2010年05月02日

続続続続続続・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 世間では透かし屁はすこぶる評判が悪い。こういう〈屁〉が近くで発生すると、まあ我々は濡れ衣を着ぬよう慎重に振る舞わねばならぬ。透かし屁によってもたらされる人間関係は、そこにルサンチマンがあろうがなかろうが、怨みがこもる実に腹立たしい状況だ。

 自分の近辺で異臭が漂い、誰が〈屁〉をこいたのかわからないのは居心地が悪いよねェ。そういう状況にルサンチマンが現象するとすれば、得てしてあらぬ妄想にとらわれてしまうることが多いものさ。

 では、アナタが誰かに透かし屁をこかれたとしましょうかね。思わず鼻をおおってしまう臭気に周りの誰もが驚愕。明らかにそれは不届きな誰かの〈屁〉なのだ――こういう突然の隠蔽的関係におけるルサンチマンの〈屁〉は、これまで見てきた絶対的関係や相対的関係の〈屁〉とは全く様相を異にする。

 そもそも〈屁〉をしたのが誰だかわからないという状況は、強者が誰なのかわからないわけなのだが、臭い〈屁〉の脅威はしっかり受けている理不尽さの渦中にあるのだ。しかも、よくよく考えると、透かし屁の主が果たして強者なのかどうかも曖昧(不明)だ。


   屁の騒ぎ放(ひ)り手は中にすまして居


 川柳は透かし屁が騒ぎになっている光景だが、すまし顔の屁の主が誰かは不明。もちろん、こんな騒ぎにすらならずに、誰もが(自分じゃないぞと)牽制し合って不機嫌に黙り込んでいる光景もありがちなケースだろう。

 隠蔽的関係を解きほぐしてみたい。
 まず隠蔽されているのは何かといえば強者の姿である。その人がそこにいる誰かであるのは確かなのだが、誰だかわからない。――ということは、その人が強者であるかどうかも実は不明なのだった。常に強者へ向けられるルサンチマンの観点からすれば、これは非常に特異な状況である。

 一般に我々は強者に対するのと弱者に対するのとでは態度や表情が違うのだ。まあ手っ取り早く言えば、強者にはヒクツ〜になり弱者にはエラソ〜にする。もちろん、強者に反抗し弱者に優しくする人もいるだろうさ。要するに、分け隔てなくどちらを向いても同じというわけにはいかないのが、凡人と聖人を分けるところだね。

 となると強者だか弱者だかわからない相手、しかも誰だか特定できない相手に対して、どんな態度や表情が可能だろうか。

 それにまた、透かし屁の隠蔽的関係において発生している脅威とは、いったい何の(どんな)脅威なのだろうか。まあ、強烈な臭気に襲われ一方的な被害を受けているわけだから、脅威には違いない。しかも、発生元を誰だか特定できないばかりか、「アッ、これは私の屁です〜」と気弱な(強者になりそこねた)誰かが告白しない限り、アナタが(も)発生元を疑われる状況になっている。他人の臭気と身に覚えのない濡れ衣という脅威にさらされているのだ。

 このような隠蔽的関係における強者は曖昧模糊としているが、脅威をもたらしている存在として確かに存在している。匿名を名乗っているわけではないにしても、匿名性を装っているかのように自分を消しているわけだ。しかし、普通は匿名というものがイニシャルのような何らかの(視覚的)ほのめかしを提示しているのに対して、透かし屁の主は徹底して存在を消している(ほのめかしすら避けている)のである。つまり、その人は完全に自分を消して、脅威を脅威としてのみ存在させようとしているのだ。(少なくとも、それをめざしている)

 もちろん、誰かが〈屁〉をこいたのであるから、こいた人はいるわけさ。そこでは、その〈屁〉のニオイが(嗅覚的)イニシャルのように自己主張を始めており、あたかも〈屁〉の匿名性というものが発現しているように思えるのである。ここで〈屁〉のニオイが個々に判別可能なほど個別的であれば匿名性は浮き立つのだが、一般に〈屁〉は大雑把に糞便臭とくくられ、しかも忌避的に扱われるので個別の判別は困難なことが多い。せいぜいニオイが強烈かどうかの判定くらいで個々のニオイそのものを判別する余裕はない。だから匿名性とは言っても、中途半端で曖昧模糊としている。要するに〈屁〉を匿名のイニシャルにすることはできないわけ。イニシャルになるような透かし屁は超個性的(なニオイ)だろ〜。

