2008年12月01日

逮捕に至る事件の〈屁〉の振る舞い

 世間には、時に愛敬者の〈屁〉の振る舞いがあるとしても、ある時には犯罪としての〈屁〉が現象してしまうことがある。最近、Yahoo! Japanで見つけたこんな記事。
授業中にオナラ、12歳の少年が学級崩壊を引き起こしたとして逮捕される

アメリカのフロリダ州で、授業中にオナラをするなどして学級崩壊を引き起こしたとして12歳の少年が逮捕されたそうです。

生理現象である以上、授業中や仕事中、生放送中であっても出てしまうものは出てしまうと思いますが、もしかすると周囲が意識を失うような強烈なオナラでもしたのでしょうか。

詳細は以下の通り。
Florida Boy Arrested For Passing Gas - November 21, 2008

この記事によると、アメリカのフロリダ州で12歳の少年が11月上旬に逮捕されたそうです。これは少年が11月4日、学校での授業中にオナラをしたことで、学校を混乱させたからとのこと。

また、彼はオナラだけでなく級友のパソコン複数台を意図的に停止させたことについても告発されており、これにより学級崩壊を頻繁に引き起こしていたことが今回の逮捕につながったとしています。ちなみに逮捕された後、少年は母親に引き渡されたそうです。

オナラをしたことが逮捕の決め手となったようですが、パソコンを複数台意図的に停止させたことだけでも十分罪は大きかったのではないでしょうか…。
――2008年11月25日 / 提供:GIGAZINE

 リンク先の記事を辿ってみると、記事といっしょに警察のレポートがスキャニングされて貼り付けてあった。ホントに少年が逮捕されている。〈屁〉やらパソコンの停止やら執拗に繰り返した挙げ句の逮捕のようだ。12歳といえば小学校6年生か中学1年生。こういうニュースの場合には話を面白くするために〈屁〉をこじつけることが往々にしてあるものだが、警察のレポートにも〈屁〉はしっかり明記されているんだよねェ。DQNな生徒は日本にもいるが、まだ屁こきのDQNは知らんわ。

 このように〈屁〉が不快な武器として攻撃的に振る舞うのは、もちろん〈屁〉をする人間が心に突き動かされて〈屁〉をそのように扱うからだね。周囲に向ける少年の心の深層には何があるのだろうか。笑いそうになるにしても、何やら社会問題を孕んでいるようでもある。これに比べれば、次の記事はいささか単純な心理かもしれない。
「屁がくさい」と避けた男性に暴力容疑 50代男を立件

 ソウル江東(カンドン)警察署は20日、通勤客の男性(58)が帰宅途中に地下鉄駅のホームでおならをしたところ、隣にいた別の男性(23)がにおいを避けようとしたことに腹を立て暴行に及んだとして、おならをした男性を暴行容疑で在宅のまま取り調べている。

 調べによると、19日午後7時半ごろ、ソウル地下鉄5号線千戸(チョンホ)駅ホームで、容疑者は突然大きな音をたて放屁した。

 この際、会社の後輩と一緒にベンチの隣に座っていた被害者が不快感を示し、座る位置を変えたところ、容疑者はこれを追いかけ、襟元をつかんだうえ、小指をひねるなどの暴行を加えた。

 容疑者は取り調べに対し、「生理現象なのにそれをとがめられたことで自尊心が傷つき、かっとなってしまった」とし、寛大な措置を求めた。
――2005年7月21日/朝鮮日報日本語版

 粗相とはいえない(と思われる)大きな〈屁〉をとがめられて腹を立てた男の振る舞いなのだが、何ともアホな話であるね。そして、この言訳はなかなかの強弁であ〜る。生理現象だからとがめられる筋合いではない、と男は言うのだ。自分にこそ理があると言うのだが、公衆の面前で放った大音響の〈屁〉の(他人が感じる)不快はお構いなし。それは理不尽ではないのか。

 ここでは〈屁〉の自尊心の依拠するところがピンぼけになっている可笑し味がある。生理現象を規範化した作法(人前で〈屁〉をしない)から踏み外しているのに(社会的な自尊心は身につけた合意の作法に依拠するものであるのに)利己的な自尊心を主張しているわけだ。こういうのは普通、非常識とかワガママとか自分勝手とかダラシナイとか言うね。まあ、自分の〈屁〉は決して臭くない(迷惑になるほどではない)という自分中心主義の人に多い。

 さて、学校での少年の〈屁〉は悪意で(目的があって)制御されたものだが、ホームでの男の〈屁〉は(作法に鈍感で)制御されずに出たものだ。同じように攻撃的な〈屁〉に見えるものでも、子細に見ていけば人間の振る舞いの差を際立たせてくるではないか。制御という観点を持ち込めば〈屁〉の実相が見えてくるのであり、ここから〈屁〉を契機に深遠なる人間論が生まれていいわけだよね〜。


posted by 楢須音成 at 00:07| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

法の下の〈屁〉を考察する

 脅威を与える〈屁〉が犯罪や訴訟の要件を構成するには、法に反するという根拠が要求される。近代社会の法が〈屁〉を意識して立法されているかとなると、まあ、それはないのだろうねェ。それでも〈屁〉が紛争のネタになることはあるわけで、最近でもアメリカの放屁少年や韓国の放屁オヤジを「目撃」した。

