2011年01月04日

門前でこく正月の〈屁〉

 新年早々に〈屁〉の話。すいませんな。正月は腹が張って仕方がない。おせちと餅と酒で満腹──とくれば〈屁〉も出やすいのが道理なのだ。正月の〈屁〉とくればこんな感じ。

 門口でいきばる風の落し玉略儀なれども一寸御臭気
 ※落し玉→お年玉、御臭気→御祝儀

 めでたうと門過ぐる子の放屁こそ
            年のはじめのおとし玉かも

 正月になると門松などで門を飾るわけだが、そもそも門は入ってくるも出ていくも、そこを通って行き来する世間との結節点になっている。正月の門は神様を迎えようという気持によって、普段とは違う神聖な場所(通り道)になる大事な意味を持っているわけだ。

 この正月の松飾りの門前で〈屁〉をこくのである。これは神聖な場所を汚す行為ではないのだろうか。しかし、狂歌に横溢するのは洒落っ気たっぷりの、まあ何というか誇らしげな態度ではないかねェ。神様を侮辱しているわけでもない。神様だって〈屁〉はする(かもしれない)さ。ちょっと改まった門前で一発こくところが粋なんであ〜る。

 門とは肛門に通じる。だから〈屁〉との親和性はきわめて高いと言わざるを得ないのだが〈屁〉の場合には、門は門でも裏門にふさわしい現象である。狂歌に表現されているのは晴れの表門で〈屁〉をこく姿であるから、少々反抗的態度にはなっちまう。

 どこでも〈屁〉はこいてはならぬとは世間の常識なのに、正月の、目出度い門前で、意図的にこいて逆を突いている一発だな。

 実にすがすがしい。とまあ新年早々、屁理屈でござい。


ラベル: 正月
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2011年01月08日

音のある〈屁〉は本物か

 福富織部の『屁』(1926年刊)には福本日南による〈屁〉に関する考察が紹介してある。日南は明治から大正にかけて国粋的な政治ジャーナリストだった人だが、〈屁〉というものの音韻的な考察をしていて、東西古今、放屁音に則って〈屁〉の呼称が成立していると言っているのである。まあ、そうなんだよね、確かに。

