2010年04月04日

続・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 ニーチェは「神」を引きづり出してきてルサンチマンを語ったが、ここでするのはそんな高尚な話ではない。何しろ誰もが嫌がる〈屁〉の話なんだからさ。とにかく〈屁〉に即して〈屁〉を語らんや――と思うのだが、ルサンチマン的な〈屁〉の原点にはやはり、強者と弱者の(大雑把だが)構図があるのであった。

 それにしても人間という奴は、身のほど知らずというか何というか、中身がないアホ〜のくせに、常に相手と対等ないしは優位の関係に我が身を置きたがり、それをもって安心立命する存在であるらしい。我知らずイイカッコしている強者をめざすのである。(そうなれないのは、まあ挫折だ)

 もちろん機会均等を求める世間では、人間同士は一つの関係にだけ縛られるものではないし、価値観においても何を優位に置くかは人さまざまだし、強者(優位)と弱者(劣位)の関係というものは場面場面で入れ替わるわけよ。

 しかしそれでも、確かに世間には身のほど知ってか知らずか、エラそ〜にする奴がいるよねェ。自慢げに世俗のオーラに包まれて「そんな細け〜ことはイイんだよォ」とか「おまえナニいってんだァ」とか「そこドケよォ」とか平気で言い放ち、とことん我が道を行く骨太の優位性というのはあるんだよねェ。いや別に、こんなこと言うからって特に誰にも恨みはないです。ホントです。

 だからまあ、恥じることなく〈屁〉をこいて、いつもエラそ〜にする人だっているわけよ。

 ということは、逆にエラそ〜に(したくても)できない人もいるわけでね。そういう場面の強者と弱者はいつも対関係なのである。そして一対一の関係ばかりではなく、集団的あるいは社会的な構造になって発現することもあるさ。格差社会の金持ち(富裕層)と貧乏人(貧困層)とかね。では、強者と弱者の関係が臭い臭い〈屁〉において発現すると、そこにはルサンチマンの怨念が生じる――のだろうか?

 普通ルサンチマンの怨念とは(意識しているかどうかは別として怨念の背後に)、その人に成り代わりたい・同じことをしてみたいという嫉妬や羨望があるとか、相手を否定する理由を探し出し実は見下しているとか、そういうことが難しければ抹殺を夢想し想像上の復讐を成し遂げているとか、要するに、身も世もあらぬ恨みの狂躁を平定し、平静な心のバランスを取り戻そうとする心的運動が起動して、その渦中(葛藤)に投げ込まれている状態なのである(か?)。それは動かすことのできぬ強者と弱者の強固な関係(現実)を合理化(納得)しよう(あるいは、せめて心的に強者と対等になろう)とする自己救済の心の運動なのだ(ろうか?)。

 ありがちな、イジメられっ子がイジメっ子に抱くルサンチマンならば、音成にも幼少時代のホロ苦い思い出があるさ。いや、陰湿なものではなかったが、当時の気持は「畜生アノコに成り代わりたい〜」「ボクが弱いのはとても身体が弱いからだ〜」「ボクはやさしいニンゲンなのだ〜」「そんな乱暴はいつかバチがあたるぞ、あたれ〜」「どこかに転校してくれ〜」などと千々に乱れて思い詰め、彼女の抹殺を願ったものだ。ははは、ちょっと誇張した。ゴメンね。しかしまあ、しばかれつつも相手を立て(つまりは「受け入れ=納得」して)自分なりに忠勤に励んでいたのも事実で、はいはい情けない我慢の怨み節です。

 強者への反撃は「脳内の現象=観念運動」にとどまる限り、願いの現実化(関係の逆転)は挫折したままだね。ルサンチマンとは、挫折(関係の逆転ができない)を保持したまま(何かしらの口実・理由・根拠を見つけて)挫折感を克服・回避しようと(自分で自分を騙す)自己欺瞞に至る過程であり、そこでは強者と弱者の関係解消が実現しているのではなく、赤裸々な関係の意味は糊塗され本来の挫折感が見えなくなっているのであ〜る。(こういう心的操作が巧妙になされると、外に向かってすごい主張が展開されたりするな。この過程に自覚的かどうかも問題なのだけどねェ。まあ、いいや…)

 では、無礼な臭い臭い〈屁〉をこかれれば、すべての人はルサンチマンになる――のか?

