2009年12月03日

続続続・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 我々が〈屁〉を恥じるか嫌悪するかというのは明確な二者択一ではないね。両者が表出する割合というか度合いというか、現実には恥と嫌悪が混濁した中での振る舞いが現象している。

 それでも恥の極致と嫌悪の極致は全く対極的なものだ。そして、ある観点から見ると両者は振る舞いが似ている。その一つは、恥も嫌悪も他者ばかりでなく自分に向かっても発動するところなんだけどね。

 自分を恥じること(自恥)と嫌悪すること(自己嫌悪)はもちろん違う。粗相した〈屁〉を恥ずかしく思うことと、その〈屁〉のあまりの異臭異音に自己嫌悪することは違うのであるよ。そりゃまあ、異臭異音によって羞恥が倍加され、粗相して不覚をとってしまったことによって自己嫌悪が倍加されるという相互関係はあるのだがね。

 一般に恥も嫌悪も自分に向かうか他者に向かうかという二つの方向性があるわけだが、もともと恥は「自分に向かう」心的運動から出発し、嫌悪は「他者に向かう」心的運動から出発していると考えられる。それが反転して方向を変えてしまうと、人のしたことを恥と思い、自分のしたことを嫌悪する現象にもなる。

 例えば、外出先で音成が〈屁〉をすると(自分がしたわけでもないのに)嫁は恥ずかしがるし、人のいない自室で音成が一人で〈屁〉をすると(恥ずかしくはないが)異臭異音がヒド〜イと自己嫌悪する。まあ、このように恥と嫌悪は他者に向かったり自己に向かったりするわけだ。

自己の不快な異態に対する反応(自恥)から→→→他者の不快な異態に対する反応(他恥)へ変移
他者の不快な異態に対する反応(嫌悪)から→自己の不快な異態に対する反応(自己嫌悪)へ変移

 ここでまた〈糞〉なのだが、かくして〈屁〉は初動段階から恥を強く内包し、一方〈糞〉は初動段階で強く嫌悪を内包して現象する(ことが多い)のである。つまり〈屁〉と〈糞〉において、恥と嫌悪が起動するベクトルが対照的なのだ。

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 我々の〈屁〉の恥は、前回検討したように基本的に「相手の不快」を意識して起動するわけだが、この不快は「相手が感じている嫌悪」に等しい。つまり、自分が感じる(自分の)恥は相手が感じている(自分への)嫌悪に起因し、相手が感じる(その人自身の)恥は自分が感じている(相手への)嫌悪に起因するのだ。

 自分が(自分または他者に)感じている嫌悪そのものは、不快なものを前にして生理的な「自分の不快」をそのままストレートに反映している。だから「不快=嫌悪」であり、恥のように相手の思惑など構っていないで起動するのが(本来の)嫌悪である。

 このように見てくると不快なものを前にして、恥は観念性が高い反応なのであり、嫌悪は身体性が高い反応といえるのだ。だからこそ恥は理念化しやすく、嫌悪は感覚化しやすい。恥は規範的に(つまり規範を立てて)自己制御をめざし、嫌悪は直接行動で鼻を押さえて対象物の回避に走る。

 結果的に両者の振る舞いは同じように見えてしまうことがある。恥じているのか嫌悪しているのかわからない場合があるのである。再び引用するが、次のアラブ人の例は嫌悪だろう。しかし恥と言われれば、そう解釈できるように見えるかもしれない。
……一アラビヤ人屁迫る事急なるより、天幕外遠隔の地へ駈け行き、小刀で地に穴掘り、その上に尻を据(す)え、尻と穴との間を土で詰め廻しとあるから、近年流行の醋酸(さくさん)採りの窯を築くほどの大工事じゃ。さていよいよ放(ひ)り込むや否や直ちにその穴を土で埋め、かくて声も香も他に知れざりしを確かめ、やっと安心して帰った……
(南方熊楠『十二支考 馬に関する民俗と伝説』)

 こういう振る舞いは〈屁〉への嫌悪に発して(やがて嫌悪を自分に転嫁して)自己嫌悪となり、恥と見分けがつきにくくもなってくるのさ。しかし先にも触れたように、嫌悪が恥と違う点は、他者の思惑(不快=嫌悪)など意識することなくストレートに起動することだ。もちろん、嫌悪と恥は混濁することが多いのだから、表面の振る舞いだけからは内実はわかりにくい。

