2008年09月01日

〈屁〉で皇帝の愛を語ってみる〜

 楊貴妃(太真)は体からよい匂いを発したという(一説では腋臭ではなかったかといわれている)のだが、屁こきでもあったというのが詩人・金子光晴の説である。というか、金子は玄宗皇帝の貴妃への想いを嘘か真か〈屁〉で表現してしまった。これがまた、何とも味わい深いのであ〜る。

 金子の詩集『愛情69』(1968年)の中の詩篇「愛情8」である。すでに死んでしまった楊貴妃への愛が語られているのだが、さらりと読んで笑い、また読み返すうちに〈屁〉的に哀切な気持になる(よね〜?)。ここには「もう一つきばって」と愛に〈屁〉を求めるワガママな男の振る舞いがあるのさ。
   愛情8――貴妃□  
※□=「あなかんむり」の下に「氣」。「屁」と同義。

 なにを申しても、もう
太真はゐない。

 あのゆたかで、柔らかい
玉のお尻は、世にないのだ。

 あのお尻からもれる
疳高いおならを、

 一つ、二つ、三つ、四つと
そばで数取りしてゐた頃の

 萬歳爺々(くわうてい)のしあはせは
四百餘州もかへがたかった。

 十三とは、縁起がよくないよ
たのむ、もう一つきばっておくれ

 太真が、愁眉をよせて
息ばる顔がまた、絶景だったが
(金子光晴)

 玄宗の最晩年の追憶の中で楊貴妃は〈屁〉でよみがえっていたのであった。
 玄宗「たのむ、もう一つきばっておくれ」太真「愁眉をよせて息ばる顔」――というやりとりからは、驚くほど素直な〈屁〉のエロチシズムが漂う。そのとき、お尻も屁も息ばる顔も、密室の秘め事だ。美しい妃の〈屁〉の数取りをする極上の愉楽はそうあることではあるまいよ。それは、領土的野心よりも何よりも抜きん出ていた。メロメロ〜。

 …だったはずなのに、玄宗は楊貴妃を(乱の原因になった楊氏一族に憤激する自軍の兵士を鎮めるため、求められるまま)殺してしまう。(縊死させた)

 運命に従わざるを得なかったと言ってみても殺した言い訳にはならないが、殺したからといって、愛が終わっていたわけではないのだ。実際、玄宗の余生は太真を追慕して涙に暮れたのであり、太真を最後まで忘れることはなかったという。白居易の長恨歌は有名である。金子の詩は、そういう玄宗の晩年における太真の思い出しシーンの一コマというわけだ。

 歴史上の悲劇の愛の運命を背景に、この詩は哀切なものを漂わすが、別に(玄宗は太真を殺したのだという)エピソードを知らなくても十分鑑賞に堪え得る。その場合には純粋に〈屁〉の振る舞いだけが浮き立つんだね。そこがこの詩が基本に持つ〈屁〉的な普遍性なのだ。

 今はなき愛した女の〈屁〉こきの想い出という詩の基本フレームには「美女である」「玉のお尻である」「愁眉である」「絶景の息ばる顔である」といった、美的に極限にまで高められた〈屁〉をめぐる状況設定が、慎ましくも豊かに盛り込まれているわけである。さらに、のぞみ通りに十四連発をこき出すという驚喜や、女性らしい高音域の屁音などが配せられてムードは高調する。こんなワガママを聞いてもらえる玄宗も、一所懸命に努力する太真も、ホントに幸せそのものだ。エロだねー。

 このとき「萬歳爺々のしあはせは 四百餘州もかへがたかった」のは当然だろう。そもそも高調した情欲や性愛は裸のまま律動している限り、判断や愛のような理念を凌駕するものだ。そのとき世界のすべては情欲や性愛の配下になるのであ〜る。「四百餘州」など〈屁〉でもないわい。

 詩の世界は「萬歳爺々」が回想する愛の営みとして、時間がゆったり流れているけれど、そこには、太真の〈屁〉がせまってくる緊張した密やかな切迫感があり、快楽を踏みしめていく段階的な予感がある。しかし、情欲は回想(妄想)では満たされぬ〜。いや、どんな文学でもそうであるように、満たされぬ限界性ゆえに表現はそこに現象するのさ。そこでは玄宗も読者も(表現された現象を追体験し)嘆息するのみだ。

