2008年08月01日

悪玉が悪玉でなくなる〈屁〉という現象

 糞尿屁の三兄弟は深く健康に関係しているのだ。清潔すぎる現代日本の衛生環境に警鐘を鳴らしている藤田紘一郎の『「ばっちいもの」健康学』(2007年、廣済堂出版刊)は、ばっちいものである糞尿屁がいかに健康に関与し、健康を守っているかを明らかにしようとする。もっとも、屁の健康への(積極的?)関与は少しばかりいわく言い難い。見えないガス体である屁はこの本の中で、我々を和ませる息抜きのように登場しているのだが、糞尿に比べれば扱いは微妙ォ〜なのだ。

 こういう健康科学の本では屁だってそのメカニズムから語られるのは必須。しかし(糞尿科学を語る第一人者である)藤田先生をもってして、語られる屁は、結局のところ人間の振る舞いとして現象してしまう〈屁〉なのであ〜る。つまりそれは、眼目が文化論に踏み込んでしまうんだね。そこがこの本の素晴らしさ。

 まず目次を引用しておく。詳細な目次なので、ジッと目を凝らせば、概説はこれで尽きる。
第一章 「きれい」がアブない
  「きれい社会」が心の病気を増やしている
  「きたない」不安で強迫性障害が起こる
  脳からのOK指令が出なくなった人たち
  パーニナルコンピューター(パナコン)
  不快な人間は殺していいのか
  子供を産めない日本人
  世界のトップクラス・日本人の自殺率
  うわべだけの「きれい」が心を乱す
  「ばっちいもの」がなければ、命は生まれない

第二章 ウンコ・オシッコの健康学
  各駅停車症候群に悩むサラリーマン
  実の一つだに出ぬぞ悲しき乙女かな
  便は腸からの便りです
  痔主さんは増えています
  アトピーの原因はお母さんのウンコ
  昔の日本人は過糞症民族であった
  母親のウンコを食べて育つコアラ
  うんこ、おしっこ、きたなくない
  学校で「ウンコのできない症候群」
  ウンコが「心のSOS」を発する
  膀胱がんのオシッコをかぎ分ける
  薬としてのウンコとオシッコ
  男の立ちしょんべん復活を
  お尻が風邪引いてピーッピーッ
  おならをありがたいと思う時
  おならを科学する
  雨の前の風と腹上死
  汲取便所で自立する

第三章 下半身から出るエラいやつら
  ウンコから本当の「エコ」が見える
  循環型社会の基盤になったウンコ
  メタンガスで「うん蒸竜変す」
  快適・便利だけで快便が得られるか
  「スサノヲのウンコ」が意味すること
  悦楽の場所としてのトイレ
  ウンコの現場を見られれば、セックスする
  「ポッチャン便所」とおまる
  便座はなぜ二つ並んでいたのか
  ムーラン・ルージュの「おなら男」
  女たるもの、やっぱりおならは禁物です

第四章 顔から皮膚から「ばっちいもの」健康学
  (略)
第五章 きたなくても体にいい寄生虫、バイ菌たち
  (略)


 さて〈屁〉が出番のところではこういう内容になっている。

(1)外国では屁か糞の判断が狂うときがある。ペルーでは高地で体調が不調(高山病)になった。集団でお尻も風邪を引いた状態になって、糞かと思ったが、さにあらずおならが出た。鈴木先生(女性)のお尻の咳はとても美しい音色だった。

(2)屁にはいろいろな呼び名があるが、屁という言葉は「尻より比々(ビビ)と音を立てて出るガス」ということらしく、下品で好きでない。しかし、医者なら「おなら」はありがたいと実感する。腸の手術では早期におならが出ることが成功の証しである。手術中におならが爆発した事故もあったが、最近は十分な対策がなされている。

(3)おならの成分は個人差がある。食べ物の内容、食事習慣、腸内細菌叢などの違いによるものだ。仲の良い夫婦が同じものを食べても違ってくる。メタンガスを作る腸内細菌叢は遺伝によって左右され、持つ家系と持たない家系があったりする。メタンなどが多いおならは引火する。

(4)便意を催すときにはよくおならが出る。おなかのガスは身体の異常事態が原因のときがある。便秘、肝臓や胆管の病気、骨盤内のうっ血症候群、消化不良、吸収不全症候群、食中毒や腸炎による腸内細菌の異常増殖、空気嚥下症やヒステリーなどの心因性の病気、老人の腸管動脈硬化、開腹手術後の腸管癒着、慢性胃炎・胃潰瘍・すい疾患・過敏性腸症候群・直腸潰瘍・直腸がんなどの消化器疾患、腸の蠕動不良などによる放屁症…といった原因である。ガスがたまって心臓や内臓を圧迫して痛みが発生し、ついにはポックリ病、腹上死の原因となることもある。

