2010年11月01日

オプーについてのお尻の本

 古本屋で手に取った本に〈屁〉の話が出ていると喜ばしい気分になる。ありました、この本にも。何と以前に質問を受けた〈屁〉の異名「オプー」について解説してあるではないか。その質問とは「オプーは皇室用語か?」というものだった。

 そのときは残念ながら、音成は「知りません」と答えざるを得なかったのだが、皇室用語かどうかはともかく、〈屁〉の異名として「オプー」はあり得るし、大いに広めたいと思ったものだ。(参照

 ところがどうだ、やっぱり皇室用語なのか。手にした『お尻の秘密』(博学こだわり倶楽部編、KAWADE夢文庫、1994年)という本にこうあった。引用する。
 昨年、惜しまれながら亡くなった逸見政孝さん。逸見さんが闘病中だったときのことだが、術後の容態を示す報道で、主治医の東京女子医大の羽生富士夫教授が「おプーが二発出た」と説明している。
 この「おプー」という言葉、学術用語のように思える(思えないか?)が、そうではないらしく、どうやら皇室用語らしいという説が有力である。
 なんでも、昭和天皇を診察した際、担当の看護婦が「陛下、おプーは出ましたか」とたずね、当時、学会でも話題になったとか。
 さらに、皇室ジャーナリストの河原敏明さんによれば、「数十年の間皇室に仕えていたある女官がこの言葉を使っていたという証言がある」とのこと。
 決定的な由来は残念ながら定かではないが、皇室では、おならを指して「おプー」と呼ぶのだろうか。お魚、お肉、お皿、お花見、お勘定などなど、「お」のつく言葉は数多い。
 この際、「おプー」も仲間に入れてあげたいと思うが、いかがなものか。

 断定してないし、微妙に一次情報証言ではないのだが、まあ「おプー」を(ごく普通に)使ったんだろうかねェ。オナラとか屁とか、直接的に言わないのならば「おプー」は下品まみれにはならない響きがあるのは、間違いないんだからね。

 この件はこのくらいにしておくが、『お尻の秘密』には〈屁〉の話題が結構入っていた。項目を抜き出しておく。当ブログでも触れたものがあるんだよね。
◆ダリによるオナラの研究(参照
◆モーツアルトのとんでもない作曲法って?
◆ムーランルージュを抱腹絶倒させた男の芸とは(参照
◆「屁」がどうして「おなら」になったのか(参照
◆「おプー」とはいったい何語か(参照
◆水中でするから「屁のカッパ」とはどういう意味か(参照
◆「カッパに尻子玉を抜かれる」は水死体と深い関係がある!
◆男より女の方が「すかしっ屁」がうまいワケ
◆「焼きイモは皮ごと食べるとオナラが出ない」は正しい?
◆「各国オナラに対する意見いろいろ」
◆スカンクのオナラはどれくらいの威力か(参照
◆どうして「すかしっ屁」はクサイのか?

 このうち、「男より女の方が『すかしっ屁』がうまいワケ」を紹介してみよう。
 「屁をひって尻つぼめる」とは、過ちをしでかして、あとからあわててごまかそうとするという意味。
 まさにこの言葉のとおり、屁、オナラはちょっと場所を間違えると、大ヒンシュクもの。「出もの腫れもの、ところ嫌わず」とはいってられない。
 そこで、放屁のシステムというものをちょっと研究して、どうにかコントロールしてしまおう。
 なぜ「出もの腫れもの、ところ嫌わず」になってしまうかというと、体内にたまったガスに刺激され、内肛門括約筋が緩んでくるためだ。そこをグッとこらえて外肛門括約筋で締めつけ、もれるのを防ぐ。
 そうして、もう出してもいいよ、となると外肛門括約筋を緩め、ガスを解放する。そのとき、肛門粘膜が振動すると、プーッという例の音が出る。腹に力を入れるほど、豪快な音がする。
 ところで、女性のほうが男性よりも放屁のコントロールがうまいそうだ。いわゆる「すかしっ屁」が、得意技だというのである。
 夢も希望もないが、これは、女性の骨盤が浅く広いためと、直腸の隣に弾力性のある膣があるためだ。
 音ナシでいこうというときには、オナラが出やすいように腰をちょっとひねり、外肛門括約筋を緩めてやると、この「すかしっ屁」が完成する。
 男性には真似のできないテクニック。きれいな花にはトゲがある。きれいな女にはガスがある?

