2009年09月01日

粗相はダメよ〈屁〉の制御

 我々の〈屁〉が制御しにくいものであることは誰も異存がないだろう。決して〈屁〉などしたくもない場面で〈屁〉は顔を出す(ときがある)。いやはや、意図せざる〈屁〉という粗相には、深く深く人生をうがつ機微があるのだ。江戸の川柳にも制御を取り外した〈屁〉が描かれている。

  力持ちおなら一つで腰がぬけ
  めつそうなお客なかばでとりはずし
  屁をひつた嫁は酒でも飲んだやう
  そこつな夜這いうぬが屁で仕損ずる

 音成の身近な日常でも目撃するね。先日、古書店で本を物色していたとき、隣にいた男の人が書棚の下の方にある本を取ろうと屈み込んだ拍子に、ブーッと一発やらかしたのだ。音が大きいので仰天した。音成は本に手を伸ばしかけて凍り付き、向こうの隣の人は無言のまま慌ててスーッと逃げ去る気配だった。当のご本人は全く無視を決め込んでいた。その場は何事もないかのようだ。そこにはすでに〈屁〉など存在していなかったのであるよ。音成もちょっと川柳もどき。

  オーこれじゃ屈んだ拍子にとりはずし
  ものしりのしくじりひびく書林の屁

 お粗末です。まあ、とにかく〈屁〉は「意図せず」「うっかり」「やむを得ず」「我慢できず」「弾みで」というような不慮のタイミングを抱え込んでおり、油断できないのである。こういう〈屁〉の制御の困難を痛切に感じる場面は、これもそうだね。
 難行(なんぎょう)の講釈はてて、煙草盆にかかるところに、先生のいわるるには、「アレ、今表(おもて)で小便の音がする、弟子どもあの病症(びょうしょう)を知ったか」「ハイ」と弟子ども耳をそばだてて聞き取り、「あの小便の音は、全く淋病か消渇(しょうかち=糖尿病)のうちと考えました」。先生頭をふり、「いやいやそうではない、あれは腹に屁をもったものだ」
(『聞上手』1773年)

 小便の音を聞いて医学生たちがその人の病気を推測するのだが、臨床経験の豊富な先生は頭を振って「あれは屁を我慢しながら小便をしているだけだ」と喝破したのである。この〈屁〉の現象は万国共通。英語にズバリ諺がある。
He that is afraid of every fart must go far to piss.(屁を恐れる者は小便をするのに遠くへ行かなければならない)

 いやまあ、これは確かにそうなんだよねェ。小便をしながら〈屁〉を我慢(制御)することは難しい。結構〈屁〉はワガママだ。しかも、小便していると突然〈屁〉がしたくなったりする。あるいは〈屁〉がしたいときに小便がしたくなったりするのだ。もちろん〈屁〉などしてはいけない(したら恥ずかしい)ときにね。

 このような制御の困難性は〈屁〉というものの特性を決定づける重要なファクターなのである。なぜ制御するのかといえば〈屁〉は無作法だからだ。無作法なことは恥ずかしい。

 ついうかり〈屁〉を取り外すのは制御力の衰えかもしれないわけだが、確かに制御力は体力が衰えたり年老いたりすると弱くなっていく。つまり〈屁〉が出やすくなるのである。老化についてはこういう解説がある。
 年をとっておならが出やすくなるのは、消化力が落ちておこる一種の老化現象だ。若いうちなら、食べすぎや消化不良、便秘によることが多い。腹が張るからと下剤を飲むのは、不消化のまま大腸へ送りこんでおならをつくるようなもの。
(『朝日新聞』1967年7月8日)

 この制御力は羞恥心の発現に深い関わりを持っていると考えられるんだよね。制御という身体的な機能が十分に発揮できれば恥はかかない。制御は年齢や体調など身体的なことはもちろんだが、心的なことも大きく左右する。そもそも制御する、しないが発動するのはその人が制御を意図して操作するからなのだ。制御は心身がピッタリ連動したときに最高の機能を発揮する。

 ところが〈屁〉の制御はしばしば破綻(制御不能)する。一般には意図に反して身体的制御不能に陥るわけである。勝手に〈屁〉が出てしまうのだ。そもそも意図しようとしまいと〈屁〉をすることは恥ずかしいのだが、勝手に出てしまうことはもっと恥ずかしい。制御力のなさが露呈するのはとても恥ずかしいのである。(もっとも、この制御力に関係して、年を取ってからの〈屁〉は恥ずかしくなくなるという現象はある)


