2010年09月03日

続続続・遊女が〈屁〉に翻弄されるのは何でだろ〜ヵ

 井原西鶴が描く遊郭の諸相は世之介という希代の好色漢を通じて語られる。この「好色一代男」はすこぶる好色ではあるが、ふしだらな性的堕落の人というわけでもない。男女の情理を知り、遊郭の事情に通じて粋(いき)を漂わす人。まあ、たとえて言えば広く食に通じたグルメ(好食)な教養人─みたいなね。(世之介には随分と格好の悪い場面も多いのだが)

 しからば粋人に対する遊女の方だって、これまた洗練された粋(いき)な女でなければならないわけさ。九鬼周造の『「いき」の構造』は、江戸の遊郭文化はもちろんだが、日本のこうした色好み(異性への関係=媚態)という伝統的な美意識を分析している。遊郭文化は一つの典型なんだな。この心意気は町人が主体的に生きようとして振る舞った人間像なのだとされる。
 前回紹介したシーンはこうだった。
 ──世之介は吉原の名物、器量よしで書も歌もたしなむ才気煥発のよし田という太夫を可愛がっていて、よし田も本気になってそれに応えていた。ところがあるとき世之介がふと別の太夫に恋してしまった。よし田と切れるためにあれこれたくらんでみたものの、何一つとしてつけいるスキがない。今日こそは難癖をつけて手を切ろうと供を連れて勇んで出かけだのだが、手の内はバレバレ。いくら横車を押しみてもガードが堅く本筋を切り出すことができない。そのうちよし田が台所に立つ。廊下を半分ほど行ったところで、よし田がうっかり屁をこいた。その音を耳にした世之介たちは「しめた」と手を打ち合わす。あるまじき屁の粗相である。帰ってくるのを待ち構えていると、衣装を替えて戻ってきたよし田、屁をこいた敷板のあたりを、ことさらに注意深く避け畳に上がってきた。
「?」
 もしそれが屁でなかったら…。よし田は何しろ吉原の第一級の太夫なのであるから、うかつなことは言えない。供の分際ではもちろんだが、世之介も二の足を踏んで、どうにも「屁をこいたな」とは言い出しかねていた。逆にすべて察していたよし田の方から切り出して「何だかこのごろ腑に落ちぬ仕打ちばかり。今日という今日はもう我慢できません」と縁切り宣言。あっさり言い捨てて出て行ってしまい、表で犬にちんちんさせて遊んでいた。面目丸つぶれの世之介たちはすごすご退散した。
 この話が広まって世之介たちはやり方がきたないと評判になり、世之介が目をつけていた太夫までも逢ってくれない。よし田はよし田で「あれを言われたら品の悪い言いがかりだと言い返すつもりだった」とまわりにあけすけに事情を語り、しかもいかにも屁をこいたのはわたしだとはっきり言った。よし田の人気は高まり、恋い焦がれる者が続出した──

 おいおい、遊郭では〈屁〉をこいてはいかんというのに、一発〈屁〉をこいて人気がうなぎ登りとはどういうことか。しかも、世之介も粋人らしからぬあこぎな振る舞いではないか。品川の遊女は粋人の前の一発で死ぬと大騒ぎしたのに、ここは吉原なんだぞ。

 しかし、この話からは哄笑とともに伝わってくるものがある。それが遊郭の「粋=美意識」のやりとりというものか。ここには男女の別れの場面に一発の〈屁〉を介して実にスリリングな攻防が現象しているわけだが、双方ともにいかに自分を傷つけずに(面目を保って)終結させるか勝負している。

 世之介の中心的行動規範は、いい女を愛するのが「粋」である。一方、太夫のよし田はいい男を愛するのが「粋」である。つまり、遊郭の「粋」に通じるとは、一種の色気(媚態)を含む振る舞いの体現だといえる。

 では、美女に飽きて別の美女に乗り換えるというのは粋だろうか。まあ、世間道徳的には上品ではないわ。じゃあ下劣下品かというと、遊郭の(好色の)情理としてそうとばかりも言い切れない。そういう場所であることが疑似恋愛の遊郭の遊郭たるところだ。動機として世之介の行動は当然なのだ。ただし、それを実現するには下劣下品であってはならないのである。

 粋な別れは自分ではなく相手の失策(あるいは内面や外面の貧困)に倦怠して(できれば相手から)手を切らせること。それが「面目」を保つことだ。しかも相手が(失策を)受忍して縁切りを認めざるを得ない状況にする──こうでなければならないわけさ。

