2008年11月02日

補遺・〈屁〉が起動するとはどういう事態だろ〜ヵ

 我々は自分の〈屁〉が存在してほしくないと願う。そういう逃れられない悪夢のような否定性の主観を持っているんだね。このため〈屁〉は独特の起動をしてしまうのである。その根拠(心的構造)について、もう少し考えてみよう。

 世の中には屁から〈屁〉が起動しない人もいるかもね。しかしまあ、ピクリとも起動しないというのは大いに疑問ではあるのだが、全く冷静なそういう人の存在は考えられないことではない。例えば、研究者ならこう記述して発表するね。これは気象の大気を語るのと何ら相違しない姿勢だ。
 ところで、この腸内ガスの組成は、消化管内の部位によってもちがいます。胃内のガスの組成は空気(窒素78パーセント、酸素17パーセント)に似ていて、一つのデータによりますと、窒素79パーセント、酸素21パーセント、炭酸ガス4パーセントとなっています。これに対し、放屁の組成は、非常にまちまちで、一般的には、酸素は2パーセント以下で、残りは、窒素、炭酸ガス、水素とメタンです。それぞれのガス組成の個人差は大きく、窒素は23―80パーセント、酸素は0・1―2・3パーセント、水素は0・06―47パーセント、メタンは0―26パーセント、炭酸ガスは5・1―29パーセントと著しく変動することがミネソタ大学のレビットらによって調べられています。そして、その原因は唾液と一緒にのみこむ空気の量と腸内細菌のちがいによるといっています。
(光岡知足『腸内細菌の話』1978年、岩波新書)

 屁の素即ちDarmgaseはどれだけの物から成立つて居るか、一言簡単に云へば、嚥下したる空氣と及び膓内に於ける腐敗醗酵の結果發生したる瓦斯との混合せる者である。更にもつと詳しく云へば、普通左の如き比例の下に、存在するところの各種の瓦斯の混合である。
炭 酸        10・3
酸 素         0・7
メタン         29・6
窒 素        59・4
硫化水素        少許
水素           少許
メチールメルカブターン 少許
インドール        臭氣
スカトール        臭氣
炭酸瓦斯 外来のものでなく主として消化管内に生じたもので、酸性の胃内容物が膵液と膓液の炭酸アルカリ性に逢うて中和作用の結果發生し、或は含水炭素物の酪酸醗酵及び乳酸発酵に由つて生ずるのである(以下、混合成分の解説が続く)
(溝口白羊『屁の喝破』1914年)


 こうした屁の成分や成分比のような分析的記述(認識)は、日本では明治に入って西洋医学の所見として早くから知られていたようである。これに対して、江戸中期の百科全書『和漢三才図会』の「屁」の項の記述は次のようなものだ。東洋文庫『和漢三才図会』の現代語訳で引用する。
 思うに屁は人の気が下に泄ずるのである。実であれば音高く、虚であれば音は低い。食滞すれば甚だ(すえり)臭い。人前で放つのは傍若無人である。

 これは同じように客観的に観察していても、物自体の内部に踏み入って説明しようとするのではなく、物の動きや影響から説明していく姿勢だね。

 つまり、置いている視点が全く違うのである。ことに「人前で放つのは傍若無人である」というのでは、すでに屁が〈屁〉として「人前」に起動してしまっているではないか。
 ちなみに「屁」と対比的に取り上げた「風」は『和漢三才図会』の説明では次のようになっている。
 天地の気は、吐き出すと雲となり、溜息すると風となる。『釈名』に、「風は(漂い揺れること)である。その気は博くにして物を動かす」(釈天)とある。『説文』では、「風の字は虫につくり、凡声である。風が動き虫が生じる。だから虫は八日で化する」とある。(以下略)

 全くのところ「屁」も「風」も同様の観察(の姿勢)に終始していることがわかるね。
 このような日本人の精神面の(西欧流への)シフトチェンジは文明開化によって広範に及ぶことになる。国策となった近代軍隊や近代産業への国家再編(富国強兵)は、心的構造へのインパクトとして大きく響いたのである。軍隊化や産業化は外的世界の強力な編成のみならず、人々の脳内現象として根底からスパーク(心的構造のスクラップ・アンド・ビルド)したはずだもんねェ。「屁」の認識だってそうなのだ。「屁」だって西欧流に語られるようになったのさ。

 近代のそういう我々の姿勢について、物理学者の寺田寅彦はこんな言い方をしている。
 近代の物理科学は、自然を研究するための道具として五官の役割をなるべく切り詰め自然を記録する言葉の中からあらゆる人間的なものを削除する事を目標として進んで来た。そうしてその意図はある程度まで遂げられたように見える。この「anthropomorphism(擬人観)からの解放」という合い言葉が合理的でまた目的にかなうものだということは、この旗印を押し立てて進んで来た近代科学の収穫の豊富さを見ても明白である。科学はたよりない人間の官能から独立した「科学的客観的人間」の所得となって永遠の落ちつき所に安置されたようにも見える。
 われわれ「生理的主観的人間」は目も耳も指も切り取って、あらゆる外界との出入り口をふさいで、そうして、ただ、生きていることと、考えることとだけで科学を追究し、自然を駆使することができるのではないかという空想さえいだかせられる恐れがある。しかし、それがただの夢であることは自明的である。五官を途絶すると同時に人間は無くなり、従って世界は無くなるであろう。(後略)
(寺田寅彦「感覚と科学」1933年)

