2008年05月01日

続続・恥じる〈屁〉と〈性〉の違いとは何だろ〜ヵ

 それを恥じる(隠す・秘匿する)という点で〈屁〉と〈性〉は、人間以外の動物には見られない人間固有の現象であるといえる。そもそも恥じるという現象がほかの動物ではほとんど顕在化してこないのだが、人間にとって〈屁〉や〈性〉を恥ずかしがることは日常的であり、高度に文化(観念)的なことなのであ〜る。

 文化現象としての〈屁〉と〈性〉を比べてみたら、どちらも恥ずかしいのは同じであるとしても、どうやら二つは現象の成り立ちに違いがあるのだった。違いはまず「恥ずかしさをまぎらす行動」にみられ、それは「恥ずかしさが生まれる意識運動の構造」の違いに密接に関連し合っているのだった。

 そういう「行動」と「構造」からみると、自分の〈屁〉はみんなが隠し立てしなければ(みんなで遠慮なく屁をこきあえば)恥ずかしくないのであり、二人の〈性〉はどんなにあがいても(それを見せても隠しても)恥ずかしいのである。

 一般に恥というものは否定すべきものであり、あってはならないものだ。だから、恥には恥をまぎらすための行動が常に付随せざるを得ないね。

 さて、我々の〈屁〉の場合、恥をまぎらす(恥を感じない)究極の行動が「みんなで屁をこきあう」ことなのだ。馬鹿な!そんなことしても恥ずかしいよ、と否定する人がいるかもしれないね。しかし、もし恥ずかしいというのであれば、そこでは、みんなが隠し立てをしないという条件が完全に満たされていないからに違いない。

 もっとも、世界の全員が一致して全く平気のままで〈屁〉をこきあうことはあり得ないだろうから、基本的に恥ずかしさから免れることはないのが現実ではあるね。それでも、二人だけとか、家族とか、グループ内とか限定された集団の中なら、我々は恥を無化できる。仲間内でなら恥ずかしげもなく〈屁〉をこきあうことがあるのは、誰もが経験していることでしょ。(嫁に同意を求めたら「そんなことは絶対ない。あり得なーい」と否定するのだけど…ん〜そおォ?)

 まあとにかく、モンテーニュだって随想録に書き留めたように〈屁〉をこきあって恥じない人は確かにいるんだよ〜。ということになれば、そこには〈屁〉の恥を無化することの可能性と限界性が表裏となって潜んでいるのだ。ここはこう説明できる。

 つまり、我々は〈屁〉の恥を無化するために「屁をこきあう」(露出する)方向をめざす。だが、現実には、世界のみんなの全員一致は不可能という原理的な限界があって、それは仲間内でしか実現できない理想なのである。仲間内でしか実現できないことは世間からの孤立化を意味する。これはある種の危機だね。

 仲間内では、こきあう自由を前提にした〈屁〉の作法化を進めてしまうのだ。そこでは逆に〈屁〉をこかないこと(我慢すること)が恥となる。この段階に至ると、その仲間は外部に対して秘密結社のように自分たちを秘匿するか、これまた逆にその存在(屁をこくこと)を主張し始めることになるだろう。(だから、ここに〈屁〉のイデオロギー闘争が始まるのさ〜)

 18世紀のフランスに出現した「自由放屁協会」はこう主張したという。
 おならをする。それも自由におならをする。ここに私たちの秘宝のすべてがあります。私たちはしばしば会合を開きますが、それはきちんとした論理を立てて、充分におならをする必要性を理解し、おならがもたらす喜びについて知るためです。それから実践に移ります。
(ロミ&ジャン・フェクサス『おなら大全』高遠弘美訳から引用)

 仲間が集まり、論理を立てて〈屁〉の自由を主張し、その必要性を理解し、そうやって実践する〈屁〉に喜びを見出すことが行動規範(作法)になっているね。ここでは仲間内でこきあう〈屁〉の恥が無化されているのはもちろんだが、世間にも自由な〈屁〉を標榜し、その自由を大いに広めることが協会の使命になっていた。

