2009年03月07日

最終・軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ

 多かれ少なかれ誰もが隠蔽しているのが〈屁〉だね。端的にそれは恥ずかしい。しかしなぜ「監禁的/強制的/制限的な環境」では〈屁〉がわざと露出され、誇らしいものになってしまうのだろうか。我々はこういう〈屁〉の勲章性の発現について、前回ようやく第一段階の解明に至ることができたのであ〜る(かな?)。まあ、寄り道、回り道した冗漫エントリで〈屁〉理屈が相当のスパゲッティになっているのであるが。

 さて、勲章性が発現してくる第一段階とはこうだった。刑務所や軍隊や寄宿舎のような「監禁的…環境」では〈屁〉は既存の秩序や作法をリセットされる。このとき本来の生理的快感をベースにした肯定感や満足感が自然に発露され、異音異臭が自他に誇らしいものとして感じられる…というわけなのだ。

 というのも、閉じ込められている心的な反作用として(閉じ込められている空間の一員として)何かしらの外への対抗意識(あるいは外からの遮断意識)が芽生えており、その閉鎖空間が持つ外との隔絶の度合いに応じて(外の秩序と作法を打ち消したがる)逆転の心的運動が発現することになる。こういう意識の反動性の渦中にあるのだ。

 さらに、閉じ込められている空間は物理的な隔壁だけでなく、その空間(施設)の設立ポリシーにからむ理念的な(心的に外を差別する)隔壁も持っているのだから、外の世界とは逆方向に価値観(理念)が辿られ(形成され)やすい素地があるのである。

 そういう閉鎖空間では(外で忌み嫌われる)無作法な〈屁〉の露悪的な振る舞いが肯定的に扱われる(ことがある)わけだが、忌み嫌われる〈屁〉の否定が肯定に変移し、羞恥は得意に豹変し、隠蔽は誇示に転じる。重要なのは、このときの誇らしさというのは「外で〈屁〉は無作法」ということへの反動から形成されていることである。

 しかし、ただ誇らしいというだけならここで終わる話だ。例えば(嫌われない)口笛が自慢で誇らしいとかいうのは、ただの特技のレベルなわけだよねえ。反動的に発現する〈屁〉の誇らしさの場合には、別の側面があることに気がつかねばならない。つまり、勲章性の発現というのは誇らしさだけではないのであ〜る。

 それは何か。勲章は授与されれば誇らしいが、人を顕彰し賞揚する勲章にはランクがあるね。賞揚する(される)ということは優劣をつけ、優劣のランク分けをすることなのだ。だから〈屁〉の勲章性という場合、そこでは〈屁〉に優劣をつけてランク分けがなされている。そのとき、何を基準に優劣をつけるかといえば、もちろん〈屁〉の異臭異音の素晴らしさである。同じ引用を繰り返すことになるが、次のようにセルジュ・ゲンスブールの小説の主人公ソコロフは屁っぴりチャンピオンなのだ。
 私は屁っぴりチャンピオンとして全階級を制覇し、勝ちとった異名は数知れず、そのなかのいくつかを披露すれば、死体防腐処置人、臼砲、砲手、花火師、砲兵、喧嘩兵、迫撃砲、ガス爆弾、バズーカ砲、ベルタ長距離砲、ロケット砲、突風、吹き職人、麻酔医、吹管、洩れ口、匂い源、雄山羊、スカンク、坑内爆発性ガス、ガス発生炉、風力ポンプ、毒売り、専制君主、西風神、風野郎、ミスター・プー、プー小僧、シチュー鍋、ガスパイプ、キャンピング・ガス、綿火薬、尻風、ガス油、おなら玉、もちろん忘れたものもある。
(田村源二訳)

 かくして、外の世界では恥ずかしさの極みの〈屁〉の猛臭激音が、ここ軍隊では価値の逆転を起こし、その頂点でチャンピオンになる現象がある。そこでは優位の序列化が前提されている。はたまたそれは、人間関係の序列化さえも含み持つのであ〜る。

 人間関係の序列化は、ある観点を獲得した結果、心的な優位と劣位が分化して、それが人間関係に投影されて獲得されるものだ。序列化は、端的な例では「親分〜子分」「隊長〜兵隊」「金持〜貧乏人」というような、さまざまの階級性や階層性となって人間界を支配しているね。

