2009年08月01日

〈屁〉をする世界観が違う〜

 似たような民話のパターンが民族を越えてあるものだ。実は前回「久高の屁」を取り上げてみたのは、韓国の民話「おならをしない人」(徐正五再話/仲村修訳『韓国昔ばなし 下』2006年、白水社刊に所収)というのを見つけたからだった。さてこの話、似てはいるのだが、趣がゼンゼン違うのだ。何が違うのかと言えば、こちらは貴種流離譚ではないという点なんだけどね。こんな話だ。
 昔、ある娘が初夜におならをした。
 婚礼をあげて気苦労したあとのことで、新郎と二人になるとちょっと安心したのか、新郎のまえでおならをした。そうなると恥ずかしくて、顔を赤くしてうなだれた。
 ところが、新郎という男が、それを見て顔色が変わった。ちょっと心の広い男なら、花嫁が恥ずかしがってはと気をつかって笑ってすませるものだ。しかし、新郎は小魚のサッパの鼻の穴ほども度量がないのか、初夜に新郎のまえでつつしみもなくおならをするとはと、ひどく腹を立てケチをつけて、さっさと新房(しんばん=新婚夫婦の寝室)を出ていってしまった。

 初夜に新郎が逃げ出す事態になり、新婦の家では平謝り。昔は新郎が新婦の家に三晩泊まる習慣だった。やっとのことで新郎を連れ戻す。しかし、この三晩目にまたまた新婦がおならをしてしまう。それも我慢の挙げ句に大々的に。新郎は再び逃げ帰ってしまう。かくして新婦は婚礼は挙げたものの、主人の家に入れないで実家にとどめおかれるソバクテギ(夫にうとんじられる妻)になってしまった。しばらくして新婦はお腹が大きくなり男の子を産む。大事に育てて十年がたった。
「お母さん、お母さん。書堂(そだん)にいったら、みんながおいらのことを、おとうさんのいない「礼儀のない子」だといってからかうけど、お父さんはいったいどこにいるんだい」
 子どもにはありのままに言いにくく、心もまだ痛んでいたので、お母さんは言いのがれた。
「おまえのお父さんはね、あの海の底でむっつりしているサッパなんだよ」
 新婦がおならをちょっとしたからといって、逃げ出した夫が憎かったからだった。子どもは深い意味までわかったかどうか知らないが、じっと聞いていた。何日かしてまた聞いた。
「お母さん、お母さん。書堂にいったら、みんながおいらのことを、『おまえのお母さんはソバクテギだ』っていうけれど、ソバクテギってなんのこと」
 お母さんは、もう子どもにかくしておけないと思って、ありのままに話してやった。初夜におならをしたからといって、逃げ出したお父さんを、どうにかこうにかつれもどしたこと、三日目にまたおならをして完全に逃げてしまったこと……。

 真実を知った子どもはお母さんにきゅうりの種を一袋買ってくるように頼み、お父さんの住む村に出かけていく。お父さんの家の前で声を張り上げる。
「きゅうりの種、いらんかね。朝まくと晩にとって食べられるきゅうりの種はいらんかね」
 すると、家の中からおじさんが出てきて、子どもをしかった。
「おい、うそにもほどがあるぞ。この世の中に朝まいて晩に食べられるきゅうりがどこにあるか」
「このきゅうりは。おならをしない人がまくと、きっと晩に食べられるんです」
 子どもがこういうと、おじさんはあっはっはと笑った。
「おい、この世の中におならをしないもんがどこにいる」
「はい、世の中におならをしない人はいないでしょう。でも、初夜におならをしたからといって、夫に逃げられた人はいますよ」
 話がここまでくると、いくら勘のにぶい人間でも話の中身がわかろうというものだ。じっと聞いていると、それは自分の話だった。
「うん。初夜におならをしたからといって夫に逃げられた人を、おまえはどうして知っているのかね」
「おいらのお母さんだからです」
 よく聞いてみると、子どもは自分の息子だった。息子がこんなに大きくなって、自分の誤りを悟らせにやってきたのだと思うと、恥ずかしくもありすまない気持ちもしたし、一方ではほめてやりたい気持ちもした。男は息子の手をしっかりにぎって謝った。

 こうして子どもには父ができ母には夫が戻って、親子幸せに暮らしたとさ――以上は「久高の屁」と同様に母の不覚の〈屁〉が原因で、離ればなれになった父子が対面する話だね。

 物語は子どもの才気でハッピーエンド(地位の回復)になる点も同じである。しかし、貴種(貴人)にあたる人は登場しない。人智を超えたものは何も出てこないし、神秘なこともない。ここでは卑小な父親が子の才気によって、徳義や愛情に目覚めるという現世道徳的な内容になっているだけだ。まとめてみよう。

(1)発端:新婦が初夜におならをし、婚儀が終わる三晩目にも大きなおならをしたので、新郎は怒って新婦をソバクテギにしてしまう。新婦はしばらくして男の子を産む。
(2)探究:十歳になった子どもは父がいない境遇を友達にからかわれ、母に問いただして真実を知る。子どもはきゅうりの種を買ってもらい、それを持って父に会いに出かける。
(3)覚醒:子どもは父に会い、きゅうりの種によって、この世に屁をしない人はいないこと、初夜に屁をしたからといって断罪すべきものではないことを悟らせる。
(4)認知:父は子どもが我が子と知って謝る。
(5)回復:親子三人幸せに暮らした。

 これを「久高の屁」と比較してみることにしたい。登場人物は男、女、子だ。まず「おならをした人」を(語りの力点を追いながら)まとめる。

 おならをした人=女が〈屁〉をしたため男が怒って逃げ出すところから物語が始まる。女は男の怒りを受け入れざるを得ずソバクテギになった。このときの女の不覚の〈屁〉は夫婦の出来事であり(世間的には)男が度量を持って笑って許せると見なされるものだった。やがて成長した息子は、きゅうりの種を買い求めてもらい、それを使って男に、夫婦間の〈屁〉を礼儀知らずと見なした(咎めた)のは誤りだと気づかせる。これは男のとった行動を直接責めているのである。夫である男は自分の非を悟る。男はその責めを受け入れて謝罪し、息子と認め、女の地位も回復する。