 内肛門括約筋は不随意筋で、外肛門括約筋は随意筋である。〈屁〉をこきたいとはガス圧で内肛門括約筋が自然に緩んできた状態を関知しているのであり、外肛門括約筋で意志的にふさいでいる状態が放屁の寸前の姿なんだね。音を出さないためには、肛門の表面(肛門粘膜)の振動を抑えなければいけないわけで、これを抑えるには肛門をできるだけ開放する(外肛門括約筋をできるだけ緩める)こと。つまり、ガスの通りをよくすることが「すかしっ屁」の極意。女性は身体構造によってそれが有利にできる──そういう解説になっている。

 まあ(女性が)緩みやすい(緩んでいる)ってことは、うっかり〈屁〉をこく確率も高いってことか。いえ、いや、よくわかりませんが。


posted by 楢須音成 at 08:06| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月08日

見えない〈屁〉に注ぐ視線

 我々の〈屁〉は目に見えないわけだが、それを視覚的に語ろうとすれば描写しにくいものだ。音とニオイは特徴的なのだが、それは「音はすれども」「ニオイはすれども」いっかな見えないのである。

 一般に〈屁〉を語るスタイルはこうだ。多彩に〈屁〉の表現が試みられた狂歌をのぞいてみることにする。
(1)今朝見ればいつしかよべをひり置きていとどねぐさき床夏の花
 (朝起きてみるといつのまにか夜のうちに屁をひったままの激くさ〜い床・夏の花)四方赤良
 ※「今朝見れば露のすがるに折れふして起きもあがらぬ女郎花かな」(西行法師の歌)を下敷きにしている作品

(2)芋くうてふとして屁などひりやうづと人のわらひもはづかしひ茸
  (芋を食べてちょっとはずみで屁をひったんじゃないのと人に笑われるのも恥ずか・しい茸)其柳

(3)恋ひ慕ういもに逢はねばよもすがら落す屁にさへ香りとてなし
  (恋い慕う女に逢わないならば一晩中ひり続ける屁にも香りすらないんだわ)臥雲

(4)めでたうと門過ぐる子の放屁こそ年の初めのおとし玉かも
  (おめでとうと門を通り過ぎる子の一発の屁玉こそ年の初めのお年玉みたいだなあ)鶴州

(5)匂ひをば何と聞きけん屁の音に耳をふたいで逃るをかしさ
  (その匂いを何だと思ったんだよ屁の音に耳をふさいで逃げるのは笑っちゃうよ)金魚園

 こういう場合の〈屁〉は「くさい」「音がする」ということの結果が歌われているわけで、〈屁〉自体の視覚的描写というのは意識されていないね。(1)は寝床が激臭という事実、(2)は笑われて恥ずかしいという気持、(3)は無臭という事実と味気なさの気持、(4)は子供の放屁への感慨、(5)は一発を何かに勘違いした挙動─そういうものが表現として表出している。これらは〈屁〉そのものの指示としては〈屁〉の一語で足りてしまうわけなんだね。

 しかし、表現に潜む描写欲(視覚)は〈屁〉そのものを悩ましく追い求めるのである。
(6)いかづちのそれかあらぬか屁の音に臍を抱へてにぐる人々
  (雷の音と思ったのかどうか屁の音を聞くやいなや臍を抱えて逃げまどう人たちよ)平花庵東水

 轟音一発を雷に見立てて(かこつけて)いるが、まあこれは、耳からの音なので聴覚であり〈屁〉の視覚描写にまでは届かないものの、雷はピカゴロと光るのが見えるわけだから視覚性の萌芽を感じさせる。
(7)七へ八へ屁をこき井出の山吹のみのひとつだに出ぬぞきよけれ
  (七、八発も何発も屁をこいて井出の里の山吹の実のような色のうんこががちっとも出てこないのは清らかだなあ)四方赤良
 ※「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき」(後拾遺和歌集の中務卿兼明親王の歌)をもじっている作品

