2009年06月03日

男と女の〈屁〉のためらい

 我々にはしばしば〈屁〉を語ることをためらう姿勢がある――前回そういう事態を「言訳」として指摘してみたのだが、もう少し事例を集めてみようではないか。つまり、この〈屁〉のためらいには「黙殺」または「無視」というスタイルもあるのだよ。それは特に女性に顕著であ〜る(かな?)。

 才気ある女性ライターのエッセイでも下(半身)ネタはテーマになるのだから、当然〈屁〉が登場してもいいはずだ。それなのに探してみると(いやいや、それほど探したわけではないのだが)意外にないのである。酒井順子の『トイレは小説より奇なり』(1995年、集英社刊)にはトイレをテーマにまとめた何編かがあるものの、屁の一字も出てこないのだ。おしっこ、便器、トイレットペーパー、鼻水、便秘、ウンチなどを散りばめながら、なぜこうも見事に〈屁〉を黙殺しているのか。
 人生の縮図、という言い方がありますが、私はトイレこそが人生だの、性格だの、民族だのの縮図なのではないかと思います。トイレには性の別も現れます。男と女の特徴が、これほどよく現れる場所はありません。トイレは小説より、面白い。そう思います。
(中略)
 日本の女性は、便器に座り、おしっこをすると同時に、おもむろに水洗レバーを押すという習性を持っています。そして、おしっこが終ってトイレットペーパーを使用したら、あらためてもう一度流す。つまり、一回の排尿につき、二回流すのです。
 これはなぜか。女性は、自分のおしっこの音を他人に聞かれることを好みません。
 「私は今、おしっこをしています」
 という事実があからさまになることを、極端にいやがるのです。

 エッセイの冒頭で人生の縮図とまで書き出し、おしっこの音にこれだけこだわっている。なのに、以後一切〈屁〉に触れることもないのはどうしたことか。例えば男の場合は、トイレ談義の最中にこういう一節を入れてしまうことにゼンゼンやぶさかでない。漫画家の久里洋二が10枚ほどのエッセイの中で〈屁〉を語るのはたったこれだけながら、とっておきのエピソードをさらり。それまで延々と世界のトイレとウンコの体験を語っていたのだが、いきなり〈屁〉を思い出したのだろう。
 洋式便所は、オナラをすると、ウワーンとラッパのように響く。隣の部屋に聞こえるほどの音だ。フランスのホテルに泊った時は、隣室のマダムに睨まれた。ぼくのオナラの音で、彼女は眠れなかったのだろう。
(「クソ死すと…」1974年『面白半分』9月号掲載)

 ささやかなトイレの悪戯というわけだが、面白がって何発もぶっ放したんだろうなあ。ともあれ、男はこのように書く(ことが多い)のである。もちろん普通は、トイレで赤の他人に〈屁〉の音など聞かれたくはない(隠したい)が、糞尿やトイレを語るのだったら、書くのをためらうほどのものではないわけ(よねェ?)。

 しかるに、この『トイレは小説より奇なり』には一切〈屁〉がない。話題にすらなっていないんです。奇なり!

 前に紹介した清水ちなみの『おしりの秘密』(1995年、飛鳥新社刊)という本では、女性の痔の血みどろの苦労(苦悩)が詳しくまとめられていたが、ここでも〈屁〉はついに登場しなかった。いや、らしきものとしては「風が吹いても痛いんだぞ」という表現があったんだけど、それがどうも〈屁〉であるとは断定できなかったのである。

 なぜ、女性は〈屁〉を(語るのを)ためらうのだろうか。いやまあ、男性だってためらうのだから、女性はなぜ顕著にためらうのかということだ。それは「黙殺」または「無視」なのである。

 こんなデータがある。
 人は毎日何回おならをするのか
 ●女性………3.28回
 ●男性………16.63回
 オランダの生理学者が調べたデータの平均値女性は男性の5分の1回程度のおならしかしないそう。健康な人で音が出たオナラの最高記録は一日96回。
(トラベル情報研究会編『びっくり世界紀行 トイレの歩き方』2000年、青春文庫)

 こういうデータはあまり鵜呑みにはできないね。食べた物や(民族の)暮らしぶりや日々の体調によっても違うだろう。このデータも日本人ならこんなに男女差があるとは思えないなあ。確信はないが、回数も男性は出し過ぎだし、女性は出さな過ぎではないのか。それでもここからは、女性は男性よりも〈屁〉をしないことだけは何となくうかがえるねェ。――ということは?

