2010年03月01日

続・ただの音ではない屁音の振る舞い

 屁音について前回のまとめをしておこう。
 屁の原音が耳に到達すると(レベル0)、なぜだか我々は擬音化の衝動に駆られてしまうのだ。あなたは原音を真似て(主に)バ行やパ行系列の破裂音を発してみるわけだが(レベル1)、もちろん声帯模写のような微妙な細部の表現ではないものの、「ブウ」なのか「ブー」なのか「ブウ〜」なのかが区別される程度には十分意識的だ。この段階では原音を再現する発声(擬音)が生まれ、それに言語表現(擬音語)を対応させようと躍起になるわけよねェ。(は? そんなことしないと言われても困るんです)

 拡張レベル1=〈屁〉の原音を聞く→発声(擬音)する→言語表現(擬音語)する

 言い換えれば、このレベル1は発声が言語表現(擬音語)へ移行するまでの段階になるわけだ。
 次に、いったん〈屁〉の擬音語が定着(誰もがその擬音語が屁音であると納得)すると、これが発声とともに繰り返され、誰もが復唱したりするうちにさらに拡張現象(レベル2)が起こる。これは発声や言語化された屁音(擬音・擬音語)が自らを増殖させてしまう段階である。

 拡張レベル2=〈屁〉の擬音・擬音語を発する→リズム化・強調化・連続化などで表現域を拡張する→音楽性や架空性などの観念化の傾向を発現する

 この段階で、我々の意識は原音を離れつつあることに気づかねばならないね。発声(擬音)や言語表現(擬音語)が自らを刺激して自己増殖を加速するのだ。具体的には屁音・擬音語の強調化・連続化・リズム化といった変化によって表現域へ踏み込むのである。(それはなぜか。もちろん、そうする振る舞いの目的はあるのだが、ここでは触れない)

 山東京伝が黄表紙の「諺下司話説」で駆使した擬音・擬音語はレベル2に相当する。こうだった。

  ブブブ、ブウ
  ブイブイ
  ポンポンポン
  ブブッ
  チンチリツンツル、ブイブイブイ
  スイ
  ポン
  スイスイ
  (ヤァ)ポンポン(ハァ)ポンポン
  ポンポンポン
  ブウ
  ブイブイブイブイ
  ポンポンポンポンポン
  スイスイスイスイスイスイ


 これらは屁音が、いわば原音の束縛から離れることによって、自由に(つまり、自律的に)表現を拡張している現象であるが、このとき「音→言葉」の本来の流れが「言葉→音」へと転倒しつつあるのであり、このことが表現拡張の主な誘導剤となっている。擬音よりも擬音語の勢いが強くなっているわけだ。この傾向はこのあとますます強くなって続いていくのである。

 強調・連続・リズムといった拡張によって音楽性や架空性をまといながら、お尻から発せられる屁音がイメージされているのだ。ここには単なる音ではない屁音のいろいろな可能性が萌芽的に現れているね。それは音楽のようであったり、何か事物を想像させたりするのである。

 次にレベル3になると、人間が振る舞う求心的な観念運動はついに切り札を出してくる。単純な擬音・擬音語を越えて「意味」を追求し始めるのである。

 拡張レベル3=〈屁〉の擬音・擬音語に意味を付ける→音の語呂合わせや駄洒落などで表現域を拡張する→意味結合の意外性や発展性などを求め意識化の傾向を強める

一天四海無異(ぶい)とひる麒麟の屁
ひり初めて快き屁の玉の春今年も不異(ぶい)の報なるらん
屁をひれば音も高野の山彦に仏法僧(ぶっぽうそう)とひびく古寺
ひいふつとすいはの征矢の高鳴りはぶゐ(武威)さかんなる響きなりけり
さとってはブッ(仏)と放る屁も仏なり

 これらは別の言葉を擬音・擬音語に引っ掛けて意味を持たせているわけである。このような擬音・擬音語の「意味」への読み替えないしは関連付けは、語呂合わせや駄洒落などを媒介に言葉の可笑し味を引き出してくるものだ。まあ、擬音・擬音語がブウ、ブイ、ブッ、プウとかであるうちはわかりやすいけどね。(しかし、意味がわかったとたん、表現としては陳腐化しやすいんだよねェ)

