2008年10月01日

天下に〈屁〉を煩うこと

 世の中には病気なのか病気ではないのか、すぐには判断できないような症状がある。症状というからには心身に何らか異常をきたしているのである。これが骨を折ったとか風邪を引いたとかの身体の異常ならわかりやすいが、心とか気持とかがからんでくると、正常と異常の境はあやふやだ。例えば〈屁〉が出過ぎると病気だと言われてしまう。音成は自分では病気と思っていないが、心外ながら嫁には「病気ッ」と言われる始末さ。

 江戸の人たちのさまざまな「病(やまい)」を探った『江戸風流医学ばなし』(堀和久著、1993年、講談社刊)は、西洋流ではない医のエピソードや処方箋が面白可笑しく語られている。

 目次をのぞいてみると、医は仁術か算術か、浮気病 悋気症、男の悩み 男の願望、回春剤 不老長寿法、脚気の病、癌と糖尿病、恐妻病、金欠病、薬九層倍、毛煩い、産前産後の心得、酒乱、心臓病と卒中、堕胎術、煙草は あほう草、痴呆狂乱諸症、男色と羅切、寝小便対療と鍼灸術、肺結核と娘労咳、梅毒、避妊術、腹上死、屁煩い、房事過多、惚れ薬、物忘れ(健忘症)、夢と睡眠…という具合。下ネタが多いのは、面白ネタ優先のせいかな。症例は川柳や小咄からふんだんに摘出されており、そのまま当時の人々の生活がわかる。

 さて、この中に「屁煩い(へわずらい)」という病気が登場しているわけだね。この病気の定義はこうなっている。
 人前では遠慮するのが礼儀であろう。
 それを制御できずに、のべつまくなしに発するのは、一種の病気であり、公害に近い。
 そのことで、人知れず悩み苦しむのが、屁煩いである。

 川柳や小咄に頻繁に出てくるのは嫁や花嫁の屁煩い。江戸の女性は〈屁〉に悩んでいたのは確かである。これは特に女性にとって〈屁〉の粗相が一大事であったからであろうね。堀は、花嫁が屁で大黒柱にしがみついていた夫を家ごと吹き飛ばして行方知れずにしてしまった――という津軽地方の、笑うべきなのか悲しむべきなのかわからないけれど味のある民話も紹介しているが、この民話の壮大さは、深層意識としては(屁を禁じた世間への)嫁の復讐譚のようなものと音成は解釈するんだけどね。

 それはともかく、この〈屁〉という奴は出過ぎてもいけないが、出にくいというのも大いに問題になる。そこで〈屁〉が出ないのを、堀は屁秘症(へつぴしょう)と呼ぶ。
 江戸時代の笑い話や戯作などから、屁煩い――便秘症ならぬ屁秘症の症状をまとめてみると、次のようになる。
 一、顔色青白く、つねに顔面がけいれんしている。重症は、けいれん全身におよび、失神する。
 一、屁気充満すれば、むくみがひどく、次第に肥満する。むくみ肌を指で押すと、ぴちぴち音をたてて、肌より放屁する。
 一、屁、脇よりもれることあり。腋臭がくさいのは、これである。
 一、げっぷは、屁が体中を昇って、口より出るもの。人前のげっぷは、厳に慎まねばならない。
 一、胸焼けは、屁が胸中であばれるのが原因。放屁せずば胸痺(狭心症)を招く。

 これらは、ちょっと誇張しているかもしれないが、結構真実っぽい。要するに〈屁〉を身体にため込むのは極めて障ることなのだ。出てこない〈屁〉が横隔膜を引き上げて心臓を圧迫し、心筋梗塞や狭心症の発作の要因になるのは知られている。また肝臓を圧迫すると門脈鬱血症候群を引き起こすという。しかし、〈屁〉が脇からもれる腋臭だからくさいというのは嘘くさ〜。

