2008年06月01日

鳥羽僧正が描いた〈屁〉の三拍子

 絵が巧いとか下手というのはあるが、もちろん粗野で下品な絵だから下手(ダメ)というわけではない。とにかく理屈抜きに、卓抜な絵に遭遇すれば、眠くなっていた意識もオオッと覚醒する。何であれ(予期せず)初めて見たときの(形容しがたい)感動と快感は忘れがたい。ま、単純にうれしい。

 ところで〈屁〉が巧いとか下手というのはお笑いの範疇だろうか。そもそも〈屁〉は芸能とか芸術として確立しているわけでもないね。むしろ巷には、そういう「芸」というような高尚な型からは全く無縁な〈屁〉が跋扈し、なごんでいた意識にいきなり闖入して仰天するのだ。ナマの無惨でトンデモない〈屁〉に閉口した経験は誰にもあるに違いない。

 さて、最初に〈屁〉をしている人を「絵」に描いたのは鳥羽僧正(覚猷)である。彼が描いたのは、漫画の元祖とされる「鳥獣(人物)戯画」(12〜13世紀)であるが、ほかに「陽物くらべ」「放屁合戦」などが彼の作品と言われている。もっとも、原本や模本の考証から「鳥獣戯画」を含むこれらの絵巻(の源)が、美術史学的には鳥羽僧正作とは断定されてはいないようなのだけどね。まあ、それはともかくとして、このうち「放屁合戦」には日本で初めて絵筆がとらえた放屁のスタイルがあるのだ。それはそれは、お見事な〈屁〉なんだよ〜。

 「鳥獣戯画」が日本の漫画の元祖と言われるならば、「放屁合戦」は〈屁〉漫画の元祖と言わねばならん〜。

 この放屁の絵柄(スタイル)はさまざまに描かれていて表情豊か。見るほどに可笑しく、飽きることがない。鳥羽僧正作という「放屁合戦」は全国に散らばっているが、次の写真はサントリー美術館蔵の絵巻の一部である。

放屁合戦
 
 そもそも「鳥獣戯画」が漫画の元祖と言われるのは、人間を鳥獣にして描いた(あるいは鳥獣を人間にして描いた)戯画的精神にあるわけだね。一方、「放屁合戦」では人間は人間として描いて、戯画的精神が存分に発揮されている。人間を鳥獣にしてみせる批評性に対して、ここには人間の営為を戯画化して特徴的な表現(描き方)を繰り返す反復の批評性(パターン)があるのだ。それを「鳥羽僧正流」と名付けることにしたいんだけどね。

(1)屁で騒ぐ往来の群衆を描いている(動態)→放屁合戦というパターンで市井の滑稽世界を作り出した。
(2)お尻を剥き出して突き出している(姿態)→チンコまでさらけ出した露悪な無恥の世界を描き込んだ。
(3)吹き出す屁を効果線で描いている(威力)→屁を可視化しつつ必殺攻撃の武器としてイメージ化した。

 「放屁合戦」はこれらが三拍子そろって〈屁〉が描き出される卓抜なパターンになっているわけさ。

 それまでの歴史で〈屁〉が絵筆の対象にならなかったのは、描こうにも〈屁〉が目に見えない現象であったからだが、何よりも〈屁〉の隠蔽性が絵筆(の表現)を忌避したんだろうね。その禁を破って絵筆は動いたのである。絵筆の先には、屁を攻撃的にこき回る連中と逃げまどう群衆が登場し、屁をこく全員が下半身丸出しで尻を突き出し、ネライ定めた屁が一直線に可視化して威力を示す情景の絵巻が生まれた。

 全体を構成する要素パターンとして、入り乱れた合戦という動態の中にむき出しのお尻を突き出す数々の姿態があり、それぞれに可視化された〈屁〉の威力が表現される。この絵画パターンは以後、歴史的に繰り返されることになる。動態・姿態・威力の描法に影響を受けたバリエーションが展開されるのである。江戸末期の歌川国芳「屁くらべ」や明治の河鍋暁斎「開化放屁合戦」にもそれは貫徹しているね。