 音成はこう思う。頻度が低いから女性は〈屁〉の羞恥(嫌悪)度が高い(頻度の高い男性は逆に低い)のだ。ゆえに女性は〈屁〉を語るときのためらいがとても大きいのだよ。このときの羞恥と〈屁〉の頻度との関係は別の議論を起こさねばならないのだが、ともあれ羞恥度の低い男性は言訳に走り、羞恥度の高い女性はきれいさっぱり黙殺・無視に走るのであ〜る。(付言しておけば、頻度が低いからといって恥ずかしくないとはならないのである。頻度が低いのは恥ずかしいので強く抑止しているから――と考えられる)

 我々の普段の生活では、例えば集団健診などがあれば、男性も女性も検便や検尿に触発された下ネタの冗談話はするだろうが、決して〈屁〉の話題などはしないものなのだ。羞恥となった〈屁〉のタブーは日常的に根深いのである。といって〈屁〉はする。糞尿屁の三兄弟のなかでも〈屁〉の特異なところはそこなのだよ〜。


posted by 楢須音成 at 00:32| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月08日

〈屁〉を正当化する二つの方法

 人間の自分勝手さは、自分では容易に気がつかないもののようだ。つらつら思うのだが、我々の〈屁〉の振る舞いも随分身勝手なものだよねェ。それは他人の様子を見ているとよくわかるわけ。フランスの小話を中重徹の『一発』から引用してみよう。
 ヂュラン氏が教会の前の広場を歩いていた。人通りがない。彼はふと一発はなった。たった一発だが、音たからかに。
 それと同時に、教会の大時計が一時を打った。
 ――おや、わしは神とともに歩いているのだな!

 同じヂュラン氏が、別のときに、また一発はなった。が、今度は場所がよくない。さる客間でのことだった。
 彼は隣にすわっている令嬢の方へ身体をかしげて、極く低い声で(だが、周りの女たちには聞えた)
 ――わたしだと言いなさいよ。
(田辺貞之助『フランス小話集』1955年)

 この小話の透かし屁(出所不明のニオイ)のような余韻は何だ。まあ何というか、そういうことって身に覚えあるでしょう? つまり、身につまされる話なのよね。(そんなことしない!という人は、自分では気がついていないだけ〜。もちろん〈屁〉とは何かの暗喩ですよ)

 そもそも〈屁〉は(基本は)自分が原因をつくる現象だ。しかも恥ずかしい(ので隠蔽したい)現象である。そういうものを現象させたときの身の処し方としてヂュラン氏の振る舞いがあるわけだが、何でもよいから理由をつけることができて、ほかに責任転嫁できれば人間は安定して存在できるのだねェ。逆にいえば、人間の振る舞いには理由や責任転嫁が必要なのだ。

(1)肯定する〈屁〉=理由を見出す→自分の行動や言説が神や真理にかなうと断定する
(2)否定する〈屁〉=責任転嫁する→自分の行動や言説を隠蔽して関係ないと主張する

 これはまあ、結局のところ〈屁〉の恥を逃れる振る舞いなのであるね。ヂュラン氏はいかにも図々しい恥を知らない人間のように見えるが、実はそうではないのだ。ヂュラン氏のみならず、我々は〈屁〉というものを深層において恥じている。深く深く恥じているのである。同じく『一発』から江戸の小咄を引用する。
 姑婆、嫁を憎がり、どこぞで恥をかかせよう、とひっふくらめてをる。ある時、客四、五人あり。嫁も出て馳走してをる。側に並んでゐて、婆ぶいとひり「オヤ、こな人は、お客の中で、ちとたしなんだがエエ」と恥ぢしめれば、嫁、才発者にて少しも臆せず「ナニサ、音のするおならの出る人は長生きすると申しますから頼もしうござります」といへば、姑婆「音のしたのはおれだよ」
(『千里の翅』1855年)

 こちらは江戸の嫁姑のなりふり構わぬ攻防戦だ。ここには「理由を見出す」と「責任転嫁する」が少しばかり錯綜しながら展開しているね。嫁に意地悪して責任(恥を)転嫁しようとした姑婆が、長生きの理由を提示されて、実は屁をしたのは自分だと自白する(恥を逃れて実利をとる)のである。