 このことは〈屁〉の曖昧な匿名性は純粋に〈屁〉の脅威を発揮することを意味するのである。これまで見てきた絶対的関係、相対的関係において〈屁〉は強者の(世俗的)権勢をいわば強化・補完するものとして発揮されたわけだが、隠蔽的関係においては強者の権勢は隠され〈屁〉そのものの脅威がモロに露呈してしまうのだ。

 かくして、強者の権勢や悪意のあるなしにかかわらず、透かし屁をこいた人はその瞬間に、その場の強者となる可能性を確保する。そして強者になるためには透かし屁をこいたことが絶対にバレないことが前提である。バレずに〈屁〉の主であることが隠蔽されていて〈屁〉そのものの脅威=異臭が現象していること。これがルサンチマンが発生する〈屁〉の隠蔽的関係の基本的な構図である。

 透かし屁を意図的に放った、隠蔽的関係における強者とは、犯罪を重ねて(陰で騒ぎを見て悦ぶ)愉快犯のような存在なのであ〜る。

 こういう強者は必ずしも世俗的な権勢を誇示できる人である必要はないね。臭い〈屁〉の持ち主であれば誰でもいいのであり、誰が〈屁〉をしたかわからないのだから(世俗的に)弱者であっても(バレない限り)脅威をばらまく強者になれるのだ。

 こうなると、隠蔽的関係において強者に圧倒される弱者とはいかなる存在かということが問題だよねェ。いやはや、ちょっと冗漫な展開だが、次回に続く〜。


ラベル:ルサンチマン
posted by 楢須音成 at 10:19| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月08日

続続続続続続続・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 透かし屁を嗅がされる弱者は理不尽な窮地に立たされている。そこでは、強者が曖昧模糊として不明のまま、誰かの臭い〈屁〉が大きな脅威になって現象しているのだが、脅威の核心にあるものが「濡れ衣」という冤罪である。臭すぎるとか、嫌悪をもよおすとか、気分が悪くなるとか…まあ、こういう〈屁〉の属性が発する脅威が、もちろん前提にある。しかし、本当に恐れなければならない脅威は、鼻をおおわしめるその脅威の発生元が「お前だ!」と指弾されることなのだ。

 生理的な〈屁〉の不快に罪の深さが比例し、その罪の深さに比例して濡れ衣の追及が過酷になる。つまりだね、言い方を変えれば、臭い〈屁〉ほど弱者同士の疑心暗鬼の濡れ衣の危機感は強化されるのさ。そりゃまあ、発生元が誰だかわからない状況にあって、誰にだって「こ、これは誰よ?」という疑念は自然に湧くよねェ。誰もが「誰なのよ?」と疑心暗鬼して狼狽し、濡れ衣に対する恐怖といっしょに怒りが湧き上がってくる。

 まあ、こういうふうに強者(?)が特定できず誰だかわからないような隠蔽的関係において、アナタが感じる〈屁〉のルサンチマンが「誰なんだッ、うまく隠れおって! 畜生め、このまま逃げおおせるなんて許せないッ!」とかなんとか渦巻くわけだが、相手を羨む心的深層は存外に深いのである。

 それは根底で〈屁〉というのものの相互性(アナタもすればアタシもする…)に根ざしているのだが、この点についての考察は後回しにする。とにかく、透かし屁の主を羨み怨むルサンチマンにおいては、濡れ衣を恐れつつ知らぬ顔の半兵衛を決め込むか、あるいは我慢できずに「誰じゃ? 誰じゃ!」と犯人追及(自分ではないことの主張)によって無罪を勝ち取ろうとするのである。