 次は「久高の屁」である。

 久高の屁=女が〈屁〉をした恥を受けとめて自ら身を引くところから物語が始まる。男(王)はそれを受け入れ、女の地位の回復には動かなかった。このときの女の不覚の〈屁〉は、社会的・世間的に「公になった恥」として罪科と見なされる暗黙の強制力を持っていたからである。やがて成長した息子は、神々に祈り黄金の瓜という人智を超える神秘性を帯びた宝物を得る。そして、それを使って王に〈屁〉を罪科と見なして咎めるのは誤りだと気づかせる。これは理念の側から暗に男を責めていることになるが、王である男にとっては(恥によって余儀なく身を引いた)女の嘆きとして受けとめている。その嘆き(恨みつらみや悔恨)を受け入れ(「嘆くこと=責め」を許し)、息子と認め、世継ぎにして女の地位も回復する。やがて息子は王になる。

 以上を対比的にまとめてみる。(「おならをした人→お、久高の屁→久」と表示する)
◎男と女のどちらが主体の発端か
(お)男が屁で怒り出す(ただし、女も男の不寛容に怒っている)
(久)女が屁を恥じ入る(ただし、男も女の不調法を恥じている)
◎男の気を引く道具立て
(お)きゅうりの種(日常的な実利性)
(久)神の黄金の瓜(神秘的な象徴性)
◎男が悟る認識
(お)屁を咎めたのは間違いだ(やった行為自体への非難)
(久)屁を咎めるのは間違いだ(理念に叶う行為への修正)
◎男がとる行動
(お)自分の行動の非を認めて謝罪(反省)
(久)息子と母の嘆きを受け入れる(寛恕)
◎最終的に子が得る地位
(お)息子の認知(家族の完成)
(久)王位の継承(神話の完成)

 さて、こう見てくると「おならをした人」では「人間行動」という経験的な世界に力点が置かれ、「久高の屁」では「人間秩序」という理念的な世界に力点が置かれていることがわかる。

 そのアプローチには「庶人」と「貴人」が求める社会性の違いがあり、それは「修むべき徳義」と「守護する理想」というような道徳性の違いともなる。突き詰めれば世界観の「世俗性」と「神話性」の違いということにもなってくるわけだ。
 
 男女を捉えた主情=(お)庶人の怒り (久)貴人の羞恥
 求める社会的指標=(お)人生の徳義 (久)秩序の理想
 強調する世界条理=(お)世俗の生活 (久)神話の認識

 そもそも貴種流離譚は南方海洋民族に発祥する共同体神話を源流とする雄大なパターンのようだ。このように〈屁〉をめぐる似たパターンの筋立ての話であっても、社会性や民族性の違いで違った世界を提示しているのである。それは社会構造的なものを前提としてみるからなのだが、これを単に「夫婦の〈屁〉の過ちを息子が修復する」という〈屁〉にまつわる関係性の構図からみれば、そりゃまあ、これは同じパターンであるよね。

 一言=ならば、こういう家族関係の構図を精神分析的に解き明かすなら、一体どういうことになるんかの〜。


posted by 楢須音成 at 00:16| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月05日

愉快に〈屁〉を語るのはどういうときだろ〜ヵ

 普段あからさまに〈屁〉を語ることはないね。まあ、我々には〈屁〉に対するためらいがあって、しばしば「言訳」「黙殺」「無視」というような態度を表出することは前に指摘したことがあるが、逆に何がきっかけになるのか、ためらいという心的抑制が解除され、雄弁に語り始める瞬間があるのではないだろうか。いや、あるんだよねェ。
「よろこび、楽しめ。屁をひって悲しむことなかれ」
「まあ」
「夏分はあおがれて涼しければなり」
「先生、そんなことばかりおっしゃっていやですわ」
「まあ、そは、笑いを失いたる婦女を慰むることを得(う)べければなり」
「まあ、男の方はどうしてそんなお話がお好きなのでしょう」
「そりゃね奥さん、一口にはいえないが、ご婦人には自覚症状がないのです」
「と申しますと」
「女は昼間の運動は肩でする。寝てからは腹でする。その結果、だいたいあの方の数は、男も女も同じことなのだが、ご婦人は自分で知らないのです。また、知ることをいさぎよしとしない点もある」
「そんなことはございませんわ」
「いや奥さん、僕はご婦人の悪口をいっているのではありませんよ。それが女のつつしみであり、美徳の一つなのです。だからご覧なさい。家つきの娘が婿を貰って落ちつくと昼でもする」
「存じませんわ」
(内田百閨w居候匆々』1936年)

 よろこび、楽しめばよい。夏は〈屁〉をしたら扇がれて涼しいし、笑いを失った女性を慰めることもできる――と、面白可笑しく〈屁〉談義を重ねているシーンである。まあ、これは上品な(?)部類だろう。そういう〈屁〉談義に女性が応じて、どちらも会話を楽しんでいる(かな?)。気が置けない仲間内での会話だ。

 こういうことは、ためらって何も語らないのとは対照的な態度表出であり、これまた〈屁〉というものが促してくるもう一つの心的現象と言わねばならない。面白がって〈屁〉を語ることは誰でもがする振る舞いではないにしても、我々は屁話とか猥談とか、普段は(抑制して)口にしないことを、仲間内だと盛んに言葉にしてしまうことがあるのだ。

 いつもは抑制していることを、そのときは抑制せずに発散する――という現象は、世の中にいろいろあるに違いない。例えば悪口とかもそうだし、恋の告白とか疑惑の追及とかも、そのときまでは抑制しているがついに発散へと転換する瞬間が観察されるだろう。

 これを〈屁〉に即して観察してみると、いつもは屁ガスの放出を抑制しているが、何のはずみか発散へと転換(放屁)するのと同じだ。つまり、我々はいつも〈屁〉を抑制しているように〈屁〉を語らないが、そのときがくれば〈屁〉を抑制しないで放出するように〈屁〉を語るのである。そこに観察されるポイントはここだ。

