2010年10月03日

ストレスで屁が出る道理

 このところ何だか異様に〈屁〉が出る感じがしていたのだが、少々気になり出した。時々そういうことってあるじゃないですか。〈屁〉が病的に出た人といえば、あの大隈重信が知られている。以前にも引用したが、福富織部の『屁』はそのエピソードに触れている。
 大隈侯は、生前盛んに屁を放つた。病中は殊に激しかった。人の前で屁を放つたからとて、それをどうかう思ふやうな大隈侯ではないが、それでも流石に氣になつたと見えて看護婦に命じて屁の数を一つ一つ勘定させて、一日の統計まで取らせてゐた。その統計は聞き洩したが、兎に角夥しい數に上つていた。屁が全く出ないと云ふことも一の膓障害であるが、大隈侯のようにブウブウ出過ぎることも病である。

 織部は〈屁〉が出過ぎる原因を次のようにまとめていた。(参照
 神経性放屁=(ポンプ的吸引で)やたら出る
 麻痺性放屁=(肛門の疾患で)無意識に出る

 大隈侯は神経性放屁であったというのが織部の指摘であるが、直腸内に肛門から吸引された空気が放屁として漏れ出て来たのだとする。それは口から飲み込んだ空気がゲップとなって出てくるの同様だと、ローゼンハイムという人の説を紹介している。

 そもそも〈屁〉の原因としては(1)口から飲み込んだ空気(2)肛門から吸引した空気(3)腸内で発生したガス──といったものだ。大隈侯は(2)にあたるわけであるが、この肛門からの吸引は曲屁を演じる「おなら男」のワザであった。(そんな馬鹿なことはないという人はこちらを参照)

 大隈侯が「おなら男」と違うのは、神経性放屁という点である。この「神経性」というのは、現代的にいうとストレス性の精神的原因による無意識の吸引なのだろう。これに対して「おなら男」は意識的にポンプのように空気を吸引しているわけである。

 しかし、音成の場合には、どう観察しても肛門から空気を吸引している気配はない。そこで、急な現象が持続的に続くのは、食生活が悪くて腸内に異常が発生しているか、あるいは胃腸そのものの病気ではないかと、つまりは(3)を疑ったわけである。

 しかし、至って健康(胃腸に何の自覚もない状態)の感じである。活発な〈屁〉は健康な証拠──と喜んでいいのか。念のため調べてみると。

 ありました。その名も「空気嚥下症」または「呑気症」というもの。これか。原因の(1)に相当するのだが、はて〈屁〉のことなど一言も書いてないのだが。
「空気嚥下症(くうきえんげしょう)とは、空気を大量に飲み込んでしまうことによって、げっぷがたくさん出たり腹部膨満感を覚える状態のことである。呑気症(どんきしょう)とも呼ばれる」
「精神的なストレスが主な原因である。また、食事の際に食物と一緒に空気を飲み込んでしまい症状が出る場合もある」
「空気嚥下症では次のような症状が現れる。
* げっぷ
* 腹部膨満感
* 上腹部の不快感、吐き気
唾液を飲み込むことによって、同時に空気も飲み込んでしまい、これらの症状が増強される」
(以上、ウィキペディア)

 調べてみると、空気嚥下症と〈屁〉との関連性についてはネット上に事例がボロボロと出てくるのだ。つまり、口から飲み込んだ空気は〈屁〉にもなるのである。ウィキペディアの記述には〈屁〉を入れなくてはなるまいよ。

 かくして神経性となる〈屁〉の原因は二通りがあることになる。
(1)口から飲み込んだ空気=神経性の〈屁〉の場合がある
(2)肛門から吸引した空気=神経性の〈屁〉の場合がある

 こう見てくると、むしろ大隈侯も空気嚥下症ではなかったかと思えるねェ。なぜなら、肛門からの吸引よりもありがちな現象ではないだろうか。

 音成の場合、ストレスと言われるとそういう感じはするんだね。無意識に歯を噛み締め唾液を飲んだり、よく噛まずに食べたり、コーヒーのおかわりを繰り返したり──そんなこんなで空気を飲み込んでいるのが増えているではないのか。そういう緊張した動作になっているのではないのか。そう思ってみると、確かに最近ちょっと…。
「通常は一定時間続くと解消されるが、症状が出やすい体質もあるので、念のために腹部X線や内視鏡、CT、超音波などで消化器の検査をし、消化器官の疾患を否定する。治療には、緊張や不安などのストレスを取り除くことが最重要である。薬物療法では抗不安薬が使用される」
(ウィキペディア)