 しかし、よし田太夫にしたら、そういう世之介の行動は自分の無様をさらけ出すことで「面目」が立たないのは当然だ。何といっても、よし田はどんな男をもとりこにする吉原の第一級の太夫なのである。よし田の行動規範は、まずは男(もちろん、いい男=上客)をとりこにして離さないこと。

 二人の気持が一致(相思相愛)しているうちは、まわりも羨む粋な二人なのだが、離反するときにはそれぞれ自らの粋な別れを志向することになるね。しかし、二人の面目が(同時に)立つのはなかなか困難だ。さあ、どうする?──というのが、この話の核心なのである。

 世之介は手切れの難癖をあれこれつけて攻撃する。よし田の防御は固い。次第に世之介の難癖は過激になっていったのではないかと思われるが、まあこれは最初は自分の品位も落とさず、第一級の太夫の品位にも配慮する(粋な)高等戦術を志向していたわけだろう。回りくどいやりとりに終始したんだろうね。この世之介の難癖が通じないところに一発の〈屁〉が現象した。

 揺れ動く対人関係の中で粋を志向する心的運動から遊郭を覆っている理念(価値基準)が形成され構造化される。そこでは〈屁〉が粋でないのは自明である。粋でないどころかまったく粋とは無縁で下劣下品だね。そういうものが、対立する二人の間に現象したわけである。

 対人関係での〈屁〉は一般に、それが現象したとき(我慢することはあっても)二人で認め合い肯定し共有されることはない。そして〈屁〉をこいた一方は醜態をさらしたことになり、深く恥じ入らざるを得ない。つまり、二人の間に心的力関係(意識)の高低が生じてしまうのである。

 よし田が一発〈屁〉をこいたとき、その力関係に変化が生じた。太夫が客の前で〈屁〉をこいちまったぜ──世之介はその無作法・無礼に小躍りしたが、よし田は周到に防御の策を講じる。まるで〈屁〉をこいたあたりの踏板が音を立てたかのような振る舞いで戻ってきたわけだ。

 これではうかつに〈屁〉だとは言えない。万が一もし〈屁〉でなかったら、人気の太夫に対して許されぬ侮辱である。太夫を侮辱すれば遊郭への出入りはできなくなるだろう。ちょっとやばいなと、世之介の心的力関係の高位が低下したところで、よし田は自分から縁切りを持ち出す。理由は世之介の執拗な腑に落ちぬ振る舞いに「飽きた=いやになった」というわけだ。〈屁〉はどこへやら〈屁〉のないところに太夫の落ち度はない。

 さて、こんな調子で、粋な(はずの)二人のやりとりのあまりの俗っぽさにあきれる人がいるかもしれない。どこが粋なんだとね。しかし、二人の(屁を暴き、屁を隠す)俗っぽい行動は、下劣下品へと危うく引っ張られながらも、理念化された粋(遊郭の価値基準)に照らしてきわどく抑制されたものなのだ。

 ここには実際の行動と目指すべき理念との乖離と、現実への融和が現象しているんだね。前回取り上げた品川の女郎は〈屁〉をしてはいけないという理念から乖離せずに正直に死のうとしたのだが、よし田は現実的な(自己保存の)振る舞いを選んでいる。死ぬなんてこれっぽっちも思っていないわけである。

 品川の女郎=理念に忠実に支配されている
 吉原の太夫=理念に柔軟に支配されている

 そしてまた、前回紹介した島原の太夫と同じようによし田は〈屁〉をごまかそうとしているが、その振る舞いは世之介に非難を集中させる結果を導いている。悪者は世之介なのである。

 島原の太夫=隠蔽して不誠実を指弾された
 吉原の太夫=隠蔽して利発さを賞賛された

 この違いは何なのか。
 前回紹介した(1)〜(3)の遊女たちよりも、よし田は格上である吉原の太夫であった。一流の世界では何が起こっているのであろうか。


posted by 楢須音成 at 05:23| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月10日

続続続続・遊女が〈屁〉に翻弄されるのは何でだろ〜ヵ

 世の中には一流と二流(あるいはその下流)があるのが現実である。まあ、世間にはその現実を認識できない人もいる。一つは、二流が自分を一流と思っている勘違いの人。また一つは、一流も二流もないんだと差異を無効にしたがる公平願望の(主に二流の)人。さらにもう一つは、二流が(二流であることを自覚しつつ)一流を僭称する欺瞞の人。どれにしたって(特に何の関係ない第三者から見ると)一流と二流の差異は厳然とあるわけさ。