 国家指標となった富国強兵は、産業にしろ軍隊にしろ精緻な体系(を志向するもの)だね。この二つは、あらゆる分野の知識や技術を包含し、それを社会(国内外)に投下する組織であり製造である。その体系をになう人間(の振る舞い)を特徴付ければ、それが寺田のいう「科学的客観的人間」ということになるね。当然ながら、軍隊や産業の根幹は科学的客観的なスタンスの体系だ。

 しかし、寺田が指摘するように、人間は五官を離れては存在できないし、世界を構築することもできないんだね。寺田は近代における「科学的客観的人間」の優位を認めながらも、様々な場面で働く五官の統合作用に着目するのであるが、人は「科学的客観的人間」と「生理的主観的人間」のどちらにも偏することはできないのだ。……

 いやいや、こんな議論をしたいのではなくて〈屁〉の話だった。そこで寺田の文脈に沿えばですね、近代になって〈屁〉もまた科学的客観的に究められたのは当然なわけさ。しかし、それまで〈屁〉は生理的主観的に語られてきたのだった。この生理的主観的な視点が「anthropomorphism(擬人観)」的な観察となるのは自然だろう。つまりは〈屁〉へと起動する原点はここなのだ。

 引用した『和漢三才図会』に記述された「風」を見ても、それは「anthropomorphism(擬人観)」的なものだ。ここから〈風〉が起動するのは容易だね。古来から〈風〉は好んで詩歌にうたわれ、起動していたわけだ。

 ところで、今回『和漢三才図会』にあたってみて驚いたのは「風」の項目が(屁に比べて)分類も解説も随分と豊富なことである。というか「屁」はあまりに貧相な記述なのだと思い知った〜。「屁」は先に引用した記述で尽きる。なのに「風」の観察はそれなりに細かい分類を見せるのだ。「風」の概説に続いて、飆(つじかぜ)、嵐、暴風(はやて)、颶(うみのおおかぜ)、東風(こち)、西風、南風、北風、乾風(あなし)、艮風(うしとら)、坤風(ひつじさるのかぜ)、巽風(たつみのかぜ)…など、多彩に分類し観察も説明も細かい。こりゃあ、幾多の詩歌に繊細にうたわれてきたのもわかるねェ。

 では、なぜ「屁」の記述は貧相なのか。「風」と同じように「屁」も生理的主観的な起源を持っているではないか。少なくとも〈屁〉は「風」よりも容易に起動するのに、表現は封じられているように見える。いかにも不思議なのだが、要するに〈屁〉は語られざる(隠蔽される)起動なのだね。

 まとめるとこうだ。生理的主観的人間の立場からは「風」や「屁」は古来から「anthropomorphism(擬人観)」的な観察と説明が行われた。それは簡単に〈風〉や〈屁〉になり得る(起動する)ものだった。このとき、「風」が自然現象であるのに対して、現象する〈屁〉は自分の身体に直接的にかかわるために、〈風〉よりも容易に起動してしまう。というか、我々はそれを発するときから起動した〈屁〉なのだ。しかしそれは、異音異臭からくる「存在しないでほしい」という否定性の主観をまとっているために、言葉を慎み隠蔽されるという形で起動することになるのである。〈屁〉の表現が貧相なのはそのためといえるんだね。

 歴史的に〈屁〉は語られざる現象であった。『古事記』に糞尿は登場しても〈屁〉は全く登場しないのである。表現が開花していくのは随分と時代を経てからなのだ。それでも〈屁〉は「風」と同様に常に存在していたのである。

 生理的主観的人間の、その主観が否定性をまとって隠蔽に走る〈屁〉の心的構造とは、以上のような背景から起ち上がってくるのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 01:06| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月09日