 他人から見ると、姑婆の恥の密封ぶりがゆるゆるになっているのがお笑いだろう。しかし、姑婆にしてみたら、何とも望ましい(最新の)理由が付いたので改めて恥を封印できたのである。

 嫁は姑の豹変ぶりをあらかじめ予測していたのだろうか。いやいや、姑のワナを甘受して恥を回避する理由(言訳)を、自分のために用意しただけだったのだろうか。しかし嫁姑のいずれにしても、理由が付けばよいのだし、理由が付かなければ責任転嫁しかないのが〈屁〉の振る舞いなのだ。

 かくして「理由」も「転嫁」も深く深く潜んでいる〈屁〉の恥という虎を退治するのではなく、単に封印するだけであるから、まあ、虎は出たり入ったりするわけよねェ。
posted by 楢須音成 at 00:08| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月13日

中国笑話が〈屁〉に及ぼした影響

 江戸の小咄は中国の笑話を翻案したものが多い。中国には最初の笑話集として『笑林』(後漢末)が出たが、笑話は明代に広く興隆し、集大成とも位置づけられる『笑府』(明末)へとつながる。こうした諸本が江戸初期には伝わっていたわけだが、中期の町人文化勃興とともに大いに好まれたようで、江戸庶民の歯切れのいい小咄の元ネタにもなって膾炙した。その文化浸透ぶりを中国文学者の松枝茂夫が語っている。
(中略)江戸人の訳のうまさにはほとほと感心させられた。実に当意即妙、まったく一唱三嘆の思いであった。江戸の中期の空気が明末のそれとそっくり同じだったのだろうかと思った位だ。実にぴったりと息の合った文体である。うまい訳語はほとんどそのまま頂戴に及んだ。ただ時々気のついた誤訳と思われる個所(これは相当多い)を訂正して行けばよかった。
(中略)ここに引用されている江戸小咄の見事さ。換骨奪胎の妙とはこのことだろう。原話と対照して、ほとんど翻案とは思えないほど完全に日本語化されている。中国の笑話は日本に渡り、江戸人の手によって完成の域に達したといっても決して言い過ぎではないような気がする。
 最後に、江戸人が中国笑話をどう見ていたか、その一端を式亭三馬の『浮世床』によって窺ってみよう。孔糞先生という、とんと世事にうとい漢学者と床屋の主人鬢五郎(びんごろう)との対話である。
 孔「コレ主人、咄家とはどうしたものだ。」
 びん「落語(おとしばなし)をする手合いさ。」
 孔「ムゝ笑話か、笑話は漢がおもしろい。山中一夕話の事を、開巻一笑ともいふが叉各別だて、笑々道人が作ったものだ。また遊戯主人が笑林広記、和本にも岡白駒が訳した開口新語、あるひは笑府のたぐひ、イヤどうも漢は違ったものだて、あの趣向をきゃつ等に教へてやりたい。」
などと、いひたがるものなり。漢の話を日本に訳し、或は翻案してある事は知らず。こゝが村学究の持前なり。
 びん「唐にも落咄がありますかネ。」
 孔「あるともあるとも日本のような事ではない、甚だ巧みなものだ。」
 
(松枝茂夫解説『中国笑話選』平凡社刊)

 明治以降の中国笑話集として『一奇一驚 開巻百笑』(蘭壕史編訳、1887年、東京・金桜堂刊)という本があり、これは『笑府』などから抄訳してあるものだ。121話が漢文の書き下し文で紹介してあるのだが、この中に〈屁〉の話が5話ほど入っている。はなはだ心許ないが、音成のテキトー訳で紹介してみよう。
閻王撒屁(えんまのへ)
ある役人が死んで地獄に堕ち、閻魔大王の前に出たとき、大王が屁をこいた。男すかさず進み出て言うことには「つつしんで思いますに、大王様が堂々と高らかにお尻を持ち上げなされ、大きな屁をばこき放たれますと、まさに糸竹管弦の音(ね)、麝香(じゃこう)や蘭(らん)の匂いが彷彿とするのでございます」と。冥府の大王大いに喜び、牛頭卒(頭が牛の獄卒)に命じて男を別殿に連れて行かせ、一席宴をふるまうことにした。別殿に向かう途中、男は牛頭卒をかえりみて「あなたの両の角(つの)の曲がり具合はなんと素晴らしい。夜空の月にも似ておりますよ。双眉はチラチラと動きかなたの異国の星のようですなあ」と世辞を言ったので、牛頭卒また喜ぶこと限りなし。男の衣をひきとめて「大王の宴にはまだ早い。まずは我が家で一杯引っ掛けて行かれい」と誘った。