 これも、視覚描写には届かない〈屁〉であるが、兄弟分のうんこを連想させて何とか視覚の範囲に呼び込もうとしている感じ。しかし、まだ(6)も(7)も〈屁〉の姿をとらえていないね。
(8)湯の中の屁のたまたまに逢ふ夜半はみも浮くばかり嬉しかりけり
  (湯の中から浮かぶ玉になった屁に出逢う夜半おいらのまむしも浮き上がらんばかりに嬉しいぜ)読人不知

 いつから屁を屁玉と言うようになったか定かではないが、まあるく玉のようにイメージする視覚性が屁に付与されている。音成の想像では湯船につかる入浴の習慣の大衆化(江戸時代?)によって、屁は玉という視覚性を得たのであるよ。湯の中で〈屁〉をこけば玉(泡)になって浮き上がってくるんだからね。

 平賀源内は屁玉を視覚性によってこう批評している。「その音に三等あり、ブツと鳴るもの上品にして其形円(まる)く、ブウと鳴るもの中品にして其形飯櫃形(いびつなり)なり。スーとすかすもの下品にて細長くして少しひらたし」(『放屁論』の跋)と。なるほどねェ、見えない〈屁〉を見えるように語っているのである。言い得て妙。

 さて、このあたりまでが〈屁〉の視覚的なとらえ方の変遷の大筋であるが、次の狂歌に出会ったときに、音成はこれまでと違ったものを感じたね。
(9)蚊帳の穴すかしてぬける屁の烟は心太にや出でてゆくらん
  (蚊帳の穴を透かして抜ける屁のけむりはところてんみたいに出ていってるんだろかなあ)梅亭金鵞

 これは明治初期の作。梅亭金鵞は風刺雑誌『団々珍聞(まるまるちんぶん)』の主筆だった人らしいが、江戸の戯作者くずれだった。この狂歌の〈屁〉は「烟(けむ)」と「心太(ところてん)」に見立てられているね。見えない〈屁〉に視線が定まって姿をとらえ(ようとし)ているのである。

 このときの〈屁〉とは何だろうか。指摘されているのは「けむり(のようなもの)」であり、「ところてん(のようなもの)」である。ふわふわと漂い、やすやすと押し出される。見えない不定型な物体(気体)の認識がそこには語られ(ようとし)ているのだ。

 近代化の時代認識には自然科学という事物に対する認識の枠組みの変化があった。〈屁〉には直接関係ないが、西欧流の「瓦斯」という気体の認識が日本に流入すると(瓦斯燈が珍しがられたように)屁玉の〈屁〉もまた新たな視線を獲得して語られたのである。

 それが自然科学の分析的な認識には届かないにしても、気体としての姿を感じるほどには届いている。こういう地点に〈屁〉の描写が開けたわけなのだ。まあ、文学表現の〈屁〉にだって、こんな近代化の痕跡はあるんだよ〜。
posted by 楢須音成 at 00:43| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月15日

どこにある〈屁〉の居場所

 我々はどこで〈屁〉をこくべきなのだろうか。改めて考えてみたんだが、要するに、どこでしてもよいのである。糞尿のように便所みたいな指定場所はないんだよね。このことはこれまでも指摘してきた。(いや、当たり前のことを仰々しくいっているだけだが、何度でも言わせてもらおう)

 つまり我々の〈屁〉には、ここでこくべきとする明確な指定場所(誰からも後ろ指を指されない自由の場所)はないのだ。しかし、便所論の大家、李家正文は『厠考』(1932年、六文館刊)の中で便所は〈屁〉をするところでもあると例証をあげていた。

 まあ、あげてはいるんだが、根拠はいささか偶発的なのである。山東京伝の黄表紙『諺下司話説(ことわざげすのはなし)』の冒頭場面で「嫗(ばば)は厠へ屁を放りに」行っているとか、川柳に「屁を放りに雪隠へゆく賢婦人」というのがあるとか、若殿が便所で〈屁〉をこく江戸の小咄があるとか、文学表現の世界から例証を引っ張ってきている。若殿はこんな感じだ。
 若殿、便所に行つて、手も洗はずに、さつさと立去る。浄水番の小姓、何か気にさはつたものと心得、伺ひに出る。すると、若殿笑つて曰く「なあに大事ない、わしは屁を放りに参つたのぢや」

