2009年11月01日

その〈屁〉、いかがなものか

 お偉い人が屁をこいたら周りはとても気を遣うものだが、お偉い人は屁をこいても、とんと気にする風はなかったりする。福富織部の『屁』にあったこんな小咄。いやいや、若殿は屁をこくため便所に行くほどのお偉い人…なのね。
 若殿、便所に行つて、手も洗はずに、さつさと立去る。浄水番の小姓、何か気にさはつたものと心得、伺ひに出る。すると、若殿笑つて曰く「なあに大事ない、わしは屁を放りに参つたのぢや」

●お偉い人が屁をこいたら、たいてい周りは黙ってますわな。どんなに臭くても、とどろく音を立てても。そりゃもう、お偉い人なんだから少しばかりの粗相はいい…んだからさ。
 周りの人「(殿様ァ、ま〜たやったなぁ! ま、いいけど、くさか〜)……………………」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい黙ってますわな。どんなに臭くても、とどろく音を立てても。そりゃもう、お偉い人なんだから自分の屁に全く気がついていない…んなわけないか。
 お偉い人「(あれ、私いま出した? 出たの〜。出たか。そうか。なるほど〜)……………………」

●お偉い人が屁をこいたら、お偉い人が好きな人はたいていかばいますわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…それ必死なんじゃね。
 好きな人「(殿様のためなら…)いやぁ、すんまへん。やったのはこの私です、私。ホ、ホント…です」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい自分のじゃないみたいな言訳しますわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…他人事。
 お偉い人「これはこれは、芋屁か、大根屁か、納豆屁か。いや〜、摂取状況からすると混合比が一番多いのは芋か。ウーム臭気が激しいのはラッキョ〜」

●お偉い人が屁をこいたら、お偉い人が嫌いな人はたいてい批判しますわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから…許さんよ。
 嫌いな人「(な、なに、このニオイ…)人としてあるまじき暴挙。(殿様の)立場ってもんがあるでしょ。人倫にもとる許し難い破廉恥です」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい自分を責めたりはしませんわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから…めげない。
 お偉い人「あ〜もう(私のお尻が)やっちゃった〜。なんだかお腹がグチュグチュだなぁ。ど〜しちゃったんだろ。(私は)絶対がまんしなくてはね。がんばりますよ〜」

●お偉い人が屁をこいたら、たいてい周りは笑いませんわな。どんなに臭くても、とどろく音をたてても。そりゃもう、お偉い人なんだから笑ったら失礼…なんだからさ。
 周りの人「(殿様ァ、またですか。も〜)…(無表情)…」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい無表情ですわな。どんなに臭くても、とどろく音を立てても。そりゃもう、お偉い人なんだから不用意な笑いは命取り…になるかもさ。
 お偉い人「(あんたら、こっち見たらいけません、絶対に)…(無表情)…」

●お偉い人が屁をこいたら、お偉い人が嫌いな人はたいてい馬鹿にしますわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…顔見るのもイヤ。
 嫌いな人「(何こいてるの。バッカじゃね、バカ殿)あ〜ヤダ、オレの鼻と耳つぶれた。涙で目までつぶれた〜」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい反省しませんわな。その屁がにおえばにおうほど、うるさければうるさいほど…澄まし顔で人のせいにする。
 お偉い人「(芋を食わせたあんらたに…)あーんたらに非難されたくありません」

●お偉い人が屁をこいたら、たいてい周りは泣きますわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから下々は泣き寝入り…なんだからよ。
 周りの人「(ウヘ、殿様の今日のオプーは何てヒドイんだろ…)涙が出る悲しい日でございますな」

○お偉い人は屁をこいても、たいてい中傷されたと主張しますわな。臭けりゃ臭いほど、とどろけばとどろくほど。そりゃもう、お偉い人なんだから…微妙に追及をかわす。
 お偉い人「(黙れ、見るな、私をだれだと思っているのか、このアホ〜が)便所に行ったわけでもないのに手を洗えなどと、そのような讒言(ざんげん)は訳がわからぬ」

 ――ご乱心どころの話ではない。


ラベル: 殿様 偉い人
posted by 楢須音成 at 00:13| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月08日