 隠蔽的関係
(E)強者を無視→怒りが恐れに結実する強制的な服従(究極は苦渋の知らん振り)
(F)強者を蔑む→恐れが怒りに転化する攻撃的不服従(究極は濡れ衣拒否の追及)

 Eの知らん振りとFの声を上げての追及は、これまた対照的な態度と表情だね。しかし、どちらも動機は同じだから、ともに「関係ありませ〜ん」「アタシじゃありませ〜ん」と主張しているに過ぎない。

(E)羨み怨んで無視し(不安な)服従を選択→知らぬ顔
(F)羨み怨んで侮蔑し(不安な)追及を選択→暴き立て

 注意すべきは、このときの羨み怨む〈屁〉のルサンチマンは(強者が不明のままなら)自分の無罪(無関係)が明らかになっていても、解消するものではないことである。それは単に濡れ衣の脅威が去ったに過ぎないだけで、鼻をつまみながら周囲の者に疑いを向けている構図には変わりないのだ。だからこういう場合は積極的にFの方向に走るかもしれないね。

 ともあれ、強者が誰であるのか不明という点で不安な現実が突きつけられるのだ。強者は自らを隠蔽するという絶対条件において強者であり、弱者は強者を誰だかわからないという絶対条件において弱者なのである。つまり、それが純粋な隠蔽的関係といえる。

 かりに透かし屁の主が暴露された場合には、隠蔽的関係は一気に瓦解するね。こうなると、それまでの強者と弱者の関係は解消され、暴露した事実をもとに新たな関係性が構築されることになるわけだ。(会社の宴会で強烈な透かし屁をした奴がいたとして、誰の屁だかバレないうちは大いなる「脅威」が現象して誰もが恐れおののくわけだが、屁主が最末席の馬鹿者だと判明したとたんに、恐怖は一転して怒りの修羅場になる…かな?)

 ここで気づいてほしいのだが、隠蔽的関係が破綻しないのならば、強者と弱者との関係は永遠にも続くということだ。しかし、この関係は(強者にとって)板子一枚下は地獄の状況下にあるともいえ、危険な航海といえるだろう。そういう不安定さが隠蔽的関係を覆っているので、強者と弱者は心的にせめぎ合う一種の闘争関係にあるともいえるのだ。

 弱者にとって隠蔽された強者の存在は腹立たしい限りである。弱者が弱者であるゆえんは、他人の〈屁〉を嗅がされるという脅威と、濡れ衣を着せられるという脅威にあるわけだが、ここにルサンチマンへと発動していくそもそもの心的動機があるのだ。

 脅威があるという点では怨む動機(の対象)が明白だね。では、羨むという点では強者の何を羨んでいるのだろうか。

 まあ普通、怨むにしても羨むにしても、何かを獲得できない劣位を感じてそれが起動するわけだね。しかし何をしても、対等ないしは優位を獲得できない絶望に至って、激しい怨念と羨望に見舞われる。ルサンチマンの〈屁〉では、不快な脅威によってその人を怨み、不安な脅威によってその立場を羨むのである。そういう心的運動は苛斂誅求に平常心を奪う心の病なのさ。

 隠蔽的関係で弱者が羨む強者の立場は、絶対的関係や相対的関係のように誰の目にも露わになっているものではなく、誰の目からも逃れて隠れているという立場である。そこでは世俗的な権勢は必要とされず、それは誰であろうとよいのであり、ただひたすら隠れて臭い〈屁〉をこき、四方に脅威を与えている――そういう特権的な超越した唯一の立場なのだ。

 つまりこれは、透かし屁の主の〈屁〉が何の制約や条件も受けずに(ははは、要するに誰の屁かわからないまま)ありのままに〈屁〉が生々しく現象しているのである。それは昔、田舎で肥やしのニオイがどからともなく漂って来て逃げ惑った牧歌的な情景とは訳が違うな。

