2009年02月04日

軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ

 どうも軍隊と〈屁〉は親密な関係があると思われるんだよねえ。というか、軍隊に限らないのだが、寄宿舎や刑務所というようなところでも、強弱はあるにせよ〈屁〉はある方向をとって意識に浮かび上がってくる(現象化しやすい)んじゃないかと観察されるのだ。

 そういうところは規律に閉塞した集団なのであり、良くも悪くもタテとヨコの人間関係に囲い込まれ、相互に意識(監視)し合っているような集団である。ま、ありていに言えば、心的に強者と弱者が存在する世界なんだね。(はいはい、音成の頭の中で軍隊と寄宿舎と刑務所は一緒くたのトラウマです〜)

 そこでは〈屁〉は勲章(のようなもの)なのだ。

 セルジュ・ゲンスブールが書いた短編小説「エフゲニー・ソコロフ」(1980年)では、希代の屁っぴり男であった主人公の汚辱にまみれた生活史の中で、軍隊だけは隔絶した世界であり、別格に描かれている。
 こうして私は人間嫌いのような顔をして他人にあまり近寄らず、たいしたトラブルもなく生きていたが、不幸にも兵役につかねばならぬときがきて、徴兵審査委員会での審査のとき、早くも華々しくぶっぱなし、軍医にこの持病を反抗と解され、即、懲戒舎送りとなり、その雑居房で人間がどこまで野卑になれるか目の当たりにした。実に人間というものは、狭いところに閉じ込められ、何もすることがなくなると、毛穴をも含めた全身の穴という穴から、できるだけ臭い匂いを是が非でも放出しなければならぬと思うようになる。というわけで、私の軍用ガスは、コーンビーフやインゲンばかり食べさせられて栄養不良になっている同房の連中を悦びでくらくらさせ、競争心を煽られた哀れな男たちのなかには、ガス抜きに励んでいるうちに、糞が飛び出しそうだと叫びだす者までいて、空気はすぐに悪臭に満ち、呼吸できないほどになった。
 私は屁っぴりチャンピオンとして全階級を制覇し、勝ちとった異名は数知れず、そのなかのいくつかを披露すれば、死体防腐処置人、臼砲、砲手、花火師、砲兵、喧嘩兵、迫撃砲、ガス爆弾、バズーカ砲、ベルタ長距離砲、ロケット砲、突風、吹き職人、麻酔医、吹管、洩れ口、匂い源、雄山羊、スカンク、坑内爆発性ガス、ガス発生炉、風力ポンプ、毒売り、専制君主、西風神、風野郎、ミスター・プー、プー小僧、シチュー鍋、ガスパイプ、キャンピング・ガス、綿火薬、尻風、ガス油、おなら玉、もちろん忘れたものもある。共同部屋ではそれこそ息が詰まり、ただ個室を得たいがために、大佐に引見を求めると、私の受けた中等教育がものを言ったのか、大佐はスラヴ系に対する嫌悪を乗り越えて、予備役士官候補を許可してくれ、結局、私は陸軍少尉となることができたが、その八日後には閲兵式のさい祝砲を一発ぶっぱなし、早くも将校の地位から転落するという憂き目を見た。恥ずべき将校が国旗掲揚のさい大砲の真似をした、と報告書にある、ソコロフ誤射事件のあらましは…(以下略)
(田村源二訳)

 それまでの人生、ソコロフは〈屁〉をできるだけ隠蔽して「たいしたトラブルもなく生きて」きた。もちろん、世間では〈屁〉は否定すべき汚辱の扱いであった。それが軍隊で一転するのだ。反抗(暴力)と扱われたり、誇らしく(偽悪的に)振る舞うものとなる。そういう〈屁〉はとてつもなく輝く存在意義を獲得し、あらゆる賞賛の形容によって彩られてしまう。

 軍隊における〈屁〉は何と豊饒な姿を示すのであろうか。一つ一つ賛辞となった異名があり、開放感に満ちた自由の叫びがあるではないか。そもそも〈屁〉は世間では否定されているものだ。恥であり悪であり、節度もなく礼儀もなく無作法であり、不浄である。なのに〈屁〉が輝くばかりに誇らしく解放されている。

 閲兵式に不覚にも発してしまった〈屁〉ですら祝砲(の真似)なのであり、これは処罰されざるを得ないにしても〈屁〉の誇らしさが削がれることはない。勇ましく事件として扱われること自体が勲章なのだ。

 軍隊では、外の世界で負の価値であったものが輝く正の価値を与えられる(ことがある)のだ。「恥ずべき将校」とはいっても、汚辱にまみれているわけではないんだね。

 いやいや、それは小説なんだからさ、現実にそんなことあるかいな――という人はいるかもしれない。しかし、こういう事例もあるんだけどねえ。

 明治に軍人(下士官)の除隊後の再就職を支援するため『満期下士就業方針』(太田信編、1898年、日水會刊)という本が出版されている。まあ、こういう本になぜ〈屁〉が登場するのか不思議に思うかもしれないが、当時の下士官の技倆や人格をあらわすエピソードの一つとして出てくるのである。音成のテキトー訳で引用する。適宜改行を入れている。
図南(となん)清兵を屁殺す

図南は旧士官学校教官少佐某の長子である。性格は豪放で酒をたしなみ、また好んで昔の豪傑の伝記を読んだ。十八年の教導のあと入隊して下士官になり、更に進んで士官学校に進もうとしたが、果たせなかった。除隊後、帰省して支那語を身につけ、雄飛の志を養った。明治二十七年と二十八年、後備役で征清軍に従軍し何度も素晴らしい戦いをした。

ある日、斥候長となって敵地を偵察し、一人の敗残兵を捕らえて帰った。その途中、空腹が我慢できず、路傍の樹木に捕虜を縛り付けて食事をした。食べ終えて捕虜の縛を解こうとしたとき、図南は轟然たる大屁を放った。捕虜はこれを銃声と勘違いして仰天のあまり絶息してしまった。図南は大いに驚いて、水を与え薬を施したが、ついに蘇生しなかった。

