2009年10月04日

続続・近くでする〈屁〉と遠くでする〈屁〉

 近くで〈屁〉をされると仰天する。音に驚き、ニオイに愕然とする。それは人が自他ともに課す禁止事項の一つなのである。こういう〈屁〉の影響力は遠近によって増減するわけだが、そのとき〈屁〉はしなくとも、人は投げ込まれた環境に作り出している関係性に応じて人との距離を取る。その人が疎遠な人であったならば、その人の空間に近づき過ぎてはいけないよ〜。
 この本は、人間の存在と行為は事実上すべて空間の体験と結びついていることを強調している。人間の空間感覚は、視覚、聴覚、筋覚、嗅覚、そして温度といった多数の感覚的入力の総合である。これらの一つ一つはそれぞれ複雑なシステムを構成している――たとえば視覚的に遠近感を体験する場合に一ダースもの方法があるように――ばかりでなく、おのおのが文化によって型どられている。したがって、異なる文化の中で育った人々が異なる感覚世界に生きているという事実は、他に受け取りようがないのである。
(エドワード・T・ホール『かくれた次元』日高敏隆/佐藤信行訳)

 文化人類学者のホールが特にこだわったのは人に接するときの(民族間で異なる)遠近の感覚、つまり対人間(たいじんかん)の距離である。そこで、民族間で違う対人間の距離はその根本に、気候に影響されるフレームがあるのではないか、というのが単純な音成の思いつきだった。まあ、すでに民俗学者の樋口清之が「握手やキスというあいさつ表現が日本や湿度の高い国にない」という指摘をしており、挨拶に限っても「じめじめ」した気候の影響があるというのは納得がいく。乾燥して「からからっ」としていれば、肌を接近させたとき「じめじめっ」と湿っているより不快ではないだろうしね。それでこういう「快or不快」が人と人の接近度合の要因になると仮説にしたのである。

 ホールはアラブ人は対人間の距離が接近している民族だと観察している。ならば、広大な砂漠に接した中東の国々の人たちは、その高温乾燥の気候の感化力によって接近度が高いのだとしておこう。データを『理科年表』から拾ってみた。相対湿度の高い順にプロットして、参考までに東京とルクセンブルクを追加している。(数値は年平均)
arabian_climate.jpg

 どうでしょ、この湿度の両極端。すべての地域が高温乾燥というわけではないのだね。データは年平均なので詳細が欠けてくるが、季節や地域によって差が大きいのだ。中東に住んだ人によれば、ベイルートは地中海性気候でまだましとのことだが、アブダビやバスラのひどい高温多湿ぶりは、アラビア湾の湿気と砂漠からの熱風によるもの。内陸部は砂漠地帯だからモロに高温乾燥。まさにリヤドなど炎天地獄ではないか。高温乾燥だと日陰は大変涼しいものの、冬など砂漠は寒暖の差も激しいという。まあ、何というか(日本人には)極端に見える砂漠の過酷さは半端ではないね。

 ところで、アラブ人の挨拶の行動なのだが、握手や抱擁や頬を合わせることは普通に公の場でも行われる。身体の接近度は高いのである。やっぱりこれは「じめじめっ」と「からからっ」の原理からいけば、砂漠の乾燥があるからということになる(か?)。

 日本=高温多湿→ジメジメ
 西欧=低温多湿→サラサラ
 中東=高温乾燥→カラカラ

 地図を見ても砂漠の広がりは広大だ。人々は都市に集中し、砂漠を身近に人口密度の高い暮らしをしている。ホールは『かくれた次元』の中で「砂漠からの絶えざる圧力」について語っているのだが、特に気候の影響を語っているわけではない。といって気候のもたらす感化力を無視しているわけでもないと思うんだけどね。人が住む地理的な条件に気候は不可分なのだし、強烈な高温乾燥は大きな原因ではないか。