 もちろん日本でも、法に訴える事件はあるのだろうし、あったのである。福富織部の『屁』に「屁の訴訟」という一編がある。
 克庵居士の『南遊紀行』を見ると、放屁の主を訴訟した事實が記載されてある。蓋し、天下の奇聞であらうと思はれる。

 十月二日(嘉永五年)、晴、谷村(甲州)に抵(いた)る。郡内と稱(しょう)す。民俗廣悍(こうかん=気性が荒い)、訟を好む。孺子(幼い子供)尚ほ糺治榜笞(きゅうちぼうち=糾しムチで強制する)の状を為(まね)す。甚だ厭(いと)ふ可し、聞く、武田氏の世、此地を用ゐて罪人を放置する所と為すと、叉聞く、采地(=領地)ありて隷僕(=下僕)の棒に充つと、薄俗(酷薄な習俗)の由る所此に出づといふ。其村人、放屁に因つて、事を生じ、執争して解けず、遂に官に稱(とな)ふ、因循連年(幾年も古きにとらわれ)これが為、産(財産)を落すものあり笑ふべし、悪(にく)むべし。

 この訴訟事件に對し、どんな裁きをしたがしらぬが、一發の放屁も、此うなると由々しき悲喜劇を演ずることになる。この事は、明治六年の『東京日々新聞』にも甲州人の特徴を説明する資料として、引用されている。

 江戸時代に甲州(山梨)で屁の訴訟があったことを伝える記述だが、具体的な内容はわからない。村人が〈屁〉で紛争を起こし、裁きを申し出て、ついに財産まで失った者がいたという。気性が荒かったという甲州人の〈屁〉のエピソードである。

 詳細不明が迫力を欠くものの、なかなか興味深い。そもそも法に照らして〈屁〉が罪になるとはどういうことなのか。まあ、こういうアホなことを考察する人はいない――と思うのは間違いであ〜る。溝口白羊の『屁の喝破』に「屁の法律關係」という一編がある。
 屁の法律關係に就ては、これまでに餘り論じた學者が無い、思ふにこれは屁が民法上の物たる要素、及び刑法上の財物たる要素を具備して居ないからであらうが、斯の如きは法律上放屁が甚だ重要なる關係に立つことを忘却したものである。即ち以下に於て之を説明したいと思ふ。

 かくして白羊の説明はこうなっている。要約で引用してみる。
(ア)離婚叉は離縁の原因となる
 民法の解釈に従えば、配偶者や配偶者の直系尊属から虐待や重大な侮辱を受けたとき(あるいはその逆のことをしたとき)離婚の訴えが可能である。重大な侮辱とは裁判官の事実認定によって決めるべきだが、どんな振る舞いであろうとも名誉を毀損することはなはだしい行為を指す。それが、果たして重大な毀損かどうかは、その人の「社會上の位置境遇及び其社會の有する道徳習慣の如何に由つて自づから定まるべきものである、即ち此意味に於て配偶者の一方が一人以上の來客の前、若くは公衆稠人の前に於て夫叉は妻に對し屁を放りかけた所為は、其屁の大なると否とを問はず、離婚の原因たり得る」のである。ただし、そのような行為のあとに明示あるいは黙示で、配偶者や尊属親の振る舞いを宥恕(寛大な心で許容)し、また離婚訴権を放棄したと見なされる場合は訴えの提起は許されない。養子離縁の規定においても離婚と同様である。

(イ)推定相続人廃除の事由となる
 民法の被相続人(例えば、親)に対して、推定相続人(例えば、子)が虐待や重大な侮辱をした場合、被相続人はこれを理由に相続権の廃除(相続させない)を請求できる。「被相續人に対し、來客の前、公衆の中に於て侮辱の意見(いし)を以て屁を放りかけたるときは、其行為の只一回なると、叉反覆行はれたるとを問はず、廃除の原因となり得る」のである。

(ウ)刑法上犯罪を構成する
 これは二つの場合が考えられる。
 一つは「宗教の尊厳をけがす罪」である。この罪を構成するには、その行為が神祠、仏堂、墓所、その他の礼拝所に対して、公然と不敬な振る舞いをすることを要する。屁を放つような行為が不敬なのはもちろんだ。しかし、その行為は公然であることを要するので、隠れて屁をしても(神仏の罰あたりはともかく)刑法上の罪にはならない。公然であるということは、不特定多数の人に知覚される状況においてすることである。つまり「犯人が公然の状況に於て為す事の自覺の下に為したる場合は、知覺者の有無を問はず本罪を構成する」。ただ、仏壇が礼拝所の中に入るかどうかだが、立法論としては包含するものとしたい。
 もう一つの場合は「公然と人を侮辱する罪」である。規定では「事實ヲ摘示セズト雖モ公然人ヲ侮辱シタル者ハ拘留叉ハ科料ニ處ス」とある。これは公然の侮辱で名誉を毀損する刑罰だ。名誉とは人類の価値に対する社会の認識であり、我々が社会的生存によって受ける特殊な利益である。しかし、侮辱とは、どんな振る舞いであろうと、その価値を認めない判定の意思表示である。馬鹿野郎と罵ることも侮辱であり、放屁を人にしかけるのも侮辱である。規定では「公然」の侮辱とあるから、第三者の知覚しない状態の侮辱は決して本罪を構成しないにしても、現実に知覚があったか否かは問題ではないのだ。