やむを得ず、隊に戻って報告し、誠意をもって謝罪した。隊長は抱腹絶倒して言葉も出ず、これが隊中に伝わって大笑いとなり、皆は「図南のヘイ殺」といった。

彼はいま清国沙洲の新開港場(条約港)にいて、最近の消息を詳しくは知らないが、おそらく、大陸を蹂躙する雄飛の志を鼓舞する策の手だてを考えているのではあるまいか。その自信のほどは察すべし。

彼はまた詩をよくし、酒に酔うと吟じては愁いや悩みを晴らした。(以下略)

 おいおい、少しばかり図南を誉め過ぎではないか、とは思うものの、気宇壮大にして豪放だが、学に長け、礼と詩を修養している繊細な人格である軍人が描かれているわけだ。ここでも〈屁〉は、決して卑下されるものとはなっていない。図南の豪放さや誠意を表現し、まわりの肯定的な哄笑を誘っている。世間の常識とは全く逆ではないか。

 ソコロフの祝砲(の真似)は閲兵式を妨げて罪になり、図南のヘイ殺は敵兵を殺して不問に付されたのだが、そこに軍隊における〈屁〉の本質を見るなら、二つは同じ現象なのだ。

 確かに、この人間界には〈屁〉が勲章になる世界があるのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 19:49| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月08日

続・軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ

 軍隊で〈屁〉が勲章であることは、気のせいでなければ、刑務所とか寄宿舎のようなところでも同じであると思われるね。これらの空間は程度の差はあるにしても一応、世間とは隔絶されたところとして認識されているのではないだろうか。

 そこは金網とか塀とか壁とかの目に見える物理的な隔ても存在するわけだが、重要なのは、そこに所属する者が意識しようがしまいが心的に自己を世間から隔絶させていることである。(望んでも望まなくてもそこに何らか所属すれば、世間から隔絶していると意識するのは同じこと)

 そもそも人間は最初から、一つの集団化の状態に投げ込まれているといえる。人間以外の動物にも見られる原初的な集団化とは「群れ」ている状態であり、そこでは我々は集団の一員として自他を律する心的運動の渦中にあるわけである。それが顕在化しているかどうかは別として、集団員として自己や他者の存在を意識して生きているのだ。

 動物のような原初的な(生存という中心点だけの)集団化から進み出て、人間界は多様多彩な集団化のレベルが重なり合っている。例えば、あなたは人類であり、アジア系であり、黄色人種であり、日本国民であり、関西人であり、就職氷河期の世代であり、某社の社員であり、歴史サークルの会員であり、某教の信徒であり、ファンクラブの会長であり、PTAの役員であり、健康保険組合員であり、スイミングクラブの会員であり――という具合に、無限連鎖の人間模様は何かしらの「群れ」る意識の絡み合いによって成り立っているわけさ。

 そういう意識を構成する集団化の構造(重なり合い)は単層ではなく、実際には、多彩な集団理念の観念を重ねて構造化されるのである。次の単純化したモデルはその集団理念が束縛する集団化意識を一元的にモデル化したものである。


解放的/自主的/自由的<A>←――(集団化の意識)――→<Z>監禁的/強制的/制限的


 さて、このようにA―Zの間に集団化の意識が重なり合うのだとすれば、軍隊とか寄宿舎とか刑務所というのは、Z方向の領域に引き寄せられたレベルに位置するわけなのだ。ランクをつければこうなる。


解放的/自主的/自由的<A>←―寄宿舎>軍隊>刑務所→<Z>監禁的/強制的/制限的


 ここで注意すべきは、Z方向へ行けば行くほど物理的にも隔壁が存在するようになることである。それが段々と厳しく明確になってくるわけだ。まさに閉塞した集団になるのである。そこでは〈屁〉は勲章(賞賛であり自慢であり名誉のようなもの)になる。

 セルジュ・ゲンスブールの小説では、そんな集団の〈屁〉が活写されていたのだった。主人公のソコロフは「懲戒舎送りとなり、その雑居房で人間がどこまで野卑になれるか目の当たりにした。実に人間というものは、狭いところに閉じ込められ、何もすることがなくなると、毛穴をも含めた全身の穴という穴から、できるだけ臭い匂いを是が非でも放出しなければならぬと思うようになる」と喝破する。そして、とほうもない「私の軍用ガス(屁)は、コーンビーフやインゲンばかり食べさせられて栄養不良になっている同房の連中を悦びでくらくらさせ、競争心を煽られた哀れな男たちのなかには、ガス抜きに励んでいるうちに、糞が飛び出しそうだと叫びだす者までいて、空気はすぐに悪臭に満ち、呼吸できないほどになった」と観察している。そこでは〈屁〉は「悦びでくらくら」して「競争心に煽られた」男たちの勲章になっていたのだ。

 そりゃ、小説なんだから何とでもいえるがな――というかもしれないが、こういう事例もあるんだよ。福富織部の『屁』から明治の自由民権家だった荒川高俊のエピソードを引用する。
 自由民権を主張する雄辯家として、知られた荒川高俊、舌禍を買つて、石川島監獄に繋がれてゐた。教誨師が説教中、急に屁を催したが、場所が場所故、足の平で肛門を押へつけ、すかし屁をやらうとした為、正座の態度が自づと亂れた。看守、大喝一聲。『こらッ、何しちょる』と、浴びせられて、『ヘイ、ヘイ』とこらへていたものを一發ぶつ放した。口を封ぜられた彼は、肛門で僅かに気焔をあげたのである。

 まあ、これなんかは当初の遠慮をかなぐり捨て開き直っているのであるが、ここで〈屁〉は隠される存在から公然の舞台へと躍り出て、気焔を上げるという意味を持ったのである。開き直った荒川の〈屁〉は反抗という勲章になっているわけさ。同房の者の喝采によって〈屁〉は輝くだろうし、看守にしても「馬鹿者」とか「けしからん」とか思ったにしても、一方では荒川の〈屁〉のスケール(風圧?)にたじろいだのではないだろうかね。

 刑務所における〈屁〉のこうした顕在化について、佐藤清彦の『おなら考』ではいくつかエピソードが紹介されている。宮武外骨は「監獄は屁の都である」と喝破しているが、佐藤は外骨の言葉のなかでもこの言葉ほど「人の胸にストンと落ちるものは少ない」と言っている。

