2010年03月14日

漢文体で書かれた〈屁〉

 漢文(訓読)体は日本語の文体として一定の地歩を占める。といっても、いまどき書き言葉としても漢文体を使う人は(ほとんど)いないわけだが、少なくとも戦前までは仮名交じりの文体で公用語としても使われた。

 そもそも漢文体は古代の日本人が中国古典を解釈して日本語のように読み下す方法として編み出したものだ。訓読の方法は手順が確立している。学生の頃に漢文の時間があって、漢字ばかりでもウンザリ閉口しているのに読みのルールを覚えることは悲痛なほど面倒だった。(まあ、無学無聊のため漢文の時間には屁ではなく居眠りこいておりました〜)

 その訓読のルールを用いて日本人自身が漢文・漢詩をものにしたのが漢文体だが、こういう取っ付きにくい漢文にも、いつしか〈屁〉があると知ってからは真面目に読んでみたのである。いやいや、漢文体の鎧の向こうに見える〈屁〉も可笑しいんだよねェ。福富織部の『屁』にも漢文体の〈屁〉が何編も収録されていて、本家の中国の笑話集『笑府』などからの屁話も集められている。漢文体で書かれた〈屁〉もまた香しい笑いの「論理」をまとっているんだよ。(中国の笑話集には日本の屁話の元ネタが多々ある)

 日本人の漢文体は発想からしても、日本語の(慣れた)語彙を用いているので理解しやすいのだが、それでも返り点なしに漢字を並べられただけではチト苦しいけどね。次の引用は明治の戯文雑誌『東京新誌』の記事である。(『屁』からの引用。原文は返り点がある)
原文
 北越之士、鼻高文吾者性好古學。特通詩經。有一子。曰武一。頗達武術。一夜有盗。穿圊厠而入、武一偶覺臭氣衝鼻、跫音入室乃知其爲盗。耳語告父曰。盗入矣々々々。父驚曰。自何處入乎。曰自厠。曰今在何處乎。曰不知焉。時賊已昇二階而放屁發一發。武一怒曰。咄在二階而放屁豪膽可惡矣。兒請斬之。即撫刀起。父止之謂曰。否置之。汝只熟武藝而無文事。故不知古人金言也。詩曰。蔽芾甘棠勿切勿伐。今奸盗放屁。宜赦其罪也。勿斬々々。盗遂鼠走。

読み下し文
 北越之士、鼻高文吾なる者性(せい)古學を好む。特に詩經(しきょう)に通ず。一子有り。武一といふ。頗(すこぶ)る武術に達す。一夜盗(とう)有り。圊厠(せいし)を穿(うが)ちて入る。武一偶(たまたま)臭気の鼻を衝くを覚へ、跫音(あしおと)室に入りて乃(すなわ)ち其(その)盗(とう)爲(な)るを知る。耳語(じご=耳打ち)父に告げていふ。盗入る盗入る。父驚きていふ。何處(どこ)自(よ)り入る乎(か)。曰(いわ)く厠(かわや)自(よ)りす。曰く今何(いず)れの處(ところ)に在る乎。曰く知らず。時に賊(ぞく)已(すで)に二階に昇り放屁一発発す。武一怒りていふ。咄(とつ)二階に在りて放屁の豪膽(ごうたん)悪(にく)むべし。兒(こ)請ふ之を斬らん。即ち刀を撫(ぶ)して起つ。父之を止めて謂いて曰く。否(いな)之を置け。汝(なんじ)武藝に熟して文事なし。故に古人の金言を知らずや。詩に曰く。蔽芾たる甘棠(へいひたるかんとう)切る勿(なか)れ伐(き)る勿れと。今奸盗(かんとう)屁を放(ひ)ったり。宜しく其罪を許すべきなり。斬る勿れ斬る勿れ。盗遂(つい)に鼠走(そそう)す。

テキトー訳
 北越の武士に鼻高文吾という者がいて古学を好み、特に詩経に通じていた。息子が一人あり、武一といったが、非常に武術に長けていた。ある夜、盗人が便所を破って押し入った。武一はたまたま(目覚めて)臭気が鼻を衝くのを感じていると、足音が部屋に入ってきたので、それが盗人だと気がついた。父の耳元で囁いて「盗人です、盗人です」と言った。父は驚き「どこから入ったのか」と聞く。「便所です」「いまどこにいるか」「わかりません」――そのとき賊はすでに二階に上がっていて屁を一発やらかした。武一「おのれ、二階で屁をするずうずうしい奴め、許さんわ」と怒り、盗人斬るべしと父に請い、すぐに刀に手を掛け立ち上がった。父は武一を止めて「だめだ、刀を置け。お前は武芸に熟達しているが学がないな。古人の金言を知らないのか。詩経に『蔽芾たる甘棠切る勿れ伐る勿れ(へいひたるかんとうきるなかれきるなかれ)』とあるのだ。いま奸盗(かんとう)が屁をひった。その罪を許すのがよいのじゃ。斬ってはいかん斬ってはいかん〜」と言う。盗人はこそこそ逃げ出した。

 他愛のない話ではあるが、詩経の知識がないと何が可笑しいのかわからない。要するに語呂合わせの可笑し味だ。詩経の一節を「へいひ(つ)たるかんとうきるなかれ」と読むのに連想してふくらました脱線話なのである。息子の武事に対して文事の儒学者である父親のトボけた平和主義が笑われているわけだよね。

 詩経は、周の宰相召公が甘棠の木の下で民の訴えを聞いて公平に裁いたので、その徳を慕った民が甘棠の木を切るなと言った故事を伝えているもので、屁こきの盗人とは何の関係もない。(なお、蔽芾はうっそうと茂っていること。甘棠はズミ。コリンゴ、コナシ、ヒメカイドウなどともいう)

 さて、ここまでは前置き。ははは、いつも前置きが長いのは容赦願うとして、思うに、この話には〈屁〉を感受する現実感というものの二つの様相がうかがえるのであるよ。

 それを息子と父親が見事に体現しているわけだ。つまり、一方に盗人の〈屁〉を嫌悪をもってリアルに感じている息子がいて、一方に理念のフィルターにかけて感じている父親がいるという構図である。

 息子=感覚的、直感的、武断的、実行的
 父親=理念的、推論的、文治的、理屈的

 まあこの話の場合、二人のどちらが現実的(良い対処)なのかどうかは判断がわかれるだろうが、息子の過激ぶり、父親の能天気ぶりが香ばしい余韻を醸しているではないか。結果論としては、盗人が退散したのでハッピーエンド。脅威は去ったのである。多分、二人の会話を聞いた盗人が自らこそこそ退散を決意したのだ。盗人の思いは何だったのだろうね。

 息子=盗人はおれの刀に恐れをなしたのだ。
 父親=盗人は尊い古人の金言に恥じたのだ。
 盗人=二人の暴走・妄想に関わりたくない。

 我家において〈屁〉は音成の思うようにはならないさ。リアルに反応する家族は刀(のような言葉)を振り回す。もちろん、そういう修羅場はないように努めるしかない。あからさまにそこで〈屁〉などしてはいけませんよ〜。お客様がいたら逃げ出すかもしれない。


ラベル: 漢文 詩経
posted by 楢須音成 at 17:35| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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