 出ても出なくても問題児の〈屁〉ではあるが、ちゃんとTPOをわきまえれば〈屁〉は有用だとされる。昔から〈屁〉の徳が強調されるのだ。この本でも〈屁〉の五徳としてこうまとめる。
 一、屁は笑いを呼び、和親を計られる。
 一、畑に放てば肥料になる。
 一、イタチに習い、放って走れば勢がつき、匂いとともに敵をたじろがせる。喧嘩の時に役立つ。
 一、曲屁で、生計が立つ。
 一、屁は生きたる証。死人に放屁なし。

 こりゃまた、何だか能天気過ぎて結構嘘くさいねェ。こういうところが〈屁〉の軽さなんだけどさ。もちろん、スッキリ出した〈屁〉は快感であり、制御を利かせた〈屁〉は自慢であ〜る。たどってくると〈屁〉におけるこうした光明面(屁徳)と暗黒面(屁煩い)が浮かび上がって、その明暗のあまりの対照に笑ってしまう。いや、笑い事ではないのだが、我々は〈屁〉の暴走には手を焼きながらも〈屁〉との共存には悦びを感じているのだ。屁煩いや屁徳から、川柳や小咄や民話が続々と生まれる由縁であ〜る。

 屁煩いの章は屁徳のあと、曲屁(屁の曲芸)をした花咲男の紹介くらいまでは江戸の雰囲気満々であるが、エピソードが屁の成分、燃屁、動物の屁、手術後の一発などになると、これはもう近代の〈屁〉の話のオンパレード。病気という観点も放棄している。どうも〈屁〉の話題というのは最後は締まりがなくなってしまうようで…。

 江戸期の〈屁〉は川柳、狂歌、小咄、戯作といった表現域において魅力的な題材として興隆しているんだけれど、それを病という観点から見たのがこの本。我が家ではかたくなに嫁の観点が厳しいの〜。


posted by 楢須音成 at 00:55| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月05日

人生とは〈屁〉を数えることか

 我々は何気もなしに〈屁〉を数える。思えば、確かに〈屁〉は一発二発と数えることができるわけだ。お尻の風をそういうものだと見なせば疑問もないが、自然界の風は数えることができない。つまり〈屁〉というものは、我々の身体から離れる瞬間に、初めて一発二発の宿命を背負うのであ〜る。

 このことは〈屁〉が「天然」ではなく「人為」であることを示しているんだね。しかもこの人為は、自分の意図を超えてもいる。人為であるからといって〈屁〉をすべて制御しているわけではないのだ。どうしても意図せざる一発二発が切迫することもあるんだからさ。

 我々の放屁において〈屁〉は放発された瞬間に人生の意味がこめられる。もちろん、自分の〈屁〉は自分で数えるが、それをなお客観的に判断して計量化するのは他人だ。もちろん、我々は他人の〈屁〉を喜んで数える(かな?)。しかし、同じ一発二発も自分で数えるのと、他人が数えるのでは意味が違うんだね。

自分を数える〈屁〉=自分を引き受けるアクション
  無聊 屁を放つておかしくもない一人者
  自責 おのが罪おのれをせめる紙帳の屁
  自縛 湯の中でひる屁の玉は肩へ浮き
  転嫁 己が屁をオヤオヤオヤと子にかづけ
  羞恥 へをひつてやとひかぶろは二日來ず

他人を数える〈屁〉=他人を受け取るアクション
  警戒 客の屁に下女は四角に身がんまへ
  喜悦 嫁の屁をききたるものは長者なり
  嘲笑 大笑ひ下女の寢言に屁がまぢり
  発見 屁を放つたので其人の居たが知れ
  疑問 どこでどうするか娘の屁をきかず
                (福富織部『屁』に収録の古川柳から引用)