 そりゃまあ、当の生身の(なまぐさい)玄宗皇帝や楊貴妃は文学として生きていたわけではないんだからね。我々が彼らを表現世界であげつらうのは完璧に妄想の世界なのだ。「息ばる顔がまた、絶景だったが」――このフレーズに至って、太真の十四発目を妄想しつつ覚醒する(我に返る)仕掛けである。絶景だったなァ、と。

 しかし、そこでこの詩は終わらんよ。

 つまり単純に、死んでしまった太真の想い出話というわけにもいかないんだよね。我々はすでに歴史のエピソードを知っているからである。玄宗は太真を見殺しにしてしまっているのだ。そういう残酷な身勝手さを発揮した(それに太真はもともと息子の嫁だった。それを見初めて無理やり妃にした)男なのであって、清廉居士でも何でもないのである。強欲で傲慢な助平オヤジだったに違いない〜。(でも、皇帝)

 それを思えば、この詩をゆったりと流れるワガママな時間は、倫理道徳の立場からすれば、やはりヘンタイなのであ〜る。が、この時間がエロであればあるほど我々はその異常さに魅せられる。太真の〈屁〉に魅せられるのだね。

 かくして、玄宗が太真と確保した生身の時間は至高のものだったであろうが、玄宗は皇帝として「四百餘州」を選ぶのである。このとき玄宗の「愛」はもちろん不変だ。

 ここには我々の直面する生の現実(ここでは情欲や性愛)というものが、理念(判断や愛)に凌駕される姿があるんだね。例えば「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」という崇高な理念がある。しかし、太真の立場からは、玄宗がおちいった観念の罠(暗黒面)じゃないか。(でも、皇帝)

 この詩は、歴史のエピソードを背景に置いて、現実と理念の不条理を描き込んでいる。なーんて言うとブーッと(屁で)笑うかもしれないが、十四発をめざす太真の〈屁〉の姿がリアルに浮かび上がるのは、それと歴史的現実(殺人)とが相互に照らし合っているからだ。(「殺人と〈屁〉」の類似関係として「革命と〈屁〉」があったよなあ)

 不条理を言い換えれば、歴史と〈屁〉の光明面と暗黒面の相克がここに示されているのであ〜る。

 一言=しかしまあ、我家では嫁のきばっている顔を見たことがない。見たくもないが。皇帝とはつくづく権力者だと思うわ。


(注)十三という忌み数は西欧では一般的だが、古くアジアでは十三を気にしてないか吉数なんだけどね。ここは新しもん好きの皇帝の衒学趣味だろうか。


posted by 楢須音成 at 00:01| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月07日

〈屁〉を歌いながら体操するか〜

 おならの歌を歌いながら子どもたちが体操をしているぞ。何だ〜これは、あやしくないか。おならの歌に振り付けられた体操というのが、そもそもあやしいねェ。とまあ、音成は思ったわけだが、このYouTubeの動画を嫁は「かわいいー」とか言って、ころころ笑って見ておるわ。そこにある〈屁〉はいつもとは違うな。ふむ、あやしい。
   おなら体操

元気に出そう いい音だそう 
ドレミファプププ わ〜
大きくたって 小さくたって
どうせおんなじおならだもん
手〜は腰に さあいくぞ
へい へい ぷ〜
(作詩:二ノ宮知子・野田恵・poo太郎 / 作曲:野田恵 / 歌手:上野樹里)

 なりふり構わず「へい へい ぷ〜」だってさ〜なんだけれども、体操している子どもたちの(緊張してるの?)まじめくさった様子は異様じゃないか。ふつ〜は〈屁〉をこけば、子どもたちは笑い転げるか、逃げ回るもんじゃないのか。何で(ほとんど)ニコリともせず大まじめに全員で中途半端な振り付けの体操をしているのか。これって〈屁〉を笑わない and 嫌がらない全体主義ィ〜?

 しかしなあ、体操というより振り付けは、おなら踊りといった感じだよ。だけどさあ、踊りにも体操にもなりきっていないじゃないか。ラジオ体操みたいに1・2・3・4…と歯切れよく体を動かしてリズミカルに〈屁〉をこくか、河内音頭ではじけて踊るみたいに思い切り〈屁〉をこくか、どっちかにしてもらいたいものだねェ。