 前回、ルサンチマンの〈屁〉の三つのパターンを考えてみたわけだが、こういうものだったね。
(1)絶対的(入替不可)な強者と弱者の関係→かぐ鼻もこらへかねたり閻魔の屁
(2)相対的(入替可能)な強者と弱者の関係→韓信に意地のわるいが屁をかがせ
(3)隠蔽的(曖昧模糊)な強者と弱者の関係→屁を殺しあたり四五人かかりあひ

 もちろん、強力な〈屁〉をこいた人が強者なのであるが、いくら強力であってもその〈屁〉を自ら恥じたり、相手を気の毒がったりしては強者とはいえない。強者とは自分の〈屁〉に反省もない(限りない自己肯定の)確信犯の人なのである。

 それは単に尻の穴の締まりがないからそうしているわけではないのだ。強者には間違って〈屁〉をこくウッカリ度は低いはずだ。たとえ間違っても「俺はこいてもいいのだ」あるいは「ほれ、嗅いでみろ」あるいは「ふッふッふッ」という感じで弱者を前に余裕があり、ワザとこいているというのが真相である。

 このとき〈屁〉を嗅がされる弱者は、傲慢な強者との関係において誕生しているわけだ。(1)〜(3)の状況を少し踏み込んでまとめてみるとこうなる。

(1)絶対的な関係=エンマ様とかぐ鼻は固定化されている地獄の住人である。その世界はフレームが確定していて動かせない、絶対的な強者と弱者の存在様式となっている。地獄では構成する役割が決して交代されることはない。

(2)相対的な関係=韓信と不良はいずれ力関係が入れ替わるかもしれない世間の住人である。その世界は時間・空間の推移によって強者と弱者が入れ替わる可能性を秘めている。長い目でみて世間ではこういう人間関係が常態だろう。

(3)隠蔽的な関係=姿を隠して強者の影響力を行使しようとする匿名性が力を持つ世界の住人である。その世界は誰かわからない強者によって一方的に弱者が生まれる。しかし、その強者とは弱者のふり(強者ではないふり)をしている誰かとも疑われる正体不明の不安定な状況だ。

 一発の〈屁〉がもたらすルサンチマンの怨念は概ね以上の関係性を孕むと観察される。ここから〈屁〉は人さまざまに千変万化の振る舞いを呈するのであ〜る。


ラベル: ルサンチマン
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2010年04月09日

続続・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 ここまで〈屁〉のルサンチマンを追究してきたつもりだが、ちょっと首を傾げている人がいるかもしれない。ルサンチマンと〈屁〉を結びつける立論そのものへの疑念だね。そもそも誰が好き好んで他人の〈屁〉など羨(うらや)むか?――まあ、そうなんだよねェ。そういう気持、わかります。

 ルサンチマンの〈屁〉に潜んでいる羨望とか嫉妬というのは一体どういうことなのか。話を少し整理したい。前回指摘した三つのパターンについてさらに考えてみると、こうなるかな。

(1)かぐ鼻とエンマ大王=かぐ鼻は鼻が利くゆえに屁に敏感である。地獄に堕ちてきた者どもの屁は罪としてエンマに報告し告発する。しかし、地獄の頂点にいる大王エンマの屁には何も言うことはできない。耐え難くともエンマの屁は我慢しなければならない。すべての自由と掟を掌握する大王なのだ。かぐ鼻にあるのは絶対的な服従と奉仕であり、大王のいかなる振る舞いにも絶対に口をはさむことはならぬ。――だから、かぐ鼻は大王が羨(うらや)ましいか?

(2)韓信と不良ども=いけ好かぬ韓信に屠殺業仲間の不良の一人が「その剣は何だ。死ぬ気があるなら、お前の剣でオレの胸を刺してみろ。できなければ股をくぐれ」と嘲笑う。臆病者呼ばわりの無礼であるが、挑発に乗っては大望を失うと、甘んじて屈辱を受けたのである。股をくぐった瞬間の一発の屁に、周りは大笑いして嘲った。――だから、韓信はそのときの不良が羨ましいか?