 つまりは〈屁〉の一発二発は一度放発すれば、自他ともにタダではすまないのである。そういう〈屁〉を喝破したのが夏目漱石だ。漱石は自分や他人の〈屁〉を数えながら小説を書いたんだろうと思われる〜。
 世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、其上づうづうしい、いやな奴で埋つてゐる。元來何しに世の中へ面(つら)を曝(さら)して居るんだか、解(げ)しかねる奴さへゐる。しかもそんな面に限って大きいものだ。浮世の風にあたる面積の多いのを以て、左(さ)も名譽の如く心得てゐる。五年も十年も人の臀(しり)に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世(じんせい)だと思つてる。そうして人の前へ出て來て、御前は屁をいくつ、ひつた、いくつ、ひつたとョみもせぬ事を教へる。前へ出て云ふなら、それも參考にして、やらんでもないが、後ろの方から、御前は屁をいくつ、ひつた、いくつ、ひつたと云ふ。うるさいと云へば猶(なお)々云ふ。よせと云へば益々云ふ。分つたと云つても、屁をいくつ、ひつた、ひつたと云ふ。そうして夫(それ)が處世の方針だと云ふ。方針は人々勝手である。只(ただ)ひつたひつたと云はずに默つて方針を立てるがいゝ。人の邪魔になる方針は差し控へるのが禮儀だ。邪魔にならなければ方針が立たぬと云ふなら、こつちも屁をひるのを以て、こつちの方針とする許りだ。そうなつたら日本も運の盡きだらう。
 かうやつて、美しい春の夜に、何等の方針も立てずに、あるいてるのは實際(じっさい)高尚だ。興來たれば興來たるを以て方針とする。興去れば興去るを以て方針とする。句を得れば、得た所に方針が立つ。得なければ、得ない所に方針が立つ。しかも誰の迷惑にもならない。是が眞正の方針である。屁を勘定するのは人身攻撃の方針で、屁をひるのは正当防禦の方針で、かうやつて觀海寺の石段を登るのは隨縁放曠(ずいえんほうこう=関わりの生じた出来事にこだわらないで自由に振る舞うこと)の方針である。
(夏目漱石『草枕』1906年)

 漱石はここでこう言っている。

自分の〈屁〉をひる=正当防衞にする=〈屁〉を拠り所に自分を引き受ける
他人の〈屁〉を勘定する=〈屁〉を拠り所に人身攻撃する=他人を受け取る
寺の石段を登っていく=自由に振る舞える=自他を超える

 漱石の脱俗への思いはさておき、一発二発の〈屁〉というものの実相を潔癖に見抜いているわけさ。しかしまあ、石段を登るだけで、我々が〈屁〉から逃れられるかどうかは実に困難ではないか。大体なぜだかわからないが、お寺や石段はかなり〈屁〉を誘発する雰囲気なんだよねェ。
 聴聞の人の、多く集まりて、耳を澄ましたるに、内よりおびただしく大きなる屁の音、出で来にけり。
 皆人興さめて侍るに、導師、とりもあへず、
 「放逸邪見の里には、ついくわをも惜しむ、
 聴聞随喜の局より、おほへをこそうち出されたれ」
 と言いたりける、あさましくもおかしくもありけり。
(『今物語』13世紀)

 聴聞場の几帳の局の中から大きな〈屁〉の音が聞こえてきたのである。慌てた導師が「ワガママでよこしまな人ばかりの里ではつまらないものをも惜しむ。しかしながら、喜んで仏に帰依する聴聞の局からは『おほへ』を差し出したのだよ」と(自分が〈屁〉をひったかのように)フォローしたわけだ。この言い訳がましさからは、お寺が何ら世間的な場所と変わらない様子が伝わってくるね。かくも〈屁〉を数えてしまう振る舞いは、どこまでも我々についてまわる宿痾なのであ〜る。

posted by 楢須音成 at 03:18| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月11日

〈屁〉が起動するとはどういう事態だろ〜ヵ

 人は〈屁〉談義が好きだ。いや、そういう下ネタに類する話は嫌いだという人もいるのは承知しているのだが、好きな人は尽きないのである。焼芋や 浜の真砂は尽きるとも 世に〈屁〉談義の種は尽きまじ――とかなんとか(この歌は剽窃ですが)来訪まばらなこの〈屁〉の貧困ブログにもゼロの日はないんだからねェ。