 歌詞は、1番「元気に出そう いい音だそう」→2番「みんなで出そう 笑ってだそう」→3番「なんだか出そう もうすぐ出そう」と歌い出す。全編これ威勢のいい〈屁〉こき節となっているのだ。その思想は「大きかろうが小さかろうが、どうせ同じおならなんだよ〜。父さんのも母さんのも、みんな同じだよ〜。ああ、自分ももよおしてきたよ〜。そ〜れみんなで さあいくぞ〜。へい、へい、ぷ〜(出たぁ)」というわけで、これは決して音無しの透かし屁を鼓舞しているのではないことがわかる。身体に宿った〈屁〉を何の屈託もなく、元気で明るい〈屁〉として共有し、みんなで大いにこき出そうというのだ。

 しかし…である。この歌詞って妙に言い訳がましくないか。曰く「大きかろうが小さかろうが同じだ(から)」曰く「父さんのも母さんのもみんな同じだ(から)」曰く「元気でかわいい(から)」と、いちいち〈屁〉をこく理由を言い訳している。何かと理屈をつけて〈屁〉をしようと言っているのであ〜る。

 ははん、ここだね。おなら体操の子どもたちの「あやしい中途半端さ」の理由は。子どもたちは本能的に悟っているに違いないのだよ。みんなの〈屁〉は一つとして同じではないし、元気で明るくない〈屁〉だってあるのだ、と。むしろ、それこそが〈屁〉なのだ、と。――そうだよ、だからこそ、屁は〈屁〉なんだよねェ。そこから目をそらして〈屁〉こきの進軍ラッパを吹き鳴らしても、子どもたちは共感できない。

 それは強制された〈屁〉なのだね。音がしないのに音がするとか、臭いのに臭くないとか言わされているようなものだ。これでは、はじけんわなァ〜、笑わんわなァ〜。

 そもそも〈屁〉が恥ずかしいものであることは子どもたちも知っている。だから〈屁〉こきの進軍ラッパをあえて(わざと)吹くことは笑いを生むはずだ。しかし、大人と違って子どもたちの羞恥心はまだ未熟なのだ。羞恥の態度もしばしば外的な強制によることが多いのであるし、大人なら恥ずかしいことも子どもは恥ずかしいとは感じないことも多い。大人が感じるほどには〈屁〉もまた恥ずかしくないはずであるが、もちろん羞恥とは別に〈屁〉というものが、人により場合により異音異臭のヘンなものであることは(多分大人よりも)よく知っているであろう。

 そういう子どもたちに〈屁〉こきの進軍ラッパを吹き鳴らして体操をさせたのである。言い訳がましい(大人目線の)進軍ラッパが響いても微妙に無理があるさ。子どもたちは誰もが同じであるような〈屁〉の同一性よりも、誰もが違うという異音異臭の個別性にまだまだ惹かれているのであり、いきなり普段とは違う〈屁〉への態度を表現しようとしても、ぎこちなくなるのは避けられないのであ〜る。(つまり〈屁〉の個別性に惹かれる起源は自分の〈屁〉に対する関心だね)

 ところが…である。YouTubeにはこの歌を歌っている女優の上野樹里の動画(スタジオ録音風景?)もあるのだが、オオオこれは素晴らしい〜。というのも、彼女は照れて恥ずかしそうに(しかし、前向きに頑張って)歌っているのである。その振る舞いはまさに、歌詞(が秘めている言い訳)で恥ずかしさを抑え込んでいる姿である。しかも、おなら体操の振り付けをぎこちなく取り入れて(しかし、ぶりっこセンスがいいぞ)歌い切っている。ううむ、かわゆい。

 確かに、これぞ〈屁〉的現象の一側面ではあるのだ。これこそ「ホントはとても恥ずかしい〈屁〉なのだけど、そうは言っても誰だってするものなんだから恥ずかしくはないのよ、元気で出すわよ〜」と無理やり自分を納得させる姿である。みんなで渡れば恥ずかしくないとしながらも〈屁〉の恥ずかしさ(隠蔽)が無意識に出ている。この振る舞いのリアルさを樹里さんは慎ましくもあでやか〜に表現しているのさ。

子どもたち=羞恥度が低く個別性に惹かれるので「みんなで渡れば恥ずかしくない」式の言い訳はリアルさを欠いて(歌と体操と表情が乖離したまま)歌詞の表現に心的葛藤はない。
上野樹里=羞恥度が高く同一性に惹かれるので「みんなで渡れば恥ずかしくない」式の言い訳にリアルさを望むが(羞恥を抑え込むまでには至らずに)歌詞の表現に心的葛藤がある。

