2010年12月01日

言い出しっぺが〈屁〉の元

 別に意図しなくても〈屁〉は出るさ。もちろん、ワザと「出す」こともあるが、出すまいとして余儀なく「出る」場面が何と多いことか。ついつい出てしまうのよ。

 一方、出される立場になると、その〈屁〉が意図的なものであるかどうかに関係なしに、現象した〈屁〉は警戒せざるを得ない。いったん放出された〈屁〉は目には見えず帰属が不明確なので、犯人に「自分じゃない」と主張されると、強く「お前だ!」と反論するのはいまひとつ自信が持てなかったりするのだ。(逆に自分が疑われる危険もあるので、問い詰めるよりは無関係を装いたいものだ)

 つい出る人→隠したい(しかし隠せない)
 出される人→隠れたい(しかし隠れられない)

 というのが一般的な心情である。つまり、できればお互い〈屁〉は存在しないものとして扱いたいのであるが、そうは問屋が卸さないのである。

 何人かいる中で誰かが〈屁〉をこいたとしよう。それが誰であるかはわからない。ということは、音ナシの透かし屁に違いない。音がないのに気がついたということは、ニオイがそれらしく漂ったのである。かくしてここに「出る人」「出される人」の闘いが始まるわけなのさ。

 その闘いを「濡れ衣を着る人・着せる人」という観点から考えてみたことがあるが(参照)、犯人を特定する判断基準の一つが昔から川柳にも観察されている。

 屁の騒ぎ放り手は中にすまして居

 とにかくこいつは黙り込んで逃れようとする姿勢だな。不自然に黙り込んでいる奴はあやしいに決まっている。沈黙の様子で判断するわけだ。あるいは次のように体を動かす奴もいる。

 屁を放ったやつから鼻をまづつまみ

 そもそも自分の透かした〈屁〉は自分が最初にニオイを感知するのである。そのときの挙動として、最初に無意識に鼻をつまんだ者があやしいのだ。

 もっとも、鼻をつまむという挙動は一方で、そのときまるで他人の〈屁〉を感知したかのような仕草となるわけなので、一種の(自分ではないという)アピールになってしまうことが多いようだ。こうなると半分無意識の振る舞いとなる。

 何気ないふうを装おうとする挙動不審は〈屁〉に限ったことではあるまい。何事につけ、失態をごまかそうとしたり、邪悪な意図を隠そうとしたり、秘密の露見を恐れたりするときにはありがちだ。

 この(そんなもの自分とは関係ないという)アピールの振る舞いは、我々が日常において何かにつけ繰り返し行っているものなのだといえるね。さとられたくない思いはつのり、隠せば隠すほど挙動が不自然になることがある。いやはや、半分無意識で。

 さて、ここからなのだが、ただ鼻をつまむのはまだ大人しい振る舞いだね。しかし、このままでは安心できないし、どうも居心地が悪い心理状態なのだ。我々は一歩前に踏み出してしまう。その様は人間百態。ことわざめいた指摘があるよ。

 放り出しの嗅ぎ出し

 屁は言い出し

 自分の〈屁〉を「くさ〜」と嗅ぎ出し、次には言葉にして「誰よ〜」と言い出してしまう。これは(疑われるという切迫した気持があるから)いち早い対処に追い込まれるからだ。だから、ついつい言っちまう。

 屁ひりの早言葉

 他人事のような「誰よ、誰よ、誰よ」の連呼。あんまりやると騒ぎ過ぎになって(かえって怪しまれて)しまうが、ここまでくると、もはやヤケのやんぱち。笑い出す。

 言い出しこき出し笑い出し

 こうして発生元を特定する真理もどきが成立することになる。

 屁と火事は元から騒ぐ

 そうですか。誰のものともわからない〈屁〉をめぐる心的運動を観察していくと、双方にきわめて教訓的な結論が出るわけですね。以上のいずれの言葉も〈屁〉を出した人を観察しての断定的な指摘である。その断定は自分だって〈屁〉をする(場合もある)わけだから、身にしみてリアルな裏付であろう。

 まあしかし、現実の場面では自他が発生させる〈屁〉には動揺するねェ。誰の一発であろうと、沈黙したり、鼻をつまんだり、言い出したり──そういう微妙で不用意な挙動が(たとえ自分がやっていなくても)不利に作用するのだから、そこに〈屁〉が現象したら十分心せねばならぬのであ〜る。