(1)そのとき〈屁〉を語るのは→許容・同調する人がいるから(語る行為の肯定性の成就=双方が快)
(2)そのとき〈屁〉をするのは→許容・同調する人がいるから(放屁行為の肯定性の露出=双方が快)

 そもそも抑制のタガが外れるのは「許容・同調する人がいる」という(双方が愉快になる)関係性の成立があるからなのだ。江戸の川柳にこうある。

  いよ玉やなぞとへっぴりのわるふざけ
  はしご屁を高点にする無礼講

 そこでは悪ふざけが可能だし、愉快になって〈屁〉をするのも語るのも相手次第なのである。(一人でする屁は悪ふざけにもならないね。一人で屁をしても屁は存在しないことと同義である)

 最近、日本の妻たちの半数は夫の前で〈屁〉をするというデータが(音成には信じがたいのだが)発表されていた(参照)。これは(2)に相当する現象であり、妻の〈屁〉に対して夫が「許容・同調する」からだろう。もちろん、妻が〈屁〉をするなら、夫は多分それ以上にしているに違いないよねェ。ならば普段から当たり前の話題として、半数以上の夫婦は愉快に〈屁〉を語り合っているのであろうさ。(嫁にはキッパリ否定されたが)

 こういう「許容・同調」の関係性の成立が〈屁〉に現象するとき、愉快か快楽か、そこには相互に感じる「快」の気持ちよさがあるのだ。(同調と恥の関係については以前に考察してみた。〈屁〉において同調が快をもたらすのは、一つには恥から解放されるからである)

 もっとも、相手の行為を許容したからといって、必ずしも自分も同じ行為に走るとは限らない。しかし二人の間に「する(しない)←→しない(する)」の態度の違いがあっても、了解済みの許容関係にあるのであり、これも低い段階の同調(同一行動の共有)と見なせる。

 同調という人間の行動は「快」に裏打ちされた身心の現象である。この集団内の同一行動の共有(一緒に屁を語ったり屁をすること)が完璧な身心一致の状態になれば、つまりみんなで一緒に心置きなく〈屁〉をすれば、我を忘れるエクスタシーを引き起こす(だろう〜)。

 以上は「許容・同調」の関係性の成立が〈屁〉に現象しているときの理屈。まあ要するに、相手に恵まれたときには大いに〈屁〉をして語ればいいわけだが、人生そうはうまくいかないんだよねェ。そもそも抑制しているということは、人に嫌がられるワケがあるからだ。

 そりゃ、誰が発しようと〈屁〉は異音異臭の属性でもって嫌がられるよねェ。そればかりか羞恥の極みのように位置づけられて、自他ともに隠蔽する代物だ。身体的に不可避の〈屁〉だが、心的には(意識的にも無意識的にも)できるだけ無視したいのである。世間には生涯〈屁〉を無視しようと決めている人もいるかもしれない。我々の〈屁〉の抑制にはそういう背景があるのだ。

 だからこそ一緒に〈屁〉を語ったり〈屁〉をしたりするのには、それを嫌がらない同志との出会いが必要であり、そこに踏み込むきっかけもいる。希有のチャンスを得て、同志発見(嗜好一致)のあかつきには悦びも大きいだろうね。大体、相手を同志と推定しても「許容・同調」の関係を結ぶことは、お見合いで瞬時にお互い相性を確認し合うような困難さ、はたまた恋人の不可解な真意を推し測るような絶望感を伴うものだ。そこには疑心暗鬼と希望的観測が強く強く交錯している。何といってもそれは〈屁〉なんだからさ。

 もともと〈屁〉は「快」であるところの身体現象であるが、これが心的現象になって「不快」を誘発してくる。ここから抑制の方向に走ってしまうわけである。しかし、もとを辿れば「快」なのだから、仮に許されて抑制を止め発散できれば「快」である。それも大きな「快」である。なぜなら、閉じ込められて高圧になった空気が吹き出してくるように勢いがついているからだ。

 このように〈屁〉を語るにしろ〈屁〉をするにしろ、抑制しているものの排出(開放)は、現象してくる身心の力学の基本運動態として、気持ちよさ(快)を引き起こすのである。(そこでは快と不快は表裏一体だ)

 愉快に〈屁〉を語ることができるのは、当たり前といえば当たり前だが、目の前に「許容・同調する人がいる」からだということが、わかっていただけましたでしょ〜か。(しかし、我が嫁は頑なに同意を拒否するのだけどねェ。どうして?)
posted by 楢須音成 at 18:28| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月13日

続・愉快に〈屁〉を語るのはどういうときだろ〜ヵ

 何につけても同好の士が集まれば話がはずむものだが、これが〈屁〉に関してとなると、いっそうの賑わいを呈するのではないだろうか。いわゆる〈屁〉談義というやつは進展するにつれ、何やら熱い狂騒を帯びて現象してくるように思われるのよねェ。

 いやまあ、そんなことな〜い!という人がいるのは承知しているさ。確かに頑なに(というか、ごくフツーに)自他の〈屁〉を無視する(屁って何?とまるでこの世に存在しないかのように遇したり、存在は渋々認めても潔癖にも決して口にしない)人はいるわけでね。

 そういう人は別格にしても、一般に〈屁〉は、することも語ることも抑制されつつ、しばしば相手次第で抑制のタガを外してしまうのだ。やんやと話がはずむね。それは〈屁〉を語ることを「許容・同調する人がいる」からだというのが、前回に考察した内容だった。

 この抑制のタガを外しているとき、話し手は心的な「快」を得ている。このとき「不快」であれば話がはずむわけないしね。しかし、ちょっと引っかかったのが、前回に引用した川柳の情景である。