腹中の虫に油断はできぬ

 江戸中期の俳人である横井也有が鳥羽僧正の絵に賛を付けている。日本で初めて絵筆で屁を描いた、あの「放屁合戦」にである。例によって、いい加減な音成のテキトー訳で引用してみよう。(参照したのは石田元季校訂『鶉衣』岩波文庫)
 鳥羽絵賛
 ガマの息が虹をつくり、ハマグリはしばしば息を吐いて楼台の形をなす。ならば腹中の虫が気を吹いて声を出すのも、何もあやしいわざではあるまい。くしゃみもあくびも同じものなのに、その出所がいやしいというので、貴い人も賤しい人もこれを慎むのを公の場所での厳しい規範とした。退之(韓愈)の鳴物づくしにもこれがないのは、もしかしたらこれがために取りはずしたのであろうか。その鳴き声に不満があるのだとはかぎらないだろう。盛親(じょうしん)僧都のように芋を好み、あるいは麦飯だったりすると、おならがお茶の飲み過ぎでさらに勢いづいてはなはだしく出る。むかし、太平記にあるように無礼講の乱痴気で初めてこれを許してから(倒幕の企みは)とうとう鎌倉(幕府)に嗅ぎつけられて、せっかくの七日間の説法も屁の一発(不用意な漏洩)で形無し(露見)となってしまい、ついに資朝や俊基が(罪をかぶって)屁負い比丘尼となられたのだった。あるいはこれを雑魚寝の暗がりに、ぬし知らぬ香こそ匂へれ(寝物語に露見した)と歌人は詠んで残したのである。思うに鳥羽僧正の筆さばきも単に戯れただけのことではない。音があっても目には見えず、物としての形もなく役に立たないことは、さらに電光石火にもまさるがゆえに、人に常ならぬこの世の条理を知らせようとの思いなのである。

 古典や歴史の関連する知識がないと面白味が十分に伝わってこないが、博学多識が織り込まれた文脈とともに、也有が〈屁〉を見ている懐の深さに感心するんだよねェ。何より感じ入るのは、鳥羽僧正の「放屁合戦」が往来に繰り広げる〈屁〉の放埒を見せてくれるのに対して、ここにはニオイが洩れる透かし屁の臭い臭い深みを語っているのであるよ。

 鳥羽僧正の「放屁合戦」の賛である以上に、後半は戦記物語「太平記」への賛(批評)になっているところが眼目なのだ。後醍醐天皇の倒幕計画(正中の変1324年)のくだりは太平記のハイライトの一つだね。也有は倒幕計画を〈屁〉に見立てているわけさ。

 謀議、密議、陰謀――という〈屁〉はもちろん透かし屁だろう。企みを隠すために、後醍醐天皇は夜ごと無礼講の宴会を開いて乱痴気騒ぎ。そのかげで謀議をこらしていたのだが、土岐頼員がついつい寝物語に計画を愛妻に洩らしてしまう。いつの世も嫁の口は忌々しく、そこから六波羅探題へと密告されて計画が露見してしまうのである。天皇に処分はなかったものの、側近の日野資朝や日野俊基など多数が罪をかぶる結果となった。(賛にある屁負い比丘尼とは、仕える妻女が屁をしたときに身代わりになる比丘尼のこと)

 このあと後醍醐天皇は再び反旗を翻すのだから(元弘の変1331年)その〈屁〉は腹中に健在だった。時代の流転はかくも目が離せない。隣人のお腹の〈屁〉だってゆめゆめ油断してはいけないのだよ〜。

 鳥羽僧正の「放屁合戦」の乱痴気はあけすけな〈屁〉の動態だが、也有はそこに太平記をかぶせて透かし屁の変化を見たのである。奔放な鳥羽絵の筆さばきが喚起する「絵力」に、也有が見事に応えたというべきだろう。

 ところで、ガマやハマグリの息が何やら謎めいていて、精気を吸い取ったり毒気で殺したり、虹やら楼台やらの形をあらわしたりするのは、古来いろいろな文献で語られているのである。同様に人間様が飼っている腹中の虫が気を吹いて声を上げたのが〈屁〉なのだというわけだ。いやまあ、確かに〈屁〉の隠微に深い影響力を侮ってはいかんだろうねェ。
posted by 楢須音成 at 00:26| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月14日

〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 この広い世間では、自分の〈屁〉が臭いことを(ひどく)恥じる人と(あまり)恥じない人がいるね。まあ何というか、恥じるのは性格の弱さなのか、自意識過剰なのか、はたまた倫理とか道徳に潔癖なのか。とすると、恥じない人は性格が強く、自意識薄弱で、不倫理や不道徳というわけか。ん〜なことはないよねェ。

