2009年07月01日

〈屁〉談義の怪談話はくさ〜

 わざとらしい語呂合わせの駄洒落がバカにされるのは〈屁〉についてもいえるわけだが、まあ、気の利いた語呂も出尽くしてしまい、繰り返す語呂にも限界が出てマンネリ(陳腐)になるから、チト苦しくなるのは仕方あるまい。

 しかし音成の贔屓目だが、同じバカバカしいにしても〈屁〉のギャグは、そこそこ味わい深いと思うんだけどねェ。バカバカしいなりに屁理屈や筋立に凝っている(ことが多い)し、どちらかといえば(単なる語呂合わせの連想もさることながら)あけすけに繰り広げる理屈や筋立(のバカバカしさ)が眼目という趣で可笑し味をばらまこうとしている。

 福富織部の『屁』に収録してある江戸の黄表紙『怪談模模夢字彙(かいだんももんじい)』(1803年)からの話。ホントまあ、くだらない屁話なんだけど、山東京伝の作である。
 今は昔、大蒜村(にんにくむら)に韮右衛門(にらえもん)といふ百姓ありけり。獨娘(ひとりむすめ)おならを掌中(しょうちゅう)の握りつぺと寵愛したるが、ふと病に冒され、水中の屁の如くぶくぶくとして果敢(はか)なくなりぬ。韮右衛門、此世は夢の中の屁の如しと悟り、道心して名を放屁坊(ほうひぼう)とかへ、屁國修行に出けるが、臭津(くさつ)の宿に行暮れて宿りけるが、芋のやうなる岩の中より、ブウブウといふ聲(こえ)響くとひとしく、黄金なる玉いくつとなく飛出で、その臭きこと、恰(あた)かもいたちの尻を枕にしたるが如し。是れへの玉といふものなりとぞ。此玉、いびつも細きも長きもあり、スラスラと立昇ること恰かも玉屋の花火の如し。そこで、放屁坊鼻をおさへ、「あゝくさいくさい、へくさいゑんめい、へない安全と來たわ」

 現代語でテキトーにまとめ直すとこういう感じ。
<概略>ニンニク村のニラエモンという百姓は一人娘おならを握り屁をつかむように溺愛していたが、娘は突然の病で、水中の屁が消えるようにはかなく死んでしまう。ニラエモンはこの世は夢の中の屁のようにはかないものだと悟り、仏門に入って放屁坊と名乗り屁国修行に。臭津の宿の芋みたいな岩の間から、イタチの尻を枕にでもしたように臭い臭い黄金の玉が、ブウブウ音をたて飛び出してくるのに遭遇。この屁の玉、いびつなもの、細いもの、長いものがあって、スラスラ立ち昇るさまは玉屋の花火。放屁坊必死で鼻をおさえて「うあぁ、くさ、くさー、こりゃ屁臭い延命、屁内安全ときたワ」

 これでもかこれでもかと〈屁〉に関連する連想が詰め込まれているね。使われている語を分類し吟味してみよう。

ニオイの原因になるもの
 ニンニク(屁のニオイってわけではないが臭い)
 ニラ(これも臭い)
 芋(これは屁のもと)
 イタチの尻(臭い最後ッ屁を放り出す危険な尻だ)

臭さを想起させる名前
 大蒜村(おおひるむらとかにも読める)
 韮右衛門(ホリエモンではない)

屁に直接ちなむ名前
 おなら(おとらとかありそうだが、おなら…)
 放屁坊(屁で道心したからってこういう名前でいいのか)

屁のはかなさの観察
 水の中の屁(ぶくぶく泡となり、はかなく消える)
 夢の中の屁(まあ手応えないわなあ)

屁の形容(見えない屁を視覚化、聴覚化)
 握りっ屁(てのひらで握り込んだ屁は臭い〜が定説)
 黄金玉(色はないのに黄金とはね)
 屁の玉(形は見えないのに細き、長き、いびつ)
 玉屋の花火(派手に天をめざす)
 ブウブウ(この音色はすぐに屁だとわかる)
 スラスラ(次々にスーラスッスッスー)

屁にちなむ語呂合わせ
 屁国(諸国)修行(無理やり言っている)
 臭津(草津)の宿(発音がいっしょ)
 屁の玉(火の玉)(言い間違いの部類)
 屁臭(息災)延命(熟語を知らんとピンとこない)
 屁内(家内)安全(同上)