 さて、その〈屁〉談義(話題にすること)が好きな人も、実際に他人の屁を嗅ぐことはトンでもないに違いない。このブログから、生々しい屁音とともに鼻もげる屁のニオイがしたら、誰も来てくれないであろう。

 しかし、よくよく考えてみると、我々が〈屁〉談義を楽しむ(?)とき、そこには忌み嫌う〈屁〉の音もニオイもないんだよね。生の音やニオイに接することをリアルだとすれば、この〈屁〉談義の〈屁〉はリアルに体験しているのではなく、言葉の表現の世界(脳内)にあるわけである。つまり〈屁〉談義は生の音やニオイを滅却したところに成立しているわけだ。

 生の音やニオイを滅却したとはいっても、屁のないところに〈屁〉はない。まずは〈屁〉談義以前の〈屁〉について考えてみたいのだが、当然ながら〈屁〉は生の屁が漂って初めて成立するものだ。いつも音成が使っている〈屁〉という記号は、生の屁を前提に特定の観念が現象していることを示している。そういう意味をこめて、音成はいつも屁を〈 〉でかこっているのであ〜る。

 我々に必然的に現象する〈屁〉というものを、福富織部の『屁』に紹介されている小咄から拾ってみる。
 おやま(娼妓)と座頭が登場する次の話は(生の音やニオイを滅却した)〈屁〉談義だが、そこに描かれた状況にはニオイが立ちこめている。ここに立ち入って観察してみると、おやまに現象している〈屁〉は座頭には現象していないわけである。座頭はにおっているニオイが〈屁〉だとはつゆ思っていないのだ。その行き違いがこの小咄の可笑し味の眼目だね。
 ある茶屋の座敷で客がおやまと火燵(こたつ)に當つて遊んでゐる時に氣の毒なことじや。出ものはれもの所きらはずとておやまが放屁をすつとした。其癖(そのくせ)音のせぬじやによつてひどい。おやまははつと思つた。けれどもさすが勤めする身じや。鏡袋(小鏡などを入れておく袋)から伽羅(きゃら=香木)を出してそつと薫べて(におわせて)まぎらさんとする。其側(そのそば)にゐる座頭が鼻をヒコヒコして「モシどこぞ此處(ここら)に木薬屋(薬の店)は御座りませぬかへ」おやまが「なんとしたへ」座頭が「ハイどうやら、木薬屋に糞取るやうな匂ひがいたします」

 まあ実は、座頭は〈屁〉だと分かっていて、おやまにあてつけてとぼけて言っているのだとも解釈されるが、ここでは素直に書かれた通りに受け取ることにする。その方が面白い。どちらにしても〈屁〉の振る舞いに及んでいるのはおやまである。

 次は銭湯での親子の会話の小咄。子供は目の前の泡が〈屁〉だとはまさか思っていない。
 子供をつれて錢湯に行つた親父、湯槽の中で内證で一ツブウと放つた。あぶくが一つポカリ、早くも見つけた子供。「ヤア面白いな、お父つちやん、もう一つあぶくを出しておくれよ、ネーお父つちやん」親父困つて手拭で玉をつくり、押し潰してあぶくを出し、「どうだどうだ」と云へば、子供怪訝な顔をして、「お父つちやん、こんどのは臭くないね」

 子供が〈屁〉だと気づかないわけない〜、と主張する人はいるかもしれないが、それではこの話の可笑し味は半減するね。子供に〈屁〉は現象していないのだ。座頭にしても子供にしても、それを観察の対象としていても〈屁〉ではないのである。二人とも〈屁〉を知らないわけではないし、そのとき(屁の)ニオイをキャッチしているにもかかわらず、それを屁と認識しない限りそれは〈屁〉ではないのである。