 子どもたちと樹里さんは表現の領域において何と対照的であろうか。両者は全く同じ歌で振る舞っているのにである。同じ歌なのに、子どもが演じるか大人が演じるかによって(演じる者の心的情況によって)表現の表出はかくも変わるのだ。

 一言=おなら体操において、子どもたちが〈屁〉を演じるのを見て「かわいい」「可笑しい」という嫁の評価は大人の誤解(皮相的)であ〜る。
posted by 楢須音成 at 00:11| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月12日

〈屁〉を便座でするキルロイ氏の法悦〜

 これは英詩である。英語の(詩の)表現作法は全く不心得ながら、何となくイメージできたよ。しかし何の情景であるか、これは。声に出して読んでみられよ。
Here I sit in silent bliss
  Listening to the trickling piss.
Now and then a fart is heard
  Followed by a tumbling turd.
           Ha! Ha! Ha!
              By Kilroy

静かに坐る法悦の境
  尿(いばり)したたる音を聞く
時ありて放屁ひびかい
  糞落つる音やがて聞こゆる
       ハッ ハッ ハッ
             キルロイ作詩
             藤島 茂訳詞

 すこぶる高尚な訳だが、少し気取りすぎのような気もするね。もちろん、これはトイレで屈み込んでいる情景である。詩は藤島茂のエッセイ集『トイレット部長』(1960年、文藝春秋刊)の中で紹介されている。

 何というか、あまりに直接的な(そのまんまの)情感と情景は露悪に過ぎて詩的なムードなどないと全否定する向きもあるかもね。確かに、ここには革命(理に訴える)や愛(情に訴える)や演し物(芸に訴える)にからませて、人生という妄想(観念)を掻き立てる〈屁〉的な要素はなく、個人の生理的次元の糞尿屁の放出が法悦感をもって語られるのみだ。しかし、この詩が妙にリアルなのはなぜだろうか?

 見たり聞いたり感じたままに語ることは、表現の武器の一つには違いないが、そこでは真実味いっぱいのリアル感を発散して欲しいもんだ。この詩のリアル感はこうかな。流れる時間の経過を追ってみると「便器に座って法悦に浸る→尿が出る」やがて「屁が出る→糞が出る」となる。時間はゆっくりと流れている。格別に切迫していないことがわかるのは「尿→屁→糞」の順で放出されているからだ。そして、この詩のリアル感のポイントが〈屁〉である。

 どういうことか。例えば、屁と小便が同時に切迫しているとする。このとき屁を我慢すると小便が出ない。ここで無理して小便をすると屁も出てしまうね。ただし、小便を我慢して屁だけすることは可能だ。このように屁と小便の切り替えコントロール(抑制)は難しいし、何より先に出ようとする屁はワガママなのだ。詩では(初めから便意があったのかどうかわからないが)小便をしたあとに、やや時間を置いて屁が出ているのだから、まずは小便がしたかったのである。そして小便のあとに屁が出て、糞が出た。

 屁が出るまでの切迫感がないところから考えると、このときの屁がいわゆる「糞の先走り」であることがわかるのである。「便器に座って法悦に浸る→尿が出る」までが行為の最初のひとくくりであり、「屁が出る→糞が出る」が次のひとくくりとなるわけなのだ。つまり、このとき時間は生理的に順序よく流れながらも均一ではないのであり、ここには身体(大袈裟に言えば、身体で表現される人生というもの)の道筋が〈屁〉的に分節化していく時間の堆積がある。ポイントは〈屁〉なのである。(渡る世間には至るところに何かをきっかけに特徴的な時間の分節化があり、そういう多様な分節化によって我々の人生の位相が変転している)

 ここでもう一つの人生を想定してみよう。小便といっしょに切迫する便意に慌ててトイレに飛び込んだとか、便秘なのだがどう息ばっても屁意と尿意しかない…など、紙一重で人生の場面は随分変わってくるわけだね。便器に座る物語のリアル感の背景には、我々が日々辛くも切り抜けている糞尿屁の危機管理も無視できないわけなのさ。

 かくして、この詩を味わってみれば、Ha! Ha! Ha!…と、ついに頂点を極めた法悦の吐息にリアル感がこめられるではないか。一つの脱糞の過程に糞尿屁の三兄弟を登場させ、特に〈屁〉を介入させることによって、リアル感が増幅しているのであ〜る。