 以上のように白羊は法の下で〈屁〉が罪になる要件を考察している。このような考察は〈屁〉の罪の立件には真面目な顔で当然やるのだろうし、笑いごとではないはずだ(ははは、屁理屈ぬきに問答無用の侮辱になりますか?)。しかし、どこまでいっても〈屁〉そのものが罪というわけではないね。現象する〈屁〉の振る舞いが罪なのだが、要するにそれは、人間の振る舞いが〈屁〉に転嫁されているのである。

 白羊の考察の通りに〈屁〉の罪の核心は「侮辱」ということになる。そこには、人前には出せない恥ずかしいはずの〈屁〉が、一気に威嚇的なものに転化して放出されてしまう心的プロセスが潜んでいるのさ。

 さて、白羊は最後に〈屁〉の「侮辱」に加えて「債務」を考察しているのだが、これは〈屁〉の本質とはちょっと違うように思う。契約した「屁ひり男」の曲屁(屁の芸)が履行されなかった場合の問題を取り上げていて、ドイツの民事訴訟法まで持ち出している。しかしまあ、そこでは〈屁〉が内蔵する心的プロセスの特殊性という意味が希薄であり、曲屁と一般芸との区別が特にないよねェ。
posted by 楢須音成 at 00:37| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月14日

自分の〈屁〉が臭くないのは何でだろ〜ヵ

 まぎれもなく屁が臭いというのは化学的に説明できる現象である。それは客観的な事実だ。しかし一方では、我々にとって〈屁〉が臭いというのは、極めて主観的な現象だと言わねばならない。だから、我々の身辺を見ても、他人の〈屁〉は臭くても自分の〈屁〉はあまり(あるいはゼンゼン)臭くないのであ〜る。

 どうしてこんなことになるのか。

 この「臭くない」という基本的姿勢は「自分の糞は臭くない」「我が家の便所は臭くない」「我が家で飼っているペットの糞は臭くない」に通じるものがあることは自明だ。さらに、とある家庭では「我が子の屁は臭くないけど、夫の屁は臭い」とか「自分の屁も嫁の屁もちっとも臭くない」とかの嗜好を示す人もいるんだよなあ。まあ、ニオイ源に同化するということもあるのだろうが、我々は自分という身体のテリトリーにある〈屁〉のニオイを脱臭し、観念に囲い込む習性があるようだ。テリトリー(自分)と強調するからには、その先には比較する他者(の屁の悪臭)があるわけだ。

 注意したいのは「自分の〈屁〉は臭くない」という観念(認知)の裏には「あなたの〈屁〉は臭い」という観念が付着していることである。つまり、二つの観念が対人関係の中で表裏の対になっている。(どちらがどのていど強く出てくるかによって、我々の態度や行動が規定されるのである)

     (自己)臭くない←「」/「」→臭い(他者

 この表裏性において、自分の〈屁〉が臭くないというのは他人の〈屁〉が臭いことだし、他人の〈屁〉が臭いというのは自分の〈屁〉が臭くないということなのである。

 で、ここがポイントなのだが、どっちも(仮に同程度に)臭いような場合には、常に自分の〈屁〉の方がより臭くないのであ〜る。つまり〈屁〉の「臭くない/臭い」の表裏性はフィフティ・フィフティではあり得ず(臭気の全体を100とするなら)主観的な臭気の度合いは「自分30なのでアナタ70」とか「自分20なのでアナタ80」となるのであって、自分の臭さがゼロのとき(つまり、屁をしていないとき)は相手の臭さは最大になるわけである。一方、相手の臭さがゼロのとき(つまり、屁をしていないとき)は、一転して自分の臭さが最大になるわけであ〜る。(この身勝手な認識構造はお互いさまだねェ)

 しかし、よくよく考えてみると、この表裏の関係は相手の存在がある状況下で発生する。誰も相手がいない(他人が目の前に存在しない)ときの自分だけの孤独な〈屁〉は体験的にも臭くないよねえ。(え?臭いですか。まあ、その点はちょっと留保して…)

 ところで、このように〈屁〉のニオイはかなり自分中心に現象してしまうのだが、ニオイを測定する客観基準はあるにはある。日本では1971年に制定された悪臭防止法から(社会化した)ニオイ(悪臭)についての規制が始まった。臭気物質の特定状況下の存在量(濃度)が規制基準値として定められているほか、臭気判定士が行う悪臭調査(臭気測定法による臭気指数規制)などが導入され、ニオイの客観評価が行われている。しかし、これを〈屁〉に応用すれば、かなり客観的な判定ができるかといえば、大いに疑問なのである。