(5)フランスでは、おならの音をテーマにして歌い続けたシャンソン歌手がいた。またムーラン・ルージュで、おならで演奏会をした「おなら男」ジョゼフ・ピュジョールがいた。これは大当たりして一日で二万フランも稼いだ。医学界も注目し、ノーベル賞を受賞したシャルル・リシュ教授の指示もとにマルセル・デーデュワン博士が医学検査を実施した。まさしく肛門(つまり、おなら)で演奏したのであるが、私はできないので、おなら体操を普及させたい。

 どうだろうか。このうち(5)になると〈屁〉の出番が、文化領域へ踏み込んでいこうとしているのがわかるね。いや、そもそも屁は健康のテーマとどう結びつくのだろうか? 確かに、おならの歌は人を笑わせるから精神的な健康にはいいかもしれないが、これは屁の成分や含有物が身体に作用する直接的な効用ではない。屁の構成物が身体に影響を与えるとすれば、逆に屁は身体内で深刻な病気の原因になっているではないか。つまり屁は身体的には悪玉なのであ〜る。

 それに、糞尿は身体内でも身体外でも名称は変わらないが、屁は違うね。屁とは身体外での名称であり、身体内では厳密にはガス(腸内ガス)と呼んで屁と区別するのである。腸内ガスが身体内から出てきて初めて屁となることは『屁の喝破』(1914年)を書いた溝口白羊も指摘していた。腸内ガスは(4)のように健康を害する悪玉であるわけだが、それが身体外に放出されて〈屁〉になると、しばしば実に観念的な存在となってしまう。そして、それは必ずしも悪玉とは言えないものとして、我の、あるいは我々の心的構造をはらむ文化現象となるのだ。

 こうした我々の〈屁〉に向き合うときの態度が(糞尿に対するものとも違って)独特であることについて、藤田は決定的なエピソードを示している。深い深い深い内容を持つ話ではないか。そのまま引用する。
 ただ私は最後にちょっと言いたいことがあります。ウンコやオシッコなどだれでもしていることを、「恥ずべきもの」「ばっちいもの」として排除しているのが、今、私たちが生活している近代社会です。
 ウンコやオシッコがない清潔社会は「生きている人間」の放棄につながると思うのです。
 では、「おならはどうなの」と聞くと、「平気で人前でおならをするべきだ」と言う人は恐らくいないのではないでしょうか。
 フランスの二三歳になるフェミニズム運動の闘士・アガトさんはこう語っています。
「私は、生きている人間を放棄するわけにはいかないので、ウンコやオシッコのことを堂々と言うことにしています。
 私は、性器のにおいも、汗のにおいも、生理のにおいも好きです。生きているからこそ生じるにおいじゃないですか。
 真の女性解放を考える時、今まで私たちが『悪臭』と言われてきたにおいや人間が行っている生理的な現象に親しみを感じることが必要だと思います。それでこそ女性たちは自分自身の本当の姿に近づいて行けるのだと思うからです。
 しかし、おならに対しては、どのように接したらいいのでしょう。オナラはいちばん突飛で、いちばんの禁止事項になっています。
 最近やっとウンコのことは社会的に少しずつ語られてきたのに、おならについて語る人はいませんね。
 私はおならをするのが大好きでした。とくに、ベッドで自分のおならのにおいを嗅ぐのはよかったです。シーツに頭までもぐって、自分だけで作り上げたにおいの世界に、こころゆくまで包まれていたことがよくありました。
 私は自分のおならのにおいは、昔からずっと好きでした。しかし、他人のおならのにおいには我慢できないのです。
 私は人前でおならをしたいと思っています。しかし、それは空想のなかだけ、そうできたら、どんなにか刺激的でしょうね。
 スキャンダラスだし、社会の秩序に挑んでいるようだし、したいのですが、現実的にはできないのが残念です」

 フェミニストの女性闘士が「オナラは一番の禁止事項である。しかし、自分のオナラは好きだ。他人のオナラが我慢できないのだ」と〈屁〉に対するアンビバレントな告白をしている。実に示唆に富むではないか。これは〈屁〉の忌避や隠蔽やタブーというものが、自分には許しても他人には許さない(自分の屁はイイが他人の屁はダメ〜)という、背離する心的構造に裏打ちされていることを示しているわけで、単純な全否定ではないのである。このため、心的な軸足の重心のかけ方によって態度や行動が変わることもあるのだ。

 藤田はこう続ける。
 アガトさんは「自分のおならは好きで、他人のおならは我慢できない」と言っていますが、私の場合は少し違うようです。
 私は世界のいろいろな発展途上国を今でも毎年数回訪れています。
 中国には若い恋人のパンヤンメイ(二十六歳)ちゃんがいます。彼女が私の前でしたおならは「ピー」とかわいい音をたて、よい香りがしました。
 ベトナムで知り合ったチ・テちゃんのおならは「ダッ」という短い音でしたが、やはりとてもよい香りでした。
 この音を聞いた時、私は国によっておならの音が違って聞こえ、それがそのまま「おならの呼び方」になっていることが多いことに気づきました。
 私はよく知りませんが、フランス人のおならは「ペ」と小さく出て、あまりくさくないのではないかと思うのですが、私の考えは間違っているでしょうか。