 ところで、キルロイという詩人は知らない。訳者の藤島はこの詩をどこで見つけたのか。
 しかしなかには、どうしても馬鹿が書いたとは思われない高級なのがある。わけても次に御紹介するのは、三ノ宮駅の便所に打ちつけた板に、アメリカ兵が残していったもののひとつで、あんまり素晴らしいから、その板を外すときはおれに断ってくれ、と言っておいたところ、忘れたころになって、駅から何か大きな長いものを丁寧に紙に包んで、私のところに届けてくれた。さすが私もこればかりは机の上へ置くこともならず、あわてて手帳に写し取ったのがこれである。ちゃんと音韻をふんでいるところを見ていただきたい。便所の別名を、英語で poet's corner――「詩人の座」というのも、ゆえあるかなである。
(藤島茂『トイレット部長』)

 というわけなのであった。で、キルロイ氏だが、第二次大戦中からアメリカ兵が "Kilroy was here!"などと、世界中で Kilroy という名前を使って落書きしていたのだという。公認された共有の匿名だったのだ。だからキルロイは誰かではあるが誰でもない。最後まであやしい〈屁〉だねェ。

 一言=糞尿屁の排泄のどんな場面でも〈屁〉はいったん出たいとなると、最初に出ようと極力ワガママするのである。この優先順位は身体という人生の隠微なる闘争であ〜る。
posted by 楢須音成 at 23:41| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月21日

禁じられた〈屁〉

 ムシュー国では〈屁〉をするのはマナー違反であり、従って〈屁〉はしてはいけない建前になっています。しかし、実際にはムシュー国は放屁大国なのです。そもそも人であるなら〈屁〉はしないわけにはいかないのですからね。ムシュー国の人たちは〈屁〉を極めてよくする国民なのです。そこで、他人に厳しい道徳志向性の強いムシュー国では〈屁〉のマナーはこうなります。

(1)あなたは絶対に人前(特に、私の前)でしてはいけない。
(2)あなたは人前(特に、私の前)ではしないときも、絶対に人(特に、私)に気づかれてはいけない。

 ――と、他人の〈屁〉を強く責めるのですが、民族性分析の定説としては、そのマナーの深層に「絶対に〈屁〉は臭くてはいけない」というご先祖様からの申し伝えが存在しているというのでした。だから〈屁〉は臭いから禁止なのですが、たとえ臭くなくてもしてはいけないというルールに強化されているのです。こうなると、ムシュー国人の〈屁〉は、ほとんど透かし屁ですね。

 それに比べれば、クッシャー国のマナーはおおらかそのものです。人前でも〈屁〉はOK。臭い〈屁〉でもOK。何でもアリで〈屁〉はOK。もっとも、クッシャー国人はあまり〈屁〉をしないのですが。(賢明にもムシュー国とクッシャー国には国交はありません)

 透かし屁天国のムシュー国では〈屁〉を脱臭する商品がさりげなく普及しています。さまざまな脱臭・消臭・芳香剤が生活空間を覆い尽くしている一方で、消臭・脱臭ネライの薬品・サプリ・食品がどこでも売られています。これらの商品はさりげなく売られ、さりげなく買われているのです。

 さて、ムシュー国にコッソリ家とヒッソリ家が隣り合って住んでいました。実はこの両家は随分と仲が悪いのです。しかも両家のガキであるコッソリ臭作とヒッソリ音作はイジメっ子(臭作)とイジメられっ子(音作)の関係にありました。コッソリ家は貧乏でヒッソリ家は金持ちでしたから、臭作がなかなか買ってもらえないオモチャを音作はたくさん持っていて、いつも見せびらかしてイジメの原因を作っていました。

 自分の〈屁〉は臭くないという説があります。どうもそうらしいですね。臭作は自分の〈屁〉が臭いとは思ってもいません。だから、平気で透かし屁をしました。音作にしてみたら臭作の〈屁〉はかなり臭いのでした。もちろんこの場合、エチケットとして脱臭対策をした臭作の〈屁〉が、です。

 一方、臭作は音作の放屁音を聞きつけては怒りまくっていました。もちろんこの場合、エチケットとして音を殺したはずの音作の〈屁〉を、です。なぜか音作の透かし屁は、ヒューヒューと山おろしが木の枝をしならせるような音がするのでした。(臭作は、そういう音作の〈屁〉は臭いはずだとも信じていました)

 音作はマナーに従ってこっそり透かすわけですが、なぜか臭作はすぐに聞きつけます。臭作は音作の一挙一動がとても気になっているのです。音作にしてみたら、自分の部屋でこっそり人知れず透かしているのに、臭作は怒りを露わにして窓越しに音作の〈屁〉に抗議してくるのです。このとき怒りのあまり臭作もまた思わず透かしているのですが、音作は窓越しにニオイを感じてしまいます。これが臭〜い。