 面白いので『おなら考』から刑務所の〈屁〉のエピソードを要約で紹介してみよう。
 明治/投獄歴四回の外骨の観察=放屁は単調にして監獄の一名物だが、麦飯しか食べないから特色のある屁は出ないのである。その発する音、放つ臭気は単調なのだ。毎日毎日同じ麦飯屁が各房にブーブー鳴っている。看守もその音と臭気に慣れて平然としている。
 江戸/小伝馬町=私語は禁じられたが、屁は大目に見られていた。あるとき、一つの房から屁の音がすると、それに呼応して、一波が万波を呼ぶように、各房から等間隔で次々と発射され、とどまるところを知らなかった。これに牢番がたまりかねて「いい加減にせんかっ」と怒鳴ったときに、ひときわ大きいのが「ポポポーン」と鳴って打ち止め。囚人も牢番も大爆笑した。
 昭和/網走刑務所=看守が見回りに出た。両側が居房の長い廊下を歩いていると、張っていた下腹からプープーと屁が出た。一歩踏み出すごとに規則正しくプー、プーと鳴る。そのうち看守は気がつく。看守の屁に合わせて、通りすがりの居房から10、11、12…と数える声がするのだ。看守は期待に応え、ガスを倹約しながら鳴らして歩く。数える声は次第に明るく大きくなっていく。49まで来たとき、囚人の一人が「四十九(しじゅうく)さい」とひときわ大きく叫ぶと、看守は残りの屁を一気に吐き出してファンファーレを鳴らし、爆笑の渦となった。
 明治/市ヶ谷監獄=五人の窃盗犯が服役していた。同じ服役囚にある男がいたが、これが五人組にとって何かとカンにさわる。ある日、五人が仕事をしているところに男が通りかかって、一発大きな屁をし笑って立ち去った。頭に来た五人は四日後、仕返しに男が顔を洗っているところを襲い、看守が駆けつけなければ危うく殺すところだった。新聞は「一発の放屁、五人の重罪を醸す」と報じた。

 こういうのが刑務所における〈屁〉なのである(らしい)。市ヶ谷監獄のケースは、一般世間の感覚(屁は無礼)に近いように見えるのだが、まわりは〈屁〉をした男を侮蔑するわけではなく、無礼どころか「刑務所だから屁はアリ」と認めていると考えられるだろう。男の行為そのものの賛否はともかくとしても、一発の〈屁〉が重罪を呼び起こしたと新聞ネタにもなり〈屁〉そのものは賞賛(肯定的笑いの対象に)され、仕返しした五人は同情されることなく馬鹿な笑われ者になっているではないか。少なくともその〈屁〉に世間的な尺度は適用されてはいないのであり、それはほかのエピソードも同じだ。

 一般世間では眉をひそめる無作法である〈屁〉が勲章のようになるのは、刑務所という環境(集団化)が作用していると言わねばならないのさ。

 軍隊についても『おなら考』は次のようなエピソードを集めているが、刑務所ほどの自由は認められていないとしている。なぜなら〈屁〉は緊張欠如のあらわれであり、兵隊が〈屁〉をして頬が裂けるほどのビンタを食らうことも多かったという。確かに軍律厳しい軍隊では、緊張しなければならないときのタルミと判断されたら処罰されるだろうねえ。(ソコロフも閲兵式で〈屁〉をして処罰されたね)
 明治/野砲兵連隊=金沢恒司の『放屁学概論』にあるエピソードに、日露戦争後の北海道での実弾射撃演習の話がある。演習が終わって大隊長が講評するというので、将校たちが不動の姿勢で講評を待っていると背後で、一人の兵隊がブゥーッと素晴らしい屁を放った。どうなることかと将校たちは青くなったが、大隊長は「人間のような珍しい屁をひる馬がいるではないか」と独りごちて、何ごともなく講評を始めた。
 昭和/日中戦争の戦場=火野葦平の『土と兵隊』にある戦場の一点景。ふかし芋に舌を鳴らし、芋を小隊長に持って行くと、これはうまいと舌鼓。そのとき、壕の端の方で誰かが地響きのするような屁をした。すると誰かが「おいおい、毒ガスは敵の方にやってくれや」と言ったので、みんな大声で笑った。

 どうだろうか、刑務所ほど単純な状況ではないのだが、危機をはらみながらブゥーッと放った「素晴らしい屁」や「地響きのするような屁」は、結局のところ勲章(賞賛)になっていないだろうか。

 このような軍隊と刑務所の違いは、世間に対して刑務所がより閉ざされている(隔絶している)ということなんだね。だから屁の「勲章性」とでもいうべきものは刑務所の方がより強い(単純にあらわれる)のである。この論でいくと、寄宿舎よりは軍隊の方が「勲章性」は強いわけだよねえ。
posted by 楢須音成 at 23:30| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月13日

続続・軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ

 ものごとのイメージ的な譬えとして、刑務所は「監禁的/強制的/制限的」なものの代名詞のように使われたりもする。曰く「仕事を干された窓際族の私にとって会社は刑務所であ〜る」とか言ってみたりするわけだ。しかし、会社と刑務所は全く違うわけで、物理的にも心理的にも高い塀で囲われた刑務所の隔絶は会社の比ではない。

 会社においては〈屁〉をしないのだ。いや、しないようにしている。格別の禁令はないものの〈屁〉が自由である会社などないし、まして〈屁〉が勲章になっている会社などあり得ないのである。

 刑務所の隔絶に比べたら軍隊はましだね。何といっても軍隊には社会的正義の存在意義があり、一般世間に通じる基本的なチャンネルはいろいろ持っており、個人は自由時間には世間に繰り出すができるのだ。まあ、それでも軍隊は軍隊として「監禁的/強制的/制限的」ではあるのだけれど。

 さて、「監禁的/強制的/制限的」である集団において〈屁〉が勲章になることをくどくど言い募ってきたわけであるが、そもそもなぜ勲章になるのだろうかねえ?(ははは、何回この問いを繰り返しているんだろうか)

 そこで例えば〈屁〉と兄弟分である〈糞〉は勲章になるだろうかと思案してみる。(――それは、ならないって!)