 そこには(たぶん意図的な、悪意の)透かし屁の主が確かに存在しており、腹立たしくも鼻をおおう脅威を発散して人間の関係性を葛藤させてしまうのだ。弱者はそういう脅威を放つ強者をルサンチマンするのだが、その心的運動は絶対的関係や相対的関係以上に、何やら根深い〈屁〉の構造があるように見えるのだよね〜。
ラベル: ルサンチマン
posted by 楢須音成 at 11:23| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月15日

最終・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 透かし屁の現場にいたら誰だって罪をかぶりたくないだろう。我々は透かし屁を察知したとたんに動揺してしまい、固く固く身構えざるを得ないよね。誰がこいたかわからない透かし屁の主に対するルサンチマンは、そういう警戒心に満ちているよねェ。しかも、そのときのルサンチマンは絶対的関係や相対的関係とは明らかに異なる、何か奇妙な感覚をもたらす(ように思える)のだ。

 そもそも透かし屁の主に対するルサンチマンなど発生するのか――いやまあ、そういう疑問もあるかもしれないのだが、この隠蔽的な関係におけるルサンチマンの発動は〈屁〉的な独自性を持っている。一般にルサンチマンでは「羨まし〜」「怨めし〜」「復讐〜」と露骨に呪詛したり、あるいはそれを心的に深く深く隠して何食わぬ顔で振る舞う。しかし、隠蔽的な関係(つまり透かし屁が漂う状況)で「羨まし〜」「怨めし〜」という心的運動の高まりの果てに現象しているのは「復讐」ではなく「警戒」なのである。

 ルサンチマンに囚われた人がそれを(時には我知らず)内に隠して(いろいろな態度と表情で)振る舞うときに、他者に厳しく倫理的であったり、しきりに道徳を語ってしまうことがあるのは復讐心の裏返しであったりするのだが、警戒の〈屁〉のルサンチマンに囚われた人は、他者に全く倫理的でもなければ、そんなに道徳を振り回すこともないね。どうするかと言えば、ただひたすらに無関係を装うのである。他者との関係において振る舞う倫理とか道徳は、隠蔽的な関係では影を潜めてしまうのだ。

 もっとも、警戒の〈屁〉のルサンチマンが、ひたすら無関係を装うところから転じて、鬼の首でも取るように激しく発生元の追及を始めるような場合には(引っ込めていた)倫理・道徳を積極的に持ち出し盾にする厳しい詮索となる。しかしまあ、開き直ったそういう追及は逆に「アナタが発生元?」と疑われる返り討ち(濡れ衣)の危険もあるし、ただ無難にひたすら黙っているとか、そうでなければ消極的に自分ではないことをさりげなく態度に出す(例えば、控え目に「オレでない、ない、ない」と受難者のような迷惑顔で鼻をつまむ…とか)にとどめることが多いだろう。表に出す建前の(つまり他者を責める)倫理・道徳は影を潜めがちなのだ。

 ただ、どちらも意識的かどうかは別として、そういう態度に「後ろめたい」思いがある(よね?)。なぜなら、片や復讐を内に秘めて、人に(裏腹の)倫理・道徳を語るのだし、片や人に対する警戒(=とどのつまり無関係を装う徹底した事なかれのご都合主義)を内に秘めているから、人に「屁をこいたらいかん」と倫理・道徳を(語りたいのに)語れないのである。(だから転じて犯人の追及を始めるときには、一気に「誰だ!誰だッ!」と倫理・道徳が吹き出してくるさ)

 こういう後ろめたさは裏腹な関係から出てくる。復讐(オレの屁をぶっかけてやる)と倫理・道徳(屁をしてはいかん)は心的に方向性の違うものの共存だし、警戒(オレは無関係)と倫理・道徳(自他に見て見ぬ振りはいかん)も同様だ。結局のところ、以上をまとめるとこうなるだろう。

復讐のルサンチマン→立場の逆転を願う後ろめたさ
警戒のルサンチマン→立場の隠滅を願う後ろめたさ

 このように〈屁〉のルサンチマンには二つの構造を想定できるわけだが、より〈屁〉的な構造というものは、警戒のルサンチマンにこそあるように思うんだよね。

 それは〈屁〉が持つ「相互性」の浸透である。この相互性というやつは、まあ単純な話で「アナタもこけばアタシもこくよ」ということだ。人間は〈屁〉から逃れられず、決して〈屁〉を否定することはできないのであるね。地獄のかぐ鼻も、イジメに遭った韓信も〈屁〉はこくのである。ただ、それは平等に保証されているわけではない。