 ともあれ、ホールは人の接近度とか、単にそういう表面的な現象だけではなく、さらに突っ込んで身体と自我の存在のあり方に着目し、ヨーロッパ人との比較でこう分析する。
 身体に関して、自我がどこに位置するかという観念のちがいは把握しにくいものである。しかし一度このような観念を受けいれさえすればアラブ人の生活のうち、他の見方では、不可解としかいえない面の多くが理解できるのである。その一例は、カイロ、ベイルート、ダマスカスといったアラブ人の都市の人口密度の高さである。第三章で述べた動物の研究によると、アラブ人は恒常的な行動のシンクの中で生きていることになる。アラブ人は人口過剰に悩んでいるかもしれないが、一方では砂漠からの絶えざる圧迫が原因となって、上述したような形の高密度への文化適応がおこったとも考えられる。自我を身体の殻の内側へ押込むことによって、高度の人口集中が可能になったのであろう。このことによってまた、アラブ人のコミュニケーションが、北ヨーロッパ人のそれと比べると、なぜそんなに電圧が高いのかの説明がつく。騒音のレベルがずっと高いだけでなく、目つきは鋭く、手が触れ合い、話している間、互いに暖い湿った息をかけ合うこと、こういったことが感覚入力電圧の高いことを示し、一方、多くのヨーロッパ人には強すぎて我慢できなくなるのだ。

 ホールはアラブ人の高密度の文化適応の背景に砂漠の圧迫(気候とか地理とか…)を見ているわけだが、その結果、自我を身体の奥に押し込め、人口集中を可能にしているというのだ。

 ホールが、アラブ人は「自我を身体の殻の内側に押し込んでいる」と言っているのは面白いねェ。どういうことか。西欧では人格は皮膚のすぐ内側(裏側)に存在してる個人であり、ときには皮膚や衣服までも個人であり無断で侵してはならないのである。ちょっと触っただけでも侵害されたように感じ、暴行罪になることもある。一方、アラブ人の人格は身体の内側の奥まったところに存在しているので、身体を触られたくらいでは何ともない。しかし、接触はいいが、言葉には無防備であり、侮辱(の言葉)はたやすくそこに届いてしまう――そういうことを言っている。

 対人間の距離の問題は、実は自我の存在のあり方を示しているわけさ。アラブ人は密着度の高い空間において、もう一つ特徴的な傾向を示す。
 アラブ人は嗅覚を重んずるので、体臭を消そうとはせず、それを発散して人間関係を打ち立てようとする。彼らは他人のにおいが気に入らないときは遠慮なくそういう。朝出かけようとする男に、伯父がこういうこともある。「ハビブよ。お前は胃酸過多で、お前の息ははなはだ香しいとはいえぬ。今日はあまり人の近くで話をせぬがよいぞ。」においは物事の選択の際にも考慮に入れられることさえある。男と女を夫婦にしようとするとき、男の仲人は娘のにおいを嗅いでくるように頼まれることがある。「香ばしく」ないと破談になる。アラブ人は、においと気だてとに関係があると思っている。
 要するに、嗅覚の境界がアラブ人の生活では二つの役目をはたしている。つながりをもちたいものを包みこみ、そうでないものを隔てるのである。アラブ人は嗅覚圏の内にいることが、情緒の変化に注意する手段の一つとして、大切だと思っている。さらに、彼は何か不快な臭いと嗅ぐと、混みすぎていると感じる。

 アラブは入浴せず軽いシャワーですます生活習慣である。それは高温乾燥な気候風土があるからだろう。そして体臭を消そうとはしない。そこに自己の嗅覚圏という近接した範囲を現象させているんだね。

 気候風土だけが人間の行動に影響を与えているのではないにしても、人間の特定のタイプ(類型)を表出させる原初的な強い要因になっているといえるだろう。

 再びここで〈屁〉に戻れば、対人間の距離には、日本の屁、西欧の屁、アラブの屁がそれぞれが現象してくる筋道があるわけさ。しかしまあ、世界は広い。東南アジアはどうだ、中南米はどうだ、アフリカはどうだ――各地の気候風土を突き詰めれば、議論は次第にとっ散らかってしてしまうよねェ。(民族と〈屁〉についてはこちらも参照下さい)


posted by 楢須音成 at 10:42| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

イタチの初屁と最後屁

 イタチの屁についてこんな江戸の川柳がある。
鼬(いたち)の子初屁こかぬと心配し
※イタチの親がいつまでたっても子どもが初屁をしないと心配している〜。初屁=生まれて最初の屁。

 まあ、何というか屁をこくことを初潮か精通かのように見立てれば、初めて屁をこくのは身体の機能を開示する重要な証しになるわけよね。親イタチがそんなことを心配するはずもないが、一応イタチにとって屁は大事な身体機能(追いつめられたときに放つ悪臭という武器)とみなされているんだよ。