(3)アナタと透かし屁野郎=誰がこいたかわからない透かし屁を嗅いで卒倒しそうになる。自分以外の屁は我慢できぬほど臭い。見回せば誰もがオレでないという顔をして居ずまいを正し、態度にまったくスキがない。なかには迷惑そうに疑惑の目でアナタを見ているヤツがいる。アナタではない。アナタ以外の、ここにいる誰かがこっそり屁をこいたのである。――だから、アナタは透かし屁野郎が羨ましいか?

 こういう状況の解釈はさまざまにあり得るだろうね。音成は強者と弱者の観点から、まず関係の構造パターンを(1)絶対的関係(2)相対的関係(3)隠蔽的関係――と捉えて抽出してみたのだった。

 しかし、このような関係において必ずしも、羨望や嫉妬(を孕んだルサンチマンの怨念)が生まれるとは限らないと観察するかもしれない。なるほど、「女王蜂に奉仕する働き蜂のように、かぐ鼻はエンマに二心なく服従し奉仕している」とか「韓信にとって大望の前の小事。不愉快でも相手とするに足らないから無視でOK」とか「透かし屁野郎はただひたすらブッ殺してやりたいだけ」というように、相手への羨望や嫉妬など微塵もないかもしれないのよねェ。

 まあ確かに(1)〜(3)の関係構造の中にいて、そういうことであれば、つまり相手への羨望や嫉妬などを孕んでいないのであれば、ただ単にストレートな不愉快・怒り・復讐の噴出となるだろうね。特に地獄のかぐ鼻ときたら端から人間離れしており、仕えているエンマの〈屁〉が臭くて閉口しても怒りや怨念などないのかもしれない。それはそれで、つまりそうなんだよね。(ははは、何のこっちゃ――もっとも、羨望や嫉妬は当の本人が微塵も意識しないという、巧妙な心的操作で覆い隠されていることもあるわけだけどね)

 これは要するに、人がルサンチマンの怨念に突き進むのはその人が抱え込んだ心的事情が左右するということなのであり、同じ状況(関係の構造の内)にいてルサンチマンに陥る人と陥らない人がいるという単純な現実である。

 そこを踏まえれば(1)〜(3)の状況把握は(そんなに)見当違いではないと思うのよね。だから、そこには必ずやルサンチマンの〈屁〉の怨念を抱く人もいるのであり、つまり「絶対的関係」「相対的関係」「隠蔽的関係」のそれぞれにおいて、怨念の様相を千変万化させてルサンチマンの人が出現しているのである。(ええだから、ルサンチマンにならない人もいるわけよ)

 かくして、かぐ鼻は(強い虫になりたい弱虫の人間さながら)エンマのワガママを羨んで怨み、心中で密かに断罪しつつ服従しているのかもしれない。韓信は(剛胆に振る舞えない自分を恥じつつ)不良どもの剛胆さを羨んで怨み、今に見ておれ(いつか見返してやる)と忍従しているのかもしれない。そしてまた、透かし屁を嗅がされたアナタも……? ははは、まあ実際はどうであれ、どんな状況下でも強者を羨んでしまう人間の心的運動とは一体全体何なんだよ〜というのが問題だ。

 そしてまた、このように羨望や嫉妬が〈屁〉に作動し怨念となってしまうルサンチマンは、人により真逆の態度になったりするのである。笑顔や鉄面皮や能面や激怒といった「表情」のいずれかを選び、服従や奉仕や自虐や裏切りといった「態度」のどれかをとって(内に籠もれば隠微にも、外に放たれれば悪辣にも)振る舞うのである。(このとき表出する表情と態度は、時により場合により喜怒哀楽のナンデモありの形相となるだろう。先に言っておけば、ルサンチマンの千変万化の形相は、それらを表出させる単一の内部構造によって統合されている)

 最初に戻るが、誰が好き好んで他人の〈屁〉など羨むだろうか――この違和感は当然である。確かに普通は〈屁〉そのものに羨望や嫉妬を抱くことはないだろう。突き詰めれば、ルサンチマンの(1)〜(3)においては、それぞれ〈屁〉をした「人」を羨んでいるのであって、〈屁〉を(直接的に)羨んでいるわけではないんだよね。このことが〈屁〉のルサンチマンの根底にある大きな特徴なのだ。それは〈屁〉というものの重要な構造なのである。

