2008年07月01日

挙国一致という〈屁〉の悪夢

天真爛漫期
○いない、いない、ばー。あっ、笑ってる、笑ってる。グブー。あっ、何それ。君の屁なの? あー、くちゃいね。オオ、くちゃい、くちゃい、ブー。うわッ、ホントくさい、あはは、笑ってる。よーし、君もするから、ボクもするぞ。競争だぞ、どうだ。ぶわー、ぶわー。いやぁ、これは、くさくないな。…あァ? あれ、何で泣くのさ。ビックリしたの? 泣くなよ。いない、いない、ばー。くちゃい、くちゃい、ブー。おい、おい、泣くなってばさ。

平穏無事期
○♪おならさんあなたはどこからきたの? ♪どーしてそんなにおとがするの? ♪どーしてそんなにくっさいの? ♪やっほー、ぶりぶりぶり。♪けっこー、ばりばりばり。♪あっちゃー、すーすーすー。♪こりゃ、うるせ。♪なんじゃ、くさい。♪そりゃ、におう。♪あッら、ははもする。♪そッら、ちちもする。♪いッらー、あにもする。♪こッらー、いもーともする。♪では、ぼ・く・も・す・る。♪やっほー、ぶりぶりぶり。♪けっこー、ばりばりばり。♪あっりゃー、すーすーすー。♪ん〜ふしぎだな。

信仰勃興期
○朝まだきの静寂の中でそっと尻を持ち上げひそかに透かす屁をお許しください。神を知らぬ多くの人はみな罪の意識なくそれを犯しますが私は罪の恥じらいをもち透かしています。汚れてくさく耳ふさぐ喧噪の俗世において私は神様とともに歩む超俗の生を得たい。私は屁が爽快でキモチいいにもかかわらず隣人をして不幸に陥れる人生の背理がいつか信仰によって克服されることを信じているのです。どうか神様きょう一日が静かでくさみのない屁でありますように。不埒な欲望の萌え出ずる春を神様とともに…。

自由躍進期
○我らは健やかな心身の成長を願い、大いなる飛躍を志すのである。我らは自由と連帯を掲げて、思想を錬磨し、人生を謳歌するのである。嗚呼、自由の人生のシンボルは屁である。屁の我慢は心身の健康を損ない心を蝕むのである。放てよ、さらば与えられん〜。怠惰な我慢ではなく、厳しい規律と節度によって屁をば快楽し、他人の屁は我慢という主観を、評価という客観へと転換して受容するのである。我々は快楽と我慢を調和させ、人類繁栄へと雄々しく橋を架けるのである。屁は我らの自由と成長の証なのである。合い言葉はいつも「屁」なのである。

過剰放屁期
○何だかさ、最近うざくね? あちこち屁こくのはいいんだけどさ、あんまりブリブリやられてもねェ。ちょっとさ、うるさすぎ。自由はき違えてんじゃね。やっぱ、お他人様の節度がないのってさ、腹立つわ。そんな奴、最近多くね。目の前でブリブリ左右衛門されて、こっちもやりかえそうと思うんだけどさ、そんなには出ねえしよ、いきむと実がでるみたいでさ、まあ、尻すぼみってやつ。そいで、口で注意するんだけどさ、自由や権利の侵害とか言われると、これうざいわな。何だかさ、最近こきすぎでね? あ、君もそう思う? でも、わしら少数派?

説教発生期
○いくらなんでも君の屁はやりすぎだ。いくら自由だから、権利だからといって野放図でいいわけがない。たまたま俺が忍び入ってビックラかまされたわけだが、君は眠りながらとどろく屁をこいていた。いかんよ。人目がないからって、ブウブウやっちゃ。何だって、眠ってて覚えてない? おいおいダメだろ。屁こきのモラルが厳しく問われる時代なんだよ。寝てようが起きてようが肛門の意志を固くしないといかんだろ。意志を示せ。しかし、君の家は金目のものがなーもないな。こらーッ動くな。この出刃すごく切れるんだぞ。刺すぞッ。早くカネ出せ。

放屁論争期
○「どうして屁をしちゃいけないの」「絶対いけないとは言いませんわよ。私、遠慮して、って言ってるの」「してますわよ」「あなたの主観はそうかもしれないけど」「けど、どうして私が責められますの」「ご主人の屁はあなたの屁です〜。二人で一人。連座よ。人がいるときしちゃダメ」「まあ、そもそも遠慮して『しない』のではなく、遠慮して『こく』のが自然じゃありません? だって、屁はこくもの」「あきれた、しちゃいけないの」「そんなー、どこでもだれでも屁は平等にこきたいわ」「とにかくダメダメなのッ」(賛同の拍手わいて鳴りやまず)

迫害発生期
○菜良署は尾菜良区の路上でオナラをした男性(50)に言いがかりをつけ突き飛ばして負傷させたとして25日、暴力容疑で屁草井区の会社員、御楢伊矢男(35)を逮捕した。「あたりかまわずブリブリこき回るので腹が立った。うるさかった。耳が痛かった」と供述しているという。被害にあった男性は「いきなり怒鳴られ、殴られた。それほど大きな屁ではない」と憤慨。同署ではオナラをした人が暴行を受ける事件が多発しているところから、路上放屁をしないよう注意を呼びかけている。

放屁矯正期
○朗報! おなら革命「ブリブリクリーン」新発売。飲めばスッキリおならが消える。無理なく腸内ガスの発生を抑えます。「ブリブリクリーン」は生薬配合の体にやさしく、効き目抜群の錠剤。一日3錠朝昼晩。これで腸内ガスの発生を99%抑止可能。飲んだその日から悩み解消です。これなら芋、豆などの放屁促進食品も安心。いつもお腹が張って不安な人、ついついウッカリしてしまう人、何でも安心して食べたい人――にピッタリです。※飲み込んだ空気の非ガス化はできません。ガス発生を100%おさえるものではありません。服用は容量を厳守のこと。