 最初に〈屁〉を「恥じる」ことと「嫌悪する」ことを区別しておきたい。そもそも、外から観察した場合この二つは人間の態度表出としてはよく似ているのである。例えば、あなたが〈屁〉をしたとして、それを「隠す」とすれば、その理由は「恥ずかしいから(隠す)」「嫌悪するから(隠す)」という二つの理由が考えられるわけだ。

 恥ずかしいから隠す場合、何らかの規範(そのとき屁をしてはいけないという意識)からの逸脱した意識があるのであり、〈屁〉を隠すとは逸脱の現実を隠蔽することにほかならない。一般に〈屁〉は隠蔽できず露見してしまう(逸脱の修復は不可能である)のだが、このとき同伴している情動が「恥ずかしい」だ。このような恥は自分の〈屁〉に向かいやすい。(もちろん他人の〈屁〉を恥じることもあるけど)

 次は嫌悪というよりは恥の反応である。
……夫れ屁は人中にて撒(ひ)るものにあらず。放るまじき座敷にて、若し誤つてとりはずせば、武士は腹を切る程恥とす。傳(つた)へ聞く、品川にて何とかいへる女、客の前にてとりはづせしが、其座に小田原町の李堂、堺町の己(みい)なんど居合せて笑けるに、彼の女忍び兼ね、一間に入りて自害せんとするを、傍輩(ほうばい)の女が見付け、さまざまに諫むれども、一座がかの通りの者なれば、惡る口にいひふらされ、世上の沙汰に成りなば、どうも活きて居られぬとのせりふ、彼の二人も詞(ことば)を盡し、此事決していふまじとひたすらになだむれども、イヤイヤ今こそ左様に請(うけ)がへ給て、跡にていひ給はんは必定。活きて恥をさらさんよりは死なせてたび給へとかきくどき、とどまる氣色あらざれば、二人もすべき方なくて、此事口外せまじきよし、證文を書いて漸(ようよう)自害をとどめしとかや……
(平賀源内『放屁論』)

 一方、嫌悪するから隠す場合、それはバッチイものであるという感じ(不快、不潔という生理的な不正の意識)に絡め取られているのであり、〈屁〉を隠すというのは不正なものを遠ざけたり封印することにほかならない。一般に〈屁〉はたとえ遠ざけ封印したとしても(露出したのと同様の)残存感があるのだが、このとき同伴している情動が「嫌悪」だ。このような嫌悪は他人の〈屁〉に向かいやすい。(もちろん自分の〈屁〉を自己嫌悪することもあるけど)

 次は恥というよりは嫌悪の反応である。
……一アラビヤ人屁迫る事急なるより、天幕外遠隔の地へ駈け行き、小刀で地に穴掘り、その上に尻を据(す)え、尻と穴との間を土で詰め廻しとあるから、近年流行の醋酸(さくさん)採りの窯を築くほどの大工事じゃ。さていよいよ放(ひ)り込むや否や直ちにその穴を土で埋め、かくて声も香も他に知れざりしを確かめ、やっと安心して帰った……

……かつてアラビヤのある港で、一水夫が灰一俵ノ(かた)ぐるとて一つ取り外(はず)すと、聴衆一同無上の不浄に汚されたごとく争うて海に入るを睹(み)た……
(以上は、南方熊楠『十二支考 馬に関する民俗と伝説』)

 我々は自他の〈屁〉に出くわして「恥じる」こともあれば「嫌悪する」こともあるわけだ。その外見の態度表出が同じであっても、理念的なものに根ざしているのが「恥」であり、身体的(生理的)なものに根ざしているのが「嫌悪」である。それらは〈屁〉に対して判然と分かれる態度ではなく、一方が出てくれば、そのぶん一方が引っ込むような関係で混濁しているのであ〜る。

haji__kenwo.jpg


 我々が異音異臭の〈屁〉を恥じたり嫌悪したりするのは逃れられぬ業のようなものだよねェ。ともあれ、我々の〈屁〉に対する態度には「恥系」と「嫌悪系」があるのだと知っておこう。(いやまあ、恥も嫌悪もなく放屁を楽しむ「悦楽系」の人もいるんだが…いやいや、我が家にはそういう者はいないが)