 前の引用(要約)とダブルのだが、まずは火野葦平の「土と兵隊」(1938年)の一節を引用する。ここは軍隊における〈糞〉と〈屁〉がさりげなく対比的に描写されている素晴らしい場面なのであるよ。
 夜が明け離れる頃から、もう敵は射つて來た。私達は壕の後のクリークの水際まである僅かな斜面に出て、土を掘り、竈を拵へて、飯盒を掛けた。クリークの水は割合綺麗である。叉も我々は蒸し芋を始めたのだ。私は斜面に適當な場所を見つけて、秋空を映してゐるクリークの水を眺めながら、脱糞をした。頭の上を彈丸が過ぎる。クリークの向う岸でも堆土の蔭に蹲んで糞をたれてゐる兵隊が居る。兩方で見つけて、兩方から笑ひ、手をあげて、おうい、たつしやか、と叫ぶ。知らない兵隊である。戰場でのこれが小笠原流である。私は排泄したものを眺めたが、赤い色をして居なかった。ろくにものを食はないのに割合に立派な形をしてゐる。私は傍に咲いてゐた野菊の一輪を私の美しい糞の上にさした。それから、例のごとく、東方の空を拜した。朝になつて日輪に合掌することは我々の習慣になつてゐた。それはいろいろな意味を含めて缺かさなかつたのである。私達は蒸し芋に舌を鳴らした。小隊長に持つて行く。これはうまいとふうふう吹きながら食つた。壕の端の方で、誰かが地響きのするやうな屁をひつた。おいおい、毒瓦斯は敵の方にやつてくれや、と誰かが云つた。私達は大聲立てて笑ひだした。

 戦場で現象している今日の立派な〈糞〉は身体を離れた瞬間に目に見える独自の存在物になっているね。そして風景として視野に入ってくる。それは一つの観察物あるいは鑑賞物として存在するから、我々は野糞に野菊の一輪をさしていよいよ風景化(視界の中の一部分として組み入れる心的作用を発動)してしまうのである。

 そのとき、見事に外界に鎮座させた得意やフェティッシュな愛おしさはあるにしても、せいぜい〈糞〉は自分の子供のような分身にすぎないんだね。それが他人の〈糞〉だったら(それが他人の子供であるように)他人の〈糞〉に過ぎない。互いの脱糞行為に笑い合っても、こういう〈糞〉の実物が視界にとどめられてしまうと、誰もが認める勲章(栄誉の象徴)へとは飛翔しないのである。まあ、何というか湯気を立てる異臭奇態の〈糞〉というバッチイものは取り扱い(処理)が面倒なんだよね。まして他人の〈糞〉を賞美することは(ほとんど)ない(はずだ)。

 一方、誰かさんの地響きのするような〈屁〉はみんながいっしょに大声で(肯定的に)笑い出す何かなんだよねえ。そういう〈屁〉は目に見えない音とニオイが醸す伝染性の現象である。それは大きなスケール(大音量、多数、強い臭気…)であることが望ましく、大きく見事に顕在化させるのが最良の振る舞いだ。顕在化とは収斂し抽出する観念形成の心的作用である。音とニオイで現象する〈屁〉は見えない存在だから、その顕在化とは、目に固定する姿や形についてではなく、行為の結果についての観念現象となるのである。

〈糞〉=見える/風景化(拡散)させる/視覚(見える存在)として強く受けとめる
〈屁〉=見えない/顕在化(収斂)させる/行為(振る舞い)として強く受けとめる

 まあ、このような存在の手応えを通じて、我々の心の根底に「勲章性」の有無をもたらすのではないかねえ。存在の受けとめこそ基本の心的動機だ。そして勲章は、姿形に与えられるのではなく、その人の行為(振る舞い→功績)に与えられるものなのだ。姿形を重んじる美人コンテストのような賞ではないんだからさ。

 整理すると、人間界の「監禁的/強制的/制限的」な環境においては〈糞〉は目に見えてしまうという存在のあり方によって「勲章性」を獲得することができず、対照的に〈屁〉は目に見えないという存在のあり方によって「勲章性」を獲得する。つまり、見える見えないという身体性の「見えない」が「勲章性」を基礎で支える土台なのだということである。

 ここで首をひねる人がいるかもしれない。おいおい、見えなければ何でも勲章になってしまうのか?とね。確かに「監禁的/強制的/制限的」な環境で、見えない行為だからと何でも勲章になるわけではない。逆に、見えるものが勲章に値しないわけでもない。そういう環境で隠し持つ、例えば立派なナイフは(仲間内の)勲章になる(可能性が高い)だろう。

 共通点としての〈糞〉と〈屁〉は、程度の差はあれ、汚いとかバッチイというのがあるわけさ。もともと一般世間では〈糞〉や〈屁〉は我々が不浄のものと感覚してしまうモノなのだが、そういうものを「監禁的/強制的/制限的」な環境に持ってきた結果の現象が〈屁〉の「勲章性」発現なのである。このときの〈糞〉と〈屁〉の違いを比べてみるとこうなる。

一般世間では…
〈糞〉=不浄のもの→管理し処理すべきモノ→社会化した処理
〈屁〉=不浄のもの→無作法な恥ずべきモノ→社会からの隠蔽

「監禁的/強制的/制限的」な環境では…
〈糞〉=不浄のもの→処理し管理すべきモノ→環境化した処理
〈屁〉=不浄のもの→無法だが誇るべきモノ→環境からの賞賛

 こうみれば、表層の「不浄のもの」レベルでは見えてこない〈糞〉と〈屁〉の違いが見えてこないだろうか。要するに〈糞〉はどんな環境でも存在意義(価値づけ)があまり変わらないのさ。出してしまった異臭奇態の〈糞〉は物体として目の前にあるのだから何とかしないといけないわけだが、これは社会的に(隠蔽されるのではなく)処理される。便所がどこでも用意される。我々の社会はそういうシモの処理の体系を作り上げているのである。これは、刑務所だろうが軍隊だろうが寄宿舎だろうが、どこであっても変わらない。文明社会の便所掃除という社会活動は絶対に必要(意義がある)とされ、決して絶えることはないのであ〜る。