 貧乏人が金持ちを羨み怨みに思うのと、臭い〈屁〉をこかれて〈屁〉をした人を羨み怨みに思うのは、似て非なることなのだ。ルサンチマンが拠って立つ構造が微妙に違うんだからね。
ラベル: ルサンチマン
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2010年04月19日

続続続・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 何かしら強者と弱者の状況があって、まあ、誰かが臭い〈屁〉をこくわけさ。そこに〈屁〉のルサンチマンが発生するとすれば、このときルサンチマンの弱者は〈屁〉をした人を羨(うらや)んでいるのであって、決して〈屁〉を羨んでいるわけではないと、前回そう確認したのだった。この〈屁〉は忌み嫌われる物体としてある。

 これが〈屁〉ではなく「金」だとするね。そして強者と弱者は金持ちと貧乏人の関係とする。このときのルサンチマンとは、貧乏人が金持ちを羨み怨(うら)んで、自分も「金」を持ちたいと渇望してしまう状況というわけだ。このように〈屁〉と「金」では、我々の心的な振る舞いが全く違うのであり、要するに「金」なら音成も欲しいわい。

〈屁〉→屁なんぞ羨ましくない(屁を忌み嫌う)but(それを持てる)立場が羨まし〜
「金」→金なんか羨ましい(金を渇望する)and(それを持っている)立場も羨まし〜

 これを〈屁〉と「金」の属性に着目して少し言い換えると、次のようになるかな。

 否定性の物体〈屁〉はいらぬ→忌み嫌われる物体を保持し特権的に扱うことができる権勢へあこがれる
 肯定性の物体「金」は欲しい→渇望される物体を保持して特権的に扱うことができる権勢へあこがれる

 要するに〈屁〉においては〈屁〉がこける「権勢」に圧倒されて羨ましいのであり、また「金」においては、見せつけられる「権勢と金」に圧倒されて羨ましいのである。かくして、強者は〈屁〉においては忌み嫌われることを前提に権勢をふるい、「金」においては渇望されることを前提に権勢をふるうのだ。

 権勢とは優位の誇示であり、時にそれは人を脅かす傲岸不遜な暴力的な振る舞いになることもあるだろうねェ。まあ、非暴力平和主義の世の中では、あからさまな暴力の露出はしにくいわけだが、暴力性のある言動や行動が世間で絶えることはない。暴力性とは関係の優位(権勢)の一側面であり、かぐ鼻や韓信や透かし屁に遭遇したアナタのような〈屁〉の弱者は、まあ当然ながら関係の劣位を強制されている。そこにはルサンチマンの怨念が深く深く胚胎するのであり、そういうときの〈屁〉は(強烈かどうかはともかく)際立って臭い(と感じる)のであるよ。

 その際立つ〈屁〉の臭さはルサンチマンの怨念によって、絶対的に許されざるものへと祭り上げられるのだし、それが「金」ならば、その際立つ富貴は(渇望されつつも)ルサンチマンによって(ときに)超越的に許されざるものへと祭り上げられるのである。(全くのところ我々は「金」が欲しいくせに、逆に金や金欲は罪悪だと断じてしまい、持てない貧乏人の浅ましい怨念に我を忘れて浸るのよね。しかし〈屁〉はそもそもが許されざるものだ…)

 さて、このように弱者の〈屁〉のルサンチマンの怨念を「金」と対比して見ていくと、弱者の〈屁〉の怨念のあり方が一見したところ単純のように思える。

 つまりこれは、弱者が忌避・抹殺したい(のにできない)強者に向ける〈屁〉的怨念と、渇望・奪取したい(のにできない)強者に向ける「金」的怨念との違いなのだが、表層としては同じようなルサンチマンの発動となるのである。

