力を合わせれば金属でも断ち切る。そういう二人の言葉は蘭の臭(=香)がする」といっている。詩経では「お上のこと(天帝や聖人の感化)は無声無臭(音もニオイもなく、まったく気づかれないうち)に行われる」といっている。左伝では「同じ場所に薫(香の草)と蕕(悪臭の草)を置いても、薫の香はすぐに消えるが、蕕の(悪)臭は十年残る。しかし廋氏は、もともと臭は『気(活動の源泉となるもの)』の総称で、初めは善し悪しを評価する言葉ではなかったが、いまや善気が香であり悪気が臭である」と変化を語っている。また礼記では「男女の衿の房に容臭(におい袋)をつける」とあるが、鄭氏は「この袋は香気のものであり、廋氏によれば臭(=香)で形容を修飾できるから、これを容臭という」と解説している。さらに礼記には「周の人は臭(=香)をたっとび、祭・儀礼で酒を献じてそそぐのに臭(=香)の酒を用いる。この酒は香草と合して深遠なところに達している」とある。荀子にも「口は良い味を好み、鼻は良い臭(=香)を好む。楊氏の注記では『気』は臭であり、すべて『気』の香は臭である。礼記では容臭(におい袋)を身につけることはこの上ないことであるとする」などと、香と臭を同じ意味で用いている証拠を論じている。以上はある高貴なお方がお尋ねになったときに注釈をまとめて申し上げたのである──

 さてさて、そこで〈屁〉である。これはまあ、一般に「臭」だよねェ。もっとも〈屁〉を「香=匂いの系列」に入れる人がないわけではないが、ここはあくまで一般論としてそうなのだと、まずは認識しておきたい。

 我々の〈屁〉は明らかに「臭=臭いの系列」なのである。考えてみると、「香」に満ちた五穀を摂取して出てくる糞便のニオイは「香」の対極の悪臭だね。まさにこの糞便臭こそが〈屁〉なのである。

 人間が最初に「香」を感じたのは五穀(食料)であった。まさにそれがそこにある「香」だった。やがてそこから人間は能動的な嗅ぎ出しの行動を獲得することになる。それが「臭」である。

 嗅ぎ出し行動の「臭」において「こ、これは何だ」と悪臭の存在が明らかとなる。つまり「香」があって「臭」があって「悪臭」がある、という心的運動の連関が生まれたわけである(かな?)。

 要するに、五穀と(その消化物の)糞便の対称関係において「香」と「臭」は存在したといってよかろうさ。人間にとって糞便臭は基本的な(しかし親密な)悪臭なのである。例えば、悪臭防止法で規定されている悪臭の大半は糞便臭の系統なのだ。

 もちろん〈屁〉は糞便ではない。糞尿屁の三兄弟の一人であるにしても、存在を隠し、見えないでにおうという後ろめたさを抱え込んでいる。そういう意味では、かなり観念的な思いを内包せざるを得ない糞便臭なのである。

 ともあれ、こういうことなのだ──「香」も「臭」も出自は同じだよ。
ラベル:
posted by 楢須音成 at 09:48| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月16日