町内駆逐期
○地下商店街「芋野街ロード」へようこそ。芋野街は自主的に完全禁屁を実施しています。通路、階段、トイレなどの公共施設内での放屁は禁じられております。また、各店舗、飲食店においても禁屁を実施しております。地下街でオナラをすることは絶対におやめ下さい。皆様のご協力をよろしくお願いします。地下商店街「芋野街ロード」へようこそ。芋野街は自主的に完全禁屁を実施しています。通路、階段、トイレなどの公共施設内での放屁は禁じられ――ブーブリブリブリ、ブリブリ――あれ、ナンダ、ナンダ、放送が屁だぞ――

放屁有料期
○ま、なんだな、へのいっぱつ1000えんというのはべらぼうじゃねえか。ほれ、あそこにも、にんかされた「ゆうりょうほうひルーム」があるわ。まあ、だれにもじゃまされず、じぶんひとりのスペースでへをこくことはできるが、1000えんはべらぼうじゃねえか。こしつにひとりじゃ、へもひっこむわな。へはひろびろとしたところで、みんなでこきあうのがすばらしいんじゃねえか。なにい、となりのしではいっぱつ2000円だあ。そりゃ、ふびょうどうぼうりのさくしゅだあァ。

嫌屁蔓延期
○我が放屁撲滅党は嫌屁権の確立をめざして放屁ルームを閉鎖し、完全禁屁の法制化を要求するッ。我々はみだらな放屁の横行を許すことはできないッ。昨今の放屁の無礼はとどまるところを知らず禁屁ゾーンでの放屁が後を絶たないッ。屁は大腸ガンを誘発し、耳と鼻、さらには精神生活に有害であると断定されているッ。厳しく法によって取り締まる以外に方法はないッ。――イテッ、何するかッ! あ、くさー、くさー、お前、屁権擁護団体の回し者だなッ。屁武装中立などと理想論を振りかざし、屁による自殺を肯定するニヒリストめッ! 恥を知れ〜。お前ら死刑だッ!

禁屁強制期
○その残り香は明らかに屁だった。まだ屁をする馬鹿者がいるのだ。嫌われ蔑まれても屁をする者。その宿痾によって姿を消さねばならない。身を潜めねばならない。…すでに授業は始まっており、校舎の階段に人影はない。においの主は生徒だろうか、教師だろうか。いずれにしても校則違反である。私は困ってしまう。犯人捜しは柄ではない。つい足取りも萎えてくる。ああ、嫌だ嫌だ。私の若い頃は屁は自由だった。屁は転落してしまったのだ。「先生、校長先生」うつむいた私の背後から、ふいに憲兵大尉の怒気混じりの声がした。(暗愚小説『屁の道』より)

禁屁抵抗期
○禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、絶対はんた〜い! 放屁は人類の権利だー。糞や尿が許されて、なぜに屁が許されないのかー。出てくるところはいっしょだー。おかしいじゃないかー。禁屁はんた〜い。禁屁にするなら糞もさせるなー、尿もさせるなー。そんなことしたら死んでまうー。三兄弟の屁をいじめるなー。いじめだー。屁は老若男女、貴賤富貴がない人類の宝物だー。糞尿屁は平等だー。禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、禁屁反対、絶対はんた〜い!

禁令発布期
○人の面前又は面前でなくとも人に影響を与える放屁をしたる者は、放屁の重罪とし、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処す――うむ、これでは甘い。甘すぎる。いっそのこと、無期懲役又は死刑に処す、次はこう改正してほしいもんだ。法で禁止された腹いせに屁こきの過激派が出没しているのだ。した、していないと言い争う冤罪も増えている。まったく物騒な世の中だ。とにかく止めさせるためには厳罰がいる。わしの自慢は100メートル先を嗅ぎ分ける鼻であるが、定年間近の老骨には、屁こきだらけの治安悪化地区の交番勤務は辛い。

地下放屁期
○あら〜、いらっしゃ〜い。地下倶楽部へようこそ。はい、おしぼり。いいのよー、ここだったら存分にやってね。ほーら、おしぼりあてがって。キモチいいでしょ。ふふふ、遠慮しないで。あらー、大きいわね。男らしいわ。すごい放出。我慢してたのね。あらー、スゴイにおいじゃない。大丈夫よ。平気、平気。我慢は体に悪いわよねー。もう一発いく? あ、すぐはダメ? いいのよ、待ってる。男らしい一発出してね。ドキドキしちゃう。へえ、あなた公務員なの。ここに来るのは背徳ね。でも、大丈夫。ここは一流の秘密のおなら倶楽部よッ。

過激放屁期
○にらみ合いが続いています。デモは首相官邸に近づくことはできません。あっ、デモ隊に動き。なんですか、あれは? あっ、すごい。次々にお尻を燃やしながら突入です。自爆です。あっ、すごい。あれは、オナラに火をつけている。三列で守りを固める機動隊の隊列へ自らが巨大な屁炎放射器となって突撃ッ。あっ、遊撃放水車が一斉に放水を始めました。だめ、だめ、だめ、だめだァ、火は消えて蹴散らされているゥ。屁は不発。屁は不発です。あー、これでは機動隊の壁は破れません。いやー、屁は燃えるんですねェ。すごい。初めて見た〜。

