2009年07月18日

我慢できない〈屁〉とエチケット

 我々の〈屁〉は我慢できないときがあるものだね。粗相するときがある。まあ普段はだいたい制御できているのだから、そういうときは慌てる。突然〈屁〉は襲ってくるのだ。もちろん〈屁〉をした本人が慌てるばかりか、それを聞いた(嗅いだ)者だって慌ててしまうよねェ。

 自他のこういう不覚の〈屁〉に対する(日本人の)反応は(ア)クスクス笑う(イ)知らぬ顔をする―というものだが、要するに笑うか無視するかである。他人の屁に対するときの笑いには、バカにしてあざけるものから機嫌良く面白がるものまで、かなり振幅がある。無視するにしても、嫌悪し不快がってそうしているのか、同情して気の毒がっているのか、その沈黙にはいろいろな態度が潜むわけだ。そしてまた自分の不覚については、照れ笑いしたり、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだり、さらには恥じ入るという反応があるね。

 エチケット(節度ある態度)という観点から〈屁〉を観察してみると、我々は不覚の〈屁〉の前でさまざまな態度をとる。望もうと望むまいと何らかの振る舞いに及ばざるを得ないのだが、藤島茂の『トイレット監督』(1961年、文藝春秋新社刊)はまず、こう指摘している。
 放屁は生理現象ですけれども、人様の前では遠慮するのがエチケットでしょう。先日、七十ぐらいのしたしいご老人と一緒に並んで歩いていましたら、歩調と合わせて異様な音が周期的に出るので、ふしぎに感じたのですが、あとで考えてみると、老年になると肛門の括約筋がゆるんで、歩行などのショックで漏れることがあるらしいことに気がつきました。こういうのは、あながち責めるわけにはまいりませんが、どっちみち、あまり好ましいことではありません。ずいぶん昔のことですが、ある女性がお見合いの席で緊張のあまり、つい不覚をとったために、お見合いから帰るなり自殺をしたという話があります。これなぞは、まことに気の毒なことですが、あきらかにゆきすぎです。
 とにかく、だれしも思わず不覚をとることはあります。こういうときに日本では、周囲の人がよくクスクス笑いますが、これは本人を恥ずかしめるもので、ひじょうにエチケットに反します。なぜなら、本人が「困ったことだ。」と、心中では恥じいっているところへ、他人がまた笑うと、いっそう苦しい、不愉快な気持になるからです。なるべくそしらぬ顔をして、本人に気まずい思いをさせないのがエチケットです。また本人も、必要以上に恐縮したり、おどおどしたりして、あらためてクドクド弁解することもないでしょう。

 藤島はこのエッセイで不覚の〈屁〉のエピソードをいくつか紹介している。我慢できない〈屁〉がどういう振る舞いになるのか。それは状況によって違うわけだ。まあ〈屁〉のパターンとしてはいずれもどこかで目撃(あるいは体験?)した感じにはなるんだけどさ。エッセイから要約してみる。
(1)恋人同士で食事中に彼が突然ラッパの低音のような屁をした。彼は海外経験も豊富でエチケットをわきまえた人。彼らしくもない何事であろうかと洋子さんは驚愕し、逆に彼女の方がテレてもじもじしていると、彼は一言「失礼」と詫びた。彼は一向に悪びれた様子を見せず泰然自若としていた。(神経質で人一倍異性に対して非寛容な洋子さんだったが、その態度に彼女はなぜか少しもイヤな気がしなかった。このとき彼が見るも気の毒なほど赤面したり、弁解したら、百年の恋も一瞬にして冷めたかもしれない)

(2)Y家の由美子さんとM家の秀夫さんが見合いをした。お見合いは最初のことで本人たちはもちろん、両家の人たちも初対面。なかなか話が弾まず堅苦しい雰囲気のまま時間が経つ。気まずい状態に気をもんでいると、いきなり沈黙を破っておじいさんが放屁した。瞬間、秀夫さんと由美子さんの目が合い、それとともに周囲の緊張が急にやわらいでいくのを感じた。(その後スンナリとこの縁談はまとまった)

(3)R子さんがデートをした。彼女は彼に首ったけだったので緊張していたせいか、屁が出そうになった。ひどく狼狽して彼が何を話しかけようと馬耳東風。人込みならともかく、そこは静かな黄昏の神宮外苑。放屁の恐怖に気を取られているうちに手袋を落としてしまう。身をかがめて拾えば屁が出るのは間違いない。逡巡の末、とっさに「あ〜ら、どうしましょう。足がつっちゃったわァ」と雰囲気をぶち壊す大声を張り上げながら(屁をしつつ)手袋を拾った。(幸いにして屁はさとられなかった)