評=閻王の眼力も男の見え透いた心中を看破することができないのか。地獄にも善悪を照らす鏡はないのかのォ。


官便p拿屁(かんけらいにへをとらえさす)
役人が堂の中で座していると、集まった人の中で屁をこいた者がいた。役人「何の音か。捕らえてまいれ」と言う。家来かしこまって「捕らえられぬものです」と答える。役人「何としても裁きをせねばならぬ。必ず捕らえてまいれ」と譲らない。家来は仕方なくクソの塊を紙で包み、進み出て言うことには「正犯は逃げてしまいましたが、一味を捕らえてここに持ってまいりました。取り調べをお願いします。これで犯人がわかるはずです」と。

評=役人は是非とも屁の足跡を探り当て、クソの冤罪は大目にみて見逃すべきであ〜る。


善屁者(へひり)
よく屁をこく男がいた。その男、鍛冶屋に行って鉄搭(テトウ=武器にもした鉄の熊手)を作らせた。完成して鍛冶屋が代金を請求するときにも、男は数発の屁を連発した。鍛冶屋は驚いて「屁をこのようにも連発するとは。もし百発の屁をつづけてこいたら、鉄搭を一本タダで差し上げますよ」と言う。すると男は即座に百発の屁をこいたので、鍛冶屋はその場で鉄搭を作っておくった。男は門を出るときにも数発の屁をこき、鍛冶屋に「この小さい屁でいくつかマグワ(猪八戒が持っていたような武器)の釘を頂戴できませんかなあ」と頼み込んだ。

評=この男は屁を一本の熊手に換えたのである。屁をこのようにも有効に使えば、中国の大富豪の陶朱(とうしゅ)や猗頓(きとん)のように、莫大な富をつくるのも簡単だろうよのォ。


黄鼠防身屁(いたちのさいごぺ)
犬がイタチを追いかけるのを見たことがある。イタチが屁を放つと犬の鼻を直撃するのだ。雄イタチが田んぼに食いものを探しに来たことがあったが、一匹の犬に追いかけられてしまった。雄イタチは力を出し切ってしまい、転びながら雌イタチに助けを求めた。すると「あなたの最後っ屁は何のためにあるのよ」と雌イタチ。「数発も屁を連射したのに、この犬には全く効果がないんだ」「わかったわ、そいつは鼻づまりの犬だわよ」


嫁屁(よめのへ)
よく屁をこく新嫁がいた。老女と下女に嫁が屁をこいたら恥をかかせぬよう言い含めて従わせた。新嫁は拝堂の礼拝に出て早速一発屁をこいた。嫁は右に老女をかえり見て「まあ、おばあさんたら」。しばらくしてまた一発。今度は左の下女をかえり見て「まあ、この子ったら」。しばらくすると、またまた一発。嫁が左右を見ると老女も下女もどちらもいない。すると嫁は「このお尻(の穴)ったら」。

評=身代わりに千百の老女下女を従えない限り、屁の恥から逃げることなどできん〜。


 同じ話は前にもいくつか紹介したことがあり、それが中国笑話を原典とするものであったとは明記もしなかったのだが、こう並べてみて笑話としての〈屁〉の笑いの壷に、日中の違和感はないのではなかろうか。壷への突っ込みどころはいろいろある。そのときの違和感のなさとは、喚起される突っ込みどころが共感できるということではないかねえ。ひとつ突っ込んでみよう。

(1)閻王撒屁――お世辞一つで〈屁〉は恥ならぬ自慢(まてまて、芳香妙音と舞い上がりその気になるか?)
(2)官便p拿屁―だからさ、犯人は〈屁〉だというに(おいおい、わかっていながら見て見ぬ振りしてる?)
(3)善屁者―――過ぎたる〈屁〉は一芸に達する技芸(これこれ、芸であれ嫌われない風格も必要だろう?)
(4)黄鼠防身屁―におわなければ〈屁〉は全く無存在(ほおほお、鈍感が有効に作用することもあるのね?)
(5)嫁屁――――音がする限り〈屁〉は特定されるな(はあはあ、無臭無音ならそこには何も存在しない?)