放屁戒厳期
○「屁は自由の権利である」と屁権を主張して抵抗運動が展開されたが、ことごとく制圧され、禁屁は国民的合意になっていった。ところが、金屁羅930年頃になると、いったん衰微していた屁権を主張する不穏な勢力が再び台頭して過激化し、国内各地で暴動が発生するようになった。国民の間に不安が広がり世情不安となったため、政府は警察力の強化に合わせて軍の出動を検討するようになった。首都では各所で機動隊と「おなら爆弾」で武装した集団が衝突を繰り返し、ついに金屁羅931年9月31日、戒厳令が布告され軍が出動した。(『嫌屁の歴史』より)

脳内駆逐期
○今や我々にそれの生きた記憶はないのである。それが存在したということ、そしてそれが文化となり、やがて争乱の歴史になったということを我々は知っているのみである。しかし、もはやそれは存在しないのである。我々の身体にそれは存在しないし、あるいは外部にあって身体に影響を与える存在でもないのである。国家の方針によって、十分に処置された我々の身体はそれを根本から断ち切ったのである。身体がうずくこともなく存在しないものは文化にはならず歴史にもならないのである。ないものはないのであり、それはないのである。確かに、誰もいなくなった…。


posted by 楢須音成 at 00:25| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月05日

〈屁〉を真面目に洞察する江戸のエッセイ

 江戸時代末の俳人、加藤雀庵(雀庵長房)の『さへづり草』は天保年間から文久3年までの約30年間に、雀庵の見聞や考察をまとめた百科全書的な広がりを持つ随筆集である。雀庵の没後、国学者の井上頼国が蒐集していたものを室松岩雄が校訂して明治43年(1910年)一致堂書店から刊行されている。室松の緒言にこうある。
本書記載する所の項目は、和漢の故事、熟語の解、語源、地名人名の由来、俗語の解、俳諧並俳人の傳、外國人の記事及漂流見聞談、日常の見聞録、珍書の抜翠、器具の由来、赤穗義士傳記、芝居俳優の傳記、動植物の名義、諸藝人の記事より、風俗、~祇、釋教、地理、通貨、文學、歌楽、俳諧等、すべて凡百の事に亘り、著者が見聞に任せて座右消閑にものしたるもの也。

 この中に〈屁〉について四編があるのである。音成のテキトー訳で紹介しよう。テキトーなのであしからず。
○御奈良(おなら)
 奈良に因んでちょいと面白いことを考えた。世間では女言葉で屁を(することを)オナラと呼ぶが、一考してみるに、これは先に紹介した(「いにしへのならの都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」と詠んだ)伊勢大輔(いせのたゆう)の歌によって、何とはなしに言い出された隠し言葉ではないだろうか。すべてに「御(お)」文字を添えるのは女言葉の常である。であれば、におうという言葉から(この歌を連想して)「奈良」に「御」文字を添えたのである。ところで、におうという言葉は、古歌にはたいへん多いのだが、ひとり大輔の歌に因むのはなぜだろうか。思うに、彼女の歌が世に知られ、定家の百人一首にも入って世間に広まり、幼い女の子に至るまで知らない者がいないほどになっており、自然に彼女の歌に由来する結果になったからではないだろうか。世間で言い伝えられること、あるいはものの名称がはっきりしないもの、その発生の由来は大体においてこの類であろう。

○撒屁漢(へひりおとこ)
 ある老人の話に、安永の頃、大坂に放屁男(へひりおとこ)が現れて興行し、大いに賑わしたという。やがて江戸へ来て両国橋あたりに出てまた大いに賑わしたというのだ。老人は、昔そういうことがあったんだと話してやっても、今の人は笑って本当のことだとは思わないと嘆いていた。私は風来山人(平賀源内)の戯書である「放屁論」という小冊を見て、初めてその老人の話が本当のことだと知ったのだった。その草紙に「先日から両国橋のあたりで放屁男が現れたといって、評判もいろいろ、町々のうわさになっていた云々」(中略)「見ないことには話にならぬ、いざ、行って見てこよう、と友人二三人と連れ立って横山町から両国橋の広小路橋を渡らず右に行けば、昔語花咲男(むかしがたりはなさきおとこ)と書いた大袈裟な幟(のぼり)が立っている。僧俗男女が押し合いへし合いしている中から前の方の看板を見ると、あやしげな男が尻を突き立てた後ろに薄墨に隈取りして、かの道成寺三番叟など数多の演目を一所に寄せて描いている。夢を描くような筆意に似ているので、その理由がわからない田舎者の若い奴なんかが来て見るならば、尻から夢を見るのかと怪しむだろうな、とぶつくさ言って木戸を入る。上の方に紅白の水引幕を引き渡し、かの放屁男は囃子方とともに小高いところに座っていた。その面相は中肉にして色白、三日月の撥鬢奴(ばちびんやっこ=両鬢を三味線の撥の形にそり込んだ髪型の男)で、薄い藍の単衣に紅い縮緬(ちりめん)の襦袢を着込んでいる」(後略)とあって、当時の光景を目の当たりに見る思いがした。老人の話が真実だと知るに十分だった。

○放屁薬(ほうひやく)
 この平賀氏の戯書の序に安永三年巳牛五月未八日とあるのだが、今を去ること七十年ばかり昔のことだ。安永のころ大坂に千種屋清右衛門(ちぐさやせいえもん)という者がいて、あやしげな薬を好んでいろいろ売っている中に、放屁薬の看板を出したというのが書いてある。その薬の処方というのは屁が出る巴豆(ハズの実=下剤)である。これは寛政年間に同地で妾の引札(チラシ)を配った者と同じように滑稽で珍奇な話である。