 まあ、芋とか豆とか酒とか脂っぽいものとか、腸で〈屁〉を誘発するような食べ物もダメなんだろうけどね。

 ──嫁に〈屁〉が多いのはストレスのせいみたいだと言ってみた。「どこのストレスよ」と、まるで信じとらんのだわ。


posted by 楢須音成 at 17:26| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月11日

そのとき〈屁〉は戦闘状態に入れり

 ニオイというものは音もなく忍び寄るわけで、まるで簡単に越境して攻撃してくる。いや、これは戦闘状態に入った〈屁〉の話である。

 土地争いはコキベ国では日常茶飯事だった。その国の人は平気で他人の土地を自分のものだと言い張るのよ。そう言わなければ逆に土地を奪われると信じ込んでいるからさ。隣家の所有地との境界の目立つところに木の杭を打ち込んでいるんだが、敷地に隙間なく打ち込んでいるのではないから、境界は双方ともに疑心暗鬼を呼び覚ましているんだよね。

 同じ国の人間同士でこうなんだから、これが隣国と接する土地を持つ者は夜も眠れんばかり。番頭どもが夜を徹して〈屁〉を鳴らし警戒するわけよ。夜陰に乗じてこきまくっているのだが、これが隣国には迷惑至極の悪臭なんだ。

 さて、一つの隣国にセンノスコベ国というのがあったんだが、どちらかといえば温和な国柄だったので、コキベ国からのニオイの侵犯にはやんわりと強制送風をもって対処していたのよ。

 その両国の国境で緊迫しているところがあって、そこは平気で音高くラッパ屁をこきまくるセンチョ家(コキベ国)と、もっぱら音無しのスコ屁を楽しむセンコク家(センノスコベ国)の長年の争いの地帯になっていた。争いを複雑にしているのは、両家が属する国家が違うことに加え、センチョ家がセンコク家の土地の半分を、証明する古文書もないのに「もともと自分の土地である」と所有権を主張しているからなのだった。

 センチョ家の土地は盗人住みつく無残酷烈の不毛地帯。隣り合うセンコク家の土地は美女踊る山紫水明の豊穣地帯。欲しがるのもわからんではないけどね。それにしても民主政治の時代に、センチョ家の脂ぎる欲望の〈屁〉の強引さには驚くが、しかし境界にはセンコク家の防衛の杭が打たれており、何しろ国家間の問題なのでうかつには手出しができないわけである。

 その日はセンチョ家のお調子者のドラ息子、アカンが汚いお尻を境界を越えて突き出し、思い切り〈屁〉をこいたので、怒ったセンコク家の番頭がパンツをむしり取ってしまったのである。あとから考えると、これはどうも挑発行為だったのであるが、さあ大変だ。ここぞとセンチョ家がパンツを返せ返せと騒ぎ出したのさ。

 センチョ家のアカンの美人姉、オカンは気が強く怒りっぽい。点火すると自らを怒りに駆り立て、目を剥いて主張を炎のように燃え立たせる。そういうタイプ。そのオカンが攻撃に立ったのよ。その昂然とした声を一聴すれば、事実も妄想も全く区別していないことがわかるのだった。

 そこは自分たちの家の土地であり(事実的妄想)、パンツを奪われたということ(妄想的事実)がオカンの内なる短絡の論理になっている。しかし、こういうことを美人のアカンが堂々と主張すると、第三国はコロッと信じてしまうさ。

 慌てたのはセンコク家である。むしり取ったパンツなど即座に投げ返せばいいのに、律儀な番頭ときたらプンプンにおうパンツを持ち帰り、それがあんまり臭いんで洗濯してしまったのである。奪ったあげくに断りもなしに洗濯するなど余計なお世話の人権侵害と、センチョ家のオカンは勇ましく主張し、洗う前のパンツの返還を求めたので、(そんなことはできないし)センコク家はパンツの処理を巡って混乱した。