 ここで思い出してほしいのが〈ナイフ〉からの勲章性の発現である。裏社会においては〈ナイフ〉が勲章だったよねえ。もう一度その関連を示すとこうなる。

「表社会」=〈ナイフ〉は危険→「制限/禁止」で管理するモノ→社会化
「裏社会」=〈ナイフ〉は危険→「許容/独占」を獲得するモノ→序列化(勲章化)

 つまり、表社会で〈ナイフ〉は危険なモノとして制限したり禁止したりして管理し、社会の要素の中に安全に位置づけられているが、裏社会では危険なモノであるがゆえに競って獲得し、このときの独占や分配の許容によって人間関係の序列化(優位の強調)を促すものとなっているのだった。

 勲章性を発現する「監禁的…環境」の〈屁〉にも、こういう相関があるのではないだろうか。

「一般世間」=〈屁〉は無作法→「制限/禁止」で隠蔽するモノ→社会化
「監禁的環境」=〈屁〉は自慢→「誇示/賞賛」を獲得するモノ→序列化(勲章化)

 つまり、一般世間では〈屁〉は無作法なものとして制限したり禁止したりして隠蔽し、社会関係の中に安全に(見ないように)位置づけられているが、「監禁的…環境」では無作法がリセットされるがゆえに競って放出し、このとき獲得する誇示や賞賛というものは人間関係の序列化(優位の強調)を促すものとなっているのである。

 こう見てくると、勲章性の発現には「序列化」という心的運動がからんでいることがうかがえるわけだね。序列化とは優劣を強調する分類であり、より高い優位を抽出しようとする心的運動だ。運動の激化は序列化の強調(誇示)だね。かくして〈ナイフ〉においても〈屁〉においても、独占や賞賛の獲得とは優位を誇ることであり、それは頂点をめざす序列化そのものなのである。

 刑務所や軍隊や寄宿舎のような「監禁的…環境」で、外の世界の無作法(恥)からリセットされた〈屁〉は反動的に誇らしさを獲得し(第一段階)、さらに賞賛を獲得(しようと)して優位の序列化をめざす。これが、

 ――第二段階に至る〈屁〉の勲章性の発現であ〜る。

 念のために〈ナイフ〉と〈屁〉との違いに触れておこう。そもそも見える〈ナイフ〉は「危険だから管理すべきモノ」であるのに対し、見えない〈屁〉は「無作法だから隠蔽すべきモノ」という違いがある。さらに、もともと〈ナイフ〉は「有用」であるのに対して〈屁〉は「無用」である。両者の実質はかなり対照的ではあるのだ。

〈ナイフ〉→視覚的 →有用→「危険」 →管理
〈屁〉  →非視覚的→無用→「無作法」→隠蔽

 こういう対照的な両者が同様の勲章性を発現するのは、根本的には「危険―無作法」という一般世間では排除されるものを内蔵している共通点に求められるだろうねえ。それが「裏社会」や「監禁的…環境」で転化してしまう結果になるのである。

 また「裏社会」と「監禁的…環境」は隔膜と隔壁の存在という対照的な構造の違いはあるにせよ、一般世間に対して閉鎖的な心的空間を作り出しているという共通点があるね。

「裏社会」→非視覚的隔膜→「閉鎖的」→場所→心的(>物理的)束縛感強い
「監禁」 →視覚的隔壁 →「閉鎖的」→施設→物理的(>心的)束縛感強い

 このように、心的空間として「裏」と「監禁」は閉鎖性の対照的な違いを示しているのだが、一般世間の「危険」や「無作法」はこのような(心的空間としての)閉鎖空間において勲章性を発現することになるわけだ。このときの「裏」は「どこでもドア」ではないが、どこでも現象可能なので、テレビドラマ「プリズン・ブレイク」に見られたようにしばしば「監禁」の内側でも現象する。だから「内/外」に「表/裏」が重なり合うような心的空間もあるわけである。

 まあ、軍隊と刑務所と寄宿舎をいっしょにするなという人はいるかもしれない。しかし、ここにはある種の社会の縮図がこめられていると見ることは的外れではないはずだ(と思うんだけどねえ)。大昔、音成が学生寮に暮らした当初の恐怖体験からすれば、そこは確かに一般世間とは隔絶した束縛と強制の秩序で固められ、決して決して自由の(初めて親元離れた)別天地ではなかったのですよ。

 以上、軍隊で〈屁〉が勲章になるのはなぜなのかを探求してみました〜。


posted by 楢須音成 at 06:43| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月14日