 人間の場合、初潮や精通による機能開示というのがある。それは多分に心的にも成長の目覚めを伴うものであり、ここから繁殖行動の機能を発揮する段階に突入していくのである。つまり、そこには何らかの性行動が発現するわけだが、このとき人間はさまざまに逡巡する。というか、そもそも人間の〈性〉というのは最初から文化的な制御の枠組み(制度)に絡め取られているので、そのまま即セックスというわけには参らぬのであるよ。

 制御というと何だか機械の制御のようだが、人間の制御は身体と観念に相互にかかわって現象する。しかも制御の主体性の軸足をどこに置いているか(意思があって制御するのか、されるのか…とか)によって、もたらされる気分は楽園にもなれば桎梏にもなるわけよ。

 性行動における制御という現象の観点(ないしは実体そのもの)を指示する言葉として、例えば「処女」とか「童貞」とかを使う状況がある。なぜ処女や童貞が制御なのかといえば、どちらも堅持したり放棄したりと、意図する(あるいは「意図しない/できない」圧迫の)対象となる現象だからだよ。

 ところが、人間にもたらされるそういう制御は、動物のそれとも違って勝手な観念的な意味づけがなされているわけであるから、処女や童貞は単なる性の未経験であることを越えている。社会的にも個別的にもさまざまな意味内容を内蔵してしまう。思いが溢れれば、一編の詩にも小説にも論文にも、はたまた道徳にも宗教にも――なってしまう。というか、なっているよ。

 イタチの場合、処女とか童貞というのは(多分)意味のあるものではない。そういうことを区別(意識)しないし、もちろんそれを指示する言葉もなく、何も問題にならないわけさ。実際には初屁も同様で、それは人間の側から見た観点(ないしは実体そのもの)なのである。つまり川柳では、イタチを「擬人化」した可笑し味が眼目になっているわけだよ。

 もっとも、人間にとっても普通は初屁に格別の意味があるとは思わないよねェ。そもそも屁なんぞはない方がいい(無視したらいい)のであるよ。

 いやだから川柳は、もしもイタチが人間だったら子供の初屁(つまり成長)を気にする親心が働くはずだ、ということなのだが、川柳作者は〈屁〉にかこつけて人間をイタチにしてしまった。だからこれはむしろ「擬鼬化」なのよ。

 しかしまあ初屁はともかく、人間は〈屁〉をすること自体を(成長過程のある時期から)ひどく気にすることはあるだろう。自分にも他人にも「したらダメ」と固く固くタブーにする人もいるわけで、そういう人の前でうっかり粗相したら一生許してもらえない憂き目にあうことがあるよ。

 もちろん〈屁〉を気にするといっても、処女や童貞を気にするのとはちょっと違うのさ。

 処女や童貞は、その意義や価値を認めるにしろ認めないにしろ、人生のステップのある段階(一度きりのの経験)を経て、しかも以後の人生はどこか何かが変わるような気がする(岩石のように決して動じることなく変わらない人もいるかもだが)。とにかくまあ、一般に幻想(妄想や感想)は新たな段階に突入するはずよ。

 一方、初屁はどうだ。かりに人間が初屁をしたとして、それは確かに人生の一度きりの体験ではあるものの、それ自体ほとんど意味がないので、屁こきの汚名を着るとかしない限りその後の人生の妄想や感想が変わるわけではあるまいよ。臭いだけだろよ(臭くない人もいるかもだが)。

 そうなのだ。我々が〈屁〉を気にするのはその場の快や不快(の感覚)はもちろんあるが、末永い「屁こきの汚名(という不快な観念)」を(顕在的に)気にするからなのだよ。それにまた、我々が〈性〉を気にするのはその場の快や不快(の感覚)はもちろんあるが、末永い「子孫の繁殖からの逸脱(という不快な観念)」を(潜在的に)気にするからであるよ。

 そういう点では〈屁〉も〈性〉も心的振る舞いは似ていて、人間はこの世間では、望んだからといって即セックスとは参らぬが、即屁とも参らぬのだよねェ。

 イタチが初屁を完成して、屁を機能的な身体の道具(武器)として痛烈な最後屁に至らんとする姿は、理想の心身合一のストレートな人生道といえよう。しかるに人間が初潮や精通を完成しても、グダグダしたりギラギラすることで処女や童貞の喜怒哀楽に逡巡して、紆余曲折の人生道にはまるのはいかなる理由だろうよ。