 娘が死んで世をはかなみ、諸国修行に出かけたのだが、温泉で屁が吹き出す間歇泉に遭遇して鼻をおさえ、意味不明の錯乱した言葉を発する――という筋立を盛り立てるために、思い付く限り連発する連想や語呂合わせで読む者を引っ張っていこうとしているわけだ。これらひとつひとつの表現は誰でも知っている巷の陳腐な屁談義レベルに過ぎないが、そんなことはお構いなし。しかし、陳腐だろうが、何だろうが理屈と筋立(理屈の付いたストーリー。ここでは怪談話)に組み込まれて強引に可笑し味の結構を為しているのだ。

 表現が陳腐なら理屈と筋立もこれまた底抜けのバカバカしさだよねェ。娘の死で諸国修行に出かけるのはいいとして、クライマックスが何で臭津の(屁の)間歇泉なのさ。その出合いの驚きのピークは「うあぁ、くさ、くさー、こりゃ屁臭い延命、屁内安全ときたワ」と親父ギャグ。もはや作者からして娘のことなんかどこかに吹っ飛んでしまっているわ。まあ、それほどの〈屁〉のニオイの凄まじさってことになるのかもしれないが、この話の結構は終始一貫して〈屁〉のために〈屁〉を語るという姿勢である。

 まあ、どんなに高尚に語ったところで〈屁〉談義とはもともとこういう構造なのだし、陳腐でバカバカしくても〈屁〉そのものの可笑し味だけはしっかり残るんだよね。

 一言=世の中には、そういう〈屁〉を語ること自体を楽しむ奴もいるのです。あなたです。


posted by 楢須音成 at 00:00| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月05日

みんなのヘデオロギー

 こころやおしりをひらっきっぱなしというわけではないにしてもにんげんはたえずにおいをはなっているものだ。そのほしではそれをへとよんでいる。

 しかしまあなんというかへがくさいとかくさくないというのはたぶんにきのせいらしい。なのにおまえのへがくさいといっぽうてきにしゅちょうするこころのうんどうをヘデオロギーというんだな。

 ひとはみなじぶんのへは(それほど)くさくないとおもっているわけだがもちろんあいするひとのへもくさくないのである。だからヘデオロギーというにんげんのふるまいにはじぶんをちゅうしんにしてあいをさけぶせかいかんがあるのだ。

 そりゃまあへがくさいのはおたがいさまだろう。たにんのへがなぜくさいのかといえばかれがじぶんのなかまではないからだ。つまりなかまとはへがおなじにおいということなのだ。そしてにおいがおなじということはにおいがないこととおなじである。これこそがヘデオロギーのいちばんのとくちょうといえるだろうさ。

 われわれはこういうヘデオロギーのとりこになってへがくさいやつをけぎらいしてにくむのだ。くさいのはきのせいだなんてぜったいにおもわない。ほんとうにくさくかんじる。すくなくともじぶんのへよりそのひとのへはくさいのである。あいてによってはきぜつするほどくさいのであるよ。

 むちのくにおちゃんのヘデオロギーはあほのたろうちゃんにむけられていた。もちろんたろうちゃんのヘデオロギーはくにおちゃんにむけられている。ということはくにおちゃんはたろうちゃんのへがくさい。たろうちゃんはくにおちゃんのへがくさいのだ。もともとふたりはなかのよいなかまだったのだがあるひとつぜんへがくさくなってしまったのである。

 あほのたろうちゃんはいじめっこのせんぱいのよしちゃんにつかまってしまったのだ。たろうちゃんはくにおちゃんといっしょにつくったりゅうせいのけんをよしちゃんにむりやりうばわれてしまった。よしちゃんはじぶんのゆうせいのけんをたろうちゃんにおしつけた。あほのたろうちゃんはしかたなくりゅうせいのけんのかわりにゆうせいのけんをふりまわすことにしたのだ。

 これがいけなかったね。りゅうせいのけんはせいぎのしょうちょうだがゆうせいのけんはじゆうのしょうちょうだ。くにおちゃんはじゆうなんかよりずっとずっとせいぎがすきだったのだ。このときからたろうちゃんとくにおちゃんのあいだのヘデオロギーのへんしつがはじまっていた。

 わかものがねっしんにけんのうでまえをみがくのはけんしのなつのたいかいにしゅつじょうするためである。たいかいはでんせつのけんせいたけぞうのせいけんをめぐってあらそう。たけぞうのせいけんをだっしゅしたものこそほんとうのけんしなのだ。なつのたいかいはほんまつグループのけんしがにんきだった。ほんまつグループにはきょうごうけんしのよびごえたかいずるのいちろちゃんやあいのゆきおちゃんがいてひょうばんになっていた。それにひきかえ(なかまわれしそうな)てんとうグループのあほのたろうちゃんやむちのくにおちゃんはにんきのほどがいまひとつ。