罪な〈屁〉から脱却するという神話

 人間にとって〈屁〉は厄介者でありましょう。私は〈屁〉を研究してまいりましたが、その正体を知るにつけ、必ずや我々は〈屁〉を克服しなければならないと信ずるに至りました。知らぬ間に腸に宿る〈屁〉は罪深き人間の宿痾であり、秘すべき恥部であります。

 しかし、誰でも〈屁〉をしちゃうんですよねえ。いやいや、するだけでなく、それを我慢できない。私は〈屁〉に対する人間の歴史を辿ってみて、その罪深さに愕然としたのであります。一番の罪は自分の〈屁〉を棚に上げ、他人の〈屁〉を駆逐しようとすることであります。そりゃまあ、他人の〈屁〉はくっさいんですよねえ。正直なところ。

 いやいや、そうじゃないですって、私が言いたいことは。それではいかんのですって。他人の〈屁〉がくっさいとか言っちゃうと、自分の〈屁〉のくささも認めてしまうことになりますから。

 え〜、そのう、つまり、我々の〈屁〉というものはくっさいからこそ、あなたにとっても、私にとっても、まるで必要ないのであります。そのことの理論的根拠をはっきりさせたいのであります。

 いきなりですが、クサカ家では〈屁〉をめぐる紛争が絶えませんでした。まあ、何と申しましょうか、家系的に〈屁〉がくっさいということがありまして、第一次放屁合戦が勃発すると、続いて第二次放屁合戦になり、しかもどうやら、この家族の〈屁〉にメタンガスが混じっていたということもありまして、これが家屋全焼というすさまじい結果になりましたのです。

 隣近所は大いにあきれ、果ては怒り狂ってクサカ家を糾弾しました。そしてまあ、隣近所からの訴えにより裁判所が屁武装解除と申しましょうか、クサカ家全員への(人の面前での)放屁禁止を申し渡したのです。こうしてクサカ家は平和な時代を迎え、隣近所も安心できるようになりました。

 とはなったものの、実はクサカ家の平和はまだまだ完成の域には達していないのです。そもそもクサカ家の屁争いの発端とは、自分の〈屁〉と相手の〈屁〉が同じ系統であるか否かの主張であり、それによって家族内の血縁関係を誇示することにあったのです。クサカ家の構成は祖父母、父母、娘2人、息子1人の一家をなしていますが、祖父ゼンベはクサカ家の祖母クサコと結婚した婿養子であり、その息子である父コキベのもとに母ウヘコが嫁いできて、双子の娘ブウコとビイコが生まれましたが、末子の息子ナイベは親戚からの養子です。そして、クサカ家ではいつもくっさい屁のニオイに満ちていました。

 放屁合戦の原因は祖父ゼンベの言葉でした。「わしの屁はくっさくない〜。コキベもブウコもビイコもくっさくない〜。なぜなら、わしのくっさくない〈屁〉のDNAが伝わっているからじゃ〜」(実はこれがまた存分にくっさいので問題なのですが)

 これにはブウコとビイコが「おじいさんのDNAと私たちの〈屁〉は関係な〜い」と猛反発です。ブウコとビイコは祖父ゼンベの〈屁〉がくっさければくっさいほど、自分たちの〈屁〉とは無縁だと主張するのでした。

 母ウヘコは遠慮がちに「ブウコとビイコは私に似ているのですよ。娘ですから〜」と言えば、父コキベは「娘は男親に似るというからなあ、俺に似てるんだろ〜」と話をこき混ぜ、父系の流れを強調。すると祖父ゼンベは「そうじゃな、そうじゃな」と目を釣り上げて勝利宣言。すかさず祖母クサコが「ならばコキベは母親の私に似ているのじゃなかろうかねェ」とつぶやくのでした。(祖父ほど激烈ではないのですが、実は祖母クサコの屁もくっさいのですけどね)

 要するに、みんな多かれ少なかれ(とても)くっさいのでありまして、人のことなど言えた義理ではないんですが、なぜか自分(の系列だけ)はくっさくないと思っているのです。まあ、客観的に言いまして、クサカ家でくっさくないのは息子ナイベの〈屁〉でありましょう。彼はたまたま親戚の中でもあまりくっさくないのがチョット自慢の家系の出身。末席の養子に迎えられてから、この家族を観察してきた結果、放屁三昧の家族全員が自分の〈屁〉はくっさくないと思っているのに気づいてしまったのでした。