  いよ玉やなぞとへっぴりのわるふざけ

 これって周りが嫌がっている悪ふざけの情景ではないかとも思えるんだよねェ。〈屁〉を両国の花火に引っかけて「いよッ玉屋などと(かけ声を上げる)屁こきの悪ふざけ」というのだが、この「いよッ玉屋」を周りが嫌がっているところに自分から言っているのか、自分も周りも面白がって言っているのかによって、情況が微妙に違う。(もちろん、どちらにしろ川柳の作者は面白がっているのだが…)

 情景の中の悪ふざけが登場人物たちにとって、肯定的扱いなのか否定的扱いなのか、ということになるのだが、まあ、どちらであっても〈屁〉を花火に見立てた面白可笑しい趣向が眼目には違いない。ここでは、悪ふざけを否定的、つまり周りが嫌がっているとして考えてみると、面白がっている(快を感じている)のは〈屁〉をした本人(と作者)だけなのだ。

 ならば、この悪ふざけは露悪趣味の態度だろうねェ。露悪とは他者の否定・嫌悪に逆らって(対抗して)わざと自分の「悪」をさらけ出すことだ。結果として自分を強く強くアピールすることになるのだが、露悪は「快」をともなうのである。人が嫌がる露悪にどうして「快」が伴うのだろうか。我々は「許容・同調する人」がいるから「快」が発生すると見てきたのではなかったか。

 しかしなるほど、よくよく考えてみれば人が嫌がることをするのは楽しいよねェ。実は相手がどうあろうと〈屁〉をした者は「快」を感じることがある。これはどういうことになるのだろう。これまでの検討をまとめてみると、こうなる。

語りの場合
(1)そのとき〈屁〉を語るのは→許容・同調する人がいるから(語る行為の肯定性の成就=双方が快
(ア)そのとき〈屁〉を語るのは→否定・嫌悪する人がいるから(否定性の語る行為を露出=片方が快

放屁の場合
(2)そのとき〈屁〉をするのは→許容・同調する人がいるから(放屁行為の肯定性の成就=双方が快
(イ)そのとき〈屁〉をするのは→否定・嫌悪する人がいるから(否定性の放屁行為を露出=片方が快

 語りの場合の(1)と(ア)の違いや、放屁の場合の(2)と(イ)の違いがどこにあるのかといえば、まずは「双方向の快」か「一方向の快」かということに注目できる。そして結局、そこには「快」の基本にある〈屁〉の肯定性に向き合う姿勢の違いがある。つまり、喜んでいるのか、嫌々なのかの違いである。

 双方向の快=肯定性を共有している(否定性が消えた肯定性)→双方がともに自ら喜んで肯定を選び取っている(双方が喜ぶ現実)
 一方向の快=肯定性を共有していない(否定性を帯びた肯定性)→肯定を一方は強要し、一方は強要されている(片方が喜ぶ現実)

 もちろん、露悪趣味の態度が孕むのは「一方向の快」だね。そこでは〈屁〉を主張し強要する人の(相手に向ける初手の)一次的態度がある。少なくともそこでは〈屁〉を否定・嫌悪する人を圧倒しようとする(跳ね返す)勢いを示さなければならないね。


 では、ちょっと回り道。そもそも〈屁〉における肯定や否定というのは一体どういう心的現象(規制)なのだろう。これをまとめてみる。

 肯定の心的規制=〈屁〉の現実(実現)化を許容=〈屁〉と一体=弛緩・解放感=善→
 否定の心的規制=〈屁〉の現実(実現)化の禁止=〈屁〉と異和=緊張・抑圧感=悪→不快

 単純に言ってしまえば、肯定とは現実化(実現)の衝動であり、否定とは非現実化(非実現)の衝動だ。そして、肯定と否定は相互に影響し合う関係にあることは「一方向の快」を見ても明らかだろう。善悪や生死というものに比定すれば、肯定は「善」や「生」であり、否定は「悪」や「死」だね。それぞれに条件はあるにしても、浸透力の深刻さからいえば否定(悪・死)の強さは予測できず、生長力の強靱さから言えば肯定(善・生)のしたたかさは計り知れない。(この二つはいつもセットなんだけどね)

 ここでは「一方向の快」に及ぼす否定の心的規制を問題にしてみる。否定という、目の前の事象(ここでは、屁)に対する非現実化の衝動とは「そうあってほしくない(屁は禁止である)」ということであり、それが実現することを阻止したい気持である。否定の仕方(主張)はさまざまある。否定の対象が自己か他者かによっても違う。例えば、こうだ。

自己の〈屁〉を否定する場合
 全面的否定なら「私の屁は存在しない(屁をしていない)」
 道徳的否定なら「屁は存在してはいけないので、もちろん私の屁は存在しない(屁をしない)」
 部分的否定なら「私の屁は(存在するが)臭くない(のでよい)」
 相対的否定なら「私の屁は(存在するが、あなたのよりも)臭くない(のでよい)」

他者の〈屁〉を否定する場合
 全面的否定なら「あなたの屁が存在しているのはいけない(屁は禁止)」
 道徳的否定なら「屁は存在してはいけないので、あなたの屁が存在しているのはいけない(屁は禁止)」
 部分的否定なら「あなたの屁が(存在するが)臭い(のはよくない)」
 相対的否定なら「あなたの屁が(存在するが、私のよりも)臭い(のはよくない)」

 こうみると、〈屁〉の否定というものの屈折したバリエーションに気づくのだが、自己の〈屁〉の否定と他者の〈屁〉の否定の心的運動は微妙に違うね。実際の場面としては、こういう自他の〈屁〉の否定(と肯定)が揺れ動き、深く浅く絡み合って現象してくるものなのだ。しかしまあ、結局のところ他者との関係において〈屁〉の自己否定や他者否定とは、どこまでも自己の優位の強調であると気がつくのであるね。

 この世に〈屁〉をしない人はいないのであるから、原理的には〈屁〉は全否定(抹殺)できないものなのだ。自分だって〈屁〉をするのに〈屁〉をする他者の〈屁〉を否定はできない(はずだ)。なのに他者の〈屁〉を否定するとすれば、それは自己の〈屁〉の優位を図々しく主張してしまうことだ。それは否定できないものを否定することからくるやむを得ざる起点(矛盾というか欺瞞というか…)であり、つまりは自己の不都合な現実(存在するもの=屁)の隠蔽に向かう飽くなき心的運動なのである。