 小便が〈屁〉を孕むと制御力は格段に落ちる。老若男女ともにこの状態は心的にも非常に不安定にならざるを得ないのである。さらに男の場合は開放空間(他人がそばにいるところ)での用足しが多く、誰にも〈屁〉の存在はさとられたくないのであるから、とんでもない苦労をすることになる。

 そういう苦労の渦中にある人と連れションして(気がついても)決して笑ってはいけないし、(無神経に)話しかけてもいけない。絶対に。


posted by 楢須音成 at 20:43| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月05日

ひる・こく・たれる〈屁〉の放出

 肛門から屁を放出する行為は「(屁を)する」「ひる」「こく」「たれる」というような動詞を使って表現するね。このうち「する」は一般的な行為によく使うものであるし、最も穏当な感じであろう。ところが、昔から使われている「こく」「ひる」「たれる」となると、いささか野卑な感じがつきまとう。しかし、これらは糞尿屁を体外に排出するときに使って、これがまたピッタリくる語感なんだよねェ。狂歌から引用してみよう。
屁をひれば音も高野の山彦に仏法僧とひびく古寺(屁をひった音が高野山のやまびこになって仏法僧と言ってるように響くのをこの古寺で聞く〜)

おはしたの龍田が尻をもみぢ葉のうすくこく屁にさらす赤恥(はしための龍田姫が尻をもみもみこっそり屁をこいて紅葉のようにも真っ赤な恥をさらしたよ〜)

くさい物に蓋をしておけ内にのみ屁をたれこみし箱入りむすめ(クサイものにはフタをしろ、内にたっぷり箱入り娘が屁をたれこませているわ〜)

 しかしまあ、それぞれに独自のニュアンスがあるね。並べてみると伝わってくる。これを例文で検討してみるとこんな感じ。

 お母様が屁をひりなさった(突き放すように淡々として、事実を事実として言う姿勢)
 お母様が屁をこきなさった(どうなさったの〜と、軽く嘲笑しながら明るく言う姿勢)
 お母様が屁をたれなさった(しょうがないわね〜と、侮蔑して暗めの態度で言う姿勢)

 これを「野卑の度合い」「含み笑いする程度」「口にし易さ」の観点から独断で評価してみると、音成の感覚ではこうなる。(◎→強、○→中、△→弱)

       野卑度 含笑度 言い易さ
 屁をひる → △   △   ◎
 屁をこく  → ○   ◎   ○
 屁をたれる→ ◎   ○   △

 三つとも似たようなものといえばそんなものだろうが、何となく「たれる」のように野卑度が高いと口にしにくい(使いにくい)せいか、笑いは少し引っ込んでしまう。むしろ、中間的な野卑度や言い易さを持つ「こく」の方が笑いが発生しやすい感じだが、狂歌や川柳では「ひる」を使うのが圧倒的に多い。頻出度は「ひる」→「こく」→「たれる」である。表現に少し抑制が加わる「ひる」を使い、ここぞの野卑のときに「こく」「たれる」となる(のかな?)。例えば、

  屁をひりに屋根からおりる宮大工
  屁をこきに屋根からおりる宮大工
  屁をたれに屋根からおりる宮大工

 というような場合には、やはり「ひる」がピッタリくるねェ。ここはぜひ、神聖な社寺・宮殿の建築に携わる宮大工には「ひる」でお願いしたい。まあ、何というか「こく」「たれる」でもいいけど、やはり「ひる」が(三つの中では)気取っていて、とぼけた感じが強調されて可笑しい。

 冗談のつもりでも「屁をたれに屋根から降りる宮大工」とか「お母様が屁をたれなさった」のようにストレートに野卑度を強める表現は複雑(危険)だ。完璧に上品なお母様であればあるほど「こく」とか「たれる」とか野卑度を強めた表現は(可笑し味を引き起こすにしても)どこか違和感をもたらすだろう。ひどいときは、お母様への侮蔑や語り手の下品さを表すことになってしまうだろうねェ(もちろん、表現の狙いが露悪的にそこにあればそれはそれだが…)。

 また発声上の印象もあるね。「ひる」はハ行でH音、「こく」はカ行でk音、「たれる」はタ行でT音で始まるが、H音は、破裂音を含んで押し出しが強く固い感じのk音やT音に比べれば穏やかで温かみがある。同じことを意味するときに、この違いが与える印象は大きいよね。当然ながら「ひる」では野卑度も薄まるわけだ。