 ともあれ、恥と嫌悪は付かず離れずの関係だ。次の説話は〈屁〉と〈糞〉の恥と嫌悪が集団内(お寺の講話の最中)に混濁して現象している例だ。〈屁〉のつもりで〈糞〉をしてしまった粗相を描いているね。音成のテキトー訳で引用する。
 ある説経師が招かれて、いつになく素晴らしく格調も高く説法しようとしたとき、うんこがしたくなったのだが、そのうち大変な緊急事態となり、大慌てで布施も貰わずに帰って、履き物を脱ぎ散らかして大急ぎで便所に駆け込んだ。ところが屁ばかりが出てうんこは出ない。「こうだと知っていたら、高座の上でしばらく我慢して説教を続けたものを」と悔しく思っているうちに、その次の日も人に呼ばれた。説教をしていると、またまたうんこがしたくなったのを屁だと思って透かしてやろうとばかり、ちょっと座り直すようなふりをして透かしたのだが、まことのうんこが大量に出てしまった。この僧、万事休すと為す術もなく「昨日はうんこにだまされて屁をし、今日は屁にだまされてうんこをしてしまいましたぞよ」と言いつつ、高座を走りおりて逃げ出すと、うんこが上の袴からたれ落ちて堂の中がよごれてしまった。聴聞の人は鼻をおさえて興ざめした。まったく滑稽なことだわ。
(藤原信実『今物語』1239年〜)

 僧の赤恥と衆生の嫌悪という構図のドタバタであるが、人前で〈糞〉まみれになった僧が自己嫌悪に陥るのは想像に難くない。まあ、我々はこういう話を聞くと笑うわけだが、現実の場面で遭遇した場合には、恥と嫌悪のルツボに放り込まれることになる。実に切実な状況なのだ。

 今回も回り道だが、ここまでをまとめておこう。

 拠って立つ存在様式は違うにしても〈屁〉と〈糞〉はともに異態(普通と違う異様)なものには違いないね。その異態には一般に不快を感じざるを得ないのである。〈屁〉の場合には「相手の不快=嫌悪」を意識してしまい、多くは恥が起動する。〈糞〉の場合には圧倒的存在感で多くは嫌悪がそのままストレートに起動する。もちろん〈屁〉で嫌悪が起動したり〈糞〉で恥が起動したりすることもあるだろう。一般に恥と嫌悪は相互に関係し混濁して現象するものである。

 そこで〈屁〉である。

 恥は理念的で観念性が高く、嫌悪は感覚的で身体性が高い心的運動(反応)だ。我々の〈屁〉の恥は「屁をしてはいけない」というような規範(理念)を自ら生成して自ら逸脱するという自壊の心的構造を持ち、そこに(嫌悪があれば)嫌悪を取り込みながら増殖していく…。

 このあたりに屁が臭いのを恥じる人と恥じない人がいる根拠の一歩を探そうとしたのだが――というところで、あとは次回。


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2009年12月10日

続続続続・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 少し「嫌悪」と〈糞〉にこだわり過ぎて話が錯綜してしまったかもしれない。もちろん、こだわる理由はあるわけで、我々の〈屁〉と〈糞〉は発生場所や異臭異音の共通点を持つからだ。両者は共通点を持ちつつ、我々の心に全く違った振る舞いを呼び起こすのであるが、明らかな〈屁〉と〈糞〉の相違点は次のようになるのよね。

〈糞〉=姿を見せ視覚を裏切らないが(臭いので)嫌悪する(しかし)有用な面がある固体
〈屁〉=姿を見せず視覚を裏切って(臭いので)恥じてしまう(しかも)無用の長物の気体

 ここで有用と無用ということについてちょっと寄り道すると、徹底した無用というのは存在意義がなく絶望に等しい空虚(虚無)である。いったい〈屁〉にどんな効用があるのか。我々の嫌がる(忌避する)気持をねじ伏せる説得力(価値)のある効用はあるだろうか。ないない。燃料にもならず、肥料にもならず、香水にもならず、音楽にもならず、電気も起こせず、ビジネスにもならず、意味あるメッセージもない(メッセージにしている人はいるにしても)。

 まあ、誰もいなければ放屁は気持いいとか、誰かいたら人を笑わせる愛敬者だというのは好意的に過ぎる評価である。それが生命や身体の根源にどう関わっているのかとなると〈屁〉は何の情報(効用)も発信していないよねェ。役に立たないどころか徹底して邪魔(無駄)ではないのかね。老子や荘子の「無用の用」(役目がないように見えるものもそれがないと困る=効用がある)みたいな一発逆転のレトリックも機能しないのである。