 ちなみに臭気指数(感覚量をその刺激量の対数に対応させたもの)とは「N=10LogS (N:臭気指数、S:臭気濃度=無臭の清浄な空気で希釈したとき,無臭になるまでに要した希釈倍数)」で求められる。つまり、指数Nは値が大きいほど臭いわけである。

 また人間の嗅覚による臭気の判定(強度表示)は次のように基準が設定されている。なるほど、これだと〈屁〉においてはレベル0か1ぐらいがいいわけだよなあ。
 レベル0→無臭
 レベル1→やっと感知できるにおい
 レベル2→何のにおいであるかがわかる弱いにおい
 レベル3→楽に感知できるにおい
 レベル4→強いにおい
 レベル5→強烈なにおい

 しかし、このように客観評価の方法を提示されたとしても、判定の客観性は一定の説得力を認めながらも、やっぱり疑問なのさ。我々はなかなか〈屁〉の客観評価を信じられない。なぜなら我々の嗅覚による比較では、自分の〈屁〉はどんなに臭くてもレベルダウンした検知(になっているもの)なのだ。さらに他人の〈屁〉は臭い。これはレベルアップした検知(になっているもの)だからだよねェ。

 そこではまぎれもない事実として臭い臭い〈屁〉が漂っており、嗅覚によってそれはしっかり検知されているのだ。このときの〈屁〉は一つの物質というより、まさに「状況」そのものだね。我々の嗅覚(検知)はその状況に投げ込まれ、果敢にその状況を受けとめて「解釈」「判断」「行動」しているのであ〜る。

 さて、少々横道にそれた。留保した一人でする〈屁〉の問題に戻ろう。こういう川柳がある。
(ア)屁を放つておかしくもない一人者
 ※一人者=独身者、一人ぼっちの境遇。
(イ)おのが罪おのれをせめる紙帳の屁
 ※紙帳=紙のカヤ。通気が悪くニオイがこもる。

 ここに共通するのは(相手がいない)一人のときの〈屁〉の振る舞いであることだ。最初の(ア)は自分の〈屁〉に無反応な態度であるが、(イ)はあまりの臭さに反応してしまっているわけである。どちらも相手がいない一人芝居の状況である。まあ、よくある光景ではないだろうかねェ。

 この(ア)はわかりやすいはずだ。他者がいないところ(無人の孤島とか)で一人ぼっちであれば、大きな音も臭〜いニオイも、自分の〈屁〉は「おかしくもない」。たとえヒドくにおったとしても反応する気分ではない(臭くない)はずだ。つまりそれは、ゲップなみの生理現象になっているのである。

 一人ということでは(イ)だってそうだね。であれば、最初に確認したように自分の〈屁〉なのだから臭くないはずなのだが、実は自分を責めるほど臭いのである。これも体験的にもわかるよねェ。確かに密室で〈屁〉をしたら臭いのである。まして紙袋みたいなカヤの中では臭かろう。これはどうしたことか。

 ここで(ア)と(イ)を隔てるポイントはカヤなのであ〜る。カヤは心的には一種の心の囲い込み(自分を他者と隔てるという形で他者を意識すること)なんだね。視覚的にもこの囲まれた壁のような圧迫(観念)によって〈屁〉の臭気が際立ってくるのだ。カヤの機能は蚊を侵入させない防衞にあるわけだが、そういう自己防衛という心的な構えは他者存在を意識するのと同じであり重なるのであって、そこでは(他者がいなくても)ニオイにセンシティブになってしまっている(鼻腔が開いている)のだ。生物には本来ニオイは生存(延命)に欠かせない判断信号なのであ〜る。しかもカヤに誰かが入ってくることが予定されてでもいたら(それこそ他者を意識しているから)猛烈に臭く感じて慌てるだろうさ。(無人島で紙帳をつっていたらどうだろうねえ。多分クサか〜)

 ここにどうやら、我々の〈屁〉の臭さは客観基準に対応せず、対面する他者の存在(意識)が隠微に関係していることが示唆されるのである。
posted by 楢須音成 at 19:39| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月19日

続・自分の〈屁〉が臭くないのは何でだろ〜ヵ

 自分の〈屁〉が臭くないというのは、単にそう思いたいせいではないか、という意見は一理あるね。というか、まさにそういうことなのか? まあ、そういうことなのだろうねェ。しかし問題は、気のせいにしても、なぜ臭くないのか、ということなのであ〜る。それは単なる気の持ちようではないのではないか。

 対面してお互い〈屁〉をした二人の間では、客観評価基準とは別に、自分の〈屁〉は(相手より)臭くないのであり、相手の〈屁〉が(自分より)臭いのだった。二人の間では、相手の〈屁〉が自分の〈屁〉を圧倒するのだ。もし自分の〈屁〉が臭いというのならば、それは相手が全く〈屁〉をしていないときなのである。
 しかし、自分の〈屁〉が「臭くない/臭い」というのは、そもそもどういうことなのか。

 そこでまあ、前回、二つの川柳をもとに紆余曲折しながら、まずは一人でする〈屁〉が臭いかどうかの考察に入っていったわけだが、要するに臭いときもあれば臭くないときもあるんだよ〜ということになったんだよねェ。このとき嗅覚スイッチをオフにしたりオンにしたりする何かがある、と思われた。それは何か。