 かくして〈屁〉の否定とは4パターンにまとめられるだろう〜。
(1)そこに〈屁〉が存在しているのは認めない(つまり、自分は屁をしていないと強調している)
(2)そこに〈屁〉が存在しているのは許さない(これは、屁をしてはいけないと禁止を意味する)
(3)そこに〈屁〉が存在しているので自己の〈屁〉の肯定性を強調する(つまり、自己の優位の強調)
(4)そこに〈屁〉が存在しているので他者の〈屁〉の否定性を強調する(これも、自己の優位の強調)

 ここから「認めない」「許さない」「強調する」という〈屁〉の否定の三拍子が抽出され、さらには表裏の関係にある肯定の三拍子が「認める」「許す」「同調する」と導かれるのであ〜る。


 さて、話がだいぶ回り道している。もともとは川柳の「いよ玉やなぞとへっぴりのわるふざけ」にあるような露悪の「快」について考えていたのだったよねェ。頭を切り換えよう。どうして露悪をすると「快」なのか。
posted by 楢須音成 at 22:39| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月21日

続続・愉快に〈屁〉を語るのはどういうときだろ〜ヵ

 世間では〈屁〉は嫌がられるし、人前では恥ずかしい行為なのだ。だから〈屁〉は抑制され、人は親しい仲で対面していても〈屁〉をしないことが大人のマナーとされている。まあ、普通はそう。我々の〈屁〉は「人が責める(嫌がる)」「自分を責める(恥ずかしい)」ものなのだ。

 嫌がる人の前でワザと〈屁〉をすることは露悪である。しかしながら、人の嫌がることを狙ってする露悪は「快」なのである。そこに「快」がないのなら、その行為は(露悪ではなく)恥ずかしい粗相か無自覚な無礼に違いない。露悪とは行為の結果ではなく、その行為に至る人間のある心的現象なのである。

 人の嫌がることをする人は多いよねェ。まあ、そういうことをするのは意地の悪い「当て付け」とか「当てこすり」とかにも通じるわけだが、露悪という場合には、自分の「悪」をさらけ出して「悪(人)ぶる」という開き直り(自己主張)の基本スタイルが潜んでいるんだよね。江戸の狂歌にこんなのがある。

  人々は鼻に手あてて逃げにけり
         嵐の如き屁をいといては

 このように人に嫌がることをする理由とは何か。そのとき〈屁〉をした人が「快」を感じるのはなぜなのか。嵐の如き〈屁〉をした人は悪の権化となって(本人は)実に愉快だろう。とにかく、これはワザとする〈屁〉だね。

 もちろん、横行する露悪は〈屁〉に限らず、我々は悪(人)ぶって無礼を働き、ときには乱暴し、嫌がる秘密を暴露し、平気で恥ずかしい振る舞いに及ぶわけだ。それが犯罪を構成するような場合は別として、一種のパフォーマンスとしては日常的な振る舞いにもなっている。これはまあ、ワザとするという態度の中に、相手への切実なアクションがあるんだねェ。

 そこで〈屁〉の露悪なのだが、江戸の川柳にはこんなのがある。かわいいもんだ。

  風上で意地のわるいが屁をかがせ
     (どーだ、臭いだろ? ハハハ…)
  ごめんごめんと芋食ひすぎて今日の月
   (ウルサくしてすまんのォ。ハハハ…)
  ひった屁をあくびといってけりをつけ
  (ケツのアクビだ、悪いか? ハハハ…)

 こういう〈屁〉をワザとしているのだったら露悪だね。〈屁〉の露悪とは、そこに自他の関係が生じているとき、相手の了解(同意)なしに「悪」を承知でワザと放屁するのである。ここでは「悪=屁」なのであり、結果として悪(人)ぶる振る舞いとなって、それは「快」である。

 まあ何というか、こんな川柳が作られるのは、第三者にとっても、そこに嫌がる人がいる情景が可笑しい(笑いという快を生む)からだね。こういう情景の肯定(加害者)と否定(被害者)のぶつかり合いは、前回検討した「一方向の快」の構図に相当するわけだが、これは一方が〈屁〉の肯定を強要し、一方は強要されているというものだ。露悪をする加害者は「快」を感じ、そのとき〈屁〉の肯定性は一方的に主張されるとともに、被害者が嫌がって出血する否定性に染まっている。

 これは〈屁〉の肯定と否定のせめぎ合いだ。そもそも肯定とは「認める」→「許す」→「同調する」の三拍子を辿り、否定とは「認めない」→「許さない」→「強調する」の三拍子を辿るのだったね。つまり露悪とは、強引に「認める」「許す」「同調」を求める態度になるね。

 最終段階に至っている同調には熱烈に〈屁〉をこき合うという「双方向の快」が発現しており、それは他者との共感現象になっている「快」である。これに対して「一方向の快」である露悪は共感現象ではない。極めて自己中心的な現象なんだよねェ。

 しかし、それが自分だけの内閉的な独りよがりかといえば、そういうわけでもない。悪いということがわかっていて、あえて相手にそれを誇示しているのだから、露悪の行為は相手の存在が必要不可欠なのだ。他者がいてこそ〈屁〉は悪なのであって、他者がいなくては〈屁〉は悪でもない。だから、露悪された(強引に「認める」→「許す」→「同調」を求められた)ときに〈屁〉を受け入れ呼応して同調すれば、露悪は露悪でなくなることになる。みんなが〈屁〉をすればこういう情景になるだろう。

  にぎやかさ道頓堀に屁が絶えず

 相手が嫌がるから露悪になるのである。露悪は相手を不快にすることで自己の優位を強調しているのだ。悪(人)ぶるとはそういうことだ。しかしだね、そもそも〈屁〉をするとは(露悪が優位を強調するのとは裏腹に)恥ずかしい劣位の行為だね。露悪は劣位の者が劣位をさらけ出して優位を主張しているのだ。

 これは何だか自虐に見えるのだが、もちろん本人は自虐とは思っていない。むしろ自慢なのだ。ときに自虐と自慢は表裏一体だったりするんだよねェ。なぜ自慢なのかといえば、それは困難や危険(屁の迷惑や恥)を恐れず、目的(放屁)を断固実施する主体的で積極的な心的運動(つまり、勇猛心のような果敢な決意)に投げ込まれ、そこに「快」を見出しているからである。(一種の自己陶酔?)