 さて、前回はこの辺までを見通したのだったね。――以下はレベル4の段階に入っていく屁音を考えてみる。年初に「およっさんの屁」という民話を紹介したのだが、屁音がこう鳴っていたのを思い出してほしい。
 ある夜ふけ、ぶげんしゃの家に、ぬすっとが忍び込みました。
 盗んだ品物の荷作りをやっておりますと、みんな寝こんでいると思っていたのに、ふいに、
「だれぞッ」
とどなる者がありました。ギョッとなって立ちすくむと、またもや、
「だれぞッ」もう一つ、「だれぞッ」
 ぬすっとは首をちぢめたり、のばしたりしていましたが、いつまでたっても起きだしてくる気配がありません。じわりじわり声のする方に近よりますと、ひとりのおよっさんが眠りこけたまま、尻から大きな音を出しているのでした。
「なんや、屁の音か」
 ぬすっとは頬かむりをしていた手拭いをはずして、それをおよっさんの尻の穴につめこみました。
 やっと荷物がまとまったとき、ぬすっとはさいぜんの手拭いに印がついていたのに気づきました。そこで尻からスポンと抜きとりました。と、いままでたまっていた屁が、
「だれぞッ、だれぞッ、だれぞッ………」
といっぺんにけたたましく鳴りだしたのでした。
(徳島市多家良町・河合トヨ談、未来社『日本の民話』)

 ここでは、屁音が完全に言葉(意味)に影響を受けている(取って代わられている)流れになっている。まあ何というか、お尻が露骨に言葉を喋っている事態になっているわけだよねェ。いまや屁音は言葉なのだ。しかし(そもそも屁は十全な言葉にはなり切れないものなのだから)こうまで露骨な発語は現実にはあり得ないよねェ。もちろん、そういう非現実感がこの民話が醸している可笑し味ではあるのだ。

 ところが、このように意味のある言葉になった屁音の登場が現実から飛躍する事態となることもある。
 じさまは雀をつかまえて、羽根をむしって焼いて、味噌をつけて食べてしまいました。
「ふん、こりゃまいわい。」
 するとじさは、屁をこきたくなったので、
「山の神、こめんなさりょ」
と大きな屁をこきました。屁がよい声で、
   プンプンヒヨドリ恋にこがれて
     チンチロリン チンチロリン
となるようにうたいます。
 じさは、おもしろいことになった、と喜んで家に帰り、まず、ばさに屁をこいてきかせました。
「おりょ、いい声じゃな。」
(未来社『日本の民話』)

 何としたことか、いい声で屁が歌い出すのだ。何を歌っているかはわかるが(なぜそんなことを言っているのかの)意味はまったく不明だ。これは(意図はともかく)現実世界との関連性をいったん切ってしまい、飛躍する意味や音を抽出して、いわば別世界を提示しているんだね。このとき屁音・擬音語は謎めいた音楽性・架空性・意味性などを取り込みつつ、空想的な(荒唐無稽の)言語表現の世界に踏み出しているのである。いやはや「プンプン」「ヒヨドリ」「恋にこがれて」「チンチロリン」とは何のこっちゃの世界だよねェ。
 ある日のこと、朝早くから霜をふんで麦畑に出ていたおきなは、こごえ死にかけていた小スズメを見つけた。しきりに息であたためてやっていると、正気づいたスズメがふいに腹の中にとびこんでしまった。そのひょうしに、ハクションとくしゃみをすると、思いがけずプウとおならが一発出てしまった。ところが、そのおならがとてもいいにおいであった。
 そのうちまたおならがしたくなったおきなは、やむなくあたりを見まわし、くすと笑いながらまた一発やった。すると、こんどはその音が「うんつくらい、うんつくらい……ぷう」とひびくのである。
 その日から、おきなはこの美音と香気にめぐまれたおならの持主となってしまい、村じゅうはいうまでもなく、五里十里の遠くからも、その香気をしたって、人々が集まってくるようになった。
(藤沢衛彦『日本民俗学全集』)

 この民話もまた、我々がいつも耳にする屁音とは似ても似つかぬ「うんつくらい」という(意味不明の、しかし)美音の屁を発するのである。おきなの「うんつくらい」の美音は香気までまとっている。

 そして話のオチなのだが、その〈屁〉はいずれも鳥を飲み込んで(食べて)しまったことが原因であり、最後は屁音によって殿様からたくさんの褒美を貰って富を得るのが定番だ。これは全国的に分布する「鳥呑爺」というパターンの民話なのである。いわゆる「屁ひり爺」の民話の原型になっている。

 ここには屁音が芸事へと発展していく萌芽があり、それによって民衆の願望である富を得るという点が重要だ。つまり、屁音は究極の肯定性(富貴願望)を付与されているのである。