 ところで気がついたのだが、大事な表現を忘れていた。これだ。
びいどろを逆さにつるす器量ゆゑ屁まですかして見せる少女子(ガラス細工のビードロを逆さにつるす程度の才ゆえに屁まですかしてしまうおとめご〜)

 屁には「すかす」という表現もあるのだった。これは最初から非難の意を含む(倫理的)印象がつきまとう点で、「ひる」「こく」「たれる」とは系統が違うのではないかと思える。

 野卑度の低い「ひる」と同じように「すかす」は破裂音を含まないサ行のS音で始まるが、「ひる」のH音に比べるとゆるゆると湿った感じが強い。それに「ひる」がH音で始まりR音で歯切れよく締めるのに対して、「すかす」はS音で始まりS音で締める。スースーと締まりがないのである。内にこもって野卑度は高い。まあ、確かに「すかす」とはそういうことなんだよねェ。
posted by 楢須音成 at 11:04| 大阪 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月09日

すかす〈屁〉の諸相

 周りに誰もいなければノープロブレム(無問題)なのだが、人込みの中で「スカシベ(透かし屁)」ってやつはしばしば物議を醸す。全くもって忌み嫌われる存在だね。我々は「ひる」「こく」「たれる」というような動詞を使い分けて微妙〜な〈屁〉のニュアンス(気持)を表現する一方で、別格の位置づけを与えているのが「すかす」である。

 この「すかす」は「すく(透・空)」の他動詞。空間や空白を作ったり、そういう透き間に何かを通すことが原義だが、音をたてずに放屁するという意味をしっかり持っている。土地により「スカシベ」「スカシッペ」「スカベ」「スコベ」などといろいろに呼ばれて深く深く愛されている――というのは半分冗談だが、しかし忌み嫌うにしても愛憎が深いと思うんだよねェ。

 高校の化学の先生をしながら、おなら研究一筋だった藤田保のエッセイ集『おなら粋門記』(1964年、冬樹社刊)でもスカベは特別に熱がこもる。紹介してあるエピソードを引用してみよう。
 それは報恩館でありがたいお説教の真最中でした。鼻が曲がりそうな例のニオイがやってきました。満員の善男善女は、イキをこらえてがまんしているうち、においもだんだんと薄らいでゆきましたので、みんなほっとしました。
 しかしだれがしたのかさっぱりわかりません。この道場内に、かならず犯人はいるはずなのですが……。しばらくすると、またもや異様なヤツがただよってくるのです。
 またしても、みんなはイキをとめて、異臭の薄らぐのを待つよりほかにしようがありませんでした。こんどのもさっぱりだれの製品かわかりません。
 ちょうどそのとき、二人めのとなりに、さっきからジュズをかたくにぎりしめて下をむいていたお婆さんが、少々大きな声でいいました。
「こんどのは、ワタシじゃありませんケンの」

 ある日、彼とふたりで満員電車にのっていた。するとどこからともなく、においがただよってくる。身動きするたびにだんだん強くなって、やがてイキもつまりそうになってきた。
 ふとみると、B君がさかんにそのとなりに立っている美しい娘さんの顔を、あたかものぞきこむようにして見ているのである。
「ははあ!、さてはあの美人がはなったのかなあ。人はみかけによらぬものだわい」
 と思っていると、娘さんの顔がほんのりと赤味をおびてきた。
 するとまわりの人が彼女の顔をチラッチラッとみるようになった。かわいそうに、彼女はますます赤くなって、まさに泣きださんばかりの表情になった。ちょうどそのとき、電車が停留所についたので、その美人はおりてしまった。
 つぎの停留所で、ぼくたちふたりもおりたのだが、ひと息ついてぼくはいった。
「やれやれ、すっとしたね。しかしいまのはすごかったじゃないか。おれはわざと知らぬ顔をしてやっていたのに、おまえったら、えんりょもせずに彼女の顔をのぞきこむものだからまっ赤になったじゃないか。かわいそうなことをしたものだ。多分おなかでもこわしていたのだろう。つらかったろうに」
 すると彼はニタリとわらっていわく、
「ヘッヘッ、やっちゃったよ、いまのはおれがだしたのさ!」