 しかしですね、藤田先生。先生はよくても相手の女性は藤田先生の〈屁〉をきっと許しませんよ〜。つまり、我々は「自分のおならは好きで、他人のおならは我慢できない」というのが心の基本形であり、逆をいく倒錯的な嗜好や行動は、このような背離の心的構造が軸足をかえた現象として生起しているので〜す。

 この本は糞尿屁を語って、決して〈屁〉がメインではないが、正しく〈屁〉の真髄に迫るヒントを示していると思うね。


posted by 楢須音成 at 00:05| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月04日

大阪のおっちゃんの〈屁〉

 先日のテレビ番組「秘密のケンミンショー」(日本テレビ系列)に〈屁〉が登場していた。番組は全国の、その土地だけの風習・風俗・食物などを紹介するのだが、出身芸能人による都道府県対抗といった趣向のアオリが展開し、面白可笑しく演出されている。ま、好きでいつも観ているわけではないのだが、話題の一つが「大阪爆笑オナラ術」とあっては見逃すわけにはいかず、何も知らぬ嫁と二人でテレビの前に座った。

 いやはや「大阪のおっちゃんはわかりやすくおならをする」というのがコンセプトだったのさ。音成も嫁も、おっちゃんのその行状に凍りついて画面を見ていたのだが、実に実に大阪のおっちゃんはリアルな振る舞いをしていた。「あー、ちょっと指引っ張ってんかー」と嫁に手を差し伸べて、嫁が指を引っ張ったとたんに一発ブー。「うーん、なんか付いてへんかァ」と息子に尻を突き出してみせ、息子が顔を近づけたとたんに一発ブブッ。突然、空を指さして「ヘリコター」と叫びながら「」のところで一発プー。こういうアホな〈屁〉の情景が繰り広げられたのだった。我が嫁はニコリともせず「信じられない」とポツリ。音成は「しもた、録画しとくんやった」と大いに後悔したものだ。

 しかしだね、それにしても大阪のおっちゃんの行動は大阪独特の振る舞いなの? これは全く違うところに相手の気をそらしておいて、思いもしない行動をぶつけていくだまし(討ち)である。いやまあ、これはイタズラの部類であり、だましというのは言い過ぎかな。「嘘つきと」「イタズラ好き」とではかなり印象が違うね。もちろん、大阪のおっちゃんはイタズラ好きなのであるさ。

 番組に登場した京都人によれば、京都では「屁はしない。人前では…」というのである。ふむ、いかにも京都らしい(気がする)が、イタズラで〈屁〉をするような風習は、音成の観察では、大阪以西の西日本では広く見られるのではないだろうか。なーんて、これはあやふやな憶測ではあるけどね。

 ともあれ、番組は「大阪のおっちゃんはなぜそんなことをするのか」と追究したのである。インタビューされた大学の先生が、おならは「恥ずかしい行為だが(あえて)自分を下にして、笑われることをする」とかなんとか言ってました。笑いをとるのが大阪のおっちゃんの習性なの?

 ここで引っかかったのだが、笑いをとるというのは自分を下に置くことなのか? 大阪のおっちゃんは別に卑屈になってやっているのではない思うのだが。まあ、威張ってるし、胸張ってやってるんだよね。

 番組に登場した大阪人によれば、このおならは「くさいほどいいんや」「簡単に笑いがとれるんや」というのである。うむ、うむ、そやねんよ。そもそも笑いをとるというのは、自分(の立場)を下に置いた振る舞いではないのである。(笑われることと笑いをとることとは違うんよ〜)

 普通は〈屁〉を出すと嘲笑の対象となるが、これは出してはいけないものを(制御できずに)お漏らししてしまうからだ。〈屁〉のような(身体に根ざす)ものにおいては、自分が制御できないことが羞恥の本質となる。このとき、異音異臭は他者との関係のなかで、許すことのできない不快となっている観念なわけさ。

 ところが、大阪のおっちゃんは他者の前で、この恥ずかしい〈屁〉を自分の意志で(意外性のある演出まで用意して)放出する。恥ずかしさがどこかにすっ飛んでしまっているのは、十分に制御されている(わざとやっている)からである。(この〈屁〉の制御は、普段は抑え込んでいるという消極的制御であるが、このときばかりは発散するという積極的制御を装っている。作り出したタイミングぴったりの行動で制御を誇示するのだ)

 そこにあるのは「卑下」などではないぞ。それはまあ、あつかましい「誇示」であり、異音異臭の〈屁〉は、相手に自慢する勲章あるいは危険な武器のようなものに転換している。あるいは転換させようとしている。しかし、所詮は〈屁〉だからね。そもそも自慢できるものではないし、といって相手をホントに脅かすものにもなりえないし、失笑が生まれる。態度はでかい(積極的に制御している)のだが、それがコケおどしや下品(積極的制御に値しない)というアンバランス(落差)を現出して笑いを生む。それを(狙って)あえてやるのが、〈屁〉で「笑いをとる」という行動の構造である。(屁が「くさいほど」大きなアンバランスを生んで「簡単に笑いをとる」わけだね。笑いをとることは笑いの自己目的化である。お笑いの芸の発生につながる…なんてね)