 平安時代には「陽物くらべ」「屁くらべ」というような遊びがあったのだという。そういう下ネタの行事(イベント)を戯画化した「勝絵」(勝負事の絵)が絵巻になって、絵巻の前半が「陽物くらべ」、後半が「放屁合戦」なのである。要するに、絵巻はもともとチンコや屁を競い合う行為が同居して表現されたものなのだ。そして、ここには男のチンコや尻や放屁しか登場しないのであり、つまりは〈屁〉が男同士の春画として描かれたというのである。(勝絵というのは春画のことも指す。出陣する武士が持てば勝つと信じられたのでこう言う)

 これは、絵筆が初めて〈屁〉を描いたときに〈性〉が動機となっている指摘として受けとめると、とても興味深いねェ。絵筆は男と女が屁をこき合う方向には進まず、男と男の〈屁〉合戦とか攻撃とか男性的な描写(想像)へと流れ込んだんだね。

 ともあれ(1)〜(3)の三拍子で描かれた「放屁合戦」が日本人にインパクトを与えた深層には〈性〉という動機もあると断定できるだろう。(男色と、否定性の恥である〈屁〉が結びつくことについては合点がいくね。これは別の議論になる)

 ひとたび出現した鳥羽僧正流の〈屁〉の三拍子は、それから繰り返し繰り返し描かれてきたのである。その動態にあるのは屁をこき合うという同調行動であるのは言うまでもない。そこには無恥(解放)や〈性〉への憧憬(エクスタシー)がある。かくして、描かれた〈屁〉に我々は公然と快感・感動しつつ、隣人のナマの屁には仰天して逃亡するのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 02:03| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月05日

平安時代の〈屁〉のニオイ

 日本人は身体や住まいの清潔好きと言われる。風呂が好きだし、掃除も好きだ。ニオイに関しても結構気にする。しかし、みやびな平安時代の都は「糞尿都市」と呼んでいいほど衛生環境は悪く、臭かったというのだ。そこに住んだ人たちの悪戦苦闘ぶりがしのばれるではないか。まあ、衛生概念(基準)も、清潔にする行動も、昔と今ではかなり違うだろうけどね。もちろん、こういうことって個人(の感覚)差も大きい。(大体、トイレで用便して手を洗わん奴がいるんだからさ)

 そこで〈屁〉なのだが、平安時代の〈屁〉はあまり臭くなかった、というのが音成の推定である。考古学・民俗学者の樋口清之『秘密の日本史』(1977年、祥伝社刊)によると、平安京の食事や入浴や糞便処理の生活はこんな感じだったらしい。
(平安時代に多かった)結核はビタミンAの欠乏、脚気はBの欠乏が原因で、ともに一種の栄養失調だ。それは食事が悪いのが原因だ。だいいち四足獣の肉は、殺生禁断の仏教の教えのおかげで追放されたし、鶏肉は食べない。動物蛋白のほとんどは魚介の乾物だから、これはいくら上手にもどしても、消化吸収は低い上に、運動不足だからなお消化されない。飯は、半搗米(はんつきまい)を蒸したものだが、これとてカロリーはあっても消化が悪い。生鮮食はごく少ないが、わずかの救いは、毎食海藻を食べることぐらいである。
(中略)
 さらに、当時の公家には入浴の風習があまりひろがっていない。だいいち、『源氏物語』にも、食事の記事とともに入浴描写がない。逆に清少納言は、女の襟につけた白粉が、あかで浮き上がって唐衣(からぎぬ)の襟をよごしている有様を書いている。夏は水浴や水拭きをするが、とくに冬は入浴の風習がなく、病気のときの水蒸気浴(これを風呂という)があるくらいだから、肌は不潔で臭かった。
 これが、薫物(たきもの)といわれる香が発達するもとだが、いくら匂いをたきこめても、体臭と人工の匂いは共存してしまう。いまの人々の想像を越えて唐衣装束の(俗にいう十二単衣)の女は近よると体臭が相当ひどかったと思うべきだ。そのうえ、風邪でもひくと、生ニンニクをかじるからますます臭い。これは『源氏物語』に、男に対する女の返事に、今夜はニンニクを食べて臭いから通って来ないでくれ、という意味のことを書いてあるのでも明らかだ。
 いやなことばかりならべて申しわけないが、宮殿内や貴族の室内も臭かったと思われる。それは便所という隔離された場所がなく、長方形の樋箱(砂を底にしいた箱)に室内で用便するからである。冬の夜など、わざわざそれを鴨川まで流しにも行けず、部屋に置いてあると、男が通って来ても、その臭気は、やはり室内の薫物(たきもの)に立ちまじって臭ったと思われる。