 こういう文学表現の世界はそれなりに現実世界をトレースしているだろう。あり得ない話ではないし、多分ある得るわけだが、いずれも〈屁〉をする指定場所が便所というわけではない。若殿の場合、なぜわざわざ便所に行ったのかわからないが、若殿が手を洗わずに便所を出たのは〈屁〉をこきに行ったからであると浄水番(という専門職)の小姓が判断しないところをもってしても、一般に便所は〈屁〉をする指定場所とはいえないのである。

 では、指定場所のない〈屁〉はどこでこくべきなのだろうか。それはどこでこいてもよいのである。指定がないのだからね。確かに、ここでこきなさいという指定が〈屁〉にはないのだ。〈屁〉には居場所がない。便所はどこでもよい場所の一つなのである。

 もっとも、指定場所がないことと(いつも)どこでこいてもよいことはイコールではないね。〈屁〉をどこでこいてもよいとは、〈屁〉をどこでもこいてはいけないという禁止と表裏になっている現実なのである。

 表→指定場所がないからどこでこいてもよい
 裏→指定場所はないのでどこでこくのもダメ

 李家は明治の時論家、大月隆が説く放屁の論も持ち出して便所が〈屁〉をこく場所であることを強調しているのだが、大月の説は次の通りだ。
第一法 雪隠に入りて発すべし。誰に遠慮も入らずして宜し。
第二法 成べく人の居らぬ処にて発すべし。然らざれば臭きにヘイ口す。
第三法 もし人中にて腹張て辛棒(しんぼう)なり難き時は、「御免」と断りて、而して後に発すべし。
 但し、無礼とか失敬とか云ふ人あらば、無理に堪ゆるは衛生に害ありと答ふべし、歴々のお嬢様、花嫁などが大勢の人中にて辛棒なり難く、此世に生れ出る屁をブーと生声(うぶごえ)を揚げさせず、優しい蚤も殺さぬ様な顔をして、無惨にもそつと踵(きびす)で押殺し、大膽(だいたん)にも何食はぬ顔をして、臭い臭いと大騒の末に、とうとう嗅付られて犯罪の顕れて一層顔を赤くする事あり。かかる時は寧ろ始めより断りて、遠慮なく瓦斯を発散すべし。
(『抱腹百話』1910年、文学同志会刊)

 大月が説く第一法が李家の根拠だ。そこには「誰に遠慮もいらない」とほかを排除する明快な理由も添えられている。指定場所とはまさにそういう場所なのだよね。

 しかし、〈屁〉の指定場所は便所ではないゆえに第二法、第三法と続けざるを得ない。「人のいないところ」「人がいたら断りを入れろ」と、次第に場所の指定は曖昧になる。

 こういう〈屁〉の場所の不明確さ、すなわち存在の指定場所がない(それを持ち得ない)のは不幸である。これは社会的不幸ともなるもので、例えば喫煙という行為においてもいえるわけでね。(喫煙では喫煙室が配慮されることもあるが、人がいようがいまいが、何を抗弁しても駆逐されかけている社会情勢である)

 かくして〈屁〉における指定場所は便所ではないわけだ。もちろん、便所でしてもよいけどね。何ら構わないし、むしろ望ましい。しかし、それでも〈屁〉の指定場所は便所ではないのである。

 この指定場所が認知される(設置される)ためには社会的な合意がいるね。糞尿は好きも嫌いもない人間共通のグローバルな場所を得た。便所さ。そのついでに〈屁〉もご相伴にあずかって指定を受けてもよさそうなのに、そうはならない。ここに〈屁〉というものの独特の存在があるのだ。

 糞尿の明快な物体性に対して〈屁〉のそれは希薄であるため、我々は指定場所を確定しにくい。目に見えない〈屁〉の物体性はもっぱら音とニオイで現象しつつ拡散するため、場所や施設をわざわざ設定することが虚しいのだ。大月の放屁の論をふまえて、さらに次のような理由も考えてよいだろう。

(1)どこでもこきたくなる
(2)こいたところで誤魔化しがきく(こともある)
(3)音やニオイを我慢できないこともない
(4)それは放置することで無害化できる
(5)だから一人でこけばOK

 場所ではなく対策(マナー)へと〈屁〉は追いやられていくのだが、こうして〈屁〉の居場所は屁のごとくなりぬ。
ラベル: 居場所 指定 場所
posted by 楢須音成 at 01:24| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月19日