 民話ではこの手の屁音が発展し、さまざまのバリエーションを生み出してくることになる。このことを検討した三谷栄一の『古典文学と民俗』(1969年、岩崎美術社刊)に集められている屁音をいくつか引用してみよう。

○アヤチュウチュウ ニシキノオンタカラデ アラ助カッタ助カッタ ピクピク    岩手県(老媼矢譚)
○アヤチュウチュウ 錦サラサラ ゴヨノ松 下カラピイン    (佐渡昔話集)
○綾チューチュー コヤチューチュー 錦サラサラ五葉の松 タベテ申セバ ビビラビーン    南魚沼郡昔話(昔話研究二ノ五)
○あや チュウチュウ こや チュウチュウ 御世の盃 持って参ろうか参るまいか チリンパラリン ピーポー    越後古志郡(『とんと昔があったげと』)
○あれ ちょうちょう これちょうちょう ごよの盃 持ってまいろう チョチョラ ピンピーン    (越後長岡地方(『いきがポーンさけた』)
○栗チヤウチヤウ 米チヤウチヤウ ゴヨヲタカラニモツテ浄土ニマヰレヤ チチンコロコロ チチンコロコロ    (南蒲原郡昔話)
○ニシキサラサラ 五葉ノ松 ピンクワラリドツチラ    (津軽昔こ集)
○ニスキサラサラ コノ宝ヲ持ツテマエリマスタ チンプンカランピン    岩手県(民間伝承十二)
○ピピンヒヨドリ ゴヨノオンタカラ    (甲斐昔話話集)
○チチンプイプイ ゴヨノ盃 オチチンプ    (滋賀県高島郡昔話)
○ジージーポンポン コガネサラ サラ チチラポン    (因伯童話)
○ウンカラモンカラ 黄金ノ山マデ スッテンパイパイプウ    (千葉県市原郡誌)
○ピーピー鳥 雲に霞んで富士の山 オシヤレコでんだか猫のマナコ(眼)、デングリ返して春の日はキヨウトクジツテバピー    (越後大白川昔話集)
○アカガネポン シロガネポン クロガネポン サンジヨサンノオカゲデ カネツンポン    (岡山市昔話)
○ストンカラカラトン トトンピンカラカラトン    (胆沢郡昔こ集)

 もはや擬音・擬音語の域は超越している。いずれも発想は同じだが、原音を無視するこういう強引さは擬音・擬音語というより、富貴を願う祝詞(のりと)のように扱われているのだ。まあ、何で〈屁〉が富貴に結び付いていくのかは何やらわかるようでわからない謎なんだよねェ。いずれ考えてみたいと思うが、それにしても大胆な擬音・擬音語の拡張ではないだろうか。この段階はこうだ。

 拡張レベル4=〈屁〉の擬音・擬音語を創作する→原音を究極まで追いつめた言葉化によって祈りへと表現域を拡張する→富貴願望へと結びつき〈屁〉の祝祭化を実現する

 もちろん、擬音・擬音語がこうやって指し示しているのは〈屁〉というわけのわからぬ物体である。我々は〈屁〉の異音を用いて祈るように現実を妄想してしまうのだ。そういう〈屁〉というものの持つ隠微なるインパクトを認めねばならぬ〜。


posted by 楢須音成 at 00:35| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月06日

屁理屈の人と糞度胸の人

 人を罵倒するのに「屁理屈を言うなッ!」と言うことがあるが、音成の場合は言われることが多いわけよ。しかし〈屁〉について語って屁理屈と言われることは実に残念というか…。まあ少なくとも、人から指摘される屁理屈は褒め言葉ではないよなァ。