 異臭異音に加わる〈屁〉の「無用(役に立たなさ)性」は恥を深める要因になる。無用とは居心地の悪い「悪」なのだ。ここに〈屁〉と〈糞〉を分かつ有罪無罪に関係する根拠があるのである。

 さて、有用無用の話はここまでにするが、こういう〈屁〉と〈糞〉の対照的な関係は、日常生活の至る所で我々の振る舞いとなって現象してくるわけだ。そのときの何気なさが実にコワ〜イ。前のエントリにコメントがあったのだが、こういう事例をいただいた。
「3日間便秘なの」と、友人に相談できても、「3日間も屁をしてないの」とは相談しません。

 これは〈屁〉というものを口に出して言わない(隠す)心的な傾向を語っているだろう。我々はエロとかウンコとかを平気で口にする(あるいは筆にする)割には〈屁〉はビミョーに避けているものなのだ。特に老若を問わず女性にはその傾向が強い(ように思われる)。下(半身)ネタの女性のエッセイ集(清水ちなみ『おしりの秘密』とか酒井順子『トイレは小説より奇なり』とか…)などは〈屁〉をハッキリ駆逐していると言いたいねェ。そこには〈屁〉が一切出てこないよ。(それが何よッと言われれば、いや何でもないです、はい)。

 まあ、このように人間という存在はしばしば「肝心なこと」に一切(無意識に)触れようとしないことがある。それは〈屁〉の一種の罪悪感あるいは居心地の悪さ(存在理由のなさ)となって現象する。我々の思考や行動はそういう「肝心なこと」があると心的迂回路を辿る(自己欺瞞する)ようプログラムセットされているのではないのか――などと思ってしまう。

 あの子が好きなのにキライと言う、自分が失敗の原因なのに人のせいにする、素晴らしい出来映えなのに難癖をつける…まあ、例えばそんなふうな心的現象の核心にある真実(秘密)から(なぜか)目を背けてしまい(つまり正反対を正しいと信じ込んで)振る舞ってしまう。あるいはスッポリ忘れて(意識の外に置いて我知らず)無視してしまう――そこには気づきにくい秘められた各人の理由があるのだろうけどね。

 我々の〈屁〉はそういう「肝心なこと」なのであり、その根幹にあるのが恥だ。

 もっとも恥だけの一本槍かというと、そうでもなくて〈屁〉には嫌悪という側面もあるのだった。これは〈糞〉が嫌悪の一本槍ではなくて、恥という側面もあるのと同様である。

 しかし〈屁〉の恥はとても深いものだ。少なくとも日本人にとって〈屁〉は嫌悪よりも恥の側面が相当に強いのである。一般に屁が臭い肉食系の民族は嫌悪の側面が強くなると思われるのだけどね。まあ、このことが肉食系民族にとって相対的に〈屁〉の恥が引っこむ(恥ずかしくない)という現象になってくるわけだけど。

 ともあれ、こういうことから何がわかるのかといえば、日本人は恥の強さによって〈屁〉と〈糞〉をより明確に識別しているということだ。つまり、肉食系の民族にとっては〈屁〉と〈糞〉は近いが、日本人にとっては(少し)遠いのである。一般に草食系であった日本人は(比較的)屁が臭くないために(多分)こういうことになったのだ(その代わり音を気にするのだが)――と思われるのよ。

 さてさて、またも話はスパイラルな展開だが、かくして〈屁〉の恥は日本人の心に隠微にして深〜く潜行し、濃厚によどむのだね。しかしである、にもかかわらず、なぜか〈屁〉を恥じない人がいるのだ。

 ホントに恥じていないのか?

 くどいが、もう一度〈屁〉の恥が生起してくる構造を補足しながらまとめ直してみる。

 ――放出された〈屁〉は姿を見せない異臭異音の現象となる。たいていは「糞便臭&バ行系の破裂音」の異臭異音は感覚的な(仮に名付けて)不快Aを喚起する。この不快Aは嫌悪と恥が分化し混濁している微妙なゆらぎの感覚的段階にある。恥は他人を意識した瞬間に生起している。

 この〈屁〉の恥とは「相手の不快=嫌悪」を意識しており、その原因になっている自分(自分及び自分の放出物)に対面して、自分をよく見せようとする制御(屁をしないことの規範化)の瓦解(規範の逸脱)から発生している深〜い逸脱感に基づいている。それは〈屁〉が本来「存在してはいけない存在」であることに起因している「否定性の恥」の発生である。(その否定性は〈屁〉の徹底した無用性によって保証されているわけだ)