屁音の原理を求めて

 何も〈屁〉ばかりでなく、ゲップとかイビキとかも音がともなう身体の生理現象である。しかし、この屁音というやつは、いったん耳にすると我々に格別に心的動揺を与えるものだ。それが自分の〈屁〉である場合はもちろんだが、たとえ他人の〈屁〉であろうともさ。

 まあ、世間には屁音がしたところで平気の平左の人もいないではないが、一般に〈屁〉が随伴させる音にはさまざまな人間模様が宿る。川柳にも一発の屁音がもたらす心的動揺が表現されている。

 羞恥→屁を放つた嫁は酒でものんだやう
 警戒→客の屁へ下女は四角に身がんまへ
 安堵→姑の屁を放つたので気がほどけ
 喜悦→嫁の屁をきゝたるものは長者なり
 怒り→溜息を下からついてしかられる
 濡衣→下女と屁の対決をする居候

 人生が老境に達すると〈屁〉は身体の老化に応じて変化を見せてくるようだ。老境の〈屁〉を描く川柳。

 無頓着→汝等は何を笑ふと隠居の屁

 これはもはや〈屁〉の勢いも衰え、まわりが笑ってもいっこうに気にしない無頓着の心境だろうかねェ。しかし、その無頓着の底に恥じらいがないわけでもないと思うけどね。老人の立場で書いたエッセイがあった。筆者は親子四代の痔の専門医。ゆえに音を放つ肛門への考察や愛着が混じる。
 オナラの音が大きいのは、ガスが多く噴出する勢いで、十分締まった肛門括約筋および肛門粘膜を振動させるからです。音が大きければおおきいほど元気な証拠と言えるでしょう。
(中略)
 肛門科の専門医であった二代目の父は、年をとってからオナラをプリプリとしてしまうようになりました。ガスが肛門をすり抜けるとき、括約筋の振動によって愉快な音を出すのです。年をとると筋のしまりが緩むので、プリプリという情けない音が出ます。孫たちが「嫌なおじいちゃん!」とはやし立てていましたが、老化ばかりは誰にも防げない問題ですからしょうがありません。逆に言えば、ガス漏れがあるようになると、老人の仲間入りだといえるのではないでしょうか。私自身も当時の父の年になってしまいました。
 やはり親子だけあって父には顔も体も似ていると思いますが、オナラに関しては、普段からお尻に筋を締めて漏らさないようにしています。父のように緩んでしまうこともありますが、外肛門括約筋という、オナラが勝手に出ないように締めている筋肉の力はそうとう強力で、その神経支配の絶妙さは、実に神秘的です。自分の外肛門括約筋にはまだまだ頑張ってもらいたいものです。
(鮫島潤『「痔」ひと筋80年』2005年、小学館文庫)

 ところで、この屁音そのものについて考察した本はあまりないのだが、作家で音楽家でもある筆者のエッセイを見つけた。音に対するこだわりは細かい観察になる。
 オナラの音にはどうして様々な種類があるのだろう。一般的には「ブーッ」という音や「プーッ」というかわいいのが知られているが、中には「ブホッ」や「バッ」というような破裂音、「ピーーッ」と警笛のように尾を引くものもある。
 楽器がいくつもそろっているのならこれは理解できる。しかしオナラの場合、楽器はあくまでひとつなのだ。誰もが一個は持っている、でも誰もが一個しか持てない尻の穴、すなわち肛門である。この肛門だけを頼りに人類は永劫の歴史の中で様々な音色を作り出してきた。(そんな大げさなもんかよ)
 疑問に思えば調べてみるしかない。僕はある放送局のレコードセンターに入れてもらい、そこで「オナラの音」と記された効果音を聴きまくった。全部で二十種類ぐらいあったろうか。ポピュラーな「ブーッ」や「プーッ」に混じり、「ブッ、ブッ、ブッ」と切れながら連続していくもの。「スーッ」と空気が漏れるような音の後で「パピッ」とシャボン玉が割れるようなかすかな破裂音が付いているもの。
 ほほーっ、本当にいろいろあるのだなあと思った。僕が想像するに「ブッ、ブッ、ブッ」はオナラを我慢しているときに急に走り出した人に違いない。子供の頃、運動会で実際にそういう人を見たことがあるのだ。あれはひどかった。おそらく足が交差する度に肛門が開いたり閉じたり開いたり閉じたりしたのであろう。楽譜で言うと音符に当たる部分が閉じた肛門の時、休符に当たる部分が開いた肛門の時である。「スーッ、パピッ」にも同じことが言える。スーッは空気が漏れているのだから肛門は開いている。ああ、大丈夫ね、あたし大丈夫ね、肛門が開いているから音は聞こえないわ。このまま平気な顔してオナラしちゃいましょう。彼女の場合この緩みがいけなかった。すかしっぺだから大丈夫だと安心した瞬間に肛門は閉じてしまったのである。それが「パピッ」。
(中略)
 なーんだ、そうだったのかと急に気持ちが落ち込んでしまった。レコードセンターに置かれていたオナラの音は全部人工的に作り出されたものだったのだ。そういうふうに考えて聴き直してみると、どれもこれもわざとらしい。手の甲か何かにくちびるをあてがって「プーッ」と鳴らした音。あれで一枚のレコードを作り出してしまったのだ。
 しかしこれがヒントになった。人工的にオナラの音を作り出されるなら、まずは音そのものの仕組みについて考えるべきである。
(ドリアン・T・助川『言葉ノート』1999年、マガジンハウス)