 最近、織部が引用している日南のエッセイが『石臼のへそ』(1919年、東京・東亜堂書房刊)という本に収録されているのを見つけた。多少ならず時評ぽい彩色があるのだが、まともに〈屁〉を考察している。その節を全文引用しておこう。「ブスー」とか「ヴェツスー」とか声に出して読んでいくと可笑しい。文中の加藤拓川(恒忠)は日南と同時代の人。ベルギー公使、貴族院議員、松山市長などを務めた外交官・政治家で、希代の放屁(研究)家だったと言われている。
 總(そう)じて音響に對する人類の聽感(ちょうかん)は同一である。從つて之(これ)が名を命ずる、槪(おおむ)ね響(ひびき)に取らぬものは無い。屁は其の最も昭々(しょうしょう)たるものゝ一つである。國語には之を「へ」といひ、漢語には「屁(ヒ)」といふが、今の北京音では卽(すなわ)ち「屁(ピ)」となる。更に之を佛語(ふつご)に問へば、亦(また)「ペ」(pet)といふ。卽ちH音を用ゐざれば、P音を以てする。尚ほ佛語には無聲(むせい)の奴(やつ)卽ちすかし屁を「ヴェツス」(vesse)といふ。是(こ)れ猶(な)ほ我(わが)國語には形容して「ブスー」といふがごとし。之を屁博士の加藤拓川(かとうたくせん)に聽けば、其(その)發音須(すべからく)く詠嘆して「ヴェツスー」と唱ふべし、餘韻嫋々(よいんじょうじょう)縷(いとすじ)の如く、尾を曳き去る所に妙ありと。其れ然(しか)らん。次に之を英語に看(み)れば、「ファーツ」(fart)といふ。命意少しく異なるに似たれども、同例を求めれば、我國にもあり。仙臺(せんだい)地方では「へ」をフェといひ、それを放つを「フェをフィる」といふ。卽ちF音もそれを名狀する一音符である。之を要するに、ヘ・ヒ・ペ・ヴェツス・ファーツ等、一(ひとつ)として同臭味(どうしゅうみ)を帯びぬはない。屁観の共通なる所以が見える。
 屁博士の拓川は嘗(かつ)て佛國より「屁の技術」と題した一奇書を齎(もたら)した事がある。學者の屁・政治家の屁・宗教家の屁・紳士の屁・マダームの屁・マドモワゼールの屁など、列擧(れっきょ)して分説した。中に就(つ)いて、最も可笑しかつたのは、マダームの屁の説であつた。我國にても關西の諺には『韮(にら)・大蒜(にんにく)・握りつ屁・それよりも臭いものは、奥様のすかし屁』といふがある。蓋(けだ)し此種(このしゅ)女性(にょしょう)の屁は殺して發せられるが故に、陰険な性質を帯(たい)するからであらう。
 彼(かれ)屁(へ)奴(め)旣に奇聲を具へ、且つ一種の蕕臭(いしゅう)を帯べる處(ところ)から、一たびそれの聯想(れんそう)に入れば、可笑しからぬ事まで可笑しくなる。英語輸入の初紀に於(おい)ては、變則讀(へんそくよみ)と稱(しょう)し、如何(いかが)はしい發音にて原文を稱し、之に譯語(やくご)を加へて學習する事であつた。其頃(そのころ)都下に門戸を張る仙臺の老英學先生が居て、お邦(くに)流發音で生徒に教へた。一日、米國史を講じ”But People……”といふに至ると、先生一(ひと)調子張揚(はりあ)げて『ブット、ペヲプル……すかす人民が……』と遣(や)ったので、滿座の諸生(しょせい)は一度にドツと噴出(ふきだ)した。
 此語(このご)轉用(てんよう)せられては、輕蔑の辭(ことば)となるも、亦(また)内外略(ないがいほぼ)同一である。我に「屁理窟」といひ、佛に「ペタラード」(Petarado)といふの類、以て觀る可しだ。さうかと思へば、叉(また)物名に加へられるものもある。我に在つては女青を「へくそかづら」といひ、佛に於ては菓子に「比丘尼(びくに)の屁」(Pet de nonne)といふがあり。蕈(きのこ)に「狼のすかし屁」(Vesse de loup)というものあるの類、卽ち是(これ)なり。卽今(そくこん)我國の高襟(ハイカラ)がる紳士淑女に喫(く)はせて遣りたいのは、此(この)「尼の屁」「比丘尼の屁」だ。風月堂などではまだ賣(うり)出さぬ歟(か)。
 國人(こくじん)の一分(いちぶ)は外交問題の發生する毎に、何時(いつ)も最初は對外硬(たいがいこう)など力味(りきみ)出すが、最後には槪ねすかし屁の如く消えて跡なくへこみ行く。自分嘗て歌つて曰く。
『敷島のやまとおのこは屁なればや放てど何時も空音(そらね)なりけり』
 國人幸(さいわい)に腹立てること勿(なか)れ。

 要するに放屁音つまり屁音は人間にとって「ハ行にあらずんば其の濁音、半濁音、バ行かパ行である。HかFか、BかPか、罕(まれ)にVである」(福富織部『屁』)ということになる。これに関連するまとめは前にやったが(参照)屁音とは、我々に実になじみやすいものであり、人間に基本的な音源の一つではないだろうかねえ。

 そもそも日南のこの論の運びは、音を重視して〈屁〉を甘受してきた日本人の感性に沿うものといえる。日本人の〈屁〉とは音の有る無しが第一義で、その次にニオイがくる。日南がマダームの臭い透かし屁を面白がっているのは、もちろんそのニオイゆえだろうが、言葉にすると「音を殺して発せられる」から陰険だ、となる。締めの一首でも〈屁〉にかこつけて、大和男児の振る舞いは「空音」だと断じているね。

 文中の書『屁の技術』は、ロミ&ジャン・フェクサスの『おなら大全』(高遠弘美訳、作品社刊)によると、フランスで1776年に出版され「国中の話題を呼んだ突飛な書物」だったという。同書では『おならの技法』という書名で、少し詳しく内容紹介している。この突飛な書物は〈屁〉の音とニオイの両面から考察した書ではあるが、主に音についての分析が詳しい。著者はニオイについては〈屁〉を敵視する人の意見を引用してこう語っている。
 おならが人間の気に障るのは音ゆえではない。もし、おならが耳に快い即興曲にほかならないとすれば、それは人間を不快にするどころか、いい気分にすることも可能だろう。だが、おならには本質的に、つねに下品な臭いが伴う。人間の嗅覚はそれには耐えられない。だからこそおならは責められて然るべきなのである。おならは音を出すと直ちに、あの堪らない臭いの粒子を巻き散らす。我々はどうしても顔を顰めないわけにはいかなくなるのだ、と彼らは言う。