 文学表現として〈屁〉が隆盛を極めるのは江戸時代である。狂歌、川柳、小咄、戯文などに頻繁に登場するようになる。つまり〈屁〉が表現題材として定着するのだ。まあ、屁文学とかジャンルが意識されたわけではないにしても、好んで題材になったわけで、そこにはどうも中国笑話の〈屁〉の影響も多大にあるように思うよねェ。当時、漢文が読めた知識人たちの〈屁〉への偏愛ぶりは、やはり目立つ。(井本蛙楽斎、平賀源内、大田南畝、石川雅望などなど、多くの人の多彩な〈屁〉への言及は、こういう中国笑話からの刺激もあるのだろう)

 しかしまあそうは言っても、民族性の違いは〈屁〉に対する向き合い方の相違が生じるというのが音成の持論なので、日中が〈屁〉に全く同じ感性を持っているとは思わない。比較文学の金文学によれば中国は平気で〈屁〉をする「放屁大国」なのだが、日本は隠蔽して恥じらう「放屁大国」である(1998年『裸の三国志』東方出版刊)。

 江戸人が〈屁〉の中国笑話に求めたのは(屁話なのに)話が論理的に(多彩に)展開しつつ、とぼけた可笑し味をたたえる文学的論理性にあったと思える。そういうものを〈屁〉に取り入れられると発見したんだと思うねェ。だって恥を封印する(ねじ伏せる)のに論理性(理念や理屈や言訳)は有効なのだ。

 表現域の論理性の観点から見た場合、例えば(1)〜(5)においても〈屁〉を恥じる感性からすればまるで強引な飛躍(論理)が、見事に破綻なく完結している。もともと〈屁〉を恥とする民族性からは、その完結ぶりの中に〈屁〉を表現する正当性(つまりは、恥からの逃げ道)を見出して新鮮だったろう。しかもそこからは恥を(完全にではないが)隠蔽していることによるとぼけた可笑し味が現象してくるではないか。(それは日本人なればこその可笑し味である)

 しかし〈屁〉が平気な中国人は(あまり)恥もなく、そういう論理性は当たり前の単なる論理性なのだろうねェ。
posted by 楢須音成 at 12:40| 大阪 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月20日

オプーは〈屁〉の別名になり得るか

 前回のエントリのコメントで「オプー」の質問を投げられてから、久しぶりに我が家で「プー」が復活した。いや、正確にはプーではなくて、新ネタである丁寧語(?)のオプーである。ベランダにいた嫁に「そんなとこでオプーしたらあかんでェ〜」と、ちょっとユーモアで言ってみた。嫁は何の事やらとポカンとしたあと(意味を悟って)笑い出したのだが、和みのホットな一瞬はたちまち冷却し怒り出した。オプー(と言った声)が大きすぎた〜。

 もちろん(我が家では)プーとは〈屁〉である。子供が小さい頃は「プーしちゃダメよ〜」とか、家庭内で〈屁〉をプーと称していたわけなのだが、このプーに(丁寧語の)オをつけてオプーとまでは使わなかったよ。大真面目にオプーを使うのは、やはり気持の入り方として(例えば「クソ→オクソ」のように)ちょっと過剰(あるいは気取り過ぎ)だ。我が家では「オプーしちゃダメよ〜」だと滑稽になるんだよねェ。だから、それが分かって(それをねらって)ワザと言ってみるオプーなら強調したユーモアになる。

 しかし、高貴な作法の人は(丁寧語として)オプーを普通に平気で使っているんだろうかね? 普通に使っているとして、そういう言語空間というものは(プーしか使わない)庶民には過剰感を伴うよねェ。まあ、聞き慣れ使い慣れて当たり前になった(習慣化した)言葉からは過剰感は消えてしまうものだが、そうなるとオプーは単に普通名詞化してしまうわけだ。

 このオプーの語源的な根拠は「屁の異名であるプーに丁寧のオが付いたもの」となるんだろうね。もちろんプーは放屁音のオノマトペ(擬音)が採用されたものだ。そもそも本家の「屁」の語源もオノマトペからと考えられていて、中国語で「屁」は「ピイ」と発音する。この「ピイ」はお尻の穴から出てくるときの音。日本語では「屁」は「ヘ」または「ヒ」と発音しているが、初めは「ぺ」「ピ」とか発音していた(発音するものと思われていた)のではないかね。