 一方、一流の人は自らをそれと自覚している人もいれば、自覚していない人もいる。しかし、もともと一流である状態が普通の当たり前なので(一流同士の競争はあるにしても)差異を(あまり)気にしてはいないものだ。一流は一流であることを空気のように呼吸しているのであるからね。

 もっとも、一流であることは共同体の合意事項なので、自分だけで決めるわけにはいかないのである。社会的な客観性(制度)もまた必要なのだ。例えば最高学府(一流)という幻想においても、それは教育界・受験界はもちろんだが、影響下に作られた各界の制度は共同体の歴史的な連鎖を持っている。

 そういう一流であるが、一流が制度化されてしまうと矛盾もある。二流が潜り込んで跋扈したり、逆に二流の制度に拠ん所なく一流が身を寄せることはあるんだよね。まあ、そんな混濁した状況は幸か不幸か刺激的ではあるのだが、「流」と「制度」の整合性が必ずしもぴったり100%ではないことを示している。

 その点、吉原の太夫、よし田は100%の人であるといってよいものだ。当時、吉原は第一級の遊郭。そこの太夫とは最高位の遊女にほかならない。よし田は美人の才女である。となると、そこに通うのも一流どころの客でなければならない。そして、その相互の相乗効果で遊郭の格はいやが上にも高まってくるわけだ。

 一流というからにはその「上」があってはならない。二流以下がしばしばある種チンケな振る舞いをしてしまうのは「上(一流)」を気にするあまりである。というか、二流以下は一流から見ればそもそもがチンケな(欠陥がある)のである。当たり前だが。

 ともあれ、世之介とよし田のやりとりは(チンケではなく)一流同士の粋(いき)な振る舞いなのだ。なぜなら、これを二流がやると、あけすけな修羅場になるのは想像がつくのではないか。男「お前に飽きちまったぜ」女「な、何ですって」と情をさらけ出し、単刀直入な場面に突入するかもしれない。世之介とよし田の場合には、二人を縛っているのはそういう情よりも粋なのだ。粋はある一定の抑制がかかっている振る舞いに見えるね。

 情をさらけ出す修羅場はわかりやすいものだし、情の発露はそもそも自然(ありがち)なものだ。世間にはそういう情の場面が多いのだが、幻想化(観念化)が強くなって情を殺す場面も多々あるんだよね。例えば、ホントは愛しているのに(屁が臭いとか)理由をつけて愛していないと言ってしまうのである。そういう情の抑制はだいたい(屁が臭い奴は性格が悪いとかの)観念形成による情の隠蔽だ。

 情の丸出しは一般に粗野・奔放なものとされ何らか抑制される。我をむき出しにする節度(抑制)のなさははばかられるわけだ。一流ともなれば、その節度は洗練された独特のスタイルを獲得しなければならない。

 しかし、一流といえども、情を丸出しにしそうな格好の悪い(危機的)状況はあるわけなので、それをいかにしのぐ(抑制する)のか、そういう対処の妙が問われることになる。それも粋の範疇なのだ。格好良く(粋に)事態収拾を成し遂げることは一流が一流に通じる道なのであ〜る。

 このとき、世之介とよし田は捨てるか捨てられるかの名分争奪戦の利害対立の渦中にあった。まさにここに一発の〈屁〉が現象したのである。

 まあ、おおむね〈屁〉はすべてをぶち壊しにすることが多いわけで、ここはよし田の決定的なミスなのだが、これを切り抜け、自らの名声までも高めた(世之介に勝利した)ことが話のポイントになっている。

 よし田の行動はこうだ。
(1)その音は廊下の踏み板が立てた音だと暗に主張する素振りで(優雅に)アピールした。
(2)世之介を撃退したあと、周囲にすべてをぶちまけ確かに〈屁〉をこいたと(正直に)明らかにした。

 これは計算尽くでとっている行動であろうか。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。明確でないところがこの話の結構である。音成の解釈ではこういう場合、まあ多分に無意識的である(かのように振る舞う)のが一流なのである。(ここで下手に意識するのが二流のチンケさ。要するにワザとらしい)

 ここで前回のまとめを敷衍するとこうなる。
 理念に忠実な品川の女郎=こいたら死ぬ=ルール通り
 理念に柔軟な吉原の太夫=こいたら騙す=ルール無視

 ルール(理念)の存在が粋であることを保障するのだが、ルールに対する向き合い方の違いがここにはあるんだね。極言すれば、ルール通りにやるのが二流、ルールを無視するのが一流ということになる。何でこうなるのか。それは一流には心的に上位の者がいないからである。