 小説家、村上浪六の『罵倒録』(1914年、大正名著文庫、東京・至誠堂刊)に屁理屈についての一文がある。音成のテキトー訳で引用してみよう。
 屁は音だけあって形は見えずニオイを発する。その屁を理屈に冠すれば、むだに害だけあって何の益もない無用の論を起こすものだ。
 一例を挙げれば、「泊」と「晒」の文字をあべこべに読んで、泊を「サラシ」、晒を「トマリ」というようなものだ。なんとなれば、水で洗って白くするから泊をサラシ、日が西に入れば旅人が宿を求めるから晒をトマリと読めというのである。また動くはずのドウ(動)と呼んで牛馬は止まり、止まるはずのシ(止)と呼んで牛馬の動くのはなぜだとか、時鳥(ホトトギス)の文字は時を報じ時を告げる鳥の意味なのだからむしろニワトリ(鶏)と読むべきだとか、細根大根(細い根の大きな根)とは何の意味かとか、狭いのに広小路と呼ぶものではないとか――一事が万事いつもこの論法を世の中に振り回して得々としているもの、これが屁理屈だ。つまり馬鹿が自慢する小理屈なのである。
 この馬鹿がさらに一歩進むと、ろくでもない屁理屈で多忙な人を困らすのみならず、しばしば物知り顔に人に教えてこう言う。「正月」は年の初めばかりと思っちゃいけないよ、これを土地の名称にも用いてオオサカと読みなさい。正は正親町(おおぎまち)のオオ(正)であり、月は月代(さかやき)のサカ(月)なんだからさ。
 千万言の名論卓説も一つの事実に及ばないのに、この調子で人生の百般に立ち向かおうとする。もとより世間に通じるはずもないが、さも深いわけがあるかのように自分だけの知恵でこね回して、これを唯一、論のほこ先にしている。正月を大阪と読んで誇るのは多少屁理屈の生やさしい部類だが、もしこれが図に乗れば、黒犬を雪の夜の提灯と読めと(とんでもないものを結びつけて)頑張る奴もいるかもしれない。いやいや、実際それに類する屁理屈は最も世間に多い。つまりは屁理屈は一種の病気なのだ。事の利害得失など一向に構わないで、ただ人の顔さえ見ればこね回して、それで愉快と思うのは、子供が粘土をもてあそぶようなものだ。

 いやまあ、この屁理屈ブログをやっている身にしたら、散々な言われようだ。さらに村上浪六はこうも言っている。
 理屈に屁を冠し、度胸に糞を冠する。屁理屈も糞度胸のいずれも学ある士君子は一顧だにしない捨物である。これを拾って我が物顔に得々としている奴は、どうせ人間のクズだ。
 同じ士君子の捨物も、屁理屈はいささか滑稽味を帯びて、また時に多少は面白味があるだけでなく、元来は罪がないものだ。しかし糞度胸に至っては人情を蹴り飛ばし道理を踏み破って、世間一切をヘチマの皮のように少しも気にとめない。もし進退が窮まるとサァ殺せと大の字になる奴がいて、自暴自棄の極みである。
 しかし進退も窮まらず自暴自棄にも至らないで、まだ十分に反省の余地があり悔悟改悛の時日にありながら、初めから捨て鉢の糞度胸を据えてかかる奴が世間には少なからずいる。昨今のいわゆる胆力家といわれている者は、実は道理を重んじるための胆力ではなく、多くはこの糞度胸のある奴である。
 手前味噌のはなはだしいのは、臭気プンプンの耐えられぬ、その味噌にも似た糞をもって悪度胸を据えた奴だ。もはや手のつけようがなく、あきれて人が相手にしないのを本人ますます調子づき、四方に敵なしの顔色で、誰に憚り何を遠慮することもなく、どいつこいつの容赦なしに、いたるところで大胆に恐れることがないのである。
 廉恥心のない者は廉恥に責められることもなく、徳義心のない者は徳義に苦しむこともない。ぶっても叩いても何の効果もない、この糞度胸で傍若無人に天下を横行する。ややもすれば世人これを誤って偉いもののように思い、規律をもって律することができない大物のように思う。軽挙軽騒のやからはこれを親分とし頭目として、その糞度胸を学ぶ者が多い。しかも下手に学び損ねて糞の突っ張りにもならぬ奴が、これまたすこぶる多いのだ。

 ――そういうことなら、同じクズでも音成はどこまでも屁理屈でよいです〜。

 しかしまあ、屁と糞がこのように語られるのは、その属性を踏まえてのこと。屁の軽さ、糞の重さはいかんともし難いのである。世間を見回すと、屁理屈と糞度胸の違いはアマ(素人)とプロ(玄人)の振る舞いの違いにもなるかねェ。自戒自戒。というか、いつも度胸は糞だし、理屈って〈屁〉なんだけどな。
ラベル: 理屈 度胸 罵倒
posted by 楢須音成 at 17:45| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月14日

漢文体で書かれた〈屁〉

 漢文(訓読)体は日本語の文体として一定の地歩を占める。といっても、いまどき書き言葉としても漢文体を使う人は(ほとんど)いないわけだが、少なくとも戦前までは仮名交じりの文体で公用語としても使われた。