 そういう人間という存在は、どこまでもストレートに屁に生きるイタチとは違う。成熟したイタチは運がよければ何も考えずに最後は用意万端なのだよ。
鼬の屁かなはぬ時のすてかまり
※イタチはいよいよの苦しい土壇場にはとっておきの最後屁がある〜。すてかまり=予備の伏兵のこと。

 またしても勝手にイタチに〈屁〉を思い描く川柳だが、その可笑し味には人間の思いがこもる。そこには臭い臭い処女と童貞の最後屁があったりするよ。

 ははは、実際にはイタチの最後屁というのは(ガスではなく)スカンクのように肛門腺からの悪臭の分泌物らしいが、明白な武器として敵を撃退するほどの脅威はないらしい。イタチの屁とはこれまた人間の叶わぬ幻想――なのかねェ。
ラベル:イタチ 最後屁
posted by 楢須音成 at 18:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月17日

医者と娘に見る日本人の〈屁〉の分別

 日本人は〈屁〉を恥ずかしがる。もちろん〈屁〉を恥じるのは人間の世界的な傾向でもあるわけだが、音成がこれこそ「日本人的」だよなァと思うのは、江戸の漢文体笑話本『如是我聞』(1839年)にある「月事(つきやく=月経)」という話だ。中重徹の『一発』に収録されている書き下し文を引用してみる。
 北越の医、国元庵耳順(ろくじゅう)ニ過グ。声価益々高シ。一女子、山中ヨリ来タリ治ヲ乞ウ。言語多ク暁(さと)リ難シ。看脈ノ頃誤ツテ一屁ヲ撒(ひ)ル。因リテ愧(は)ヂルコト甚ダシク、肯(あえ)テ頭ヲ挙ゲズ。元庵推シテ不知道(しらぬふり)シテ徐(おもむろ)ニ言フ、「吾レ聾ヲ患フ。汝高声ニテ我ニ語ルベシ。近頃月事(つきやく)如何(いか)ン」女子解セズ。元庵曰ク、「経水如何ン」女子以テ毛ノ数ヲ問フトナシ、面孔火赤(かおまっか)ニ益々低声ニ応ジテ曰ク、「十六歳ヨリ漸(ようや)ク生ズレドモ未ダ其ノ数ヲ検点セズ」

 概略をまとめるとこうなる。――北越の名医、元庵のところに山村の娘がやってくる。いろいろ症状を訴えるのだが、何の病気かわからない。脈をとったときに娘は誤って屁をしてしまい、恥じて顔を上げることもできないでいる。元庵は「私は耳が遠い。大きな声で話すように」と屁には知らぬふりして「最近、月のものはあるか」と聞く。娘は意味がわからない。再び元庵が「けいすいは?」と聞くのを娘は「毛の数は?」と聞かれたと思い、真っ赤になっていよいよ低声で「ようやく十六から生えましたが数まではかぞえておりません」

 えげつないというか、エロっぽいというか、性にまつわる下(半身)ネタになっているわけだが、この話から、小咄や落語にバリエーションが生み出されている。落語の「代脈(だいみゃく=代診)」は〈屁〉のところを取り出し、別の話にふくらませて仕上っている。笑福亭仁鶴や古今亭志ん朝などが演じたCDがあるので、こちらの方を知っている人が多いだろう。こういう話になっている。

 ――医者の弟子がある商家の娘のところへ先生の代わりに代診に行くことになった。初めての代診で先生からいろいろアドバイスを受けるが、その中に娘のお腹にシコリがあるので押してはいかんというアドバイスがあった。そこを押すと屁をするからである。前回、娘が屁をしたとき先生は聞こえないふりをしたのだという。さて、弟子は商家に出かけて見るも聞くも初体験。てんやわんやの代診なのだが、娘の腹にシコリを見つける。粗忽な弟子は何を血迷ったかそこを押してしまって、娘はぶぅと大放屁。娘も慌てたが、弟子も仰天して「はて、耳が遠いので、今のオナラは聞こえませんでした」