 日本で1970年代に「へもす会」という〈屁〉を燃やして楽しみ、それを写真に撮るグループが登場している。単に冗談でやっているとはいえない。ここでは面白がって〈屁〉をこくだけではなく、見えない〈屁〉を形象化して世間へアピールする(作品表現する)活動へと集団化している。ここでも恥を無化する(自由な〈屁〉への)衝動が根底にあるのは言うまでもない。

 これらの事例でもわかるように(我が嫁がいくら否定しても)仲間内で平気のまま〈屁〉をこきあうことはあるのさ。ただし、誰もが賛同するわけでもない(嫁のように否定する人がいる)ので特異な集団にならざるを得ず、羞恥の濃淡はあれ世間的には〈屁〉は相変わらず恥ずかしい存在のままだ。

 とまれ、この段階の〈屁〉は極めて理念性を帯びてきている(意味や理屈が付与されている)ことに気がつかないだろうか。素朴に子どもが面白がって〈屁〉をこきあうような行為の段階からは飛躍(観念化)してしまっているのだ。

 これって〈性〉の恥をまぎらすときに観察した言語化・理論化・制度化を志向する意識運動と同じではないか。つまり、そこには作為観念的に理念への同調に向かう意識運動が発生しているのであ〜る。これはどうしたことなのか。

 では、ひるがえって〈性〉はどうか。ひょっとしたら、こちらにはお互い相手と同じ行動を志向して恥を無化する意識運動、つまり自然反射的に行為への同調に向かう意識運動が発生しているのではないか。観察してみれば、確かにそうなのだね。そもそも〈性〉はお互いが〈性〉行為そのものに没頭することによって、恥が無化されていることに気づかねばならない。

 男女が相互に同調する行為こそ〈性〉なのだ。無軌道な同調は乱交パーティとかスワッピングとかの集団的な〈性〉行為においても顕著に見られるものだね。まあ、こちらは一般的というより変則・変態的(動物はしない)であって、その行為性は暴走・全開している。

〈屁〉の恥の無化=お互い同じ行動をする→言葉や表現や制度で実現する
〈性〉の恥の無化=言葉や表現や制度で実現する→お互い同じ行動をする

 こう見てくると〈屁〉と〈性〉は対照的な意識運動からスタートするのだが、それぞれの意識運動の進んだ段階で、逆の意識運動を出現させていることがわかるのだ。

 つまり〈屁〉においては理念性が行為性の上に展開され、一方〈性〉においては行為性が理念性の上に展開されるのであ〜る。


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2008年05月04日

最終・恥じる〈屁〉と〈性〉の違いとは何だろ〜ヵ

 人間の営みである〈屁〉と〈性〉には恥をまぎらそうとする意識運動が発生する。それぞれの意識運動は同じではない。対照的な意識運動が〈屁〉と〈性〉には発生し、それらを入れ替えるようにして両者は収束に向かおうとするのである。(もちろん〈屁〉と〈性〉という行為は直接には結びつきのない現象であり、ここでは、それぞれの意識のあり方を問題にしているわけだね)

 恥の意識運動をもう一度まとめておこう。

〈屁〉の恥=自然反射的に回避→作為観念的な回避へ
〈性〉の恥=作為観念的に回避→自然反射的な回避へ

 このような恥をまぎらす(回避する)意識運動の対照的な展開について、我々は〈性〉の「快感現象」に着目し、解明を試みてきたのだが、この現象は「快」が暴走して本来の「生殖」から逸脱し、その恥を糊塗するための「作法」からも逸脱してしまう、二重の逸脱(恥ずかしさ)を内蔵するものであった。

 では〈屁〉には、恥を生んでいる〈性〉の「快感現象」に相応する構造は認められないのだろうか。我々は〈屁〉をストレートに恥ずかしいとしてきたのだが、そこを掘り下げてみよう。