 どうやら〈屁〉が臭い(におう)という現象には他者の存在(の意識)が影響していることがうかがえるのだ。

 スイッチ・オフ=臭くない→屁を放つておかしくもない一人者(他者を意識しない状況)
 スイッチ・オン=臭〜い→おのが罪おのれをせめる紙帳の屁(他者を意識している状況)

 いつでも我々の心には、他者の存在がいろいろな観念となって浸透しているのだが、そこに〈屁〉のニオイは漂ってくるのである。だから紙帳の中で〈屁〉をすれば、そこに他人が入ってくる予定がなくとも、入ってくることを(無意識にも)考えれば〈屁〉はたちまち臭いのであるよ。

 何ともはや〈屁〉のニオイは他者の存在を意識していることによって(強く)感じるのだ。つまり、スイッチがオンになる。だから、一人であろうと他者を意識したらそれは臭いのである。(紙帳の中のように密室的に他者を排除したことを意識した空間は、擬似的な他者意識に囲まれた環境であるから、ニオイに反応しやすく感じやすいのだ)

 このとき脳内に生起している他者の観念(観念の他者)はニオイを発しない(つまり、屁をしていない)存在だから、一方的に自分の〈屁〉は臭いのさ。

 では、ここでもっとわかりやすい例を一つ。〈屁〉をしない他者がいる目の前で、うっかり〈屁〉をしてしまった、という状況を検討してみよう。次は「四宿の屁」という江戸の落語にある話。福富織部の『屁』から引用する。(四宿とは、江戸から出る四つの街道の最初の宿場。品川、板橋、新宿、千住。格式は落ちる岡場所だったが、庶民的だった。これは品川の話)
 お客と寝た女郎、よつぽど尻癖の惡い女と見え、スツと一發洩らしたが、さすがに極まりわるく、足で布團(ふとん)をバタバタ持ち上げながら頻りに臭ひを消さうとしてゐると、
 客『モシ花魁(おいらん)、何をしてゐるんだえ』
 女『アレ御覧よ、あすこに綺麗な帆掛(ほかけ)船が通るから見てゐるのさ』
 客『成程、ありゃ肥料(こやし)船だな』

 ははは、我々もこれに類する隠蔽工作はするのではないかなあ。女は自分の〈屁〉のニオイに狼狽してしまっているわけだが、男は男で(愛しい女の〈屁〉に気づいているのかいないのか)鼻つまむニオイを肥やしのニオイと思っているのである。(男の態度は女の屁に全く気づいていないともとれるし、本当は気づいてワザと皮肉を言っているともとれる。まさに、どっちつかずのそこが眼目となって、いっそう可笑し味をかき立てているわけだけどね)

 ともあれ、このとき女は男の前で自分の〈屁〉が臭い(と思っている)のである。

 →男の前で〈屁〉を「した」→臭くない自分の〈屁〉は無念にも臭〜い/男の〈屁〉は臭くない
 →女の前で〈屁〉を「していない」→臭くない自分の〈屁〉は当然臭くない/女の〈屁〉は臭い

 このように「自分の〈屁〉は臭くない」という命題は、他者に知られたくないという強い他者意識によって〈屁〉をしない他者の前では無力なのだ。だから、このとき男が〈屁〉をしたわけではないのであるから(ニオイを発しないのだから)女が自分の〈屁〉が臭いと思うのは(仕方がないのであり)必然なのであ〜る。このとき〈屁〉をしていない男は自信満々で自分は臭くないのだ。(当たり前だが)

 男が女の〈屁〉を検知してコヤシに比肩したニオイのレベルは、少なくとも3以上の威力があったと推定されるね。男にしてみたら、それが実際には客観評価基準レベル2であったとしても、レベル3以上と感じるわけなのだ。

 もちろん、もし男と女が〈屁〉をこき合ったのであれば、二人は自分の〈屁〉の方が臭くないと思うわけだよ。二人とも、自分も〈屁〉をしたが、相手もしたことを確認して(そのうえで)自分を主張するのである。つまり、女も男も〈屁〉をこいているのなら、二人は相手の〈屁〉こそが臭いと思うのだ。
 かくして、自分の〈屁〉が臭くないとか臭いとか感じる我々の心的運動はこう整理されるだろう。

(1)無人島(あるいはヨットで太平洋)ひとりぼっちの状況下にあれば、自分の〈屁〉は「臭くない」
(2)ひとりぼっちであっても(密室内的に)他者を意識した状況下にあれば、自分の〈屁〉は「臭い」

(A)二人対面して相手も自分も〈屁〉をした状況下にあれば、自分の〈屁〉は相手より「臭くない」
(B)二人対面して相手は〈屁〉をせず自分が〈屁〉をした状況下にあれば、自分の〈屁〉は「臭い」

 こう見てくると、自分の〈屁〉が臭くない(1)と(A)のケースを「陽」とするなら、自分の〈屁〉が臭い(2)と(B)のケースは「陰」である。どうだろうか。その相反する心的運動に潜むのは、やっぱり「他者の存在(の意識)」という、逃れられない我々の心の桎梏なのだと気づかなければならないのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 10:57| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