 言語学的な根拠(説)はある。明治の言語学者、上田萬年が「P音考」(1903年)という論文で、奈良朝以前の古代日本には「ハヒフヘホ」はなかったのであり、代わりに「パピプペポ」が使われていたと主張した。この説は前にも紹介したのだが、繰り返すと、日本語のハ行は、P音「パ行」→F音「ファ行」→H音「ハ行」という推移で変遷を遂げたというのである。例えば「ぱた→ふぁた→はた(旗)」「ぴしゃく→ふぃしゃく→ひしゃく(柄杓)」「ぺら→ふぇら→へら(篦)」となる。

   パピプペポ(濁音バビブベボ)――→ファフィフフェフォ――→ハヒフヘホ

 こうみてくると、濁音であるB音「バビブベボ」の清音は、現在一般に言われているH音「ハヒフヘホ」ではなく、本来はP音「パピプペポ」であるという対関係が指摘できる。確かに両者が唇音であるという点では発声上の整合性があるんだよねェ。(一般の解説ではパピプペポは半濁音として異端的な位置づけになっている)

 また上田論文では、パピプペポ(あるいはバビブベボ)とオノマトペの関係(両者の結びつきやすい親和性)を指摘しているのだが、ここから音成は〈屁〉との親和性を強く夢想するわけだよ。まさに〈屁〉はパピプペポ(あるいはバビブベボ)だよねェ。擬音が語源になってしまったのは我が家のプーも同じ。かくして〈屁〉を指す言葉は放屁音の擬音である(らしい)ことは、世界各国の〈屁〉の発音を見れば概ね共通する特色になっているのだ。音成には語の使われ方のニュアンスは全くわからないものの、有声音もあれば無声音(透かし屁)もあり、何とも可笑しい。

中 国 語  ピイ 屁
英   語  ファート fart
ド イ ツ語  フルツ furz
フランス語  ペ pet
       ヴェッス Vesse
イタリア語  ペート peto
       ヴェント vento
スペイン語  ペード pedo

 ところで、これらの語に潜むP音(パ行)、V音(ヴァ行)、B音(バ行)の音には、人間本来の気持ちよさを感じる音のクオリア(質感)があるという指摘があるのだが(黒川伊保子『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』2004年、新潮新書)、これを〈屁〉に援用してみても大いに納得できるね。なぜなら〈屁〉の放出は本来キモチイイのだし、上田萬年も上記論文で言うように「誠に發しやすき音にして、一歳にみたざる小兒すらが、能く發し得る所のものなり」なのだ。幼児のプーはオノマトペでも実に自然な〈屁〉なのである。(詳しくはこちらのエントリを参照)

 そういうプーに丁寧の「オ」が付くのは大人の後知恵だろうねェ。丁寧に〈屁〉を言うというのであれば、日本語にはオノマトペが語源ではないオナラという言い方もある。女房詞(室町初期から宮中に仕えた女房らが使い始め上流階級に普及した)とされているから、屁よりは後代の新しい語ということになっている。

 このオナラは、一般には「『ならす(鳴)』の連用形の名詞化した『ならし』に接頭語『お』の付いたものから転じた語」(日本国語大辞典)というのが定説だが、江戸末期の俳人、加藤雀庵の説では「『いにしへのならの都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな』の『にほう』から〈屁〉と『なら(奈良)』を連想し、『御』の字を添えて〈屁〉を意味した」(『さへづり草』)というのである。

 二説のどちらにしてもオナラの語源は人間の〈屁〉を直接指名する命名ではなく、婉曲表現であり、連想が理屈っぽい。オナラとは、動作(鳴らす)または地名(奈良)を丁寧に言う形をとりつつ〈屁〉を遠回しに指名している言葉なのだね。まあ、こういう婉曲表現に走るのは、音成がいうところの〈屁〉を語るときの「言訳」につながる人間の態度なのだが、丁寧というよりは、婉曲(遠回し)の気持が強いわけなのだ。

 直接指示せず〈屁〉を(音を根拠に)動作で言表したり(ニオイを根拠に)地名から連想し言表するような婉曲(曖昧)表現に、さらにオを付けるのは少々過剰だと思えるが、これは丁寧を装った一種の強調であり、このときの丁寧の言い過ぎの感じから、可笑し味を生じさせる結果になっている。可笑し味とは笑いの発生だね。オナラという語の発生は、どちらかといえばワッハッハと外向的に笑い飛ばすのではなく、ニッと内向的に笑いを抑えてとぼける感じの方向でなされた(のだろう)。