 こういう場合、両君の力関係によって流れが決まります。臭作はいつも強気であたり構わず声が大きく、音作はいつも弱気であたりに気を遣い声が小さいので、臭作の主張が大いに幅を利かすのです。通りすがりの第三者は臭作の主張を真に受けてしまい、音作は無作法者だと考えてしまいます。そして、臭作の〈屁〉のニオイを音作のものだと思ってしまうのです。その間、音作はなす術がありません。

 ここからが問題なのですが、臭作が騒ぐのを聞き付けたヒッソリ家の主(音作のお父さん)は、驚き慌ててしまいます。そういうマナー違反の騒ぎは近所に知れると一家の恥なのです。何ともはや、このお父さんは極度の事なかれ主義なので、音作に対して、臭作に謝罪するように命じます。しかも音作が大事にしているお気に入りのオモチャを、臭作にあげるように言うのでした。

 これはたまりません。
 しかし、こういうことの繰り返しで、二人は奇妙なイジメっ子とイジメられっ子の関係を続けているのです。それにしても、なぜ臭作は執拗に音作をイジメ続けるのでしょう。一つ考えられるのは、そもそも両家の仲が悪いこと。つまり、親同士の反目が影響を与えていると考えられるわけです。

 親の因果が子に報う――とはよく言ったもので、両家のお父さん同士、お祖父さん同士…とさかのぼっていくと、同じように仲が悪かったことが判明します。さらになぜ両家の闘争が続いてきたのかを探ってみると、ある事実が浮かび上がってきます。

 ムシュー国では〈屁〉というものについて、誰もがニオイと音の隠蔽に傾注するわけですが、両家の長年の闘争は両家の隠蔽のあり方に深くかかわっています。というのも、コッソリ家(臭作)の人間は鼻が悪く、ヒッソリ家(音作)の人間は耳が悪いのです。このため、隠蔽が不徹底なのです。

コッソリ家=鼻が悪いので、ニオイが漏れているとは気がつかない。自分の〈屁〉はにおわない。耳が発達して他人の〈屁〉はとてもうるさい。
ヒッソリ家=耳が悪いので、音が漏れているとは気がつかない。自分の〈屁〉はうるさくない。鼻が発達して他人の〈屁〉はよくにおってくる。

 要するに、相手は見えても自分が見えないという、自己中心的呪縛にとらわれてしまうのです。これは世界の中心で〈屁〉を語る振る舞いに、自分を見失ってしまう現象といえましょう。社会的に固く〈屁〉を禁じた同一のマナーに從っているように見えても、身体条件(身体性)によって認識や振る舞いが変わる現実がここにあります。

 しかも、お互い相手に対して厳しく〈屁〉の禁止を求めてしまいます。他人との溝は絶望的に深い。なぜこんなことになってしまうのでしょう。

 どんなに禁じても〈屁〉というものは、たまってくれば、つい放発せざるを得ない特質があるわけですね。出てくるものを、出してはいけないと禁じるのは、容易なことではありません。人は〈屁〉からの圧迫(屁意)が高まってくると(その危機感が高まるほどに)厳しく自分を律します。強く強く我慢するわけですね。この身体感覚こそが他人に求める厳しい禁止の根拠となります。

 なぜなら、いまにも〈屁〉が出そうな自分の危機(我慢)を認識し、その切実な抑止のレベル内に踏みとどまっている状態は不安(定)なものです。それは相手も同じでしょう。自分がいま陥っている我慢以上の我慢を要求しないと、相手は〈屁〉をしてしまうかもしれないのです。だから安心するには、自分に〈屁〉を禁じる以上に他人に厳しく禁じることになりますね。

 ある晴れた日のこと。学校からの帰り道で、どうしても我慢できなくなった臭作と音作は相手に気づかれないように、こっそりと〈屁〉を透かしました。全く二人同時の〈屁〉だったので、臭作も音作も相手の〈屁〉には気がつかずビックリ仰天。自分の〈屁〉と同時に、臭作は音を聞き、音作はニオイを嗅いだのですからね。臭作は自分の〈屁〉が音を発し、音作は自分の〈屁〉がニオイを発したと固く固く思い込みました。