○放屁の差別(ほうひのしゃべつ)
 出てこようとする屁を我慢するのは、健康を保つのにはなはだ背く行為である。しかしそうは言っても、若い人あるいは貴人、父母の前では、同じくつつしまないわけにはいかないし、とりわけ婦女がこれを恥じるのは当然のことだ。ある遊女が客と寝るとき誤って放屁し、恥に耐えきれず即座に自殺してしまったこともあるというし、「娘の屁は五腑六臓に迷て居」という、かの川柳風の戯れ句は可笑しくもよくうがっている。実に、愛しい女の放屁を聞けば三年の恋もさめてしまうだろう。一考すれば、人というものは一つの小さな天地であって、天に雷鳴、地に地震と、そのときどきの天変地異というものは、音があろうとなかろうと道理は屁と軌を一にしている。さてまた、キツネやイタチの最後屁といえども、ヘヒリムシの放屁も、かの放屁薬で出てくる屁も、麦飯の腹に満ちて自発した屁も、屁という名前はともに同じなのだが、それぞれの区別は非常な違いがあり、色だろうが香だろうが屁をした人がだれかを知るであろう。

 面白いね。これらの話は連想ゲームのようにつながっている。というか、『さへづり草』の全体がそんな構成の趣向になっている。ここでは「伊勢太輔の八重桜」→「御奈良の語源には八重桜が関係する」→「御奈良といえば老人の屁話が源内の放屁論の記述で実証された」→「放屁論には放屁薬の話も出ている」→「屁にはいろいろ区別があり、放屁薬のせいで出てくる屁もすぐわかる」という流れである。

 では、各編について若干の解説というか感想を。

御奈良
 屁をオナラと言うのは(音成が知る限りの)通説では「鳴る」に女房言葉の「お」が付いたというものだ。オ・ナル→オナラという変遷である(A)。このとき、これが奈良という言葉に結びつく。しかし雀庵の説は逆の流れで、奈良からオナラへと結びついていく。それを介在するのが伊勢大輔の歌である。「奈良の色香がにおう」→「屁がにおう」→「御を付けて奈良を隠語として使う」というのだね(B)。まあ、どちらでもいいのであるが、面白いのは、音に着目するかニオイに着目するかという点で二説は際立つわけなのだ。

 みやびな時代の貴族の屁は臭くなかったと主張する音成としては、ここはA説を推したいところだ。B説は屁が臭くなった後代の人の附会の説であ〜る。しかしまあ、全く説得力がないわけではないな。

撒屁漢
 確かにこの放屁男は実在の人だった。本名や出身など素性は不明で、霧降花咲男、曲屁福平とかいろいろな名前を名乗っていた。老人の話では、大坂で興行して大当たりをとり、江戸に進出して成功したようになっているが、実際には江戸・両国で初めて演じて大評判になっている。源内の放屁論はこのときの様子を記述しているものだ。70年ぐらい前の話が昔の屁の実話として老人の口から語られたのだろう。江戸のあと福平は大坂で演じ、これまた評判となるが、再び江戸に戻ったときは不入りで不振だったという。このことは同じく源内の「放屁論後編」にある。

 そもそも屁の実話の不確かさ(きちんと後代に伝わらない)はあきれるくらいだ。この老人の話も前後しているし、周りの人間は話そのものの信憑性を疑っている。雀庵もどうやら最初は疑ってかかったらしいが、源内の「放屁論」によって本当の話だと確信できたのである。源内の記録がなければ、福平も時の彼方の噂の屁の人にとどまったかもしれない。もっとも、世に与えた福平のインパクトは強かったらしく、同時代の木村蒹葭堂や太田南畝も書き留めているのだが、源内の記述は抜群に素晴らしく、福平の芸を生き生きと描いている。屁をする人が実録として残るのは極めて少ない。福平は実証できる希有な例の一つである。

放屁薬
 一般に腸内のガスを出やすくする薬は駆風剤と呼ばれる。屁の出具合を整える整腸剤であるが、ウイキョウとか大体ハーブ系の植物が用いられている。ハズ(巴豆)は漢方で下剤に用いられる。微妙に放屁薬とは違うのだが、福平の屁に刺激され大坂で、あやしげに処方された模様。まあ、道修町(どしょうまち)のある大坂なのでね。ははは、屁が出るハズね。

放屁の差別
 ここは雀庵の屁の見識を述べているね。屁は(1)自然界の天変地異と同じである(2)名称は同じでもいろいろな屁があり、区別があり、一つとして同じ屁は存在しない――というわけである。これを読み替えれば「屁は自然界の天変地異と同様に、そのときどきに発生する人間界の天変地異であって、ひとたび放出されれば、個々の人間の振る舞いが個性的に現象する」となる。卓見であ〜る。


※フォントがないので「井上頼国」の「国」、「撒屁漢」の「屁」は音と意味による当て字。
posted by 楢須音成 at 03:24| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月12日

妄想する〈屁〉と〈性〉のお馬鹿天国

 こんな記事を見つけた。オナラで部下にセクハラしたという、信じられないイギリスの話。少し笑った。女性に限らず相手が誰であっても、オナラが威嚇や侮辱になることはあり得るけどな。新聞はこう報じた。
おならで迷惑 慰謝料100万円
 英国の裁判所はこのほど、南部ケント州の人材データ会社の女性社員(43)に日常的におならの迷惑をかけて精神的苦痛を与えたとして、女性の上司に慰謝料五千ポンド(約百万円)の支払いを命じた。

 英タブロイド紙によると、上司はいすから腰をあげて女性に向けておならをする行為を繰り返したほか、女性がコンピューターをうまく使えなかったときに「私はシンプル」と書いたバッジをつけさせたことも。女性がトイレについて不満を申し立てたときは「だから女は雇いたくないんだ」との電子メールを同僚に送ったという。