 座頭にとってそれは薬屋の便所の汲み取り(のニオイ)であり、子供にとってそれは父親が(手品みたいに)作り出した不思議なあぶくである。

 認識の最初の段階としては、何が何だか分からないものがあり、それを観察し識別し解釈が入るわけだが、屁だと受け取らない限り〈屁〉にはならない。生の屁だという識別は、まずは一瞬の観察の結果である。(まあ、普通は便所でもないところで人がいてニオイがしたら屁じゃないかと思うだろうし、ブウと音がしたらこれはてきめん屁だ)

 リアルというものを、生の屁に接した瞬間の心身の原初的反応というように定義しておくと、その瞬間に(誤認は措くとして)脳内に一次の〈屁〉が起動する。つまり、心身の反応を土台に言語(観念)で表現した基本の〈屁〉を現象させる。さらに事態は進行し、二次的な言語表現の連想や論理が跋扈して〈屁〉は自己増殖することになる。生の屁は〈屁〉になり、そこから〈屁〉談義になって、さらに次々に新しい〈屁〉談義が派生していくんだね。

 現象した〈屁〉の段階で、生の屁(の音やニオイ)は滅却されているわけで、この段階から〈屁〉はリアルからはどんどん遠ざかっていっている。そして増殖する〈屁〉談義から逆にリアルが想起される事態となっているのである。まあ、ここには〈屁〉に限らず単純に生のモノと言語活動というものの性質があるわけなのさ。
posted by 楢須音成 at 23:58| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月18日

続・〈屁〉が起動するとはどういう事態だろ〜ヵ

 人は〈屁〉談義をしている限りにおいて生の屁のことなどは忘れているね。そこでは言葉が言葉を呼んで話が弾んでいるわけだが、だからといって生の屁から遊離した言葉が飛び交っているのではない。あくまで〈屁〉の前提は屁である。しかし、ここからがややこしいのだが、いったん〈屁〉が起動してしまうと〈屁〉は自律的に勝手に振る舞い始める。要するに〈屁〉談義(言語活動)が弾むとはこういうことだ。
 屁から〈屁〉が起動する経緯をもう少し考えてみる。

 誰かが屁をしたとしよう。最初の〈屁〉の起動において「くっさー」とか極めて主観的なアクションが個的に振る舞われ、たちまち周囲にも波及して「ちょっとこれは我ながらマズイな」とか「きゃー、こっち来ないでッ」とか、起動した〈屁〉によって次の段階の論理構築(自分を中心とする世間との関係性の位置づけ)が、その場にいる自他の立場でそれぞれ確立していく。福富織部の『屁』にこんな小咄が紹介されている。
 嫁の前で爆發させたが、姑は怖い顔をして「何ですね不作法な」と叱りつけた。嫁はとんだ冤罪だが逆らはずに詫言(わびごと)をして「放屁する人は長命ださうですね」といふと、姑「然(そ)うかえ、それなら今のは私だよ」

 こうした事態の総体が〈屁〉的現象である。

 しかし、屁のようなものには風とか大気とかの気体もあるわけで、これらは一般には〈風〉とか〈大気〉があまり起動しないようだね。風は風のまま、大気は大気のままなのである。我々は風にしても大気にしても、観察的・分析的記述で確定していくのであり、それは客観的(近代風に言えば、風速とか成分とかの自然科学的)な観念性の共有をめざしている。

 いやもちろん、風や空気から〈風〉や〈大気〉が起動することはあるさ。例えば、文学表現になると、思いを込めた言葉が濃度を高めて〈 〉付きになるわけである。風が〈風〉に現象している歌を万葉集から拾ってみよう。風が吹いたからといって直ちに〈風〉にはならないだろうが、思いを託せば詩歌の表現では〈風〉が現象する。
 山越しの風を時じみ寝る夜おちず 家なる妹を懸けて偲ひつ
 ※山を越して絶え間なく季節はずれの風が吹いてくる夜だなあ、寝てると家に置いてきた妻を思い慕って悶々とするよ〜。

 この場合は(愛する妻を残してきた彼方から)山を越して吹いてくる風に、妻への濃い思いが付随して〈風〉が起動しているわけだが、表現(描写)は観察的であり客観的だね。万葉の時代の風の概念と現代の自然科学的な観察による風の概念はかなり違うにしても、客観表現の姿勢が基本にあるといえる。