 ずるのいちろちゃんはだいじなじぶんのおそまつのけんをおってしまったのでゆきおちゃんのゆうあいのけんをひとふりもらってのりかえていた。ほんまつグループはゆうあいのけんでしっかりまとまっていた。ほんまつグループはせいけんをめざしてゆうあいでだんけつしているのだよ。だからすこしばかりなかまのへがくさくてもがまんする。しかしゆきおちゃんはいみふめいのあいのけんけつをやりすぎてしんこくなひんけつにおちいっていた。せとぎわのたいりょくかいふくにこれつとめているんだよねえ。

 いっぽうあほのたろうちゃんがまとめるてんとうグループはゆうせいのけんとりゅうせいのけんのしゅうだんにぶんれつしてあらそいがはじまっているんだよ。そしてとなりにいるなかまのへがすこしでもくさいとおおさわぎしておこりだすのだった。たろうちゃんはおまいらいいかげんにせーよとおもいつつもぶんれつのかちゅうでひたすらはなをふさいでにんにんのこどくをあじわうのだった。

 グループないのヘデオロギーとグループかんのヘデオロギーがからまりあってけんしのなつのたいかいはうだるねっきとはなのもげそうなにおいにつつまれてそうぜんとしてきた。けんしたちはひっしのぎょうそうでたたかいにとつにゅうしていくのであった。たいけつまぢかのゆきおちゃんとたろうちゃんがやがてそこにくるだろう。

 けっしょうせんのふたりのへがきわだってくさいのはとうぜんだろうね。かいじょうにいるぜんいんがふたりのにおいをむんむんとかんじながら「くさいぞくさいぞくさいぞお」とさけぶだろう。そしてあいてのへがくさいということのしょうめいはじぶんのへがくさくないことのしょうめいなのだ。ふたりのけんはあいてのきゅうしょであるよわりめやたたりめにきびしくうちおろされることひつじょうだ。

 しょうぶのゆくえはどうなるのかね。かいじょうをおおうヘデオロギーがしぶんごれつしてでんぱしていくさまはそうかんだろうねえ。ヘデオロギーのカオスはすべてのにんげんのしゅくめいでありかつりょくのげんせんなのだ。あほらし。
ラベル: ヘデオロギー
posted by 楢須音成 at 06:34| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月11日

スカンクの屁と人間の〈屁〉

 あんまり臭い〈屁〉をするとスカンク(みたいな奴だ)と指弾されることもある。人間の〈屁〉は物体的には(悪臭透明の)気体だから一般には屁といえば気体の認識なのだが、スカンクの屁は気体ではない。人間の〈屁〉とは本質的に違うものなのだ。

 福富織部の『屁』にスカンクの屁の解説がある。
 鼬(いたち)の一種で最もはげしい放臭をもつてゐるのは、歐米のスコンクである。殊(こと)に北米のスコンクは、其の肛門腺が非常に發達して居り、敵が近接すれば、忽(たちま)ち尾を擧(あ)げて己れの存在を示し、近接する強敵があれば、如何にも『毒瓦斯を發散するぞ』と云はんばかりの姿勢を取る。つまりスコンクの擧尾とK白の體斑(たいはん)とは廣告標となる。その臭氣は十町(約1キロ)内外に達し、これに觸(ふ)れると、臭氣は少なくとも一ヶ月間は臭つて居る。其の臭液は仲々強き粘着性のもので、容易に取れない。一度其の臭液が附着すれば、少なくも、一週間は人と交際が出來ない位に臭ふのである。それが皮膚に附着すれば、一種火傷を受けた樣に疼痛を感ずる。其の體毛(たいもう)は所謂警戒色で、K色と白色の斑(まだら)をなし、如何にも目立つのである。彼れは悠然として闊歩して、他の動物に追はれても倉皇(そうこう=あわてる)として逃ぐる事はない。大なる尾を高く擧げて、追撃者に向つて其の臭液を發射する。三間(約5・5メートル)位迄は發射液が正確に達する。猛禽若(もし)くは猛獣の子供は初めは此のスコンクを追わないものはないが、一度其の臭液を發射せられた經驗を得れば、彼れは其の後、決して追撃する事はない。彼れは其の臭液を有するが故に、己れの存在を強敵に知らせ、其の近接を防ぐのである。恰(あたか)も蜘蛛が強敵に逢へば、己れの巣網を動揺し、弱き昆蟲が來れば毫も動かず、其の掛るのを待つているのと同樣である。此の他馬來(マレーシア)には臭狸(ラクーン)が居る。其の臭液を發射する距離は僅(わず)か一尺七寸(約50センチ)であるが、其の習性は正に前述のスコンクと同樣である。