 確かに異音異臭が突発する〈屁〉は問答無用に恥ずかしいものだ。ここは「不快現象」というべきものではないか。そうとらえれば、次のように対応させることができるだろう。

〈屁〉=身体から現象する不快(恥の発生)→自然反射的な恥の無化
〈性〉=身体から現象する快感(恥の発生)→作為観念的な恥の無化

 ただし、このときの「不快現象」の不快とは「自分の不快」というよりも「他者の不快」を意識した状態である(というか、そもそも自分の〈屁〉は「快」なんだよ〜)。他者の不快(を意識すること)によって恥が喚起される「不快現象」では、そういう(不快を意識する)意識が暴走しているとみるべきだ。これを〈性〉と対比させてみる。

〈屁〉=「自分は快/他は不快」→不快の暴走
〈性〉=「自分は快/相手も快」→快の暴走

 不快の暴走(不快を意識すること)によって、我々は〈屁〉を人前でしてはいけないという「作法」を用意せざるを得ない。不快ゆえに〈屁〉は、まずは「禁止」(全否定)である。しかし、我々はこの第一段階でつまずいてしまう。禁止を逃れて〈屁〉が跋扈するからだ。つい粗相して〈屁〉の存在を知らしめる。ここから露悪的態度が導かれ、ついに〈屁〉をこきあうという究極の無化の方法へと走るのだ。これが「不快現象」である。

 不快だけど「あなたもするし、私もするよ。だからオナラは恥ずかしくない」という人間行動は「赤信号みんなで渡ればこわくない」というような禁止条項の無視に密通するものであ〜る。

 対照的に〈性〉の方は自他の快を意識して快が暴走するのだが、目的(生殖)を逸しているとはいえ、手放すには惜しい=手放せない快ゆえに、負け惜しみの減らず口のように取り繕って理念(型)の中に〈性〉を「隔離」して温存するのである。

 さて、この「不快現象」のスタートには自分の快が潜んでいるのだが、これは排泄(の悦び)という人間の(とても重要な)生理に基づいている。ここに放屁の快の深〜い根拠がある。しかし、このとき暴走してくるのは快ではなく、「他者の不快を感じる意識」である点が「不快現象」の基本構造になる。ここでは、肯定すべき「快」が「他者の不快を感じる意識」によって全否定され棄却されようとするのである。

 しかしながら、この〈屁〉は全否定したいにもかかわらず(排泄を根絶できないから)否定しきれるものではないわけだ。一方の〈性〉は(二人とも快だし)全肯定したいのだが(生殖から遊離しているから)肯定しきれないのだね。どちらも、そういう徹底性のなさ(望ましい否定や肯定を徹底しきれないこと)が作用し(恥に陥る)危機感をあおって、恥を倍加させていくことになる。ここに我々の恥というものの二面性が浮き上がってくる。

〈屁〉=不快の暴走→他に不快を与える→(だから否定したい)否定性の恥
〈性〉=快の暴走→本来の目的ではない→(しかし肯定したい)肯定性の恥

 恥を伴う〈屁〉と〈性〉の不快や快は、原初的な「行為」としての個性的な身体現象(排泄や生殖)から派生してくるのだが、本来的には生物としてどちらも「快」なのだ。それなのに実に対照的な意識運動となって、我々の振る舞いをそれぞれに規定してしまうのである。

 長々と考察してきたけれど(屁理屈をこくのも疲れるわ〜)、意識運動としての〈屁〉と〈性〉の違いは文化現象にも反映しないわけにはいかないはずだね。実は〈屁〉の考察において、このことに着目した人はいたのだ。中重徹は興津要と共著の『新編・薫響集―おなら文化史』(1972年、読売新聞社刊)でこう書いていた。
 「人間というものは、せんじつめれば、消化器と生殖器からなりたっている」(グルーモン)。この言葉は端的に文学の原型を示唆したものである。したがって、すべての文学は消化器系と生殖器系にわかれ、さらに拡大して考えるならば前者は屁の文学であり、後者は愛の文学であると解されそうだ。したがって両者の関係はあたかも左右の手のようなものである。もとより貴賤尊卑の差別のあるはずはない。ところが実際は両者に対する評価には雲泥のひらきがある。このひらきは天地開闢この方あまり変わっていない。特に上代文学には屁は全然無視されている。いうまでもなく古事記は日本文学の淵叢である。そしてそれは歴然たる生殖器系文学である。その原文は原稿用紙にして百枚前後であるが、中に出てくる性語のなんと多いことか。(中略)屁はゼロとなっている。

