2010年06月06日

放屁学生の自己責任

 趣旨の違う話に横から割り込むのだが、こういう新聞記事があった。
 放屁を我慢しない学生が教授の研究室に足を運ぶのは、気が重い。そうした学生を個別に「助ける」ための学内機関を設ける大学が急増している。

 昨年の「放屁の実力」調査では、前年より約100校も多い291校(55%)が設置。一般入試が中心で学力格差が少ないと言われる国立でも、設置率は69%に達していた。放屁の抑止を学ばせる工夫の必要性に、例外はないようだ。

 ある大学では、授業で音読の最中に「he(彼)」を見つけると「へー」と発音してしまい、だらしなく放屁する学生が見られるようになった。そこで7年前から教授らが、大学の勉強だけでなく高校までの放屁抑制鍛錬不足を家庭教師感覚で指導する場として「放屁教育支援センター」を設けた。

 成果はすぐに表れた。利用者の成績向上だけでなく、毎年300人を超えた退学者が半減する副産物も。さらに退学者減は高校の進路担当教員の信頼感を生み、「先生に、センターがあるからと薦められて」と志望動機を語る学生が今は珍しくないという。

 学生を自ら鍛錬の場に赴かせる――大学の工夫には、家庭でも参考になる知恵がちりばめられている。

 この記事のどこが可笑しい(ヘン)かって、放屁教育の積み重ねが社会的にほころんで(迷惑にも)大学にしわ寄せがいっているのに、大学(の防衛策)がさも素晴らしいことをしているかのように、部外者が礼賛していることだろう。おいおい、だからって家庭も高校も大学に頼るなよ。〈屁〉ぐらい我慢できるようになってから大学行けよ。行かせろよ。

 そもそも放屁の教育は、いつの間にか何となく身についている(べき)ものだ。放屁の抑止は公的にはあまねく社会に行き渡っている。明示的・直接的に法的に禁止されてはいない(だから罰則もない)が、それは暗黙のルール、あるいはタブーなのだ。

 もっとも、我々はまったく放屁してはいけないのかというとそうではなく、誰だって〈屁〉をすることは許される。許されていて許されないという、こういうアンビバレントな存在様式を持つのが〈屁〉のなのだね。そこには許される場面と許されない場面があるということだ。放屁学生は許されない場面で「へー」なのである。

 結局のところ〈屁〉を制御するのは自分自身なのだが、いくら自分に厳しく抑止しても、出るものは出るさ。記事の放屁学生はこの緊迫したレベル以前の基礎レベルができていなのだから、世話が焼ける。

 ――などと感想を述べてみたのだが、この記事の元ネタ(パクリ)は次の読売新聞の記事である。
 授業を理解できない学生が教授の研究室に足を運ぶのは、気が重い。そうした学生を個別に助けるための学内機関を設ける大学が急増している。

 昨年の「大学の実力」調査では、前年より約100校も多い291校(55%)が設置。一般入試が中心で学力格差が少ないと言われる国立でも、設置率は69%に達していた。学ばせる工夫の必要性に、例外はないようだ。

 神奈川工科大(神奈川)では、入試の多様化を背景に、「he(彼)」を「ヘー」と発音したりする新入生が見られるようになった。そこで7年前、遠山紘司教授らが、大学の勉強だけでなく高校までの英語、数学などを家庭教師感覚で指導する場として「基礎教育支援センター」を設けた。

 成果はすぐに表れた。利用者の成績向上だけでなく、毎年300人を超えた退学者が半減する副産物も。さらに退学者減は高校の進路担当教員の信頼感を生み、「先生に、センターがあるからと薦められて」と志望理由を語る学生が今は珍しくないという。

 学生を自ら学びの場に赴かせる――同大の工夫には、家庭でも参考になる知恵がちりばめられている。
(松本美奈、2010年4月29日掲載)

 だから、その工夫のどこに「知恵」がちりばめられているのさ。違うだろ。


ラベル: 記事 学生
posted by 楢須音成 at 00:14| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月11日

土壇場で躍り出る〈屁〉

 とっさの判断が求められ緊迫する土壇場に〈屁〉など登場させる神経はどのようなものか。まあ、普通はヒンシュクものには違いない。しかし時と場合があるとしても、その時と場合に呼応すれば、おつに澄ました風流より随分と脱俗ではないかねェ。