 センコク家の当主のイラカンは、センチョ家のオカンにかつて秘かに恋していたこともあって、どうも歯切れが悪い。「お申し出は粛々と判断する」と、冷静を装って思案投首の逃げ腰。ところが、番頭以下の使用人どもはどこまでも攻撃的なセンチョ家の態度にいきり立ち、「何をいうか、このクソ成金が」と、いまにも越境して必殺のスコ屁をかまさんと激していた。

 センコク家とセンチョ家の因縁は両家の先祖の経済格差から始まっている。民主政治が確立する以前には、農業経営が代々セイコーした金持ちセンコク家がビンボーのどん底が続いたセンチョ家をいじめてきたのである。センコク家の番頭どもは越境するわ、くっさい〈屁〉をこくわ、することなすことちょっかいを出すわして歴史的に嫌われてきた。それがまあ、センチョ家がレアアース鉱石を掘り当て一気に成金にのぼりつめるや形勢逆転、それまでの炎のルサンチマンもあって、今度はセンチョ家の番頭どもが暴れ始めたのである。

 乱暴に洗って女物みたいに縮んでしまったアカンのパンツは小壷に封印して便所の戸棚にしまい込まれていたが、センコク家の使用人たちは返却するなんてとんでもない、ガラスケースに入れて一般公開し天下に恥をさらすべしと主張した。これはメンツを重んじるセンチョ家への当てつけだよ。

 そうこうしているうちに季節風の向きが、センチョ家からセンコク家へと流れるように変わったのだ。しめしめ〜、ここぞとセンチョ家は全員が〈屁〉をこき始めた。先祖から伝わるセンチョ家のラッパ屁は高らかに鳴り響き、猛烈な臭気を放ち始めたのである。

 ──これはたまらんわ。
 
 センチョ家は糞までひり出しての臭気攻撃へと移る。アカンが攻撃の先頭に立ち、センコク家の番頭どもが土足で踏み込んできた過去の日々の謝罪を求め、ついには凛々しい美女のオカンが尻を振って土地を返せと堂々たる主張を始める。いやはや、とんでもない事態へと急転していった。

 驚いたことにこの期に及んで、右顧左眄していたセンコク家のイラカンは何を悟ったのか、旅行社の誘いに乗ってスコ屁を一発こくや、黒幕の父君、センコク爺に決着を丸投げすると、頭を丸め白装束で諸国行脚のお遍路の旅に出てしまったのだよ。オカンと争いたくなかったのだ。あるいはオカンへの一種の(愛の)サインのつもりだったか。

 センコク爺は背後霊みたいな人物だった。何かと頼りないイラカンにスコ屁のように寄り添ってアドバイス。この人、かつてセンチョ家が貧困に低迷し羽振りの悪かった時分には、平気で越境して番頭と一緒になって無理やりセンチョ家に出入りし、偉そうに干渉していた過去があるのだが、糖尿病からくる脳溢血で倒れてからは「屁武装中立」の「屁〜和教」に回心し、三男のイラカンを家督の後継者に決めて背後に引っ込んでいたのである。

 ここはセンコク爺の裁きを待たねばならぬ。センコク爺は番頭どもを集めて力説した。──落ち着け、落ち着くんだ、番頭ども。もはや我々のスコ屁は臭くないのだ。平和の屁なのだ。な、な、そうだろが。パンツなんぞは返してしまえ〜。

 主人にいわれればイヤとはいえぬ番頭だ。泣く泣くパンツの小壷をセンチョ家へと放り投げると、オカンの頭にコツンとあたり、蓋が開いて縮んだパンツが飛び出した。幸い洗濯したパンツだったので、オカンの鼻先にぶら下がっても全然においの問題はなかったのに、驚いたオカンが「くさ〜」と絶叫。それを合図に興奮したセンチョ家がセンコク家へ土足でなだれ込む。あいや〜、ついに両家は戦闘状態に入れり。
ラベル: 戦闘 争い 国境
posted by 楢須音成 at 07:53| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月15日

〈屁〉を燃やす技法

 燃屁と書いて「ねんぴ」と読みたいが、要するに屁の燃焼のことだ。燃える〈屁〉の歴史的意義(参照)については前に考えてみたことがあるけどね。この燃焼の様子は YouTube などの動画サイトでも見ることができる。それを実験してみる物好きは昔もいたし、いまなお後を絶たないわけである。しかしまあ、昔はお手軽にこんな変態じみた映像が流れる仕組みはなかったよねェ。