 そもそも漢文体は古代の日本人が中国古典を解釈して日本語のように読み下す方法として編み出したものだ。訓読の方法は手順が確立している。学生の頃に漢文の時間があって、漢字ばかりでもウンザリ閉口しているのに読みのルールを覚えることは悲痛なほど面倒だった。(まあ、無学無聊のため漢文の時間には屁ではなく居眠りこいておりました〜)

 その訓読のルールを用いて日本人自身が漢文・漢詩をものにしたのが漢文体だが、こういう取っ付きにくい漢文にも、いつしか〈屁〉があると知ってからは真面目に読んでみたのである。いやいや、漢文体の鎧の向こうに見える〈屁〉も可笑しいんだよねェ。福富織部の『屁』にも漢文体の〈屁〉が何編も収録されていて、本家の中国の笑話集『笑府』などからの屁話も集められている。漢文体で書かれた〈屁〉もまた香しい笑いの「論理」をまとっているんだよ。(中国の笑話集には日本の屁話の元ネタが多々ある)

 日本人の漢文体は発想からしても、日本語の(慣れた)語彙を用いているので理解しやすいのだが、それでも返り点なしに漢字を並べられただけではチト苦しいけどね。次の引用は明治の戯文雑誌『東京新誌』の記事である。(『屁』からの引用。原文は返り点がある)
原文
 北越之士、鼻高文吾者性好古學。特通詩經。有一子。曰武一。頗達武術。一夜有盗。穿圊厠而入、武一偶覺臭氣衝鼻、跫音入室乃知其爲盗。耳語告父曰。盗入矣々々々。父驚曰。自何處入乎。曰自厠。曰今在何處乎。曰不知焉。時賊已昇二階而放屁發一發。武一怒曰。咄在二階而放屁豪膽可惡矣。兒請斬之。即撫刀起。父止之謂曰。否置之。汝只熟武藝而無文事。故不知古人金言也。詩曰。蔽芾甘棠勿切勿伐。今奸盗放屁。宜赦其罪也。勿斬々々。盗遂鼠走。

読み下し文
 北越之士、鼻高文吾なる者性(せい)古學を好む。特に詩經(しきょう)に通ず。一子有り。武一といふ。頗(すこぶ)る武術に達す。一夜盗(とう)有り。圊厠(せいし)を穿(うが)ちて入る。武一偶(たまたま)臭気の鼻を衝くを覚へ、跫音(あしおと)室に入りて乃(すなわ)ち其(その)盗(とう)爲(な)るを知る。耳語(じご=耳打ち)父に告げていふ。盗入る盗入る。父驚きていふ。何處(どこ)自(よ)り入る乎(か)。曰(いわ)く厠(かわや)自(よ)りす。曰く今何(いず)れの處(ところ)に在る乎。曰く知らず。時に賊(ぞく)已(すで)に二階に昇り放屁一発発す。武一怒りていふ。咄(とつ)二階に在りて放屁の豪膽(ごうたん)悪(にく)むべし。兒(こ)請ふ之を斬らん。即ち刀を撫(ぶ)して起つ。父之を止めて謂いて曰く。否(いな)之を置け。汝(なんじ)武藝に熟して文事なし。故に古人の金言を知らずや。詩に曰く。蔽芾たる甘棠(へいひたるかんとう)切る勿(なか)れ伐(き)る勿れと。今奸盗(かんとう)屁を放(ひ)ったり。宜しく其罪を許すべきなり。斬る勿れ斬る勿れ。盗遂(つい)に鼠走(そそう)す。

テキトー訳
 北越の武士に鼻高文吾という者がいて古学を好み、特に詩経に通じていた。息子が一人あり、武一といったが、非常に武術に長けていた。ある夜、盗人が便所を破って押し入った。武一はたまたま(目覚めて)臭気が鼻を衝くのを感じていると、足音が部屋に入ってきたので、それが盗人だと気がついた。父の耳元で囁いて「盗人です、盗人です」と言った。父は驚き「どこから入ったのか」と聞く。「便所です」「いまどこにいるか」「わかりません」――そのとき賊はすでに二階に上がっていて屁を一発やらかした。武一「おのれ、二階で屁をするずうずうしい奴め、許さんわ」と怒り、盗人斬るべしと父に請い、すぐに刀に手を掛け立ち上がった。父は武一を止めて「だめだ、刀を置け。お前は武芸に熟達しているが学がないな。古人の金言を知らないのか。詩経に『蔽芾たる甘棠切る勿れ伐る勿れ(へいひたるかんとうきるなかれきるなかれ)』とあるのだ。いま奸盗(かんとう)が屁をひった。その罪を許すのがよいのじゃ。斬ってはいかん斬ってはいかん〜」と言う。盗人はこそこそ逃げ出した。