 そもそもルールというものは、他人を規制する決まりごとを主張することによって、自分も従ってみせるという心的規制なのさ。そのとき自分がトップにいて、心的に上位の者がいない(監視者がいない)のなら、場合によりルールは無視される傾向をはらんでくるのだ。罪悪感なさげに平然と脱税したり賄賂を受け取る政治家がいるね。これは権力(や富)の頂点にある者ほど罪悪感はないのである。

 それが(社会的に許せる)真の(?)一流であるかは別問題なのだが、そういうトップの人物の行動ですら擁護する人がいるように、一流がルールを破っても周囲から是認される心的傾向を生む。ただし、それはやむを得ないという状況下で外連味(けれんみ=はったりやごまかし)のないものでないと(少なくともそのように演じ切らないと)ダメなんだけどね。一流は周囲のそういう是認を無意識的に知ってもいる。

 品川の女郎は二流どころという場所柄にあって、また客(粋人)との関係が対等以下にあって、強く強く〈屁〉をこいてはいけないという理念・理想に縛られてしまう存在だといえる。いわばルールは絶対なのである。理念的にも対人関係においても上位の者がいる(監視者がいる)環境なのだ。

 ところが、よし田の場合は一流という場所柄にあって、また客(粋人)との関係が対等ないしは対等以上にあって、〈屁〉をこいてはいけないという理念・理想は(一流として)あるものの〈屁〉をこいたからといって面目が立てばよし(やむを得ない)とするのだ。いわばルールは相対的なのである。それが心的負担なしにできるのは、理念的にも対人関係においても上位の者がいない(監視者がいない)環境だからである。

 それでも嘘をつくのは虚偽であり背理だね。品川の女郎の純粋さこそが人間には大事なのではないか。そう思うかもしれないが、品川の女郎の振る舞いは可笑し味を呼ぶだけで、死ぬ死ぬと騒ぐのはとても粋とは思えないよねェ。よし田の振る舞いの方は、笑いを誘いつつ粋に感じられるのである。

 では、あの島原の太夫の場合はどうなのか。よし田と同じく島原の太夫は〈屁〉の隠蔽に走ったのだった。

 島原の太夫=隠蔽して転落人生となった
 吉原の太夫=隠蔽して名声と人気を得た

 この違いとは何なのか。片や隠蔽に失敗し、片や成功した違いはあるのだが、よし田の場合はキチンと周囲に(卑近のみならず遊郭全体に伝わるように)説明して種明かしをしている。自分が〈屁〉をこいたとも言っている。よし田の隠蔽(嘘)は、攻撃的で無体な世之介との攻防戦をしのぐ方便の振る舞いとして、最終的には外連味のなさをアピールしている。(こうなると嘘の巧みさは才気になるわけさ。してやられた世之介の負けである)

 島原の太夫は嘘に嘘を重ねてしまった(プンプンのプントコナという巧妙な虚構を作り周囲と一緒に演じた)のだが、そもそも旦那となる人は太夫を気に入って請け出そうとしていたのであるから、嘘は(発覚するや)信頼を否定する不誠実な外連(けれん)になってしまった。信頼を得るためにしたことが信頼を損ねる、という背理におちいってしまったのである。

 島原の太夫=結婚の相手に嘘=事実を暴露され破綻
 吉原の太夫=離反の相手に嘘=事実を暴露して名声

 こう見てくると、二人の違いは歴然だ。嘘は嘘でも向けられた相手との関係性がまったく違うわけである。ここには誠実ということが相手に呼応する(しなければならない)心的運動であることを示しているんだね。その意味では、世之介を見切ったよし田に(世之介への)誠実は発動していないのである。しかし、それは不誠実ではないのだ。無体な世之介に呼応しなければならない理由は(客観的にも)ないからだ。少なくとも遊郭の粋の理念にそれはない。よし田にあるのは外連味のない事実(への誠実)しかないのである。

 以上をまとめると、一発〈屁〉をこけば二流の世界では死ぬほどルールが重んじられ、一流の世界ではしばしばルールは無視されるが、その〈屁〉をこいた事実に対して最終的には誠実な振る舞いが格好良く(粋に)アピールされる──となるのであ〜る。