 代わりといってはなんだが、燃屁の様子は噂話や文章になって出回っていた。そういう話を知れば、追体験で実験する者もあらわれる。音成が燃屁を目撃したのは学生のころ、家庭教師で教えていた中学生がやってくれた実演だったけどね。コツも教えてくれた。その子はあのワザをどこで仕込んだのか。

 ずっと後になって、そのとき聞いたのと同じコツを書いた本に出会った。高校の化学の先生をしていた藤田保が書いた『おなら粋門記』(1964年、冬樹新書)である。ちょっと長いんだが、その一節をネットに流れる映像に対抗して紹介してみたい。場面は藤田が理科の会合でオナラに造詣の深い先生に出会って質問を連発するところである。
「そうですか、ではもちろん『屁焼き』の実習単位は終えられたでしょうね」
「それはぼくの得意中の得意とするところで、ぼくの下宿でいままでになんど実験したかは忘れましたが、数十回ぐらいになります」
「おどろきましたね。一度だけ燃やしたことがあるという人は、チョイチョイ聞きますが、あなたのような熟練工にははじめておめにかかりました。では、いったいどんな要領で実験されましたか。ぼくはいつも風呂のなかで取って燃やすことにしておりますが」
「ぼくも前にはそうしたこともありましたが、あの方法で取ったやつには、かんじんのニオイが消え去っているので、あまりおもしろくないですよ。やはり直接に燃やしたヤツが、なにより最高の風情があります」
「へえ! そんなものですかね。ぼくはわざわざニオイをのぞいてやったのですが、まずいですかねえ」
「知りませんか? あの燃えたあとのスバラシイ香りを。一種独特のえもいえない、ムードがありますよ。なんといいましょうか、ひとくちには表現しかねますが、妖気漲(みなぎり)り幽香霞(かす)み、しかも神経をクスグルような味わい、ほんとうにウットリしますよ。あの醍醐味を知らずして屁を語ることはできません」
「先生のご造詣のふかさに、まったくおそれいりました。燃えたにおいはそんなにいいものですか。ではボクの実験は気のぬけたラムネみたいなものですね。よい勉強になりました。今後は、よく気をつけて実験してみましょう。ところで、におい以外ではどんな実験をされましたか。たとえば燃やす要領とかなんとか?」
「まず、部屋の電灯を消すのです」
「へえ! ムードをつくるためですね」
「いやいや、なにしろ燃えるときの色を見きわめねばならないので、明るくては、ハッキリしません。だから暗くするのです」
「なるほど、凝っておりますね。そこまで気がつくとはたいしたものです。さすが……」
「ふつうには、自分自身で実験をするのですが、ときにはモデルをつかうこともあります。なによりだいじなことは火をつけるタイミングですよ。はやすぎても、おそすぎてもいけないのですよ。プーッとでた瞬間に火を持っていくことがかんじんです」
「吹き消されるようなことはありませんか」
「よく吹き消されますよ。ちょうど口でマッチの火を吹き消すように、つよいヤツがでたら、ひとたまりもありません。一度吹き消されたら、あとしばらくは、ガスのたまるのを待たねばなりません。
 すぐまた実験とはいきませんのでたいへん不便です。しかし火がうまくついたときにはみごとなものです。そのときそのときによってちがいますが、たいてい十センチから、長くて二十センチぐらいの長さでいきおいのよい火柱が横に流れますよ。
 美しいなかに、力があります。これを大きくしたら、世にいう火焔放射器になりはしないかと思います」
「あれは戦争の武器だからいけません。屁はヘー和のブー器としてつかうべきです。それでどんな色に光りますか。ぼくの風呂の実験ではいつも淡青色ばかりですが」
「色はいろいろあります。肉類、豆類、芋類といろんなものをたべて、そのときの炎の色を調べてみたのですが、たいていの場合は青味系統が多いのですが、サツマ芋をたくさんたべたときのオナラの色は、すこし赤味をおびています
 赤芋でなくてふつうの黄色い芋でも、赤い炎がでるのがふしぎですよ」
「よく研究されましたね。
 それをスペクトル分析でもしたら、なにか、おもしろい結果がでるかもしれませんなあ。屁は音とニオイのみならず、色まで見えるとすれば、三拍子そろっているので、視聴覚教材の材料になりますね」
「教育とは関係ないでしょう。で、ぼくはちかいうちに屁の写真をとってみようと思っております。とったら一枚送りましょうか」
「ぜひほしいものですね。ところで話はもとにもどりますが、火をつけるには、やはりマッチですか」
「マッチがふつうですが、ライターでもかまわないでしょう。しかし電気コンロだけはやめてください。というのは、先日パンツをはいたまま電気コンロのうえで、燃やしてみたのですがパンツが黒くコゲましたよ。みなで話したのですが、はたして屁のためにコゲたのやら、電気コンロの熱でコゲたのやら、わからないのです。けっきょく、いまでもはっきりしません」
「パンツのうえから燃やすこともあるのですか?」
「そうです。パンツの外で火をつけますと、これがまた、風流なものでして、なんといいますか、例の石油ストーブのあの金網からもれる炎ですね、ちょうどあのように、布目をこしてでたガスは、フンワリとまるくなって燃えますよ。火の玉というか、屁の玉というかそんなものです。布の内側は燃えないで、火をつけた、外側のガスだけが燃えるから、愉快じゃありませんか。それが形をかえながら上方に移動するさまは、また格別に情緒ゆたかなミモノです」
「先生の観察力と、実行力と芸術性にはまったく頭があがりません。ぼくは『屁学』というオナラの小冊を持っております。ケチな本で、とても先生にお見せするようなシロモノではありませんが、きょうの記念にさしあげましょう。あなたのほうが、実践屁学の大先輩ということになりますので、今後ともよろしくご指導のほどをお願いいたします。またよい話がありましたら聞かせてください」
 さてもさても、思わぬところにかくれた伏兵、いやいやかくれた伏将がいたものだ。まったくよろこばしいかぎりである。
 この珍士は近く「人間国宝」に推薦せねばなるまい。その後ぼくはズボンのそとから、布目ごしの屁焼きの実験をこころみたが、爆発的に燃えておどろいた。しかし、ズボンはこげていなかった。