 話の筋立てとしては、読むのには「月事」は羞恥が濃厚で面白いと思うが、落語の軽快な話術で演じるなら〈屁〉に焦点を絞った「代脈」もよろしいね。まあ、何というか〈屁〉と「毛」では全く違った話になってしまっているのよねェ。しかし、筋立ての違いはあるものの〈屁〉の部分には共通の基本パターンがある。それは「娘の放屁を耳が遠いと言って聞こえなかったことにする」振る舞いだ。第三者が娘の〈屁〉の恥を回避(隠蔽)してあげようとしているわけさ。他人の〈屁〉に対して「聞いてないふり」「知らんぷり」が〈屁〉に対する一つのパターンになっていることは、我々の身近に日常的にあるよね。

 もちろん、ウッカリ〈屁〉をしたら、鬼の首でも取ったように罵倒されたり、あからさまに嘲笑されたりすることがある。あるいは「ふふん」と残酷にも冷笑されるとかね。いずれにしても「私はあなたの〈屁〉を認識しましたよ」ということが、不快、嫌悪、軽蔑といった否定的な反応をともなって露骨に表明されるわけだ。ときには相手の粗相を(バカにして)愉快がる嫌味なヤツもいるかもしれない。

 ここでは相手を慮って(相手の)恥を封じ込めてあげる振る舞いに焦点を当てているのだが、これは一体どういう分別なのであろうか。

 一般に〈屁〉の恥は他者の存在を意識しないと発現しないのだが、意識したからといって必ず発現するわけでもない。要は〈屁〉という心的現象は、他者との関係(不快を意識する関係)の中で恥(屁の発生元)と認知されたときに恥となるのである。だから普通は他者のいないところで一人でした〈屁〉は恥の対象にはならない。恥とは思わないわけだよ。(一人の屁を自責する人もいないわけではないが…)

 この話の暗黙の前提として、娘というものは人前で〈屁〉をしてはいけない(制御すべきだ)という規範が共有されているね。娘は〈屁〉をするのに余儀なくもワザともウッカリも許されていない。娘というものは〈屁〉をできるだけ遠ざけることができる(制御できる)存在であるというのが規範なのだ。(一般に社会関係の中で女性が放屁を恥ずかしがる傾向が強いのは「してはいけない」という暗黙の規範によって、より強く縛られているからである――こういう議論をしたら差別的だと怒られたことがあるのだが…)

 ともあれ、規範は守られない(守りにくい)から規範(が存在する意義)があるのだが、規範がなかったら端から〈屁〉は意識されないだろう。規範からの逸脱感(の深刻さ)こそが恥の感覚(の深さ)となるのである。二つの話の流れの構造は次のようになるね。

「月事」=〈屁〉の恥は無化されたが、新たな「毛」の恥をさらした=〈屁〉→「毛」
「代脈」=〈屁〉の恥は無化されることなく、かえって恥は倍加した=〈屁〉→〈屁〉

 ここでは「毛」の恥については触れないでおく。娘に対する「月事」の医者と「代脈」の弟子の振る舞いにだけ注目してみよう。「月事」では〈屁〉の恥は隠蔽され「代脈」では露見しているが、二人に共通しているのは「聞かなかったことにしておこう」という配慮である。これは相手の苦痛(恥)を封じ込める方便であり、相手を自由にしてあげることなのだね。職業柄それは当然の振る舞いではあるが、医者はそれに成功し、弟子は失敗したのである。

 この二人は医者という専門家であるから、職業に徹する限り基本的に相手の恥は関係ない(無視する)立場だね。そもそも診療に恥などというものは邪魔なのである。だから「聞かなかったことにしておこう」という分別は、プロの職業意識からきているともみることができるのである。

 対する娘の分別では、他者に知られてしまう〈屁〉は恥ずかしい限りのものだ。相手が医者であっても、多感な娘は恥ずかしかろう。もし医者の耳が聞こえていなければ、娘の〈屁〉は存在しないと同然の結果をもたらすわけだから、これは大きな救いになる。

 かくして医者と娘の二つの分別が、それぞれの目的とするところへ完結しようとしてぶつかり破綻するのが、話の眼目になっている。二つの分別には〈屁〉を恥じる気持が前提にあるのだが、一方は(屁をしていないので)恥を遠ざけて相手を慮る余裕があり、一方は(屁をしたので)恥を引き寄せる面目失墜がある。