 この記述は現代の百科事典と比べても基本的に遜色はないものだ。スカンクの屁の目的と機能はきちんと押さえている。

 人間とスカンクの屁を比べてみるとこうなるね。

スカンクの屁=液体(残留性高)/随意/外的脅威に対抗するため放出させる/攻撃は最大の防御
人間の屁=気体(残留性低)/不随意/外的にも内的にも脅威なので隠蔽する/制御の不能は自爆

 要するに、人間とスカンクでは、目的も機能性もゼンゼン違うものなのだ。スカンクの屁は我が身を守る「武器」だが、人間の屁は、意味のある目的や(それを遂行する)機能性はない。それどころか存在自体がやっかいな無用ものなのだ。

 だからスカンクについては、それを人間の〈屁〉のように「屁」と呼ぶのは間違いということになるわけだね。

スカンクの(屁のような)臭液=威嚇攻撃の身体機能
人間の屁=目的はなく(隠蔽したい)無用の身体機能

 動物の原始的な情動の背景からみれば、スカンクの(臭液の)放臭には「恐怖」が潜み、人間の放屁には「羞恥」が潜むと観察される。ただし、スカンクでは恐怖があるから放臭が行われるのだが、人間では屁が出てしまうから羞恥が発現する。

 人間の腸内からは目的もわからぬまま、屁とその脅威(恥ずべきものという威嚇観念)がどうしようもなく発生して、心的に居座ってしまうわけさ。

 スカンクと同様に肛門腺から臭液を発射して、危機を回避しようとする動物はイタチなどもそうだ。また、ヘヒリムシと呼ばれるミイデラゴミムシなどの昆虫類も、外からの脅威に肛門から黄色い霧状の臭いガスを発射する。昆虫には恐怖のような情動はないのかもしれないが、危機を察知するとストレートに身体反応を示すのだ。このような動物から昆虫まで生物界を見渡してみれば、人間の〈屁〉というものは極めて観念的な存在になってしまっていることがわかるねェ。

 とはいえ、音成は動物と人間のあるひとつの共通点に着目しているのであるよ。スカンクなどの臭液の主成分とされるのがブチルメルカプタン(C4H9SH)だ。化学式からわかるように硫化水素系の化合物なのである。これは糞便臭の主たる起源となる物質なのだ。屁においてもニオイの主成分は微量の硫化水素(H2S)、メチルメルカプタン(CH4S)などとされていて、水素と硫黄を含んだ物質のニオイが主たる起源になっている。

 生物が放つ悪臭は、この硫化水素系(糞便臭系)が大きな部分を占めると思われるねェ。例えば死体の腐敗臭だってもとを辿れば、究極の硫化水素系(糞便臭系)なのではないか。我々の身体(細胞)には陰に陽にさまざまに硫化水素系の(悪臭のもとになる)物質が働きかけて機能しているのではないか。福富織部の『屁』ではこういう指摘が続く。
 總(すべ)て猛禽でも猛獣でも嬲(なぶ)り殺しにされる場合には悪臭を發散する。それが為めに敵の食物とならないのである。野兎でも一度手負になしたるものは、其の肉に一種の惡臭を帯びて來る。鳥でも鳶でも鷲でも、其の肉は常に一種の臭氣を持つて居る。鶏も嬲り殺しにすれば、一種生臭き臭氣が現はれて來る。故に猛禽でも猛獣でも食肉類は、追撃して餌を捕食するよりも、不意に飛び掛つて直ちに殺すといふ性能を有して居る。之れ蓋(けだ)し臭液の體内(たいない)に行き渡るの閑暇を被食動物に與(あた)えない為めである。

 かくして身体現象の背後に硫化水素系の物質が働いているのを推測するわけなのだ。屁は身体機能の何らかの積極的な目的も機能もないように見えるのだが、それでも、やはり硫化水素系という身体の衣鉢は継いでいる放出物質なのであ〜る。

 屁が強力に機能しているのは多分に、我々に及ぼす心的な影響力だね。制御しにくい(できない)とか、恥ずかしい(恥だ)とか、隠蔽したい(できない)とかの結果、そのとき屁は〈屁〉となって我々に心的な葛藤を発生させる。そうやって単なる物質を超えてしまっている。

 スカンクやイタチだって肛門腺の臭液ではなく、腸内にガスは発生するだろう。それが放出されたとしたら、それこそは屁だろうが、人間の〈屁〉とは精神性が違うわけだよね。スカンクやイタチにとって、腸内ガスである屁は意識する意味のない(空気のような)現象にすぎないのだ。