 しかしまあ、よし田のそういう行動は計算尽くなんだろうけどねェ。きわどい場面を毅然とよく切り抜けたものだ。そういう意識性が粋なんだな。もちろん、誰もいないところでこいた〈屁〉は一流だろうが二流だろうが区別はない。それは、どうでもよろし〜。
posted by 楢須音成 at 19:40| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

続続続続続・遊女が〈屁〉に翻弄されるのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉が問題になるのは人前で現象させてしまうからである。ましてお客を相手にする商売においてはちょっとまずいだろう。大昔から(おそらく)遊女の〈屁〉はタブーだったはずだ。

 前回までに紹介したのは、そういうタブーの〈屁〉に悪戦苦闘する遊女の姿だった。何しろ〈屁〉は望みもしない、意図せざる現象なのだから、本来は罪なきものには違いない。しかしそれは、きわめて恥ずかしい罪なのである。
 江戸の小咄にこういうのがある。音成のテキトー訳で紹介しよう。
 禿(かぶろ=まだ見習いの少女)がお客の前でおならをして笑われた。姉女郎がひそかに新造(姉女郎の後見つきの若い遊女)を部屋に呼んで「禿衆はまだよいが、あなたたちには大事なことだ。気をつけた方がいいよ。あなたたちは屁の工夫をわきまえていますか、まだでしょ。大事なことなので教えておきます。あのね、おならが出そうでこらえられぬとき、無理にこらえていると、げっぷになって出てくるものです。そんなときは、紙をよくもんで、お尻に当ててそっと包んで、たもとに入れて捨てるとよいのです。それでも屁の殺しようが悪いと、外へにおいますよ」と、手厚く教えた。さて、座敷へ出たかの新造、屁の伝授を得てお尻を気にしているうちに、やたらおならが出そうになったので、紙をもんでふところに入れ、間合い良く上手に屁を包み取り、窓から外に投げたのだが、格子に当たって紙がつぶれて「ブウ」。
(『聞上手』1773年)

 ことほど左様に〈屁〉は回避されたのである。

 さてここで、首を傾げる人がいるかもしれない。お客の前で遊女の〈屁〉はタブーだといっても、現実問題として(我々の日常経験からいっても)気が置けない相手の前での粗相なら笑ってすむ──これは罪というより愛嬌(あいきょう)というべきだ、とね。

 西鶴の「好色一代男」にはこんな話もある。場所は大阪・新町九軒の遊郭。吉行淳之介の訳である。
 二階の大広間にあがると、南の空から差しこむ月の光も昔のままだが、加賀の三郎などが逢っていた市橋太夫の定宿のこの金の間も、今では腰張りも安物の湊紙になっている。
「その頃には、四尺の長机の上に、書院硯、筆架、香箱があってね、舶来の小道具をいろいろ置き忘れて帰っても、誰一人手をつける者もなかったのに、今では木枕さえ足りないし、煙草盆の煙草までかすめていくやつもある。煙管が見えなくなっているが、まさか禿はとらない筈」
 などと、風流とは程遠い話になってしまったところへ、太鼓座頭の城原が三味線を新しく調えたいとの奉加帳が回ってきた。
「よしわかった。小判を出すついでだ、ほかになにか無心はないのかい」とはきつい言い方、「女郎衆はまだか、顔だけ見て坐らないうちに帰してやるのに」
 と言っているところへ、世之介が名ざしの天神があらわれたのだが、どこで飲んできたのか、ずいぶん酔っている。そのうちに、床をとったので、
「たまには寝て、色ごとでも」
 横になってみたが、女は帯もとかず鼾をかいている。気のりしない色ごとをしているとき、
「お立ち」
 庭から呼びたてる声がした。
「帰るぜ」
 と起きだしたが、女郎は酔いが覚めない、とそのまま動かず、わかれの挨拶もしない。世之介、目ざましに、煙管を離さず、七、八服つづけざまに行灯の火で吸いつけていると、女郎が夜着の下から尻をつき出した。不思議におもっていると、あたりに響くほどでにおいもあるのをこいたので、その二つ目のやつを煙管の火皿で押えつけた。いけないことと分かっていてこく心根のさもしさ。思わずしらずならば、お釈迦さまでもこきたもうだろうが。

 世之介のお遊びは気分に応じて手広い。天神というのは太夫の下のランク。場所柄は昔の風流は消え失せ、少しさびれている遊郭だ。そこで名指しで呼んだ遊女が〈屁〉をこいたのである。吉原のよし田との場面のような〈屁〉の緊張感はない。まあ、恥も外聞もないゆるゆるの〈屁〉である。愛嬌どころの話ではないよねェ。