 武士であり狂歌師であった川辺青人(かわべあおんど)のエピソードが福富織部の『屁』に紹介してある。情景は、使用人である与助の女房が臨月間近のお腹を抱えて柿の木の下で洗濯していると、急に産気づいてしまうところだ。
 福岡藩士川邊人(かわべあおんど)は、兩刀をさしてゐる身分だが、狂歌師としても亦(また)聞えてゐた奇才である。眞田幸村の末裔だといふので、六文銭の紋章を用ひ、號(ごう)も『銭六』といつてゐた。彼の屋敷の門長屋に、與助といふ米搗(こめつき)がゐたが、是が又、銭六にかぶれて、時々狂歌をひねり出す。
 與助の家内が折柄臨月の太鼓腹をかゝへ、柿の木の木かげで洗濯してゐると、急に蟲(むし)がかぶつて来た。さア、大變(たいへん)、容子(ようす)を見てゐた銭六は、あはてゝ飛出して女房をかかへた。
『こりゃ、與助』
 與助が驚いて、家の中から飛出すと、口をついて、一吟。

  此のかゝは、和歌仙人の末なるか
     柿の下(もと)にて人を丸(まる)なり。

 與助も、ハゝンと思つたが、返歌どころではない、あはてゝ女房を座敷へかつぎ入れようとすると、、女房苦しまぎれに、ぶうつと一つ放(こ)いた。そこで、與助。

  人を丸(ま)るついでに屁をもまりにけり
              音は文屋で産は康秀

 此(こ)う、しゃれのめした。
 銭六は、八十六歳までながらへたが、老病の爲、最後の息を引きとる際、門人を枕邊(まくらべ)によんで、辭世(じせい)をのこした。それが叉、屁。

  何糞と思へどもはや屁茶も暮
           さらば草葉の蔭にゆかうぞ
  句もなくて死ぬるは明日か狂歌師の
            屁の如くなる武士の人。

 虫がかぶるとは産気づくこと、まるとは身体から出すことである。産気づいた騒ぎの中で、一首詠んだのだが、柿の木の下で産もうとしたお前は和歌仙人(柿本人麻呂)の子孫か、と洒落たわけだ。そのとき与助の女房はたまらず屁をこくのだが、これに与助が気を取り直して返歌を一首。赤子のついでに屁までまりにけり〜とやった。文屋康秀(ふんやのやすひで)は六歌仙の一人。音(フン=ブン)と意味(康=安産)をかけている。

 柿や屁をきっかけにした歌人の名前のやりとりが可笑しいが、騒ぎの最中に吟じているというのが、何とも凄い。しかもトドメは〈屁〉だよ。

 まあ、人間というものは土壇場の騒ぎの渦中にあっても、頭のどこかで受け止めている。考えている。表現してしまう。そういう冷徹がいいのか悪いのかわからないけどさ。

 人生最大の土壇場となると、この世とおさらばする臨終だろうかねェ。ここはとっさの判断というより仕舞支度を終えた覚めた諦念の表出になるようだ。

 青人の辞世が〈屁〉だったというのだが、「へちゃもくれ」「へのごとく」という言葉に、すべて捨てていく万感の別れが込められている。
posted by 楢須音成 at 11:55| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

〈屁〉を知ってど〜する

 知ったかぶりは嫌われるが、何かを知っているということは自慢だよね。それはどういう了見なのだろうか。これが暴走すると、無知は恥ずべきことのように扱われ、特に教養人の間では馬鹿呼ばわりの毀誉褒貶が飛び交う。

 知ったかぶりということなら、このブログも人様のことをあれこれ言えないわけだが、世間のそこかしこに(知ったかぶりや無知の)目に余る人はいるんだよねェ。(いやまあ嫁には、ブログに限らず知ったかぶりと無知な言動はやめて欲しいと言われているのだが…)

 ところで、ここに事実ABがあるとする。同じ事実(AB)を見ていても、事実を知っているとか知らないというのは盾の両面のような関係になることがあるね。Aを知っている人はBを知らない(見ない)ことがあり、Bを知っている人はAを知らない(見ない)ことが起こる。