 それにしても硫化水素という毒性の強い超危険物質が〈屁〉を介して人間の精神に遠隔的な影響を及ぼしていると考えると、それこそ深い危険の香りといえる(かな?)。

 ところで、スコンクなのかスカンクなのか。スペルの「skunk」を日本語でスコンクと発音すれば(今では使わないが)野球などで無得点で負けること。シャットアウトのことだ。このスコンク(skunk)と動物のスカンク(skunk)はもともと語源も発音も同じである。
posted by 楢須音成 at 08:53| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月18日

我慢できない〈屁〉とエチケット

 我々の〈屁〉は我慢できないときがあるものだね。粗相するときがある。まあ普段はだいたい制御できているのだから、そういうときは慌てる。突然〈屁〉は襲ってくるのだ。もちろん〈屁〉をした本人が慌てるばかりか、それを聞いた(嗅いだ)者だって慌ててしまうよねェ。

 自他のこういう不覚の〈屁〉に対する(日本人の)反応は(ア)クスクス笑う(イ)知らぬ顔をする―というものだが、要するに笑うか無視するかである。他人の屁に対するときの笑いには、バカにしてあざけるものから機嫌良く面白がるものまで、かなり振幅がある。無視するにしても、嫌悪し不快がってそうしているのか、同情して気の毒がっているのか、その沈黙にはいろいろな態度が潜むわけだ。そしてまた自分の不覚については、照れ笑いしたり、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだり、さらには恥じ入るという反応があるね。

 エチケット(節度ある態度)という観点から〈屁〉を観察してみると、我々は不覚の〈屁〉の前でさまざまな態度をとる。望もうと望むまいと何らかの振る舞いに及ばざるを得ないのだが、藤島茂の『トイレット監督』(1961年、文藝春秋新社刊)はまず、こう指摘している。
 放屁は生理現象ですけれども、人様の前では遠慮するのがエチケットでしょう。先日、七十ぐらいのしたしいご老人と一緒に並んで歩いていましたら、歩調と合わせて異様な音が周期的に出るので、ふしぎに感じたのですが、あとで考えてみると、老年になると肛門の括約筋がゆるんで、歩行などのショックで漏れることがあるらしいことに気がつきました。こういうのは、あながち責めるわけにはまいりませんが、どっちみち、あまり好ましいことではありません。ずいぶん昔のことですが、ある女性がお見合いの席で緊張のあまり、つい不覚をとったために、お見合いから帰るなり自殺をしたという話があります。これなぞは、まことに気の毒なことですが、あきらかにゆきすぎです。
 とにかく、だれしも思わず不覚をとることはあります。こういうときに日本では、周囲の人がよくクスクス笑いますが、これは本人を恥ずかしめるもので、ひじょうにエチケットに反します。なぜなら、本人が「困ったことだ。」と、心中では恥じいっているところへ、他人がまた笑うと、いっそう苦しい、不愉快な気持になるからです。なるべくそしらぬ顔をして、本人に気まずい思いをさせないのがエチケットです。また本人も、必要以上に恐縮したり、おどおどしたりして、あらためてクドクド弁解することもないでしょう。

 藤島はこのエッセイで不覚の〈屁〉のエピソードをいくつか紹介している。我慢できない〈屁〉がどういう振る舞いになるのか。それは状況によって違うわけだ。まあ〈屁〉のパターンとしてはいずれもどこかで目撃(あるいは体験?)した感じにはなるんだけどさ。エッセイから要約してみる。
(1)恋人同士で食事中に彼が突然ラッパの低音のような屁をした。彼は海外経験も豊富でエチケットをわきまえた人。彼らしくもない何事であろうかと洋子さんは驚愕し、逆に彼女の方がテレてもじもじしていると、彼は一言「失礼」と詫びた。彼は一向に悪びれた様子を見せず泰然自若としていた。(神経質で人一倍異性に対して非寛容な洋子さんだったが、その態度に彼女はなぜか少しもイヤな気がしなかった。このとき彼が見るも気の毒なほど赤面したり、弁解したら、百年の恋も一瞬にして冷めたかもしれない)

(2)Y家の由美子さんとM家の秀夫さんが見合いをした。お見合いは最初のことで本人たちはもちろん、両家の人たちも初対面。なかなか話が弾まず堅苦しい雰囲気のまま時間が経つ。気まずい状態に気をもんでいると、いきなり沈黙を破っておじいさんが放屁した。瞬間、秀夫さんと由美子さんの目が合い、それとともに周囲の緊張が急にやわらいでいくのを感じた。(その後スンナリとこの縁談はまとまった)