 このとき、見えない〈屁〉は純粋に音とニオイとして空気中に拡散しているのだが、姿を見せることなく突然の不快な異臭異音だけで自分を主張する(不意打ちの)存在様式そのものが、対人的に公正(フェア)ではなく狡猾(不誠実)である。どうあがいてもイキナリ発覚した異臭異音はハタ迷惑であるには違いないのでハナハダ無礼である。

 かくして「相手の不快=嫌悪」を強く意識(さらには、無作法に〈屁〉を放って倫理的にもダメな自分を意識)した不快Bを呼び覚ます。それはすでに倫理性を帯び理念化した外的規範(流布した禁止令)からの逸脱なのであり、そこに深〜い恥が生起している。

 我々の〈屁〉は「不快A→恥→不快B→大恥」という経路を辿って恥ずかしさを深めてくる一方で、それを抑止する何かがあるようだ。何だろ。
ラベル: 嫌悪
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2009年12月14日

続続続続続・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 これまで〈屁〉の恥を語る前提条件をアアでもないコウでもないと論じてきたわけだが、文字通り屁(の)理屈なのであるよ。ともあれ観察して分かるのは〈屁〉の恥というものが、まあ単純ではなく、いろいろ錯綜して重層的な心的現象になっていること。もちろん、どう説明したところで恥ずかしい〈屁〉は理屈抜きで恥ずかしいわけだ。

 我々が〈屁〉の恥ずかしさを感じないためには〈屁〉をしないことが一番だ。しかし、身体から完全に〈屁〉を放逐することは不可能だから、恥の放逐はそもそも不可能なのである。とはいえ〈屁〉を恥じない人はいるわけで、しかしそういう人も、あからさまに恥じないにしても〈屁〉をはばかって努めて抑止することはマナー(規範)だよねェ。

 では恥じないとは、どういう状態なのだろうか。

 まず〈屁〉を恥じないのは「恥」がないのではなく、退潮し引っ込んだ状態と考えられるね。このとき態度表出としてあるのは次のようなものだ。人前であなたが〈屁〉をしたと考えてみよう。恥を感じないのは、

(1)身体が無感覚になっている=寒さに凍えたり熱に浮かされたりして体力が落ち観念の運動が低下している。(五体満足でも意識低下している、あるいは鈍感な人はいるが…)

(2)気が置けない相手と〈屁〉をこき合っている=お互いに相手と同じ振る舞いをすることで観念の運動を同調させ同化(一体感に浸る)している。(参照

(3)相手より臭くない(うるさくない)と思っている=相手の方が自分より臭かったりヒドイ音がするので相手を見下ろす意識になっている。(参照

(4)無頓着を装い露悪的なことも平気でしている=観念の活動は高まっているのに(つまり恥を意識しつつも自覚的に)恥を封じ込めている。(参照

(5)正当なものであることの理由付けをしている=そもそも〈屁〉は恥じるべきものでないのだと、正当化する根拠を挙げて主張している。(参照

(6)自分の粗相をすべて相手のせいにする=自分のした〈屁〉は相手に原因があるのだと主張している。

(7)人に知れないようにやっている=意図して(あるいは意図せず)誰にも気づかれないで〈屁〉をする状況を獲得している。

(8)ある環境では〈屁〉が勲章になっている=監禁的な環境で恥を誇らしさに転化させている。(参照

(9)完璧に無視している=身体に宿る〈屁〉を全く無視するという不可能なことをしている。

 とまあ、ほとんどはこれまでの過去エントリでテーマにしてきたことの列記になるのであるが、いずれも恥じないための振る舞いである。総括的に概略の構図をまとめておこう。

 まず(1)と(9)は観念の身体性や身体の観念性を示すものだ。現象面では身体の変化が優位になって恥は左右されるが、〈屁〉の恥そのものは観念現象である。身体の緊急時は恥(ずかしい)どころではなくなるものの、身体の健全時には観念も元気で反動性を持ち「観念(恥の否定)VS観念(恥)」となる。しかし、身体に根ざす恥は駆逐しきれないので、無視しているふり(強がり)をするだけのこと。まあ何というか、そこには無理があるわけよね。