続続・自分の〈屁〉が臭くないのは何でだろ〜ヵ

 我々の〈屁〉がどうして臭いのかを、アーでもないコーでもないと熟考(?)吟味していくと、臭さを加速するのは「他者の存在(の意識)」なのだという見解に至る。自分の〈屁〉は臭くないという「真実」を、究極的にシンプルに言ってしまえば「自分の〈屁〉よりアナタの〈屁〉はもっと臭い〜」という、すこぶる単純な命題に帰結するわけであ〜る。

 このことは、ニオイの客観評価基準を無視する、どうしようもない我々の心的運動(エネルギー)なのであるが、まとめると次のようになるだろう。

一人のときにした自分の〈屁〉=一人芝居
(ア)自分のは臭くない(自分一人屁をした→自己の意識が高/他者の意識が低)
(イ)自分のは臭〜い(自分一人が屁をした→自己の意識が低/他者の意識が高)

二人のときにした自分の〈屁〉=二人芝居
(ウ)自分のは臭くない(相手だけ屁をした→自己の意識が高/他者の意識が低)
(エ)自分のは相手より臭くない(二人とも屁をした→自己の意識がやや高/他者の意識がやや低)
(オ)自分のは臭〜い(自分だけが屁をした→自己の意識が低/他者の意識が高)

 ここでいう自己の意識とは、自分がどう思われているかという自意識のことではなく、自己の存在について受けとめている意識である。同様に他者の意識とは、他者の存在について受けとめている意識である。一般にこの二つの意識は常にセットになっていると思う。そして、どちらかが高みにあらわれてくる。ここでは意識の高低をシーソーのバランスのようにイメージしているんだけどね。(シーソー意識論!な〜んちゃって)

 高くなったり低くなったりする二つの意識のシーソー状態において、(自己または他者の)意識が上位にあるというのは、他方を見下ろしている(上からの目線が注がれている)わけである。どうやら臭さを感じるのは自己の意識が低い位置にある(他者に見下ろされている)ときのようなのだし、臭さを感じないときには自己の意識が高い位置にある(他者を見下ろしている)ようなのだねェ。

 しかしまあ、ここまで、最初に「自分の〈屁〉が臭くないのは何でだろ〜ヵ」と問題提起しながら、なぜ「臭い」のかを延々と追究する流れになってしまった。その陥穽にはまってしまったのは「臭くない/臭い」の表裏性(臭くないから臭いがあり、臭いから臭くないがある)にあるのだが、自分の〈屁〉が臭くない心的構造が、先の(ア)(ウ)(エ)においてこそ現象しているのだと言いたいわけなのさ。

 これらの自分の〈屁〉が臭くない状況下では「自己の意識が高」なのだった。その高さの極限は(ウ)であろう。なぜなら相手が〈屁〉をして自分がしていない状況下では、自分は(屁をしていないので全く)臭くなく、相手が一方的に臭いのだから、自己の意識は最高の高みにあってもよいのであ〜る。

 そういうときの人間は余裕(皮肉とか)の態度をとる。高みからの意識は、例えば狂歌のこういう表現意識にもあらわれる。
すかし屁のぬしは誰とも知らねどもふるうてくれなしたかひのつま
※すかしたのは誰か知らんが、着物の裾の端っこを揺り動かすのはやめれ〜

くさい物に蓋をしておけ内にのみ屁をたれこみし箱入むすめ
※クサいおケツには蓋しておけよなあ、箱入娘がすだれをたらし内にこもる屁をたれた〜

 これらの作者は多分〈屁〉の現場にいたのだろうねェ。自分は〈屁〉をしていない立場で批評(観察)的に振る舞っている。狂歌に描かれた世界を満たしているのはニオイであり、作者は自分の鼻をつまみ(相手の屁が臭いと)批評しているわけなのさ。

 しかし、相手が〈屁〉をせず、自分が〈屁〉をした(オ)では、自分を「臭い」と批評する事態となるわけで、これは耐え難くも受け入れ難いことだ。(受け入れざるを得ないが…)

 狂歌にしろ川柳にしろ、他人の〈屁〉は面白がって描くのが普通だ。自分の〈屁〉の無様な振る舞いを描くのは極めて少ないね。それは、自分は別格(自己の意識が高みにある)という、表現(観察)する者の本質にもつながる意識の位置が関係しているからなのであ〜る。(もちろん人間は、自省とか自虐というような心性も持ち合わせていて、屁が臭い自分を表現や言訳の対象にしようともするんだが…)

 さて、自分が〈屁〉をしていない(ウ)に対して、自分が(または自分も)臭い〈屁〉をしてしまった(ア)と(エ)は、漂う〈屁〉の存在を認めざるを得ない。客観的に自分の〈屁〉がにおう状況にあるわけだね。ところが、におうのに臭くない(と感じる)のである。

 なぜか? 比較検討してみよう。

(ア)自分一人で〈屁〉をした→(自己の意識が高/他者の意識が低)→自分のは臭くない
(エ)二人で〈屁〉をした→(自己の意識がやや高/他者の意識がやや低)→相手より臭くない