放屁の悩みの根源

 人間は悩む存在だ。軽度の悩みなら「悩む気力=生命力」として讃えることも可能だろうが、世界はすべてが予定調和ではないしね。収拾不能の深刻さが人生には潜んでいるから悲しいのだ。まあ例えば、悩み出したら、我々の〈屁〉の悩みはこれまた人生で深刻なものの一つではないだろうか。
 老人になると、おならが多くなるといいますが、筆者のわたしは、よく放屁する。老人ならぬ若い人――思春期にも多いといいますが、これは意外のような気がします。気のよわい人に多いとの説もありますが、おならを多発するから、気がよわくなるのかもしれません。
 とにかく、電車にのっても、空席があるのに腰かけず、あとの方に立っています。東京・平塚病院長によると、放屁に悩む若い人が、いっぱいいるそうです。人前に出ると下腹がはって、出そうになる。予備校に通っても、居室のうしろのすみに席をとる。授業をうけても、身に入らない、というのです。
 大学を出たばかりのサラリーマンも、これまた悩まされる。診断すると規則正しく、模範的なおならで、「心配いらない」といって聞かせても、承知しないのです。
 というわけで、これはオナラ・ノイローゼ≠ニの診断です。「屁ぐらい豪快にやんなさい」と、先生は元気づけています。
 専門家によると、幻のおならで、ノイローゼになる人が多いようです。これは思春期妄想性で、身心とも大きく変化する、十代後半によくみられるが、女子より男子に多いとのことです。
 出もしないのに出ると思い、臭くもないのに、自分でくさいと感じてしまう。過敏性が手伝っているわけでもあります。
 そういえば、放屁寸前に、その感覚を、ひどく感じる人と、感じない人とがあります。感じない人は放屁しても、音無の構えができますが、感じる人は意識するために、ポンと音が出るといいます。
 意地のわるいのは「おなら」でしょうか。屁のような話と、笑いごとではすまされません。
(山名正太郎『屁珍臭匂臭』泰流社、1986年)

 これは、なかなか深遠なことを指摘していると思うんだけどねェ。まとめると、
(1)老人になると〈屁〉がよく出る。
(2)若い人にはオナラ・ノイローゼがある。
(3)これは女子より男子に多い。
(4)これは出ないのに出る、臭くないのにくさいと感じる過敏症が手伝っている。
(5)ノイローゼではないが、放屁寸前に屁意(屁が出る感覚)を感じる人と感じない人がいる。
(6)屁意を感じる人の〈屁〉は音が出る。

 表層の現象としてはこうなのだが、〈屁〉をめぐるバラバラの現象である(1)から(6)までを包括的に説明できるだろうか。いや、しなければならん〜と音成は思うわけである。
 よ〜し、挑戦してみよう。

 まず(1)だが、これは腸の消化力が衰えて腸内ガスが発生しやすくなるのである。さらに、ここが大事な点であるが、尻の締まりがなくなる(制御力が衰える)ことが大きい。(説明が当たり前すぎると言うなかれ。ここは次につながるポイントよ)

 一般に若い人は老人よりはお尻の締まりがいいわけだよね。だから〈屁〉の放出を我慢する制御力が強いのである。では、老人と若い人ではどちらが〈屁〉の羞恥を強く感じるだろうか。ある心理学の調査(菅原健介『人はなぜ恥ずかしがるのか』1998年、サイエンス社刊)によると、身体生理は(1)オナラ(2)鼻水(3)イビキ(4)腹の音(5)ゲップ(6)シャックリ(7)アクビ(8)クシャミ(9)セキ――の順で恥ずかしい。まあ、どうやら〈屁〉が最も恥ずかしいわけだが、調査では、この〈屁〉は若い人の方が羞恥度が高い。

 この順位は概ね我々が身体的に制御しにくい順になっていると思うのだが、制御しにくいからといって若い人の〈屁〉は頻度が高いわけではない。若ければ強い制御力でいっそう抑止するからである。そして、抑止すればするほど〈屁〉というものは恥ずかしく感じる。(子供の制御力はないみたいだけど、抑止もしないね)

 では、なぜ抑止すれば羞恥度が高くなるのか。音成の解釈は単純だ。若さゆえしっかり我慢(制御)できるにもかかわらず、うっかり出てくる締まりのなさは(とても)恥ずかしいのだ。つまり、制御しにくい〈屁〉を制御できる(はずな)のに、制御できなかったことが、恥ずかしさのバネになってしまうのである。

 それに、人前での〈屁〉の行為は何より別格のタブーなのである。鼻水、イビキ、腹の音…などの恥ずかしさに比べると、その異音異臭によって心的抑止がひときわ大きいのであり、うっかり〈屁〉をしてしまえば、強く強く恥ずかしさを感じるんだよねェ。

 一方、老人は身体の老化によって、若い頃の制御力が低下しており、若い人と違って〈屁〉が発生しやすくなっている。老人の老化現象は全身に及び、何も〈屁〉だけでなく鼻水、イビキ、腹の音、ゲップ、シャックリ、アクビ、クシャミ、セキなど、老人はすべて制御しにくくなっているのだ。制御力の衰えだけでなく発生数そのものが増え、頻繁によく出てくるような身体になってしまっているのである。

 老化による身体の衰えによって無作法な身体生理の多発化が起こるとどうなるか。生理の中で最も恥ずかしかった〈屁〉は相対的に恥が薄められる結果になるのである。また、比較的容易に制御していたクシャミやセキとかがよく出るようになるのだから、制御しにくい〈屁〉が出てくるのは「仕方がない」と思わざるを得ない。(まあ、世間慣れして人に少々迷惑かけるのは平気という場合もあるだろうが)