 このとき世之介にあるのは嫌悪だね。遠慮がなくなると、奔放になってしまうこともある〈屁〉であるが、相手次第で嫌悪感を与えることにもなる。この天神は酔っ払っているとはいえ、そもそも最初からムードぶち壊しの遊女で、〈屁〉までだらしがないのだ。世之介は「いけないことと分かっていてこく心根のさもしさ。思わずしらずならば、お釈迦さまでもこきたもうだろうが」と、その節度のなさ(遊女にあるまじき無作法)を怒っている。

 まあこれは、二流どころの遊郭の風景だが、遊郭の粋(いき)は零落してしまっている。前回、二流こそ一流のルールに縛られると言ったのだが、これはどうしたことだろうか。

 いやまあこれはですね、二流がもはや一流をめざさなくなれば、一流のルール(粋)は心的に瓦解し、規制がなくなるのですよ。いやむしろ、反動的にすらなって(一流の)ルールを無視し反対のことを始めてしまうのです──というのは極言だが、こいてはいけない〈屁〉がポンポン飛び出してくるのである。

 これは〈屁〉の位置づけがハッキリ変化しているんだね。一流の世界では〈屁〉はまったく存在を許されない。だからこそ〈屁〉をこくと致命的な失策となり追及されるわけである。だから、二流が一流になろうとするのなら〈屁〉は絶対こけない。しかし、一流になろうとしないなら(心的規制がないのなら)どうなると思います?

 遊女に関する音成の観察では〈屁〉は許されるようになる(ポンポンこいてしまう)のである。その姿はさまざまあるのだが、要するに〈屁〉が我々の一般世間を構成する要素に組み込まれている姿と同じである。ふだん我々は相手を見極めて〈屁〉をポンポンこいているわけだが、それと同じことが遊郭でも起こるようになるのである。

 ただ、九軒の天神は馴染みの世之介を少し誤解しているんだね。真贋は別として世之介は風流をたしなむ粋人なのである。経験も豊富。そういう人の前で自覚のない〈屁〉をこいては怒らせてしまうだろう。二流どころのわびしさが漂うばかり。
 こんな話もある。江戸の小咄を『新編・薫響集』(中重徹・興津要著、1972年、読売新聞社刊)の訳で紹介する。
 ある全盛の太夫が、馴染みの客のそばでぷっと一発放ってしまったので、客は気の毒に思って、小唄などを歌ってまぎらしていたのに、遣り手(婆)が、「太夫さまかいな、ああ軽はずみな」といえば、太夫はかっと逆上して、遣り手に向かい、「客さまさえまぎらかしてくれなさるのに、おまえさまとしたことが、まあなんという…」とねじこむのを、客が聞いて、「だれにもありがちなことじゃ」というと、太夫が「それでもおまえ愛想がつきように」「なんの、なんの、馴染みのお前じゃもの」──そこで、太夫は喜んで「ああうれしや、それで気がゆっくりとした」といって、また、ぷっぷっぷっと、残りをみなこいた。
(『軽口大黒柱』1773年)

 まあ、太夫も客も二流って感じがぷんぷんなのだが、しかし何と情味たっぷりのシーンであろうかねェ。世之介であれば耐えられないに違いない。ここまでくると、一流とは情味を排した、きわめて理念的な特異な世界であることがわかるわけよねェ。
posted by 楢須音成 at 10:48| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月17日

最終・遊女が〈屁〉に翻弄されるのは何でだろ〜ヵ

 九鬼周造の『「いき」の構造』に〈屁〉のことなど一言も出てこないのは、もちろん〈屁〉というものが粋(いき)ではないからだよ。しかしまあ、西鶴が描く遊郭の世界には〈屁〉を介した粋な振る舞いはあったわけで、人間の行動はこのようにも通念とはアンビバレントに現象することもあるさ。

 それはともかく、一流の粋とはほど遠い一般世間では〈屁〉は、実に日常的(あるいは庶民的)にやりとりされるわけよ。世之介は二流の遊郭で無作法な〈屁〉を前に嫌悪を抱いたのだが、これは一流(の粋の世界)を出入りしている世之介だからそうなるのであり、世之介だって家に帰ればポンポンこいていたかもしれないのである。