〈屁〉という愛惜について

 止めることのできない厄介な〈屁〉の悲哀が愛惜に変わっていくことついて語った小説に、坂口安吾の「お奈良さま」がある。まともに〈屁〉を扱った近現代の三(または四)大小説の一つだ。主人公のお奈良さまは僧侶で、読経中ですらやむなく〈屁〉が出てしまう病癖がある。
 その晩からお奈良さまは深刻に考えたのである。自宅においてすらもオナラの差し止めをくっている人物がいるというのに、ところきらわずオナラをたれるワガママは許しがたいと心に深く思うところがあったからである。彼は女房を呼びよせて、
「実はな。これこれで唐七どのがオナラを差し止められたときいて私ももらい泣きをしてきました。そこでつくづく考えたのは自宅でオナラもできない人がいるというのに、お通夜の席でオナラを発するワガママは我ながら我慢できない。糸子さんが怒るのはもっともだ。僧侶という厳粛な身でありながら泣きの涙の遺族の前でオナラをたれて羞じないようではケダモノに劣ると云われたが、十三の少女の言葉ながらも正しいことが身にしみて分かったのだ。さて、そこで、なんとしても人前ではオナラをもらさぬようにしたいが、食べ物の選び方でどうにかならぬかな。」
「私と結婚した晩もそんなことをおッしゃいましたが、ダメだったではありませんか。オナラは食べ物のせいではありませんよ。もともと風の音ですから空気を吸っているだけでもオナラが出ましょうし、その方が出がよいかも知れませんよ。あきらめた方がよろしいでしょう。皆さんも理解しておいでですから。」
「イヤ、その理解がつらい。その理解に甘えてはケダモノにも劣るということが身にしみたのだ。とにかく、つとめてみることにしよう。」
 その翌日から幾分ずつ節食して一歩外へ出ると万人を敵に見立てて寸時もオナラの油断を怠らぬように努力した。腹がキリキリ痛んでくる。口からオナラが出そうになる。アブラ汗が額ににじむ。足が宙に浮く。たまりかねると、人も犬もいないような路地にかくれて存分にもらす。結局もらすのだから変わりようがないようなものであるが、日ましに顔色がすぐれなくなり、やせてきて、本当に食欲がなくなってきた。なんとなく力がぬけて、生アクビがでてしようがない。するとオナラも一しょにでてそれは昔と変わり目が見えないのに、皮がたるんで痩せが目立つようになった。女房が心配して、
「どうかなさったのですか。めっきり元気がありませんね。」
「別にどうということもないが、外出先で例のオナラの方に気を配っているのでな。」
「それは気がつきませんでした。そんな無理をなさってはいけませんよ。」
「イヤ。無理をしているわけではない。結局はもらしているから昔に変わりはないはずだが。」
「イエ。気をつけていらッしゃるのがいけないのです。それに五分でも十分でもオナラを我慢するというのは大毒ですよ。今日からはもう我慢はよして下さい。」
「それがな、どういうものか、ちかごろでは習慣になって、オナラが一定の量にたまるまで自然にでないようになった。自宅にいてもそうだ。ノドまでつまってきたころになって、苦しまぎれにグット呑み下すようにすると、にわかに通じがついたようにオナラがでてくるアンバイになった。もうすこしで目がまわって倒れるような時になって通じがつく。」
「こまりましたねえ。お医者さまに見ていただいたら。」
「とても医学では治るまい。これも一生ところきらわずオナラをたれた罰だな。私のオナラはこれでよいが、お前のオナラをきかせてみてくれ。」

 このとき、お奈良さまはもう一度、女房の〈屁〉を確認したくなったのである。女房の〈屁〉にはこんな思いがあった。それを語る一節が前にあった。
 お奈良さまのお寺ではその女房も花子(娘)も遠慮がちではあるがオナラをもらしあっている。そう悪いものではないが、さまで賞味するほどのことではないような気分だ。奥深いと云えば女がそッともらすオナラそのものがなんとなく奥深いフゼイがあるが、無限の愛惜をこめて女房のオナラを心に抱きしめた覚えもない。

 もちろん、女房にはお奈良さまのそういう密かな思いはあずかり知らぬことである。女房は怪訝に思ったに違いない。これはまたなぜ、こんなときに〈屁〉を聞きたいなどと──。
「なぜですか。」
「唐七どのが言ったのでな。夫婦で交しあうオナラは香をきくよりも奥深い夫婦の愛惜がこもっているということだ。」
「そうですねえ。奥深いかどうかは知りませんが。私はあなたのオナラを聞くのが好きですよ。オナラをしない人は男のような気がしなくなりましたよ。妙なものですねえ。」
「それが無限の愛惜かな。」
「そうかも知れませんね。どっちかと云えば、私はあなたの言葉よりもオナラの方が好きでした。言葉ッてものは、とかくいろいろ意味がありすぎて、あなたの言葉でも憎いやら口惜しいやらバカらしいやらで、親しみがもてないんですね。そうかと思えば、見えすいたウソをつくし。オナラにはそんなところがありませんのでね。」
「なるほど。それだ。ウム。私たちは幸福だったな。本当の夫婦だった。ウム。ム。」
 お奈良さまは胸をかきむしった。アブラ汗が額からしたたり流れている。目を白黒したが、抱きかかえる女房の胸の中へあおむけにころがった。そして、そのまま息をひきとってしまったのである。

 ──どんなときでも、人間の絆が開ける地平とはこんなところではないだろうか。
ラベル: 愛惜
posted by 楢須音成 at 14:36| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月23日