 しかし、こうした老人は必ずしも鈍感になっているわけではなく、羞恥の力学は働いている。それは、昔は「ちゃんと制御できていたものが制御できなくなっている(だらしなくなっている)」のが恥ずかしいという心的状態なのだ。こうなると、制御しにくい順に恥ずかしかった身体生理(1)〜(9)は、むしろ制御しやすかった(9)〜(1)の逆の順で恥ずかしく感じるのではないか。

 老人も〈屁〉が恥ずかしいには恥ずかしいのだろうが、こうなると、若い人(頃)ほどではなくなってくるのだ。相対的に〈屁〉の恥ずかしさを減退させているわけである。

 若人=無作法な身体生理が全体に少なく制御力がある→〈屁〉は(あまり)しないが恥ずかしい
 老人=無作法な身体生理が全体に多くて制御力がない→〈屁〉もするが(あまり)恥ずかしくない

 このように観察してくると(2)のように若い人が(放屁過多ではないかと)ノイローゼになるのは、若い人にとって当たり前の制御ができないという羞恥や不安に圧倒されるからであることがわかる。老人の場合は〈屁〉の恥を減退させており、世間慣れもしているのでノイローゼとは無縁だ。将来のある若い人は、制御の達成がまだまだ未熟(制御が衰える根拠がない段階)だから、羞恥を通り越して絶望的になりやすいのである。こうなると、日々発展しようとする前向きな心の自家中毒ともいうべきノイローゼに陥ってしまうんだね。

 この〈屁〉のノイローゼが男性に多いという(3)の理由は簡単さ。尾籠な話だが、女性の場合は小便と大便を同じ場所で同じ姿勢でするね。ついでに〈屁〉も。だから、女性は〈屁〉がしたくなったら(もちろん、それが大便でも)「ちょっとオシッコ」とか言って、普通にトイレに行けばいいのである。女性にとってトイレは安心できる密室である。

 男性の場合は厄介だ。トイレでは小便の場合は連れションといって横並びでするわけだ。密室ではないから〈屁〉は出しにくいのである。しかも〈屁〉を我慢して小便をするのはとても困難なのだ。小便しながらブリブリ〈屁〉までするのは恥ずかしい。だからといって、大便の方へ入ってしまうと、明らかに大便をするために入ると思われてしまう。男たるもの外出先で大便をたれる(緊急事態)というのは、いささか恥ずかしい。まあ、心理的には女性に比べたら、トイレは〈屁〉を安心立命して出せる環境とはいえないね。

 このように〈屁〉の密室化(隠蔽)が容易な女性の方がノイローゼが少ないのは当然であろう。わずかであっても〈屁〉に対する安心感の男女差は大きいのだよ〜。

 男女を問わず〈屁〉を恐れる(4)の過敏症は何かにつけて起こるものだが、単なる思い込みを超越して、心は病的な循環サイクルに入ってしまっている。ガスがないのに屁意を感じたり、におわないのに臭いと思ったりするのは、身体症状のある幻覚(思い込み)である。過敏症がノイローゼを誘発し作用し、ノイローゼが過敏症を肥大化し強化するという循環は、一人では解決できない〈屁〉という否定性の恥が暴走している。

 この恥の感覚は相手に不快を与えるという恐怖と背中合わせになっているために、際限なく暴走しやすいのであ〜る。(そういう意味では実に倫理的な態度ではあるんだけどねェ)

 そしてまあ、ノイローゼ以前の屁意という(5)の放屁感覚は、誰にだってあるわけだが、そういう身体感覚も恥を喚起するね。突き詰めていけば、身体感覚こそがノイローゼの発祥だ。

 注意すべきは、屁意を感じる人と感じない人がいることである。あるいは感じやすい人と感じにくい人がいるわけだね。屁意に限らないが、身体感覚としての感じる感じないは不思議な感覚であって、単なる生理的現象ではない。つまり、感じる(=感じたい)と感じない(=感じたくない)の深層には、身体的な現象と心的な現象が表裏となっているのである。その感じは表層的には心的か身体的かは区別はつかない。というか、意識してないわけだ。

 感じたいときに感じ、感じたくないときに感じなければ問題はないだろう。困るのは、感じたくないときに感じ、感じたいときに感じないことなのだ。考えてみれば〈屁〉の場合、このことはてきめんだねェ。屁意はしたくもないのに感じるのである。このとき、身体は緊張するし、特に肛門はすぼまることになる。緊張を押しのけて出てくる〈屁〉には音が発生しやすいんだね。だから(6)になるわけさ。(音を立てまいと思えば四苦八苦するねェ)

 また放屁の前に屁意を感じなければ、その人にとって〈屁〉は存在しないに等しいのだが、出したとたんに(気づけば)羞恥のどん底に突き落とされるハメになる。屁意を感じない〈屁〉は、身体の緊張が緩んでいるから透かし屁(または音の低い屁)が多いであろう。〈屁〉に気づかない(気づかれない)ことも多いだろうね。まあ、こういうのは眠っていて自然に出てくる〈屁〉なんかがそうだ。