 第一次放屁合戦は誰の〈屁〉がくっさくないかを判定するために引き起こされました。「ゼンゼンくっさくないわい」と祖父ゼンベが力んでブー、ビックリした祖母クサコがのけぞってプー、「そんな馬鹿な〜じっちゃん〜くっさ〜」と娘ブウコ&ビイコが飛び上がってブブブー、「どれどれ俺も」と父コキベが片尻を持ち上げブリ、「あれまあ私は遠慮したいィ」と言いつつ母ウヘコが思わずブッと出せば、クサカ家はたっぷりと混合した臭気に包まれ、何が何やら鼻もげるニオイの激戦場となってしまったのであります。

 しかるに、このとき息子ナイベは平和論者として屁武装を放棄するガマンの〈屁〉を選択しました。そのうえで「全員くっさいのだから、それを責め合ってはいかん〜」と一人だけ道徳家の風情をしてみんなを批判したので、たちまち鼻つまみとなり、その場から叩き出されてしまいました。

 クサカ家の全員が、自分の〈屁〉だけはくっさくないと信じており、いまこの家がくっさいのはくっさい(系統の)者のせいだと断言するのでしたが、祖父系と祖母系と母系と息子系というように混合していてどれもくっさいわけですから、わけがわからん状態であるわけです。

 この放屁合戦は接近戦のため全員の嗅覚が馬鹿になって麻痺してしまい、疑心暗鬼のまま一応の終息を迎えますが、御近所迷惑はなはだしく、クサカ家の周囲はしばらく異様なる臭気に包まれたままでした。

 第二次放屁合戦はそれから数日経って夜中に勃発しました。娘ブウコがベッドでふと目覚めるとツーンと刺激的にくっさいではありませんか。誰の〈屁〉かはわからないけど、それはまぎれもなく〈屁〉です。二階の祖父母か、廊下の向こうの父母か、はたまた隣室の弟なのか。しかし、まさかねえ、平和論者の弟ではないでしょうなあ。ブウコは同室のピイコを起こしていっしょに廊下に出ます。

 そこは〈屁〉の海。いや、ガスタンクの中のようなものでして、クラクラと卒倒しそうな臭気に満たされていました。そのとき父コキベもトイレにでも立ったのか、どんより寝ぼけ眼で部屋から出てきたのはいいのですが、くわえ煙草でライターをシュボ、シュボッと点じたからたまらない。炎が爆発的にふくれ上がり、こもった〈屁〉をすべて巻き込んで、そこは熱風と火の海。いや、もう、何それ、たちまちクサカ家は炎上してしまいました。

 まあ、我々の〈屁〉が燃えるのはメタンガスが成分になっているからですが、このメタンは誰の〈屁〉にもあるわけではなく、腸内にメタン発生菌を持つ人だけの特技です。だから、巷には〈屁〉が燃える人と燃えない人がいるわけですね。そもそもクサカ家の場合は、燃えない家系だったのですけどねえ。(合戦後の調査の結果、どうやら息子ナイベが燃える家系だったようで、クサカ家は全員が彼の発生菌に感染していた模様です)

 クサカ家の全員が炎の中から奇跡的に脱出したものの、その恐怖は今なお冷めやらぬところであり、理由の如何を問わず〈屁〉は固く固く御法度。何人も犯すことのできない封印の掟とはなりました。

 息子ナイベは自分が持ち込んだメタン発生菌が原因となった結末に深く深く動揺し自省し、それからはいっそう〈屁〉を憎み嫌い忌避するようになり、鉄壁不屈の平和論者として、屁武装を完全放棄するガマンの〈屁〉の唱道に邁進するようになりました。(クサカ家はもはや完全に息子ナイベの支配下にあります)

 追究すべきは〈屁〉からの脱却です。確かに自分の〈屁〉も他人の〈屁〉もくっさいんですから、脱却には若干の努力が必要です。我々は成長しつつ経験を積みつつ〈屁〉を脱却する盤石の理論を組み立てるわけですが、しかし一方で相対する一人一人の〈屁〉のニオイに耐える力は次第に衰えていきます。脱却理論の自信が鉄壁であっても、麻痺と疲労によって亀裂が走ると〈屁〉は遠慮なく忍び込んできます。我々は油断することなく防御姿勢をとりましょう。くっさい〈屁〉に膝を折る一歩手前で踏ん張るだけの体力はあるものと信じます。
 人間が共存するのに〈屁〉は必要ありません。必要なものはチョットだけの我慢と英知でありま〜す。