 AとBに分断した事実を争うことはよくあるわけだ。そういう争論の心的運動の渦中にあっては「知っている内容」が正しかろうと正しくなかろうとあまり関係なくて、イデオロギー的に声の大きい奴(あるいは、声が小さくてもまわりが唱和して大きくなってる奴)が勝つことになるんだよな。(ははは、負け惜しみ…)

 江戸の小咄集『譚嚢(たんのう)』(1777年)にこういう話がある。盗人の「事実AB=屁」が現象している。音成のテキトー訳で引用してみよう。
 二人の盗人が日暮れから家と家との間の路地に潜んでいた。長い時間がたって体のしんまで冷え込み、たまらず一人が屁を一発やった。もう一人は耳が少し遠かったのだが、どういう加減かその屁を聞きかじって、「今のはなんだ」と小声で聞く。「今のは屁だ」と小声で答えたのだが、これが聞き取れない。「今のはなんだ」とまた聞く。「だから、屁だと言ってるじゃないか」と答える。しかしこれでも聞き取れず、すぐさま「今のはなんだよ」と聞いてくる。面倒になり、我を忘れて大声で「屁だと言ってるだろッ」

 この話の眼目は、無視すればいいことをやりとりしているうちに、こっそり潜んでいた二人の存在(=盗みを準備中)を自ら暴露してしまうトンマなやりとりの可笑し味にあるだろうね。

 さて、このときの二人の〈屁〉の認識である。我々が抱え込んでいる〈屁〉の事実は最終的には一義的に同じであって、可笑し味は二人の〈屁〉の認識過程が齟齬(遅延)しているところから出てきている。
 
 これは〈屁〉をした盗人が知ったかぶりしているのではないし、〈屁〉を認識できないでいる相棒の無知を(必ずしも)馬鹿にしているわけでもない。ただし、お互いにある種「うざったい」とは思っているようなのだね。ここには知ったかぶりや無知が生起してくる素朴な原点があると思えるんだけどねェ。
 整理してみよう。二人の基本的な態度はこうだ。

 屁をした盗人=それは自明だが明らかにしたくない
 音を聞いた盗人=それは不明なので明らかにしたい

 屁をした盗人にあるのは「事実AB=屁」を知っている者の「いらだち」であり、音を聞きつけた盗人にあるのは「事実AB=屁」を知らない無知の「あせり」である。このとき、いらだちは他者の無知に向けられ、あせりは自己の無知に向けられている。そしてそこには、優位と劣位という意識の高低が現象してしまうのだ。

 こういう状況では、屁をした盗人は音を聞きつけた盗人がうざったい(そして、屁など忘れて欲しい)のであり、音を聞いた盗人も教えることを渋っている(ように見える)盗人がうざったい(しかし、何なのか教えて欲しい)のである。

 このやりとりは〈屁〉という隠蔽したい否定性のものを介しているので抑制された展開だが、しかしこれが例えば〈愛〉とか〈自由〉とか(好んで教養人が論陣を張るような)肯定性のものならば、容易に知ったかぶりに転じて熱心に語り出すわけだよ。

 自慢げに〈愛〉とか〈自由〉とかを語りたい人は、それらを知らない人がうざったい(しかし、知って欲しい)のであり、〈愛〉とか〈自由〉とかを(迂闊にも)知らない人はそれを熱心に語る人がうざったいけど気になる(何なのか教えて欲しい)のである。整理すると、

◎知ってることが否定性のものならば
 知らないアナタはうざったいし、それは忘れて欲しい
 教えないアナタはうざったいが、それを教えて欲しい

◎知ってることが肯定性のものならば
 知らないアナタはうざったいし、それを教えてあげる
 教えたいアナタはうざったいが、それを教えて欲しい

 こうみると、それを教えたくない人にも、教えてあげたい(高じて、知ったかぶりの)人にも、知りたいと思ってしまう人の存在が欠かせないわけである。教えてもらうことは意識の高低の現場では劣位に立つことなのだが、そこには「知りたい」「見たい」「きわめたい」という人間の原初的な心的運動が自律しており、やがて相手と同じかそれ以上の知識力の獲得(成長)を陰に陽に企図している。(まあ、一種の心的なリベンジみたいな…)