 ここに再び〈屁〉の「絶対的関係」「相対的関係」「隠蔽的関係」――を持ち出してみよう。

 絶対的関係
 もはや立場が覆(くつがえ)りようもない〈屁〉の強者に直面した場面だったね。あるいは、覆りようもない強者に直面したと信じる場面である。このようなとき、ルサンチマンの〈屁〉の怨念は、諦念を孕む次のAかBの方向性を選択する。
(A)強者を崇(あが)める→恐れに結実する自己否定
(B)強者を蔑(さげす)む→怒りに転化する自己破滅

 例えば、かぐ鼻とエンマ大王の関係は覆すことのできない絶対的関係だ。かぐ鼻が(ルサンチマンに陥るとして)エンマの〈屁〉にとり得る態度はAかBである。Aならば、かぐ鼻は恐れ怨みながらも(エンマに取って代わろうなどとはつゆ思わず)自己否定して支配されるのであり、Bならば、蔑み怨んで怒りのあまり破綻する(自殺とかする)のである。これらの深層には永遠に関係を覆せない存在論的諦念があるだろう。

 相対的関係
 こちらは、ひょっとしたら立場の一発逆転が可能かもしれない〈屁〉の強者に直面した場面である。あるいは、逆転可能な強者に直面したと信じた場面である。このようなとき、ルサンチマンの〈屁〉の怨念は、復讐心を孕む次のCかDの方向性を選択する。
(C)強者を認める→自己否定に至らない表面的服従
(D)強者を蔑む→自己破滅に至らない対抗的不服従

 これは韓信と不良どもの関係のように、いつか優位の逆転が期待される相対的関係である。韓信は(ルサンチマンに陥るとして)不良どもに対してCかDの態度をとることになる。Cならば、怨みながらも我慢して(将来の復権を念じつつ)表面的に服従するだけなので自己否定しているわけではない。Dならば、蔑み怨む気持が強くリベンジの炎に焼かれて対抗するが、その不服従の態度が自滅するほどの事態にはならない(ことが多い)だろう。これらの深層にはいつか関係を覆そうとする(自分が強者になる)思いが潜む復讐心がある。

 隠蔽的関係
 誰だか全くわからない〈屁〉の強者に(願ったわけでもなく)直面した場面である。あるいは、そこで透かし屁をこいた強者に直面したと信じた場面である。このとき、ルサンチマンの〈屁〉の怨念は、濡れ衣を恐れつつ無関係を装う知らぬ顔の半兵衛となって次のEかFの方向性を選択する。
(E)強者を無視→怒りが恐れに結実する強制的な服従
(F)強者を蔑む→恐れが怒りに転化する攻撃的不服従

 実はこのような、アナタと透かし屁野郎の偶発的な関係は、ルサンチマンにおいてかなり特殊なものである。前の二つの関係とは違って強者が誰だかわからない状況なのだ。ここでは〈屁〉をこいた強者が特定されずに、強者の隠蔽的な立場や意図が脅威となっているわけだ。

 それにまた隠蔽的関係では、透かし屁の疑惑は永遠に疑惑のまま〜というのが大方の現実だから、犯人でない限り実に気持の悪い疑心暗鬼の状況になっているのである。そこでアナタのとる態度はEならば、怨みながら強者からの無関係を装い無視したいが、無視できず(気が気でなく)内心は怒りが恐れになって服従を強いられた状況だ。Fならば、逆に恐れが怒りになって無関係をあえて主張し、何らか表現し、犯人特定に血道を上げて脅威を逃れようとする(こともある)だろう。もちろん、これは「言い出しっぺが犯人」とされる透かし屁の論理に挑戦する危険を伴うのであるが。これらの深層には「自分は〈屁〉をしていない」という自負が脅かされている対極で、強気に逃げおおせている透かし屁野郎への怨めしい絶望がある。

 ははは、話がだんだんと奇矯に込み入ってしまったね。かくして〈屁〉のルサンチマンは「金」のルサンチマンとは拠って立つ構造が違うことを観察し、さらに〈屁〉のルサンチマンにはA〜Fの段階があることを観察したのであ〜る。

 それにしても、ルサンチマンって立場が逆転するときれいさっぱり解消するんだよね。それは自分さえよければ安心立命する人間の、何ともはや身勝手な心的運動だ。
posted by 楢須音成 at 06:09| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月23日