 あ、最初から犯人が決まっているときは論外です。


ラベル: 言い出す 隠す
posted by 楢須音成 at 01:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月07日

糞尿屁のワガママの分析

 糞尿屁の三兄弟は人間の排泄物の中でも厄介なものといえよう。その最悪の現実が、この三兄弟がせめぎ合う「緊急事態」という切羽詰まった排出の場面である。

 事態が複雑になるのは「糞─尿」「尿─屁」「糞─屁」「糞─尿─屁」といった組み合わせで同時に出てこようとするからだ。こういう緊急事態の混乱は前にも触れたことがあるのだが、例えば〈屁〉に関してエピソードをあげると『古今著聞集』にこんな話が載ってたね。音成のテキトー訳を試みる。
 ある宮腹(宮家の出自)の女房、秘かに通ってくる法師がいて、夜な夜な自分の部屋へ引き入れていた。ある夜のこと、法師が尿意をおぼえ「どこに穴があるかな」とたずねると、女房が「その竿の下の方に穴がありますわ。探してごらんなさいまし」と教えたので、這い寄り探しまわって穴をさぐり当てた。すぐに放尿しようとしたのだが、折悪しく屁が出そうになり、小便を我慢してためらってしまった。放尿すれば必ずや屁までいっしょに出てしまうに違いない。法師が我慢しているのを知らないで、女房は穴を探せないのだと早合点、そこで自分も這い寄って穴は「どこでしたかね」と探しつつ、何としっかり手を法師の脇の下に差し入れてしまう。法師はこそばゆさに我慢ができなくなったか、あせって身をふるわせるうちに屁も小便も一度に出してしまった。穴に当てていたマラもはずれ、さんざん小便をはじけ散らしたのだ。隣との中へだての引き戸に穴があり、小便が伝って戸のそばに寝ていた女房の顔にかかったのだが、女房はそうとは知らないから、雨が降って漏ってきたのだと思い、騒ぎまどっていた。可笑しいことだ。(巻十六)

 これでは〈屁〉の修羅場。尿と屁が同時に出る緊急事態に遭遇した法師が(出したくない)屁を我慢しようとして(出したい)尿を我慢せざるを得なくなったのだが、どうにも我慢ならずにいっぺんに出してしまったのである。

 ここでは、どっちもしたい緊急事態において一般に「尿と屁は同時に出そうになる(出る)」という事実を押さえておかねばならない。どうしてこんなことになるのか。ヒントになる解説がある。身体の仕組みを整理して書いた記述を紹介しよう。
●そういえばウンチとオシッコは同時に出ないけど、どうして?
 膀胱がいっぱいになれば尿意を覚え、直腸がウンチでいっぱいになると便意をもよおして人はトイレに行く。
 もし、どちらも同時にいっぱいになってトイレに駆け込んだとしても、この二つが同時に排泄されることはない。ま、たまにはあんまり「大」をガマンしていたために、トイレに入ったとたんホッとして肛門をゆるめたら、「小」もいっしょに出たなどということはあるけれど…。
 これは、オシッコを出す仕組みとウンチを出す仕組みとが別の命令系統になっているからだ。
 尿は、膀胱にたまってその壁が伸びると尿意を脳に伝え、次に脳が排泄の指令を出す。内膀胱排尿筋、外膀胱排尿筋の順で伝わり、最後に外膀胱括約筋がゆるんで排尿となる。
 便のほうは、直腸にたまってその壁が圧迫されて脳に便意が伝わると、脳は直腸の筋肉を収縮させる指令を出し、次に内肛門括約筋、外肛門括約筋をゆるめる指令で排便という順になっているのだ。
 脳はこの指令を、混乱することなく出している。そして、筋肉もその指令を間違えることなく忠実に果たしているから、二つが同時に出ることはないのである。
 だが、もしどちらも限界状況であった場合は、オシッコとウンチどちらのほうがガマンできるだろう。
 ウンチは腹圧をかけなければ出てこないし、直腸やS字状結腸がいっぱいでも、その上の大腸にたまることができる。
 それにくらべオシッコは、逆流するわけにはいかないので、ガマンはきかないはずだ。
(『[人体]の謎』博学こだわり倶楽部編、KAWADE夢文庫、1999年)