 もっとも、こういうやりとりは事実ABを一方が占有しているとき現象するのである。事実Aと事実Bをそれぞれで分け持っていると、お互いに「(AまたはBを)知らないあなたはうざったい」となって、競って(AまたはBの)知ったかぶりを始めるのよねェ。その競い合いの現場では、劣位の「教えられる」立場になるなんてとんでもないってことなのだ。(結局、声の大きい奴が競り勝つみたいな…)

 さて、先の小咄だが、盗人の会話の流れを抽出してみるとこうなる。
「今のはなんだ」
「今のは屁だ」
「今のはなんだ」
「だから、屁だと言ってるじゃないか」
「今のはなんだよ」
「(大声で)屁だと言ってるだろッ」

 会話が進むにつれ「(屁を認識できない)アナタはうざったいし、それは忘れて欲しい」盗人に対して「(屁を教えない)アナタはうざったいが、それを教えて欲しい」盗人が執拗に迫っているね。実際には、それは〈屁〉だと教えているのだが、小声なのでちっとも聞こえないのだ。つまり、結果的に「教え(てい)ない」「教えろ」の葛藤が展開しているのである。

 隠蔽したい否定性の物体〈屁〉は人に知られるのは本意ではない。本意ではないが、このように存在を開示せざるを得ない場面はあるだろう。ここでは、それをめぐって「無知」の暴走が「知」を追い詰め(盗人の)共同の利益を損なってしまっているともいえるよね。

 いやはや、「知」の暴走(知ったかぶり)があるかと思えば「無知」の暴走もあるんだ。そういうことって、あるある。
posted by 楢須音成 at 11:11| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月20日

男をだます女の〈屁〉

 そもそも〈屁〉が疎まれる大きな理由はそのニオイにあるわけだ。これがもし芳香であったならば、いまある〈屁〉的世界の醜怪さはまったく違ったものになっているだろうねェ。ははは、それは〈屁〉ではない何ものかになるのである。何なのだろうか?

 ニオイに「臭い」と「匂い」(の差別)があることは世界の常識だが、臭いと匂いで人生の展望が大きく転換することがあるかもしれないさ。

 エッセイなどをまとめた『豆栗集』(生田虎蔵著、1913年)に紹介してあるフランスの小話が面白い。音成のテキトー訳で引用しよう。
 フランスのリエルヌ(現在はベルギー)のある紳士がローマに遊んで一遊女とねんごろになった。馴染みが重なったとき遊女は一策を案じて愛人を驚かそうとした。薄皮の小さな風船玉を作り、蘭(らん)の花と麝香(じゃこう)の香りで玉を満たしたのである。ある夜、かの紳士が訪れるのを待っていた。
 願った通り紳士がやって来てともに寝た。寝室での睦み合いもたけなわのころ、遊女はこっそり股間に手をやって例の風船玉を押しつぶした。爆然一発、まるで屁ような音がした。
 紳士は驚いて布団の中から顔を出し、その臭気を避けようとする。しかし、遊女は平然として「そんなにご心配なさいますな。かいでご覧なさいまし」と言う。紳士が恐る恐る押さえた布団を開けてみると、たちまち芳香が鼻をついた。
 紳士はあっけにとられて「俺の国では屁はひどく臭いものだが、いったいお前の屁はどうしたのか?」と問う。遊女は得意そうに説明した。「そりゃあ、イタリアとフランスは違いますわ。第一、わたしどもイタリアの女はいつも香りのいい食べ物ばかり食べているのですから、自然にオナラまでもいい香りになっていますの。フランスなどでは、お客様の前でオナラを出そうものなら、それは大変なことになるのでしょうが、わたしどもの方ではこれが馴染みの方に対するご挨拶ですのよ」と。紳士は躍り上がらんばかりに歓喜して、しきりに遊女に請うて屁をかぐのだった。
 しかし、ある日のこと、遊女は過って屁をしてしまった。今度は本物の屁である。紳士はいつものように急いで布団の中に顔を突っ込む。一息にかの芳香をかぎ尽くそうとしたのだが、まったく思いがけなくも、それは耐え難いほどの悪臭なのだった。「き、きょうの屁はどうしたのか?」と怪しんで問うと、遊女はゆったり落ち着いて答えた。「あなたも長くお国を離れておいでですから、今日はひとつお国を思い出さして上げようと思いましてね」