 実のところ、一流とはほど遠い遊郭では〈屁〉は案外、日常茶飯事だったのではないかねェ。遊女が〈屁〉に翻弄される話が『新編・薫響集』には一章を割いてまとめられているが、日常的な情味たっぷりの話を引用しよう。
 初会(遊女が、その客にはじめて相手をすること)の床で、女郎がぷいと一発放った。客「こりゃたまらぬ匂いだ」
「お許しなんし。このおならにはわけがありんす。わちきの母が、大病のときに、病気をなおしてくださるなら、毎月一度ずつお客の前で恥をかきんしょう、と観音さんへ大願をかけんした」
 という口の下から、またぷいと一発。「オヤ、うれし、来月分もすませた」
(『楽牽頭(がくたいこ)』1772年)


 馴染の客の床で一発やってしまった女郎が、すました顔で、「必ず笑いなんすな。わっちゃあ、ぬしを客衆とは思いんせぬ。やっぱり亭主だと思いんすによって、こんな恥ずかしいことをしんした。かならず悪く思ってくんなんすな」「なに、おれが悪く思うものか。そう心にへだてのないのが、やっぱりありがたいわな」「そういってくんなんすりゃあ、わっちもうれしいけれど」という口の下から、また一つ、ぷいとひれば、客「ハテ、疑い深い」
(『下司の知恵』1778年)

 こんな小咄が横行するくらい遊女の〈屁〉は日常茶飯事だったし、このときの〈屁〉は男の側で決して嫌悪感で全否定されているわけでもない。逆に遊女のあわてぶりはエロチックにも受け止められている。

 こうなると、いよいよ一流の粋というものとは縁遠くなるわけである。そこでは粋というような理念にとらわれる以前に、日常的な情にそって心的運動が展開し、言訳(理念以前の観念化)という作為(屁の隠蔽)が競われる。言訳の数だけ物語が生まれることになるのである。

 そういう言訳は〈屁〉を恥じるという原初的な心的規制に沿うだけの日常的作為である。恥じるんだけれども(何かの価値基準を持って)恥じなければならないという強制的な理念性はきわめて薄いわけで、取って付けたような世間的な言訳でも、隠蔽してしまえば恥ずかしくない。面白いことにその隠蔽(言訳)は、よし田の場合と同様、振る舞いの外連味(けれんみ=ごまかし)のなさが強調されているんだよねェ。しかし、願いに反して二流の遊女たちの言訳は(種を明かせば)真っ赤な嘘なのである。

 一流の太夫は=下品な〈屁〉を種明かしたら粋
 二流の女郎は=〈屁〉を種明かしたら更に下品

 こうみてくると、一流と二流以下とでは、同じように粗相した〈屁〉に向き合うにしても、違う結果をもたらしてしまう。よし田の種明かしは事実に対する誠実さを示し、二流の女郎は事実に対する不誠実を示すことから考えると、人間の心的振る舞いの方向付けには「事実」とか「方便」とか「誠実」ということの有効性や重要性が存在しているわけだ。

 しかしだね、ここが〈屁〉の不思議なんだが、我々は二流の女郎たちを笑っても軽蔑はしないし(してもいいが)、よし田の振る舞いに外連(作為)を感じることも(感じないことも)可能だね。原初的な心的運動においては、倫理や道徳の発動以前に〈屁〉の「事実」や「誠実」というものが発動しているね。我々の心的運動はいわば先験的な根拠を求めているということなのだ。粋の本質はここにつながると思う。

 ともあれ、遊郭では男女の媚態(色気)が理念化されて「粋」として振る舞われ、言訳化すれば真っ赤な「嘘」となる。そして吉原の太夫の粋にしても、二流の女郎の嘘にしても、我々が概念で教育されている倫理・道徳とは(直接は)関係ないのであ〜る。
 
 一発の〈屁〉が現象すると遊女たちは悪戦苦闘し、さまざまに翻弄されるわけだが、落語の「四宿の屁」には遊女の「嘘」の世界が活写されているよ。三遊亭圓生の「四宿の屁」を味わってみよう。〈屁〉には色気があると言っている。味わい深い〈屁〉の落語だ。(四宿とは、二流どころの遊郭だった品川、新宿、板橋、千住のこと)

posted by 楢須音成 at 01:43| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月29日

転矢気が屁であることの意味

 いろいろと〈屁〉には異名がある。一口に〈屁〉といっても、ブー、ピー、スーと、その見えない形態は各種ある。それら一つ一つに名前がついていても不思議はないのだ。物事は観察が細かくなるほどに名辞もまた細分化されるわけで、日本語に〈屁〉の異名が多いということは、日本人の〈屁〉に対するこだわりなんだね。それだけ観察が行き届いていることでもある。