(3)R子さんがデートをした。彼女は彼に首ったけだったので緊張していたせいか、屁が出そうになった。ひどく狼狽して彼が何を話しかけようと馬耳東風。人込みならともかく、そこは静かな黄昏の神宮外苑。放屁の恐怖に気を取られているうちに手袋を落としてしまう。身をかがめて拾えば屁が出るのは間違いない。逡巡の末、とっさに「あ〜ら、どうしましょう。足がつっちゃったわァ」と雰囲気をぶち壊す大声を張り上げながら(屁をしつつ)手袋を拾った。(幸いにして屁はさとられなかった)

(4)緑さんはとても機知に富んだお嬢さん。そのお母さんは洋裁の先生で常に超多忙。そんな理由からか「世の中で自由になるのはおならだけ」と公言して、人様の前で平気で音をたてて放屁した。(意図しないときに出てくる屁なのだから、自由にしているというわけではないなのだが…)

 人生には危うい〈屁〉の一期一会があるわけだ。そこには、それぞれの危機をエチケットで幕引きする人たちがいて、かえって〈屁〉によって人と人との絆が深まるという意外な人生模様があるのだが、このなかで(4)だけは異質に見える。一期一会どころか、本来は抑止すべき〈屁〉をしたくなったらいつでもどこでも平気でするという開き直りになっているんだからねェ。

 その自由を公言する根拠とは「とても忙しい(ほかに何も自由にできることがない)のだから〈屁〉ぐらい許してよ」というもの。お母さんの心的運動は不覚の〈屁〉に伴う羞恥や罪悪感を無化する理屈付け(納得)だ。それによって無罪感を獲得しているわけだよ。まあ、不覚の〈屁〉を出るにまかせるのは単にお尻がだらしないだけの振る舞いなのだが、もっともらしい理屈を用意して羞恥や罪悪感を払拭するのは人間の常套手段だからね。非(屁)を根拠付ける理屈が立派(筋が通っている)なら、非(屁)は浄化されるのだ。ちょっとばかりの非なら許され、何と過大な非であっても酌量されるのであ〜る。(人を傷つけても同情に値する動機があれば、その罪が減じられる場合があるわけだよ)

 しかしまあ、この(4)のお母さんの理屈は屁理屈の部類だね。どんなに忙しかろうとそれは〈屁〉なのであり、他人が理屈を受け入れてくれなければ、やはり〈屁〉なのであるから。もちろん、お母さんは周りの人が屁理屈を受け入れてくれるほど説得力のある、凄いやり手で人格者だったのだろうけどね。だいたい強権者の屁理屈なら周りが許す(納得する)傾向にあるのはもっともな(?)事実だ。裸の王様の臣下たちのように屁理屈に納得する(ふりをする)のだ。

 では(4)以外のケースはどうか。(1)〜(3)ともに許されざるタイミングの(制御不能の)放屁であるが、屁の恥の隠蔽という観点からすれば、デート中に放屁する(3)も恥の隠蔽には違いないね。ただR子さんが、なりふり構わず大声を発し屁を隠蔽して(ごまかして)しまっている点は、屁を隠蔽しようとしない(4)とは異なる振る舞いだ。(…いるよな、こういう人)

 恥の隠蔽というなら、突然の自分の〈屁〉に泰然自若としている(1)もまた、恥の隠蔽のスタイルといえるだろうね。これは非(屁)に対する無視、無頓着で恥を隠蔽しているのだ。彼はなかなかの強者だ。ちょっとでもビビったらこうはいかぬぞ。こういう〈屁〉は女性をイチコロにする男のフェロモンのようなものだろう(か?)。

 一番に意味深な情景は(2)だろう。お見合いの本人同士はもちろんだが、家族と家族の心理のドラマが展開していると見なければならない。幸い状況は望む方へと成就していく。そこでは〈屁〉も恥も隠蔽されるわけではなく(というか、隠蔽のしようもなく)露出される。しかも、一族の年功序列の(その場の)最高位であるおじいさんの〈屁〉だ。この一発の振る舞いをどう受け取るか。ここはおじいさんの存在感(厳格な人なのか、ひょうきんな人なのか、ダラシナイ人なのか、おとなしい正直者なのか…などなど)が大きく左右すると思うねェ。また、一族の〈屁〉に対する許容度(接し方)というものもあるだろう。そして重要なのは、このとき本人や両家に、思いも寄らぬ〈屁〉のシグナルが交差したことではあるまいか。つまり〈屁〉を介して双方の相性の良さ(似たもの同士)が相互認識されたのであ〜る。(しかもこれは、双方が手を携えて危機対処の心的運動を実践したことなのだ。ともに危機を乗り越えた意味は深いよ)