 どちらの場合も「自己の意識が高」の状態であることは同じだが、ここに何が起こっているかを推定すると次のようになる。

(ア)対面する相手が眼前に不在=もともと人のいないところでは自分の〈屁〉を警戒しない→ニオイへの関心は薄れている(生物本能的に鼻腔は閉じている)
(エ)対面する相手が眼前に存在=対面し相手を見極めようとする場面では相手の〈屁〉を警戒する→嗅覚が先鋭化している(生物本能的に鼻腔は開いている)

 こうみると、注目すべきは鼻腔が開いているかいないかなのだね。鼻腔は他者に向かって開く。要するに、ニオイを感じる(臭い)というのは他者を識別しようとする心的・身体的運動なのだ。

 そもそも鼻腔が閉じていればニオイは感じないだろうし、そのとき鼻腔が開いていたらそれは他者の存在を嗅ぎ分けようとしているのだ。自分も相手も〈屁〉をした(相互に嗅ぎ分けの)状況下では、相手の〈屁〉のニオイが浮き立つのは当然だ。だから、自分の〈屁〉は常に相手より臭くないのである。

 自分の〈屁〉が臭くないとは、高みからの、自分に対するある種の(心地よい)無関心であるともいえるだろうね。他者がいればその分、他者に目線は注がれる。我々は内的実感のまま漠然と自分は自分と受けとめているが、目線の先に他者を識別することで自己を識別することになる。だから、混沌とした赤ん坊の時代から他者の登場(識別)によって我々はニオイを獲得し、成長してきたのである。

 体験的に我が子育てを振り返っても、赤ん坊はニオイの識別に鈍感なわけではないのだが、パパやママの〈屁〉のニオイを獲得して、さまざまに大騒ぎするのはかなりあとになってからであったなァ。

 かくして「自分の〈屁〉は臭くない(アナタの屁は臭い)」とする心的構造の基本は、我々の生物本能に出発して後天的に獲得していく心的な習性にあるのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 00:13| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

補遺・自分の〈屁〉が臭くないのは何でだろ〜ヵ

問題=次の小咄の〈屁〉をした男が「内より外がましだ」と言うに至る心的な背景を、男が感じるニオイの推移を辿りつつ、男の視点から解説せよ。

友だち四、五人咄いる中に、ひとりすかしければ「これは臭い、誰か放ったそうな」「これは臭い、たまらぬ」と、皆、ふところへ顔を入れる。放った男も同じくふところへ顔をさし入れしが「ムウ、内より外がましだ」というて顔を出した。
(1773年『再成餅(ふたたびもち)』)

 回答例は、このエントリの最後に。
 さて、見てきたとおり「自分の〈屁〉が臭くない/臭い」という議論は隠微に錯綜してしまうわけだ。それは(いわゆる客観基準に基づくのではなく)主観という心的構造の話だからだ。しかし、主観である「臭くない/臭い」という我々の振る舞いは、自分ばかりでなく他者にも向けられることがあったね。例えば――妻曰く「夫の屁は臭くない/臭い)」夫曰く「妻の屁は臭くない/臭い)」親曰く「可愛い自分の子どもの屁は臭くない/臭い」というような、身近な家族内における発言にもあらわれているのである。

 もちろん、一般に他人の〈屁〉は臭いのが普通だから、ここでは他人の〈屁〉が臭くないことが問題だね。これはどうしたことか。

 自分の〈屁〉が臭くないのは「自己の意識が高」であった。この状態は「自己の存在を受けとめている意識」が「他者の存在を受けとめている意識」よりも高みにあるのだった。あっさり言えば、心的に自己が他者を見下ろしている状態である。このときの〈屁〉はニオイを感じる表裏性(臭くない/臭い)において、自分の〈屁〉は臭くはなく、他者の〈屁〉は臭いはずなのである。理論的にはね。

 しかし、臭くない(ことがある)のである。これは疑問の余地なく、観察の結果、まぎれもなく現象しているのだよ。なぜか。音成はネットから回答を教えてもらった。ううむ、これは深くて確かな指摘だと思うよ。
愛情!?
ははは、このトピおもしろい!!!
私も自分と子供のオナラは許せる。ちなみに足の臭いも息子や自分なら嗅いじゃう♪息子のなんか「くっちゃーっ!!」とか言いながら何度も嗅いじゃう。
相手が誰であれ臭いことは臭いんだと思います。ただ許せるか許せないか。そこに愛があるかないかの違いではないかと考えています。
この理論でいくと私が愛しているのは「息子」「自分」「飼い犬」だけです。
――にほひ
2007年7月11日

(この掲示板でかわされている女性たちの〈屁〉の議論は鋭い観察と考察に満ちている。まことに素晴らしい。http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2007/0709/137343.htm

 そうだよねェ。愛があれば臭くな〜い。愛の原初の段階は(自己保存の生物本能的な)自己愛とも言うべきものではないか。だから、もともと自分の〈屁〉が臭くないのは当然なのだ。つまり「自己の意識が高」とは、究極的には原初の自己愛(のようなもの)に満ちた状態なのである。