 こう見てくると、確かに笑いごとではすまされない我々の〈屁〉の構造や〈屁〉をめぐる人生の筋道があるわけだよねー。
posted by 楢須音成 at 00:07| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月15日

危機的な〈屁〉に至らない幸せ

 動物界において〈屁〉が出る出ないが、これほど問題になるのは人間くらいのものだね。この一事をもってしても、我々の〈屁〉が「特別」であることがわかるだろう。なーんて嫁の前で言ってしまうと、反省の色なしとして放屁禁止令が十重二十重とバインドされることは間違いない。

 しかし、それでも〈屁〉は余儀なく出てしまうのだし、多い少ないはあっても人は〈屁〉をする存在なのである。まあ、出ても困るが、出ないのも困るわけだよねェ。福富織部の『屁』には生理的な屁を観察した記述がある。引用してみる。
 大隈侯は、生前盛んに屁を放つた。病中は殊に激しかつた。人の前で屁を放つたからとて、それをどうかう思ふような大隈侯ではないが、それでも流石(さすが)に氣になつたと見えて看護婦に命じて屁の数を一つ一つ勘定させて、一日の統計まで取らせてゐた。その統計は聞き洩らしたが、兎に角、夥しい數に上つてゐた。あのへの字なりに曲つた口を更に一息いきまして、ブーツとやる處は慥(たしか)に天下の壯觀であつたに相違ない。屁が全く出ないと云ふことも一つの膓障害であるが、大隈侯のやうにブウブウ出過ぎることも病である。それは變態の皷膓(こちょう)であつて、長時間絶えず盛んに多くの雜音を放つ。それが普通の屁とは違つて殆んど臭くない。『屁を放つて尻つぼめ』とあるが、大抵の人は尻ばかりでなく腹がスーツと空いて來るやうに可い氣持になる。だが、此種の皷膓になると放つた後も腹の大きさに關係なく、放つても放つても尚殘つてゐて、放屁後の快感を與えられることが少い。ローゼンハイムは、これを説明して、此の場合に於ける放屁は、一種の~經性放屁とも名づくべきもので、直膓内に喞筒(しょくとう=ポンプ)状に吸引された空氣が、再び放屁として排漏されること恰(あたか)も胃に~經性噯氣(あいき=ゲップ)の場合に於て、口腔より嚥下された空氣が再び噯氣として排泄されるのと同樣であると云つてゐる。
 も一つ屁の出過ぎる原因は何かといふと、肛門括約筋の痲痺である。此時には肛門を開いて了つて指が二三本樂々入るやうになつて了ふ、此時は屁は勿論のこと大小便までが無意識の間に出る。甚だ愉快でない。原因は多く直膓の永續的疾患即ち慢性になつて了ふか若しくは脊髄疾患が原因となる。
『永き日や沈香も焚かず屁も放らず』、食物の分量が一定して完全に消化し、膓内に於ける瓦斯の醗酵を吸収し盡すほどに程よくキチンと定つてゐたならば、屁も放らずに濟むであらうが、それは理想、いや空想であつて、實際には適はない。屁の出る方が自然であつて、出ないとすると一命にもかゝはる。
 前にも述べた如く、膓瓦斯は形成されると同時に大部分は吸収され殘ったものが屁となつて出て來て幾多の悲喜劇を演ずるのである。是が急性膓閉塞の中皷膓といふ病氣に罹ると、膓の運動性神経に故障を生じ、膓内の腐敗性機能が烈しくなり、且つ吸収機能が減少するから膓の中には多量の瓦斯が溜まるけれど屁は少くなくも出なくなつて來るか、叉は永い時間内に辛うじて一つ位しか出なくなつてくる。斯うなると何となくお腹が張つて來て叩くとポンポン音がする。

 概ね人間の生理現象としての屁を観察し記述しているわけだね。まとめればこうなる。

(1)神経性放屁=(ポンプ的吸引で)やたら出る
(2)麻痺性放屁=(器質的疾患で)無意識に出る
(3)故障性放屁=(機能的疾患で)ひどく出ない

 大隈重信が盛んに放出した〈屁〉は(1)であるようだが、この神経性放屁の原理(腸による肛門からの吸引で空気が入ってくる)は、口から胃にのみ込んだ空気を放出するゲップに例えられている。まあ、同じようなポンプ現象なのだが、大隈を見ても吸気量や放出頻度は比べものにならないね。これは腸が風船のように(?)空気を溜めやすい(溜まりやすい)ということを示しているといえよう。

 このポンプが神経性となってしまっては、意志に反した病的な放屁になってしまう。これが神経性(制御不能)ではなく恣意性として実現可能となれば、その人は口笛のように〈屁〉の放出をコントロール(制御)できることになるだろう。もちろん、こういう人は歴史上いたわけで、屁ひり男と言われた曲屁(屁の芸)の芸人は、この原理で自在に〈屁〉を操ったのであ〜る。