 ここに生じる「聞かなかったことにする」という振る舞いは、医者の職業意識という側面もあるが、別に医者でなくとも(日本人に)観察されるように思うのだがどうだろうか。韓国系中国人で日本に帰化した人の体験がある。
 ちょうどこのときハプニングが起こった。その日に限ってお腹の具合が悪くて、何度も我慢していたおならを堪えきれずにブーッと洩らしてしまったのだ。俗に「おとなしい犬ほどかまどの上で遊び、音のしないおならほど臭い」と言われるように、その臭いときたら、自分自身はもちろんのこと周囲三十メートル以内の人なら誰でも鼻をつまむほどひどく臭かった。しかし女店員はまさにわたしの尻の下にいたのに顔色一つ変えず、相変わらずにこにこと微笑んで「これはいかがですか?」と言いながら、わたしの反応を伺っていた。
 毒ガスにさらされながらも笑顔でサービスしてくれる日本の女店員の姿にいたく感動した。一方わたしは「よりによってこんなときに……」と恥ずかしくてたまらなかった。

 中国の女性なら「お客さんのおならはひどく臭いね。いったい何を食べてんの?」といって、きついクレームをつけてくるかもしれない。
(金文学『日本人・中国人・韓国人』2003年)

 日本人って相手の恥を無化すべく「聞かなかったことにする」(傾向がある)のであ〜る。

 ――さてさて医者の振る舞いに戻るが、娘にしてみたら、毛の数を聞かれるのと〈屁〉を聞かれるのとでは、どちらが恥ずかしいだろうかねェ。
posted by 楢須音成 at 03:37| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月21日

このむものはほうひです

 会話は(言葉の意味が)通じ合ってこそ会話なのだが、実際のところ我々の会話の場面では、どのていど通じているのかあやしいままに話が弾んでいるものだ。それを第三者が目撃すれば、言葉の整合性が微妙にずれつつ、決定的にすれ違っていく不思議なやりとりが現出していることがある。往々にして会話している本人たちはズレに全く気がつかない。いずれ気がつくにしてもね。
 よくふとった、いしゃさま、となりのていしゅに「とかく人は、身のようじゃうが、だい一でござる、大さけをのまず、大めしをくはず、ひごろのことに、くったくさへせねば、やまひといふものはなし、わたしなぞは、こころもち、すこしわるいとぞんじますと、ほうひを、このみます、しごくはらをすかして、よいものでござります」と、いへば。となりの人「それは、まいにち、おこのみなさるものか」いしゃ「まいにちどころか、日には、なんたびも、このみます」となりの人「そのほうひといふものさへ、まいにちこのみますと、よふござりますかな、さよふならば、ちとわたくしも、このみませう」いしゃ「ごゑんりょなく、おこのみなされ」となりの人、手をだして「さよふならば、まづすこし、下さりまし」
[絵詞]「これはよい事をうけたまわりました、わたくしもなんぞぢやく(時薬=僧侶に許される食事)を、たべよふとぞんじて、おりました」「これほど、いゝものはござらぬ、ちとおこのみなされ」
(宮尾しげお校註『絵入・江戸小咄十種』)

 何ともお見事な会話だが、ここまですれ違ってくると双方に責任があると言わねばなるまいよねェ。言葉に鈍感すぎるんじゃないのか。

 しかし、可笑しいねェ。この会話の絶妙なところは「ほうひ」という言葉のやりとりだ。もちろん「ほうひ」とは〈屁〉のことだが、別に「ほうひ」でなくともよいかもしれない。次は音成の勝手な改作。
 「とかく人は心の養生が第一でござる。大言壮語せず、大嘘をこかず、日頃のあれこれに悩むことなければ、心の病というものはなし。私なぞは、こころもち、少し気分がすぐれませぬと、ユーアイを、好みます。しごく心が豊かになって、よいものでござります」
 「それは毎日お好みなさるのか」
 「毎日どころか、一日に、何回も好みます」
 「そのユーアイというものさえ、毎日好みますと、ようござりますのか。さようならば、ちと私も、好みましょう」
 「ご遠慮なく、お好みなされ、ぜひ」
 (手を出して)「さようならば、まずは少しばかり、分けて下さりまし」