 何であれ関わろうとする主体的な心的運動は、そこにいる他者に対する優位の強調なんだよね。態度もデカくなる。そういう心的な積極性(高揚)の特徴は、善であろうと悪であろうと(観念の基準に関係なく)至極ポジティブ(肯定性)に染まっている。しかも目の前には、まるで自身が〈屁〉をしたように驚き慌てふためいている他者がいる。不意打ちしてやったり!の気分になるわけだ。(要するに動物行動のイカクとかオドシになるわけであ〜る)

 そういう他者の動揺(驚き)は、本来は〈屁〉をした自分の姿であるはずのものだが、逆転しているのである。この段階で他者は劣位に置かれ、同時に〈屁〉をした自分の優位に先手が打たれている。心的な優劣関係の序列化は動物行動の基本であり、多くは出会い頭のその場で確立される。我々の露悪の心的過程においては、意識下でそういう優位の確立を期待し狙って(意図して)いるのだね。

 しかしもちろん、他者はすぐに「私の屁じゃない」と動揺から立ち直って(失地回復しようと)嫌〜な顔をし、あるいは腹を立て、あるいは怒り、ついに批判すら始めようとするだろうねェ。――だがしかし、このような他者の振る舞いはすでに相手の〈屁〉に一瞬でも屈した結果であり、基本的に受け身の態勢であることには変わりない。何事もいったん劣位に立つと挽回して相手の勢い(優位)を覆すことはかなりの力業になるのだ。

 こうやって他者を〈屁〉で追い込む露悪は主体的に振る舞う行為の一つなのである。相手にもたらす混乱は自分の主体的な行為の対価(成果)なのであり、それが大きければ大きいほど発現する「快」は大きい。主体的な行為(働きかけ)は本源的に(善悪に関係なく)高位にある意識(高い目線からの優位の主張)を含み持っているから、露悪が挫折しない限り、心的運動はポジティブ(肯定性)を維持して「快」を発現するのである。だから例えば、露悪して相手に一喝されて逆に辱めを受けるなど挫折(優位から失脚)すると、これはもう「快」どころではないわけだよね。

露悪の〈屁〉の「快」の初期条件
(1)主体的な行為として〈屁〉をこくこと=自己を高位の意識へ引き上げる
(2)相手を〈屁〉が動揺・混乱させること=相手は低位の意識へ追放される

 このとき、意外にも自分の〈屁〉が相手を喜ばせた(相手の「喜び」を対価として得た)としよう。すると、これでも「快」が発現するだろう。これは二人が同調することだからだ。同調は至福の「快」だ。逆に、相手が無反応で心底何も感じない人で、全く無視の態度なら「快」は発現しないだろう。(まあ、たいていの〈屁〉の露悪の現場では、人は〈屁〉に動揺・混乱してしまうのだよねェ。やすやすと露悪の壺にはまる…)

同調の〈屁〉の「快」の初期条件
(1)自分も主体的行為の〈屁〉をこくこと=自己を高位の意識へ引き上げる
(2)相手も主体的行為の〈屁〉をこくこと=相手も高位の意識へ引き上がる

 こう見てくると、露悪と同調において「自己を高位の意識へ引き上げる」ことが「快」なのである。つまりは、その上昇感こそが「快」を誘発するのだ。だから自分がより高位にあり相手がより低位にあれば、その落差は大きいのだから、心的な上昇感はより大きくなるわけさ。

 一方、例えば「テストで一番だった」とか「試合に勝った」とかいう場合の「快」の発現は、構造としては露悪の初期条件と同じだ。自己の主体的な行為(勝利)で他者を動揺(圧倒)させ、意識の低位へと追いやる結果から「快」が出てくるのである。(まあ、勝者と敗者が讃え合うなんてスポーツはもともと不自然なんだよねェ)

 もちろん「テストで一番だった」とか「試合に勝った」とかいうのは露悪ではない。この場合の「快」は、あらかじめ設定された競争という約束事(ルール)の中で味わう上昇感なのだね。露悪は裏切りや意外性の中で発生する。テストや試合で相手をくじく(相手に勝つ)のはルールに従った結果だが、露悪をするのはルール破り(倒錯)なのである。

 では、世の中、ルール通りとルール破りとでは(勝利したとき)ホンネとしてどちらがより「快」でしょうか?…そりゃまあ、…ですよねェ。
ラベル: 屁談義 同調 露悪
posted by 楢須音成 at 07:43| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月26日

続続続・愉快に〈屁〉を語るのはどういうときだろ〜ヵ

 ハタと気がついたのだが、最初に〈屁〉を愉快に語るのはどういうときかと問題提起しながら、いつの間にか実際に〈屁〉をすること(の快)ばかりを思弁している始末。いやまあ、〈屁〉を語るも〈屁〉をするも同じようなものなのだから仕方ない。嫁ときたら何を考えとるのやら「あなたのブログが、そのブログが露悪でしょー!」と御機嫌斜め。全く読みもせず毛嫌いしとるのだ。

 さてさて、我々の〈屁〉は同調しても「快」なのだし、露悪しても「快」なのだが、それは「自己を高位の意識へ引き上げる」その上昇感(高揚・興奮)に誘発されて発現するのだった。飛行機で上昇しつつ地上を見おろす…という体感的な言い方は比喩でしかないが、意識の上昇感というものは意識の高いポジションへの飛躍(運動)ではないのかと考えたわけさ。