 これが「源氏物語」の世界の人たちなのか。つまり、こういうことになるのだが…。
(1)肉を食べなかった→〈屁〉があまり臭くない
(2)消化の悪いものが多く運動不足→〈屁〉はよく出る
(3)あまり入浴しない→体がいつも汗で汚れている
(4)体臭がきつかった→体はとても汗臭い
(5)便所がなく室内で用便した→部屋に糞便臭が漂う
(6)何にでも薫物をした→匂いで臭いを打ち消した

 遊牧民のような肉食だと〈屁〉は少ないが臭い。日本は古代から比較的温暖な気候に恵まれ、基本的に植物性食料が豊かで、農耕(稲作)も定着したわけである。こういう民族は〈屁〉は多いが臭くない。まあ、食性によってこういう傾向があるのだが、樋口が指摘する、ほとんど肉食しない都の貴族ともなれば「臭くない屁がよく出る」という身体のスイッチが完璧にオンされていたのではないかと思われるのだ。

 しかし、ニオイだけならば〈屁〉はシカト(無視)できたのではないのかな。むしろ体臭や室内の糞便臭が問題であり、これを消すために熱心に薫物をしたのである。まわりが臭いや匂いに満ちていれば、〈屁〉が少々におっても屁でもない。平安貴族にとって「ニオイのない透かし屁は問題ない」ものだったと思われる。で、問題になるのは音だった…。

 ブーとかビーとかプーとか、この音ばっかりは〈屁〉の存在を明かしてしまうのだ。しかも、〈屁〉が多く、こきたい気分となれば(音を立てて)粗相しないようにいつも注意が必要だね。こういう(音を恐れる)危機意識は屁意(こきたい気分)を感じるたびに肛門が決壊しないかと緊張をもたらす。決壊したときのことを思うと、あるかもしれない事態(音で屁の存在が暴かれる)を思い浮かべて羞恥が煽り立てられるわけである。

 かくして日本では〈屁〉というものは、日常生活において、もっぱら音の存在によって(認知され)恥を喚起したのだ。そういう視点で古典を眺めてみると、多くは音の存在が〈屁〉の話の眼目になっているのである。(時代が下がるほどにニオイも眼目になってくるんだけどね)

 「宇治拾遺物語」の中に藤大納言忠家の話がある。セックスの真最中に愛人が高らかに〈屁〉をこいてしまう。女は恥ずかしさのあまり口もきけず起き上がれない。忠家も意気沮喪して、あまりの情けなさに出家しようと決意するが、やがて馬鹿馬鹿しくなって思い直すという話である。眼目になっているのは女が「高らかにこく屁」なのだ。ニオイに関する言及は全くない。

 「今昔物語集」には近衛の舎人だった秦の武員(たけかず)の話がある。寺に参って僧正の話を聞いているうちに、あやまって高らかに〈屁〉をこいてしまう。僧正も僧たちもこれを聞いて、あきれて何も言わず、僧たちは顔を見合わせていた。しばらくして武員が手のひらで顔を覆って「ああ何たること、死にたい」と言ったとたん、皆がドッと笑い出し、武員は逃げ出してしまったという話である。これも眼目は「高らかにこく屁」になっている。

 全国に広く分布する民話の「屁ひり爺」は放屁芸で殿様に認められ富裕になる話だが、それは〈屁〉を楽器のようにひり分ける「音」の芸である。「屁ひり嫁」は特大の〈屁〉が富をもたらす話だ。こちらは「音」ではなく、何でも吹き飛ばす「屁の威力」が眼目になっている。いずれにしてもニオイは眼目にはなっていないのである。

 日本の〈屁〉の話における「音」の重視やニオイの無視は枚挙にいとまがない。こうした〈屁〉の扱いは、日本人は〈屁〉を音として耳にすることが多く、〈屁〉をニオイとして鼻にすることが少ないことからきているわけなのさ。