 つまり、中重はフランスのグルーモンの言葉を敷衍しながら人間あるいは文学における〈屁〉と〈愛〉の等価な身体的根拠を語っている。近代風に〈愛〉と言ってしまっては(すでに見てきたような理由で)美的妄想が過ぎているかもしれないね。音成はこの指摘を引き寄せて〈屁〉は消化器、〈性〉は生殖器に根拠を持つ現象なのだと同意したいのである。文化現象の中に消化器や生殖器はどのように位置づけられるのだろうか。

 文化現象としての消化器や生殖器が語られ、そこから現象してくる〈屁〉や〈性〉が語られなければいかん〜。

 中重は古事記を生殖器系文学とした。まさにその通り。そこには〈性〉が横溢している。しかし〈屁〉がないと指摘するのである。もちろん、超人たちとはいえ、あの人間的な神々が〈屁〉をしなかったわけではないだろうさ。明らかに隠蔽(回避)されたのである。なぜか。(屎=糞は出てくるのだからね)

 こうして中重は隠蔽されてきた〈屁〉の文学の系譜を歴史的に辿りつつ、〈屁〉の復権を主張している。確かに〈屁〉の多くは〈性〉と比べるまでもなく、奇妙にも回避され続けてきたのだ。いまでもそうだよね。文学の世界で〈性〉は(妄想をふくらまして)多くのみんなに愛されるのに、〈屁〉は(同好がこきあう)限られた仲間内でしか愛されない。ここには「肯定性の恥」である〈性〉の優位が厳然とあるわけさ。

 我々は「否定性の恥」である〈屁〉が決して〈性〉と同じようには振る舞えない理由を、これまでの意識運動の考察から納得することはできるはずである。絶望的なことを言えば、文学にしろ何にしろ〈屁〉は、まさに仲間内で屁をこきあうようにしか広まらないのではなかろうか。(ここは弱気がもたげるのう)

 それにしても、他人の不快を慮る〈屁〉はもともと倫理的な側面があるといってもよいだろう。上代文学に〈屁〉が無視された理由の一片には、そういう倫理観はなかったか。ところが〈性〉ときたら初めから、みだらな妄想の発展史を繰り広げた。そこに何を見出すか。

 かくして〈屁〉と〈性〉の恥ずかしさには、人間生理や意識構造の近くて遠い相違があるのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 08:04| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月11日

アブナイ屁こき三人組の未来

 とても臭いので、周りのみんなが閉口して鼻をつまむ。アイツとコイツは顔つきあわせて、しょっちゅう屁をこくのである。二人は屁を我慢できないし、屁をこくたびに奇妙なやりとりを始める。

 ハタ目にも二人はギクシャクしている。性格というか性癖というか、二人が屁をこいて応酬する振る舞いの違いは顕著にあらわれる。アイツとコイツは陰に陽に不思議な葛藤を繰り広げるのだ。少々見苦しい。なのに学校が引けると、二人は共通の友人であるソイツの家に行っては屁をこき、ソイツを入れて三人で延々と遊んでいるのであった。

 ソイツにしても屁をこくにはこく。三人は同類の仲間なのであり、二人と同じく我慢できないタチなのだが、ホントに臭いアイツやコイツとはイガミ合うような関係にはない。ソイツは自分の屁が最も良質である(ニオイがカルイ)ことを願っているし、信じている。まあ、ソイツが遊び場として部屋を提供しているのは、そういう優位な自分を二人に認知させるためもあるのである。もちろんソイツはいつも中立者であり、また部屋を提供する太っ腹な大人ぶりを見せており、どちらかに肩入れするような態度は一切見せることがない。