 とまあ、燃屁実験の技法が開陳されている。ポイントは布目越し(ズボン越し)に点火すること。火は上にのぼるので屁以外には引火しないよう(肛門をできるだけ上に向ける)姿勢も大事。裸で点火するとやけどする危険が高い。もっとも、布目越しであっても熱くはなるので注意は必要だ。いずれにしても火を使うので周囲の環境には十分注意をしないといけない。屁の爆発で火事になるのはシャレにならないよねェ。

 ただし、屁は燃える人と燃えない人がいる。腸内にメタンが発生する(メタン発生菌がいる)人だけが燃えるのである。これは家族感染があるらしく、燃える家系と燃えない家系があるらしい。
ラベル: 燃屁 メタン
posted by 楢須音成 at 01:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月19日

〈屁〉を連想するということ

 昔カラオケで「バラ色の雲」という60年代のグループサウンズの歌が流れたとき、ビデオの画面には輝く雲の下の土手を、男が「思い出」と大書したプラカードを掲げて歩いている姿が映っていた。大笑いしたよ。ちなみに歌の歌詞はこうだ。
バラ色の雲と 思い出をだいて
僕は行きたい 君の故郷へ
野菊をかざった 小舟の陰で
くちづけ交した 海辺の町へ
  (以下略)

 思い出をプラカードの文字にしたところがこの映像のミソだが、これでは何の思い出も喚起しない(つまり連想を省略している)そこのところが何とも可笑しかったのだ。いやまあ、この歌は〈屁〉とは何の関係もないんだけどね。

 ところで、こんな江戸の小咄がある。
「馴染の女郎に、小袖を仕てやらうと思ふが、何ぞよい趣向はあるまいか」「あるともあるとも。腰から下へ、歌かるたを散らしにしたら、類があるまい」「これは至極」と早速あつらへ、紙付きにできあがってくる。急ぎ仕立てみたところが、丁度ゐしき(お尻)の所に『はなぞ昔の香に匂ひける』また上前の帯の下(股のあたり)に『人こそ知らね乾くまもなし』「これはあんまりだ」
(『さしまくら』1773年)