 ここに描かれているのはスカベの罪と罰だ。スカベのほとんどは誰がすかしたのかわからない不明性がまとわりついていて、必ずや発生元が追及され特定されることが宿命になっている。スカベはすかさないのが一番だが、制御不能に陥るのが〈屁〉である。藤田先生はこうスカベを伝授する。
 屁どめの方法を用いて、なお屁がでる場合は、どうしたらよいかというに、ぼくはかかとの先または手で肛門の筋肉を左または右にひっぱってひろげ、振動する余裕をあたえないようにしてだすことがある。
 いわばスカベの奥義であるが、ニオイはとにかく、だいたい音だけは消しえるもの。
 この「音なしのカマエ」は、まじめな式場などで危機に追いつめられて、苦しくなったときには、往々にして助け舟になるので、おぼえておいてソンはない。

 しかし、音は消してもスカベはとてもクサイのである。藤田先生はもちろんそれを認識している。
  スカベすっとでりゃ、七里半、ひびく
  タカベ 悲しや 音ばかり

 ――スカベはおとなしいが、そのにおいたるや、遠い所までニオッていく。はんたいに高い音の屁は、みかけばかりは元気がよいが、遠くまでは影響せず、その場かぎりでたいしたことはない。

 タカベに比べてスカベのそういうタチの悪さにはスカベ(をした人)を背徳や裏切りの象徴にも祭り上げるわけよねェ。我々はスカベに関しては他人にとても厳しい。他人に厳しいだけに、自分のスカベにはとても恥が深いのだ。そして恥が深いだけに、他人のスカベの存在に対しても敏感だ。観察が鋭くなる。藤田先生の観察はこうだ。
  片尻を あげるはスカベの 姿勢なり

 (寸評)あげすぎると音になり。
 (解説)片尻をあげると、上半身は約10度ばかり傾くので、とおくからでもすぐ見破られ、
 「ヤヤッ! やつは準備態勢にはいったぞ、ぼつぼつ風下は警戒警報だ!」
 なんてことになる。しかし8度以下ならだれも気がつかないかもしれない。8度線をこえると危険である。
 おおむね、「右ききの人は、右に傾き左の片尻をあげ、左ききの人は左に傾く」というのがたくさんの友人に聞いてあるいた結論である。
 その理由を考えるに、やはりじぶんのきき足のほうが力強いので、無意識のうちに、その足に体重をかける結果になるのであろうと思う。なかには、反対に傾いたり、前方に傾くという公平型もいくらかはいた。

 こうみてくると、スカベは自分がすかしたのか他人がすかしたのかによって、随分と状況が変わる。スカベに対して我々の心的現象は様々に発現するのだ。それを集約すればこうなるね。

自分がすかした
 放屁の羞恥→自分がすかして恥じ入ってしまう
 放屁の隠蔽→すかしてないかのように振る舞う
 放屁の転嫁→自分がすかして人に罪をかぶせる
他人がすかした
 無実の恐怖→犯人であると疑われる恐怖を味わう
 放屁の疑惑→被害を受けて犯人を探して特定する
 放屁の非難→被害を受けて犯人を指弾し非難する
番外
 身代わり→すかしてもいないのに身代わりになる
 濡れ衣→絶対にすかしていないのに濡れ衣を着る

 このような心的現象に潜むのは、誰がしたのかわからないという不明性に媒介された〈屁〉の振る舞いだね。そこには恥を逃れて、陰に陽に自分の無罪を主張したい切ない切ない動機があるんだね。かくして「すかす」は「ひる」「こく」「たれる」に比べ、一段と情の濃い言い方となってしまうのであ〜る。

posted by 楢須音成 at 06:45| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月19日

あんたが大将の〈屁〉の世界

 だいたい人は集合すると自分を褒めて貰いたいわけだよな。この世間は、功名心にかられた者たちのパフォーマンスによっていつも、オレがワタシがと押し合い圧し合いしている方舟なのさ。そういうオレやワタシの心性を、世界の中心で目立ちたい心の渦巻き志向っていうんだけどね。要するに強くも弱くも他人様に構ってほしい(人とかかわっていきたい)わけ。だからさ、たとえ褒めてもらえないときでも慰めてほしいし、いけないことをしたときはやっぱり叱ってほしいのよ。

 ふつふつと湧き起こる功名心がせめぎ合う世間という方舟には、腕前や手柄を評価してもらうことを希求するという需要があり、それに応える供給があるのよ。功名心の方舟には、のど自慢大会やら、書道大会やら、大運動会やら、発明大会やら、舞踊大会やら、作文大会やら、演劇大会やら、論文大会やら、お絵かき大会やら、青年の主張やら、模擬テストやら、早食い競争やら、やらやらやら…まあ何が飛び出してもいいんだけど、功名のチャンスという各種の人生場面に幾多の賞が華やかに用意されているのよ。というか、そんなものが派手にあるから功名心という奴がふつふつ湧き起こるのかもしれないねェ。