 平安貴族について言えば、体臭や室内の糞便臭や薫物に囲まれて〈屁〉はニオイとしては存在を主張できず、音として存在を主張したのである。そもそも〈屁〉のニオイ自体があまり臭くなかったのだからね。

 だからまあ、要するに、この因果には恥の文化とされる日本の原点を解き明かすヒントがあるはずであ〜る。間違いない(のかな〜)。
posted by 楢須音成 at 00:05| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月11日

放出という〈屁〉の存在感の検証

 身体から〈屁〉は出てくるね。これは大小便についても同じである。同じように汗も身体から出てくる。涙も出てくるし、鼻水だってね…。我々の身体は常に外界に対して何やら放出しているのだ。この「放出」という現象は、我々にとって身体維持の大事な機能になっているわけである。こんな感じかな。

  糞=消化の最終段階の食物のかすとして出てくる
  尿=血中の老廃物として濾過されて出てくる
  屁=消化過程の腐敗発酵ガスや飲み込んだ空気が出てくる
  汗=皮膚の乾燥を防ぎ体温調節する分泌
  涙=目を潤し保護する分泌
  洟=鼻孔や鼻腔の空気に湿気を与え粘膜を保護する分泌

 ん〜こう見ると、身体からの放出は「排出系」と「分泌系」とに分かれるね。排出である糞や尿は、身体維持活動の結果の老廃物・不要物の廃棄というハッキリした目的がある。物を食ったり水を飲めば、100%吸収しない限り、糞や尿になるというのは視覚的にもわかりやすい摂理さ。また、分泌である汗や涙や鼻水は、身体の保護や調節という目的があり、いろいろな場面に対して自動化されて出てくる。これは身体の制御なのであるね。

 しかし〈屁〉は何が目的なのかよくわからん。

 もちろん〈屁〉が分泌ではなく排出であることは間違いない。車で言えば排気ガスのようなものになるわけだが、車の場合は燃料の燃焼により不可避に(必ず)発生するガスであるのに対して、〈屁〉は「飲み込んだ空気」とか「腐敗発酵」とか、たまたまの条件が重なって生じるというような、半分以上は偶発的な原因で発生して排出される。だから何の因果か、なぜか〈屁〉は多い人と少ない人、臭い人と臭くない人がいて、多い日と臭い日があるのである。排出するのは、そりゃまあ、体内にためておいては体に悪いからさ。とはいえ、〈屁〉は同じ排出の糞や尿とはどこか違うんだよね。糞尿屁の三兄弟は存在感がそれぞれ違う。ここで考えてみたいのは〈屁〉である。

 思いつくままに比較の観点をひねり出してみた。

 臭気性(臭くない?)=ニオイを確認
 制御性(我慢できる?)=排出を制御
 爽快性(気持ちいい?)=排出の爽快感
 緊急性(急にもよおす?)=突発的な排出
 羞恥性(恥ずかしくない?)=排出を恥じる
 周期性(規則正しく出る?)=定期的な排出
 有用性(役立つ?)=排出物や排出が利用できる
 触覚性(触れる?)=触って確認できる
 音響性(音がする?)=排出音を確認できる
 視認性(一目でわかる?)=目で確認できる
 残存性(出したあと形が残る?)=排出後に残る
 清潔性(バッチイ?)=感じる清潔感

 次にこれを整理して、高○中△低×の三ランクでレベル表示してみたわけさ。

          糞  尿  屁
(1)容態
 視認性    ○  △  ×
 音響性    △  △  ○
 臭気性    ○  △  ○
 触覚性    ○  △  ×
 残存性    ○  △  ×
(2)発生
 周期性    △  ×  ×
 制御性    △  ×  ×
 緊急性    △  ○  ○
(3)活用
 有用性    ○  ○  ×
(4)心理
 爽快性    ○  ○  ○
 清潔性    ×  ×  ×
 羞恥性    △  △  ○

 厳密なランク付けには異論が出そうだが、大まかな傾向はわかるはずだ。要するに、生理現象として三者三様であるという当たり前の話ではあるにしても、傾向に目を凝らして、その相違をまとめてみるとこうなるかな。