 女性の「とても屈辱的で落ち込んだ」との訴えに対し、裁判所は「もし彼女が男性だったらこんな仕打ちを受けることはなかっただろう」と判断した。

 女性が所属していた営業部では、この女性を除いて全員男性社員だったという。(ロンドン・池田千晶)
――2008年5月25日 東京新聞朝刊

 読んで、少々ガッカリ。この記事によると「上司はいすから腰をあげて女性に向けておならをする行為を繰り返した」のである。記事のトピックな部分はここにある(と読者は思うであろう)が、記事を最後まで読むと本当のトピックな部分は日常的な多種のセクハラにあって、「おなら」はいくつかあるうちの一つだったということがわかる。「おならで迷惑 慰謝料100万円」は釣りだったのであ〜る。屁の一発で100万円か! と興味津々だった音成の読後感はちょっとガッカリだったわけだ。

 しかし、オナラの釣りがなかったら読まなかっただろうし、オナラなしでは面白くもないセクハラ裁判記事だったろうな。オナラ一発! 記者にしてやられた感じ。タブロイド紙からちょいとオナラをつまみ食いしたこの人って(名前から察して)女性記者? まあ、音成としては「日本にはこんな職場あるかなー」とか「同じケースなら日本では慰謝料はいかほど?」とか比較文化が気になったのだ、と釣り込まれた言い訳はさせてもらうわけだが。

 ところで、ニュースのソースは「英タブロイド紙」とある。この手の新聞記事の信憑性ってどこまであるのだろうか。ついこんな疑いを持つのも、世界に開かれた毎日新聞の英文サイトが「引用」と称して「ニッポン〈性〉のお馬鹿天国」みたいなHENTAI(タグ付きの)記事を創作し長期に掲載した騒動のせいである。このオナラ記事の場合も、特派記者がタブロイド紙から拾ったネタであり、直接取材したものではない。そういう書き方(引用・伝聞)がしてある。この場合、読者は(又聞きの話であるにしても)東京新聞を信用して読むわけだね。「へえ、そういうことがあるんだねー」と。もちろん、信用できる新聞社なのだから、ニュース価値は高いさ。なぜだか、信用してしまうと扱うネタが下品であっても(というか下品であればあるほど)我々は価値を見出して(報道を信じて)笑ったり眉をひそめたりする。報道は発信元の信用性や思想性にかかわってなされるのであり、我々は意識せずともそれを分別して(否定も肯定も)受け入れるものだ。

 新聞は客観をめざして「事実→取材→報道」という流れに沿う。このオナラ記事もご多分にもれず客観を装っているが、実は「事実」も「取材」もソースはタブロイド紙。その名前は明らかにされないから、少々眉唾っぽい印象がないではないな。この点は記事の限界(一次取材・資料の欠如)が露呈している。いや、その辺は任せてよ(信用してよ)というわけなのだね。取材源の秘匿とか大それたものではないのだが、そこを留保すれば一応、見てきたごとく取材してきたごとく、それなりのスタイルは踏んでいる。まあ、どう転んでもタブロイド紙からの二次組み立てになるのではあるけどさ。(ソースを全く伏せて直接取材してきたように書くこともできるが、この記事はそんなことはやっていない)

 音成は疑ってみる。この話ホントかよ? もし読者から「ニュースは捏造じゃないのか。イギリス人がそんなオナラをするはずがない」とか苦情があったらどうするのか。すると新聞社は「タブロイド紙からの引用です」とか言うんだろうね。確認不十分ならば「事実関係を調べた上でご返事します」とか言えるな。で、その結果が最悪の場合、「事実ではありませんでした。チェックに遺漏はあったものの、我が社も被害者です」などと弁明することができる(か?)。あるいは「セクハラの事実はありました。しかしオナラの話は捏造でした。記者個人に問題がありました」などと人ごとのように弁明することができる(か?)。――あああ、それでは情けないだろう。報道の主体がこういう風に(微妙にして露骨に)自分を無化する弁明によって「事実」を伝える責任を回避する(隠蔽する)振る舞いをすれば、たちまち記事の信用性や思想性は瓦解するのであ〜る。(まあ、このようなオナラ記事の場合、かりに嘘100%であっても、アホか〜とあきれるだけで、別にどおってことないかな。ま、信用は瓦解しても、ありそうな面白い話を考えたなーとか思うけどねェ)

 もちろん、これは冗談で言っているので、オナラ記事は信用してるさ。何と言っても発信は東京新聞であるし、ロンドン特派記者の実名入りである。情報元がタブロイド紙であるにしても(厳密な事実性はともかくとして)ネタは「公の」裁判所で取材したもの(裁判があった)と推定されるのであるからね。一つ、ちょっとだけ気になったのは、ホントにオナラは付け足し(創作)じゃないのよね〜、ということだけ。そこはありのままだという前提にすれば、むしろ実に興味深い記事として感じ入るではないか。

 それは女性記者がオナラに反応したということだ。セクハラの話だから、それはわかる。で、さらにオナラがまつわるのだが、そこんとこはどう直感したのだろう。思うに女性記者の反応には「女性とオナラ」という実存の深淵があるのではないか(な?)。事実を淡々と書いてある記事だが、そのオナラは男性のオナラが女性に向けられたのであって、男女の性的な深淵を現出させている(のかな?)。いやいや、これを書いた記者には、オナラを武器に転化して女性を侮辱する(暴力化する)男性に対する性的な反撃の底意があるんじゃないか…。

 とかなんとか、音成の妄想はさておき、彼女は極めて職業人であ〜る。選択眼はどう働いたのか。(1)オナラで女性を侮辱するなどもってのほか(2)世の中にセクハラの種は尽きない。許せない(3)しかし、オナラのセクハラは新ネタとして意外性がある(4)大の男がお尻を持ち上げてオナラをする超お馬鹿な可笑しさがある(5)これは怒りと笑いの記事になる――という感じであろうか。(無心に「アッこれ面白い〜」と小ネタを書き飛ばしただけかもしれないけどさ)