(しかし)下劣だと言っておならを罪悪視してばかりいれば、おならを誤解することになるだろう。本当のおなら、ないしは清潔なおならは無臭かそれに近いので、出口から他人の鼻先まで届く力はないのである。

 このように本物の〈屁〉の無罪性を強調し、音の分析を繰り広げているのだが、その根底にあるのは〈屁〉のニオイへの嫌悪をいかにかわすかの、人間のあくなき心的運動に違いないと思われるんだけどね。だって(ヨーロッパ人の)本物の〈屁〉は臭いんじゃないの。肉食系の人はさ。
ラベル:パ行 バ行 ハ行
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2011年01月15日

豪放磊落な無頓着の〈屁〉

 豪放磊落な人は自他の〈屁〉などに頓着しないと思われている(かもしれない)のだが、はたしてそうだろうかねェ。人の〈屁〉に対する無頓着については前に考えたが(参照)必ずしも〈屁〉の恥や無作法を心得ぬわけではないのである。

 いやむしろ、〈屁〉の恥や無作法を知っているからこそ、無頓着を装ってしまう。それは一種の心的な隠蔽なのだが、無頓着どころか逆に悪ふざけ(過剰な反応)に走ることもあって、それも〈屁〉の隠蔽の一つの表現であるといえる。

 福本日南の『石臼のへそ』には「黄禍」という一編が入っている。これも福富織部の『屁』で紹介されている話だが、出典はこれのようだ。武士出身の明治の政治家、野村靖の豪放な放屁のエピソードである。
 故子爵野村靖は少にして吉田松陰の薫陶(くんとう)を承(う)け、長じて奇兵隊から身を起したゞけ、後に高官になつても、落々(らくらく)として小節には拘(こだ)はらぬ處(ところ)があつた。彼人(かのひと)全權公使として西班牙(スペイン)に在るの日、今の貴族院議員加藤恒忠、書記官として随行し、倶(とも)に馬徳里(マドリッド)の一ホテルに館して、暫(しばら)く同室に居た。すると隣室には米國公使が其夫人及二令孃と居合せ、朝夕食堂で顔を合はせるので、何時(いつ)しか相識となつた。處(ところ)が子爵平生から放屁の癖があつて、其の居室に在る際には、時々無遠慮に微妙ならざる音響を發する。それが其都度壁に徹(てつ)して、隣室まで聞えると見え、二令孃の忍笑(しのびわらい)の聲(こえ)が亦(また)此方(こなた)に漏れる。子爵はそれを覺(さと)ると倶に、其後は腹中の喁々(ぐうぐう)を催す毎に、故(こと)さらに壁に接近しては、空砲を發射する。餘(あま)りの事に、日頃惡戯(いたずら)好きの恒忠も默止(もくし)しかね、一日、子爵に向ひて、
『定めて御承知でもいらせられませうが、歐米の社會では、放屁は無作法の極點となつて居りまする。如何に居室の内とは申せ、餘りに御濫發(ごらんぱつ)なされては、閣下の御人格、延(ひ)いては帝國全權公使の御體面(ごたいめん)にも關(かか)はる義と存じますれば、以後は少々御注意なされては如何でござります』
と忠告した。
 子爵は之を聽いて、如何にも眞面目に、
『本官は不肖ながら大日本天皇陛下の御信任を辱(かたじけの)うし、斯(この)國に欽差(きんさ)せられたる全權公使である事は、隣室の米國公使も亦其家族も定めて聞知(ぶんち)せられるであらう。而(しこ)うして君は未(ま)だ本官隨行の一書記官に過ぎぬ。お嬴(まけ)に本官は年長、君は年壯である。試みに思ひたまへ、隣室に在つて、此(この)室内の屁の音を聞く者は、これは年長にして尊位に居る本官の發する所と受取らう歟(か)。抑(そもそも)若輩にして卑官の地位に在る君の放つ所と思考しよう歟。事體(じたい)に鑑(かんが)みて、放屁者は君と認識せられること疑ひなしさ。それで御忠告はあり難いが、彼(あの)屁は君の負擔(ふたん)と心得たまへ』
と反對(はんたい)に告諭(こくゆ)せられたので、惡戯にかけては人後に落ちぬ恒忠も、是(これ)には閉口し、
『お説を承れば、如何にも御尤(ごもっとも)。いやお屁は謹んで小官が御引受申し上げませう』
と答えて引退(ひきさが)つた。
 使臣の簡選(かんせん)其(その)人を誤らず。子爵外交の技倆(ぎりょう)は此(この)一發にても推想す可(べ)しだ。が、冤屁(えんぴ)の爲に一時臭聞(しゅうぶん)を歐州の一都に傳(つた)へられた拓川(たくせん)こそ迷惑であつた。是等(これら)を眞の黄禍(きか)とも謂(い)はう歟。

