2009年07月01日

〈屁〉談義の怪談話はくさ〜

 わざとらしい語呂合わせの駄洒落がバカにされるのは〈屁〉についてもいえるわけだが、まあ、気の利いた語呂も出尽くしてしまい、繰り返す語呂にも限界が出てマンネリ(陳腐)になるから、チト苦しくなるのは仕方あるまい。

 しかし音成の贔屓目だが、同じバカバカしいにしても〈屁〉のギャグは、そこそこ味わい深いと思うんだけどねェ。バカバカしいなりに屁理屈や筋立に凝っている(ことが多い)し、どちらかといえば(単なる語呂合わせの連想もさることながら)あけすけに繰り広げる理屈や筋立(のバカバカしさ)が眼目という趣で可笑し味をばらまこうとしている。

 福富織部の『屁』に収録してある江戸の黄表紙『怪談模模夢字彙(かいだんももんじい)』(1803年)からの話。ホントまあ、くだらない屁話なんだけど、山東京伝の作である。
 今は昔、大蒜村(にんにくむら)に韮右衛門(にらえもん)といふ百姓ありけり。獨娘(ひとりむすめ)おならを掌中(しょうちゅう)の握りつぺと寵愛したるが、ふと病に冒され、水中の屁の如くぶくぶくとして果敢(はか)なくなりぬ。韮右衛門、此世は夢の中の屁の如しと悟り、道心して名を放屁坊(ほうひぼう)とかへ、屁國修行に出けるが、臭津(くさつ)の宿に行暮れて宿りけるが、芋のやうなる岩の中より、ブウブウといふ聲(こえ)響くとひとしく、黄金なる玉いくつとなく飛出で、その臭きこと、恰(あた)かもいたちの尻を枕にしたるが如し。是れへの玉といふものなりとぞ。此玉、いびつも細きも長きもあり、スラスラと立昇ること恰かも玉屋の花火の如し。そこで、放屁坊鼻をおさへ、「あゝくさいくさい、へくさいゑんめい、へない安全と來たわ」

 現代語でテキトーにまとめ直すとこういう感じ。
<概略>ニンニク村のニラエモンという百姓は一人娘おならを握り屁をつかむように溺愛していたが、娘は突然の病で、水中の屁が消えるようにはかなく死んでしまう。ニラエモンはこの世は夢の中の屁のようにはかないものだと悟り、仏門に入って放屁坊と名乗り屁国修行に。臭津の宿の芋みたいな岩の間から、イタチの尻を枕にでもしたように臭い臭い黄金の玉が、ブウブウ音をたて飛び出してくるのに遭遇。この屁の玉、いびつなもの、細いもの、長いものがあって、スラスラ立ち昇るさまは玉屋の花火。放屁坊必死で鼻をおさえて「うあぁ、くさ、くさー、こりゃ屁臭い延命、屁内安全ときたワ」

 これでもかこれでもかと〈屁〉に関連する連想が詰め込まれているね。使われている語を分類し吟味してみよう。

ニオイの原因になるもの
 ニンニク(屁のニオイってわけではないが臭い)
 ニラ(これも臭い)
 芋(これは屁のもと)
 イタチの尻(臭い最後ッ屁を放り出す危険な尻だ)

臭さを想起させる名前
 大蒜村(おおひるむらとかにも読める)
 韮右衛門(ホリエモンではない)

屁に直接ちなむ名前
 おなら(おとらとかありそうだが、おなら…)
 放屁坊(屁で道心したからってこういう名前でいいのか)

屁のはかなさの観察
 水の中の屁(ぶくぶく泡となり、はかなく消える)
 夢の中の屁(まあ手応えないわなあ)

屁の形容(見えない屁を視覚化、聴覚化)
 握りっ屁(てのひらで握り込んだ屁は臭い〜が定説)
 黄金玉(色はないのに黄金とはね)
 屁の玉(形は見えないのに細き、長き、いびつ)
 玉屋の花火(派手に天をめざす)
 ブウブウ(この音色はすぐに屁だとわかる)
 スラスラ(次々にスーラスッスッスー)

屁にちなむ語呂合わせ
 屁国(諸国)修行(無理やり言っている)
 臭津(草津)の宿(発音がいっしょ)
 屁の玉(火の玉)(言い間違いの部類)
 屁臭(息災)延命(熟語を知らんとピンとこない)
 屁内(家内)安全(同上)

 娘が死んで世をはかなみ、諸国修行に出かけたのだが、温泉で屁が吹き出す間歇泉に遭遇して鼻をおさえ、意味不明の錯乱した言葉を発する――という筋立を盛り立てるために、思い付く限り連発する連想や語呂合わせで読む者を引っ張っていこうとしているわけだ。これらひとつひとつの表現は誰でも知っている巷の陳腐な屁談義レベルに過ぎないが、そんなことはお構いなし。しかし、陳腐だろうが、何だろうが理屈と筋立(理屈の付いたストーリー。ここでは怪談話)に組み込まれて強引に可笑し味の結構を為しているのだ。

 表現が陳腐なら理屈と筋立もこれまた底抜けのバカバカしさだよねェ。娘の死で諸国修行に出かけるのはいいとして、クライマックスが何で臭津の(屁の)間歇泉なのさ。その出合いの驚きのピークは「うあぁ、くさ、くさー、こりゃ屁臭い延命、屁内安全ときたワ」と親父ギャグ。もはや作者からして娘のことなんかどこかに吹っ飛んでしまっているわ。まあ、それほどの〈屁〉のニオイの凄まじさってことになるのかもしれないが、この話の結構は終始一貫して〈屁〉のために〈屁〉を語るという姿勢である。

 まあ、どんなに高尚に語ったところで〈屁〉談義とはもともとこういう構造なのだし、陳腐でバカバカしくても〈屁〉そのものの可笑し味だけはしっかり残るんだよね。

 一言=世の中には、そういう〈屁〉を語ること自体を楽しむ奴もいるのです。あなたです。


posted by 楢須音成 at 00:00| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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