 その様子は第三者から見たら可笑しいだろう。そういう自分が演じる滑稽さの自覚は恥の自覚になるわけだけどね。ここは〈屁〉を「完璧に無視したい」のだが、無視できないわけである。こうして我々の〈屁〉の振る舞いとして(2)〜(8)が出てくるのである。恥はどう扱われているのか。

 このうち(2)は、例えば「赤信号みんなで渡れば恐くない」の心理に通じるもので、みんなで同じ行動をとればルールも恥も吹き飛ぶどころか、どういうわけか楽しいのである。それが禁じられたものであればあるほど楽しい。そういう観念の運動の同調を通じて恥は完璧に駆逐される(可能性がある)のである。そこにはお互いに〈屁〉をこき合うという恥も外聞もない行動(身体活動)あるのみよ。

 問題は恥を逃れようと(3)〜(7)に広がって七転八倒する我々の観念の運動(意識)だ。この一人芝居的な身勝手きわまる心的世界はあきれるほど自分の恥の駆逐をめざしているのである。これを一人の人間の七変化(多面性)として見るとこうなる。

 お前の〈屁〉の方が臭いと見下すかと思えば、自分の粗相には無頓着のまま露悪的な振る舞いで誤魔化し、非難されれば、そもそも〈屁〉は誰でもする恥ずかしくないものだと無理な理由をつけてみる。そしてまた性悪にも、自分が〈屁〉をしたのはお前のせいだと逆に責任追及したりするのだが、バレなければ人が居ようがお構いなしにこっそり〈屁〉をして恬として恥じない――そういう自己中心的な世界。つまり〈屁〉とはそういうものなのだ。

 ちょっと特異なのは(8)である。そこでは〈屁〉が勲章(自慢や賞賛)になってしまうのである。例えば刑務所、軍隊、寄宿舎のように監禁的な施設内にいる(囚われたり所属している)ような場合に発現する現象だ。こっそり仲間内で危険なナイフを自慢するような、外では忌避される〈屁〉を露出して自慢するそういう心的な価値転換の構造があるわけだ。

 これらをひとことで言えば、我々は何とか〈屁〉の恥を回避しようと、日頃からあの手この手で心的な葛藤を繰り広げているということなのだね。

 さて、これが前回までの話とどうつながるか。ふむふむ、恥が生まれる「不快A→恥→不快B→大恥」という構造的な検討があったわけだが――。
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2009年12月21日

続続続続続続・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 我々の観念の運動の一つに〈屁〉の恥がある。もともと恥というものは極めて観念的な現象なのだね。そのように観察して、恥が生まれて肥大していく心的な流れを段階を追って「不快A→恥→不快B→大恥」と捉えてみたのだが、その一方で恥を退潮させ引っ込めようとする(流れを堰のように止めようとする)態度表出があるのだった。そこには背景をなす心的な仕組みがあるに違いない(か?)。

 恥の流れを止めるとはどういうことなのだろうか。ふと思い出したのが、昔読んだ原始仏教の教典『スッタニパータ』の一節である。(思い出したというか、読んで何となく気にかけていた一節があった。最初に読んだのは岩波文庫の中村元訳だったが、ネットには正田大観訳が公開されている。こちらを引用する)
1034 尊者アジタが〔尋ねた〕「諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます。何が、諸々の〔欲望の〕流れの防護となるのですか。諸々の〔欲望の〕流れの統御となるものを説いてください。何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれますか」と。
1035 世尊は〔答えた〕「アジタさん、世〔界〕には、諸々の〔欲望の〕流れがあります。気づき(念)が、それら〔の流れ〕の防護となります。諸々の〔欲望の〕流れの統御となるものを説きましょう。知慧(般若・慧)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」と。

1069 尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、わたしは、独りで、大いなる激流を、依り所なく、〔独力で〕超えることができません。一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それを依り所にして、この激流を超えるであろう〔依存の対象を〕」と。
1070 世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、無所有〔の境地〕を見る、気づきの者となり、『〔何ものも〕存在しない』という〔思い、すなわち、無一物の境地を〕依り所にして、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、諸々の言葉(論説)から離れた者となり、渇愛の滅尽を昼夜に観なさい」と。
(正田大観訳『スッタニパータ』紀元前3〜2世紀頃成立)

 これを音成流に浅薄に解説すれば、止めどもなく流れ出てくる欲望(煩悩)に対しては、常に意識を向けることが必要なのであり(欲望のない境地を見すえた)邪念退散・五欲滅却をはかる強い自覚(気づき)こそが悟りの手だてなのだ、と強調しているのだ(と思う)。それしかないんだ、とね。まあ、そう言われると、とても自力(自律)本願な気持にさせられるのだが、もちろん欲に流される凡夫には、意を決する相応のエネルギーを要求するよねェ。