 これは通常は相手に帰属する(最も嫌ってきた)負の属性を、自分がさらけ出した状態です。他人に対して向ける厳しさを自分に向けることになり、二人はそれぞれ敗残の思いで言葉もなく顔を見合わせました。そして、相手の意気消沈ぶりを誤解してこう思いました。「こいつめ、俺を馬鹿にしているな」と。

臭作の思い「ちょ〜っと間違っただけさ。お前のいつもの〈屁〉の方がうるさいだろォ。ん〜何で黙ってる?」
音作の思い「ちょ〜っと間違っただけさ。お前のいつもの〈屁〉の方が臭いだろォ。ん〜何で黙ってるの?」

 人の〈屁〉は聞きたくない、嗅ぎたくないという思いは〈屁〉を禁じるマナーに転化するわけですが、このようにマナーが自己崩壊し追いつめられると、自分の〈屁〉は人よりうるさくない、臭くないという思いに反転するのです。これは何としても〈屁〉からの無実を求める怨念の旅路であり、ムシュー国人の行動規範を深く縛っているものといえます。
posted by 楢須音成 at 04:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月24日

出てこない〈屁〉の痛い処置

 人間界で悲しみや笑いをまとう〈屁〉も、その存在が身体の存亡にかかわる一大事となっては、ただ厄介で無用のガス体として扱われる。そこでは〈屁〉は完全に異物であり、むしろ凶器となって我々に襲いかかるので、我々はいたたまれず策を尽くして〈屁〉からの離脱をめざすのであ〜る。

 例えば、重症の痔にとって〈屁〉は大敵であろうねェ。何となく想像するのだが、痔が〈屁〉で悲鳴を上げることはあるに違いない。しかし、痔と〈屁〉の関係を語る人はあまりいない。痔主のOLの話を集めた『おしりの秘密』(清水ちなみ著、1995年、飛鳥新社刊)にも〈屁〉は出てこなかった。わずかに、こんな言葉が紹介してあった。「風が吹いても痛いんだぞ」――なるほど、婉曲表現だな。
 こんな一節がある。
 力むと痛いし、かといってしないワケにはいかないし、のジレンマに悩まされつつ大蛇(うんこ)してる。便秘性なので、カチカチで少量しか出ないのにすごく痛い。してる最中、痛さのあまり、出かかったまんま気を失いそうになる。ガマンできずにいつもトイレで手足をバタバタさせて暴れてしまう。夏はいつも汗だくになる。
 ひどい人になると歩けなくなると聞いたけど、フツーに歩けるし、坐るのもヘーキだし、まだ軽いほうなのかな。
 病院に行こうかとも考えたが、ロクな扱いされんとも聞くし、手術なんて会社に勤めているうちは絶対ダメだ(診断書提出しなきゃなんない)。時々、便器の水が真っ赤になるコトがあって、「やっぱ手術か!」とうなだれてしまう。

 あらかじめ言っておくが、こういう話題を持ち出すからといって、音成は「痔」ではない。だからその苦しみに思いを致すことはできぬ。少々軽々しく話すことになるかもしれぬ。ご寛恕を乞う。

 さて、この『おしりの秘密』は、OLたちが七転八倒している痔を加虐する大蛇を〈屁〉に置き換えて読むと実に不気味である。仮にそういう段階の〈屁〉は相当の痔の悪化を示唆するものだろう。そういう痔と〈屁〉に関して医者の記述を見つけたので紹介する。
 放屁困難及ビ之ガ處置 放屁困難症ハ重症の内痔核注射後ニアリテハ、時トシテ患者ヲクモンセシムルコトナキニアラズ、余ガ注射法ニアリテハ敢テ「タンポン」ヲ挿入スルニアラズト雖モ、往々如斯(かくのごとき)症状ヲ訴フルモノアリ、之レ種々ノ關係上知覺過敏トナレル括約筋ハ僅微(きんび)ノ刺戟ニ對シテモ直チニ之レニ反應シテ反射的ニ痙攣ヲ起シ為メニ不随意的ノ収縮ヲ起コスニヨルモノナラン、斯(かく)ノ如キハ非常ニ患者を不快ナラシムルモノナレバ、之レガ排除ヲ計ラザルベカザル、此際(このきわ)ニアリテモ湯「タンポ」入浴座浴等ハ有効ナリトス、最モ良好ニシテ確實ナルハ脂肪ヲ塗布シタル中等大ノ尿道「カテーテル」ヲ肛門内ニ挿入スルニアリ、然ル時ハ瓦斯ハ啾々(しゅうしゅう)タル音響ヲ發シテ竄逃(ざんとう)スルヲ以テ患者ハ直チニ快哉ヲ呼フニ至ル(挿入シタル「カテーテル」ハ暫時其マゝ放置スルヲ可トス)。
(森直卿著『痔疾特殊注射新療法』1911年、朝陽堂刊)