 すっかり夢中になっている紳士のだまされ加減が可笑しいのだが、遊女の〈屁〉の芳香を信じ込んでしまった紳士にとって一時とはいえ、世界は確かに違ったものにはなったんだね。

 そのとき遊女が与えた〈屁〉の意義は「馴染みの方に対する(親しみの・特別の)挨拶」という位置づけ。紳士は〈屁〉の芳香によって、愛しい美人の遊女に「選ばれし客」という歓喜の自覚を得たのである。

 もっとも、空腹な豚がブイブイ鼻を鳴らして餌を漁るように、紳士が芳香をかぎ回ってマニアックな嗜好を発揮するのは、単に選ばれし客になって「挨拶」を交わす以上に〈屁〉へのフェティシズムにおちいっている。

 まあ、紳士にとって〈屁〉の芳香はまったく世界が変わるほどに刺激的だったのだろう。

 もっとも、そうであっても〈屁〉の芳香によって世界の基本の秩序が変わったわけではないのだ。イタリアの女性の〈屁〉はいい匂いがするという、せいぜい地域的な「奇異な身体の習性」が報告されているに過ぎないのである。しかもこれは最初からイタズラ(演出)なのだから、世界は不動に〈屁〉は臭いままなのよ。誰の〈屁〉も芳香であるような世界の話ではないわけでね。

 すべての人の〈屁〉が芳香ならば、それは〈屁〉が〈屁〉でなくなる日なのだ。

 やっぱり現実は、どう転んでも〈屁〉は臭いのである。この世界では臭い〈屁〉こそが根本の前提秩序なのだということを思い知らねばならんのさ。

 ところで〈屁〉をこいて男をだます女ってどういうつもり?――言ってることは、するっと筋が通ってるんだけどね。
 そういう嘘を自分も信じて納得してしまっている自己欺瞞的な言辞だな。
ラベル: 芳香 遊女
posted by 楢須音成 at 07:43| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月25日

盗人と〈屁〉の対立

 秀吉に処刑(釜茹で?)されたといわれる盗賊・石川五右衛門には「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」という辞世の句が伝わる。要するに、何があっても盗人は撲滅できません〜と開き直っているわけだ。

 この五右衛門に〈屁〉の話があるかどうかは知らないのだが、盗人と〈屁〉は結構、悪縁(?)がある。盗人が〈屁〉に翻弄されるのだ。
屁の濡れ衣
 ある夫婦、かけ向かひに住まいける人の方へ盗人忍び入り、宵から縁の下に隠れゐける。夜半の頃、背戸の戸に風あたりて、ぷうと鳴りたるを、亭主聞き、女房に、「今のはそなたのとりはづしか」といへば、「はて、わけもない。私がいつそんなことしたこともないに」と大きに腹を立てければ、亭主手持あしく、「そんなら盗人めがな、どこぞにゐて、こきおったものであろ」といへば、縁の下から盗人そのまゝそっと出で、「これは迷惑でござる」というた。
(『福禄寿』1708年)

 罪は罪でも、何としても屁の冤罪はイヤだという盗人のプライドがうかがえるねェ。盗人が何を言うか!ってもんだが、この盗人の妙に生真面目なこと。まあ、罪を犯す人にも〈屁〉とかのプライドがないわけではなくて、立派にあるわけさ。
屁が仕掛ける罠
 盗人二人、宵より樋合(ひあい=家と家の間)に忍んで居りけるが、久しいのち下冷(したびえ)して、一人の盗人屁を一つひつたり。今一人の盗人、耳少し遠かりけるが、いかゞしてか今の屁の音をきゝかじり、『今のはなんだ』と小聲(こごえ)にきく。『今のは屁だ』と小聲に答ふ。聾なれば聞きつけずに、『今のは何だ』ときく。『ハテサテ、屁だと云ふに』といふ。まだ聞入れず、おし返して、『今のは何だよ』ときく。めんどうに成り、われを忘れ大聲にて『屁だといふに』
(1777年『譚嚢』)
 