 ここでは〈屁〉の破裂音が人造可能という事実と、人造されたものが(どこか)嘘くさいということが述べられている。しかし、人造可能であるという法則性は次のような心理の考察につながってもいく。
 音の正体は振動波だ。何かが振動するとその揺れが空気を伝わって僕らの耳に入る。高い音は細かい振動波。低い音はゆったりとした振動波である。だから鉄のような密度の高い物質を叩くと、振幅の細かい振動波が生まれて「キーン」という高い音が生まれる。逆に木材のような密度の低い物質を叩くと、振幅の太い振動波が生まれて「ボコッ」と低く鳴り響くのだ。ギターの弦もまったく同じ原理。細い弦は細かく振動するから高い音を出すのだし、太い弦は大らかに振動するから低い音を出すのだ。
 こうやって考えてみると、オナラの音には心理学上の重大な秘密が隠されている。
 オナラの音が高い時、振動波が生まれる肛門は密度の濃い状況にある。これは言い換えるならばどういう時か。すなわち緊張している時である。昔から体育の先生なんかが言うでしょう。尻の穴を閉めて頑張れって。そういう状況の時、人間は高音のオナラを発するのだ。逆にオナラの音が低い時、その人はまったく緊張していない状況にあると言える。肛門がゆるんでいるから振動波も低い音が出るのだ。
 これはものすごい発見だ。付き合っている人が不覚にもオナラをしたら、その音をよーく分析してみよう。「ピーッ」という高い音が相手から出るようであれば、その人はまだ心を許していない。緊張しながら付き合っているのだ。「ブボッ」という低音なら、相手は心を許している。結婚の申し込みをしてもおそらくOKがいただけるであろう。

 なるほどねェ、そうかもしれない。さらに微妙な屁音を聴き分け、詳細なデータを積み重ねれば、理論的な分析ができるかもしれないな。我々に必要なのは十分な観察と分析の言葉(観点)を手にすることだが──はて、どうだろうかな。
ラベル: 屁音
posted by 楢須音成 at 01:28| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月25日

冗談一つ屁の一発

 その国では屁は臭いなんて言ってはならない。確かに屁はどこから嗅いでも臭いんだけど「ちょっと、あんたの屁、臭いわよ」とか言ってはならないのである。なぜならば、屁は誰でもするんだからさ。「誰でも臭い=誰も臭くない」という黙殺の共犯関係がその国の不文律になっているわけだ。

 そこで、屁はにおわないという振る舞いがへチケットなのだが、そもそも屁は臭いんでありまして、学問的には屁は臭いということを言わねばならない。屁の臭さについては、屁(の臭さ)を金持の病的退廃と否定するヘクサーリンや、屁(の臭くなさ)を貧乏人の健全性と肯定するウヘェブーという学者先生が論じていた。どちらにしても屁は臭〜いのである。

 さて、問題の発生はこうだった。
 ヤナギベ大臣はセン国王の信任厚く弁舌さわやかな政治家の一人なのだが、お尻の方はスカ屁が得意のだらしなさ。それでもブイブイお尻を鳴らすセン国王とは違って礼儀正しい人と評判だったのだ。スカ屁の主がだれであるか知らない限りにおいてね。