 絶対的関係や相対的関係における相互性は「アナタはこいたがアタシはこかない(こけない)」という一方的な関係に転化している。ここでの相互の立場は強者・弱者という世俗的な立場(優劣)が優先・誇示されて、弱者の〈屁〉は厳しく抑えられているわけだ。

 一方、隠蔽的関係においては「アナタはしたがアナタはいない」「アタシはしてないがアタシはいる」という(実在と不在が)転倒している関係に転化している。相互の立場はその転倒によって現象し、強者と弱者は疑惑だらけのきわめて不安定な関係を結んでいるわけである。

 こういう場合のルサンチマンは、誰のものかわからぬ透かし屁そのものの脅威が増せば増すほど、激しく屁の主に向かうだろう。「そんな屁は絶対こいてはいかん〜」のに姿を隠して愉快がっている(のかもしれない)のである。愉快犯である透かし屁の主に対する羨望は(もし自分が透かし屁の主なら)容易にその愉快を理解できるところに根拠があるだろうねェ。(もちろん、バレたら身の破滅だよ)

 さて、ここまで長々と〈屁〉のルサンチマンを考察してきたわけだが、こう見てくると、ルサンチマンは平等(自由)な〈屁〉の相互性が阻害されて発現していると観察されるのだね。(当たり前だが)

 我々は誰でも〈屁〉をするが、それは平等な生理として発現させるのが理想である(か?)。まあ、何の雑念も妄想もなく、こきたいときに自由にブリブリ出して、お互いに干渉しないのがよろしいねェ。しかしこの世界は、一発〈屁〉をこけば、自分はもとより、さまざまの立場の人に心的な影響を与えざるを得ない。

 老若男女美人不美人賢者愚者――誰にでも平等に宿るからといって、異音異臭の〈屁〉がいったん放散されれば平等どころでなく、かぐ鼻も韓信もアナタも羨み怨むルサンチマンに達する場合もあるわけだ。いやはや、ルサンチマンは人と人との関係をあぶり出して〈屁〉を復讐の道連れにし、また〈屁〉自体の存在様式(出所不明の異音異臭)に寄り添って人間を追い詰め警戒させるのだ。

 いやまあ、どう転んでも〈屁〉の平等(自由)な相互性なんて幻想なんだろうな。
ラベル: ルサンチマン
posted by 楢須音成 at 15:01| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月23日

涼を求めて風が腐る夏

 人間の認識は類比的な連想で構成されていくものだね。まあそこで、我々の〈屁〉なのだが、これには例えば「風」というイメージがある。厳密にそれが速度と風量を持つ流れ(風)として把握できるかは疑問だとしても、感覚的にわからないではない。(もう一つ、重要な〈屁〉のイメージとして屁玉というのがあって、これは「玉=まあるいもの」というイメージなんだけどね)

 下風(げふう)というのは〈屁〉の異名である。また、昔は風病(ふうびょう)という病気が認識されていた。これは〈屁〉に専属の病気を言っているわけではない。どういう病気かというと「古く、風の毒に冒されて起こるとされた病気。頭痛、四肢の疼痛あるいは異常感覚、発音障害、四肢の運動障害などの症状を伴うものの総称」(日本国語大辞典)である。まあ音成としては、まさに〈屁〉にやられるのが風病だと思うわけなんだけどねェ。実際〈屁〉を溜め込むと身体に変調を来し突然死の原因になることもある。身体的な〈屁〉の危険性は侮れないのだ。

 さて、自然界の風には大小あって、これと類比すると普通には〈屁〉は「小」の部類に入るだろうね。まあ、せいぜいウチワで扇いで感じる程度の風だろうか。ウチワの大小、扇ぎ方はいろいろあるけど、そよ風の音ナシじゃ透かし屁だよなァ。