 さて、それでは「恥系」の〈屁〉について愚考していくことにしよう〜。

ラベル: 嫌悪
posted by 楢須音成 at 09:12| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

続・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 そもそも〈屁〉を恥じるとはどういうことなのだろうか。このことについては〈性〉と対比して前にも考えたことがあるのだが、恥じるにせよ嫌悪するにせよ〈屁〉が疎まれるのは、それが不快であることに起因する。恥じるということは、不快なものを自ら放出することに対して心的に現象するのである。異臭異音の〈屁〉の不快は何とも言い難いものだ。うっかり粗相でもしようものなら深い深い動揺を覚える…。

 といっても、今回の問題提起は(とても)恥ずかしがる人と(あまり)恥ずかしがらない人がいるってこと。なぜだろうか。まずは自分が〈屁〉をした場合を想定してみるべきだ。

 つまり、アナタはいま〈屁〉をしたのである。その〈屁〉の不快度は異臭異音の程度が大きいほど高く、不快度が高いほど恥ずかしさは大のはずだ。恥ずかしい〈屁〉とは異音異臭のはなはだしき(不快)をもって決定づけられるね。しかし逆に、異音異臭のわずかをもって〈屁〉の恥ずかしさは軽減されるのだろうか。

 これは複雑で微妙な問題だと思える。恥ずかしさが軽減されるかもしれないし、軽減されないかもしれないからだが、基本的に恥ずかしさが消滅してしまうことはないはずだ。そもそも〈屁〉はそれをしたこと自体が恥なのだからね。このことは〈屁〉というものの基本的な性格である。

 ちょっと話がそれるが、別に〈屁〉に限らず異音異臭の物体はあるよね。例えば、兄弟分の〈糞〉だって異音異臭のうちに出現する物体だ。もちろん、人前で〈糞〉を粗相すれば恥ずかしいには違いない。しかし、よーく考えてほしいのだが、〈糞〉はしかるべきところ(便所とか)で始末をつければ、別にどおってことはないのだ。便所でいくら(余儀なく)ブリブリやってプンプン発散させて、そのとき眉をひそめているドアの外にいる人を意識したとしても、恥ずかしさは多分(どこかしら)なぜか〈屁〉ほどではないのだ。

 しかし思うに、そのブリブリとプンプンがドアの外にいる人に〈屁〉だと知れたら〈糞〉が恥ずかしいどころの話ではないだろう。それは〈糞〉より恥ずかしくはないだろうか。いや、どちらも恥ずかしい〜という人もいるかもしれないな。でも、ちょっと待ってほしいよ。

 どちらも恥ずかしいかも知れないが、便所で〈糞〉も〈屁〉も同じくらいブリブリ音をたてプンプンにおうのだとしたらどちらが恥ずかしいだろうか、という問題なのだ。――そ、それは〈屁〉ではないだろうか。

 整理すれば、こうなるだろう。

〈糞〉→場所をわきまえれば(比較的)恥ずかしくない→場所が限定され、脱糞は公認されている(有用性ゆえに)
〈屁〉→場所をわきまえても(かなり)恥ずかしい→場所が限定されないが、屁はしてはいけない(無用性ゆえに)

 つまり〈糞〉には「落としどころ」がある(場所が用意される)が、どこでもできる〈屁〉にはそういうものがないのだね。これを言い換えると〈糞〉は物理的・空間的に規制されるが倫理的・道徳的には規制されないのであり、〈屁〉は物理的・空間的には規制されないが倫理的・道徳的に規制されるのである。結果的にどちらも、むやみにどこでもしたらいかん〜となるわけさ。

 このような〈糞〉と〈屁〉の違いは重要だ。そして、両者の違いを決定づけるのが〈屁〉の無用性である。この世において〈屁〉は何のために存在しているのか全くわからない。そりゃまあ〈屁〉で芸をするとか人さまざまに多少の存在意義はあるにしても、それ自体に何か生きるための積極的な役割があるのだろうかねェ。例えば〈糞〉は検査で健康のバロメーターの試料とする。肥料にも使える。糞尿の処理は大事なビジネスにもなっている。しかし〈屁〉でわかるのはせいぜい何を食べたからそんなにも臭いか、というようなことだけだ。あくまでも〈屁〉は人生(身体)の付録なのだ。

 しかも〈屁〉は異臭異音の不愉快な物体。これではどこまでいっても浮かばれないだろう。もちろん〈糞〉だって異臭異音なのだが、こちらは揺るぎない有用性を認められているから、しっかりと浮かぶ瀬があるのである。究極的に〈糞〉における異音異臭や不浄感は有用性の前に克服されてしまうのだ。だから〈屁〉と比べたら〈糞〉はちっとも恥ずかしくない(はず)。(まあ、やっぱり恥ずかしい〜という人はいるかもしれないが…何というか「質」が違うでしょ!)