 その日もアイツは屁をこいた。
 それはいつものこと。アイツは知ら〜ん顔。アイツは平然として自分の屁を認めようとしないのだ。そのときコイツも一発やらかした。するとすかさず(自分の一発は棚に上げ)アイツは露骨に嫌な顔をして「おまえ、臭え〜」とコイツを非難した。アイツは自分の屁はともかく、他人の屁は許せないのである。コイツは「ごめん〜」と極めて素直に謝る。コイツはアイツの屁はともかく、自分の屁が許せないのだ。涙目になって意気消沈する。

 ソイツはいつも思う。客観的に嗅ぎ分ければアイツもコイツも同じ程度に臭いんだけどな、と。しかし謝るのはいつもコイツ。同じ臭さなら屁の罪深さはアイツも同じじゃないか、とは思うが、ソイツはそういう評価は言わないで黙っている。アイツとコイツはいつまでも堂々巡りのやりとりを繰り返し、ソイツはソイツで「おれのが一番臭くねえなァ」と密かに自画自賛している。(といってもソイツのも臭いのには変わりない)

「おまえの臭さは鼻がもげるのう。ナントカしろ」
「あー、スマン〜。十分反省してる」
「いや、してないな。してない」
「じゃ、もう一度。ゴメン、な」
「じゃあ、そのミニカーくれ」
「仕方ない、やるわ」
「そっちもくれ」
「…こ、これもか」とコイツはデロリアンを隠そうとする。
「反省してるのなら、くれるもんだろ」とアイツは脅しにかかる。すると、
「あ、あ、あ、そ、それは、おれが欲しいな〜」と突然ソイツがワガママな横ヤリを入れるのだ。
「ダメダメ。こっちが先ィ〜」とアイツは慌てて防戦する。デロリアンを奪おうとする二人に攻められてコイツは困っている。
「…しかし」とソイツは落ち着き払ってアイツを指さし「君のも臭いよなあ。オー、くさ」と不意打ちの一言。アイツはイタク傷つく。
「――か、帰るわ」とアイツは消沈して舞台を降りてしまう。
 
 いやはや、三人組のやりとりは毎度この調子。それぞれに傲慢、自虐、狡猾とかになるのだろうが、三人とも屁をこくことには変わりない。五十歩百歩、目くそ鼻くそのレベルであるにしても、彼らにとっては内なるプライドの闘いである。(プライドとは自分が一番スバラシイと自分に誇ることであるさ。そのスタイルは三者三様)

 加虐的な正義派のアイツ=(ソイツの屁は不問に付しつつ語らぬ)全くコイツの屁は臭くて迷惑だ。許せん。
 自虐的な倫理派のコイツ=(アイツとソイツに文句は言わぬ)自分の屁はとても臭くて迷惑かけてる。ゴメン。
 利己的な現実派のソイツ=(アイツとコイツの差異は認めぬ)全く二人の屁は臭くて迷惑だ。自分がベスト。

 ところで、コイツの密かな夢は(三人の未来に続く葛藤をカットして)バック・トゥ・ザ・フューチャーしてみることだ。未来ではコイツがその高い倫理性において二人に勝利しているはずなのであ〜る。そのためにもミニカーのデロリアンは手放せない。そーなのか?
posted by 楢須音成 at 00:04| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月17日

アブナイ屁こき三人組の過去

 仲が良いとか悪いとか、力が強いとか弱いとか、そのとき築いていた友人関係というものも何年かあとになると、すでにその関係は崩壊していたりする。デロリアンの争奪をめぐって紛糾したアイツとコイツとソイツの場合、そういう争奪があったことすら忘れてしまい、さらにさらに時が流れて老人倶楽部のビリヤード台の前で、三人は枯れて平和な会話を続けている。

 その日は初夏だけど朝から太陽が照りつける異常気象の猛暑日。しかし部屋はギンギンに冷房がきいていた。まあ、老人の特徴はいろいろあるのだろうが、若い若い頃との一貫性というか、固い固い節操というか、そういう心の遍歴が希薄(つまり時間が薄めてしまったわけ?)になっているのが見受けられる。しかしまあ、だからこそ何を言われても平気の平左の揺るぎのなさも老人の特徴であって、それを若者たちはボケとかオワタとか言う。そのとき、冷房のきいた密室で三人は何気もなく、それぞれ大きな、小さな、かすかな屁をこいた。