 こちらの「ユーアイ」も相当に正体不明だね。しかしまあ、断然「ほうひ」の方が可笑しい気がするのだが、どうだろう。だって「ほうひ」は実体をともなう生々しさがある。とまれ、これらの会話が齟齬してしまっているのは一方が「行為」を語っているのに、一方が「物体」と認識しているからだ。しかも、物体と認識しても一方にはその物体が何物であるのかがそもそも不明なのだ。

 二つが(相互に)矛盾なく整合している(ように二人が思っている)のは「好む」という言葉が介在しているからだね。我々の言葉は(無形の)行為だろうが(有形の)物体だろうが同じように発動するわけなのさ。「好む」は行為でも物体でもどちらに使ってもいいのである。行為に物体性、物体に行為性が発現するのはそのためだ。

 というか、我々の認識は行為と物体を意味づけしたり色づけしたりするのに、両者の違いを必ずしも区別(意識)しないんだね。特に〈屁〉は行為と物体が一体になった(行為に物体、あるいは物体に行為がともなう)現象なので、好むという場合にも、二つの意味を指示するケースに分けられる。

 行為の「ほうひ」→屁(を進んでこくの)を好む
 物体の「ほうひ」→(嗅いだ・聞いた)屁を好む

 現代では「ほうひ(放屁)」は行為であるが、古典では「ほうひ」という言葉を物体(の指示)として扱うケースがある。

 この小咄では、何だかわからないが何らかの物体と思い込み「(食べるのを)好む」という誤解になって、それが可笑し味の眼目になっているわけだ。この絶妙の飛躍は、行為なのに物体としてとらえた〈屁〉の変身だね。どこにもない不思議で有用な物体として〈屁〉が存在意義を持つわけ。(でも、それはただの屁そのもの〜)

 しかしなあ、この「ほうひ」を振り回している医者は無頓着すぎないか。ちゃんと説明する責任があるだろ〜。

ラベル: 放屁 ほうひ 好む
posted by 楢須音成 at 07:17| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月26日

体臭と〈屁〉のニオイの本質的な違い

 ニオイには「匂い」と「臭い」がある。これが〈屁〉となると、ほぼ100%の人は「臭い」だと断言する。微妙なのが体臭である。これを「臭い」という人もいれば、いやいや「匂い」という人もいるんだよねェ。

 一般に日本人は欧米人よりも体臭がない(薄い)民族といわれているが、いわゆるモンゴロイド(黄色人種)は体臭が退化しているとされるのである。まあ、これは気候や生活スタイルや体質変化によって、もともとの動物としての身体に差異が生じてきた進化の結果なのだろう。

 体臭のメカニズムを『日本大百科全書ニッポニカ』ではこう解説している。「汗腺(かんせん)から分泌される汗がおもな原因である。汗腺にはエクリン腺とアポクリン腺がある。エクリン腺は体表の大部分にあって水分に富む薄い汗を大量に排泄(はいせつ)するが、アポクリン腺は腋窩(えきか)(わきの下)にもっとも多く、乳腺、陰部、下腹部などにも存在し、思春期に活動し始め、腺細胞の一部がちぎれて汗の中に混ざり、脂質やタンパク質に富んだこの汗が細菌によって分解され、特有の臭気を発するわけである。汗の分解物である短鎖脂肪酸とアンモニアが主要因子である」となっている。体臭に介在しているのは体表に出てくる汗だ。汗自体には臭いはないが細菌で分解されて臭いを発するというわけである。

 一方の〈屁〉はこういう解説だ。「消化管の中には約200ミリリットルのガスがあり、そのうちの約65%は腸内にたまる。腸内ガスの成分は、おおよそ窒素60%、水素20%、酸素10%、炭酸ガス9%となっており、そのほかに若干のメタンガス、硫化水素などが含まれる。腸内ガスの約70%は口から飲み込まれたもので、20%は血液から拡散してきたものである。また、残りの10%は、腸内にすむ大腸菌・腸球菌・サルモネラ菌などの腸内細菌の作用によって糖質が発酵してできたものなどである。腸内においてタンパク質が腐敗すると、アミノ酸は分解されてインドール、スカトールを生成するが、このとき悪臭のあるガスが発生する」「腸内ガスのうち、屁となって放出されるのは約90%である。屁のおもな成分は、窒素50%、水素30%、炭酸ガス15%で、酸素、硫化水素のほか、悪臭のもととなるメタンガス、インドール、スカトールによって占められるといわれている。食事や腸の状態によって屁の成分や量は変化し、多いときには1日に1リットル以上もの屁が出ることがある」などとある。