 しかるに〈屁〉はどうだろうか。世間でこれほど無意味で無礼な恥ずかしいものはないだろう(という扱いなのだ)。倫理観の程度によるとしても、無作法とされる〈屁〉は社会から完全に抹殺・隠蔽するのが万人共通の願いだ。ところが、それはできない。どうあがいても生きている限り〈屁〉は出てくるのだからね。人間界に〈屁〉をしない人はいないのである。しかも、この〈屁〉という奴は出したからといって格別の処理があるわけではない。ひたすら自然消滅を期待するだけだから、我々は関係性を否定し隠蔽に走るのである。ま、そういう人が多い。

 どこでも不変の〈糞〉に対して、この〈屁〉という奴は環境によって裏腹の転換を見せる。なぜ〈屁〉は逆転するのか(軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ)ということになるわけだよねえ。(――ううむ、どうも問いかけの前提の足固めに終始して、なかなか議論は前に進まんのお)
posted by 楢須音成 at 06:17| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

続続続・軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ

 アメリカのテレビドラマに「プリズン・ブレイク」(2005年)というのがある。政治的な陰謀に巻き込まれた兄弟の脱獄の話であるが、これがまたドキドキハラハラとテンポ良く畳み掛け、ひと癖ありげな囚人たちの波瀾万丈とくるから、ついつい夜更かしするのであった。で、極悪な犯罪者ばかりを集めた刑務所の話であるから、暴力に荒くれた囚人たちの様子が活写されているわけさ。

 しかしまあ、このドラマには、便器はさりげなく登場しても、やはり〈屁〉はない。ちょっと残念至極なのだが、緊迫したサスペンスドラマに〈屁〉は似合わんか。似合わんわなあ。ここでこのドラマを取り上げてみるのは、ナイフもまた「監禁的/強制的/制限的」な環境においては勲章になるのではないか、ということを前にちょっと思ったからだ。

 ナイフがあからさまに勲章になるようなシーンは出てこないのだが、囚人が隠し持ったナイフが発覚し看守に没収されるシーンがあった。看守側からは囚人のナイフは禁止だから当然である。

 また、ナイフほど危険は明確ではないが、刑務所内で武器にもなりそうな危険なモノが、主人公と囚人たちのやりとりの中で扱われるシーンが出てくる。

 主人公はベンチを固定している大きなボルトをこっそり抜き取って隠し持とうとしている。これに目をつけ脅威を感じた連中に「そんな危険なものをどうするんだ、預かる」と奪われてしまうシーンだ。ボルトの存在は全ての囚人たちの間に顕在化しているわけではないものの、存在を知った者の間では、脅威を除去するとともに(むしろ、そのこと以上に)奪い取って独占することがある種の誇り(優越)を醸す何かなのである。そういうモノは強者の側が持つのがふさわしいのであり、獲得したい(奪いたい)と願う渇望の対象になるのだ。それは欲しがる側からの「勲章性」の発現である。

 そもそも主人公は脱獄のためにボルトを抜き取ったのであって、彼にとってはただの道具だ。それ以外の意義を付与されることは極めて迷惑なことだ。他人に見せて誇ろうとするわけでもない。しかし、彼はボルトを持つことによって危険な立場となる。少々大きめだが単なるボルトを欲しがる囚人たちは、ボルトが欲しいこと(所有すること)を通じて関係の優位性を誇示したいのだ。

 まあ、このような争いの構図は刑務所に限らず一般世間でもあるよねえ。もちろん、これはナイフであってもあり得る状況である。ナイフであれば用途がハッキリしているだけに鮮明に状況化するだろうね。

 ここで一つの観点を導入したい。世間というものが一元的な社会ではないことは言うまでもないが、「表社会/裏社会」という二分法で考えてみよう。(大雑把には、一般社会とマフィア社会の並立とかイメージしてもよい。ただし、細かく表社会は多元的であり裏社会も多元的である。まあ、裏社会とは、心的には表社会の価値観の方向が逆転しているパラレルワールドなのだが、何から何まで逆転しているわけではないんだけどさ)

一般世間では…
表社会の〈ナイフ〉=危険なもの→管理(制限/禁止)して使うモノ→社会化した管理
裏社会の〈ナイフ〉=危険なもの→獲得(許容/独占)して使うモノ→序列化した顕示・賞賛

「監禁的/強制的/制限的」な環境では…
表社会の〈ナイフ〉=危険なもの→管理(制限/禁止)して使うモノ→環境化した管理
裏社会の〈ナイフ〉=危険なもの→獲得(許容/独占)して使うモノ→序列化した顕示・賞賛

 こうみると〈ナイフ〉にとっては、一般世間と刑務所はそれぞれに「表/裏」を内蔵するパラレルワールドのようだ。つまり〈ナイフ〉は一般世間でも刑務所でも(それぞれの「表/裏」の二重構造の中で)ほぼ同じ振る舞いをしている。(念のため、刑務所における「表/裏」は、まずは「看守/囚人」に対応する)

 そして、表と裏で〈ナイフ〉への意義づけ(振る舞い)が違うのだ。

 表社会でも裏社会でも(つまり表とか裏とか関係なく)同じ意義づけで管理されるのは〈糞〉だ。〈ナイフ〉が〈糞〉と違うのは、我々のまわりの「表/裏」社会の二重構造の中で、表と裏で違った意義づけになることなのだ。端的に言えば、危険な〈ナイフ〉は表社会では「管理」されるのだが、裏社会では危険なもの(表社会で禁じられるもの)は「獲得」されるのである。

 これは管理が自らの原則を「制限と禁止」でルール化しているのに対して、獲得が自らの原則を「許容と独占」でルール化していることを意味するのだ。管理(表)社会は自他に対して「制限と禁止」から発想するのだし、獲得(裏)社会は自他に対して「許容と独占」から発想する(ルールを作る)のであ〜る。

 だから、このときの獲得の心的運動とは、獲得したものの分配の意義づけにおいて、序列化の上位への集中化であり顕示化であり独占である。そして獲得が困難なものほど賞賛を強要してくるのだ。すなわちこれが〈ナイフ〉の「勲章性」の発現である。