 以上は糞と尿の場合である。二つは出てくる仕組みが別の命令系統になっているから「糞と尿は同時に出ない」というわけである。まあ、同じ命令系統だったら(同時に開いたり閉じたりすると)実に不便な事態になるわけで…。しかし、どちらも我慢しなければならない緊急事態になったとして、どちらが先になるかといえば、一般に我慢がきかない尿が先に出る(のではないか)ということだ。

 しかしまた、どうにもならない究極の緊急事態としよう。二つの命令系統が全く同じタイミングで限界を認識し我慢を放棄したとすれば、あるいは何かの拍子に我慢の糸が心ならずも同時に切れたのだとすれば、それは同時開放になる(こともある)ということであろうな。

 内膀胱括約筋と内肛門括約筋は不随意筋であり、外膀胱括約筋と外肛門括約筋は随意筋である。ということは、緊急事態には、意志の力をこめる随意筋の制御力が問われる。また、容積の大きい腸や小さい膀胱の違い、太い腸や細い尿道の違い、通過する固体と液体の管への引っかかりなどが影響するね。いやいや、そんなことはどうであっても、個人差も無視して体験的にまとめると、

(1)糞も尿も我慢する→限界までは可能だろう
(2)糞も尿も我慢できぬ→意志放棄で同時か、先に限界に達している方から出る→多くは尿が先?
(3)糞は我慢し尿を出す→だいたい可能
(4)尿は我慢し糞を出す→なかなか困難
 
 一般に糞の方が我慢しやすいだろう。我慢を重ねて「便秘」になってしまうこともある。ただし、下痢のように液体に近くなった糞は切迫感の高い尿の性格を帯びる(つまり、我慢しにくくなる)わけで、こうなると量的にも圧力が高いだけ尿より先に出る事態があるかもしれない。まあ、体験的にはそういうこと。

 さて、糞と尿はこうであるとして、いよいよ緊急事態の〈屁〉なのだが、「尿─屁」「糞─屁」「糞─尿─屁」という組み合わせである。「尿─屁」については法師のエピソードがあった。これは、

(1)尿も屁も我慢する→限界までは可能だろう
(2)尿も屁も我慢できぬ→意志放棄で同時に出る
(3)尿は我慢し屁を出す→だいたい可能
(4)屁は我慢し尿を出す→なかなか困難

 法師は(4)の困難を抱えていたわけである。腹中に〈屁〉を抱え込んでいる苦労は前に紹介した江戸の小咄にもあったね。これもテキトー訳で引用しておく。
 つらく難しい講釈が終わって、煙草盆で一服しているところで、先生おっしゃるには「アレ、表で小便の音がする。弟子どもよ、あの人の病症をわかるか」「ハイ」と弟子どもは耳をそばだてて聞き取り、「あの小便の音は、絶対に淋病か糖尿病ではないかと考えました」と。すると先生、頭を振って「いやいやそうではない。あれは腹に屁をもったものだ」
(『聞上手』1773年)

 このように〈屁〉を我慢しながらする放尿は他人にも知られてしまう「病症」があるのである。ここで気づかねばならぬのは、いずれのエピソードでも〈屁〉はとにかく出したくないということだ。この煩悩というか執念が放尿を困難にしている。つまり、〈屁〉とはそういうものなのだ。何としても、何としても人に聞かれたくな〜い…。

 これが「糞─屁」の競合になると、様子が少し変わってくるようだ。同様にまとめると、

(1)糞も屁も我慢する→限界までは可能だろう
(2)糞も屁も我慢できぬ→意志放棄で屁が先に出る
(3)糞は我慢し屁を出す→可能
(4)屁は我慢し糞を出す→困難

 そもそも糞と〈屁〉は同じところ(肛門)から出てくるというのが尿との決定的な違いである。命令系統は多分いっしょ。そして、昔からこう言われているのである──「屁は糞の先走り」。

 糞を先導するのが〈屁〉というわけだが、それぞれ単独の場合もあり、必ずしも糞を〈屁〉が先導しているわけでもない。それでも順序としては、〈屁〉をしたいのと糞をしたいのがいっしょの場合には、まずは先導している〈屁〉が先に出てくるわけなのだ。(糞の背後の屁は便意と見分けがつかない)