 スペインのマドリッドのホテルで、アメリカの公使の一家と隣り合わせて親しくなる野村子爵。放屁の癖があり日頃から平気でブウブウ発射していたが、その音がアメリカ公使の隣室に響き夫人と二令嬢の耳に達したとみえて、クスクス笑いがこちらに漏れてくる。それを覚った野村は催すたびに、ことさら聞こえるように壁に接近して発射した──というのである。

 まあ、無邪気といえば無邪気なのだが、当時の野村が50歳くらいで、加藤が30歳を過ぎた頃と考えられるから、加藤も強くは言えない間柄だった。

 考えてもみよう。目の前で年長の上司がブウブウ平気で〈屁〉をこくような場合、いかにも注意しにくい。その人がまったく平気の平左の顔をしていればいるほど、その〈屁〉は無に等しい存在と化しているのだからね。嫌がることも笑うことも表明しにくいのである。(いや、そうでない人もいるかもしれませんけどね。ははは、潔癖なあなた…)

 そのときの野村子爵の心的な推移の段階はこうである(かな?)。
(1)いつでもどこでも〈屁〉がこきたくなる
(2)習慣的に辺り構わず〈屁〉をこく
(3)それを可笑しがっている人がいるのに気づく
(4)そこで意図的に〈屁〉をこく

 部下の加藤を相手に〈屁〉をこくのはいつものことで、これは野村の無頓着というもの。いつもなら加藤も無頓着に無視して〈屁〉は無に等しいものになっているわけだが、隣室の婦女子が反応してしまった。それも可笑しそうに笑うんだから、このとき〈屁〉はある種ユーモアの響きである(と野村は思い込んだ)。そこで、いっそう喜ばそうと〈屁〉をこきまくる──となったわけであろう。

 いつもは自分の〈屁〉に無頓着でありながら、いつの間にか相手に合わせて(過剰に)反応している。つまり、無作法な〈屁〉を当たり前の平凡な活動として扱う(無視の)態度から一変して、作法とはならぬまでも意味のある活動として、表舞台に引っ張り出して自ら踊っている図だね。

 相手の喜ぶことをするというのは、人間の同調行動の一つである。同調行動は他者と共感し共存し合う際の人間の基本的な行動なのだが、これが誰からも嫌われる否定性の〈屁〉の活動となると、普通は〈屁〉を隠蔽する行動が相手と共感し共存し合う条件である。それが(屁はこいてはならぬという)作法であり、その作法を守り合うというのが同調行動となる。

 しかし野村はいささかの動揺も見せず、辺り構わず頻繁に〈屁〉をこくのであるが、そういう〈屁〉に対する無頓着は(作法と同じように)心的には隠蔽行動の一つだ。そこに〈屁〉があるのに〈屁〉を(できるだけ)無化(無視)し、そのことへの同調を他者に(暗に)強要する態度が無頓着なのだ。こかぬ作法と相反する、こく無頓着。この二つは一つなのだ。無頓着は豪放磊落な人ほど容易な(他者に文句を言わせぬ)行動となる。

 野村の場合、加藤相手ではお互い無頓着の黙契は成立している。加藤も相当な放屁家だ。ところが、そこにクスッと肯定性の笑いが生まれたとしよう。蓋をして隠蔽している〈屁〉の行為者の心的運動はタガがはずれたようになる。相手が喜んでくれるのならば、我が〈屁〉は意味・意義があるとね。悪戯には相手への同調や同調への希求があるときが多いが、野村はかくして悪戯小僧と化すのである。