 ――ええ、そうですよォ。私は息子ナイベです。
posted by 楢須音成 at 10:11| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月18日

馬と屁と豆と芋と

 よく屁が出るというのは困った性癖であるが、これは人間にとっての話で、動物にしてみたらどうなんであろうか。馬がする屁の川柳がある。人間よりもスケール感のある屁なんだよね。
 馬の屁にころりと落ちた玉椿
 馬の屁にびっくり小督(こごう)琴をやめ
  ※小督=高倉天皇の後宮。箏(琴)の名手だった。
 馬の屁に四五人困る渡し船
 馬の屁に眉間をかする小侍
 馬の屁のさかさに響く一の谷

 大きく鳴る屁である。しかし、どんなに響こうとも馬は恥ずかしいとか思わないわけだよねえ。自分の屁に無頓着というか無心というか。馬は人間が何を思おうと、言おうと馬耳東風であ〜る。

 小林一茶の俳句にも馬の放屁の句があった。
 馬の屁に吹きとばされし蛍かな

 まあ、ここでは蛍よりも馬の無心さへの一茶のあこがれみたいな思いの、何ともいえぬ眼差しを感じるのだが。川柳の「ころりとおちた玉椿」だと可笑し味だけみたいだが、闇夜に屁の音とともに蛍が惑乱する情景には「ま〜た馬の奴がやっとるわ(あの無心ぶりはうらやましいのう)」という日頃の一茶の思いがこもっているように思うんだよね。(一茶はあれこれ争いの多い人だった)

 ところで、馬が屁こきの理由は飼料(飼葉)にあるとみなければならない。そもそも草食性の動物は屁が出るのである。昔から馬には大豆などを混ぜた飼葉を与えていたのである。力仕事をするから大食漢だし、馬糞もどぼどぼと大量に出す。音成の幼少の頃の田舎道には必ず馬糞があったよ。まあ、これだけ糞を溜め込めば雄大に屁も出るだろう。

 人間の場合、よく言われるのが「芋屁」だね。つまり、、芋を食べると屁が出るってことだ。福富織部の『屁』に(出典はわからないが)データが紹介されていて、屁が出やすくなることの理由が解説されているので引用する。
 薩摩芋を喰べると、屁が多く出るといふ處から、この言葉(芋屁)が生れた。芋には筋と云つて、特に不消化性吸収不良の繊維が豊富にあるから、少量に之を攝取しても、甚だ容易に醗酵して多量の瓦斯を形成するからである。即ち他の物より屁が出易いといふのは當然の事實である。今次に其事實を證明する為に薩摩芋を初めとして他の植物性食物の主成分を列記して見る。

seibunhyo.JPG

 即ち黒豆と白豆を除いては、繊維の多い事に於て首位を占めて居る。豆を常に攝取する~社の馬が盛に放屁する如く、人間が薩摩芋を屡々食することに因つて屡々放屁するのは、此理由に因るのである。だから鼓腸、腸神経痛等過剰なる瓦斯貯溜の為め腹部の緊滿感を有する病的の状態に於ては、薩摩芋の攝取を禁ずることが肝要である。

 このデータで見ると、大豆は芋よりも食物繊維が多いわけだ。古来から馬の濃厚(栄養)飼料として大豆は重用されてきたわけで、屁が多いのは当然なのだ。

 外国文学や洋画などでは豆と屁の関係が語られることが多い。豆の方がポピュラーで、あんまり芋は聞かない。どちらにしても人間の観察眼は届いているな。
ラベル: 一茶
posted by 楢須音成 at 12:50| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月26日

〈屁〉をそそのかした糞という従犯

 犯罪においては正犯に対して従犯という共犯罪がある。正犯を幇助する立場になるわけだが、下手すればヤッチマエとけしかけただけで罪に問われることもあろう。我々の〈屁〉が犯罪を構成して正犯であったとして、そのときの「従犯」を捕まえる小咄がある。

 福富織部の『屁』から音成のテキトー訳で引用してみる。
 太政官庁で、まさに評定が始まろうとした瞬間、その威厳をぶち壊すかのように一発の轟音が響き、異臭が四方に広がった。上官は目を怒らせ、座中をにらんだ。
 「ただ今のは何の音か。捕まえて参れ」
 下役は当惑の眉をひそめて「実は捕まえられぬものでござります」
 「いやいや、お上の威光で捕まえられぬということはない。今の音の行方を調べ必ず召し捕って参れ」
 下役は命令を受けて出ていったが、しばらくすると紙の上に小さい糞の塊を包んできた。
 うやうやしく頭を下げて言うことには「正犯のやつめはすばしっこく逃げ失せましたが、従犯のやつめを召し捕って参りました」

 読むほどに何だか笑ってしまうのだが、登場する人物たちはどこまで本気で振る舞っているのであろうかねェ。全員が笑いをかみ殺している? 