 切迫した〈屁〉をそのまま出すのは(情けないし)ヒンシュクものだが、カッコをつけるわけなのだ。大阪のおっちゃんは屁意(ひい=屁をしたい気分)を催すと、ごく自然に普段の態度のでかさをそのまま延長させて振る舞うことになるんだね。しかし、〈屁〉の笑いを生むズッコケぶりは、これがそのまま普段の、一事が万事のズッコケぶりをありのままに延長しており、いかにも大阪のおっちゃんなのであ〜る。(このように大阪のおっちゃんが笑いをとるとき、自分をアホと意識しているかは大いに疑問だ)

 もちろん、大阪のおっちゃんが全員こうであるはずはないさ。やはり嫁の存在も大きいだろうしね。さて、静かにテレビを観終わって、何気もなく音成が「ちょっとこの指をば引っ張ってみ」と嫁に手を差し伸べると、嫁はけげんな顔をしてクイと引っ張った〜。
posted by 楢須音成 at 15:57| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月10日

動物の屁と人間

 人間だけが屁をするわけではないが、自然界の動物にとって屁とは何なのだろうか。人間は〈屁〉をしてしまい、さまざまに振る舞うのだが、人間になついた動物ほど人間の屁に近い振る舞いになるように観察される(かな)。

 スカンクは敵に遭遇すると、肛門近くの腺から悪臭の分泌液を発射することで知られている。肉食獣にはスカンクと同様の肛門腺があり、これは縄張りを主張するマーキングなどに使われているという。スカンクはそういう肉食獣一般とは一線を画し、身を守る威嚇的な放射能力を発揮し、発散するニオイの強烈さにおいて群を抜いているのである。

 しかし、これは厳密には屁とは呼べないだろうね。屁はあくまで気体でなければならないものである。「何で?」と言われても困るが、水を氷とは呼ばないわけだしね。

 ヘヒリムシ(カメムシ、ミイデラゴミムシなど捕まえると悪臭を放つ昆虫)も放射するのは霧状の液体のようだ。付着してニオイが残る。

 動物が(気体の)屁を放発する話はいろいろと散見されるのだが、最近、ドジョウの屁の話を見つけた。原文に句読点を補足し、読みやすくして引用してみる。
病氣や死ぬる話ばかりで講話が陰氣になつた故、今日は餘談(よだん)として夏季の遊戲「泥鰌(どじょう)の放屁(おなら)」と云ふ話をして見やう。余は今、泥鰌の放屁を見たと云ふても、世人は必らず之(これ)を信ぜぬであらう。況(ま)して其(その)臭(におい)を知つて居ると云ふたら、世人は余を以て狂人と云ふであらう。併(しか)し其れは決して六(むづ)かしい事では無い。余は今、諸君に其法を傳授(でんじゅ)しやう。諸君、試みに子供と共に泥鰌を二三尾捕へて細いガラス瓶に入れ、水を九分目程入れて安置して暫(しば)らく眺めて居て見玉(みたま)へ。泥鰌は苦し紛れに時々放屁をする。其時泡が立つから直ぐ分る。但し口から吹き出す泡と間違へてはいかぬ。二三時間経つた後、瓶の栓を開けて嗅(か)いで見玉へ。一種の臭氣があるから。呵々。
以上は笑ひ事ばかりではない。胃癌や胃潰瘍患者の枕元に硝子瓶入りの泥鰌を据えて置けば、滑稽で面白く、時々其の放屁を眺めて病人が退屈せず慰安にも成り、從つて精~的治療法の一端にもなるので、余が老婆心から醫師として、全國各地の重病者に見舞として贈呈する心づくしの進物である。願くば看護の人々よ、余が微意(びい)を容れ僅(わずか)の手數を忍んで、之を病者の枕元に備へて下さい。御願(おねがい)です。(田村化三郎著『胃腸の衛生』1909年、読売新聞社刊)

 これは可笑しい話だ。ドジョウの屁が何を目的としているのかはわからないが、屁をするとはね。それを面白がって病人の枕元に置き、つれづれの慰みにしようというわけである。ポコポコと泡立つ屁を待って、ガラス瓶の中をいつまでも眺めて生物観察する人間がそこにはいる。ささやかな小さな屁の楽しみを求めて…。

 デカイ動物の屁もある。何かの本には、象は図体がでかいのに、とても小さい屁だと書いてあったが、誤りである。
 象は小心者である。あんなでかい図体をしていながらとおかしくなるが、草食動物の悲しさだろうか。
 しかし、おならは図体にふさわしく、動物のなかでもいちばん大きい。
 ブーッ、ドカーン!! ブーッ、ドカーン!!
 象が象舎の中で一発放つと、部屋じゅうが揺れる。隣に寝ている象も目をさますほどだ、とこれは到津動物園長の森友氏から聞いた話。(中村全享著『おなら説法』1981年、祐学社刊)