 いやいや、隣室の笑いは侮蔑のあざけりだったのかもしれない。相手は異国の上流の婦女子なのだ。それを感じた野村は、意図的に〈屁〉をこくにしても、露悪的に相手を黙らせる挙に出たのだと考えられないこともない。無頓着を装った露悪の振る舞いは(相手の同調が拒否されているときは)威嚇に近づいてしまうこともあるけどね。

 悪戯にも威嚇にもならない微妙なバランスの無頓着には、こんな江戸の川柳がある。

 汝らは何を笑ふと隠居の屁

 子どもたちが老人の〈屁〉を笑っている情景を思い浮かべるが、無頓着な老人の顔は真顔なのか笑っているのか。まあ、野村の場合には、立場も年甲斐もない悪戯なんだろうねェ。

 さて、あまりの振る舞いに加藤は忠言する。野村も我に返って理性を取り戻すが、一切はお前(加藤)の仕業と〈屁〉の転嫁を画策する。この二人の外交官のどこまで本心(冗談)かわからぬ振る舞いとやり取りが彼らの技倆を示すというのがオチである。(ここで黄渦とは〈屁〉の災難のこと)
ラベル: 無頓着 黄渦
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2011年01月21日

〈屁〉が生まれるメカニズム

 我々の〈屁〉の成分について詳しい記述が岩波新書『腸内細菌の話』(光岡知足著)という本にある。そもそも細菌の話なのであるが、人間の〈屁〉に関する結構詳しい説明だ。改めて読み返してみると見過ごしていたことが多々あった。──なるほどねえ。以下、同書からまとめておくことにする。

 まず腸内ガスの組成を表にしてみた。比較のための胃内ガスと空気のデータも入れている。胃内のガスは主に食物や唾液とともに空気を飲み込むことによるもので、実際に両者は組成も似ていることがわかる。問題は腸内のガスで、これが一般に〈屁〉といわれるものだ。

composition.jpg

 表のガスは無臭系で、このほかに〈屁〉には悪臭系のガスが含まれる。アンモニア、硫化水素、インドール、スカトール、揮発性アミン、揮発性脂肪酸など、これらは1%以下に過ぎないが、これがにおうのである。(微量であっても人間の鼻は一億分の一の濃度の物質まで嗅ぎ分けると言われている)

 放屁で出す一日のガス量はある測定では400〜2000ミリリットルという。だいたい大小のペットボトルの容積に相当する。消化器官内には普通100ミリリットルのガスがあるらしいが、過剰のものが〈屁〉になるわけである。

 摂取する食物によってガスは出やすくなる。総カロリーの56%を大豆として摂った5人の実験では、放屁が平均15から176ミリリットルにも増加したという。食物繊維の多いマメ類やイモ類は〈屁〉が出やすいといわれるものだ。

 これらのガスのうち窒素と酸素は大部分(食物や唾液とともに)飲み込んだ空気に由来する。酸素は腸内細菌に利用されるので濃度が低くなる。窒素の一部は腸内細菌によっても産生される。摂取した食物と細菌の代謝によって水素、メタンが大腸(結腸)で産生される。水素は細菌の異常繁殖で小腸も産生部位となることがあるが、メタンは(嫌気性の高い細菌によるので酸素のない)結腸だけで産生する。

 この水素とメタンは(同書では触れていないが)燃える気体である。つまり、燃える〈屁〉の正体はこれだ。よく燃える。水素の産生量は食物(マメ類に含まれるスタキオース、ラフィーノスなどのオリゴ糖類のように、小腸内で消化吸収されないで結腸に到達する物質)の種類に左右される。しかし、メタンの産生は食物に左右されず毎日比較的一定である。細菌のあるなしが問題なのだ。

 面白いのは、メタンをまったく産生しない人がいることだ。産生者は必ずメタン菌を持っており、それがあるなしは家系的特徴なのだ。メタンの家系の人は確実に燃える〈屁〉なのである。水素もメタンも含まない〈屁〉は燃えない、多分。

 炭酸ガスは(1)血液から腸管内への拡散(2)重炭酸塩による酸の中和で小腸上部で発生し、小腸で大部分吸収(3)腸内細菌による産生──という由来があるが、放屁の炭酸ガスの大部分は(3)によるものである。