 さて、またも話が横道に入ってしまったねえ。話を〈屁〉に戻そう。ここで何が言いたかったのかといえば〈屁〉の「勲章性」の発現における特異性だ。というか、そのこと自体は別に奇異ではないのだが、発現の構造が見えにくいということはあるわけだね。

 不浄だったり危険なものというのは普通は否定される。といっても、この世から完全に抹消するわけにいかないものは、何らかの(物的・心的)処理が加わって、妥協的に忌避されることになるのである。そういうものとして〈糞〉や〈屁〉や〈ナイフ〉が存在するのだ。まあ、思いつく範囲のそういう忌避物の典型として抽出したんだけどね。

(ア)忌避物である〈糞〉は場所や組織を問わず、どこでも生活上の必須の一風景として淡々と(当たり前に)処理され管理される。さらに(肥料とか健康のバロメーター試料として)有用性も追求される。このとき「勲章性」は発現しない。

(イ)同じく不浄感で忌避される〈屁〉は、一般世間では誰でも万人が絶滅を願う無作法として受けとめられる。生活への有用性はないに等しい。しかし、刑務所や軍隊や寄宿舎など「監禁的/強制的/制限的」な環境で「勲章性」が発現する。

(ウ)危険性が忌避される〈ナイフ〉は生活を便利にする有用性も大きいので、社会の表で制限・禁止的に危険が管理される。裏社会では、攻撃的で危険なナイフほど珍重され渇望され「勲章性」が発現する。社会の表裏性に関係し影響を受けている。

 以上は次のようにまとめることができる。
      勲章性 無作法 危険性 表裏性
  〈〉→  ×   ×     ×   関係なし
  〈〉→発現する ○     ×    関係なし
ナイフ〉→発現する ×     ○   影響受ける

 どうだろうか、ここまでくると「勲章性」が発現する要因として見出せるのは「無作法」と「危険性」ではないのかという考えに至るだろう。かくして、ここで「勲章性」の発現もなく「無作法」でもなく「危険性」もない〈糞〉は、話の流れからはご遠慮願わなければならないのであ〜る。
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2009年02月21日

続続続続・軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ

 ワザと放った〈屁〉や持っている〈ナイフ〉が勲章のように輝きを持つ(場合がある)のはなぜなのか。この不可解ともいえる現象の解明に、アーでもないコーでもないと〈屁〉の理屈を展開してきたわけだが、何となく糸口がつかめたような気になったんだけどねえ。要するに、

 ――〈屁〉の「無作法」と〈ナイフ〉の「危険性」が関係している。

 さて、ここからなのだが、もちろん〈屁〉にしても〈ナイフ〉にしても勲章になるには条件があった。一定の状況(環境)でないといけないのである。それらを関連づけるとこうなる。

〈屁〉―――無作法―監禁的/強制的/制限的な環境
〈ナイフ〉――危険性―社会の表裏性における裏の社会

 ここでまたもや横道にそれるが、「監禁的…環境」と「裏社会」の違いを少し検討しておこう。(はいはい、これも〈屁〉の理屈の補強でございます〜)

 刑務所とか軍隊とか寄宿舎というのは程度の差はあっても「監禁的…環境」である。これは視覚的にもそうなっているね。塀とか壁とか物理的にも隔てられた世界になっているわけだ。この隔てるという営為は人間の特性であり、最も卑近な囲い込みとしては(世間内にある不可避の隔壁として存在する)家とか部屋というのもそうだろうか。ま、これは監禁ではないわけだが。(また横道にそれるが、別に我が家がそうであるはずもないが、何と〈屁〉が勲章になる家庭もあるらしいんだよねえ〜)

 刑務所とか軍隊とか寄宿舎とか隔壁度の高いところでは、その集団理念を補強(実現)するために、あえて物理的な隔壁で囲んで、そこに「身体束縛」と「管理/被管理意識」を強く強く同伴させているのである。物的にも心的にも非常に高く厚い隔壁を用意することは、そこに所属する(させられている)人にとっては、単に身体が隔壁の内にある(収監)か、外にある(外出)かだけでも、心的な構えに雲泥の差が生じることになるんだねえ。

 このような「監禁的…環境」はもともと世間に包含され、物的に構成され、心的に構造化され、自由かどうかは別として出入りできる世界になっている。端的に言えば、それは強く囲まれた施設物である。しかし内外のどちらにいても、所属する(させられている)限りは、その環境からの牽引(社会的立場)に引っ張られざるを得ない。(物理的な隔壁のない「監禁的…環境」も想定されるが、この議論は今回はナシ)

 ――「監禁的…環境」は集団理念が隔壁によって視覚的に(また心的にも)顕在化している施設である。

 一方「裏社会」なるものには物理的な隔壁はなく、世間に向けて心的に分泌して出来上がった見えない隔膜(のようなもの)である。膜の表と裏では価値観が裏返しになっている。だたし、それは個人的なものではなくて、集団的な理念の膜である。同じ膜を持つ者同士が「裏社会」を構成するわけだ。

 これは必ずしも世間に反旗をひるがえして対峙する集団というわけではない。闘争は世間内の争いだ。そもそも「裏」とはそういう意味ではないのだ。仮に対立しているように見えても「表/裏」は世界を共有しているのである。例えば「男/女」や「教師/生徒」とかのように、お互い相手がいなければ存在意義を失うような関係に類比してみることができる。

 だがしかし、「男/女」や「教師/生徒」が「表/裏」なのかということになれば、これは全く違うのだ。なぜなら「男/女」や「教師/生徒」はお互いの存在を必須として同時に並存する対関係で世界を構成するが、ここで言っている「表/裏」のあり方とは、例えば「男/女」の世界の裏側に、男が女である(そして女が男である)ような世界があると考えるようなことだ。「教師/生徒」の場合には、教師が生徒である(そして生徒が教師である)ような世界が裏である。だから、

 ――裏社会では表社会の価値観が逆に辿られる。

 そういう世界は仮想(フィクション)的にはいくらでも考えることができるよねえ。まあ、いろいろ妄想のたくましい人は多いわけだが、それを現実化しようとしても、逆にリアルな現実に淘汰されてしまって妄想は雲散霧消させられてしまうことが多い。しかし、これを無理やり現実化しようとすれば、我々は裏社会の構築へと走る(場合もある)わけなのだ。(ここでは裏というのを共有する社会化志向の心的運動としてとらえており、単独で内面化してしまう裏は別の議論になる)