 そう見てくると、オナラで侮辱というアブノーマルな話ではあるが(記者はそれを釣りにする職業意識と作文のワザを用いたのだが)、妄想をふくらました音成が一読してガッカリするくらい、記事の最終誘導(セクハラ)は至極まっとうな常識的センスに落ち着いているのである。最後は「慰謝料100万円」でオナラ(の振る舞い)に値段(決着)がついたというオチなのさ。(いやホント、この記事は、正統な手法の真面目な記事だよ)

 どこぞの馬鹿が記事をヒントに妄想を捏(こ)ねるとすれば、「イギリス〈屁〉のお馬鹿天国」みたいなオナラが暴走する変態一色の記事にすることはできるだろうね。職場のセクハラの側面は全くスポイルし、「東京新聞によると、イギリスの職場では男性はオナラのし放題。オナラで卒倒した女性に慰謝料100万円を払うほど」というような…。細かい描写は、あることないことチョチョイノチョイ。このとき東京新聞という出典があれば(事実性において)箔が付くもんね。もちろん、名前を出された東京新聞は怒るだろうねェ。捏造だと抗議するに違いない。記事が巷で問題になればなおさらのこと。「イギリスの職場では男性はオナラのし放題」などと国民性をパターン化した逸話や事実にしてしまい、そういう恣意的な刷り込みを流布する結果にでもなると、オナラ国際問題(になったりして)。しかしまあ、これはオナラの話だからねェ。文句も抗議も萎え萎えだよね〜笑。

 元の記事に戻るが、これは冷静なお笑いのオナラ記事であるさ。サラリと書いて、告発にもフェミにも自虐にもイギリスの揶揄にもなっていないところは、万人向け新聞らしい毒のなさだ。しかし、記事の背後に広がる世界をあれこれ想像(妄想)することは自由だ。うむ、妙に隠微にオナラのインパクトがあるんだよなー。
posted by 楢須音成 at 00:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月20日

お尻と〈屁〉の近い関係

 尻(しり)と屁(へ)は文字の形が似ているけれど、お互いの位置関係も近い。何と言っても屁は尻から出てくるのであ〜る。ま、厳密には尻の穴(肛門)から出てくるわけだが。この尻に考察をめぐらした人がいる。当然ながら屁が出てくる。明治初期の投書家として活躍した中坂まときの「尻の説」は「魯文珍報」に掲載された。原文の名調子を踏み外してしまうが、音成のテキトー訳で紹介する。適当に改行を入れた。(引用は福富織部の『屁』から)
 客があり、小生に問うてこういうのだ。ウソがバレるのをがはげるといい、が重いといえば、なまけ者のことであり、が軽いといえば、スケベイな婦女のことだ。子猫ちゃん(おんな)の醜行も、ナマズ君(おとこ)の醜聞も前尻(女性のあそこ)を売るか買うかのどちらかだ。満座で放つ屁もから出て騒動をおこす。思えばの罪も同じように多いのではないか。それに不首尾の人をしくじりというし、もうろく爺さんをよんじりといい、そのほか一文無しをカラツケツという。こういうことは、ことごとくの不徳のいたすところか。もし君がの道理と正義をシリたもうならば、このことをみんなに説いてほしいもんだ、と。

 そこで小生、まずはドツシリコと座り込み、客に告げていったさ。君も座りなさい。「尻の説」を語ってみようではないか。じっくりクソ落ち着いて、よーく聞きなさい。陶淵明の「五斗米」や楚王の「細腰」のような面白い故事の話は隣国のことではあるし、ちょっと横に置いておこう。それにまた、東海道の江尻駅や北郭(ほっかく=新吉原の異名)の水道尻(以上、地名)も奴(やっこ)の尻(髪結床の名)といっしょに不問に付す。さて君は、そもそも「尻の説」と聞いて、しきりにその不徳を推しはかっているようだな。あるいはそうじゃなくて、ただ昨夜遊郭でをやさしくされた不平を僕に訴えようとしているだけなのか。それは、怒りを人に移す、否、臭気を人にかがすものというべきだ。君は知っているか。日本書紀に、新羅に遠征した伊企灘(いとな)将軍がとらえられて新羅王に向かい、我がを喰え、と叫んだ義を守る堂々たる太古の美談があることを。あるいは畏れ多いことだが、大宜津比売神(おおげつひめのかみ)のから豆が生まれたことも古事記にある。ましてというものは、米穀を育てる大事なものが出てくるところではないだろうか。かくなるうえは、鼎の軽重、否、の軽重といったことは屁のように瑣末なことであってブウブウ論じる必要があろうか。小生がシリもせぬは、決して持ってくることなかれ。

 すると、このとき客は尻目づかいで小生をジロリと見ていった。なるほど尾の短いごぼう尻の猫なんかの話や、の軽重などの説は、しばらく棚尻(たなっちり=突き出た尻)に置いて論じないのもいいでしょう。しかし、世界には多い。我が国三千五百万のも、ヨーロッパ中の開化人のも、みな等しくである。は同じであっても、もしかしたらそのに大と小の違いはあるのではないか。その大小についての説はいかがか。