 しかしまあなかには、ちょっとこれは得がたいの〜という希少種の賞もあるんだけどさ。こういう賞は功名心があるといっても常識の詰まった蚤の心臓では受け取れないわなあ。それは例えば「あなたの屁は臭いのよ大賞」みたいな、な〜んてね。(あ、聞いたことない、そうですか…)

 しかし、目立ちたがり屋のお父さんはなりふり構っちゃいないよ。そういう賞は家族内か、せいぜい仲間内でしか存在し得ないにしても、きょうも「大賞」をねらって、盛んにパフォーマンスを繰り返すお父さんがいる。そこには、それに応えようとする家族の愛や理解があるに違いないのさ。もちろん、一般に〈屁〉に対する愛とか理解などというものはないのだから、贈られる「大賞」は極めて暗黙性(止めてほしいのだが仕方なく認知せざるを得ない)や隠蔽性(外には発表したくない、してはならない)や架空性(あってはならない負のファンタジー)が強いものとなるわけだよねェ。

 まあまあ、何だかんだいっても「大賞」なのだから賞には違いないけどさ。クサイ家のお父さんときたら褒められる(見つめられる)ことがわかると、実に実に熱心に〈屁〉をするようになってしまった。この場合、褒められることと嫌がられることは同義だよ。しかし、褒められるってことは認知されて通行証を得たようなものだから、おおっぴらに〈屁〉ができるのさ。いやまあ、嫌がられながらもあえて〈屁〉をするお父さんなわけだね。

 ひのき舞台の表の賞に対して、そういう裏舞台の暗黙の賞があるってことは、人生における暗黒面を示唆するものだよ。お父さんの〈屁〉は家族とか仲間とか限定的な場所でしか認知されない(封じ込められている)が、それは一定の許容値の範囲で行われる行為であることを意味しているね。つまりは、それ以上の暗黒面の増長を阻止するために、集団の防衛的な振る舞いが表出していると判断されるのよ。要するに「お父さんの〈屁〉が一番一番クサ〜、お父さんが大将(大賞)です〜」と顔をそむけて祭り上げる決定なわけ。

 このように〈屁〉が臭い順という負の序列を暗黙のうちに作り出し、その末番の席に座ろうとする家族の心的振る舞いは、自らの無罪性を求める密かな野望だ。誰の〈屁〉だって臭いのだから無罪はあり得ないのだが、少なくとも、人にニオイを嗅がせない限りにおいて無臭であり無罪だろうよ。まあ、臭い順の序列があるというより、実際にはお父さんの一番席以外は全員末番席にいる、二つに一つの状況なわけだけどさ。

 こういう「あんたが大将(大賞)」の暗黙性・隠蔽性・架空性が全く発動しないとしたら、クサイ家は全員が不幸になるだろうねェ。誰もが幸せになるために大将(大賞)は用意されるのさ。お父さんは一所懸命に〈屁〉をすることで救われる(目立つ)のであり、周りの者は嫌がりながらも〈屁〉を賞賛することで救われる(無関係を強調できる)のであるよ。かくして、

 表舞台→大賞はみんなの賞賛と嫉妬を生む
 裏舞台→大賞はみんなの賞賛と安堵を生む

 ただし、こう比べてみれば、同じように評判を気にする賞賛でも方向が違うんだね。表舞台の賞は正の価値のものに与えられるのだし、裏舞台の賞は負の価値のもの与えられるのである。

 ここで何の因果か、世の中には表舞台と裏舞台を取り違える人が往々にしているんだよねェ。クサイ家のお父さんは何を思ったのか、家の中だけでなく、外に出て〈屁〉を始め出したのであるよ。まあ、確かに表舞台と裏舞台の境界は見定めがたいグレーゾーンもあるわけで、お父さんの〈屁〉が広く世間の注目を集める可能性がないわけではないだろう。昔から放屁芸というのは世間に存在してチャレンジされているんだよ。平賀源内の『放屁論』の一節。
……昔より言い伝へし梯子(はしご)屁数珠(じゅず)屁はいふもさらなり。きぬたすがゝき三番叟(さんばそう)、三つ地七草祇園ばやし、犬の吠き声鶏(にわとり)屁、花火の響きは両国をあざむき、水車の音は淀川に擬す。道成寺(どうじょうじ)菊慈道(きくじどう)、はうためりやす伊勢音頭、一中半中豊後(ぶんご)節、土佐文弥(ぶんや)半太夫、外記(げき)河東(かとう)大薩摩、義太夫節の長きことも、忠臣蔵矢口渡(やぐちのわたし)は望み次第、一段づつ三絃(さみせん)浄瑠璃に合せ、比類なき名人出でたり……