 他愛のない話ではあるが、詩経の知識がないと何が可笑しいのかわからない。要するに語呂合わせの可笑し味だ。詩経の一節を「へいひ(つ)たるかんとうきるなかれ」と読むのに連想してふくらました脱線話なのである。息子の武事に対して文事の儒学者である父親のトボけた平和主義が笑われているわけだよね。

 詩経は、周の宰相召公が甘棠の木の下で民の訴えを聞いて公平に裁いたので、その徳を慕った民が甘棠の木を切るなと言った故事を伝えているもので、屁こきの盗人とは何の関係もない。(なお、蔽芾はうっそうと茂っていること。甘棠はズミ。コリンゴ、コナシ、ヒメカイドウなどともいう)

 さて、ここまでは前置き。ははは、いつも前置きが長いのは容赦願うとして、思うに、この話には〈屁〉を感受する現実感というものの二つの様相がうかがえるのであるよ。

 それを息子と父親が見事に体現しているわけだ。つまり、一方に盗人の〈屁〉を嫌悪をもってリアルに感じている息子がいて、一方に理念のフィルターにかけて感じている父親がいるという構図である。

 息子=感覚的、直感的、武断的、実行的
 父親=理念的、推論的、文治的、理屈的

 まあこの話の場合、二人のどちらが現実的(良い対処)なのかどうかは判断がわかれるだろうが、息子の過激ぶり、父親の能天気ぶりが香ばしい余韻を醸しているではないか。結果論としては、盗人が退散したのでハッピーエンド。脅威は去ったのである。多分、二人の会話を聞いた盗人が自らこそこそ退散を決意したのだ。盗人の思いは何だったのだろうね。

 息子=盗人はおれの刀に恐れをなしたのだ。
 父親=盗人は尊い古人の金言に恥じたのだ。
 盗人=二人の暴走・妄想に関わりたくない。

 我家において〈屁〉は音成の思うようにはならないさ。リアルに反応する家族は刀(のような言葉)を振り回す。もちろん、そういう修羅場はないように努めるしかない。あからさまにそこで〈屁〉などしてはいけませんよ〜。お客様がいたら逃げ出すかもしれない。
ラベル: 漢文 詩経
posted by 楢須音成 at 17:35| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月21日

お茶目な権妻の〈屁〉だった

 漢文体をつらつら(音で読むでもなく)眺めていると、表意文字の彼方に〈屁〉というものの振る舞いが封印されているように思える。そこに「屁」とあれば、それは物体の屁なのであるが、そのものが何であるかを問うよりも、その人間の振る舞いが問われているのであ〜る。

 明治の風刺雑誌『団々珍聞(まるまるちんぶん)』に載った「権妻屁」という漢文の記事を読んだとき、可笑しいんだけど最初あまりピンとこなかったんだよね。まあ、笑い話としては、少々オチが乱暴で美しくない気がしたわけだ。つまりナンダ、それが美人の振る舞いだろうかとね。(福富織部『屁』から引用。原文には返り点がある)
原文
一權妻失屁。婢在側曰。臭甚々々。淘圊者昨日來。權一謝云。失屁者妾也。婢微笑曰。嬋娟窈窕如貴孃。亦放屁乎。權云。出物腫物不嫌處。婢曰。縦令不嫌處前且公。爲放之乎。權云放矣。然而有聲之屁決不放也。婢叉怪問曰。無聲臭氣殊甚。権云無聲之屁百発千放。何關之有。婢曰。敢問何故。権云。且公鼻下妾早挿得二本棒。

読み下し文
一権妻(ごんさい=めかけ)失屁す。婢(ひ=下女)側(そば)に在りて曰く。臭甚し臭甚し。淘圊(こえとり)は昨日已(すで)に来たる。権(ごん)一謝して云(いわ)く。失屁は妾(わたし)なりと。婢微笑して曰く。嬋娟窈窕(せんけんようちょう)貴孃の如きも亦(また)屁を放(ひ)るか。権云く。出物腫物処嫌わずと。婢曰く。たとえ処(ところ)嫌わざるも且公(しょこう)の前に之を放るを為すか。権云く。放るなり。しかりしこうして有声の屁は決して放らざるなりと。婢又怪しみ問うて曰く。無声は臭気の殊(こと)に甚し。権云く。無声の屁百発千放、何れの関やこれ有らんと。婢曰く。敢えて問う何故(なにゆえ)ぞ。権云く。且公の鼻下に妾(わたし)は二本棒を早挿すを得たりと。