(1)容態…糞尿屁の三者の存在様式(我々がそれと認知するときの状態)はハッキリと差異がある。固体・液体・気体という基本状態の性質に加え、発生音、ニオイなどがそれぞれ違っている。特に屁は異音・異臭のほかは希薄な存在様式であることを示し、糞との対照性が際立つ。屁と尿はやや親近性がある感じ。

(2)発生…厳密には糞に定刻の周期性があるわけではないが、習慣になって比較的定刻(朝とか夕とか)に排出するわけだ。尿や屁は極めて随時の発生(時・場所を選ばない)といえる。また、三者は緊急時における制御の可否の違いが大きい。糞が穏やかな緊急性や制御性を持つのに対して、尿と屁は緊急性が高く、制御も難しくなるのである。ただし、糞の下痢便は尿や屁に近くなるね。

(3)活用…糞尿は古来から肥料として使われてきたし、近年は健康のバロメーターとして検査の試料に欠かせない。糞尿は「処理」される社会のサイクルがあり、我々の生活への有用性がある。処理自体のビジネスが成立しているのだ。これに対して屁は何の役にも立っていないし、社会的サイクルなどはないのである。

(4)心理…三者に確実に共通するのは、排出すればとても爽快(快感)であるということだ。ところが、それは羞恥へと暗転するのだ。そのときの羞恥のランクは屁が一番高いと音成は判断するよ。
 なぜなら、こういうことがあるではないか。糞尿の排出にはトイレという場所が用意されており、それは緊急時の危機回避の場所でもあるね。切羽詰まれば用便のためにそこに行くことは認知されており(当たり前であり)、「ちょっと、おトイレに」と断ることは許される。少々タイミングが悪いからといってそれほど恥ではなかろう。一方、屁もまた人前で出せないものだが、屁しか出ないのに「ちょっと、おトイレに」と言って、糞尿の排出に行くふりをするのは心理的に居心地が悪い。このとき周りはまさか屁をしに行ったのだとは思わないに違いない(当の本人もそれを期待してトイレに行ったわけだ)から、これはまさに屁(恥)を隠蔽する虚偽の振る舞いである。もし、これ(屁だけをしたこと)が暴露されたらとても恥ずかしいだろう。
 清潔性は三者ともに印象が悪い。いずれもバッチイ(汚い)感が強いのである。ただ、視覚性や触覚性の高い糞と尿に対して、屁は無色透明の風なのにバッチイ感が強いという観念性を強くはらんでいる。

 で、以上の三兄弟を戯画的にまとめると、こうなるかな。

 すごく顔の濃い糞太郎、いつも汗かきの尿次郎、透明ボディの屁三郎の三兄弟は外出がとても好き。外に出れば爽快だからである。しかし、三兄弟は人目を避ける恥ずかしがり屋なのだ。三兄弟は自分が(たてる音や、漂う臭気や、バッチイと指弾される清潔感のなさによって)他人にうとまれていることを知っている。といっても、糞太郎や尿次郎はトイレにこもれば他人の視線が遮られて癒やされる。トイレは糞太郎と尿次郎の安息所なのである。ところが屁三郎の場合は、あくまでトイレは「拝借」になってしまうのだ。そこは屁三郎のものではない。本来、自分の居場所でもないのに、尻を出してこもるのは落ち着かないものさ。それに何というか、もともと透明ボディの屁三郎は他人の視線は気にしなくていいのだから、癒しの場所はトイレに限らずどこでもいいはず、本当は。それが、そうもいかないのは、音や臭気が存在を主張して透明性が瓦解するからである。これはとても恥ずかしか〜。
ラベル: 尿
posted by 楢須音成 at 00:20| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月17日