続続続続・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 そこにルサンチマンの〈屁〉が現象しているとすれば、つまり、そこで誰かが臭い〈屁〉をこいたのである。そのときの状況は、無作法にも〈屁〉をこいた強者に対して怨念を抱く、不幸にも〈屁〉を嗅がされた弱者がいるわけだね。

 そもそも〈屁〉は誰からも忌み嫌われる存在だ。それを弄ぶ(ことができる)強者は弱者を〈屁〉で威嚇しつつ、己の存在を主張する。強者を「浅ましや〜」「下品なり〜」「けしからん〜」などと思うのは弱者のひがみであるが、それによって強者の存在が脅かされることはないのであり、強者にとって何の迷いもない(当たり前の、自信たっぷりの、当然あるべき)振る舞いの〈屁〉なのである。強者は〈屁〉を振り回して恥じるところがない。

 まあ、強者にはいろいろスタイルはあるが、客観的には(アクが強いとか、腕っ節が強いとか、階級や職位が上とか、権力者とか、金持ちとか…)対人的・集団的・組織的・社会的な力関係の中で優位にある人である。そして主観的には、心的な自画像からブレることなく自分を貫く自己肯定の人となるわけだ。(しかし強者が自分の立場に迷い出してしまうと、自分こそが「情けない〜」「下劣なり〜」「恥ずかしい〜」などとグダグダになって自虐を始めるのだが、これは弱者に特有のルサンチマンとは逆の、強者が弱者を意識して発動する心的運動である。ま、これは別に取り上げたいわけだが)

 弱者が強者に発動する〈屁〉のルサンチマンにおいて、そのときの強者は自分の〈屁〉に何ら恥じることはないね。その〈屁〉に悪意をこめていようがいるまいが恥じない。相手に対する超越したそういう自己肯定に裏付けられて〈屁〉の脅威を与える振る舞いが成立している。

 すでに見てきたように、そういう強者に対して弱者は、次のような三つの関係性の中でA〜Fの段階を持つのであった。

 絶対的関係
(A)強者を崇拝→恐れに結実する自己否定(究極は崇めて盲従)
(B)強者を蔑(さげす)む→怒りに転化する自己破滅(究極は怒って自裁)
 相対的関係
(C)強者を容認→自己否定に至らないで表面的服従(一般に面従腹背の従属)
(D)強者を蔑む→自己破滅に至らない対抗的不服従(一般に対立辞さぬ反抗)
 隠蔽的関係
(E)強者を無視→怒りが恐れに結実する強制的な服従(究極は苦渋の知らん振り)
(F)強者を蔑む→恐れが怒りに転化する攻撃的不服従(究極は濡れ衣拒否の追及)

 まず気づくべきは、強者に対する態度としてA―B、C―D、E―Fは表裏(あるいは対極)の関係にあるわけだね。我々が誰かに〈屁〉をこかれた場合、相手が誰なのかによって、全く相反する態度をとることがあるのだし、誰にでも同じ態度をとるとは限らない。例えば〈屁〉をこいた相手が社長なのか部長なのか同僚なのか…相手次第で関係性は揺れ動くのよね。いやまあ、誰の〈屁〉だろうと〈屁〉ごときでは動じない平気の平左の人もいるかもしれないが、そういう人はそもそも弱者とは言わないわけである。A〜Fを次のようにまとめてみよう。

 絶対的関係 相対的関係 隠蔽的関係
   「A崇拝」― 「C容認」― 「E無視」 
     |      |      |
   「B蔑む」  「D蔑む」   「F蔑む」    

 概念的な見取りにしかならないが、ここにうかがえる弱者の態度には相当の振幅(乖離)が考えられるのであって、ルサンチマンの〈屁〉といっても、強者に対する態度や表情は一筋縄ではいかない。

 例えば、あの地獄では絶対の強者であるエンマ大王への〈屁〉のルサンチマンにおいて、弱者であるかぐ鼻の「崇拝」は自己否定を介して実現されている。また「蔑み」は自己破滅を介して実現されているのである。それはどういう心的経路を辿るのだろうか。