 といっても、それは反体制の武装蜂起をするわけではないのであって、裏社会はそこにある現実の世界に膜をかぶせ、見た目には現実(表)と何も変わらないままに裏の現実を現象させているのである。表は全く普通の貿易会社だが、裏はマフィアの組織であったとして、その会社の組織(の秩序)は表から見た場合と裏から見た場合とでは意味づけが全く違うであろう。

 裏を現象させている見えない心の隔膜には、目に見える隔壁と違って物理的制約はなく、至るところで心的に現象しやすいね。つまり、相手(対象)は選ぶにしても、所を選ばない。それに隔膜を共有する裏社会の住人たちはまた、表社会の住人たちでもあるのである。そして裏はしばしば複数発生するので(もちろん表も同様なので)それぞれいくつにも属すること(兼務)ができるのである。このように、

 ――裏社会は集団理念が非視覚的な心的隔膜によって(心的に)顕在化している場所である。

 当然ながら「監禁的…環境」の「内/外」と「裏社会」の「表/裏」は概念が違うね。両者の関係(両者が共存する仕方)をテレビドラマ「プリズン・ブレイク」の観察から考えてみよう。(おいおい、まだ続くのかよ?…ですが、ちょっとだけ〜)

 刑務所は「監禁的…環境」であり、看守と囚人の世界である。外から見れば、看守と囚人は「刑務所の住人」として同じくくりである。そこでは看守と囚人が「監禁」されているわけだ。とはいっても、もちろん看守と囚人とでは立場が違う。看守は管理する側であり、囚人は管理される側となるね。

 刑務所は社会から管理されている施設である。その刑務所内では看守が監房に囚人を閉じこめて管理している。公認の社会構造として外から「管理/被管理」の連鎖が続いているわけである。このとき「内/外」の認識は物理的な隔壁をアクセントにして成立している。まあ、これは視覚的にもわかりやすい。

 では、このドラマで「裏社会」はどのように現象しているのか。実はドラマの背景をなす政治的陰謀というのがあるのだが、これが「表社会」に密着する「裏社会」として出てくるのだ。正体は何だかよくわからないが、副大統領を牛耳り足蹴にするような(逆の秩序を持つ)強大な裏の組織(秩序)を暗示している。しかし、それはアメリカ社会そのものを否定しているのではないのだ。まさに「裏」の秩序で「表」の現実を組み替えて「裏社会」として現象しているのである。この「裏社会」の陰謀に巻き込まれ死刑となる兄を救出すべく、主人公はワザと銀行強盗をして刑務所に収監されるのであった。

 主人公は何に立ち向かっているのかといえば、もちろん「裏社会」である。主人公は表の意味では刑務所に「収監」されるわけだが、裏の意味では自ら進んで「潜入」するのであって、そこは「裏社会」の刑務所でもあるのだ。兄の死刑は「裏社会」からの死刑でもあるのだ。このときの「裏社会」は刑務所の内にも外にも現象している。今のところ兄は表でも裏でも死刑なのであり、主人公は表と裏を行き来しつつ、裏を振り払って(裏の曝露によって)表で復権する戦いを強いられているわけだ。

 主人公が身を投じた刑務所は主人公と兄の事情とは関係なく、厳然と表社会の「看守/囚人」の世界があり、かつまたいくつかの「裏社会」も現象している。「看守/囚人」という表の外枠は厳然とあるが、刑務所の外から「裏社会」(マフィア)を持ち込んでいる親分もいれば、囚人仲間で徒党を組み所内の独占的な「裏社会」(ヤクザグループ)を作っている悪党もいる。それにまた看守の悪党も裏の顔を見せて囚人たちの「裏社会」に出入りしている。(まあ以上は、物語の構造としてよくあるパターンですな)

 このように物理的な壁を持つ刑務所そのものは社会の表裏性には関係がなく存在している。つまりその表裏性は、そこが刑務所であろうがなかろうが関係がなく現象している。そしてまた、物語の構造上はともかく、本来は「表/裏」は「善/悪」と必ずしもイコールではない(実は関係ない)のである。

 さ〜て、ここからが〈屁〉である。くどいのだが、もう一度まとめ直すとこうなる。

〈屁〉――→「裏社会」であってもなくても「監禁的…環境」で勲章性発現→無作法から勲章喚起
〈ナイフ〉―→「監禁的…環境」であってもなくても「裏社会」で勲章性発現→危険性から勲章喚起

posted by 楢須音成 at 13:15| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月28日

続続続続続・軍隊で〈屁〉が勲章になるのは何でだろ〜ヵ

 無作法が誇らしいとか、危険なモノが誇らしいというのはどういうことなのだろうか。誇らしさを実現する典型として、我々は〈屁〉と〈ナイフ〉を見出したのであった。

〈屁〉――→無作法から誇らしさ(勲章)を喚起する
〈ナイフ〉→危険性から誇らしさ(勲章)を喚起する

 無作法な〈屁〉が勲章性を発現するのは「監禁的/強制的/制限的な環境」だったね。例えば、刑務所や軍隊や寄宿舎のような環境は、普通の感覚では、圧迫されるというか窮屈な感覚を持たざるを得ない環境である。まあ、程度の高低はあっても囲い込まれている(あるいは閉じ込められている)という感覚がある。それを望むか望まないかは別として、その環境を複数の他者と共有しあっている(意識し合っている)状況なのだ。

 そこは目に見える形で物理的隔壁が空間構成しているのが特徴である。まず、考えてみたいのは、そういう空間では〈屁〉はどういう現象を呈するかということだね。そりゃまあ、それは密室の〈屁〉に近いわけである。そこでは極めて他者を意識した状態にある。つまり、異臭異音が強調される(されやすい)空間なのであ〜る。

 臭くて大きな音の〈屁〉は恥ずかしいよねえ。一般に〈屁〉のニオイや音に敏感になることは恥ずかしさに比例しているわけだが、自分の〈屁〉のニオイや音を強く感じれば、普通は恥ずかしい。本来ならば〈屁〉はとても恥ずかしいのだ。

 ところが、臭くて大きな音の〈屁〉が誇らしい勲章になるのだ。なぜだろう?