 いやいや仏教のことは忘れてしまおう。しかし、これをヒントに(乱暴だが)こう言ってみたい。この心的精進は「欲のない人(の境地)を強く強く思慕して無欲の人になる」とか「モーツアルト(の才能)を深く深く思念して音楽家になる」とか「戦争のない状態を固く固く祈願して平和の人になる」といった、何かを実現するための自覚の構造を示していると思うんだよね。つまりこれは、理想を拠り所に現実と相克する心的運動なのである。(仏教修行の場合は、例に挙げたような世俗的人生目標を達成する話では全くないので念のため)

 そこで〈屁〉なのだが、この論でいくと「〈屁〉のない状態を思慕・思念・祈願して〈屁〉の恥を滅却する〜」となるわけだけどね。気を向けること(思慕・思念・祈願…)によって何かを実現しようと意図する振る舞いは、まあ我々にとって当たり前と言えば当たり前である。気になる、気にする、気がある――というように、何事も「気(づき)」がない限り始まらないのであるからね。

 ただし、仏教の気と世俗の気は違う。そりゃまあ、我々の「〈屁〉を気にして〈屁〉を滅却する」という振る舞いは、前回のエントリで見たように、悟りとは似ても似つかぬものだったよねェ。それは恥を逃れようと凡夫が見苦しく七転八倒する姿だった。

 人間の「気(づき)」には、同じ心的運動の構造でも「聖/俗」があり、そこからさらに「正/邪」「善/悪」「快/不快」――などと分別する多元的な二面性を持っていることを示している。

 それは「気(づき)」というものの多様性を示していると思うのだが、そもそも仏教の「気(づき)」は世俗の「気(づき)」を徹底して滅(否定)するところから始まっているわけだよねェ。

 いやいや仏教の話は忘れて〈屁〉だ。この論でいくならば、俗なる我々が「〈屁〉を気にして〈屁〉を滅却する」とは、これはもう俗界の話。つまり、世俗の「気(づき)」とはまるまる欲望の運動なんだよねェ。

 それでもこの俗なる「気(づき)」は、多分に聖なる「気(づき)」に似ているのだ。我々は〈屁〉の恥を滅するために何をするのか。そうさ、恥のない境地をめざして一所懸命に振る舞っているのだった。そしてその一所懸命さが俗(世間の俗事)ということでは、無欲の人や音楽に長けた人や平和の人に、きわめて似ている振る舞いではないだろうか。

 俗なる我々は人生の目的や計画のために何でもするわけだが、そのために手厚く努力することが尊ばれている。恥の放逐もその一つなのか。しかし〈屁〉の場合にはどうも後味がよろしくないね。恥の放逐って人生の目的か?

 そもそも「屁=恥」は人生の目的というより非目的なものだよねェ。この俗界における「××」と「非××」の関係は、例えば「常識/非常識」「科学/非科学」「日常/非日常」というように、表裏の関係で相互に運動してしまう観念である。

 聖なる「気(づき)」は垂直(超越的)に動くのだが、俗なる「気(づき)」は水平(世俗的)に動いて相克してしまう。時には非目的が目的を圧倒してしまうことすらある。

                      聖
                      │
    「正」「善」「快」(目的)―― 俗界 ――(非目的)「邪」「悪」「不快」

 かくして〈屁〉は人生の除けモノとして非目的(目的にしない)であるのだが、〈屁〉が非目的から目的へと水平(世俗的)に失地回復に動くときに、恥の否定または回避という形をとるわけだ。

 しかし、その惨憺たる失敗(根本的に恥をなくすのは無理)は前回までのエントリで検討してきたとおりなのだ。つまり、仏教の「気(づき)」と違って、人間の〈屁〉の場合には気づいてしまったら最後、どうあがいても恥の地獄へと堕ちていくのであ〜る。

 事態の深刻さは絶望的(「悟り=恥の滅却」は不可能)ではないかと思うわけだが、それでも〈屁〉を恥じる人と恥じない人がいる現実には、やはり抑止的に働く「気(づき)」が介在しているのではないか。

 ――あ〜あ、また回り道しているわい。
posted by 楢須音成 at 01:44| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月27日