 意識の「高位/低位」というのは他者との関係で常に生じる上下性(序列性)ともいうべきもので、それは対人関係において相対的(相手次第)に、また複合的(複数合成)に発現し、これが幾重にも微妙に絡み合って現象している。(ははは、要は単純に言えば、何かことあるごとにオレがエライかオマエがエライか無意識に計測し、ポジションを決めている対人関係のことなんだけどさ)

 もう一度まとめ直しておくとこうなる。
 同調の〈屁〉=他者と主体的・積極的に〈屁〉をこき合うことを通じ、双方が意識を高位に上げる。双方とも快
 露悪の〈屁〉=自分は主体的に〈屁〉をこき意識を高位に上げ、動揺する他者を意識の低位に追放。一方だけ快

 他者と合意している同調と違って、露悪は不同意の行為であるが、露悪というものを「快」が発現する心的現象としてみると、人と競い合う「競争」だって同じ構造をとっているというのが前回までの観察だ。

 つまり、露悪も競争も一方が意識の高位へと上昇し、一方が低位へと下降する。このとき、一方は自己の(意識の)高位を思い知り、一方は自己の(意識の)低位を思い知るのである。他者の存在を介するそういう心的運動(優位の実感)によって「快」を発現するわけだ。

 もちろん、露悪と競争は全く違う場面の振る舞いだから、次のような相違点がある。

 露悪=ルールを無視/ルールの外で一方だけが自由
 競争=ルールを守る/ルールの内で双方ともに自由

 この違いがもたらすものは存外大きいわけだね。これを〈屁〉に引き寄せて「ひとり自由=ルールを無視して屁(露悪)」と「みんな自由=ルールを守って屁(競争)」と考えてみる。例えば〈屁〉が競争すればこうなる。
 斯ふ云ふ調子で、稽古をはじめたので、同地附近は放屁家が頗(すこぶ)る多かつた。隨(したが)つて放屁會も月並に開いて至極(しごく)盛であつた。會では、飲んだり食つたりした挙句、お互いに放り合つて、其臭氣と音色を比較研究し、腹の中を出入過不足なしにして散會する。そして毎年番附を調整するが、屁國先生は引續き横綱で關脇より下つたことは餘計なかつた。其關脇に下つたのは先年東京の某と名乗る男がやつて來て他流試合を申込んだ。先生何のこんな奴と高をくゝつて試合に應ずる。どうしてどうして頗る豪(ごう)の者で迚(とて)も相手にならなかつた。無念乍(なが)ら尻尾を卷いて降参したとあるが、其の名人の名を逸した。(福富織部『屁』1926年)

 これは明治末の浜松市あたりで開かれたという放屁会の模様だ。屁國先生というのは地元の実在した放屁家。福富織部が逸話を書き留めている人物である。さてここでは〈屁〉の臭気と音色は露悪ではなく競争の世界に位置づけられているわけだね。嫌がられる〈屁〉であっても、堂々と表舞台に登場することは可能だ。お互いにこき合う〈屁〉がみんなで比較研究され、ルール化されて試合となる。そこは自由競争の世界なのだ。表舞台に〈屁〉のランクを決定する番付が用意されるのである。

 これは〈屁〉をこき合うという同調の世界に発生した競争だね。しかし、たとえ同調しなくても(敵対していても)競争は(ルールに則れば)成立するだろう。競争は敵対してもしなくても約束事の世界を合意して、それを普遍化してしまえば成立するのである。(戦争だって一定のルールでやるわけでね)

 ただまあ、どうだろう。首尾よく露悪(ルールを守らず屁をする)が成功するのならば、競争(ルールを守って屁をする)よりも断然「快」が深いと思うのだよねェ。

 そのときルールとか常識とかを守っていたら間違いなく負ける(すでに意識の低位を実感している)状況下にあったとしよう。そこで、露悪して勝つ(意識の高位を獲得する)という逆転の策を試みるわけだ。恥ずべき〈屁〉という先行する低位から逆転して高位へと向かう弾みをつける露悪では、競争の場合よりも心的運動が上昇していく「快」の落差は大きいだろう。

 そもそも公平を願う競争は同位の意識の地平(自由参加で機会均等に確保された位置)からスタートするのが建前である。競争にはランク付けが織り込まれ制度化されて、勝ちと同様に負けは最初から納得ずくなのだ。ルールに従うとはそういうことだ。もちろん、競争で勝てば単純に「快」だし、負ければ「不快」である。しかし、ここで考えてみてほしいのだが、ルールに従った競争で勝ったとして、それは本来の(真剣)勝負だろうかねェ。可能なら再チャレンジ(の可能性)があるような勝負はホントの勝負なの?――そういう根源的な疑義(リアルへの疑問)が隠蔽されていないだろうか。(いやまあ、スポーツ競技なんかをクサしているわけではないんだよ)

 だって、そもそも万人に公平なルールなどは絶対に存在しないのである。もともとバラバラで不公平なものを(無理やり)公平に見せるのがルール。そういうルールに従う競争がリアル(ホントの勝負)から遠ざかるのは当然だろう。リアル感は身に迫る竹刀と真剣ぐらいの差はあるよねェ。かくしてルールに従って振る舞えば、負ける「不快」(意識の低位)は勝負の前から懐柔されているのだ。

 しかし、ルールなき露悪は真剣勝負になるだろう。ただし、一方的にね〜。

 一方的に相手を意識の低位に追いやる露悪はダメージを与えるほどに効果的である。露悪は相手の嫌悪を掻き立て、敗北感(意識の低位)を植え付ける。しかも、自信満々の自分は恥ずべきことをしていると実感したうえで、相手を見下ろす自分の意識の高位を深く実感し、加虐的に深く深く「快」なのだ。その現場はルールなき(というか、自分がルールの)世界であり、相手は心的な位置を取り戻す復権の手がかりが極めて見つけにくい。