テキトー訳
ある権妻がうっかり屁をこいた。すぐそばにいた下女が「うわ、ひどいニオイ。肥取りはすでに昨日来たはずなのにィ」と皮肉る。権妻は一言詫びて「屁をこいたのは、あ・た・し」と。下女はうっすら笑って「アデやかでシトやかなアナタさまでも屁をこくのですねェ」と言う。権妻は「出物腫れ物ところ嫌わずよ」と平気である。下女が「あらあ、ところ嫌わずとは言いますけど、旦那さまの前でこきますのかァ」と突っ込めば、「ええ、こくわよ〜。でも音の出る屁は絶対しないのよ」と権妻。下女は「えッ音のしないスカ屁はニオイがひどいのにィ」と怪しむばかり。権妻は「スカ屁の百発千発を放ってもゼ〜ンゼン問題ないわよ」と一向に気にする様子がない。下女が「それはまたまたどうして」と不審がるのに、権妻「あたし旦那さまの鼻に二本棒を素早く入れることができるのよん」と。

 原文読み下しテキトー訳となるうちに、やりとりの様子がすっかり一変する。もちろん音成の訳はテキトーなので信用してはいけません〜。がしかし、現代語訳となると原文よりは(表音文字のせいで)会話のニュアンスがハッキリしてくるわけで、音成はそこをテキトーに解釈。ははは、お茶目な権妻(=妾)をイメージしたのだが。

 この「権妻屁」は明治の作。権妻という言葉は明治初期から使われたようで当時、流行語になっている。「権」とは「仮の」「臨時の」という意味である。明治3年に法的に妻と妾を同等の二親等にしており、そういう風潮の中で権妻は一応それなりに社会的地位を認められていたらしい。(しかし法的な妾公認制は明治15年に廃止。また、現行民法は妾契約や金銭供与の約束は公序良俗違反として認めていないので念のため)

 さて、これは本妻の〈屁〉ではないのだから、二親等とはいえ、一般に権妻の〈屁〉は関係解消の危機的状況を作り出す可能性は高いかもしれない。人は美人の〈屁〉を厭うべき・抹殺すべき存在であると思うと前提すれば(美人の)権妻の〈屁〉は本来あってはならないものである(か?)。

 しかし、社会的背景はともかく、この権妻の振る舞いはいかがなものか。スカ屁を正直に素直に告白したところまではいいが、いつでも〈屁〉など平気の平左でこきまくり、ダンナを欺いているんだからね――と読んでいったのだが、いやいや欺いているんじゃなくて、これって(愛する)ダンナに配慮した健気な振る舞いか?

 つまり、ダンナが権妻の病的な〈屁〉の真実を知ることは必ずしも幸せではないわけよねェ。権妻が健気に精一杯振る舞って、ダンナの前から〈屁〉を抹殺することはお互いの幸せではあるのであ〜る。

 ただまあ、いくら真実であっても、あまりにあけすけに(隠蔽の様子を第三者に)説明されると鼻白むものだ。そこには恥じらいというものがない。少なくとも原文にはないよなあ。このときダンナを(どのくらい?)愛しているかも問題だろうが、美人の振る舞いが「虚偽」か「健気」のどちらに片寄ってバランスするかは紙一重なんだな。微妙に〈屁〉の位置づけが変わるのである。

 平和を望む音成は鼻白む代わりにお茶目な権妻をイメージしてみた。お茶目はまだ救いがあるさ。ははは、もちろん根本的な問題解決のためには、お互い〈屁〉は臭いと認め合うことが必要なのだが、無理なら、別れるのは早い方がいいよ…なんちゃって。

ラベル: 権妻 漢文
posted by 楢須音成 at 17:25| 大阪 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月28日

ルサンチマンの〈屁〉とは何なのだろ〜ヵ

 我々は〈屁〉を嗅がされると仰天する一方で〈屁〉をした人に対して多種多様な心的反応を起こす。そこにはお尻を突き出している「嗅がす人」と、鼻をこじ開けられている「嗅がされた人」がいるわけだ。

 一般にこの関係は強者(尻)と弱者(鼻)という構図になっているが、強者による暴力的な〈屁〉の放出は弱者を混乱へと導くこともある。そのときの心的な反応の一つとして、強者の〈屁〉に対する激しい嫌悪、憤り、非難、憎悪、恨み――が生じざるを得ないのである。