 とても迫力がありそうだ。音成はまだ聞いたことがない。雁屋Fの『スカトロピア』によると、1960年代に象の屁を録音した(紙とビニールの)宣伝用レコードが出回ったという。「さあ、それではアンコール、象のおなら、ビタミンプーですよ、はい、も一度象のおなら、ビタミンプー!」とディスク・ジョッキー役の林家三平が絶叫して、ドッシャーンと象のおならが響き渡る。雁屋は可笑しくて可笑しくて、腹を抱えて悶絶する。ここには人間を超える屁が存在するという、自然界の大きな異変に対面した人間の、驚きと笑いの姿がある。人間の屁など全く問題にならない、想像を絶するがゆえの悶絶の笑いだね。

 より身近なのは犬猫の屁だろうか。まあ、犬猫を飼っているからといって、彼らの屁を聞いた人は少ないようだが、音成は犬については「ブスッ」という、多分そうだと思うのだが、屁らしきものを聞いたことがある。屋外だったせいかニオイは感じなかった。
 いつだったか私の両脚の間に顔を突っ込んで、いい機嫌でいる時私が放屁した。(犬の)アコは飛び上がった。私は床の中で笑いがとまらなくなった。その話を友人にしたら、
「そりゃ驚くよ、犬の嗅覚ってのは人間の三千倍だからね」
といった。
「物凄い音がしたのだから、さしてにおわないはずだがな」
といったら、
「音に対しても聴覚は三千倍、だから飛び上がるはずだ」
という。三の字のつくのはあてにならないが、アコが飛び上がったのは事実である。
 その後時々やらかすが人畜無害とわかったのか、身動きもしなくなった。
 (中略)
 朝になって寝ている私の肩のあたりから(アコは)潜りこんだものの、頭しか入らない。アコの肥満した臀部が私の顔の前にあった。寝ぼけている私の耳にプシュッという音が聞こえたようだった。
 私は嗅覚は人並みだが、犬のおならはたしかに三十倍くさいようである。寝返りしたとたん、私はソファベッドから転がり落ちた。見事に敵を討たれたようである。(秋山庄太郎『文藝春秋』1964年)

 この話はほのぼのと笑う。犬の屁は臭いようだが、臭い屁が可笑しさを醸しているのではないね。主人の秋山が犬の前で屁をするようになってから、アコも屁をするようになったのである。主人に倣う犬の肛門のゆるみ具合が何とも可笑しいのだ。ここには屁を交歓する人間と犬がいるわけである。お互いのとぼけた態度が可笑しい。

 これが猫になると、少々すさまじい。うーむ、猫はあまり好きになれないな。
 ある時、知人の家に招かれて、食事もすんで、ぼくらはお茶など飲んで、四方山話をしていた。そこの家の女主人と言うのが猫好きで、茶色の虎毛の大きな猫を飼っていた。話をしながら、ぼくは女主人に対するお世辞の意味もあって、猫を膝の上に抱いて、喉をなでたり、肩をなでたり、尻っぽに爪を立てたり、唇をめくって歯ならびの点検をしてやったり、ひそかにひげを抜いてやったりしていたのだ。ところが、あろうことか、恩知らずにも、猫はぼくの膝の上でへをたれた。それも、ブォッと言う音のかなりすさまじい屁なのだった。
 (中略)鼻先に立ち昇って来た猫のおならの、すさまじい悪臭をまともに吸ってしまって、ぼくはむせて、猫を膝から放り投げた。猫は床の上に放り出されて、いやらしくも、ニャン、とないた。猫のへのにおいと来たら、硫化水素どころじゃなくて、スカトールと、魚のはらわたのくさったようなにおいのまじりあった、頭の芯までつらぬくようなやつだった。ぼくは、思わず手をばたばたやったので、においは、周囲に広がった。みんな、思わず顔をそむけ、手で鼻をおおい、顔をしかめてぼくをにらんだ。もうだめだ、とぼくは観念した。何で今さら、実はへをたれたのはお宅の猫ちゃんで、と言えようか。(雁屋F著『スカトロピア』1972年、ブロンズ社刊)

 猫と犬の性格の差は大きいね。遠慮会釈のない傍若無人ぶりは、透かし屁をして人に罪をなすりつける姑息さをはらんでいる。女主人は猫の恩知らずの振る舞いを知らない。彼女らの関係は悪意の一方通行だ。猫の屁みたいな振る舞いは卑怯であ〜る。

 とまあ、いろいろな動物の屁があるわけだが、ここに人間が絡むと、動物の屁も奥行きのある不思議な現象になるようだね〜。
posted by 楢須音成 at 13:48| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月16日