 小生ジリジリしながら答えたのだった。もちろんの大小は簡単な説明ではすませられないが、いまこれを詳解してみれば、東アジアのは小さく、ヨーロッパのは必ずや大きいであろう。見よ。支那はアヘン戦争の結末に、ヨーロッパ各国の大尻を背負い込み、山のような賠償金を出した。かつて我が国もいまだ開化が進まなかった日には、外国を排撃する攘夷の説がふんぷんとし、ついに長州や薩摩がやらかした戦争と、生麦の暗殺などに相当のを背負い込み、賠償金を出したのではなかったか。まさしく女性を愛するにも、アジア人はの小さいのを喜び、ヨーロッパ人は大きいのを喜ぶ。これをもって紫髯緑眼(しぜんりょくがん)の外国人の気質を推しはかってみるべきだ。我が国も、日一日と開明の域に進入している。どうしていつかの大きいのを喜ぶのみならず、賠償金(紙ッペラでなく)でも何でも獲得するときがこないといえよう。どうです、お互い大きなであっても愛し合うよう、衆人を説得でもしましょうか。

 客いきなり腰を浮かせて押っ立て尻をして、大砲一発(屁と知るべし)、小生の話を撃破していわく。君、さっきはの軽重などは論ずることなかれ、といったのではなかったか。しかるに一転してたちまち説を変え、我が国も、ついにはの大きいのを喜ぶようになるだろうと。なんとまあ、どっちつかずの尻口でものをいうのもはなはだしい。よく考えてみたまえ。小さいものは軽く、大きいものが重いのは見やすい道理である。しからば、が大きい者を喜ぶのは、かえっての重いなまけ者を喜ぶのと同じだ(必ずしも外国の婦人をなまけ者といっているのではないが)。どうしてこれを開化といおうか。どうやってこれを文明といえるか。それにまた、蝿は駿馬(しゅんめ)の尾について千里を進むと聞く。しかるに今や、世間を通覧すれば、官界というもの、おおむね妾のについて出世した者が多い。しかるに世の中の人々、口を開けば「開化、開化」と。どうしてこれ、どこが開化ぞ、どこが文明ぞ。が大きいのを喜んでは開化・開明とし、ヨーロッパと並び走ろうとしている。どんな屁っポコ論ぞ。それは屁っカス論と同じだ。頭かくしてかくさずとは、それ君の言いぐさだ。少しはをくくって話をしたまえ、と。

 猿のが真っ赤になってからこきだすように毒づかれて、小生、ほとんど尻込みしつつ、ブツともスツとも答える言葉がなかった。これがホントの屁をひって尻すぼめであろうか。屁々〜(オッと)ワッハッハ。
 何ごとも物尻がほはしく尻込をする基ゐなりけり
 (何ごとも物知り顔をしていると、しくじってヘコまされるもとになるもんさ〜)


 これほど熱心に展開した尻の論を読んだことがない。短い戯文であるにしても尻を追究している筆致は、源内の『放屁論』を思い起こさせたね。客と二人の問答で尻の論が構築され、それが破綻していく有様がとぼけた滑稽風味で語られるわけだが、問答構成は源内も得意とした。問答という弁証法によって、真理らしい命題(尻の説)を仮説演繹して論理構築しており、どこか古代ギリシャ的であ〜る(か?)。しかしまあ、破綻して、なじりなじられ、笑って誤魔化し、あさっての方角に結末は飛んでいく。

 お目当ての〈屁〉は出番のなさが少々期待外れだが、しっかり顔は出している。一番派手なところでは客の怒りを表現しているね。「客乍ちおッ立尻をなして、大砲一発(屁と知れ)、小生が説話を撃破」するのである。

 しかし、全体にもうひとつパッとしない。「満座の放屁も、尻から出て、騒動を醸す」「尻の輕重など屁の如き瑣末のことブウブウと論ずる」「屁ッ鉾論」「屁ッ糟論」といった具合で、問答の流れからすれば、キャラは全く際立ってはいないし、一読して〈屁〉はどこに出てくるのかという感じ。最後にようやく「猿の尻の眞っ赤に成て、尻からこき出す樣にどくづかれて、小生殆ど尻込みしつゝ、ブツともスツとも答ふる言葉はなかりけり。是がホンノ屁をひつて尻つぼめならんか」と締めの言葉となるのだが、どうも〈屁〉の迫力や面白味に欠けてないか? テーマは尻なのだから、それは当然かもしれないけどね。

 ここで〈屁〉と尻の違いを挙げておけば、尻は実体として見えるということがある。だから、基本的には見えるイメージとしての尻があり、中坂の筆致はここから観念へと飛翔する。意味を孕んでいく。一方、見えない〈屁〉は最初から動作であり、数々の振る舞いに発するわけだ。客が指摘する「満座の放屁も、尻から出て、騒動を醸す。思へば尻の罪も、亦多からずや」という言葉は、見えない〈屁〉に類比した(振る舞いとしての)尻の意味を問うている。

 シリ滅裂に「尻の説」は終わるが、ここまで言葉を連想しつつ遊んで一文をなすほど、尻もまた〈屁〉と同様、我々の心的現象に孕まれていくものなのだよ。

◇   ◇


 明治14年(1881年)に出た『新聞投書家列伝 初篇』(津田権平編、東洲堂刊)に中坂まときの紹介が出ていた。当時は投書家が文名をなしたものらしい。なかでも中坂の才筆は高名であったようだ。名文で尻やら屁を書くには技量がいる(?)のはもちろんだが、神社の神職にあった人というのが面白い。音成のテキトー訳で中坂のくだりを紹介しておこう。
昔、つれづれの随筆を書いた玄恵法師がいたが、今また気のむくままの筆を走らせる、まとき大人がいる。彼は東京の人で根津神社の神官であり、姓は中川、名は真節という。万葉や古今の歌に通じて和歌を得意とし、また紫式部の物語に詳しいので女子供に対してやさしくアドバイスする文章を得意とする。彼は文章を書くと必ず読売新聞や絵入新聞に投書する。そんなわけで世の人が有名な投書家について語るなら、誰でもまず第一に彼を名指しするのである。彼は文章に巧みで長年にわたって投書をしてきた。また彼の本拠は根津権現のそばにあって、かつて私立学校を飯田町中坂下に設けて大々的に教育の業を起こしたことがある。それが投書のペンネームである「中坂」の「まとき」なのである。「中坂」は思うに地名である。真節は「まとき」と読む。世の人は彼が中川眞節であることを知らないで、中坂まときであることを知っている。あの市川団十郎が堀越秀であり、尾上菊五郎が寺島清であることと同じだ。
posted by 楢須音成 at 10:59| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月26日