〈屁〉の都々逸は唄って味わうべし〜

 狂歌にしても川柳にしても〈屁〉を詠んだものは多いが、三味線で唄われた都々逸(どどいつ)にも〈屁〉はあるのだ。音数律七七七五の都々逸は江戸末期からお座敷芸になり広まった。どういう節回しでもOKだし、調子のいい口語である。みなが自由に口にした俗曲(流行歌)として庶民の〈屁〉の機微がしっかり唄い込まれているね。「♪声はすれども姿は見えぬ♪ほんにオマエは屁のようだ」とか、いかに〈屁〉とはいえ深く響くものを感じてみたい。都々逸は、まずはメインテーマである男女の色恋・人情を背景に置いてみるのがポイントだ。
 福富織部の『屁』から〈屁〉の都々逸を引用する。
芋の煮ころばし火事よりこわい、胸がやけたり屁が出たり。
お芋ぢや屁が出るおさつぢややける、稗(ヒエ)のおほたぢや目が光る
蟻も通さぬ人目の關(せき)を、おならたくみにぬけて行く。
玉に瑾(きず)だよあの主さんは、やたらどこでも屁をたれる。
好いちやおれども愛想が盡(つ)きた、舟を漕ぎ漕ぎ屁をたれて。
屁の樣なことでもすぐ湯氣たてゝ、ほんにお前は蒸気船。
くさい筈(はず)ぢやよおならだものを、にほいなければ只(ただ)の風。
若(も)しや屁ならばそれでもよいが、屁とも思へぬ樣な音。
芋食や屁が出る屁をひりや小言、ほんにやる瀬がないわいな。
氣になるおならをエヘンで消して、すました顔する人の前。
雲によく似たわたしのおなら、我がまゝ氣まゝに空を飛ぶ。
何處(どこ)へそれたかお前のおなら、音したばかりで雲がくれ。
はげしかれとは祈らぬものを、ほんによく出た今の音。
四角ばつたる炬燵(こたつ)の中も、丸くつき合ふわたしの屁。
すゞむふりしてれんじにもたれ、そつとすかした人の前。
出たと思へば間もないわかれ、ほんに時計の針の樣。
おなら世上の愛嬌(あいきょう)者よ、野暮な人へも香を送る。
まさかそれとも云ひだし兼ねて、娘伏目で赤い顔。
惚れた中でも我慢が出來ぬ、抱きつく拍子にすかしツぺ。

 狂歌や川柳もそうだが、情景を思い描いて味わう想像力の核が〈屁〉であるという、とびきり卑近なものであることによって、イメージが深く深く解放されるわけだね。都々逸もなかなかに〈屁〉の表情が豊かである。

 都々逸には「唄う」という「振る舞い(行為)」があり、これがリズミカルに周囲の反響を呼び起こしつつ音楽的集団化(狂躁)へと走るのである。まあ、文字だけで読むより、デタラメでもいいから調子よく声を出してうなってみるのが正しい鑑賞法さ。いくつか鑑賞してみよう。

○♪芋の煮ころばし火事よりこわい♪胸がやけたり屁が出たり
 鑑賞:いきなり芋を出されてもなァ。オー、コワ。お前の芋(わがまま)は食ったら必ず胸が焼けたり屁が出てくるのよ。すまんが、胸焼けと屁は自分ではどうにもならん〜。

○♪好いちやおれども愛想が盡(つ)きた♪舟を漕ぎ漕ぎ屁をたれて
 鑑賞:おいおい、ナンダ、ナンダ。普段はすまして完璧なお前でも、我を忘れて屁をこく(クサイことをする)んだねェ。愛想が尽きるほど、そんなお前が好きさ。

○♪若(も)しや屁ならばそれでもよいが♪屁とも思へぬ樣な音
 鑑賞:もしかして、ひょっとして、今の、お前の、それって屁(意見)か? いや、いいんだけどさ。うーん、やっぱり屁かよ。

○♪はげしかれとは祈らぬものを♪ほんによく出た今の音
 鑑賞:お前が俺を無視するからって、いやいや別に念じてイキんだ(ホザいた)わけではない。怒っているわけでもない。何もないって、ホント。いや、すまんのォ、驚かせて。

○♪すゞむふりしてれんじにもたれ♪そつとすかした人の前
 鑑賞:アカン、アカンよ。そんな色っぽいしなでくねくねしても。人は偽善の態度が身についてしまえば、年を取るほど見苦しい。そんな巷の女にはなるなッ。

○♪惚れた中でも我慢が出來ぬ♪抱きつく拍子にすかしツぺ
 鑑賞:いいんだ、いいんだよ。そんな粗相(愛敬)もあるもんだ。惚れておればこそ、心ゆるめば身もゆるむ〜。俺は許すさ。許すぜ。許すとも。