なぜか禅僧が〈屁〉を語る

 日本の仏教は〈屁〉に寛容である。特に忌み嫌っている様子はないね。神道では古事記に(糞尿は出てくるのに)なぜか〈屁〉が全く出てこないことに始まって、探しても〈屁〉にまつわるエピソードがないのだが、仏教では結構あるのだ。別に〈屁〉を好んでいるわけでもないだろうけどね。僧侶が〈屁〉をたれれば、普通の人以上に面目を失うことになるのが現実だ。この辺は一般の通念の範囲内にある。

 ところが、こういう〈屁〉を殊更に格別なものにしたり、何かと講釈する僧侶がいて、どういうわけか禅僧ばかりなのであ〜る。

 あの一休和尚(1394-1481)には、花見で思わず放屁して、恥じることなく「あな面白の春べやな」と謡曲の一節に(春方と春屁をかけて)洒落てみせた話(滑稽一休物語)があるが、彼は臨済宗の僧だった。近代でも、客の鼻先で握りッ屁を開き「臭いと思ううちは修行が足らん」と喝破した原坦山(曹洞宗大学林総監、1819-1892)、娘たちに「三三九度で屁を取り外したときの詫びの言葉を考えよ」と要求した橋本独山(臨済宗・京都相国寺派管長、1869-1938)など、〈屁〉を振る舞った僧はいずれも禅僧である。井上ひさしの戯曲『道元の冒険』(1972年)には、栄西の放屁が描かれている。どうも禅と〈屁〉は親密ではないかと思わざるを得ない。

 竹田黙雷(臨済宗・建仁寺派管長、1854-1930)の禅の茶話をまとめた本にも〈屁〉が出てくる。音成の解説を入れたテキトー訳で紹介してみよう。登場する僧はすべて禅僧である。
拙僧はきのう美術展覧会を観覧して帰るとき円山のしだれ桜を一見したが、何と花見客の多いこと、なぜこんな桜のために満都の男女がかくも狂奔するのか、実に馬鹿な連中だと思うた。桜の花見を主催する方はまだしも金儲けなんだからよいが、ここに浮かれている人間は馬鹿の骨頂だ。高台寺の政所にも立派なしだれ桜があれば、深山の奥にも桜が咲いているではないか。それなのに、ただ一本のこの円山のしだれ桜に狂奔するのは、あとで祇園の芸妓に戯れたいが魂胆であろう。それで拙僧はきのう円山から祇園へかけての花見客を端からじろじろ見て回った。そして一力の門のところでブツと大きな屁を放ったときの心地よさは、百万の花見客がこの屁で吹き飛ばされるほどの気持ちだった。今晩にでも行ってみなさい。しだれ桜の花に拙僧の屁の匂いがするぞ。

『屁なりとて仇に思うな諸人よブツというのは仏なりけり』という昔の高僧(仙崖和尚)の和歌がある。『百日の説法屁一つ(屁の一発で百日にわたる尊い説法も台無しになる)』という諺は、実は釈迦が最後に空理(すべてのものは仮象であり実体を持たないという教理)を説かれた、すなわち「説不説の妙処(善人に真理を説く絶妙の勘どころ)」を示しているのだよ。花見客を吹き飛ばした拙僧の放屁もまた釈迦伝来の放屁で、旅順陥落のときの高台寺の祝砲以上の大音響であるよ。アハハハ。

拙僧が妙心寺でまだ十七八歳の雛僧のときだ。師の越渓(えっけい)和尚のお伴をして東山から祇園町を通ったことがある。そのとき和尚が拙僧を振り返って「ちょっとどけ、ちょっとどけ」といわれるから何事かと思っていると、ブーツと大きな屁を放って「アア面白い。京美人がみな鼻をつまんでいるだろう」と哄笑なさったことがある。その時分は、禅坊主などは生まれてこのかたまだ鏡を見たこともない物知らずで、ちょうど四条の紅平の店に大きな姿見があったのを和尚も拙僧も立ち止まって眺め、自分の顔はあんな顔かと思ったこともあったなあ。この越渓和尚はなかなか面白い人だったが、拙僧のきのうの放屁も、つまりは師匠の衣鉢を伝えたのだよ。

正念と邪念の葛藤は帝釈天と阿修羅の戦闘に譬えられる。正念すなわち帝釈天が勝利を占める瞬間は、阿修羅の魔軍が「蓮糸(れんし)の孔」に逃げ込む。さて、蓮(はす)の糸の極微の孔とはどこだと思うか。みな人間の心の中にあるのだよ。アア、すっぱりと魔軍を奉天府へ掃討したぞ、と安心していると、糸の孔からロシアという魔軍が金平糖のように角を出している。戦国時代でも平和時代でも、とにかく油断は大敵だ。いや学者が座禅をする上にも、この用心が肝要だ。
(竹田黙雷述『禅機』1908年、井冽堂刊)

 ここでの〈屁〉のエピソードは、禅問答や公案のような(意味不明の?)超絶した論理は微塵もないなァ。坊さんがただ面白がっている〈屁〉談義にしか見えないのだが、どうだろう。あけすけな〈屁〉こき坊さんの自慢話か、言い訳という感じではないだろうか。そんなにも禅僧って〈屁〉が身近(好き)なの?