 ここには〈屁〉が自他の直接的な反応(「くさ〜」と飛び上がるような振る舞い)から発する言葉に傾斜するのに対し、観察や客観から発する(山の木々を鳴らして吹く季節はずれの風というような)言葉に傾斜していく〈風〉があるのだ。

 さらに〈風〉と同様に〈大気〉が起動するときもあるかもしれない。しかし、大気は近代的な概念だから観察や客観はより徹底しているので、ほとんど科学的な大気として解釈される。(万葉の時代に大気という言葉や概念はないね。近世語の大気は太っ腹の意味)

 屁と風と大気の、それぞれの起動の強弱の関係を不等号で対比的に示せば次のようになるだろう。

(自他の振る舞いが起動)主観的観念性 ←〈屁〉>〈風〉>〈大気〉→ 客観的観念性(それ自体の観察が起動)

 指摘できるのは〈風〉とか〈大気〉よりも〈屁〉は容易に〈 〉が付いてしまうことなのだ。〈屁〉は(自分のものであろうと他人のものであろうと)なかなか客観的には語れないし、大気は(観察するほどに普遍性が強化され)次第に主観的に語るのが難しくなる。

 風の場合は、古来から詩歌にうたわれることでもわかるように〈 〉が付きやすい(主観的観念性をまといやすい)自然現象ではあるね。

 しかし屁と風では、やはり違いを強調しなければならない。肛門から吹く風が〈屁〉である。自然界の風はどこからか吹いてくるが、我々の〈屁〉は自分や他人の身体から出てくる現象なのであるから、このことによっても〈屁〉の主観性が高くなるのは当然といえるのだ。

 このような屁と風に対する我々の振る舞いを江戸の小咄にのぞいてみよう。
 ある夫婦、かけ向かひに住まいける人の方へ盗人忍び入り、宵から縁の下に隠れゐける。夜半の頃、背戸の戸に風あたりて、ぷうと鳴りたるを、亭主聞き、女房に、「今のはそなたのとりはづしか」といへば、「はて、わけもない。私がいつそんなことしたこともないに」と大きに腹を立てければ、亭主手持あしく、「そんなら盗人めがな、どこぞにゐて、こきおったものであろ」といへば、縁の下から盗人そのまゝそっと出で、「これは迷惑でござる」というた。
(『福禄寿』1708年)

 風の音をめぐって夫婦と盗人のとぼけたやりとりが展開しているね。その可笑し味は風を〈屁〉と取り違えていることに端を発しているわけだが、絶対に濡れ衣は着たくないという全員の思いによって〈屁〉は忌避されている。全員がそれを風と見なしていたら、亭主は女房を追及することもなく、女房は腹を立てることもなく、盗人は迷惑がることもなかった。亭主がそれを〈屁〉だと思った瞬間に、各人各様の(濡れ衣を着まいとする)振る舞いが起動してくるのである。
 小咄の水面下の思いはこう(かな?)。

 亭主(あの音は〈屁〉だな。女のくせに、うっかりやっちまったんだな。あーだらしね)=制御の逸脱の指摘
 女房(んまあ、失礼な。いつもこくのはアンタじゃない。アタシに罪を着せるのねッ)=濡れ衣の否定と疑惑
 亭主(あ〜そうなの。どうしても認めねえ気かよォ。じゃ仕方ね。盗人でもいることにするか)=疑惑の転嫁
 盗人(いや、いや、いや、それ困ります。口から出まかせ。アッシじゃねえ。冗談じゃねー)=濡れ衣の否定

 そのとき、それが風の仕業なら普通は何でもない自然現象である。ところが〈屁〉である(と思った)がゆえに、我々は自他の関係性の中に投げ込まれて〈屁〉を振る舞うことになる。それは直接にはまず〈屁〉の発生源を特定せずにはおれない求心運動だね。もちろん、その求心運動は「発生源」が自分ではないという〈屁〉の忌避と表裏だ。このようなアクションに彩られてその場の〈屁〉が措定されていくのである。