〈屁〉が却下する性根玉の輝き

 何につけても、他人の説教というものは少々うとましく感じるね。よけいなお世話というか、上から目線だよというか、もういいよというか…まあ、不遜だけれども、親や教師や上司などからの説教にさらされるのはつらいものだ。説教も新聞の社説などになると、不特定多数が相手だから「説教調」となるわけで、これがいわゆる主張であ〜る。

 詩歌の創作においても主張は潜行する。本来、創造活動に理屈も何もないはずのものだが、理屈(趣向)を含み持たずにはおれない。意識せずとも、意欲満々で工夫を凝らすわけなのさ。こういう意識過剰というのがくせもので、我々が何かに身を乗り出そうとするときの宿業なのかもしれないね。

 三田村鳶魚が『鳶魚随筆』(1925年)で狂歌の新旧のぶつかり合いについて触れている。
 江戸では狂歌が刷新された。渠(か)の天明振りと云はれる風體(ふうてい)が創始されて居る。それと對照するのに適當なのは一本亭芙蓉(いっぽんていふよう)の東下であらう。一本亭は大坂では有力な狂歌師であつた。彼は江戸を風靡(ふうび)する意気込み凄(すさま)じく、天明元年十一月に東下し、翌年淺草觀音へ自作狂歌の奉額をしたが、其(そ)の得意の文字は、

  磨いたらみがいたゞけは光るべし
     性根玉(しょうねだま)でも何の玉でも

 というのである。當時上方狂歌の好尚(こうしょう)は専ら向上にあつて、教訓を宗とする風が行はれ、此一本亭の作歌も大學の明々徳の本文を背負ひ、露骨に教誨訓戒(きょうかいくんかい)を見せ附けた。彼としては此處(ここ)が大得意でもあり、大主張でもあるのだ。然(しか)るに一本亭奉納の額の下へ張紙をして狂歌が書かれた。

  金玉はどう磨いても光なし
     まして屁だまは手にもとられず

 江戸の人は額面の性根玉よりも張紙の屁の玉の方を喜んだ。一本亭は態々(わざわざ)東下した意氣も空しく、ただ一場の笑話を止めたのみで、無慚(むざん)な敗北を遂げなければならなくなつた。

 狂歌師の一本亭芙蓉が、大坂から意欲満々で江戸に出て、自慢の狂歌を浅草観音に奉額する。当時、上品な上方の狂歌に対して江戸では、天明振りという庶民的で少々卑俗な風体が流行っていた。そこに「磨いたらみがいたゞけは光るべし 性根玉でも何の玉でも」(大切な心の玉でも何の玉でも、磨いたら磨いただけは光るものですよ〜)と詠んだから、江戸人の茶化しが入った。鳶魚の「大學の明々徳の本文を背負い」という指摘は、儒教の書である大学にある「明徳を明らかにせよ」(曇っている明徳を努力して磨くべし)を下敷きにしていることを言っている。そういう説教調がいかにもクサイ。努力すればどんな玉でも光る、とはどういうことか。「金玉はどう磨いても光なし まして屁だまは手にもとられず」(金玉はどんなに磨いても光らんし、まして屁玉は手にとることもできんじゃないか〜)という張紙が額の下に出た。これがウケた。

 心の持ち方の根本にあるようなもの(性根)を、高貴な光る玉に喩えたのが芙蓉の得意だったが、その「磨く玉」とは無縁の、あやしげなタマタマ。品格ぶった性根玉に向かって金玉が繰り出され、屁玉が繰り出される。このタマタマつなぎの論理は(1)世間にはいろんなタマがあるさ(2)磨きようのないタマタマがあるのを知らんのか(3)そんな性根じゃ何も光るわけないだろ――とかなるのかな。そもそも金玉は磨けないのだし、屁玉は見えるタマですらないのだが、それでもタマはタマなのであ〜る。ストレートに下ネタだから大いに笑ってよろしい。

 玉には、コンニャク玉とか火の玉とかもあるね。ここは下ネタの玉だから効果的なのだ。まあ、芙蓉流の向学的で道徳的な性根玉に向かって、金玉や屁玉を持ち出すことは、あまりに卑俗に堕ちて現世的であり、せっかくの求道の意味や価値をぶち壊す点では、可笑し味を越えて破壊力がある。要するにそれは単に無意味な(バカバカしい)のさ。

 ここでトドメを刺す大事な役回りが屁玉。手にもとられない、その見えなさ加減は性根玉と同じなのだ。屁玉は生々しい存在感の金玉のあとに登場して、その存在感のなさを性根玉に類比する。ほお、性根玉とやらも手にもとられんなあ、屁玉といっしょ、と笑い飛ばしたのである。

 この狂歌のやりとりは〈屁〉によって、見事に締めくくられている。つまりは、〈屁〉というものが逆説的に含み持つ(存在感がないという)存在感を漂わす批評性なのであ〜る。あなたの性根玉からの異議(主張)はすべて却下!とね。
posted by 楢須音成 at 11:15| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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