アホの頓知で〈屁〉を讃える

 中国の笑話集『笑林広記』(清代)にこういうのがある。ほめてるつもりが全然ほめたことになっていない「阿呆」を描いているのだが、その間抜けぶりは、状況把握としては案外に的確だったりするんだよ。(中重徹『一発』に収録されている訳で引用する)
 杭州の人に三人の婿(むこ)がいて、三番目の婿は甚だ愚か(ノータリン)であった。ある日、舅(しゅうと)が新しく買い入れた馬の賛を三人の婿に作らせた。馬の速いことを形容して、上品でなくてもかまわぬから、思いついたままを文章にするようにというのだ。すると一番目の娘婿がいった。
「水面に金の針を擱(お)き、丈人(しゅうと)馬に騎(の)って山陰(浙江省の地名)に到るに、騎り去り又騎り来るも、金の針なお未だ沈まず」
 舅はうまいと賞めた。次に二番目の娘婿がいった。
「火の上に鵞(あひる)の毛を放(お)き、丈人馬に騎りて余姚(よよう=浙江省の地名)に到るに、騎り去り又騎り来るも、鵞の毛なお未だ焦げず」
 その次に三番目の娘婿の番になった。阿呆はしばらく思案していたが、さて何も手掛りがない。ちょうどその時、姑(しゅうとめ)がおならを一つしたので、阿呆「出来ました」といって、
「丈母(しゅうとめ)屁を一つ放ち、丈人馬に騎りて会稽(浙江省の地名)に到るに、騎り去り又騎り来たるも、孔門(しりのあな)なお未だ閉じず」

 娘の婿を前にした舅と姑がいるわけだ。舅が三人の婿にそれぞれ新しく買った馬をほめる賛(韻を踏んだ詩文)を要求した場面である。上の二人の婿は、水面に置いた金の針が沈まないうちに、あるいは火にかざしたアヒルの羽根が燃えないうちに、舅が馬に乗って遠くまで行って帰ってくることができる(ほどの駿馬)などとそつなく答えた。馬に乗る舅の巧みな手綱さばきもほめているわけである。そして三番目の婿殿の賛はこうだ。

 丈母撤個屁
 丈人騎馬到諸稽
 騎去又騎來
 孔門猶未閉。

 お義母様(姑)が屁を一つする間にお義父様(舅)は馬に乗り、会稽まで行って帰ってくることができますが、そのときお義母様のお尻の穴はまだ閉じていません──というのである。

 いやいや、これでは舅姑(しゅうこ)は怒り出すだろうねえ。しかし、確かにアホ〜な、とぼけた賛なのだが、この三番目の婿殿には妙に批評性があるじゃないか。こんなときに〈屁〉をこく姑は普段からだらしない人だとすると、リアルな批評ではないかねえ。精一杯考えてこういう賛しか出てこない婿殿は(少なくとも詩文には)才気がなく、言って良いことと悪いことがとっさに判断できないアホかもしれないが、リアリスト(見るところは見ている正直者)と思われる。

 舅は馬を自慢(自画自賛)したくて仕方がないのだ。手綱さばきも自慢である。一家の長として、うぬぼれとは言わないが、自信たっぷりに振る舞っている。客を招いた酒の席だったかもしれない。そこにたしなみも忘れてだらしなく一発の〈屁〉が響く。実に興ざめ。夫の威厳は損なわれ、ひいては舅姑二人のダメさ加減をも浮き立たせる現象になってしまう…。

 婿殿は一発の〈屁〉の、尻の穴の閉じ具合で駿馬の素晴らしさを讃えようとしたのだから、得意満面の舅姑への痛烈な皮肉ともなってしまうわけだ。意図せずしてこれをやったというのが肝心なところで、馬鹿モンと怒られただろうが、もともとアホだと思われているから深刻な事態にはならない。何しろアホと〈屁〉なのであった〜。

 さて、三番目の婿殿はさておき、姑のように肝心なときに〈屁〉をこくというのは困ったものだ。しかしまあ、こういうことはままあるんだよね。その一発の〈屁〉がうっかり出てしまう。どんなに高貴な人でもあり得る現象であろう。ましてしもじもにはね。

 ただ、そうであっても人の振る舞いには大体の傾向というものがあって、おおむね人前で〈屁〉をこく人はだらしない(本人に自覚がない)ものだ。自覚があれば自ら恥じるのだが、自覚がないと人のせいにする。婿殿が怒られるようにさ。

 これを現実界に類比すれば〈屁〉がそうであるように、もっぱらその人の品位に帰せられる失言・放言・妄言の類も〈屁〉である。言った本人は自分は悪くないと思っている確信犯が多い。(未曽有の災害に対していろいろな〈屁〉が放たれている。イデオロギー的なものもあれば、民族的なものもあり、どうかと思う人格的なものもあれば、大まじめに攻撃的なものもあり──まあよく言うわ)

 一番目や二番目の婿殿は頭の良い文才ある人たちなんだろうが、〈屁〉に対してはリアリストである三番目のアホも必要だと思うんだけどね。
ラベル: 阿呆
posted by 楢須音成 at 00:51| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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