 馴染みの女郎に小袖を仕立ててやるやりとりだ。小袖は色や柄が命だ。才気ある意匠が凝らされていた当時の高級服である。その趣向に歌かるたを散らした柄模様にしたのである。できあがってきた小袖を見ると、かるたの文字がハッキリ読める。

 お尻のあたり→「はなぞ昔の香に匂ひける」
 股のあたり→「人こそ知らね乾くまもなし」

 おいおい、これではあんまりだ、というのが話のオチ。確かにこれでは連想が露骨すぎるよねェ。プラカードと小袖とではこうも違うもの。何が違うって、お膳立てが根本から違うわけさ。

 プラカード→言葉の連想が路頭に迷う可笑し味
 小袖→言葉の連想が目標物を捕捉する可笑し味

 連想とは、きっかけになる言葉や事柄や事物があり、それに関連して次なる言葉や事柄や事物を思い浮かべることで発生する。プラカードと小袖のエピソードでは、まずは言葉が提示され、どちらも可笑し味を喚起しているのだが、プラカードの方は言葉で連想するものが文字「思い出」のままで完結してしまった。小袖の方は(文字を超えて)意味するものを強く(つまり具体的に)連想して当事者は狼狽している。

 ここで少し単純化して、プラカードに〈屁〉と書き、お尻のあたりにも〈屁〉と字柄を書くことにしてみよう。この情景を眺めれば、同じ〈屁〉の文字が発散している可笑し味の方向性の違いがわかるではないか。

 プラカードの〈屁〉とは、一般化・不特定多数化した〈屁〉であり、プラカードを持つ人の(アピールではあっても)固有の〈屁〉というわけではない。一方の小袖のお尻の〈屁〉は、固有の人の具体的な場所を指定して〈屁〉だと主張しており、その人自身の固有の〈屁〉を連想してしまうのである。

 指示性が抽象(匿名)的な可笑し味→プラカード
 指示性が具体(実名)的な可笑し味→小袖

 こう見てくると、我々の〈屁〉という言葉(あるいは主張)は、置かれる場所によって意味する方向(連想)が異なってくるのがわかる。こんなことは当たり前といえば当たり前だが、プラカードみたいなことばかり言ってる奴もいれば、小袖みたいなことばかり言ってる奴がいるんだ。

 まあつまり、こいた〈屁〉の立場から言えば、人前で〈屁〉をこいて他人事みたいに平気な「プラカード人間」がいるのであるが、そうではなくて、〈屁〉をこく人というものはみな「小袖人間」なんだと知ってほしい〜。
posted by 楢須音成 at 01:37| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月24日

寝てこく〈屁〉の戸惑い

 我々が〈屁〉を自分に関係ないもののように語りたいなら「人間とは屁をこくものだ」というような一般論にしてしまえばよい。しかし、もともと〈屁〉は固有のものだ。どうあがいても自分もこくことには変わりないね。スキあらば〈屁〉はひたすら個人を指し示す。だからこそ〈屁〉には関係ない、小袖に描いた「歌かるた」の文句でさえも、時と場合によっては意味するところが個人の〈屁〉に向かうのである。

 まるで身体内に放たれた凶暴な猛獣のように個人を付け狙っている〈屁〉は、まったく意図しない咆哮を現象させる(ことがある)ゆえに問題になる。まあ、我ながらこんな大袈裟な物言いをしてしまうのも、これまで腹立たしい思いをさせられてきたことがあるわけよ。

 一般に〈屁〉を抑止しようとする意識は女性の方が強いと思われるが、もちろん女性は〈屁〉を(男性よりも)こいてはならぬというわけではない。男性もこくのだが、女性の抑止が強い(ようだなあ)というのである。ブリブリと平気で〈屁〉をこく女性には(過去に一度くらいしか)お目にかかったことはない。男性にはよくいるさ。