 もちろん、禅僧が〈屁〉という「異物」をもって、修行や脱俗や探求や人生のテーマにしようとするのはあり得るだろう。夏目漱石の『夢十夜』には座禅を組んで「無」の一字を解こうと悪戦苦闘する侍が描かれているが、悟りの境地の超絶ぶりからすれば、深〜く〈屁〉を洞察して悟りに至っても不思議はないのである。『夢十夜』の次の一節の「無」は〈屁〉であってもいいのだ。(引用文中の〈屁〉は原文ではすべて無。もちろん、この置き換えは漱石を茶化しているわけではないので、念のため)
 お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向(むこう)をむいた。怪しからん。
(中略)
 短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽(ぜんが)を組んだ。――趙州(じょうしゅう=唐の禅僧)曰く〈屁〉と。〈屁〉とは何だ。糞坊主めとはがみをした。
(中略)
 懸物(かけもの)が見える。行灯が見える。畳が見える。和尚の薬缶頭(やかんあたま)がありありと見える。鰐口(わにぐち)を開いて嘲笑(あざわら)った声まで聞える。怪しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。悟ってやる。〈屁〉だ、〈屁〉だと舌の根で念じた。〈屁〉だと云うのにやっぱり線香の香(におい)がした。何だ線香のくせに。
(中略)
 それでも我慢してじっと坐っていた。堪(た)えがたいほど切ないものを胸に盛(い)れて忍んでいた。その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻(ざんこく)極まる状態であった。
(夏目漱石『夢十夜』1908年)

 時に〈屁〉を語り始める禅僧にとって、それが〈屁〉だろうが「無」だろうが、まったく意図(意味)はないのかもしれない。千崖、一休、坦山、独山、越渓、黙雷という禅僧たちにおいては、少なくともそういう無頓着さが装われているように思える。そのうえで、彼らの振る舞いは意表を突いている(意外性がある)という点は共通しているね。まあ、平気で〈屁〉を振る舞うような人は変人と見なされるし、まして坊さんの振る舞いとなれば、いよいよ奇矯であるというわけだ。

 ただ、確かに奇矯ではあるが、その人が坊さんであることによって、その〈屁〉は何か意味があるんじゃないか、その振る舞いは脱俗の境地なのではないかなどと、ついつい深読みしてしまうのだねェ。しかしなあ、やっぱり黙雷和尚は師ともどもただの屁こきにしか見えんのだけど…。いや、そこが凄いところなのか。

 さて、禅と〈屁〉の因縁だが、音成はこう思うね。座禅を組むと身体内に〈屁〉が発生し、必ず必ず座禅を邪魔するところから、禅僧にとって〈屁〉は心的に深く沈潜するものなのではないか。だから、意識下で向き合う葛藤が、禅僧が〈屁〉を多く語ってしまう根拠なのであ〜る。

 ――ここで音成はハタと気がついた。そーだったのか? 黙雷和尚は〈屁〉に続けて、取って付けたように何の脈絡もなく正念と邪念の戦いの話を持ち出しているが、つまりは〈屁〉を魔軍と意識していたのだ。帝釈天と阿修羅の戦いこそ〈屁〉の真実を示すのさ。一見、まるで〈屁〉とは関係のない話題をポンと投げ出しているように見えるが、超絶した語り口ではないか。「油断すると魔軍は金平糖のように角を出す」とは、何と甘味・滋味のある魔軍ではないか。かくして〈屁〉は誰にとっても、危険千万にして油断大敵なものであ〜る。
posted by 楢須音成 at 00:29| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月23日

〈屁〉が革命を領導する〜

 歴史にはたくさんの革命があった。先頃までは(社会主義)革命というと、彼方に地上の楽土、此方に変革の政治闘争や戦略とかが連想されたが、革命に〈屁〉を連想した詩人がいた。いや、〈屁〉から革命を連想したのだろうか。(以下は中重徹の『一発』に収録されている詩篇。戦後詩だと思うが、この詩人がどういう人か知らない)
   おならと革命

思いきった おならのでかい音をきくと
僕は愉快になってしまう。

突拍子もなく
沈滞した空気をつんざく
おならは青空楽団のホルンだ。
快い生理だ。

人間歴史のなかでのこれほど不変な万人の解放性はない。
地球上のいろいろの人種が、いちどきにおならを出したら
雷のような
革命的大交響になるであろう。

僕も僕らしく革命について考える。
(遅沢和郎)

 いい詩だとは思うな。のびのびと〈屁〉が味を出している。というか、作者の当初の意図はどうであれ、革命が幻想(アイロニー)と化した現代において、異様なほど明るい(突き抜けた)味ではないか。あまりの明るさが革命の(悲惨な)歴史を漂白し、それが(政治的にも解体されてしまった)革命の幻想化に見合っている。ここには何だか童話のような世界が現出しているのだが、いまどき子どもたちに革命(という闘争や戦略の意味・反意味)をどうやって教えよう?