 そもそも「一発の轟音」の段階で〈屁〉であることは明白であろうに、それを徹底して伏せているところが、この小咄の可笑し味だ。こういう場合、言うんだったらストレートに「無礼者ッ。誰じゃ誰じゃ、屁をしたのは」とか強く咎めるのが筋だろう。全くもって不届きな〈屁〉をした人物を特定しなければならいわけさ。

 しかしここでは、その音とニオイは〈屁〉ではないもののようになってしまう。上官が〈屁〉だと口にしない以上は、下役はそれが〈屁〉だとはうかつに言えない。それでも〈屁〉は〈屁〉だから捕まえられるわけもない。下役は言い逃れの筋立てを用意して場をしのごうとするのだが、小さな糞を包んで持ってきて従犯に仕立てるという頓智を示す。もちろん、これはニオイつながりの見え透いた嘘の従犯であ〜る。(誰の糞だったんだよ〜)

 誰かの〈屁〉だとわかっていながらの無理難題を、落とすところまで落とした下ネタで切り抜けたわけなのだ。いやいや、このあと実際に切り抜けたのかどうかはわからんけどねェ。

 思うに、この小咄の不思議なところは、登場する人物たちは一体全体、何に向かって忌避的に振る舞っているのかという点だ。いつの間にか全員が〈屁〉を忌避しつつ「何だか〈屁〉のようなもの」に大真面目に対処しているのだ。当然、それは人の〈屁〉だとわかっているだろう。特定の誰かさんの〈屁〉だとも知っているのかもしれない。つまり、状況(無礼の構図)を知り尽くしているにもかかわらず、それを暴くのを忌避しているのだ。

 全員が一致して〈屁〉を独立した実体に見立てている。そういう無理筋を追求しているんだね。この忌避または隠蔽の情熱は見事だ。その場の全員が誰も一言も〈屁〉とは口にしないのである。

 したたかな一発を放った屁男は自分の行為を全く意に介していない強者なのか。いやいや、単なる粗忽者か。上官の振る舞いは、沈黙している屁男を直接責めることにはなっていない。下役を困らせることで、間接的に責めようとしている高等戦術なのだろうか。あるいは、怒った振りをして単に屁男や下役をからかっているのか。

 気が置けない仲間の集まりであれば笑って終わらせることもできるであろうが、何しろ上級政庁の会議なのである。もちろん〈屁〉などは固く固く御法度の雰囲気が横溢し、間違えようもない〈屁〉を〈屁〉とは言わぬやんごとなき上官の真意がよくわからぬままに、まわりは笑いをかみ殺して途方に暮れ、なにくわぬ顔をせざるを得ないのだろう。

 こういうことって〈屁〉に限らずあるんだよねェ。

 目上の人が間違ったことや歪んだことをしたり言ったりしても、それを指摘したり是正したりすることがはばかられる。そして、その人に引きずられて、みんながその人のペースにはまってしまう。しかも故意か偶然か、そういう状況を盛り上げたり、引き立てる者もいるんだ。実は、そういう状況とは、忌避し隠蔽した何ものかによって支配されているわけなのさ。ここではそれが〈屁〉なのである。

 ところで〈屁〉が正犯で糞は従犯というのは、まあ、そういうこともあろうかなとは思う。「屁は糞の先走り」といって、両者の親密な関連性は観察されておるからね。
ラベル: 正犯 従犯
posted by 楢須音成 at 06:27| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月31日

三里はくっさい握り屁の哀感

 我々には〈屁〉に対して行う「握り屁(にぎりべ)」または「握りッ屁(にぎりっぺ)」と呼ばれる所作がある。これは〈屁〉を放出した瞬間、手のひらで包むように握り込むのである。