 最後に「糞─尿─屁」を同時にしたい場合を考えてみよう。自ら出てくるのを強く要求する順位はどうなるか。

    屁>尿>糞

 かくして、糞尿屁の三兄弟の中で一番ワガママなのは〈屁〉である。間違いない。
ラベル: 尿 ワガママ
posted by 楢須音成 at 06:55| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月13日

〈屁〉の言いまつがい

 勘違いとか、言い間違いとか、読み間違いというのはよくあることで、他人が間違ったからといって笑っていると天罰が下る。まあ誰にだって間違いはあるんだが、他人が間違うのは確かに可笑しいよねえ。

 これが〈屁〉になると、単なる勘違いではすまなくなり事件になる──そんなことは滅多にないにしても、大いに笑われることになる。こんな江戸の川柳がある。

 生身魂屁を放ることと下女思ひ(いきみたま へをひることと げじょおもい)

 生身魂(いきみたま)は生御霊などとも書く。お盆に、健在の一家の長老・両親を生きた御霊としてもてなすことだ。あるいはその人そのもの。秋の季語になっている。

 下女が「いきみたま」を「息張った屁」と思ったわけで、無知の発想によって〈屁〉の異名である「屁玉」に結びつくところがすこぶる妙。いやいや、どういう根性で〈屁〉になるのか音成には理解を超えまする。お耳直しの俳句を一句。

 生身魂七十と申し達者也  正岡子規

 何だか先ほどの下女の思いが強すぎて鑑賞を妨げてしまうのだが、ここは生身魂を「屁玉の一発」などど解釈してはいけない。絶対に。

 言い間違いではないが、言い過ぎてもいけないと警告する川柳もある。福富織部の『屁』の解説では、浅草に奈良茶屋というのがあって、奈良漬でお茶漬を出して人気だった。後に茶漬を「奈良茶」と呼ぶようになったという。そのときに、

 おなら茶といつて田舎出笑われる(おならちゃといって いなかでわらわれる)

 丁寧に言ったつもりが仇となる例だ。どんなに丁寧に言っても、紳士淑女は「おなら漬」とは(多分)言わないわけだし、ここは同様に〈屁〉の連想を回避するのが作法となるのだ。

 しかし、庶民は〈屁〉などごく日常だったりするので、ことさら〈屁〉を回避する心情はあまりないかもしれない。そこでこんなトンチンカンな誤解もまかり通る。落語にもなっている江戸の小咄だが、福富織部の『屁』から引用する。
 眼を病(わずら)つた男、神佛(しんぶつ)に願をかけたが捗々(はかばか)しく治癒(なお)らない。困り切つてゐるところへ、家傳(かでん)の妙藥を得た。早速木版刷の効能書きをズーツと一と通り讀(よ)んで行くと『めじりにさすべし』とある。それを文字通りに讀めば事は無かつたが、木版が大分痛んでゐた為、『めじり』の『じ』の字の濁點(だくてん)が磨滅(まめつ)してゐた。そこで、『め』を『女』とよみちがえたから堪らない。
 『女しりにさすべし』
 ハテ、不思議な藥の用ひ方があるものと思つたが、とも角、女の尻にさして見ようと、厭(いや)がる女房を漸く説き伏せて、『笑ひ事ぢやない、身の功徳になることだ』とあつて、クルリ裾を捲(めく)らせ、細君のお臀(いしき=しり)の穴に件(くだん)の粉藥をさそうとする動機(はずみ)に、女房苦しくなつて、ブーツと一つ。其の拍子に粉藥は勢ひよく吹飛んで、グツと見開いてゐた主人公の眼の中にけしとんだ。
 『はゝあゝなるほど斯(こ)うしてさすものかい』

 江戸時代は粉薬の目薬があったようだね。女房のくさい〈屁〉の一発でさすのが用い方だったのである──というのは嘘だが、結果良しの怪我の功名みたいな顛末になっている。

 このような勘違いとか、言い間違いとか、読み間違いは一種の「過失」であるが、これを遊びの観点から意図的に使い出すのも我々の習性だ。これが〈屁〉になると、いろいろ可笑しい連想が広がる。