 そりゃまあ、誰だって〈屁〉を嗅がされれば怒り出すのが普通だね。そのとき嫌悪などの心的混乱がストレートに怒りとなって表出できればいいのだが、強者と弱者の関係では、それができずに我慢せねばならないこともあるわけさ。例えば、


   かぐ鼻もこらへかねたり閻魔(えんま)の屁


 この状況はこうだ。「かぐ鼻」とは地獄に堕ちてきた人の生前の悪行を喜々として「エンマ様」に言いつける役回りの鬼。しかも、敏感な嗅覚なので、どんな些細な屁でも嗅ぎつけしまい「エンマ様」に言いつけ告発する。しかし、大王たる「エンマ様」がワガママな屁をこいた場合には、それがどんなに臭かろうとも我慢せねばならない立場である。告発の持って行きどころがないのだ。かくして、このときの「かぐ鼻」には嫌悪、憤り、非難、憎悪、恨み――が発現することになる(かもしれない)わけだね。

 地獄におけるこのときの「エンマ様」と「かぐ鼻」は〈屁〉の強者と弱者の関係であ〜る。

 いわゆるルサンチマンというのは、そういうときの弱者の感情的狂躁(興奮)の中に、強者に対する嫉妬や羨望を透かし見ているわけだが、まあ、役回りが絶対化した「かぐ鼻」は人間ではないので、妬み羨み僻みの怨念が生じる精神構造かどうかは微妙かもしれないけどね。そこで、こういう川柳もある。


   韓信に意地のわるいが屁をかがせ
   韓信があたまの上で一つひり


 漢の武将、韓信の股くぐりの故事に屁を登場させている。韓信が無為徒食して嫌われていた若いころ、「俺の胸を刺せ。できなければ股をくぐれ」と因縁をつけられるが、相手をしてもつまらん(結局、不利になる)と我慢して股をくぐる。そのとき不良どもが嘲笑の屁をしたという情景である。

 相手をすれば無用の面倒が生じるので、韓信は勝てる相手に弱者を装っているだけなのであるが、強者と弱者の関係が〈屁〉に即して無理やり作り出され、暴力的な屁が現象している。相手を凌駕する動じない信念(思い込み)があればともかく、薄弱な一般人には怨念が生まれやすい状況だろうね。まあ、概して我慢というのは怨念になりやすいわけである。

 以上の二例は〈屁〉における強者と弱者が登場する代表的な場面である(か?)。まとめると、

(1)かぐ鼻のケース→絶対的(入替不可)な強者と弱者の関係
(2)韓信のケース →相対的(入替可能)な強者と弱者の関係

 どちらも相手の〈屁〉を我慢(感情抑制)しているわけだが、次のような状況の我慢もある。ただこちらは、強者(?)の存在が匿名になっている点が違うね。


   屁をころしあたり四五人かかりあひ


 誰かが透かし屁をしたのでニオイに気がついた周りの人間が影響を被っている状況である。犯人(強者)はそこにいる誰かということになるわけだ。まあ、この場合は〈屁〉というワガママを発揮する強者(犯人)と、犯人不明のままそれを受け入れざるを得ない弱者という構図が描かれるが、これはかなり不安定で流動的である。

 いやはや、犯人(強者)が特定できないだけでなく、自分が犯人にされかねない危険を孕み、いささか動揺してしまうので、犯人が不明である限り弱者の我慢のあり方は(1)とも(2)とも違う複雑なものとなるのだ。

 よく観察すると、この状況は〈屁〉をウッカリしたかワザとしたかによっても、強者の強者たるワガママの強固性が揺らいでいるのだし、強者の匿名性や自身の濡れ衣の危険性によって弱者の弱者たる怨念の強固性は逆に強化されているのだし、そこに犯人がバレてしまった場合の大騒ぎが勃発すれば、波紋はさまざまな方向に深く拡散していく。

 ともあれ、この状況においては、強者(犯人)が確かにどこかにいるのだが誰だかわからない(バレていない)というのが、まずは前提である。


   屁の騒ぎ放(ひ)り手は中にすまして居


 このすましている人物や騒いでいる人たちの関係の特殊なあり方は(1)や(2)と比較すれば明らかだろう。そこで、

(3)透かし屁のケース→隠蔽的(曖昧模糊)な強者と弱者の関係

 我々が〈屁〉のルサンチマンの状況を考える場合には、以上の三例がまず指摘できるのではないだろうかねェ。音成はどのケースでも怨みを買っていることはないと思っているけどね。しかし、まあ、ははは…。
ラベル: ルサンチマン
posted by 楢須音成 at 14:36| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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