 もちろん、いまでも革命は意味不明の符丁ではない(かもしれない)のだが、現代は、革命の明るさを〈屁〉に重ねた(革命がマトモに信頼された)時代の執着からは転落してしまっているから、思いがずれている奇異感(ノスタルジー)は否めないね。

 作者がこの詩を表現したとき、革命と〈屁〉は「人間歴史のなかでのこれほど不変な万人の解放性はない/地球上のいろいろの人種が、いちどきにおならを出したら/雷のような/革命的大交響になるであろう」という世界同時革命を達成するものだった。おお、それは「革命」イコール〈屁〉――このテーゼによって〈屁〉は革命的大音響となったのだ(ろう)。

 まさに〈屁〉は革命という光源によって輝い(てい)た〜。革命に領導されて我らの〈屁〉は輝ける戦士だ(った)〜。

 いまこの詩が読まれると、現代おなら童話の世界を照らす光源は、革命から〈屁〉に転倒せざるを得ない。そのとき〈屁〉は「突拍子もなく/沈滞した空気をつんざく/おならは青空楽団のホルンだ/快い生理だ」という、我々の生理の存在証明の主張において光源となり、現代の解体された革命を鼓舞しようとしているのだ。まとめると、こうなる。


(1)かつて革命という光源に〈屁〉が照射された時代

光源「人間歴史のなかでのこれほど不変な万人の解放性はない/地球上のいろいろの人種が、いちどきにおならを出したら/雷のような/革命的大交響になるであろう」=あり得る現実(希望)
被照射「突拍子もなく/沈滞した空気をつんざく/おならは青空楽団のホルンだ/快い生理だ」=快い事実

(2)いまや〈屁〉という光源に革命が照射される時代

光源「突拍子もなく/沈滞した空気をつんざく/おならは青空楽団のホルンだ/快い生理だ」=快い事実
被照射「人間歴史のなかでのこれほど不変な万人の解放性はない/地球上のいろいろの人種が、いちどきにおならを出したら/雷のような/革命的大交響になるであろう」=あり得ない現実(絶望)


 もともと我々の〈屁〉というものは、どこまでいっても〈屁〉なのだね。つまり、昔も今も「快い事実」なのである。すると(1)は革命という「希望」が〈屁〉という「快い事実」を照らし、逆に(2)は「快い事実」があり得ない革命という「絶望」を照らしていることになる。時代の差異(革命の変質)が詩の表現に奇妙なブレ(今にして感じる奇異感)を生じさせてしまったというわけだ。

 まず(1)では「希望」を「現実(事実)」の根拠にしている(革命によって〈屁〉は快いのだ)という、党派的な捏造(あるいは希望への強化)におちいっている。そして(2)は「絶望」を「現実(事実)」で救済する(革命は〈屁〉のように快いのだ)という、ある種の隠蔽(あるいは希望への転化)になっている。

 まあ、そういう風に言ってしまうと、まるで歴史の後出しジャンケン(結果を見てからの議論)で革命を評価してしまったことになるね。価値のある革命と信じて詩を書いたが、いまやその詩は実は下らないものだった革命を粉飾する表現として表出することになった――となるわけだ。いや、まだ革命を信じている(いまも闘争し戦略を持っている)人もいるかもしれないんだけどね。

 もちろん、党派に特定されない「革命」という言葉はいくらでもアナロジーが可能だから、何かの刷新や変革や清新や回復や希望や覚醒や成長や…の代名詞として受けとめれば、この詩はまた別の歴史や個人史を刻むかもしれない。そういう鑑賞もあり得るだろうね。だって、革命という言葉はいつの時代も魅力的なのだ。(だから幻惑される)

 さて、一篇の詩をもとにウダウダ言ってきたが、時代という時間の推移で(詩の表面は変わらないのに)受け取り方は変わる。この詩の場合(制作年代も作者も知らないという音成の不明は棚に上げ)革命の変質を織り込まれ、読み替えられてしまったのだ。このとき、革命がどう転ぼうと〈屁〉は〈屁〉だ。快い生理なのだ。その一貫した不変性は揺るぎないのであ〜る。

 この詩が老化しているとは思わない。どんな鑑賞も自由さ。音成の感想は(漂白された)革命と〈屁〉が相互の光明面をみせながら味を出しているということ。そして、僕も僕らしく〈屁〉について考える――そういう気分。革命と〈屁〉の光明面が重なり合う気分は悪くない。そうやって、この詩は解放されているのさ。

 一言=革命に暗黒面があるように〈屁〉にも暗黒面はあるよ。革命や〈屁〉のそれぞれの光明面と暗黒面を織り込んだ詩はまだ現れていない〜。
ラベル:革命
posted by 楢須音成 at 01:23| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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