 なぜこんなことをするのかって、そりゃまあ、握った〈屁〉を人に無理やり嗅がせたり投げつけたりすることもあろうし、自分で嗅ぐ人もいるんだよねえ。握った〈屁〉を鼻に近づけることは、ニオイを強く意識した所作であるわけだが、握り込みによって〈屁〉は純粋に音から切り離され、単なるニオイ(を発する物体)と化しているのさ。

 福富織部が『屁』の中で握り屁のエピソードを解説している。
 伊豆の伊東に、二人の男がゐた。「どうだらう、こゝから網代(あじろ)まで、屁の臭味はもつものだらうか」と一人がいひ出した。「それは、きつと、大丈夫だ」と、他の男が答へた。そこで、二人の間に賭が行はれた。臭氣が伊東から網代までつゞくと主張した男は、先ずスーツと、一發、自分の握り屁を大事につかんで、伊東を出た。
 「さあ、一緒についてこい」と、も一人の男を同伴して、丁度、伊東から一里目宇佐見迄きた。「何うかしら」と、心配になるので、こつそり嗅いでみると、まだ臭がした。「これなら大丈夫」と、叉一里來た。宇佐見網代との丁度中間に、茶屋がある。そこで叉々嗅いで見た。やはり臭かつた。「勝(かち)は、此方(こちら)のものだ」と、いよいよ網代へついた時、嗅ぐと、彼の思つたやうに臭味はぬけなかつた。
 「おい、臭いぞよ。」
 「さうか」と、ちよいと見ると、その男の鼻の頭には、ほんものゝ糞塊が、こびりついてゐた。
 「何んだい、臭い筈だ、お前の鼻には、黄色いものがくツついてゐるぞ。」
 「へえ、どこで踏んだらうか。」
 その男は、あきれてゐたが、どこでふんだらうかといふのが落(オチ)になつて、噺のやうにも聞える。だが、これは、伊豆地方に於て、「握り屁は三里臭い」といはるゝ諺のよつて起こつたと云ひ傳へになつてゐる。これと同じやうなものが、其他各地に行はれている。

 まあ、握り屁は(とても)臭いというのが定説になっているようで、つまりは嫌がられるということなのだろう。この話のとぼけた可笑し味は、道中クンクン嗅いで「臭い」と確認してしまう握り屁の当人の熱心さと、次第に勝ちを確信していく思い込みにあるね。最後はこびりついた糞の登場と他愛もないオチで締めくくられる。そりゃ、鼻先の糞は臭いだろうよ。

 筋立ては、握り屁が臭い根拠の解明にはゼンゼンなっていないのだが、握り屁は(こびりついた糞のようにも)持続性のある臭〜いニオイが特徴なのだ、という主張にはなっている。かくして「握り屁は三里臭い」のであるよ。握り屁というものを所作の流れに沿って観察してみると、こんな感じであろうか。

(1)握り屁の所作は鼻の対極にある肛門に手を差し伸べる→「対極性」が高い
(2)一般に嗅ぐという所作は鼻を近づけるが、握り屁は〈屁〉を近づける→「強制性」が高い
(3)握り屁は手のひらを開かない限りにおわない→「密閉性」が高い
(4)人に嗅がせる握り屁は嫌がられる(激しく人を嫌がらせる)→「攻撃性」が高い。
(5)自分で嗅ぐ握り屁は我慢せざるを得ない→「自虐性」が高い。

 こう見ると、握ってからの意図的な振る舞い(攻撃)が他人に向けられるときには、悪意か悪戯の表出ということになるわけよねェ。(1)〜(5)においては、見えず掴みどころもなく忌避されている〈屁〉は、そういういつもの曖昧さから脱却して主張しているのだ。明確に実体化したかのように〈屁〉が握られて、モノのようにやりとりされ(ようとし)ている。

 まあ、見えない〈屁〉の実体化(存在の主張)は見果てぬ夢なのさ。我々は深層でこの話に〈屁〉の実体化を期待して思いをゆだねるのだが、薄々それが失敗に帰することはわかってもいるから、予想通りの期待はずれという可笑し味を喚起する。実体として糞が登場するが、こんな〈屁〉の実体化はあり得ず、「どこでふんだ」のかというオチに逃げざるを得ない。

 ここには〈屁〉が擬似的な振る舞いでしか存在が主張できない哀感が漂っているではないか。いくら握っても臭い〈屁〉は見えない〈屁〉のままなんだよなあ。
ラベル: 臭気 臭い 握り屁
posted by 楢須音成 at 23:28| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。