 一口に腸内細菌といってもいろいろあってガスの産生に関与しているわけだ。1%以下の悪臭系ガスも微量でありながら〈屁〉の嫌われる属性を決定づける重大な産生である。
 このように、腸内にたまるガスの質と量は、食物や唾液と一緒にのみこむ空気の量と、それにはたらく腸内細菌の種類と数によって左右されます。したがって食餌の種類を気をつけることによって、ある程度放屁の質や量を変えることができるはずです。また、乳糖不耐症のヒトは乳糖を含んだ牛乳ではなく、乳糖の少ない酸乳を摂る方が腸内ガス産生を少なくすることができます。しかし、メタンの産生は家系が関係しているとすると、メタン産生菌を腸内から排除することはほとんど不可能に近いことです。腸の膨張、過度の放屁、腹痛などを訴える患者は、しばしば、腸蠕動の変化など消化生理の障害と関係していることもあり、たえず唾液と一緒に空気をのみこんでしまう空気嚥下症は、からだのどこかに異常がおこっている場合のあることも注意しなければなりません。

 ところで、放屁は肛門からのガスの放出であるが、一方で腸管内のガスは腸粘膜の血管内のガスと自由に交換され移動している。その移動方向はガス分圧によって決まるので、もともと血液中にないガスである水素やメタンは腸管から血液中に入っていく一方通行。血液に移動したガスは肺に運ばれて吐く息(呼気)に放出される。腸内ガスの一部は口からも出ているわけだ。水素やメタンは無臭だが、悪臭系のガスなら口から〈屁〉がにおう危険もはらんでいるだろう。例えば、呼気から排出される水素の量についてみると(変動要因はあるものの)産生量の約14%という報告もあるというから、結構多いのである。

 以上、抜き書きしながらまとめてみた。無臭系ガスは量が多く音に関係してくるが、悪臭系ガスは微量でニオイに関係してくる。この辺の〈屁〉の属性の身体的背景や、そのバランスはなかなか奥が深い。
ラベル: 腸内細菌
posted by 楢須音成 at 04:36| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月29日

自己を〈屁〉にする境地がある

 人はよく自我(自己)を何かに喩えたがる。アスナロなんかもそうで、健気に前向きに「明日は(立派な)ヒノキになろう」としていると自己をかぶせてしまうわけである。しかし、アスナロはヒノキに似てはいるけどヒノキではないのだから、決してその望みは成就しない。──いささか自虐的だが、そこがいい(まるで自分みたい?)と愛でる(人がいる)のである。