 もちろん〈屁〉はただの風ではないさ。そこのところがいろいろ物議を醸すのだが、その風が〈屁〉だと認識しないうちは、例えば〈屁〉に対してこんなことを言ったりする(かな?)。曰く「あ、風が腐ってる?」――いやいや〈屁〉だとわかって洒落で言ってみたりするわけだ。
 福富織部の『屁』から小咄を引用する。
 或(ある)金持が大きな袋に風を貯(たくわ)へて置いて、夏になつて暑くなると袋の口をあけて少し宛(ずつ)出して涼んで居つた。或る日主人の留守中に小僧たちが密(ひそか)に此の袋を持ち出して中の風を使つたはよいが、餘り出し過ぎて袋が萎(しな)びてしまつたから、その埋合(うめあわ)せに大勢で屁を放り込んでふくらませておいた。斯(か)くとは知らない主人は歸つて來て例の通り袋の口をあけると、中から臭い風が出て來たから、『餘り暑いので風が腐つたわい。』

 何とも可笑しい話だが、このように(1)風を何かに溜める(2)それを持ち運びする(3)それを放出して利用する――というのは、まあ言ってみれば、風神の風袋を自分も手にしようとする意欲(夢)であろう。風に人間が関わっていく(認識の)一つのパターンともいえる。

 話がそれるが、日光にある輪王寺大猷院霊廟の風神像が持っている風袋はなかなかの迫力だね。圧縮した風がどっしり詰まっていかにも重そうなのだ。その風をあまりの暑さに腐らかしたら…と想像しただけで笑うわなあ。

 ま、人間界においては風が腐るとは、それは〈屁〉なのであ〜る。

 中重徹の『一発』から同種の話を引用する。ここでは袋が長持になっているが、風の涼を奪われて〈屁〉で置き換えられてしまうという筋立てのパターンは同じだ。
殿様、御家老を召せられ
「明日は客来(きゃくらい)があるが、暑気の時分、何ぞ涼しき馳走をいたしたいものじゃ。イヤ存(ぞんじ)ついたことがある、去夏(きょなつ)高輪の辺を通行した時、品川沖から、ことのほかよい風が吹いたが、あれは涼しい所じゃ。どふぞあの品川の風をとりよせて、客へ涼ませる事はあいなるまいか」
御家老「コレハよい思召(おぼしめし)つきではござりますれど、如何いたして取よせませうか」
殿様「イヤ中間(ちゅうげん)共に長持(ながもち)でも、もたせてやって、そのなかへ入れて戻れば、よいではないか」
御家老「いかさま左様に申つけませう」
と、そのよし、仰せ付られければ、中間二人に足軽つきそひ、長持をかつがせ、さっさと高輪の海辺へゆき
足軽「成程涼しい所だ、ソレよい風が吹くは、角内長持をよこにして風をいれやれ」
「かしこまった」
と、ふたを取(とり)、沖のほうへ長持をむけて風をいれ
「サアよかろふ」
と、ふたをしてかつぎいだし、芝神明(しばしんめい)のあたりへ来て
「ナント今日はとんだ暑い日だ、ちと休もふ」
足軽「高輪では涼しかったが、ねっから爰(ここ)には風がない。ナントあんまり暑いが、この長持の風をちっと斗(ばかり)、はじけ(横取りすること)て涼もふではないか」
「コレハよからふ」
と、すこし蓋を明けかけ、てんでんに背中をつきつけ
「アゝ涼しい、奇妙奇妙」
と、しばらく涼んで
「サアサアやらかそふ」
と、蓋をしてかつぎあげた所が、長持大きに軽くなって、肝をつぶし
「イヤ可内まて、風がみな無くなったよふだ」
と、下におろし、蓋をあけてみれば、さっぱり風なし
「サア、こいつはとんだことをした、今からまた、高輪へ帰っては遅くなる、どふしたものであろふ」
と、いろいろ考へ
「よしよし、おいらが屁をひって、その風を入てかへらふ」
可内「コレハ面白い、成ほど外にいっかう風なし、わしどもも、ともどもひりませう」
と、長持の中へ尻をつきつけ、かけ合に
「ブウブウブウブウ」
と屁をひり
「サアもふよかろふ」
と、かつぎあげ
「イヤとんだ重くなった。コリャだれぞ実でもいれはせぬか。なんにしろ早く帰ろふ」
と、すたすたお屋敷へ帰り
「高輪の風持参」
のよし、殿様へ申上れば、ことの外御機嫌よく、扨(さて)翌日かのお客来の時、御酒なかばにて、殿様
「サテサテ大暑の時分、何かな御馳走と存じて、品川沖の風をとりよせました。ちとお涼みなされ」
と、かの長持をお座敷へかつぎこませ、お客のほうへ向けて少し傾け、ふたを取ければ、風はあれどもことの外悪臭(わるくさ)く、お客みなみな顔をそむけ鼻をつまめば、殿様じきに、御座敷を立(たち)て御家老をめされ
「ヤイそのほう何と心得た、あれは品川の風ではない、くさくてどふもならぬ、いづかたの風をとり寄せた」
と仰せければ、御家老おそれ入(いり)
「イヤ高輪の風に相違はござりませぬが、わたくしおそれながら」
と、お座敷のほうへ顔をむけて、鼻をすゝりしばらく考へ
「ハゝア土用中でござれば、昨日の風はもちますまい」
(宮尾しげを校註『絵入・江戸小咄集』)