 この原初の自己愛が(他者を受けとめることによって明確な)自己愛に目覚めたり、それが他者に転化される心的な手続き(愛の対象化)によって〈愛〉となり、愛する相手への同化の衝動が生まれる。すなわち、相手の〈屁〉は自分の〈屁〉と同じとなる。このときの愛という同化の衝動とは、相手を自分の高みに呼び寄せようとする心的運動なのだ。

 まあ、愛と言ってしまうと少々ハイブローな感じがするのだが、もとを正せば、愛は性を土台とした観念化(妄想)の産物である。自己愛もまた性を胚胎したものに違いないのだ。というか、原初的な愛と性は区別がつきにくいものではないのだろうかねェ。

 ともあれ、愛というものが「自己の意識が高」の状態にあって相手に同化しようとする(自分に引き寄せようとする)衝動だと考えると、愛する相手が放った〈屁〉は、自分の〈屁〉と同様に臭くないのである。臭くないどころか、一体感に恍惚としてしまって不思議はないね。

 しかし、愛がなければ同化の衝動はないから、相手の〈屁〉は臭い。愛がないとは、相手を単なる他者として見なしたり、あるいは見下す(対等以下に置く)ことでもある。シーソー意識論ではそういう自己と他者の意識のバランスを考えるわけさ〜。

(ア)「自己の意識が高」のとき、原初的な自己愛に満たされて自分の〈屁〉は臭くない(他者のは臭い)
(イ)「自己の意識が高」のとき、自己愛の拡張という同化の衝動が発生すると自他の〈屁〉が臭くない

 愛される側も同様であれば、これを相思相愛というわけであ〜る。自分の〈屁〉を愛せない人は、もとより人の〈屁〉も愛せないのだ。(自分を愛せない人は、人も愛せない)

 は? 愛していても臭いものは臭い? そうですねえ。そりゃまあ、識別信号としての〈屁〉はにおいますからねェ。うむ、確かに我が家族の大騒ぎは尋常ではない。それでも、嫌いな人の〈屁〉より愛している人の〈屁〉こそ耐えられると思うんですよ〜。ははは、本年も〈屁〉談義のうちに暮れ行く師走かな。

 回答例1
 仲間内で臭い〈屁〉が漂って大騒ぎになっている渦中の(透かし屁をした)私は、いっしょになって自分の〈屁〉のニオイを嗅ぎます。しかし、透かし屁の犯人とは思われていないし、バレる心配もほとんどないのです。それでみんなといっしょになって「臭〜い、臭〜い」と安心して騒ぎましたよ。
(バレる心配がないときは「他者の存在を受けとめている意識」は低い位置にあり「自己の存在を受けとめている意識」の方が高位にあるので、臭いと言いながらも、みんなと同じようには臭くないです。つまり、自己が優位にあるとき〈屁〉は臭くないのです)
 みんながふところへ顔を入れるのに同調して私も怪しまれないよう顔を突っ込んだのですが、ここで初めて顔をそむける臭い臭い自分の〈屁〉のニオイを感じました。
(ふところというのは、この状況下では一種の密室と言わねばなりません。そこに顔を突っ込むとは、密室で自分の〈屁〉を嗅いだのと同じです。密室とは他者から隔てられているが「他者の存在を受けとめている意識」が高位にあって成立する空間です。私はみんなに同調せざるを得なくなり、余儀なく追い込まれてふろころに顔を入れたのですから、このとき「他者の存在を受けとめている意識」は高位に上がってしまいました。ふところは閉じ込められた空間に等しいのです。つまり、他者が優位にあり、そこでは自分の〈屁〉は臭いのです)

回答例2
 仲間内で臭い〈屁〉が漂って大騒ぎになっている渦中の(透かし屁をした)私は、いっしょになって自分の〈屁〉のニオイを嗅ぎます。しかし、透かし屁の犯人と思われそうだし、バレるのではないかと心配です。それでみんなといっしょになって「臭〜い、臭〜い」と、あたり一面に漂う臭い〈屁〉が、まったく自分のものでないかのように騒ぎました。
(バレる心配があるとき、つまり他者が優位にあるときの自分の〈屁〉は臭いです。このときの不安や危機感においては、最初から「他者の存在を受けとめている意識」が高い位置にあり「自己の存在を受けとめている意識」の方は低位にあるので、自分の〈屁〉は臭いのです)
 みんながふところへ顔を入れるのに同調して私も怪しまれないよう顔を突っ込みますが、ここでも顔をそむける臭い臭い臭い自分の〈屁〉のニオイを感じました。
(この状況下で、ふところという密室に顔を突っ込むとは、狂気の沙汰です。密室は「他者の存在を受けとめている意識」が高位にあって成立する空間です。さらに私は、嫌々ながら余儀なく追い込まれて密室に顔を入れざるを得なかったのですから、このとき「他者の存在を受けとめている意識」はかなり高位になっています。つまり、他者がすこぶる優位にあり、そこでは自分の〈屁〉はもっともっと臭かったのです)
posted by 楢須音成 at 15:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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