 つい先日紹介した小咄。うっかり〈屁〉をして〈屁〉の罠にはまり込んだ図って感じだね。妙にしつこい追及に思わず大声を出し、このあと身の破滅を招く事態になったのかもしれない。ここの二人の盗人も生真面目だよな。
屁からの警告
 ある夜、泥棒がはいって、こそこそとしのび足で米倉へ忍び寄ると、暗闇のなかから、いきなり「だれだ! だれだ!」とどなられたので、泥棒は驚いて一目散に逃げていった。
 つぎの夜も泥棒がきたが、やはりその「だれだ」の声に驚いて逃げ帰った。それからつぎの夜も、つぎの夜も、ちょうど七夜つづけてきたが、いつも「だれだ」と咎め立てされて、ついになにも盗まれなかった。
 八日目の夜になると泥棒は考えた。
 いままではこんなことはなかったのだが、どうもあの声はただの声ではない。不思議だと思って、またこそこそ忍び寄ってみると、それは倉番人のじいさんの屁の音だとわかった。
「なんだ、いままでこのじいさんの屁におどかされて逃げ帰っていたのか。よしきた、今夜はその仇を討ってやる」といって、きゅうり畑へいって、きゅうりを一本持ってきて、じいさんの尻の穴へさしこんでおいた。
 それで、さすがの「だれだ」の音も出せないので、泥棒は安心して米だわらをたくさんしょいこんだ。そして、帰りがけに少しあわてたので、きゅうりのつるに足をひっかけて、きゅうりをスポンと引き抜いてしまった。すると、それまでよほどたまっていたものとみえて、「だれだ、だれだ、だれだ」と、たいそう大きな音を休みなしにひりつづけた。
 これには、さすがに寝坊なじいさんも目をさまして、ほんとうの声で、「だれだ」と叫んだので、泥棒は腰をぬかしてつかまってしまった。
(岩手県金ヶ崎昔話)

 そもそも〈屁〉の濡れ衣や罠の話というのは、自らが〈屁〉にこだわって身の破滅を招いてしまう事態に至る内容だが、この話になると〈屁〉が言葉を発して警告してきている。盗人は〈屁〉によってドジを踏んでしまう。〈屁〉の逆襲が恐いねェ。
屁がせまって追及
 秋の夜長に、姑婦(しゅうとかか)と嫁子(あねご)と次男嫁(おはこ)と三人で、行燈(あんどん)を眞中にして麻糸を苧(う)んで(=撚り合わせて)居た。姑は誤つておならをすると、それが『盗人』と鳴つた。すると兄嫁が可笑しがって腰をよじると『居た居た』と鳴つた。弟嫁が屈むと『追(ほ)れ追れ』と音がした。皆が寝たらば入る積りで居た盗人は、それでは覺(さと)られたなあと思つて逃げ去つた。
(岩手県紫波郡昔話)

 次第に〈屁〉は手の込んだ追及の会話を交わすようになっている。問いかけの「だれだ」から「追(ほ)れ追れ」と追いかけ回す切迫感で〈屁〉は盗人を襲っているのである。

 盗人と〈屁〉の関係を見てくると、〈屁〉が単なる音から言葉へと変じて移りゆく中で、盗人という秘匿された存在を暴こうとする、一貫した〈屁〉の怨念のようなものを感じるのだが。まるで盗人は〈屁〉の怨霊に取り憑かれていないか。

 少なくとも〈屁〉は盗人の味方ではないよね。隠蔽される存在という意味では、盗人も〈屁〉もよく似ていて同じなのに、両者の間には対立の構図がある。常に〈屁〉は「盗人」という秘密(存在)の暴露(告発)を行っているのである。

 これらの笑話の構図の底に潜むのは、盗人の「やましさ」なのだろうかねェ。そういう意味では(世間から退場できない盗人の)存在自体の罪を〈屁〉が浮き彫りにしている倫理的な話なのだと思うよ。――自分だってやましい〈屁〉がね!
ラベル:盗人
posted by 楢須音成 at 11:58| 大阪 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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