 これが〈屁〉になるとどうか。私は〈屁〉なんですと、これも自虐的なのだが、存在感の軽さや嫌われ加減を他人にアピールするときに使ったりするね。まあ、それもアリだろうが、仏教的哲学を語るのに〈屁〉を用いるとこうなる。少し込み入る。
 世間で云つて居る自己擴張(じこかくちょう)といふことは、何でも彼(か)でも露骨に自分の我儘(わがまま)を押通して、それが為めには他人の感情も尊嚴も盡(ことごと)く蹂躙(じゅうりん)し去る事を意味して居る。自分は偉いぞと、只(ただ)カラ威張りに威張つてるだけのことである、然(しか)し眞の意味で自己の擴張といふことは、果してそんな事であらうか。
 廣い野原で屁を放ると、其(その)高い轟(とどろき)が四邊(あたり)の寂寥(せきりょう)を破つて聞こえる程の大屁でも、其臭いにほひは忽(たちま)ちに放散して了(しま)ふ。これ自己の屁が思ふさま大氣中に擴充(かくじゅう)すると供に其濃度が減じて稀薄と成るからである。所が之に反して狭隘(きょうあい)なる室内で屁を放ると、假令(たとえ)それが極めて貧弱な屁であつても、いつまでも臭氣が去らず、室一パイに擴充し漲(みなぎ)り渡る。前後の兩場合共に屁の擴充することは同一であるが、限局(げんきょく)の大小によつて此(この)相違を見るのである。即ち知る自己に膠着(こうちゃく)し、自己の屁に膠着し、自己の屁の聲臭(せいしゅう)に膠着して、其屁の大を為さんとする者は、到底其眞の大を為し得るものではない。屁の無邊際(むへんざい)の擴大(かくだい)は、無聲(むせい)無臭である。其間に自己の屁もなく他人の屁もない、自己の屁を以て天下を蔽(おお)ふといふことは、即ちこれ自他無差別の域に到ることを指すものである。自己の屁のにほひを意識し得る間は、これ其屁の擴張の尚(なお)小なるを示すものである。自己の屁を大(おおい)に擴張せんとするものは、先ず自己の屁のにほひから脱離せねば成らぬ。
 物我同體一味(ぶつがどうたいいちみ)の理を悟つて、ここに眞の屁がある、眞の佛がある。即ち屁も佛も由來一如(ゆらいいちにょ)であることを本心より開覺發得(かいかくほっとく)して、始めて人生の眞味に没入し得るのである。佛者は此境地を説いて阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に入ると云つた。
 阿耨多羅三藐三菩提に得入(とくにゅう)すれば、新しいといふことも古いといふことも無くなる、徒(いたず)らに古い屁といへば其眞諦(しんたい)を極めずして、之を排斥し、新奇を迎合して得々たる輩(はい)は、先ず其貧弱なる自己を擴張せんとする前に、自己の心眼(しんがん)を明らかにして、正眞の道に進むことを所期し、以て無上の大を為すべきである。化城(かじょう)の屁に止(とど)まつて寶所(ほうしょ)の屁を知らず、聲聞緣覺(しょうもんえんがく)の偏小に甘んじて、菩薩乘(ぼさつじょう)の至大圓滿(えんまん)を知らざる者に、到底屁の妙果(みょうか)を得ることの出來ないのは勿論であるが、未だ人天乘(にんてんじょう)の片端(かたはし)をだも知るの機緣なくして、只我執の大を為さんとする者に至つては、我れ其濟度(さいど)の難きを思ふて、暗然として涙なきを得ないのである。
(溝口白羊『屁の喝破』1914年)

 概略を次にまとめておく。

 ──世間でいう自己拡張とはカラ威張りだが、真の自己拡張はそんなもんじゃない。広い野原でどんな大屁をこいてもニオイはすぐに放散する。狭い室内で屁をこいたらニオイは充満していつまでもにおう。状況の相違でこうも結果は異なるのだ。つまり、自己、自己の屁、自己の屁の音やニオイにとらわれて大きな屁をこいたところで真に大きな屁ではない。無限に拡大した屁は音なし、ニオイなし。そこには自己の屁はなく他人の屁もない。このように自己の屁で天下をおおえば自他の無差別の境地に至る。しかし自己の屁のニオイが意識されるうちは、屁の拡張は不充分なのであり、屁を大いに拡張しようとするなら、まず自己の屁のニオイから離脱せねばならない。外界と自己が一体で無差別であることを悟ってこそ真の屁がある。屁も仏も本来同じであることに目覚め知ってこそ人生の真の味わいに没入できる。これぞ仏教の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)である。その境地には新しいも古いもない。古いと見なせば本質を見ずに排斥するが、新奇なことには迎合して得意がっている者は貧弱な自己を自覚せよ。智慧ある心の眼を開き真実の道を期待して無限大の屁をめざすべきだ。まぼろしの屁にとどまって本物の宝の屁を知らず、小乗の修行者の偏小にとどまって菩薩の大きく満ち足りた境地を知らない者には、とうてい屁の果報など得ることはできない。いまだに迷いの人間界と天上界のわずかばかりも知る機会がなく、ただ我執を拡大しようとする者に至っては救いがたく、暗然として涙するばかりだ。

 つまりは人間の我執(自己への執着)を〈屁〉に喩えている。これは案外と秀逸ではないかねェ。もちろん〈屁〉は〈屁〉でしかないわけだが、その〈屁〉に振り回されているのが人間だ。そもそも我執というものをいかに表現するかは、古来から宗教も思想も苦心してきたのであるよ。それを〈屁〉の一発で済まそうとする魂胆は、このエッセイのちょっと強引なところだけどね。

 広い広い野原に立てばどんな大屁も拡散する。いかにして広い野原に立つかなのだが、気負って野原にたどり着いても凡人の〈屁〉は臭〜くなりそうだ。

 音も香も空へぬけてく田植の屁

 ──しかし、気負わない、こんな感じもいいんでないかな。
ラベル: 自己 仏教
posted by 楢須音成 at 01:56| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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