 もともと〈屁〉という言葉があるところに、いきなりオナラと言われた方は最初ピンとこなかったに違いないよねェ。それは忌避すべき負性のものに対する隠語の誕生の瞬間なのだ。そしてまあ、意味が伝われば「ニッ」と了解するわけなのだが、これが繰り返されて女房たちはフツーにオナラと言うようになった(…のかな?)。こうなると、あからさまな〈屁〉という発音は(女房には)いよいよはばかられることになるわなあ。

 オ・ナラの「オ」がこのような「ナラ」の婉曲(曖昧)に対する強調による〈屁〉の抽出なら、オ・プーの「オ」はどうだろう。「プー」は直接的な擬音にもかかわらず必ずしも屁と特定されない曖昧(婉曲)さを持っているが、そこを強調して〈屁〉を抽出しているわけである。そういう意味では同じ構造なのだ。

 プーは言葉以前のただの擬音だという人もいるかもしれないが、指示する言葉として扱われる以上、発声される〈屁〉に通じる(オノマトペを語源とする)言葉になっている。それにオが付いてオヘ(御屁)ならぬオプーとなるのは、やはり丁寧を装って婉曲を強調することで、意味を抽出しているわけだ。

 ここでまとめると、言い淀んだり隠蔽しがちなモノや行為を曖昧(婉曲)に表す(負性の)言葉に、あえて丁寧の「オ」がつくと婉曲(曖昧)から意味の強調(抽出)が発生するというわけだ。

 一方、オヘ(御屁)とかオクソ(御糞)とか言わない(普通あまりオが付かない)のは「へ」や「クソ」に曖昧さがなく、ストレートに物質を明示する(指示性が強い)ように感じるからである。こういう場合にオを付けると、単純に丁寧表現と受け取られ、婉曲の強調という現象は(婉曲でも何でもないので)特に発生しない。大体、そういうものを丁寧に言う必要はなかったりするのさ。

 かくしてプーの場合は、その言葉が〈屁〉だけを意味する一般化がなされていない(指示性が弱い)段階の曖昧さ(婉曲)があるので、オナラと同様にオが結び付く理屈が適用できるのであ〜る。

 そう言う意味では、オプーは、語源の成り立ちはオナラの系統ではないが、オナラに匹敵する一般化の可能性を秘めた〈屁〉の別名ではないだろうか。――と、つらつら考察してみた。みんなでオプーを使お〜。
posted by 楢須音成 at 11:06| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

語呂合わせでギャグる〈屁〉

 親父ギャグはイヤがられるし、ひどくキラわれるんだよな。よくやらかすのは語呂合わせ(駄洒落)の親父ギャグなんだが、そりゃ、あまりの単細胞ギャグだと笑うに笑えん。ウィキペディアにこんなのがあった。(羊羹を食べる前に)「これどうやって食べるか知ってる?ようかんで食べるんやで!」。うーむ、やっぱり「さぶ〜」かねェ?

 語呂合わせのギャグは〈屁〉に関するものでも結構ある。そこには語呂をこじつける巧い下手があるわけだが、使われるのは「へ」「へい」「ひる」「こく」「ぶう」「ぷう」というような〈屁〉にまつわる関連語たち。思いもよらぬ情景にこれらが〈屁〉を連想して繰り出されると、そこには〈屁〉の可笑し味が大発生するのだ。(ここで「へ〜」ってつぶやいてみるんだが…)

 福富織部の『屁』から小話を引用してみよう。まずこれ。
(1)
甲『君、佛教はまるで屁の様なものだね』
乙『なに、佛教が屁の様であるものか』
甲『だつてブウーポー(佛法)を専一にするではないか』
乙『では、耶蘇教も屁のやうだ、ヒリステ(キリスト)と云ふぢやないか』

 ううむ、チト苦しいかな。「ぶう→佛」「ヒリステ(キリスト)→放り捨て」と引っかけているわけだが。

 次のはなかなか巧いと思ったね。満点あげたい。
(2)
 或町に寄會(よりあい)有けり。二階座敷にてつとめける。事過ぎてかへるさに、長座にくたびれ、粗相なる者はしごのもとにて、大あくびをするとて、尻の邊(へ)よりぽんと音のせしを、そばなる人頓作(とんさく=即座に洒落などを言うこと)を申された。『扨(さて)も天下大へいで御座る』といへば、彼者も『さればこくとあんどいたした』というて笑うた。(1691年『輕口露がはなし』)