 さて、異名の一つに「転矢気」または「転失気」というのがあるのだが、これは「てんしき」と読んでいる。まあ、いきなり言われても読まされてもわからないだろう。どういう意味合いで「てんしき」なのか、昔から首をひねるものだったようである。

 そこで中国の医学関係の古典を渉猟してこれを考察した論考が朝川善庵の『善庵随筆』(1850年)にある。音成のテキトー訳を試みた。
 転矢気については、元の蒋正子の『山岳随筆』に記述がある。「三山に林観過という、年は七歳にして市中を遊び回っている少年がいた。乞われては詩を作り生活の糧を得ていたが、ある人が戯れに転矢気の詩を詠むように、と言った。少年曰く。視之不見名曰希、聴之不聞名曰夷、不啻若自其口出、人皆掩鼻而過之(視れどもみえず名付ければ希、聴けどもきけず名付ければ夷、まるで口から出たかのようで、そのうえ人はみな鼻をおおって通り過ぎる)と。林少年はかつて科挙の神童科を受けたことがあったが、そんなに出来はよくなかった」云々とあって、ここでは転矢気をすかし屁としているようである。しかし『堅瓠二集』ではこの話は、人は少年に「洩気(気が洩れ出たもの)を詠むように」と言った、とある。一夕話として載せているのは同じだが、ここは洩気となっている。

 転「失」気と書くのは恐らくは誤りである。転失気とは矢気が肛門に迫って外に洩れず、音響が内に反転する、俗にいうところの「屁かえり」のこと。屁は転矢気あるいは転失気と書かれ、『傷寒論』には三回出てくる。宋版や諸本はみな転矢気としているが、玉函経のみ転失気としている。どれであっても通じるが、転「矢」気とするのが文意も妥当である。根拠を次に引用する。

 ──『條辯』にこういう。黄氏曰く。矢は漢書に屎(糞)とある。古代は屎は矢(の字)を用いた。失と伝わるのは誤写である。『続医説医学全書』に曰く。下半身から洩らす気は俗にいう屁である。『篇韻』で屎は一般に矢を用いるとあるが、矢が失と誤って書き写されるのを危惧する。転矢気は是非これに学んで従うべきであり、それで意味がよく通じる。もし失の字を使うなら、正しい意味において困ることになるのだ。舒氏曰く。考えてみると矢気の二字は前書の中で、みな失気と書いているが誤りである。矢の字の頭を出して書き誤ったにすぎない。思うに矢は屎であり、矢気は屁だ。つまり矢(屎)の気であって、失(の字)の上に転(の字)を置く理由がない。転はすなわち転運(荷を運ぶ)である。矢の気が転運によって出てくるのであり、もし「失」の字であれば、どうして「転」があろうか。確かに矢の字に疑いはない──

 こういうことだ。矢気は単に矢(屎)の気なので、つまりは屁である。失気(しっき)は矢気(しき)が放出したものなので、放屁である、その放出すべき矢気が外に洩れ出ないで内に反転するのを転「失気」というのだ。
 ゆえに『弁霍乱病脈證並治篇』に「似欲大便而反失気 乃不利者此属陽明也」とある反失気が転失気と同じ意味であることをもってしても、反転の意味であることを知るべきである。もしこのくだりの「反」の字を語辞と解釈して「反して失気」などど訓じてしまうと「反」の字の意味が通じない。
 また『弁陽明證』の下文に「傷寒四五日腹中痛 若転気 下趣小腹者 此欲自利也」とあるのは、腹中が病んだり、あるいは痛まずにただ転気がゴロゴロ鳴って下腹部へと下って来るのをいう。腹中のことなので矢気とも失気とも言っていないが、意味は同じである。

 要するに何が言いたいかというと、いろいろ述べている割には単純である。

 転気=屁のこと
 転気=屁が肛門から出そうで出ずに反転すること

 まあ、どうでもいい感じであるが、一字に込められた意味は大きく違うというわけだ。だいたい『善庵随筆』の翻刻からして「矢」か「失」か混乱しているようで、テキトー訳ではテキトーに入れ替えて(正して?)みた。間違っていないことを祈る。

 この転矢気は落語の題材にもなっている。知ったかぶりの和尚が転矢気の意味を取り違える話である。いろんな人が演じているが、林家たい平の『転矢気』を味わってみよう。

ラベル: 転矢気 転失気
posted by 楢須音成 at 09:44| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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