 さて、こんな話が藤田保の『おなら粋門記』に紹介してある。女性の〈屁〉なんだが、眠ったスキに身体内からの咆哮となって飛び出してきたのである。
「そういえば、もうひとつおもしろい経験談を思いだしましたわ。
 わたしがまだ前任の大阪の女子高校にいたときのこと、ある年に修学旅行の引率者になって、箱根の一室に、女子の先生ばかり三人で寝たときのことです。
 そのなかのひとりN子さんは、ひるまからバスのなかでがまんしすぎていたのか、みなが寝しずまった真夜中に、もちろんじぶんも眠っていながら、ものすごく大きいのをだしました。
 それで、じぶんの音に、オドロイて目をさまし、とび起きました。それから、ふとんの上にチョコリンとした顔をしてすわったまま、左右をキョロキョロ見まわしておりましたが、ぶじに他のふたりには聞かれずにすんだと思い、安心したのか、音のしないように、そっともとのふとんのなかに、もぐりこんで眠ってしまいました。
 じつは、わたしもその音で、目がさめたのですが、火事とはちがって、べつに起きあがるほどの事件でもないし、それよりも、だいいちに彼女にたいして、悪いと思って、わざと目をつむって知らん顔をしていました。でも、おなかのなかでは、おかしくて、おかしくて…」
 この話を聞くと、わたしは思わず大笑いしてしまった。
「そんな大きいのをだしたのですか、雷だと思ったでしょう。それで、もうひとりの先生はなにも知らずに寝ていたのですか? 修学旅行の引率はつかれますからなァ」
「いえいえ、その音があんまり大きかったので、もうひとりの先生も、やはり目がさめたのでした。そのときには、なぜか黙っておられましたが、つぎの朝、起きるやいなや、さっそくいいました。
 ──N子さんたら! あなたは昨夜なんの夢をごらんになっておりまして? とても大きいのをもらしましたね!
 きめつけるようないいかたです。するとご本人は、赤くなるどころか、ケロッとした顔でいいました。
 ──あら、そうかしら…。
 さてもさても、トボケルということは、こんなときをいうのでしょうか。世の中には『とぼける』ことの必要なときが、ずいぶんあるものですね」

 まあ、語り手の女性の皮肉で意地悪な感じが鼻につくのだが(朝、はっきり指摘した女性の方がよほどサッパリしていると思うが)、これは意図せずに寝屁(寝ッ屁)をした女性のエピソードである。しかし、登場した三人の女性は張り合うように誰も自分は悪いとは思いたくない(ようだ)が、やっぱり〈屁〉をこいたのが分が悪い。

 ここで「あら、そうかしら…」とトボケルのは、ひたすら固有性から脱却(自分以外を指し示すこと)をはかる心的運動だね。内心は忸怩たるもんだろう。

 もう一つ、女の〈屁〉の話。大正15年6月14日付けの東京控訴院刑事部第一号法廷の裁判の話が『おなら粋門記』に紹介してある。それを要約して引用するとこうだ。

 Yは美しい妻をめとったが、結婚後4ヵ月目に離婚の裁判を起こした。裁判長は「女房はべっぴんだし、家の切り盛りも上手で、何の不服もなかろうに」と首をひねる。Yが言うには「その…なんでありまして、はじめのころはうまくいっていたのでありますが、おかしな話ですが放屁するくせがありまして、昼間はそうでもありませんが、夜などとてもくさくてたまりませんので、ついに意をけっしてわかれる気になったのであります」と。

 妻の〈屁〉ごときが何だ、多分この男は別の理由があるのに〈屁〉にかこつけて裁判を起こしたんだろ、と思ったよ。しかし考えてみると、夜の〈屁〉とは、ははあ、寝屁のことなんだと思い至った。でまあ、同衾してそいつが臭いとなると(離婚はともかく)なるほど、たまらんかもねェ。

 眠っている最中の行動(放屁)に罪があるのか、罪を感じるべきなのか──もちろん、そういう〈屁〉には本来罪もなければ、それを感じる必要もないだろう。知らなければ恥ずかしくもないね。しかし、あの女友だちやこの夫のように、それを笑ったり、とがめ立てする者があらわれると、たちまち〈屁〉の固有性によって苦しめられることになる。人に聞かれる寝屁というのは実に因果だ。

 自分の意識の範囲外で身体が勝手に動作してしまう寝屁は、同様のイビキや歯ぎしりと比べられるが、発覚して戸惑う度合いが(自他ともに)格段に大きいのである。その独特の固有性がはらんでいる〈屁〉の恐怖は、制御が効かない無防備な身体への恐怖だ。まるで他人のこいた〈屁〉が否応なく自分のものと押しつけられるようなものだよな。

 寝屁はマジメな話(多分)誰にでもあるだろう。用心に越したことはないです。
ラベル: 寝屁
posted by 楢須音成 at 12:42| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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