 前にも紹介したがこんな歌があったね。意図するにしても、ここまでくると熟練がいる。

 のどかなるはやしにかゝるおにはまつ
       かすみそのへのにほひなるかな


 これをどう読む(解釈する)かが問われる。濁点があったりなかったりの「ひらがな」ばかりというのが曲者なのだがね。

 喉が鳴るはや死にかかる鬼は待つ
         糟味噌の屁の匂ひなるかな


 こう読めないことはない。というか、こう読めてしまうんだな。特に「かすみそのへのにほひなるかな」というのはしっくりくる──のだが、正解はこうなる(らしい)。

 長閑なる林にかゝるお庭松
         霞(かすみ)ぞ野邊(のべ)の匂ひなるかな


 こうなると情景は一変して〈屁〉などどこにも存在できないのである。二つ並べれば、勘違いとか、言い間違いとか、読み間違いを逆手にとって可笑し味の表現が成立するわけだ。

 こうして駄洒落とかギャグとかの言葉遊びになっていくわけだが、〈屁〉の可笑し味の一分野にもなっている。とうとうシュールな感じに突き進んでしまったのが狂歌師・加保茶元成の狂歌だ。

 へゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝ
         へゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝ


 間違えようもなく、ただただ〈屁〉ばかり。これぞ〈屁〉の極致であ〜る。
ラベル: 言い間違い
posted by 楢須音成 at 00:43| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月20日

〈屁〉が出る食べ物を嗅ぎ分ける

 確かに〈屁〉が出る食べ物というのはある。我々は昔からそのことをよく知っていた。日本人に代表的なものはイモである。外国文学や洋画なんかではよくマメが槍玉に挙がっているが、これらは食物繊維が多い食べ物なのだ。この消化されない繊維質が大腸の腸内細菌の作用を助ける大切な役割を担っているのだが、このとき腸内ガスが発生する。肛門から出た瞬間、それを〈屁〉と呼ぶのさ。

 草食系であれば、よく〈屁〉が出るのが道理。馬などはすさまじい放屁をする。実にあっけらかんとしている。川柳の「馬の屁のさかさに響く一ノ谷」は戦場における勇壮な馬の姿を彷彿とさせるではないか。源氏が平氏を奇襲した「鵯越の逆(さか)落とし」の戦いの〈屁〉である。

 もともと日本人は草食系の食事をしてきた。比較すれば西洋は肉食系である。日本で肉食が一般化してくるのは明治以降だからね。最近は一段と食や嗜好のグローバル化が進んで差別も見分けがたいかもしれないが、草食系日本人の〈屁〉は文化刻印となっているのは間違いないところだ。疑うなかれ。

 よく〈屁〉をこく日本人は(いやもちろん、日本人ばかりではないだろうが)何を食べれば〈屁〉が出るかを体験的に知っていた。しかも食べ物によるその微妙な(屁が出現する)差異に敏感だった。その一例がこれ。音成のテキトー訳で引用する。
 京ではまれに雑炊をたくが、米を多めに入れてたくので田舎の菜飯(なめし)よりはまさっている。それは都ならではのことであって、田舎と同じもののように言うのは残念である。あるとき所用があって、かなり遠方の国に行ったことがあった。その国の米というのは麦で、麦だけ食う人は一在所に一人か二人しかいない。ほかは芋を多めに入れ麦はわずかばかりだった。麦だけでもおならが出るのに、麦と芋の混ぜ合わせならば、さぞや絶え間なく出るんじゃないかとたずねると、在所の人はこう言った。「それにはまじないがありまして、どんなことがあっても取り外してこくようなことはないんです」と。「そのまじないとは」と聞くと「飯より先にナマの大根一本ずつ噛みまする。その大根がゲップになって出ようとすると、麦と芋が下に引っぱり、麦と芋がおならになって出ようとすると、大根が引き上げ、腹の中で始終もみ合って、おならにもゲップにも出ませぬ」
(『軽口利益咄』1709年)

 麦と芋が(大根の)ゲップを下に引っぱり、大根が(麦と芋の)〈屁〉を引っぱり上げる。そんな馬鹿なことはないはずだが、上に下にもみ合う結果、ゲップも〈屁〉も出ないことになる。いかにもそれらしく聞こえるところがミソだ。大根の効果は上に引っこ抜くところからの連想か。まあしかし、大根もゲップと同時に〈屁〉も出る野菜と目されており、しかも臭いという評判なのだけどね。