「ふふ、焼肉食って、ひっそり透かした肉屁じゃよ。くッさ〜。あらっと、そっちは品のいい大根屁。ほお、ほお、君のはこれまたド派手な芋屁だね〜」と鼻をうごめかせてソイツが軽やかに分析する。ソイツはここまでの生涯を、おならヒョーロン家として鳴らしてきたのであった。冷静に屁を分析した。「自分で言うのもナンだが、我が肉屁にはシシトウとラッキョが混じってるのわかる? 君の芋屁はフツーに芋でしょ? で、君の方の大根屁だが、納豆入りだな。ギョーザもありかな?」
「君ィ入れ歯で焼肉とは消化に悪いぞ。臭いはずだ。罪なものを食っとるわい」とコイツは鋭い(少々偏屈な)目つきでソイツをにらむ。
「いやいや、別に好んで食い回っているわけではない。夜の巷の生態研究でね」とソイツは達観した素振りでコイツをいなす。「研究といっても、老人としてすべてこの世間を味わってみた感じからすると、ま、世間がどうとか今更どうでもいいんだけどさ」と要するに世の中を分析(クサ〜)しながら飲み歩くのがソイツの老いの流儀。
「あー、スマン。ちょっと大根臭かったかァ?」と頓狂に、孫の写真を持ち歩いている半ボケのアイツが陽気な声を上げる。一方、自分の大きな芋屁は棚に上げてコイツがム〜ッとしているのは、二人の屁が臭いからだ。
「き、君ィ、大根屁だからって、全く君のは臭い肉屁と同罪だ。君は、配慮というものが昔からないんだよ。昔から。おれはそのくッさーい被害に泣いてきたんだ。臭いのを我慢してきたんだ。せめてこれからは遠慮というものを示してほしい。いや示すべきだ」とコイツは毅然として言う。
「昔のことは反省してるさ。謝罪する。しかし君の芋屁は、ほがらかないい音だなあ。臭い焼肉を思い切り透かした屁よりナンボかいい」とアイツは語彙を混乱させ、ひたすら明るく明るく笑顔を見せる。「君のはいい音だなあ」
「何を言ってる。君は反省なんかしていない。してないな。誠意をもってキチンと謝罪しろよ。俺はホントに傷ついてきたんだッ」とコイツは暗く暗く、しかし威張っている。
「まあ、まあ、お互い屁はするもんだし、いーじゃないか、えーじゃないか、へーじゃないか」とソイツのノリは極めて軽い。そしてアイツとコイツの鼻先に強烈な、新たな怪しいにおいの波を送った。
「ウゲ、何だこりゃ、こりゃ、肉屁の焼肉は透かしてへー加減にしろ〜、くッさ〜」とあまりの臭さに錯乱したアイツとコイツが思わず声をそろえ、ソイツに向かって絶叫した。

 過去を悔いているアイツ(だがボケが始まっている)=小さな音の大根屁(臭さ普通)
 過去を恨んでるコイツ(だが被害妄想が進行している)=大きな音の芋屁(臭さ微少)
 悔いや恨みの世間を分析し臭気を味わうように語るソイツ=音なしの肉屁(臭さ強烈)

 老人は多くのものから超越して(多くのものを忘却して)いるのだ。ただ、屁に関しては老いても変わらず出てくるものなので、超越(忘却)を実現するには、意思によって無視するしかないのかもしれない。しかし、こんなありさまでは一生かかっても、アイツもコイツもソイツも屁を(こき回って)忘れることはないだろう。人生ってどこまでも賑やかで香ばしい〈屁〉的な文化現象なんだね。

 さて、デロリアンで過去からやってきて、老境に達した今日の三人を目撃したのは誰なのさ?
posted by 楢須音成 at 12:05| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月24日