 一般に曲屁の芸人の〈屁〉は臭くないのを身上とする。そりゃまあ、臭気ぷんぷんでは芸の鑑賞は台なしになりそうだ。普通、我々は臭気をも鑑賞する忍耐はない。古来〈屁〉の芸はニオイではなく音の芸なのである。

 神経性に対して、本来の正統な〈屁〉は食べたものに起因する。各種の食品よって身体には、さまざまな屁が内発するのである。こちらの屁は強弱はあっても臭気がある。音もある。一般人には、むしろこういう正統な〈屁〉が問題なのだね。

 麻痺性放屁(2)は、放出のときに屁を認識しない(気がつかない)ことを意味するわけだが、これは知らぬ存ぜぬの幸せを意味しないことはもちろんだ。そのときの〈屁〉は存在しないのではなく、単に自分が気がつかないだけなのだから。それは制御不能を意味し、そのことが羞恥心を煽ることになる。

 故障性放屁(3)とは腸の不調であるが、音成の場合は、急性腸炎などの下痢症状がもっぱらであって、屁を溜め込むことはないねェ。ここでは屁が溜まって出てこない症状が問題である。身体内に鬱積した屁がしばしば重篤な危険をもたらすことは医学的な事実なのだ。我々の〈屁〉は毒ガスなのであ〜る。
(直接血管に入っていくのも害をなすが)血管に入つて行かない他の有毒瓦斯は、下に下りて屁とならずして上に向つて横隔膜を壓迫し、叉往々にして心臓や肺を押上げ呼吸困難となつて、稀には氣絶、虚脱叉は死に至ることもある。叉時としては輕い腦充血を起したり、不眠症に陷り、全腹部の緊張性疼痛を感じ不快な状態に陷り或は餘病を併發して重大な結果を招來することもある。

 かつて音成はこの記述を見て「何を大袈裟な」と思ったものだが、いや実際そうらしいのだ。『オナラは老化の警報機』(荘淑キ著、1984年、祥伝社ノン・ブック)という本でも、医者の体験的な話が紹介されている。恐るべし、〈屁〉である。

 ところで、こうやって生理的な屁を分析的に記述してしまうと、客観性を装った〈屁〉になるな。いずれも特異なケースについて扱ったわけだが、これは極限的な〈屁〉の危機的有様である。ここから自分自身の〈屁〉を照射してみるとよい。されば嫁が何を言おうと、今日の平和な一発の幸せをしみじみ噛みしめることができるのであ〜る。
ラベル:重信 大隈 危機
posted by 楢須音成 at 22:40| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月20日

今日もあなたは握りッ屁

 昔から〈屁〉の所作はいろいろと観察されるわけだが、その中でも「握りッ屁(握り屁)」という所作は独特なものの一つだと思うんだよね。これは、出てきた〈屁〉を即座に手のひらで握り込んで密封する所作だ。密封してしまった〈屁〉はしまい込んだり、捨てたり、投げつけたりする(ことができる)のだが、いったん握られた〈屁〉の振る舞いは尋常ではないのだ。
能(よ)く屁を放(こ)く女房に向(むか)ひまして、亭主が。亭主「コレ貴様は、大変に能く屁を放くが、人前でやつては見(みつ)ともない、是(こ)れから余所(よそ)へ招(よ)ばれて、若(も)しも放(で)そうになれば、手をお尻(けつ)へあて、密(そつ)と屁を握り、雪隠(せんち)へ往(いつ)て放(はな)すがよいぞ。」と教へますと。女房「ハイハイ以来(これから)心得ております。」と。
其後其女房は親類に祝ひごとがあつて招かれ往きましたが、元より散屁女(へこきおんな)のことですから、頻(しき)りと放(へり)たくなりました、此所(ここ)ぞ亭主に教へられたところと、そつとお尻に右の手をやり、首尾よく握り込みまして、今や起(たた)んとします時に。親類「まあ貴女(あなた)一つお受け下され」と、親類の者が酒杯(さかづき)を差しましたから、後(のち)にとも云へず。女房「ハイ有難ふ。」と、右の手を開くと、ブーブーブーブー。
(山谷鶯鳴編『落語大全』1911年、博多成象堂刊)

 次は握った〈屁〉ではないが、やはり〈屁〉を封じ込めて始末する江戸の小咄である。
 禿(かむろ=遊女見習いの少女)が客の前で放屁(おなら)をしてわらはれける。姉女郎ひそかに新造(新入りの遊女)を部屋へまねき「禿衆はまだよいが、こなさん(あなた)達は大事のことだ。たしなんだがよいぞや、そしてこなさんは屁の工夫をしらんしたか、まだであらう、大事のことぢやが教えておかう。アノ、オナラの出さうでこらへられぬ時無理にこらへてゐるとおくび(げっぷ)に出るものぢや、そのような時には紙をよくもんで、いしき(尻)にあてそつとつゝんでたもとへ入れて捨てたがよい、それも屁のころしやうがわるいと、外へ匂ふぞ」と、ねんごろに教へける。座敷へいでける折柄、彼(かの)新造屁の傳授を得て、おいど(尻)へ氣をよせけるゆゑに、しきりにおならがでさうに成るゆゑ、紙をもんでふところに入れ、あんばいよく屁をつゝんで取りすてける。
 さて、窓より外へなげしに、折あしく格子にあたり、紙がつぶれて「ブウ。」
(小咄集『聞上手』1773年)