 さらに繊細に〈屁〉を嗅ぎ分けて食べたものを当てるという芸当も探求されることがある。どこまでそれが可能かはわからないが、ある程度は推定がつくのかもしれない。新美南吉の童話『屁』(1940年)にこういう情景がある。
(藤井先生は)それから南のまどぎわへ歩いていって、外の空気をすうために、ややハンケチをおはなしになる。藤井先生のいつもきまった動作がおもしろいので、生徒らは、男子も女子も、ますます、くさいとさわぐ。すると、古手屋の遠助が、きょうは大根屁だとか、きょうはいも屁だとか、きょうは、えんどう豆屁だとか、正確にかぎわけて、手がら顔にいうのである。
 みんなは、遠助の鑑識眼を信用しているので、かれのいったとおりのことばを、また伝えはじめる。
「あ、大根屁だ。大根くせえ」

 このように、その〈屁〉が何に由来し、どんな作用やニオイをもたらすのか、微細な差異に関心が向いて指摘するわけである。まあ、何というか、そこに〈屁〉の一発があれば、肥やしのきいた畑が思い浮かぶというかね。

 これが肉食系の外国となると様相が違うのだ。畑の作物を思い浮かべるようにはならない。アラブ人のとった〈屁〉への反応を南方熊楠の『十二支考』から引用しよう。
正確を以て聞えたニエビュールの『亜喇比亜紀行(ベシュライブンク・フォン・アラビエン)』にも屁を放って国外へ逐われた例を挙げおり、一七三五年版ローラン・ダーヴィユーの『文集』巻三にも、二商人伴れ行くうち一人放屁せしを他の一人瞋(いか)って殺さんとす。放りし者ことごとくその財物を捧げて助命さる。他の一人この事洩らすまじと誓いしを忘れ言い散らし、放りし者居堪(いたたま)らず脱走す。三十年経て故郷に還る途上その近処の川辺に息(やす)む。たまたま水汲みに来た婦ども互いに齢を語るが耳に入る。一婦いわく、妾は某大官がコンスタンチノープルへ拘引された年生まれた。次のはいわく某大官歿(ぼっ)せし年と。第三婦言う雪多く降った年と。第四婦ここにおいて妾は某生が屁放った年生まれたと明言するのが自分の名だったから、その人これじゃとてもわが臭名は消ゆる期なしと悟り、直ちに他国に遁(のが)れて三度と故郷を見なんだと載せ、また一アラビヤ人屁迫る事急なるより、天幕外遠隔の地へ駈け行き、小刀で地に穴掘り、その上に尻を据え、尻と穴との間を土で詰め廻しとあるから、近年流行の醋酸(さくさん)採りの窯を築くほどの大工事じゃ。さていよいよ放り込むや否や直ちにその穴を土で埋め、かくて声も香も他に知れざりしを確かめ、やっと安心して帰ったとあって、この書世に出た頃大いに疑われたが、ニエビュールがその真実たるを証言した。

 ここで語られている主調の情動は強い強い嫌悪である。特に後半のエピソードは強烈ではないか。その男は〈屁〉をこきたくなるやテントの外に駆け出し、地面に穴を掘り尻を据えて〈屁〉を封じ込める所作に及ぶ。日本人は嫌ってもこれほどではない。せいぜいこんな感じである。福富織部の『屁』から小咄を引用する。
 或金持が大きな袋に風を貯へて置いて、夏になつて暑くなると袋の口をあけて少し宛出して涼んで居つた。或る日主人の留守中に小僧たちが密に此の袋を持ち出して中の風を使つたはよいが、餘り出し過ぎて袋が萎びてしまつたから、その埋合わせに大勢で屁を放り込んでふくらませておいた。斯くとは知らない主人は歸つて來て例の通り袋の口をあけると、中から臭い風が出て來たから、『餘り暑いので風が腐ったわい』

 臭いといってもこの程度。日本人とアラブ人の所作の差は歴然としている。つまりこれは、草食系より肉食系の〈屁〉は強烈に臭いのである。アラブ人にとって風が腐ったなどと悠長なことは言ってられない。かくして音成の持論では、肉食系民族は〈屁〉に対して嫌悪が強く、草食系民族は恥が強いことになる。そして恥は忘れることもあるが、嫌悪はより原初的な情動なので忘れることが困難だ。