 以上をまとめるとこうなる。
(1)大したことないかのように平然と振る舞って示す無頓着の態度表明=露出した屁の恥の隠蔽に成功
(2)失態という危機の緊張から解放までの心的過程の共有で確認する相性=露出した屁の功績化に成功
(3)関係のない大声や身ぶりを連発し大袈裟でなりふり構わぬ行動=露出する屁を隠し恥の隠蔽に成功
(4)許されないものを許されると強引に正当化する理屈で合理性を主張=露出する屁の恥の隠蔽に成功

 かくして不覚の〈屁〉は何とか対処次第でどうにかなる(か?)。まさに「必要以上に恐縮したり、おどおどしたりして、あらためてクドクド弁解することもない」のであ〜る。それがエチケット。自信ある?

posted by 楢須音成 at 10:17| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

〈屁〉が放つ貴種流離譚がある〜

 いわゆる貴種流離譚(折口信夫の命名)は身分の高い貴人が試練となる流浪の末に苦難を克服し、尊い地位を獲得するというものだ。説話のパターンとして、なぜかこのパターン化は日本人の心をとらえるようだね。まあ、例えば「かぐや姫」なんかもそういうモチーフで解釈ができるわけである。

 我々がよく「可愛い子には旅をさせろ」というのは親が意図して(教育の)試練を与えるのだが、貴種流離譚では意図せざる運命によって(余儀なく)試練に投げ込まれる。最後は(ほとんど)ハッピーエンドとはいえ、その根底には、不可避にして過酷な運命を受け入れざるを得ない(究極の人生を想像する)リアル感があると思うね。

 柳田国男の『海南小記』(1921年)に「久高の屁」という民話が紹介されている。これは柳田の語り口で語られている。(久高島は沖縄本島知念岬の東海上にある島)
 東西古今の屁の文献の中で、哀絶また艶絶なるものが久高(くだか)の島に残っている。久高では外間の根人(ねびと)真仁牛(まにうし)に、女の同胞が二人あった。姉の於戸兼(おとがね)は外間の祝女(のろ=女性の神職)で、島の御嶽(うたき=聖地)のお祭りに仕えていた。妹の思樽(うみたる)は巫女であった。首里に召されて王城の巫女となり、日夜禁中に住んで神の御役を勤めているうちに、国王の御心にかないすなわち入って内宮の人となった。性貞静にして姿は花よりも更に美しかったゆえに、一人の寵愛と幾多の恨み嫉(ねた)みと、ことごとくこの君の身に集まり、宮中の眼を峙(そばた)てて物言い交わす友とてはなかったところに、どうした悪い拍子であったか、多勢のいる中で、とんでもない不調法な音がしたそうである。

 神に仕える家柄の巫女から王に召され、寵愛を独り占めするほどの抜きん出た貞淑さと美貌。そういう女性だって〈屁〉をするのだ。あまりの完璧さに周囲の嫉妬が沸点に達しているときのブザマなアクシデント。まさに運命としか言いようがないね。

 そもそも〈屁〉なんぞ人生に何の意味があるのかわからない代物だ。わからないながら、一発の〈屁〉が確実に人生をぶち壊すことがある。破壊の根拠を与えてしまうのだ。

 一発の〈屁〉の失態にここぞと周囲は驚喜し嘲笑した。我々の〈屁〉は完璧には制御できないから恐いのである。ついに思樽は耐えかねて暇を賜り故郷に戻ってしまうが、久しからずして王子を生む。名前を思金松兼(おもいがねまつがね)と付けた。父を失う不運を母の〈屁〉で招いた王子の誕生である。
 思金松兼八歳の童子となって、日夜にわが父は誰ぞと母に尋ねたもう。人は皆父ありて生まるるに、我ばかり母一人の子という道理はない。必ずこれを匿(かく)さるるならば、生きても味気なしと食事を絶って、憤りかつ哭(な)いて御責めあるゆえに、是非もなく昔の宮仕えのつらかった日の話をした。さりながら田舎のはてに人となりたもうも御運である。とても都に出て、父の王と御名乗りかわしはかなうまい。詮もない素性語りをしなかったのもそのためと、あながちに諌め申されたが、王子はこれに耳をも掛けず、ただちに伊敷泊(いしきどまり)の浜に出て、七日の間東を向いて神々に祷(いの)られた。
 その七日目の夜明け方に、沖の方から光り輝いて寄って来る物がある。衣の袖を展(の)べ掬(すく)い取って見ると、不思議や黄金の瓜(うり)であった。