 同じ可笑し味でも〈屁〉を素手で握るか紙で包むかで印象は随分違うが、話の眼目は同じだね。封印がとかれた〈屁〉の音が、女房の律儀な努力を裏切り、新造の首尾よくいった行為を裏切るのである。まあ、これは「握りッ屁パターン」とでもいうべき〈屁〉の話なのだ。

 要するに、これらの〈屁〉の所作は音もニオイもまるごと封じ込めてしまうんだね。しかし、ニオイはともかく、一過性の済んでしまった音までを封じ込めることはできないだろう。それをぬけぬけと無視した話の意外性の可笑し味がここにはある。

 この封じ込めた〈屁〉が音をたてて裏切るというパターンに込められたものを考えてみれば、そこには人間の意思を超えて跋扈する〈屁〉の振る舞いへの怨念があるのさ。つまり、これらの「握りッ屁パターン」とは我々がいつも潜在的に持っている〈屁〉をする恐怖(危機感)の表現なのであ〜る。

 それに「裏切り」には裏切られるのが悪い(裏切りには理由がある)という裏面もあるわけで、登場する女房や新造の痛恨のウッカリ(不注意)ぶりが笑いの対象になるんだね。

 確かに我々はウッカリしていると〈屁〉をしてしまうのである。道徳的には〈屁〉は完璧に制御していることが当然の振る舞いである。生活指導的に振る舞う夫や姉女郎に対して、女房や新造には制御力の弱さがあり、世間体の「上から目線」を確保するためには制御力の獲得が必要であることを教えている。

 しかし、女房や新造の制御力は、肛門から出る〈屁〉の性格を考えると(握ったり包んだりするのは)擬似的なものなのである。つまり代替の行為そのものなのである。そもそも〈屁〉を制御するとは身体に根ざすものなのだから、これが行為に根ざすのでは一段レベル落ちとなる。それでも慎みや上品や克己をある程度表現できる制御を示すことはできるわけだけどね。

 もちろん、ここには身体(の制御)レベルから発して高度に文化に発展していく我々の振る舞いの姿(知恵)があるのだ。だけど、これらの話では、それが破綻してしまうズッコケを見せつけてくれる。

 二つの話(ウッカリ)からは他人事とは思えないお尻のうずきを感じるのではないだろうかねェ。そりゃもう、完璧に〈屁〉を制御している人なんか世界にはいないんだからさ。
ラベル:握り屁
posted by 楢須音成 at 18:47| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

英語圏の〈屁〉の諺を読み解く

 当然のことながら〈屁〉をするのは日本人ばかりではない。英語圏における〈屁〉を諺を通じてのぞいてみると、微妙な感性の比較文化があるね。これがなかなか面白い。中重徹の『一発』には英語の〈屁〉の諺がまとめて収録されているので、吟味してみよう。(もとの出典は大塚高信・高瀬省三編『英語諺辞典』1978年、三省堂刊)
(ア)He that is afraid of every fart must go far to piss.
(屁を恐れる者は小便をするのに遠くへ行かなければならない)。

 そうだよねェ。これは人間生理をうがった観察である。小便と〈屁〉を同時にしたい場合に、小便をしようとすると〈屁〉も出てくるのである。というか〈屁〉は先に出ようと自己主張するのである。人類みんないっしょ、いっしょ。
(イ)He that is feared of a fart (or is afraid of farts) should never hear thunder.
(屁の音を恐れる者は雷鳴を聞いてはならない)。

 雷鳴を聞いてビックリして〈屁〉をするのか。雷鳴の大きさに合わせて(つまり、音に鈍感になって)元気な〈屁〉が出そうなのか。ははは、何でもいいや。まあ、大きな勢力に直面したときの我々は、類似の小さい勢力を過小評価しがちだけどな〜。
(ウ)I shall get a fart of a dead man (or horse) as soon as a farthing of him.
(彼に一文でも出させるのは死人におならをさせる以上に難しい)。彼は圧力を加えないとある事を言わない(またはしない)の意。[類似の日本の諺―出すことは舌を出すのも嫌い]

 彼がケチであると言っているのだが、困難な行為(できそうもないこと)を死人の〈屁〉に例えているね。死人が〈屁〉をするかどうかは知らないが、死に際に〈屁〉が現象することはあるようだよ。
(エ)Cloak a fart with a cough.
(屁を咳で覆い隠せ)。Tussis pro crepitu.(L.屁のための咳)に由来する。[類似の日本の諺―声繕いは雪隠でさえする]