 こうなってくると〈屁〉を嗅ぎ分けて何を食べたかを当てようとする日本人の分析的姿勢は、草食系民族の根拠ある所作といえるのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 06:56| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月27日

〈屁〉の民族性の根拠

 音といいニオイといい、世界の民族の〈屁〉に特徴があるのは容易に想像がつくのである。その根底にあるのは食べ物の相違なのだ──と、前回の〈屁〉の嗅ぎ分けの考察から結論づけることもできるわけだね。

 最近、人の類型に草食系やら肉食系やらの冠を付けることが流行っているが、我々の〈屁〉においてもこの区別は重大な示唆を与えるものだ。人間に限らず食べ物による相違は草食系と肉食系に大別され、この二系統の〈屁〉は実に対照的な様相を呈する。それは、

 肉食系の〈屁〉=あまり音がしない/かなり臭い/回数(量)は少
 草食系の〈屁〉=よく音がする/あまり臭くない/回数(量)は多

 というのが特徴である。あくまでも全体の傾向としていえるわけだけどね。これは馬や牛とかの草食系動物と、ライオンやトラとかの肉食系動物の観察において証明されることだ。

 消化の身体的構造においては、草食系と肉食系は際立った違いを見せる。馬の腸の長さは身長の10倍はあるらしいから40m前後にもなるんだろうか。腸内の広大な空間では、腸内細菌によって繊維がゆっくり分解されガスも大量に発生するわけだ。これが肉食のライオンの腸になると身長の4倍だという。猫なども同じ程度。要するに肉食系は草食系の半分程度に短いのである。これは肉を分解して必然的に発生する有害な物質を素早く体外に排出するためといわれているが、ガスの発生は少ないものの、きわめて臭いのである。(当然ながら糞尿も臭い)

 こういう動物界に対して人間界はどうか。まあ、人間は肉も食えば野菜や穀物や果物だって食うわけで、広い意味では何でもありの雑食の動物だ。しかしそれでも、草食系と肉食系の傾向はあるのではないか。草食系の日本人に対して欧米人は肉食系だというのは昔から指摘されてきた。

 とすると草食系日本人の腸は肉食系欧米人より長いのではないか。研究文献で調べてみたのではないが、だいたい欧米人より2〜3m長い8〜9mといわれているようである。ならば動物界の傾向と合致するわけだね。(もっとも、日本人は欧米人より腸が長いということには疑問を呈する人もいる。明快な比較研究がないということだろう。動物の例では、草食系は肉食系より体格が大きいものが多く、草食系の腸が長いのは見た目からも納得だが、比較的体格が小さい日本人と大きい欧米人の腸の長さは、きちんと体格も考慮しないと、単純には比較の結果は出ないだろう。まあ音成は、日本人は体格からすれば少々長いはずじゃないかと思うんだが)

 とまれ身体の構造上の問題は措くとしても、人間の草食系と肉食系を規定してくるのは、それぞれの腸内で起こる〈屁〉を伴う消化活動の差異である。草食系の腸内は(主に炭水化物を消化する)善玉の腸内細菌と食物繊維とによってガスの発生量が多いが、臭くない。腸が長いぶん消化には時間をかける。一方、肉食系の腸内は(主に動物性の脂肪や蛋白質を分解する)悪玉の腸内細菌が硫化水素、アンモニア、アミン、フェノール、インドールなどの腐敗物質や有害物質を発生させ臭いが、ガスの発生量は少ないのである。

 以上の傾向は〈屁〉の民族性に重大な結論を導き出すと考えられる。つまり、あまり臭くないが回数(量)が多い〈屁〉と、かなり臭いが回数(量)は少ない〈屁〉の違いが、民族性に深く深く影を落としているのである。例えば、

 馬が屁をひりながら行く春野かな

 という古川柳のノンビリしたおおらかな可笑し味は、臭気がきつくては存在できないだろう。次のような俳句の世界でも〈屁〉は可笑し味を伴って、むしろ俗事を離れて優雅に響く。そこに臭気があっては鼻白む。

 馬の屁に吹き飛ばされし蛍かな 一茶

 馬鹿でかい〈屁〉の響きで蛍が吹き飛ばされる闇夜の光景は、何という優しい時間であろうか。臭気はないのであり、大きな生の響きの世界なのである。このような〈屁〉に向き合う余裕は草食系の特徴となる。