 このような〈屁〉の都々逸をニヤニヤ笑って唄えば間違いなくアホ扱いされるかもね。それでも〈屁〉の情景は、我が身に引きつければ、どうでもいい固有の日常性の機微をえぐって、なかなかリアルではないだろうか。というか〈屁〉の情景はいかようにも汎用性が高いと思うのだが。このことは〈屁〉そのものの観念性の高さを示しているわけであ〜る。

 有名な「♪ジャンギリ頭をたたいてみれば♪文明開化の音がする」という都々逸などは、ただストレートに言葉通りの面白さ。同じ「音」でもこの音には、明治への時代の転換が見事にこめられて今に伝わる。

 対極にあるのが〈屁〉の都々逸で、その「音」には時代性とか社会性とかメッセージというのはまるでないのだが、とにかく時代を超えて我が身、我が身辺に〈屁〉の物語が乱舞するのだ。そこが、それ、味わい深い。

 一言=だから二人で唄ってみましょ。上品ぶって無視しちゃダメダメ。くだらなくとも〈屁〉は誰でもするぜ〜。
ラベル:人情 色恋 都々逸
posted by 楢須音成 at 00:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月24日

〈屁〉を語る糞尿譚の〈性〉的現象

 糞尿譚の中にしばしば〈屁〉はつきものではあるが、「糞尿屁譚」とは言わない。かおり高くウンチクを傾けた『異説 糞尿譚―古今東西、ちょっとくさい話』(1986年、藤井康男著、カッパ・ブックス)にも〈屁〉の章はあるが、やはり〈屁〉は書名には現れない。残念だ。そもそも糞尿屁は一体とはいえないまでも、何やら強い絆で結ばれているではないか。だから音成はいつも「糞尿屁の三兄弟」と呼ぶのであるよ。

 この本にまとめられた糞尿譚は、単なる糞や尿や屁の話というだけではなくて、男女の(倒錯気味の)エッチな下半身をテーマとしている。まあ、糞尿屁が終始一貫して少々エロっぽく語られるのである。目次を引用しておく。
第 1話 美女のウンコで人生を狂わせた男たち
第 2話 ヴェルサイユの舞踏会はトイレ地獄だった
第 3話 モーツアルトは大の糞尿愛好家(スカトロマニア)
第 4話 お尻のマナーでわかる文化の成熟度
第 5話 韓国・モンゴルの画期的なオシッコ利用法
第 6話 もうひとつの男女の秘密「さらさら物語」
第 7話 日本の産業の中心はトイレにあった
第 8話 オシッコは「栄養ドリンク」か
第 9話 江戸の川柳が語る日本人の「健全さ」
第10話 文化爛熟期には排泄もまた快楽になる
第11話 便秘とセックスの微妙な関係
第12話 人間が最も厳粛な表情をするとき
第13話 まぼろしの名著『我が秘密の生涯』
第14話 お風呂の中のだれにもいえない話
第15話 太閤秀吉がふるまった淀君の「名水」
第16話 スサノオノミコトのもうひとつの武勇伝
第17話 オナラ文学の最高傑作は日本の川柳
第18話 気候と風土でこんなに違うお尻の拭き方
第19話 腰から下に思わぬ商品のヒントがある
第20話 我慢したオシッコの超人的な力
第21話 健康なウンコは香水の香りがする
第22話 ある失禁から生まれた恋心
第23話 名女優は、渓流のせせらぎの音で
第24話 ホモ・エピキュロスの最後の聖域

 二十四話の目次だけからも、糞尿屁という消化器系の現象が、生殖器系の〈性〉と交錯する不思議な関係がかいま見えるではないか。「摂食と排泄は動物の宿命であり本能である。本能はしばしば快楽にむすびつく」と藤井は説明する。
 食と性の快楽は常々とり上げられるが、もうひとつの大切な排泄の本能、あるいは快楽についてはあまり真正面からとり上げることがないのはなぜだろう。
 羞恥心というものは人間だけのものらしい(もっとも最近の人間にはそんなものを生まれつき持ち合わせない輩も多いが)。
 しかし動物も、食事やセックスや排泄の姿を見せたがらない場合もある。それは排出時は無防備になり、敵に襲われやすいからだといわれている。人間の羞恥心も、食と性と排出に関するかぎり、そのなごりであろう。
 人間という変わった動物は、生存のための本能であった食と性を芸術の域にまで高めてしまった。もはや人間は生きるため、子孫を残すためでなく、楽しみのため、快楽のため、食と性をむさぼるようになった。
 しからば、残ったひとつはどうなっているのか。
 ウンコやオシッコの話をするとたいていの人は乗ってくる。こういう話に関心のない人はいないはずだが、なかには大好きな人もいる。
 文学作品の中にもこの種の話は少なくない。(中略)
 つまり、食や性と同じくらい昔から関心の的であったのである。そのうえ場所がセックスと共通か、大変近い距離にある。セックスも心理的には一種のカタルシス(緊張緩和)だという考え方もある。