 ははは、御家老は中間たちの悪行の真相を悟り、事件を隠蔽しようとしたのではないかねェ。お金持とか殿様って真相を悟れないKY(空気読めない)が多いんじゃないですか。
ラベル: 風神 風病
posted by 楢須音成 at 18:07| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

何を食ったか〈屁〉でわかる

 医者のエッセイにはしばしば〈屁〉が登場する。というか、人間の〈屁〉を愛する医者ならばエッセイを書く、というべきか。この場合〈屁〉を愛するとは、まあ、観察が細かい(偏愛的)ということであって、しっかりエッセイのテーマになり得るということだ。

 もちろん、医者だけが〈屁〉をテーマにするわけではないが、医者は身体の冷静な専門家なのだから〈屁〉を毛嫌いして隠蔽する動機は小さいだろう。音成は書店で医者の本を見つけると手にとってみるのさ。先日、古書店で『たいくつしない外科学 老先生の内緒話』(山田淳一著、1989年、北海タイムス社刊)という厚い本を見つけた。

 著者は北海道大学医学部で教えたり、病院長を務めたりして引退した人。外科医として過ごした戦前・戦中・戦後の昭和時代を振り返って、思い出をまとめた自叙伝風のエッセイ本だ。パラパラめくってみると、ありましたねェ。これで内容が掘り出し物だと大変うれしい。