 簡単に言えば〈糞〉と違って〈屁〉は何の意味もない不快現象であるがゆえに深〜く恥ずかしいのである。

 意味のなさ――存在理由(意義)のないことに加えてブウブウプンプンと切迫してくる不快は、例えば身動きできない状況でアカの他人から何の理由かも明示されず、大事なお尻をキツくキツくつねられ続けるような理不尽な苦痛に匹敵するだろう。理由がない(説明できない)不快な事態ほど耐え難いものはないね。

 かくして〈糞〉と〈屁〉はどうも似て非なるものだと判断されるのである。さらに〈糞〉と〈屁〉の恥ずかしさの違いを究めようとすれば、両者の不快(異臭異音)とはそもそも何であるのか(その心的構造)を突っ込んで考えてみなければいけないと思うのであるよ。

 いやはや〈屁〉を恥ずかしがる人と恥ずかしがらない人がいるという最初の問題からは遠ざかる一方だが、そこへはブーメランになって戻ってくる予定であ〜る。
ラベル: 不快 嫌悪
posted by 楢須音成 at 22:36| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月25日

続続・〈屁〉が臭いのを恥じる人と恥じない人がいるのは何でだろ〜ヵ

 そもそも〈屁〉が恥ずかしい原因は、この自分という身体が意味もなく異臭異音の不快なものを放出してしまうことにあるのだった。ところが同じように異臭異音の不快な放出物である〈糞〉の場合には、物体として意味(有用性)を持つから(かなりの程度)恥ずかしくないのであった。

 ここで〈糞〉についてはいったん引っ込めておくことにして〈屁〉だ。この〈屁〉というヤツは不快であるとはいうものの、実は〈屁〉をすると大変気持がよろしいよねェ。もちろん、そこに誰もいなければなおよろしい。この誰もいなければというのが重要で、そばに誰もいないと〈屁〉は気持がいいうえに恥ずかしくない(よね?)。つまり〈屁〉は人に知られると恥ずかしいのである。 

 知られると恥ずかしいとはどういう心的現象なのだろうか。川柳にはこんなのがある。

  屁を放つてやとひ禿(かぶろ=遊女が使う見習いの少女)は二日来ず
  屁を放つた嫁は酒でも飲んだやう
  屁を放つて嫁は雪隠(せっちん)でにくがり

 いずれも彼女たちは〈屁〉を人に知られてしまい恥ずかしいのである。女性の場合は特にそうかもしれないね。その女性も年齢を重ねて用意周到になると回避策は自然に出てくるようだ。

  屁を放りに雪隠に行く賢婦人

 便所も活用次第。用心深く利用すれば〈屁〉を隠蔽する格好の場所になるわけだ。これらはいずれも自分の〈屁〉に直面して強く強く他人を意識しているのだが、これがまわりに誰もいない一人ぼっちの〈屁〉になると、急に関心がなくなる。恥は消えている。

  屁を放つて可笑しくもない独り者

 このような心的落差が劇的に現象する。一人の場合には〈屁〉は「可笑しくもない」のである。

 もちろん、まわりに人がいても人に知られず〈屁〉をした場合には、一人のときの〈屁〉と同様の心境をもたらすだろうね。いやいや、かえってバレるかもしれないと、恥ではなく(恥を恐れて)恐怖にとらわれるかもしれないねェ。

  屁を放つたやつから鼻をまづつまみ
  屁の騒ぎ放り手は中にすまして居

 このように疑われる前に被害者を装うか、あるいは徹底して無関係を装う振る舞いに及ぶわけだ。(まあ、こんなとき粛々と恥を甘受して謝罪する正直者はいますけどね)

 これらの一連の現象には他者に対する意識が作用している。我々の〈屁〉の恥は、他者との関係の中で発生するものであり、それは自分が〈屁〉をしたことを「知られてしまっている」という意識において喚起されるのだ。