 ところが、肉食系になると様相が異なるのだ。前回も紹介したが、南方熊楠が紹介しているエピソードはこうである。『十二支考』から引用する。
 ローラン・ダーヴィユーまた述べたは、かつてアラビヤのある港で、一水夫が灰一俵ノ(あ)ぐるとて一つ取り外すと、聴衆一同無上の不浄に汚されたごとく争うて海に入るを睹(み)た。またアラビヤ人集まった処で一人ローランに仏人能く屁を怺(こら)えるの徳ありやと問うた。無理に怺えてはすこぶる身を害すれど、放(ひ)って人に聞かしむるを極めて無礼とす、しかしそれがため終身醜名を負うような事なしと答うると、斉(ひと)しく一同逃げ去った。問いを発した本人は暫く茫然自失の様子、さて一語を出さず突然起(た)って奔(はし)りおわり爾後見た事なしと。ロ氏のこの談で察すると、当時仏人は音さえ立てずば放って悔いなんだらしい。

 肉食系の人たちのやりとりなのだが、可笑しいのは、アラブ人が「フランス人は屁を我慢する徳があるのか」と問うと、ローランが「無理に我慢するのはひどく体に悪いが、フランス人は屁を人に聞かせるのはきわめて無礼なことだと考える。しかしだからといって、その無礼は終身の恥とはならぬ」と曖昧に答えているやりとりだ。これは「屁を我慢しない」と言っているに等しい。熊楠はそのときローランが透かし屁をこいたとでも思ったのか、「フランス人は人に知られず音さえ立てなければ悔いることなし」と判定している。

 アラブ人はこぞって〈屁〉を忌避して逃げ出しているわけだが、これは屁が臭いゆえの不浄感であり嫌悪なのである。フランス人のローランは〈屁〉の忌避に礼儀を持ち出して、アラブ人ほどの露骨な嫌悪はないのだが、「屁はきわめて無礼」とは嫌悪(体に悪い)に発している道徳観とみるべきだ。

 肉食系のような極端な〈屁〉への嫌悪は日本人にはないね。まあ、そういう人もいないではないにしても、ここで重要なのは嫌悪が集団行動として現象していることである。
 
 もちろん、草食系の日本人だって〈屁〉が臭いことはあるよね。そういう場面の川柳をピックアップしてみよう。

 こたつから猫も呆れて顔を出し
 九重に匂ふは鳥羽が写生の屁
 美濃の屁を近江の鼻にくさがらせ
 風上で意地のわるいが屁をかがせ
 紙帳では自業自得の屁の匂ひ
 音も香も空へぬけてく田植の屁

 何というか、嫌悪や道徳を示す以前に〈屁〉に向き合う余裕(可笑し味)が表現を支えているではないか。ニオイが現象するバラエティに富む場面をとらえ、実にのどかなものだ。それというのも、草食系日本人の〈屁〉はあまり臭くないゆえの余裕なのだ。そこから〈屁〉の音や、振る舞いや言葉の遊びへと向かっていく川柳表現の視点は多彩である。

 このように草食系日本人は(肉食系欧米人に比べれば)ニオイはあまり気にならない。しかし、音には敏感だった。というか、自他ともによく放屁するので、よく耳にする。あるいは自らよく放屁の危機を抱え込む(屁をこきたくなる)わけである。肉食系欧米人がニオイの強度の高さに影響されるなら、草食系日本人は音の発生頻度の高さに影響されたのだね。ここに礼儀や作法の道徳観が持ち込まれれば、日本では(こいてはならぬという)恥が強調されることになるわけさ。

 肉食系の〈屁〉の道徳=嫌悪に依拠して「屁は禁止」
 草食系の〈屁〉の道徳=恥に依拠して「屁は禁止」
 
 そもそもニオイと音とでは人間の原初的な反応に差があり、イヤなニオイは(生理的)嫌悪に行きやすく、聞きたくない音は(観念的)恥に行きやすいのである。まあ、この辺は〈屁〉に即した愚考なんだけどさ。──今年も暮れるが、波乱の近隣外交に草食系日本人であることを意識する一年ではありましたなあ。
posted by 楢須音成 at 00:12| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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