 巻も終わりの方の「第四編 くさぐさの記」第十五話に「オナラいろいろ」とある。

 その一、日本のオナラ
 その二、中国のオナラ
 その三、北海道のオナラ
 その四、オナラ録音コレクトマニア
 その五、オナラに対するエチケット

 といった構成である。これは〈屁〉に限らないだろうが、体験的な発言というのは面白いし、貴重なものが多いね。〈屁〉の話なんていうのはてきめんで、一次情報には裏付け(根拠)があるんだからさ。この中では「北海道のオナラ」がリアルでしたよ。
 北海道のオナラには二つの特徴がある。
 冬期ストーブの前で発射されたスーは、熱せられた煙突に沿う上昇気流に乗って一旦天井に達し、その後おもむろに壁に沿う下降気流によって攪拌され部屋中に拡散する。従って発射時より稍(やや)遅れてどこからともなく臭うから、三人以上の人が同室する時には、発砲犯人をにわかにつかみ得ない特徴がある。
 また北海道には特有な臭いを持つ冬期に限るスーがある。
 それはニシン漬けのオナラである。
 ご承知のように北海道は半年間雪に埋れるから、その間の野菜の貯蔵法の一つとして、大根の乱切りを主とし、同量のキャベツと、少量の人参をきざみ、身欠ニシンとともにコウジで漬けるいわゆるニシン漬けである。
 初めて食べる人には、ちょっとなまぐさいのが気になるが、慣れるとこれ程美味な漬物はないと思っている。
 昔は毎年十一月の漬物シーズンになると、必ず軒毎に見られた漬物用の大根干しは、北海道に特有な晩秋風景であり、各家で幾樽も漬けたものだが、最近ではニシンが不漁で貴重品で高価となったばかりでなく、マンションやアパート暮らしが多くなり、樽の置場がなくなったためもあってか、自家製のニシン漬けが少くなり、今ではデパートやマーケットで、ビニールの小袋入りのものにしか見掛けなくなった。だから昔のように主食のようにして食べることもできず、冬期の食膳も淋しくなった。しかも、現在のものはニシンが申し訳程度しか入っていないから、昔の味とは程遠いものになった。
 かつてのように物置から木槌で樽に張った薄氷を破って取り出したばかりの、氷の薄片がキラキラするあの歯にしみるつめたいニシン漬けの味は忘れられない。
 しかしこのニシン漬けを発生源とするオナラは、ちょっと臭いのが欠点で、朝の通学、通勤の満員電車やバスの中では、毎日必ずニシン漬けによるスー型の香りをかがされたものである。
 誰か身近なものがやったなあと思いながらも、乗客の誰もが嗅覚麻痺の患者のような顔をしていたのも、おかしかったものである。
 もっともその頃は大気汚染問題もやかましくなかったから、どの位のPPMだったか調査した者もなかったが、可成りの濃度だったに違いない。

 最初に出てくるストーブと〈屁〉の関係からは江戸の川柳を思い出したよ。同様の名句がストーブにもあっていいと思うけど。


    こたつから猫もあきれて顔を出し


 ははは、ここには北(ストーブ)と南(こたつ)の暖房器具と〈屁〉という人生百態のテーマがあるわけさ。(そ〜んなもん、ない? いや、ありますって)

 ニシン屁も地域性のある話だが、食べたものによって〈屁〉のニオイが決定づけられるのは道理である。次は新美南吉の『屁』(1940年)の一節。子供たちが誰かの〈屁〉で騒いでいる素晴らしい教室風景だ。
 それから南のまどぎわへ歩いていって、外の空気をすうために、ややハンケチをおはなしになる。藤井先生のいつもきまった動作がおもしろいので、生徒らは、男子も女子も、ますます、くさいとさわぐ。すると、古手屋の遠助が、きょうは大根屁(だいこんぺ)だとか、きょうはいも屁だとか、きょうは、えんどう豆屁だとか、正確にかぎわけて、手がら顔にいうのである。
 みんなは、遠助の鑑識眼(かんしきがん)を信用しているので、かれのいったとおりのことばを、また伝えはじめる。
「あ、大根屁だ。大根くせえ」
というふうに。ようやく喧騒(けんそう)が大きくなったころ、先生は、
「だれだっ」
と一かつされる。一同はぴたっと沈黙する。そして申しあわせたように、教室の後方に頭をめぐらす。みんなの視線の集まるところに、屁えこき虫の石太郎が、てれた顔をつくえに近くさげて、左右にすこしずつゆすっているのである。

 ここでは〈屁〉のニオイで食べたものを正確に嗅ぎ分ける鑑識眼に感嘆しているよねェ。実に繊細に嗅ぎ分けるのである。こういうことは可能なのか。

 焼肉を食ったあとの〈屁〉は臭いとか言うけど、それが果たして牛肉か豚肉か鶏肉か、わかる人にはわかるのだろう。(麻薬を嗅ぎ分ける麻薬探知犬のように、ちょっと訓練して…いや、やっぱり遠慮します)

 ニシン漬けの変遷で今やニシン屁も昔のようなものとは違うのかもしれない。濃厚だったり淡泊だったりする〈屁〉のニオイとは、ありのままの生活の実感そのものだよ。
ラベル: ニシン 北海道
posted by 楢須音成 at 11:24| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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