 とまあ、1774年頃の江戸・両国に出現した放屁漢、霧降花咲男(福屁曲平)の芸のレパートリーを紹介している。これはもう立派な音楽のパフォーマンスだ。

 しかし、肛門と口腔の違いは歴然としていて、合唱大会は全世界であまねく開催されても、放屁ショーや放屁大会となると現在ほとんど皆無である。だから、お父さんはボランティア活動をしている職場の博愛合唱団にテノールで参加しているのだが、もちろん〈屁〉がデビューするチャンスはなかったわけだよ。

 やがてお父さんは「合唱」と〈屁〉という評価が正負のものを、どちらも日の目を見るよう願い始めたんだよねェ。それはこんな経緯だ。

 合唱団には、歌がうまい(と自分では思っている)のにレギュラーメンバーになれないで不満を持っているイチロさんがいたのさ。イチロさんはなぜか団長の機嫌を損ね疎まれていたのだが、ある日お父さんはイチロさんの〈屁〉を聞いてしまったのだよ。

 実に素晴らしかった。それはパンパカパ〜ンと元気に弾む無臭性のほがらか屁であって、お父さんのような半分すかし屁の悪臭性の陰鬱なものではなかったんだねェ。

 いやまあ、そのときお父さんは練習が終わって団員が退けた人気のない公会堂に響いたパンパカパ〜ンに痛く感動したのだった。チャレンジングな二人のプロジェクトが始まった。ついに二人は〈屁〉と融合した合唱という新しいレパートリーを創案し団長に提案したのさ。

 まあしかし、こういうことがすんなり認められるかというと(常識的に)厳しいわけでね。二人の一途な錯乱ぶりは〈屁〉に起因するが、何がいけなかったって、一番の問題は団長が〈屁〉はしてはいけないというモラルの持主であったことだよな。

 何事もこんなふうに致命的な一線を見誤るのはいけないにしても、致命的な一線を狙ってチャレンジする人はいるわけさ。考えてみると、両国で放屁芸を興行した霧降花咲男のチャレンジは素晴らしいねェ。日本でビジネスとして成功した最初(で最後?)の〈屁〉なのだよ。

 お父さんとイチロさんは異端視され、博愛合唱団を叩き出されてしまうことになる。どこまでも「あんたが大将」の階段を登ろうとしたお父さんとイチロさんを突き動かしたものとは…あなただってする魔性の〈屁〉さ。
ラベル: 大将 屁芸
posted by 楢須音成 at 10:42| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月24日

近くでする〈屁〉と遠くでする〈屁〉

 休日、むかし読んだ本を整理中に一息ついて、ある一冊をパラパラ拾い読みしていたら、こんな一節にハタと膝を打った。なるほどォ、これか! 実は、なぜ日本人は対人間(たいじんかん=人と人との間)の距離を多くとる民族なのか、という疑問をず〜っと抱えていたんだけれど、これが答えではないのか。いや、単純すぎるかな。
 たとえば、東京の年間平均湿度は、七十パーセントに近い。最高では、七月の八十パーセント以上にもなるし、もっとも乾燥している一、二月でも、五十七パーセントである。
 日本全体の平均を見ても、湿度は六十四パーセント。フランスの年平均が三十二パーセントだから、単純にくらべても二倍はじめじめしているわけである。
 握手やキスというあいさつ表現が日本の湿度の高い国にないのも、じめじめしているからである。じめじめしているときは、体をくっつけるのも、うっとおしいものだ。そんな国には、なかなか体を触れ合わせるあいさつは育たないものである。
(樋口清之『日本人はなぜ水に流したがるのか』1989年、エムジー)

 改めて説明すれば、対人間の距離というのは、人と人が相対して関係するときに、その間に(無意識に持続的に)生じてくる物理的距離のことである。関係が親密であれば距離は小さく、疎遠であれば距離は大きい。人間社会ではTPOに応じてそういう人と人との距離が幾重にも発生している。民族間では距離の取り方の相違が生じているのだ。

 この観点を示した文化人類学者、エドワード・T・ホールの説を『まなざしの人間関係』(井上忠司著、1977年、講談社現代新書)という本に教えられて、民族と〈屁〉との関係について考えてみたことがあるのだが、そもそも何で異なる民族間で対人間の距離の違いが発生するのかということについては、ホールの本を読んでもわからずじまいだった。