 屁を裁くエンマの屁が臭い→それを断罪すべく訴えるところはない→我慢せざるを得ない→臭い屁を裁いている審判者エンマの屁が臭いのは自己矛盾である→絶対の強者の自己矛盾が改修不能なら、それはそのまんまの現実(絶対)である→信じ(認め)がたくても受け入れざるを得ない→それは覆せぬ関係の絶対性の中での〈屁〉との直面である。

 このとき、かぐ鼻は(ルサンチマンにおいて)エンマに対してAまたはBの対応があるわけだね。かぐ鼻はエンマの〈屁〉を浴びながらエンマを羨み怨み(絶対的関係において)崇拝するか、蔑むのである。

 いやまあ、こういうことはその昔、滅多に口をきいてくれなかった(恐い)お祖父様の〈屁〉において有無を言わさぬ迫力があったことを想起させる。もちろん、音成は(幼少の身で一家におけるその威厳と権勢を羨み、その臭気を怨み)お祖父様を崇拝していたわけである。

 AとBのどちらをとるかは予断を許さないが、Aにおいては絶対に生き残る(絶対の自己肯定の)ために恐れてエンマを怨みつつも崇拝(絶対の服従)に走らざるを得ないのであり、Bにおいては一転して怒りが激してエンマを怨みつつ極大の怒りに走ってしまうのである。怒りはエンマへの極大の蔑みとなるが、その怒りには行き場がない(怒りをエンマに向けることができない)ため反動的に(エンマへのあてつけで)自分に怒りを向け自分を滅する(要するにエンマを蔑んだことを自罰してみせる)のである。(世間のルサンチマンの自殺は大半何らかの当て付けを行っているわけよねェ)

(A)羨み怨み崇拝するが(絶対の)服従を選択→へつらい
(B)羨み怨み侮蔑するが(絶対の)自罰を選択→あてつけ

 どっちに転んでも、絶対に関係が覆らない(と信じる)絶対的関係においては、この両極端のAとBのどちらかが発動しやすい。もちろん、我慢が保たれるさまざまな中間的な態度はあるよね。例えば、中間点においては、エンマが臭い〈屁〉をこいたときに、さらに自ら鼻を突き出して(喜びを見せつけて)嗅ごうとするのは自虐な一種の自殺的行為だが、崇拝の証しでもあるわけだ。つまり、「A―B」の振幅の範囲には絶対的関係における〈屁〉のルサンチマンのねじれた心的現象が営々と展開するのである。

 さて、次に相対的関係における「C―D」の振幅であるが、ははは、ちょっと一休み。
ラベル: ルサンチマン
posted by 楢須音成 at 07:19| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月28日

続続続続続・ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 諸行無常の〈屁〉の響きとともに、世間では強者と弱者の関係が絶えず変転しているね。長・短期の時間のスパンや自他の変身によって、世界はそういう不確実性に満ちているわけだが、にもかかわらず強者は自分の栄華が末永く続くのだと固く固く信じているものだ。(いやまあ、そう見えるわけだ)

 そんな強者に潜む不遜な厚かましさや無神経な自信は弱者のルサンチマンをかきたてるんだよねェ。子どもの前で面白がって〈屁〉を振り回した屁こきオヤジのトホホな栄光がいつまでも続くはずはなく、怨みのルサンチマンの子どもが成長すれば、痛烈なしっぺ返しが待っている(はずだ)。いやまあ、これは例えばの話なんだけどさ…。

 強者と弱者が入れ替わることはあるのだ。入れ替えの可能性があると(無意識にも)期待できれば、弱者は強者の立場の絶対性に拒絶されない。弱者が従順な様子でニッコリ笑っていたとしても、その裏では「いまに見てオレ〜」という怨嗟がたぎり陰惨な復讐すら願っているかもしれない。あるいは、いまにも反抗の烽火を上げようとしているのかもしれないのである。このような強者と弱者の相対的関係においては、弱者は(態度や表情の表層はどうであれ)強者に取って代わろう(代わりたい)とする意思が確かにあるだろう。

 相対的関係
(C)強者を容認→自己否定に至らないで表面的服従(一般に面従腹背の従属)
(D)強者を蔑む→自己破滅に至らない対抗的不服従(一般に対立辞さぬ反抗)