 うっかり出てしまった〈屁〉を「天下太平」「国土安堵」と駄洒落ているわけだが、当意即妙だねェ。

 次も「佛ネタ」のひとつ。
(3)
 ある男檀那寺へ年禮にゆき、はなしのついでに『モシ和尚様、よのことわざに、百日の説法屁一つとまうしますが、屁を一つひりますれば、説法にもむかいますかな』『イヤイヤ、それは心得違ひ、屁と申ものは、きつい佛のおきらひなさるゝ事ぢや、そこで佛にはむかふものをば、屁の音とおなじ事だという心で、ぶつてき(佛敵)と申すてや』(1793年『笑府衿裂米』)

 チト苦しいかな。最後の語呂合わせだけではあまり面白くないね。まあ、前段の「屁をしてから説法にも行かれるのですか」と問いかけているオトボケの皮肉や、和尚のそれへの切り返しの頓智という話の流れがあるわけだが。

 次も何だかなァ〜って感じはある。
(4)
 人中へ出て屁を放るとはあんまりなことだ。外の商賣を仕やれと、異見すれば、否々(いやいや)外の稼業ではいかぬ事だ、先ず聞きやれ、曇つた日でも七八貫、日和さへ好いと、『まだ放るかへ』

 私の仕事は外ではできないと言っているその言訳。曇った日でも七八貫(一貫は1000文)にはなるし、日和がよいと(日も長く)まだまだ昼(放る)だとさ。どんな仕事なんだと思えば、この話は江戸の曲屁師(屁で芸をする人)福屁曲平のことを話材にしているらしい。

 次のは筋立や理屈が凝ってる割には、オチの単純さが「さぶ〜」かな?
(5)
 さる浪人が田舎者の下男を使つて居た。名を作造といつた。作造は片言ばかり云ふ。殊にハ行のハヒフヘホがまるで違つてゐるので往々何を云つてゐるのか更にわからないことがある。ある晩火事があつた。作造に見て來いと云ひつける。作造屋根に上つて見ると火が近い。『作造何處ぢや』と主人が下から訊くと『さてさて臭かつたも道理へが近い』(1686年『鹿の巻筆』)

 下男の何だか堂に入った片言ぶりが笑わせるが、このハ行のハヒフヘホは〈屁〉の連想にとって大事なのは確か。下男の片言には〈屁〉の因果があるんだねェ。下男はパピプペポやバビブベボもダメなのだろうか。いずれにしても、我々の〈屁〉という現象はハ行(パ行、バ行)に収斂していくものなのだよね。


 これらの〈屁〉のギャグは「(羊羹を)ようかんで食べるんやで!」のようなギャグの単なる語呂合わせとは違うように思えるね。そういう語呂合わせ(ピッタリはまる醍醐味)に加えて〈屁〉の属性(異音異臭)や振る舞い(放屁)を彷彿とさせる点で可笑し味を倍加しているといえるだろう。語のポイントだけ抽出してみよう。

(1)ブウ(放屁音)、ヒリステ(放屁の姿)
(2)タイヘ(ヘの発語)、コク(放屁の姿)
(3)ブツ(放屁音)
(4)ヒル(放屁の姿)
(5)ヘ(ヘの発語)

 これらは「放屁音=擬音の可笑し味」「放屁の姿=振る舞いの可笑し味」「(ヘの)発語=語の可笑し味」のいずれかとなるわけだ。語呂合わせとは、パーツ(語)の相似性(同音異義や同音同義)を発掘し、二重に意味付与された筋立の整序の中に組み込む言語遊戯だね。これが隠蔽されるべき〈屁〉に関連して発動すると、いっそうの可笑し味となる。それは〈屁〉という現象と語呂合わせがセットで醸す(まあ、お上品とは言い難い)愉快な気分の中に生まれるものだ。

 笑いが何らかの快感現象だとすると、これは言語遊戯(観念操作)による、放屁にも似た快感現象(笑い)なのであ〜る。そこでは〈屁〉を忌避して隠蔽するいつもの抑圧的日常は後退し、〈屁〉を当たり前に観察して報告する解放的日常へとガス抜きしている。いつもは嫌われ無意味な〈屁〉はこのときばかりは意味(独特の存在感)があるわけよねェ。
ラベル:駄洒落 ギャグ
posted by 楢須音成 at 07:05| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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