 王子は黄金の瓜を懐にはるばる首里をめざす。王城の門に立って父である王との対面を(子であることは隠して)申し出る。願いはかなう。
(中略)髪は赤く衣は粗く姿はしかも気高い童子が、かくかくの次第と聞こし召して、何事の願いぞと御前近く呼び上げたもうに、懐中よりかの黄金の瓜を取り出し、これはこの国家の宝、天甘雨(=慈雨)を降し沃土すでに潤うの時、かつて屁をしたことのない女をして、この種を播かしめたもうものならば、繁茂して盛んに実を結ぶべしと申し上げた。国王大いに笑いたまい、そんな女がこの世にあろうかと仰せられる。しからば屁で御咎めを受ける者もないはずと、まず御心を動かし奉る。やがて内院に左右の人を遠ざけ、御尋ねによって詳しく久高の母が歎きを言上した。この王、他の御子とてはなかったゆえに、後に思金松兼を世子(=世継ぎ)と定めたまい、ついに王の位に登って百の果報を受けたもうと語り伝えている。

 貴種流離譚の中でも〈屁〉が原因の流離というのはいささか突飛なものだろうが、この話をまとめてみるとこうなる。

(1)発端:神職の家柄の巫女が王の内宮に入って寵愛を受けるが、人の面前で〈屁〉を粗相して恥じ入り、自ら身を引いて故郷に帰り、ひっそりと王子を生む。
(2)探究:八歳になった王子は父がいない自分の境遇に謎を感じ、母を問い詰めて真実を知る。父王に会おうと浜に出て神々に祈り、光り輝く黄金の瓜を得る。
(3)覚醒:王子は父王に会い、黄金の瓜によって、この世に〈屁〉をしない女などいないこと、人は〈屁〉で断罪されるものではないことを悟らせる。
(4)認知:父王は我が子と知った王子から、その母の歎きを聞く。
(5)回復:後に王子は世継ぎとなり、ついに王となる。

 島の御嶽、祝女、祭り、美しい巫女、王城、宮中、神々、黄金の瓜、百の果報などなど、散りばめられている物語を構成する要素には霊妙な神性や宮殿の絢爛さが満ちている。不調法な〈屁〉がいかに恥ずかしいものであるかも、ここに際立つわけだ。まして周りがあしざまに囃し立てるとなれば。

 こういう不覚の〈屁〉はしばしば女性に不幸をもたらしている。佐藤清彦の『おなら考』(1994年、青弓社刊)にはこういう話が紹介してある。

 ある武士の娘がお茶会でかわいい音を鳴らしてしまった。周りは心優しく知らぬふりをしていたが、会が終わってもその娘だけ起ち上がらない。娘は姿勢を変えることなく舌をかみ切って死んでいた――というのである。佐藤はこれをつくり話だとしている。いくら武家の娘とはいえ、舌をかみ切って不動のまま死ぬなど話ができすぎているからだ。しかし、この話が伝えていることは、武家の娘には人前での〈屁〉は死に価するほど恥ずかしいことだったのだと指摘している。

 ここで深読みすれば、そのときの恥が死にまで至らない「久高の屁」の場合には、やはり子どもを身ごもっているということが伏線になっているだろうね。そこから恥を忍ぶ母と子の流離の運命が始まるのだ。

 王子が真実を知り、神に祈って得た黄金の瓜は象徴的な実体だ。なぜ神は瓜を与えたのだろうか。黄金はそれだけで宝だが、黄金の瓜は国家の宝だと強調される。なぜなら〈屁〉をしたことがない女が種を播けば繁茂して実を結ぶという、あり得ない話の種になっているわけなのだ。そして、その話の種がきっかけになり、王子と母は果報を得る。ついには王子は王になり百の果報を得るのである。

 まあこれは逆説的に〈屁〉をした王子の母が黄金の瓜を育て、王族の継承と繁栄をもたらした話なんだよねェ。この流離譚の劇的な円環が〈屁〉によって社会(や世間)と人間の関係を構造化しているとみれば、ここには〈屁〉というもののしたたかな存在感があるではないか。ははは、牽強付会と言うなかれ。つまり〈屁〉は人間界に不可避に現象して喜怒哀楽を醸し、その天国(聖)と地獄(汚)は人生流離の運命を象徴する(こともある〜)。恥にまみれた〈屁〉こそは黄金の瓜(であって欲しいという希求そのもの)なのだ。

 こういう話は背景をなす共同体の階級性(支配構造)を抜きにしては語れないだろうが、貴種(貴人)がもてはやされる風土には、神やその世界秩序への畏怖が浸透し潜在している。本物の貴人は神に近い人たちなのである。

 一言=そういう貴人だって〈屁〉をするさ。でも選ばれし者のそれは黄金の瓜なのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 07:11| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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