 この相対的関係の表層では従属か反抗かの対照的なルサンチマンが現象する。後に武将となって活躍する韓信はまだ無為徒食の時代、不良どもに嘲(あざけ)られ、股をくぐらされて屁をこかれる屈辱を受けたのだった。このときに(ルサンチマンが生まれたのだとして)どのような心的経路を辿るか考えてみよう。

 屈辱的な難題をふっかけられた→いま不良どもをやりこめても意味がなく時機が悪い→ここは我慢した方がよい→股をくぐらされ臭い屁を嗅がされた→慢心した不良どもの振る舞いは韓信をなめきっている→それは(いつか)覆すことができる(かもしれない)関係の相対性の中での〈屁〉との直面である。

 韓信は我慢したのだが、不良どもに言いがかりをつけられた状況下では、Cの容認またはDの蔑みという対応が考えられるわけだ。つまり、弱者は〈屁〉を浴びながら強者を羨み怨みつつ(相対的関係において)容認(従属)するか、蔑む(否定から究極は反抗に転じる)かである。

 どちらにしても、すぐに(あるいは、いつか)強者を凌駕できるのであるから、CであろうとDであろうとあまり極端には走らないかもしれない。しかし一気に、怨み怒りが極大化して相手を滅ぼすことがあるのが歴史の栄枯盛衰である。このときは弱者は強者に逆転するのだから、その精神性は(逆転できずに滅ぼされたとしても)絶対的関係の自己破滅とは全く無縁である。

 このような相対的関係においては根深い自己肯定がある。絶対的関係における自己否定や自己破滅といった超越的(ある種の極端)な観念性をめざすのとは異なり、自己肯定は基本的に地べたを這うような生物的な自己保存欲求に根ざしつつ、これに強者を羨み怨むルサンチマンの弾みがついて次第に妄想(観念)化して現象する。(ここでいう自己肯定とは生存するという暗黙の意思。やがて言葉を尽くして自分の生存を正当化する道に進む)

(C)羨み怨んで容認し(かりそめの)従属を選択→へつらう
(D)羨み怨んで侮蔑し(一発逆転の)反抗を選択→しかける

 少なくともいま現在において、自分はルサンチマンの弱者として存在し、羨み怨んで相手を強者と意識しているのである。このとき、CまたはDの方向性で態度と表情が発現するわけだ。従属と反抗の両極では様相が全く違うが、どちらも強者に対して含むところがあり、立場の逆転を期待していることには変わりない。従属的な関係に甘んじつつもチャンス到来とあらば逃さずしかけて怨みの反抗に転じるという、よく見られるルサンチマンの悪態の態度は、揺れ動く「C―D」の振幅の中にあるのである。俗世の修羅場だね。

 臭い〈屁〉をこいた強者が迫ってきてそれを甘受しなければならないとき、我々は〈屁〉のルサンチマンに陥ってしまう(ことがある)。強者の〈屁〉を撃退できないならば、まあ我慢せざるを得ない。しかし、相手の弱みを見つけ強者の転落を画策できるとすれば、一発逆転の〈屁〉をこいて逆襲するのも実に天晴れな(?)意趣返しだろう。ざまあ〜というわけである。

 音成の幼少時代の、あのイジメっ子に向けたルサンチマンの怨みは、ついに晴らされることはなかったのだが、まあ誰にもそういう挫折はあるんだろうねェ。これは別に腕力で怨みを晴らというのではなく、勉強ができるとか言い負かすとか、要するに強者になる道(態度や表情)は多様にあったわけで、ルサンチマンで相手を組み伏せるとは、要するに立場の優位性を獲得することなのだ。

 ルサンチマンの〈屁〉の優位性は〈屁〉をこいて確保(証明)するのであるが、弱者の側からは、そのことを異臭異音のはなはだしきをもって思い知るのである。相対的関係における「C―D」の振幅に展開する〈屁〉のルサンチマンの七転八倒は、まあ反抗に至らぬ限り悲しいままだ。それは強者に対する「我慢」という名の怨みのこもった「諦め」だよな〜。

ラベル: ルサンチマン
posted by 楢須音成 at 06:43| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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