 こう考えれば、糞尿譚が〈性〉と表裏で現象するのは不思議ではないね。ならば、もちろん〈屁〉もまた〈性〉とともに現象して何の不思議もないわけだよ。そういう絆が三兄弟にはあるのさ。

 さて、我々が求める〈屁〉の章は第十七話「オナラ文学の最高傑作は日本の川柳」にある。藤井はこの章の始めで、セックスしようとして女に屁をこかれ、意気阻喪して出家まで考えた藤大納言忠家の話(宇治拾遺物語)を紹介している(この話は、実は恥のどん底に突き落とされた女の方が眼目である)。また、婚礼の席で屁を粗相して自殺した花嫁や、好きな女の前で(うっかり)豪快な一発をやって(かえって)惚れ直された萬屋錦之助の話など、男女にまつわるエピソードを挙げて〈屁〉と〈性〉の諸相のいくつかを示している。

 諸相となるのは、〈屁〉というものが男女の立場や置かれた状況や自分の望んでいること…によって、一つの顔だけではない現象となるからである。幾多の〈屁〉談義や文学表現の世界において、興味深い現象が多彩に展開される。川柳もそうだ。紹介されている川柳の引用を続けよう。
 海女の屁は百丈上で泡になり
 音も香も空へぬけてく田植の屁
 下女あまりこそぐられたで一つひり
 居眠って下女細長く屁をすかし
 下女の屁をかぶった晩にくどくなり
 おとなしうみせてかゝとで屁を殺し
 尻と顔両方へ出る娘の屁
 一大事花嫁どうか屁が出そう
 後架(こうか=便所)でも花嫁尻をすぼめてる
 屁をひりに屋根からおりる宮大工
 韓信が頭の上に一つひり(韓信の股くぐりの故事をふまえる)
 龍宮で雷と思うは鯨の屁
 獏の屁は寝言のような音がする(バクは夢を食うという獣)
 馬の屁に四五人困る渡し船
 馬の屁のさかさにひびく一の谷
 大臣に屁をひっかける馬車の馬
 馬の屁に吹きとばされし蛍かな 一茶
 尻でひり口まねをするおうむの屁
 いたちの子初屁こかぬと心配し
 屁習いをしろといたちの子を叱り
 水あげを糞あげという陰間茶屋
 芋を食い陰間は部屋で叱られる
 芳町は芋が売れぬと八百屋いゝ(花街の芳町には陰間茶屋が多かった)

 川柳を辿るにつれ男女の屁から離れて、動物の屁から、ついにはおかまの屁に話は広がっていく。まあ、川柳がオナラ文学の最高傑作かどうかはともかく、川柳という形式に〈屁〉が自らの表現を解放していったのは間違いないところ。並べていけば、江戸庶民の〈屁〉談義をほうふつとさせるではないか。

 〈屁〉の章の最後は、おかまが登場したと思ったら、いつの間にか〈屁〉はどこかに行ってしまい、一点集中して〈性〉としての肛門の考察になる。藤井は選ばれたポルノスターの肛門が「大変に美しく可愛らしい」のを発見し、魅力的な身だしなみには「お尻の穴にもおしゃれが必要なのだ」と〈屁〉のことなど忘れて力説している〜。

 とまれ、この本は糞尿譚に〈屁〉は欠かせないし、その深層に〈性〉が無視できないことを教えている。

 ※藤井康男は龍角散の元会長。音楽、経営、能力開発など幅広い著作で知られた人だった。
posted by 楢須音成 at 00:20| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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