  鉄砲の筒はむけねど放ちたる
     屁にはあたりの人のしりぞく

 この狂歌のように露悪する〈屁〉は(ルールに従う競争よりも)相手に与えるダメージが大きい。周りはビビって逃げ出してしまう。そこには、

  匂ひをば何と聞きけん屁の音に
     耳をふたいで逃げるをかしさ

 逃げ惑う人々を「をかしく」眺め快楽する余裕がある。そういう露悪の〈屁〉をした者の「快」は大きいのである。ところが、

  古(いにしえ)の浪花の人の屁の会が
      今日この辺に臭(にお)ふものかな

 この狂歌に描かれた〈屁〉は露悪ではなく、軽めの穏やかな競い合いの世界(屁こきの集まり)を想像して描いているわけだ。とぼけていて笑えるんだけど、ちょっと風流(観念)すぎないかねェ。しかしまあ、こんなわけで〈屁〉は競争するより露悪(が成功)した方がリアルで楽しいのであるよ。
posted by 楢須音成 at 20:27| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月29日

最終・愉快に〈屁〉を語るのはどういうときだろ〜ヵ

 我々が〈屁〉を愉快に語る(こく)のはどういうときかということを考察してきて、例によって紆余曲折の思弁を労してきたわけだが、こういうことを言いたかったんだよねェ。事例で示す。いや別に、音成がそうだというわけではない。これは単なる事例であ〜る。

 事例1=夫婦で〈屁〉を語り合うこと(同調)を拒否された夫は無理やり嫌がる〈屁〉談義(露悪)をせざるを得なかったが、ついにインターネットのブログ開設という手順(競争)を踏んで外に〈屁〉を語り始めた。

 事例2=夫婦で〈屁〉をこき合うこと(同調)を拒否された夫は嫌がられながら屁こき(露悪)をせざるを得なかったが、ついにインターネットで〈屁〉の愛好会が開く競技会(競争)を見つけ参加するようになった。

 こういう事例をふまえれば、これまでながながと考察してきた「同調」「露悪」「競争」の位置づけがわかるのではないか。つまりは我々の〈屁〉の「快」というものの発展の経路がそこにあるのだ。

 ところで(またも話がそれる〜)、もともと動物の「快」は身体的に発生しているわけだが、人間の場合は観念的なものに肥大化している。キモチイイという心的現象になって、それは身体的なものからは半ば逸脱してしまうのである。そこではキモチイイは理念化され言語化され規範化され制度化されている。まあ、我々は日常一般にはキモチイイと言われているものをキモチイイと思っているわけなんだよねェ。

 そういう我々の観念的な「快」は身体的なものと必ずしも一致していないので、勝手に(身体はそうでもないのに)観念の「快」が暴走したり、あるいは逆に(観念はそうでもないのに)身体の「快」が暴走したりする。結果的にどちらも「快」なので見分けがつきにくいが、そのときの「快」が主に五感覚や内臓感覚の刺激に反応した身体から生まれたのか、それとも主に脳内に自発した刺激的な観念から生まれたのか、もともとの出自の違いがあるわけだ。

 例えば、肩を揉んで貰って凄く心地よいのは主に身体的なところからくる「快」であり、小説を読んで痛く感動するのは主に観念的なところからくる「快」である。しかし、脳に直接作用する魔性の薬物などは、処方や摂取という身体的な振る舞いを通して、脳内に過激に観念妄想を誘発し、刺激的な「快」の暴走を引き起こすこともある。ただこれは、身体と観念をいわば直接的にショートさせるような現象なので(薬物使用と同様に身体の)拷問(ただし、こちらは「苦」をもたらす)に等しい営為であ〜る。

 このようにみてくると、同調をあきらめて露悪に走り、競争で解決を企図する「快」というものの心的運動の中身は次のように考えられる。

 同調=〈屁〉をこき合って愉快→(身体=観念)
 露悪=〈屁〉をひりかけて愉快→(身体>観念)
 競争=〈屁〉を競い合って愉快→(身体<観念)

 同調は(他者との良好な関係の中で)身体からも観念からも逸脱しない心身合一状態の「快」である。これは原初的には身体が先行するので、もともと「快」は身体から出自しているわけである。

 露悪は(嫌がる、拒否する他者との関係の中で)自己の「快」を突出させている。これは観念(悪や恥などを意識したもの)を封じ込め身体(の快)を優先させている。もともと〈屁〉は身体的に自足する「快」なのである。

 競争は(張り合おうとする他者との関係の中で)ルールを設定して自己と他者の「快」の調整を図り共存をめざす。これは観念(自由平等や機会均等や規則基準や順位階級などを理念化したもの)を優先させて身体(の快)をランク付け(区分化)し納得し合っているのである。

 まあ一見、競争の〈屁〉はあからさまに競い合うというより、こき合って楽しむという同調の側面が強いように見えるかもしれないね。しかし、本来の同調には理屈(理論)などはない。同調では「いい屁」「悪い屁」「普通の屁」などの判断はないのである。ひたすら心身合一してこき合うだけだ。だから競争が同調(楽しんでいる快)に見えるときは、擬似的に同調をめざしているだけなのだ。

 いやまあ、もともとは壮絶な殺し合い(人間の究極の露悪)にすぎないものを、例えばオリンピックの熱狂(擬似的同調)へと再構成する壮大な理念化(観念への封じ込め)を見るなら、作られた競争というものの本質がわかるよねェ。

 かくして、愉快に〈屁〉を語るとすれば、同調、露悪、競争のそれぞれの段階において可能なのだね。しかし可能だとはいえ、そこに発現する我々の〈屁〉の「快」の構造は全く違うと知らねばならんのよ〜。


 補遺:競争を形成するルールとか約束のようなものは、正義とか正統とか公平とか平等とかが装われているだけで、そうあるわけではない。これに反発する露悪があったとして、露悪が一方的に非難される根拠はないのだ。競争の不当性と正当性は盾の両面の勢力争いのようなものだ。
 恥に関連して〈屁〉の同調については前に考察したことがある。そこでは〈屁〉と〈性〉を対比的に取り上げた。音成は〈性〉には究極の同調があると考えているのだが、どう考えても〈屁〉は究極の同調にも露悪にもならんのよ。なぜだかね。
posted by 楢須音成 at 21:16| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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