 無作法を犯すのは失態だし、他者の前に〈屁〉をさらすことは痛恨の失態なのだ。普通はね。これが「監禁的…環境」になると、こうなる。繰り返しになるが、セルジュ・ゲンスブールの「エフゲニー・ソコロフ」から引用する。
その雑居房で人間がどこまで野卑になれるか目の当たりにした。実に人間というものは、狭いところに閉じ込められ、何もすることがなくなると、毛穴をも含めた全身の穴という穴から、できるだけ臭い匂いを是が非でも放出しなければならぬと思うようになる。というわけで、私の軍用ガスは、コーンビーフやインゲンばかり食べさせられて栄養不良になっている同房の連中を悦びでくらくらさせ、競争心を煽られた哀れな男たちのなかには、ガス抜きに励んでいるうちに、糞が飛び出しそうだと叫びだす者までいて、空気はすぐに悪臭に満ち、呼吸できないほどになった。
(田村源二訳))

 ここに観察されているのは、競争心に煽られてひたすら〈屁〉をこき回る囚人たちの姿だ。こういう「閉じ込められる=することがない」状態では、無作法が悦びや誇らしさを表現するものになってくるのだ(ろうか?)。このときの「することがない」という状態を考えてみる必要がありそうだねえ。

 確かに「閉じ込められる」ということは何らか自由を奪われていて、幽閉の極端な状態では何も「することがない」んだね。思えば、こういう状況は外にある「秩序や作法を奪われている」のだが、それを裏返すと「秩序や作法から解放されている」状況ともいえるわけさ。

 だから注目すべきは、ここに現象している「することがない」状況というのは反面において、外の世界からの(心的)自由の状況を意味するということだ。それまでいた外の世界の秩序や作法から(他者または自己の意志で意図的に)遮断されており、結果的に(図らずも)外の世界からの呪縛を切り離され自由になっているわけである。(もちろん、その代償に身体まるごと束縛されて行動の自由は制限されている)

 ――隔離されたとき、もしそこに外の秩序や作法がなければ振る舞いは自由であ〜る(でしょ?)。

 それは何を意味するのか。そのとき無作法な〈屁〉がどういう振る舞いになるのか。よくよく考えてみれば、そこでは〈屁〉を無作法とし忌避してきた外の世界は遮断されているのだから、外の秩序や作法に縛られないアナーキーな〈屁〉が現出することになる。秩序や作法から解放された〈屁〉の誕生なのだ。(このとき外と同じ意味を付与すれば〈屁〉は無作法のまま振る舞うだろうが、作法を奪われた隔離された環境では、無作法はいったんリセットされるのである)

 さて、外の秩序や作法から〈屁〉がリセットされるのはいいが、そのあとの無意味さ(どうすればいいのか指針がない状態)に耐えられないのが我々の心性である。アナーキーな〈屁〉が現出した瞬間に我々の心的運動は意味を付与し始めるのだ。

 このとき、隔壁内に閉じ込められている我々の心性は、外の世界に対する何らかのアンチテーゼに傾斜しているね。それは自分が存在する場所での内と外の意識(閉じ込められた意識あるいは閉じ込めた意識)の発露であり、それをそのまま引きずっているからだ。だから、きっかけさえあれば、外との隔絶の度合いが高いほどに(外を意識するほどに)外とは違う(価値観を逆転するような方向に)別の秩序と作法を用意する心的運動が発動していく。(もちろん〈屁〉に内在するきっかけとは、異音異臭もそうだが、生理的快感が素直に発露しているとみるべきだ)

 そもそも我々のまわりで〈屁〉は非常に強固に無作法だ。その存在の無意味さ、無益さはピカ一だろう。この世間では、その異臭異音はどうころんでも作法には定位されないんだけどね。そういう無作法の〈屁〉が「閉じ込められる=することがない」環境の中で作法を一瞬忘れるとき(リセット)を経て、新しい意味が付与されるのだ。「おっ、いい音するじゃねえかよッ」とか「(笑いながら)くっさー」とか、思わず知らず外の世界の作法から解放された声を発して〈屁〉を受け入れるのだ。

 そういう〈屁〉の、いわば心の通過儀礼が行われると誇らしさへの復権の道は一瀉千里となる。

 何かに反発する心的運動はこのような場合、外の世界からの圧力に比例するから、無作法ゆえに嫌われ忌避された〈屁〉は露悪的な振る舞いで起動し、復権をめざして現象してくる。そこでは生理的快感が表現され異臭異音が誇らしく意味付与される。これが、

 ――第一段階の〈屁〉の勲章性の発現であ〜る。

 外の世界の負の属性である異臭異音は逆に誇らしいものとなり、強いニオイと大きな音であればあるほど、それは自慢になるね。かくして、世間との隔壁を持つ「監禁的…環境」はセルジュ・ゲンスブールが描いた軍隊のような〈屁〉の王国になるのだ。

 表層をまとめると、こうなる。
(1)隔壁でへだてられた「監禁的…環境」で〈屁〉はいったん秩序や作法(からの意味付与)がリセットされ、新たな意味を求め始める。
(2)このとき、外と価値観を逆転させる心的運動が起動し、本来の生理的快感をベースにした〈屁〉の肯定感が形成され、異臭異音が誇らしいものとして意味付与される。

 深層をまとめると、こうなる。
(ア)外の価値観から遮断された「監禁的…環境」にいること自体がリセットの環境である。外から持ち込んだ意味が瓦解しているような状況では、新たな意味を求めるのは自然の成り行きだ。
(イ)価値観の逆転現象は、壁の内側という閉鎖空間にいる意識の反動性(外への対抗意識)によって極めて起こりやすい。そのときの閉鎖空間とは外の世界の何らかの否定をポリシーに組み込んで成り立っているのだから、外とは逆方向に価値観が辿られやすい空間である。

 いや、まてまて、これだけではまだ〈屁〉が勲章になる現象の完全解明には至っていないだろ〜。
posted by 楢須音成 at 10:00| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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