最終・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 回り道しながら〈屁〉の恥を検討してきたのだが、大風呂敷になって次第に収拾がつかなくなっていると思われてもいかん〜。いやはや、ここは気を取り直して頑張ってみることにしたい。

 改めて問うことにしよう。この世間では〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのはなぜなのだろうか。

 我々は自他の〈屁〉に直面すると(生々しく)反応するね。そのときのリアルな反応を思い浮かべてみよう。我々は驚き慌て恥と嫌悪にまみれる。恥は理念的で観念性が高く、嫌悪は感覚的で身体性が高い反応である。

 このときの〈屁〉の恥は「相手の不快を意識する」ことで起動している。対人関係の中で〈屁〉は「存在してはならないもの」として確立し、根深い「否定性の恥」をもたらすのだ。その観念運動は「不快A→恥→不快B→大恥」と辿りつつ、恥は深く深く我々の心身に影響を与え続け、強く強く刻印されることになる。(不快AとかBとか識別以外の意味はないので念のため)

不快A(感覚的段階から)―恥(相手の不快を意識して自己規範からの逸脱を意識)―自覚的―個人的
不快B(理念的段階へ)―大恥(世間の不快を意識して外的規範からの逸脱を意識)―倫理的―社会的

 ここでいう規範とは(相手や世間の不快を意識して)「自分は〈屁〉をしちゃダメ」「我々は〈屁〉をしちゃダメ」というように決めてしまう規準。そして、規範からの逸脱とは「自分は〈屁〉をしちゃってる」という痛恨の気づきである。(なお、多少なりとも恥に混濁している嫌悪は、恥ずかしいこととは別の筋道を辿る不快である。これは別の議論が必要だ)

 さて、ここからなのだが、この〈屁〉の気づきは不快AからBに進む段階でより深く広く自覚的になるわけである。つまり、そこに〈屁〉がある(発生した)という単なる気づきから、不快を敏感に嗅ぎ取り、ついに〈屁〉の存在を認めない自覚へと向かう心的運動として機能していくのだ。このときの気づきに伴なう痛恨はもたらされた結果への狼狽に匹敵し、こういう心的な動揺によって、恥はいよいよ深まっていく。

 気づきの拡大は我々にどういう振る舞いを強いるのだろうか。気づきは恥を深める一方で、意識することなく心的には(防衛的に)状況の修復をめざしてしまうのである。つまり、行動の初手としてはまず「メンツを保つ」ことを考えるだろうねェ。それは(放屁がもたらした)劣位を意識し、そこからの回復をめざす心的な補償作用の発露なのであるが、そもそも〈屁〉の恥のメンツとは何だ、ということになる。

 一般にメンツは、ある事柄に対して対等ないしは優位の関係(立場)に身を置こうとする心的運動だ。まあ、これは時としてつまらないことに対する反応にもなる。例えば、会合で挨拶の順番に文句をつけるとか、道で擦れ違ってガンをつけたなと腹を立てるとか、第三者から見ればど〜でもいいわけだ。

 しかし、自分がうっかり粗相した〈屁〉の恥は厄介だよねェ。明らかに自分に非があるのである。相手の不快の原因に自分がなるとき〈屁〉の恥は発生するのだから、メンツなどは最初から潰れているのだ。にもかかわらず、ガムシャラに〈屁〉の恥からの脱却、すなわちメンツの回復をめざして悪戦苦闘する。〈屁〉の気づきによって恥が起動し、対外的にメンツを立てようと意識を広げていくのである。

 恥から大恥へと向かうとき我々の関係性は個人から世間へと拡大している。メンツもまた世間的なメンツへと深化していかないわけにはいかない。

 我々の〈屁〉の悲劇はメンツが最初から無残に潰れていて、もはや状況的に〈屁〉をした事実から回復のしようがないのに、メンツを回復しようとしていることだ。心的なこの回復運動は、露骨な態度表出にならないとしても、生き残らんとする心性のどうしようもない秘められた傾向なのである。

 仏教が重んじる「気づき」は智慧を拠り所に人間の統御作用を支えるものだ。しかし、どうも俗界における〈屁〉の気づきとは、気づいた瞬間から恥を生むと同時に恥を封じ、メンツを拠り所にして、我々の振る舞いを支えていくもののようなのだねェ。

 あなたが「あ、やっちまった」と気づいたときにはすでに(相手を意識して)恥ずかしい(はず)。自分は〈屁〉なんぞしない清廉潔白の人だと主張はできない(回復不能の劣位にある)が、清廉潔白(実はメンツの保持)をめざす心的運動を起動させる。一般にそれは言訳とか嘘とか知らんぷりの振る舞いだ。何とまあ、欺瞞的〜の俗人であろうか。いやいや、あなたに限らず何かにつけ我々はよくやるわけですよ。