(4)緑さんはとても機知に富んだお嬢さん。そのお母さんは洋裁の先生で常に超多忙。そんな理由からか「世の中で自由になるのはおならだけ」と公言して、人様の前で平気で音をたてて放屁した。(意図しないときに出てくる屁なのだから、自由にしているというわけではないなのだが…)

 人生には危うい〈屁〉の一期一会があるわけだ。そこには、それぞれの危機をエチケットで幕引きする人たちがいて、かえって〈屁〉によって人と人との絆が深まるという意外な人生模様があるのだが、このなかで(4)だけは異質に見える。一期一会どころか、本来は抑止すべき〈屁〉をしたくなったらいつでもどこでも平気でするという開き直りになっているんだからねェ。

 その自由を公言する根拠とは「とても忙しい(ほかに何も自由にできることがない)のだから〈屁〉ぐらい許してよ」というもの。お母さんの心的運動は不覚の〈屁〉に伴う羞恥や罪悪感を無化する理屈付け(納得)だ。それによって無罪感を獲得しているわけだよ。まあ、不覚の〈屁〉を出るにまかせるのは単にお尻がだらしないだけの振る舞いなのだが、もっともらしい理屈を用意して羞恥や罪悪感を払拭するのは人間の常套手段だからね。非(屁)を根拠付ける理屈が立派(筋が通っている)なら、非(屁)は浄化されるのだ。ちょっとばかりの非なら許され、何と過大な非であっても酌量されるのであ〜る。(人を傷つけても同情に値する動機があれば、その罪が減じられる場合があるわけだよ)

 しかしまあ、この(4)のお母さんの理屈は屁理屈の部類だね。どんなに忙しかろうとそれは〈屁〉なのであり、他人が理屈を受け入れてくれなければ、やはり〈屁〉なのであるから。もちろん、お母さんは周りの人が屁理屈を受け入れてくれるほど説得力のある、凄いやり手で人格者だったのだろうけどね。だいたい強権者の屁理屈なら周りが許す(納得する)傾向にあるのはもっともな(?)事実だ。裸の王様の臣下たちのように屁理屈に納得する(ふりをする)のだ。

 では(4)以外のケースはどうか。(1)〜(3)ともに許されざるタイミングの(制御不能の)放屁であるが、屁の恥の隠蔽という観点からすれば、デート中に放屁する(3)も恥の隠蔽には違いないね。ただR子さんが、なりふり構わず大声を発し屁を隠蔽して(ごまかして)しまっている点は、屁を隠蔽しようとしない(4)とは異なる振る舞いだ。(…いるよな、こういう人)

 恥の隠蔽というなら、突然の自分の〈屁〉に泰然自若としている(1)もまた、恥の隠蔽のスタイルといえるだろうね。これは非(屁)に対する無視、無頓着で恥を隠蔽しているのだ。彼はなかなかの強者だ。ちょっとでもビビったらこうはいかぬぞ。こういう〈屁〉は女性をイチコロにする男のフェロモンのようなものだろう(か?)。

 一番に意味深な情景は(2)だろう。お見合いの本人同士はもちろんだが、家族と家族の心理のドラマが展開していると見なければならない。幸い状況は望む方へと成就していく。そこでは〈屁〉も恥も隠蔽されるわけではなく(というか、隠蔽のしようもなく)露出される。しかも、一族の年功序列の(その場の)最高位であるおじいさんの〈屁〉だ。この一発の振る舞いをどう受け取るか。ここはおじいさんの存在感(厳格な人なのか、ひょうきんな人なのか、ダラシナイ人なのか、おとなしい正直者なのか…などなど)が大きく左右すると思うねェ。また、一族の〈屁〉に対する許容度(接し方)というものもあるだろう。そして重要なのは、このとき本人や両家に、思いも寄らぬ〈屁〉のシグナルが交差したことではあるまいか。つまり〈屁〉を介して双方の相性の良さ(似たもの同士)が相互認識されたのであ〜る。(しかもこれは、双方が手を携えて危機対処の心的運動を実践したことなのだ。ともに危機を乗り越えた意味は深いよ)

 以上をまとめるとこうなる。
(1)大したことないかのように平然と振る舞って示す無頓着の態度表明=露出した屁の恥の隠蔽に成功
(2)失態という危機の緊張から解放までの心的過程の共有で確認する相性=露出した屁の功績化に成功
(3)関係のない大声や身ぶりを連発し大袈裟でなりふり構わぬ行動=露出する屁を隠し恥の隠蔽に成功
(4)許されないものを許されると強引に正当化する理屈で合理性を主張=露出する屁の恥の隠蔽に成功

 かくして不覚の〈屁〉は何とか対処次第でどうにかなる(か?)。まさに「必要以上に恐縮したり、おどおどしたりして、あらためてクドクド弁解することもない」のであ〜る。それがエチケット。自信ある?



posted by 楢須音成 at 10:17| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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