 概念的には恥というものは何らかの「規範からの逸脱(の意識)」によって生じるといえるが、このときの〈屁〉の規範とは、例えば「人前で屁をしてはいけない」という暗黙の合意(ルール)があるわけである。それに違反するから恥ずかしい。というか、恥じるべきなのだね。

 しかし、どうもこの説明だけは包括的すぎて深みがないような気がする。規範の背後には、自分が粗相した〈屁〉が不快そのものであり、不快なものを放出してしまったことへの忸怩たる思いがある。まあ、それが恥なのだが、規範があってもなくても〈屁〉の異音異臭は恥ずかしくないか?

 要するにだね、理念化している規範に縛られる以前の(規範が生じていない)段階から〈屁〉の不快はあるのである。

 注意すべきは〈屁〉の異臭異音の原初的な不快(不快感)は、そのままイコール恥ではないことだ(それにまた不快はイコール嫌悪ではないね)。不快であることが何かしらの心的過程を経て恥になるのである。その過程を心的に生じる不快現象と呼んでおこう。

 ここで、アナタが〈屁〉をした(とする)。そのときのアナタの心的な不快現象とは、自分自身の不快というよりも他者の不快を意識した状態なのだ。それは他者が(アナタの屁を)不快がっている、あるいは不快がるだろうということを意識した(緊張した)状態なのだね。異臭異音がヒドイと、その意識は即座に先鋭化せざるを得ない。

 このときアナタの意識は、もともとの〈屁〉の不快に重なって他者の不快をも包含した意識へと肥大化している。(実際に他者がどう感じて思っているかはほとんど関係ない)

 当然、そこには「屁をしちゃいかん!」「屁を隠したい!」という強い強い制御の意識が働く。しかし、粗相した異臭異音の〈屁〉はまぎれもなく現象しているのだから制御は無効で、それは敗北した意識(負の逸脱感)となって現象することになるのだ。この制御という意識の緊張が無効になった(瓦解した)瞬間に、ある方向性をとって発生する心的なバランス回復(補償)の情動が〈屁〉の恥だ。

 他者の不快を思慮して〈屁〉を制御しようとする意識は規範意識の芽生えになっている。そこでは「屁をしない・したくない」という(私的な)内的規範をまず用意してくるからである。ここから「人間というものは人前で屁をしてはいけない〜」という世間で共有できる外的規範へと転化(理念化)していくのであるが、すでに内的規範の成立段階から規範を逸脱しているので、外的規範を意識するとなおいっそう恥ずかしい〜となるわけである。(まあ、世間という人間行動の世界では恥の心的なルーチンはすでに完成しているので、我々は顕在的に何も意識せずそれをなぞるだけなのだが)

〈屁〉を粗相→他者(の不快)を意識→内的規範→崩壊→恥→外的規範→崩壊→大恥

 単線的にはこうなるにしても、実際には行きつ戻りつの一種スパイラルな心的展開(葛藤)で暴走気味の「否定性の恥」が否応なしに醸成されていくのであ〜る。(肯定性の恥についてはこちら

 このとき他者が目の前にいないのなら、他者の不快を意識する必要はないわけである。ならば、そこには原理的に恥はないのだよ。しかし、他者が不在でも他者を意識に思い描けば存在しているのと同じになるのだし、神様(のようなもの)を信じるなら全能の他者が存在してしまうわけだから、恥から逃れることはできないだろう。(もちろん、倫理・道徳心もなく神をも信じない者は、誰もいないところで一人で屁をするのなら何ら一向に恥じることはないであろう〜)

 一人でする〈屁〉は恥ずかしくない――これこそ心の基本原理なのだ。つまり〈屁〉の恥はそこに他者がいるのかいないのかによって、出たり引っ込んだりするのである。(少し話がそれるが、屁をして、かつ恥を消すには相互に屁をこき合えば実現できることについてはこちら

 ところでさらに話がそれるのだが、他者がいてもいなくても関係ないのが〈糞〉だね。存在感が抜群。目に見える視覚性の高い〈糞〉の異臭異音の不快は倍加して強烈に届くのさ。まあこうなると、これは恥がどうのというより先に嫌悪が立ってくるんだよねェ。

 ははは、今回も回り道〜。
ラベル:嫌悪
posted by 楢須音成 at 22:35| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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