 これって、ひょっとしたら湿度つまり気候の違いなのじゃない? 気候によって人と人との間に保たれる距離が違ってくるのでないか。

 ホールの『かくされた次元』(原著1966年、邦訳1970年、日高敏隆、佐藤信行訳、みすず書房)を読み返して、対人間の距離の要点をまとめてみた。ホールは4つのパターンを観察している。(それぞれのパターンは近接相と遠方相に分けられる)

(1)密接距離→近接相は身体的接触をしているか、その可能性が高く、愛撫、格闘、慰め、保護などの距離。遠方相(15〜45cm)では簡単に触れ合うことはないが、触れたり握ったりすることはできる距離。
(2)個人距離→近接相(45〜76cm)は抱きついたりつかまえたりできる距離。遠方相(76〜120cm)はそういう身体的支配の限界。表情を読み気持ちを察し関係や関心事を話し合える距離。
(3)社会距離→個人的でない用件を行ったり人に応対したりする。仕事に集中できる距離。近接相(120〜213cm)は一緒に働く人たちの間で、遠方相(213〜360cm)はより形式ばった関係に見られる距離。
(4)公衆距離→公衆との間にとる個人的な関係が希薄な距離。近接相(360cm〜762cm)では脅されれば逃げるか防ぐかできる。遠方相(762cm以上)ではもはや声、表情、動作などのニュアンスや様子は感じ取れなくなる。

 こういう距離が何で〈屁〉に関係するのかといえば、人と人が相対して〈屁〉をしたときの音とニオイが大いに影響してしまうからだね。それぞれの場面を思い浮かべてみたらよい。放たれる〈屁〉は特に(1)〜(3)のそれぞれで強弱深浅の心的現象を引き起こすことになるだろうさ。それはソファで愛撫中?、喫茶店で会話中?、会社で仕事中?――などなど、人との距離は〈屁〉の喜怒哀楽をさまざまに現象させるだろう。

 音成が気にしたのはこの対人間の距離の取り方(の傾向)が民族によって違うということ。ホールの観察によると、対人間の距離は日本人→アメリカ人→ラテン系→アラブ人の順で密着度(対面したときの接近度や相手の目をのぞき込む強さなど)が高いというのである。

 この距離は湿度に関係するのではないかと思いついてみたわけだが、まずはお手軽にネットでパリのデータを調べてみた。すると…あれれ?日本以上に湿度が高いね。フランスの各都市を見ても、樋口清之が指摘するように日本の半分という数値ではない。要するに、フランスの各都市は日本以上に湿度は結構高い。樋口のはどこのデータなのだろう。まあ、何というか日本が高温多湿なら平均気温が日本より低いフランスは低温多湿って感じ?

 樋口は「じめじめしている」から体をくっつけるのはうっとおしいというのだが、フランスだって「じめじめしている」のではないか。とすれば、樋口の論はあやしくなってくる。どうなんだろう。こうなったら理科年表だ。

 ――あ、一応、追求しているのは〈屁〉なんですからね。
posted by 楢須音成 at 07:30| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月28日

続・近くでする〈屁〉と遠くでする〈屁〉

 我々の〈屁〉が天気に影響される現象であるという観点は、当然ながらあってよい。そりゃそうだよ。梅雨時は湿って響かないとか、秋晴れの日は乾いて弾んだ音がするとか、観察を積み上げれば〈屁〉は天気によってさまざまに現象しているに違いないわけでね。

 日本は湿度が高くてじめじめしているから(西欧のように)挨拶に握手や抱擁やキスは育たなかった、という民俗学者の樋口清之の指摘を紹介したのだが、果たしてそうなのか。日本はフランスの二倍じめじめしているというデータが示されていたのだが、どうもデータが違うのではないか。

 平成21年版の『理科年表』を開いてみた。東京とパリを比較してみようと調べてみると、何とパリのデータがない。仕方がないので隣国のルクセンブルグのデータを参照した。ほかのデータから推定してもパリとだいたい同じ傾向の気候のようである。

tokyo_Luxembourg_hikaku.JPG

 比較してみると、意外なこと(知らなかった音成の無知)がわかるね。日本より湿度が高いよ。その代わりといっては何だが、日本より気温が低い。これはまあ、緯度からいっても当然であろう。ははあ、ヨーロッパってこんな感じなんだ。低温で湿度が高い…。