 我々はいつも〈屁〉をこのような主観的観念性をまとった動態の中で表現している。というか表現せざるを得ないのであ〜る。なぜだろうか。
posted by 楢須音成 at 09:42| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月24日

続続・〈屁〉が起動するとはどういう事態だろ〜ヵ

 同じ気体でも風と屁では雲泥の差があるね。これまでの検討では風と屁とを比較した場合、主観的観念性をまとって起動する確率は屁の方が高いのだった。というか、我々の屁はほとんどが主観的な思いをこめた〈屁〉なのだ。だから、我々は絶対に〈屁〉に冷静になれない〜。

 冷静になれない〈屁〉が起動し多様に現象する。そこでは身体から排出された屁が〈屁〉として振る舞うのである。その姿はさまざまある。福富織部の『屁』に紹介されている江戸の小咄をもう少しのぞいてみよう。
(ア)初會の床にて女郎ぶいのしぞこなひ、客「こりやたまらぬ匂だ」女「おゆるしなんし、此おならには譯(わけ)がありんす、わたしが母十死一生の時、毎月一度づゝ御客のまへで耻(はじ)をかきんせうと、觀音さんへ大願かけんした」と、いふ口の下から、叉ぶいのしぞこなひ、「オヤうれし、來月分もしてしもうた」
(樂牽頭)


(イ)或町に寄會(=寄合)有けり。二階座敷にてつとめける。事過ぎてかへるさに、長座にくたびれ、粗相なる者はしごのもとにて、大あくびするとて、尻の邊(あたり)よりぽんと音のせしを、そばなる人頓作(とんさく=とっさの軽口)を申された。「扨(さて)も天下太へいで御座る」といへば、彼者も「さればこくとあんど(国土安土=屁をこくと安堵)いたした」というて笑うた。
(輕口露がはなし)


(ウ)昨夜の女郎はとんだ氣のきいた女郎だ、おれがついスウとすかしたら、すうてうこうけいと唄にまぎらかしてしまつた、さすがはそれしやだ」と話せば、女房やつきとなりて「なにそのくらゐの事はわつちらでも言ひやす」といふ口の下から、亭主ブウととりはづせば、女房ぬからず「ぶうつうなアまいだア」
(江戸前噺鰻)

 こういう場面から浮かび上がることは我々が自他の〈屁〉をどのように処理しているかという行動習性だ。起動した〈屁〉のさまざまに振る舞われる多彩なバリエーションは我々の日常に広く遍在している。ま、人の数だけ〈屁〉の振る舞いはあるわけだね。

 今回の小咄は、前に紹介した夫婦と盗人の濡れ衣の話と違って、現象した〈屁〉の発生元が明らかになっているケースである。〈屁〉をした人は逃げることも隠すこともできない状況になっている。秘すべき〈屁〉が露わになって言訳がましい言説が飛び交っているわけである。パターンはそれぞれ違うけどね。

(ア)粗相をわざとした事にする言訳(根拠のある理由の提示)
(イ)洒落を言って冗談に紛らす諧謔(センスある頓智の披瀝)
(ウ)女の知恵と配慮を競い合う意地(素早く出る機転の誇示)

 このような〈屁〉のとぼけたやりとりが可笑し味の源泉になっているわけだ。本人が言訳する(ア)では、親孝行という根拠ある理由を示して道徳的な〈屁〉を提示しようとしている。近くにいた人が(嘲弄なのか助け船なのか)洒落を投げかける(イ)は、気の利いた頓智の〈屁〉を披瀝している。女同士の張り合いになっている(ウ)は、すばやい機転の〈屁〉を誇示している。

 しかしまあ、(ア)や(ウ)の面目を立てようとする女たちの振る舞いは(客観的には)失敗しているオチであるし、面目を保った観のある(イ)も〈屁〉をメタな言葉に解消して無理矢理切り返したという苦しいオチだけどね。いずれのケースも〈屁〉というものの否定性を、肯定に転化しようとあがいているわけである。