 そのヤナギベ大臣が酒亭・国海で一発やらかしたのである。身内の宴会だからヘチケットも何もないわけで、ヤナギベ大臣「会議の退屈や居眠りを紛らす方法は二つ。一つは臭〜いスカ屁を秘かに放って知らん顔をすること。そしてもう一つは、ニオイが漂ったら一番気の弱そうな奴をジ〜ッと見つめること。この二つがあればいいんです。これでどれだけ切り抜けたことか」と笑い飛ばした。もちろん冗談のつもり。「これは、嫌な質問をしたり、反対意見を言うヤツに使うと効果的なんです」

 運の悪いことに宴会の隣の部屋では、反対意見ばかり言っているイシベ大臣が一人、敗北の苦い杯を傾けつつ、器用に太い指を鼻に突っ込んでほじりつつ、ジ〜ッと聞き耳を立てていたのである。ホントにたまたまなんだけどさ。

 翌日、反国王派の怪文書が出回った。
 へチケットをわきまえぬじんぶつがだいじんとはぼうこくのきわみなり。ヤナギベだいじんはこっかいにおいて「ぎじょうのくさきスカべはわれなり」とこうげんせり。ぎじょうにおけるへはきんしならずや。あってはならぬものならん。しかるにヤナギベだいじんはスカべをこきまくりぬ。しかもひとにてんかするをもってしんしなぎろんからのがれぬ。うそつきのじょうしゅうはんなり。センこくおうのにんめいせきにんはありやなしや。カンこくおうだいりのれんたいせきにんはありやなしや。あるなり。あるなり。なくてどうすりゃあ、あ…

 こんな調子で、ヤナギベ大臣の発言が暴露されていたのである。そこには屁が臭いと公然と言ってしまった罪があり、さらに自分の屁を免れようとしていた罪がある。自分の屁の臭さに何ら責任を持たないどころか、都合よく人に転嫁する行為が大臣にあるまじき振る舞いだった。

 頭でっかちのイシベ大臣は理論派で、かつてヘクサーリンやウヘェブーの学説を引いて屁の臭さを論じていたことがあった。だから理論レベルで屁が臭いことに関しては問題がなかった。またそれは当然であると考えていた。しかし、ヤナギベには我慢がならなかった。俺をにらみつけやがってよォ〜濡れ衣を着せおってェ〜。その場における振る舞いや言動は理論とは別の評価がなされる。それはその場の参加者との関係性(約束ごと)や客観性(中立への努力の姿勢)において評価されるのである。

 つまり、相手に屁が臭いと中傷されたのならともかく、その国では、相手の屁が臭いからといって、「アンタは屁が臭い」とは(先に)言ってはならない関係性や客観性に縛られているのである。

 鼻くそをほじっていたイシベ大臣は怒ったさ。そして、反国王派のヘンダイ新聞の記者にヤナギベ大臣の「冗談」を「妄言」としてほのめかしたのだ。正義を気取った腹黒いリークである。右顧左眄するのにKYなアカベ新聞やブーニチ新聞やズサンベ新聞ではなく、ヘンダイ新聞であるところがイシベのねらいで、ヘンダイは徹底的な反国王派だったのである。ヘンダイは反国王のためなら何でもありの論陣が得意だった。

 ヘンダイ記者は編集長が記事化を時期尚早と躊躇するや、これを怪文書にして巷にバラまいてしまった。王宮における大臣たちの侃々諤々の論難の果てに、ついにヤナギベ大臣の罷免が論議される。ヤナギベ危うし!

 ヤナギベ大臣は「イシベ大臣もどこかの講演会で屁は臭いと言いました。私より早く言いました。言いました」と防戦したのだが、議場におけるスカ屁の責任転嫁が仇となり、カン国王代理の呼び出しを受けて辞任へと追い込まれたのである。してやったりのイシベ大臣にんまり。

 ──冗談一つでこの世は闇よ。その冗談が本当であればあるほど闇は深〜い。屁の闇を知らずして冗談を言うなかれ。あんた〜。
ラベル: 冗談
posted by 楢須音成 at 02:45| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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