 音成は前に身体からの「放出」を分泌系と排出系とに分けて考えてみたことがある。そのとき〈屁〉は排出系だと断定した。そんなの自明じゃないかと言われればそうなのだけどね。体温調節など身体活動に関与する汗は分泌系である。分泌とは身体を維持・支援する活動そのものであり、排出とは身体活動の結果となるわけだ。

 面白いのは、分泌される汗による体臭は我々の生存信号(情報)にもなっていて、本来的に生物学的な意味があるようなのだね。人類学者のエドワード・T・ホールがアラブ人に観察した次のような事例では、体臭は人間の性格や感情を発信する信号になっている。
 アラブ人たちは性癖とにおいとの関係を認知するらしい。アラブ人の結婚をとりもつ仲人は、ふつうたいへん注意をしてよい縁組みをきめようとする。彼らは必要と思えば娘のにおいをかがせてくれと要求することさえあり、もし彼女が「いいにおいをしない」と彼女を紹介することを断わる。それは美的な根拠からではなく、おそらく怒りとか不満のにおいが残っているためである。
(エドワード・T・ホール『かくれた次元』日高敏隆/佐藤信行訳)

 体臭の情報化は体臭が薄い日本人にあっても文学作品化されている。こちらは性的な情報を伝えるものだ。
 かれらは、見るからに強靱で柔軟な軀つきをしていた。荷物をかつぎ上げようとして私とぶつかり合ったときの弾力は、ついぞ志郎には感じたことのないものであった。
 その軀には、藁とほこりと汗の匂いが充満していた。私は志郎の体臭を思い出そうとしたが、彼には体臭というものがないようであった。それは、彼の肉体的な欠陥と何か関連があるのだろうか。胸のくぼみに顔を埋めて、心の安まる巣を感じるというのは、私の愛情の形も畸形化してしまっているということだろうか。
 私は、あの下賤な男たちにからかわれたことをさほど嫌悪していない自分に気がついて愕然とした。敏感な志郎は、それを感じているに違いない。しかし私の耳には、
 女にあんまり苦労させんなや――。
 という言葉の甘い響きが残っている。私はもう久しく、そんな優しい言葉を若い男の口から聞いた記憶はないのであった。
(津村節子『さい果て』1972年、筑摩書房刊)

 衣料品をリヤカーで行商している夫婦が若い男たちにからかわれて荷を落としてしまう。若い男は身軽にその荷を積み上げ縄をかけてくれるのだが、そのときの妻の(夫への)錯綜する思いが「体臭の匂い」を介して語られている場面だ。

 ここで〈屁〉なのだが、一体全体〈屁〉はこのような「情報(信号)」を発しているのだろうかね。確かに〈屁〉をこくと音がしたり臭いから、存在を主張している結果となるが、これは何の情報だ?

 アラブ人は〈屁〉を激しく嫌悪する。音成はその徹底ぶりを、かつて南方熊楠の『十二支考』で教えられたのだが、これに対して日本人はまず〈屁〉を恥じる傾向が強いのである。まあ、どちらにしても〈屁〉は否定すべき対象であることには違いないわけだ。

 ここには排出されたものがすでに身体を離れて一個の物体になってしまっている姿がある。生物学的に身体との有機的な親和性はない。それは異物なのだ。しかも〈屁〉の場合、見えないで音をたてて臭い――と、怪しく不審な存在と化して排除性が高い。(糞尿も排出系であるが、どちらも見える物体なので屁ほど排除性は高くない。なぜなら、見えれば排除が可能だからだ。見えないものへの排除性は潔癖に高いのである)

 このときの〈屁〉は身体の「情報(信号)」というより、一個の物体として、その存在は完全に排除の対象なのである。つまり、排出系は排除してその存在を消失させることが「快」なのであり、そこが汗(体臭)のような分泌系とは違う点だ。(まあ、臭いだけの体臭というのもあって、これは閉口するがねェ)

 かくして、体臭はOKだが〈屁〉はNOということは、人間の生物学的な出発点なのであ〜る。
ラベル: 体臭 匂い 臭い
posted by 楢須音成 at 15:45| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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