 率直に「いやあ、私めは屁をこきました。ごめんなさい。本当に申し訳ない」と謙虚な態度で謝罪するのは一つのスタイルではあるが、凡夫がどんなに誠実そうな態度をとろうと、これすら言訳の便法になってしまうのが〈屁〉というものだ。誠実(を認めてもらうの)って難しいのさ。

 結局のところ、やっちまった〈屁〉の異臭異音の余韻を残す限り、相手は決して許してはくれない。その不快を与えている相手とは対等だった(あるいは優位だった)のに、いまや自らの〈屁〉の一発で蔑まれる立場に転落している(と慙愧して思う)のである。

 具体的に〈屁〉の恥を抑え込む我々の振る舞いはすでに検討してきたね。巧妙なその振る舞いは〈屁〉を恥じないために、人に知られているなら陰に陽に恥ずかしくない理由を用意して誇示するのだし、人に知られていないなら迷うことなく知らんぷりを決め込む。まさに恥も外聞もなく、対外的なメンツを保とうとする振る舞いだよねェ。

 もちろん、悪いばかりがメンツではない。メンツを重んじ面目を保つときに、清廉潔白に正当に振る舞うことはあるだろう。しかし、メンツとは関係(形式)の優位性なのだから、何であれ優位になれる(形式が整う)のならば、一般にそれがどんな邪悪な理由づけであろうと「可」になってしまうのである。人がメンツを先行させるときには捏造、欺瞞、隠蔽、不正、虚偽──などなど、もはや何でもアリの(正よりは邪の)振る舞いに出ることになりがちだ。(まあ、あんまりな場合には良心の呵責ってものもあるわけだが)

 仏教の「気づき」が悟りに向けて超越的な心的作用になっているのに対して、我々の〈屁〉の気づきはメンツを立てるための世俗的な心的作用になって動き出してしまう。俗界では常に〈屁〉の「正/邪」「善/悪」「快/不快」──などが混濁して立場を主張しているわけだが、〈屁〉の気づきはそういう俗界の渦の中で機能している。その目的はただ一つ。ひたすら自分の〈屁〉の恥を封じることなのである。

 かくして〈屁〉を恥じる人とは(状況はどうあろうと)恥を心的に封印できなかった人であり、恥じない人とは恥を心的に封印した人だね。恥じる恥じないはこの封印力にあるわけだ。

 ははは、ここまで来てようやく〈屁〉を恥じる人と恥じない人の基本四分類の提示になったのであ〜る。

(1)恥に敏感なのに封印力が劣る=恥を十分把握している。自己主張が弱く周囲から圧倒されてしまう

(2)恥に鈍感だが封印力が劣る=恥を十分把握していない。あんまり自己主張はなく周囲を苛立たせる

(3)恥に敏感だが封印力が優る=恥を十分把握している。自己主張が強く周囲を圧倒(しようと)する

(4)恥に鈍感なのに封印力が優る=恥を十分把握していない。強く自己主張するので周囲を苛立たせる

 一般的なのは(1)だろうね。我が家における音成の立場はだいたいこの感じ。これが反転攻勢に出るのが(3)だ。ここには「廉恥/破廉恥」の相克があるわけだよねェ。まあ、しばしば(3)の論理や行動は破綻をきたすんだけどね。

 そして(2)と(4)は、そもそも〈屁〉を(あまり)恥じない人たちだよね。こういう人は周囲から顰蹙を買う場面が多いのであるが、少なくとも〈屁〉に関する限り極悪人はいない(はずだ)。例えば(2)は当たり前みたいな顔をして気のない〈屁〉をする人であり、これが(4)になると、〈屁〉を恥じるどころか面白がって饒舌にオシャべリする人なんかであろう〜。

 この広い世間に〈屁〉を恥じる人と恥じない人がいるのは(あっさり言ってしまえば)人ごとに異なる「恥の感受力」と「恥の封印力」の格差とその組み合わせにあるのであるよ。

 止めどもない〈屁〉の議論は終わったような終わっていないような──万事に不協和音のご時世にぷんぷんとこきまくって暮れる〈屁〉のような年の瀬。ひとまず今年は終わりです。
ラベル: メンツ 気づき
posted by 楢須音成 at 18:54| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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