 我々は〈屁〉の隠蔽に咳を使うことがあるね。しかし、咳と〈屁〉の音(の質)は同じではないのだから、かえって注意を引いてヤブ蛇になることもあろう。それでも我々はつい(咳を)やっちまうんだね。何か気詰まりなことや不始末に直面すると、その動揺を隠すためにさ。わざとやる咳は(ヤブ蛇を省みない一種の乱心であり)何かを隠蔽する印です〜。
(オ)There came never a large fart out (or forth) of a wren's ass.
(みそさざいのお尻から大きなおならが出た例しはない)。けちな人がつまらぬ贈物をしたときに用いられる。[類似の日本の諺―雀一寸の糞ひらず]

 では、みそさざいが大きな〈屁〉をしたら立派な贈り物になるかなァ。ならんって。贈物にもならん〈屁〉を引っ張り出してケチと非難するのは、つまりは端から相手を認めていない態度であ〜る。
(カ)Tit for tat,quoth the wife when she farted at the thunder.
(「しっぺ返しさ」と雷鳴に対して放屁をもって報いた女(房)が言った)。

 ここには、大きな勢力に直面したときに、小さい勢力で劣悪下品に仕返しするあざとさがあるな。大抵は仕返ししたつもりで威張る自己満足。所詮は無力。いるんだよねェ、そういう馬鹿。
(キ)Piss and fart,a sound heart.
(小便をして放屁する人は心臓が健全である)。Min-gere cum bombis salvissima lunbis.(L.屁をともなう放屁は腰部がきわめて健康であるしるしである)という昔イタリアSalernoにあった医学校の説に由来する。

 ほお、そうなのか。これはいい話を聞いた。しかし、小便と〈屁〉の親密な結びつきは可笑しい。まあ、考えてみると、小便も〈屁〉もちゃんと出るのは健康なのだね〜。
(ク)As long as I live,I'll fart at my own fire-side (or I'll spit in my parlour).
(生きている限り私は自分の家の暖炉で放屁するであろう)。生きている間は家屋敷を息子に譲らないの意。

 なるほど、〈屁〉をするのは生きている証しである。暖炉は一家の中心であるから大事なものだが、その前で〈屁〉をする権利(下品なことでも何でもする自由)は主人たる者の至上の権利だ。大事な場所とつまらないものの対比の妙がいいんじゃないか。
(ケ)as laze as the tinker who laid down his budget to fart.
(放屁するために道具袋を降ろした鋳掛け屋のように怠惰な)。

 比喩の表現法。何でこれが怠惰なんだろ。〈屁〉をするために作業(動き)を一時中断するのは悪いことなのかなあ。日本には「屁をひりに屋根からおりる宮大工」という川柳があるが、これは決して怠惰な大工ではない〜。
(コ)Everyone thinks his own fart smells sweet.
(誰でも自分の屁はよい匂いだと思っている)。人は自分の欠点を長所だと思うとか欠点に気づかないの意。Suus cuique crepitus bene olet.(L.各人にはその屁がよく匂う)に由来する。[類似の日本の諺―わが糞は臭くなし]

 真理だね〜。心理だね〜。
(サ)Tell a tale to a mare and she will let a fart.
(雌馬に話をして聞かせると屁をするものだ)。不注意な馬鹿がこちらの言うことをうわのそらで聞き流すときに用いられる。

 まあ、そういう人はいるし、あまり人のことは言えんし。しかし、何で雌馬なのだろう。この場合の〈屁〉はなんか気の抜けたアホみたいな〈屁〉だよな〜。人も馬も「制御」がない態度や振る舞いはダメなのだ。
(シ)This is news,quoth the fox when he let a fart in the morning.
(「これはニュースだ」と狐が朝、放屁したとき言った)。

 お前が言うな〜。マスコミは心せよってことよ〜。
(ス)One is not smelled (or smelt) where all stink.
(皆が悪臭を放つ場合には一人の臭いは分からない)。[類似の日本の諺―肥取り屁]

 どうもそうらしい。クンクン。しかし、これを悪用するのはいかんな。もっとも、自分もニオっているやつは、みんなのニオイもわからんかもね〜。
(セ)He that smells the first savour is the fault's first father.
(最初に臭いをかいだ者がその悪臭の親である)。[類似の日本の諺―言い出しこき出し笑い出し]

 そうだねェ。そもそも隠蔽する〈屁〉というものは、知らないことを装わなければならないんだよ。だから、何があっても、あなたの〈屁〉が臭いとか言挙げしてはいけない。事態の真偽にかかわらず、それを言ってしまった者が〈屁〉の「犯人」なのである。それがルール。この辺は人類いっしょだな〜。日本には「屁を放ったやつから鼻をまづつまみ」という川柳もある。まあ、こうなると黙秘して「屁の騒ぎ放り手は中にすまして居」という無実を装う振る舞いになるわけさ。

 以上の諺で見る限り洋の東西でそれほど〈屁〉の認識の違いはないように思える。ベースはいっしょということだが、それでもどこかで違うんだろうねェ。その決定的な分岐点があるはずなのさ〜。
ラベル: 英語
posted by 楢須音成 at 01:02| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。