 注射療法は薬品を内痔核に注入する古くからある外科的治療。著者は独自の注射療法を創案した人らしい。それを解説したのがこの本である。『おしりの秘密』と違って、医者が書いた医学の書だから喜怒哀楽の感懐はない。あくまでも痔の平癒(へーゆ)をめざす冷静な医者の振る舞いなのだけどね。

 ここでは放屁困難の状態におちいった痔の患者への対処法が述べられているのだ。「このような状態でも湯タンポや入浴や座浴は有効である。最善にして確実な方法は、脂肪を塗った中等大の尿道カテーテルを肛門内に挿入することだ。これによりガスはしゅうしゅう微かな音を発して隠れ逃げ去り、患者はたちまち快哉を叫ぶに至る。挿入したカテーテルをしばらくそのままにしておくのは可であ〜る」という。

 いわゆる「ガス抜き」である。音成の知り合いには、膀胱にガスがたまって膨満し、尿道からカテーテルを入れてガス抜きした人がいる。痛みに弱い人だったので大騒ぎだったらしい。尿道からのガスは〈屁〉と呼ぶには抵抗があるね。痔における放屁困難の場合は肛門からのガス抜きとなるが、発想の転換をして尿道カテーテルを入れるところが応用編なのだろう。狭い尿道からのガス抜きよりも楽かもしれないと思ったりする。まあ、それぐらい肛門が痔核でふさがってしまった状態になるというのも恐怖だけどなあ。

 このように身体内のガスが限界値を超えても外に出てこれない緊急事態は、めったにないにしても〈屁〉の凶暴性をうかがわせる。1930年に浜口雄幸首相が東京駅で腹部をピストルで狙撃され、東京大学病院で緊急手術が行われた。術後に腹部にガスがたまると病状悪化の兆しであり、ガスの放出が国民注視のマトになった。首相は「相当な量のガスを二度排出」して「待望のガス出づ」(東京朝日)と新聞の見出しが躍った。このような緊急事態の〈屁〉は普段と全く様相が違っている。見出しも「屁出づ」ではなく「ガス出づ」であった。

 こういう場合、ガスである〈屁〉は我々の身体を相当深刻に毀損しようとしているのである。そもそも〈屁〉は無害なものではないのだ。消化のみならず内臓の病変に起因するガスの発生があり、それにガスによる膨満・圧迫・鬱血などが悪循環して、身体に危険な状態を作り出す。だから〈屁〉は我慢してはいけないのであり、すみやかに放出するのが自然で健康である。

 もちろん、放出した〈屁〉は恥ずかしい。そのような〈屁〉を放出すること自体が恥ずかしいから、我々は我慢するね。ところが、〈屁〉に限らず身体の緊急事態が発生すれば「恥」や「我慢」という心の制御は吹き飛ばされてしまうのだ。

普段=したくないのに〈屁〉がしたい→恥ずかしいから我慢する!
緊急=すべきであるのに〈屁〉が出ない→苦しいから何とかして!

 ここには〈屁〉の緊急事態におちいった身体(の苦痛や悪化)が〈屁〉をおおっていた観念性を凌駕する姿があるわけさ。このとき我々の心のチャンネルは痛みに耐えかねて切り替わり、「恥」や「我慢」の世間体はどこへやら、なりふりかまわず、ひたすら身体に即してあれこれ考えて打開策を試みようとする。

 切実さを語る記述でも、まだ余裕がある『おしりの秘密』から漂ってってくるのは諦念の(しかし、諦めきれない)笑いだね。事態が深刻になれば『痔疾特殊注射新療法』の放屁困難の患者のようになる。どんな悪魔的手段でも〈屁〉が出れば快哉だろう。

 まあ、事態の当事者性には一次(患者的)と二次(医者的)があるが、より客観的なのは(痛みを発する身体を客観する自然科学的な)理性が本領を発揮する後者である。かくして我々の心性は〈屁〉の危機に瀕して、いつも一次の苦痛と二次の理路を揺れ動いている〜。
posted by 楢須音成 at 05:55| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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