 しかし、旅行社のサイトの解説などでは、ヨーロッパは乾燥しているという説明が多いのに気がつくんだよね。ちなみにルクセンブルグは「4〜5月は気候が変わりやすい。6〜8月は乾燥していて過ごしやすく、紅葉が美しい秋には曇りの日も多くなる。冬の寒さはそれほど厳しくない。また、1年を通じて少量の降雨があるのでアノラックや雨具を携帯したい。比較的ベルギーの気候に近い」というのは「地球の歩き方」サイトの解説だ。イギリスなども、旅行した人の証言を聞いてみたら「乾燥している」というのである。

 調べてみると、この湿度は相対湿度なのだね。これは「ある温度で空気中に含まれる水蒸気の量を、その温度で最大含み得る水蒸気の量(飽和水蒸気量)で割ったもの」で単位は%である。このときの飽和水蒸気量は温度によって変化する。飽和水蒸気量は低温になると減り、高温になると増えるのだ。どういうことか。

 高温多湿の土地と低温多湿の土地で例えば、どちらも同じ80%の相対湿度であったなら、空気中の水蒸気量は高温多湿の土地の方が多いことになるのだ。入場定員100人のときの80%(80人)と定員50人のときの80%(40人)では、入場率は同じでも入場している人数は倍違うわけだよね。つまり、高温(定員が多)の日本と低温(定員が少)のヨーロッパでは、空気中の水蒸気量はヨーロッパの方が少ない。(こういう類比が適切かどうかわからないが…)

 そこで6月〜8月の平均の気温と相対湿度から、東京とルクセンブルクの空気中の水蒸気量(容量絶対湿度=1立方メートル中の水蒸気の重量)を計算した結果は次の通りとなった。

       東京=6月14g →7月17.4g→8月18.6g
 ルクセンブルク=6月9.2g→7月10.4g→8月10.9g

 水蒸気量はかなり違うことがわかる。体感上はこのことが「乾燥している」という身体反応を生んでいるようなのだね。いっしょに出した不快指数を見ても東京が高い数字になっている。ふーん。

 さて、となると樋口先生の指摘は当たっていると考えてもいいのではないかと思えてくる。ヨーロッパは(これもポイントだと思うが)寒い、あるいは涼しい。しかも「じめじめしていない」から挨拶に握手や抱擁やキスをする習慣が育ったのであ〜る(か?)。

 ここで〈屁〉に戻るが、体が密着すると〈屁〉の影響が大きいということを言いたいわけだよ。密着しないまでも、接近度が高ければ高いほど影響は大きいのよねェ。人は世間で他人と接するときに(社会的な関係を結ぶときに)物理的な距離を自然発生させる。これが対人間(たいじんかん)の距離だ。

 もちろん〈屁〉の存在が対人間の距離を(本質的に)決めているとはいえず(ごくごく私的な特定の場面ではあるにしてもね)、そうではなく対人間の距離に影響されて〈屁〉的現象がさまざまに現象するのである。

 距離という遠近を問題にしているが、これは文化人類学者エドワード・T・ホールの造語であるプロクセミックス(近接学とか近接空間論と訳される)による空間把握の一つの枠組みだ。

 ホールは動物のなわばり、スペーシング、人口調節などを通じて、空間の知覚から受けるストレスが内分泌系や外分泌系に作用して集団活動の統合(あるいは破綻)を現象させることを示し、人間の空間体験を剔出しているのである。

 音成が気になったのは対人間の距離の取り方(の傾向)が民族によって違うということなのだったね。ホールの観察によると、対人間の距離は日本人→アメリカ人→ラテン系→アラブ人の順で密着度(例えば、対面して話をするときの接近度や相手の目をのぞき込む強さなど)が高くなってくる。

 このほか、ドイツ人(空間の閉鎖性や秩序性にこだわる…)やイギリス人(階級差別から空間を規定する。個室にはこだわらない…)やフランス人(戸外を好む。家庭が多人数で込み合っている…)などについても、アメリカ人との比較で観察が重ねられているが、対人間の距離についての差異は明確ではない。しかし、その距離は日本人とアラブ人の間にあることは間違いない。樋口先生の説はここに位置するわけだ。(ちなみにニューヨークやワシントンの気候が示す低温多湿の傾向はヨーロッパと同じ)

 印象的なのは、アラブ人の密着度が高いことだ。確かにアラブは乾燥度が高いみたいだよねェ。と思ってデータをピックアップしてみたのだが…うーむ、何だかわからなくなってきたぜ。
posted by 楢須音成 at 18:47| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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