 前にも触れたように風はどこからか吹いてくるものだが、屁は自分や他人の肛門から吹いてくる風だ。自他というのは、それを意識したときから世間にある人間関係として現れてくる。そういう自他の間に発生してくる〈屁〉は、まさに人間関係という自他の関係や思念の主観を背負って現象しているということなのだ。しかもそれは、まず否定性を帯びて起動してくる。何しろ〈屁〉は異音異臭の厄介者だ。

 風が〈風〉になるときは「恐怖の嵐」とか「心地よい微風」とか、そのつどの情勢で肯定または否定の一方に傾斜つつ起動する。ところが〈屁〉は最初からほとんど否定に傾斜して起動するのだ。

〈風〉→選択しつつ起動(感情移入して定位させる)
〈屁〉→否定しつつ起動(忌み嫌悪して隠蔽する)

 このような〈風〉と〈屁〉の決定的な違いは、基本的に〈風〉が自分や他人を含む人間と完全に対立する現象であることだ。もちろん〈屁〉だって対立しているさ。しかし、もとを辿れば、自他が原因で自他に影響を及ぼしている不快現象であるという心的構造によって、より主観的な我々の観念が形成(起動)されてしまう。単純に言ってしまえば、風は自然現象だが、屁は直接的な身体現象なのであ〜る。(もっと言えば〈風〉は他人事、〈屁〉は我が事なのさ)

 我々が〈屁〉にするのは感情移入ではないのだ。風とは違って〈屁〉は我々自身そのものなのだからね。そして〈屁〉の振る舞いの特徴は、屁そのものを否定しきれないところにある。悲しいかな人間という存在は〈屁〉を免れることは決してできず、必ずやどこかで〈屁〉をしてしまうのであるからね。(あるいはその恐れにさいなまれるのである)

 このように我々に構造化された〈屁〉は隠蔽されるように振る舞われ、否定すべきもの、あってはならぬものとして人さまざまに姿を変えて出現するのだ。

 小咄の(ア)〜(ウ)に表現された人生の諸相はいずれも、否定すべきものをいかに世間的に認知されるよう浮上させるかの各人の悪戦苦闘なのだね。そこに通底する起動した〈屁〉はいろいろな手続きで現象しているわけだ。

 ところで小咄の(ウ)であるが、筋立ての目線から見ると〈屁〉がどうのというより、女の機転を競い合うような話になっているね。夫が女郎をほめ上げるので女房がムキになっているのが可笑しいわけだし、夫が粗相をしたら大真面目の女房が慌てて「ぶうつうなアまいだア」と唱えるので可笑しいのだが、ここでも深層では〈屁〉をどう(スマートに)紛らすかということが追求されているわけさ。(それが破綻してしまうところが〈屁〉のお約束であり可笑し味だね)

 次は福富織部の『屁』にある一休和尚の屁。
 一休、師の坊に、讀經(どきょう)をさづかつてゐる際、つい取り外した。
「今のは何だ」と師の坊。一休すかさず答へた。
「時の鐘」
「臭いのは何だ」
「御香の烟(けむり)」

 あまり可笑しくないかもしれないが、一休さんの言訳(言い換え)が禅問答の雰囲気を醸して笑わせる仕掛けになっている。まあ、他愛もない問答である。これが一休さんも登場せず、まして〈屁〉も出てこなければ面白くも可笑しくもないかもね。そういう意味では〈屁〉は別格といえるのだ。そもそも、どんなかたちであれ〈屁〉を登場させること自体が〈屁〉談義における〈屁〉の起動なのである。

 リアル(生の屁)から出発して〈屁〉が起動していく心的な動態を見てきたが、我々にとって〈屁〉は必ずや「存在しないでほしい」という否定性の主観をまとって現象する見果てぬ悪夢なのだ。つまりは我々に〈屁〉が起動するとはそういうことであ〜る。
posted by 楢須音成 at 00:28| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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