補遺・恥じる〈屁〉と〈性〉の違いとは何だろ〜ヵ

 みんなで屁をこき合えば恥ずかしくない。このことを考察してみたのに、やはり「恥ずかしい〜」という人がいるんだねェ。そりゃまあ、状況によっては恥ずかしいかもしれないのだが、それはこういうことだね。

 人間が相互に同じ行為(同調)をする場合には、感情や観念の介在によって、「嫌々ながら」→「半信半疑」→「自分から」→「喜んで」という心的振る舞いの段階があるのであり、順調に推移して「喜んで」の段階に達していかなければならないのだ。それがどこかでつまづくと、行為の同調が「完璧」とはならないので「恥ずかしい〜」となるのである。

 だから、同じ行為をすることの条件は完璧な同調にある。いっしょに何かする(ここでは〈屁〉をする)ということの完璧な状態は、我を忘れること(エクスタシー)なのさ。そういう相互の行為(行動)の同調は人間の集団性(共同性)維持にとても重要であると言わねばならない。

 待て待て、何もわざわざ屁をこかなくても(言葉で)納得し合えば、それでいいのではないか、という人もいるかもしれない。みんなでそれを心底から納得できたら恥はない、と。ふむふむ。しかし、我々は言葉だけで本当に納得する(恥を無化する)のだろうかね。

 前に紹介したモンテーニュの引用とだぶるが、彼が典拠としたディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』ではこういう記述になっている。
 メトロクレスは、ヒッパルキアの兄。彼は以前はペリパトス派のテオプラストスの弟子であったが、あるとき、弁論の稽古をしている最中に、どうしたわけか、おならを出してしまった。そのために、彼はすっかり気落ちしてしまって、家に閉じこもり、食を絶って死ぬつもりでいた。そこで、このことを聞き知ったクラテスは、身内の者から頼まれたので、彼のところへやってきて、わざとはうちわ豆(ハウチワマメ=羽団扇豆)を食べた後で、まず、こんなふうに言って、言葉でもっても、彼が何ひとつへまなことをしたわけではないことを彼に説いて聞かせたのであった。つまり、(腸内にたまった)ガス(プネウマ=気、気息、空気)だって、もし自然に従って体外に解き放たれるのでなかったら、異常な事態になっただろうから、と説明したのである。そして最後には、クラテスは自分でもおならを出して、実際にも彼と似た行為をすることで慰めながら、元気づけてやったのである。そこでその時以後、彼はクラテスの弟子となり、哲学に充分習熟した人となったのである。
(加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』3世紀前半)

 ここで〈屁〉で気落ちしたメトロクレスを元気づけたクラテスがとった行動は(1)ハウチワマメを食べ(2)ヘマをしたわけではないと慰めつつ(3)自分も屁をしながら元気づけた――というのである。まあ、確かに最初は言葉で慰め(説得)にかかっているのであるが、「クラテスは自分でもおならを出して、実際にも彼と似た行為をすることで慰めながら、元気づけてやった」という同調行動の振る舞いに及んでいる。慧眼なクラレスが、用意周到にも(屁を発生させる)豆を食べてから説得を始めているのは、最初からいっしょに屁をこき合うことがネライなのさ。

 つまり、クラテスは我々が他者と関係を持つときの態度としてとる「嫌々ながら」→「半信半疑」→「自分から」→「喜んで」という心的動きの段階を見抜いている。そこでは〈屁〉の説得とか慰めの言葉は次第に無力になっていくのである。というか、結局のところ〈屁〉においては行動が率先して言葉は後からついてくる(あるいは無意味になる)のである。(泣き合って悲しみに暮れるとか、ハグして喜び合うとか、そういう同調行動の場面でも言葉より行動が率先するね)

 相手と同じ行為(同調)で恥を無化するとは(クラテスの言葉は屁の発生と解放の因果を述べて分析的・理性的であるにもかかわらず)ひたすら身体的解決あるのみなのである。「みんなで渡ればこわくない」的な参加の安心立命とでも言うべきこういう同調行動においては、例えばみんなで赤信号を渡っているときこそ、言葉を超越して行為と安心が一体化している。かくして、恥をまぎらすのに〈屁〉は理屈(言葉)よりも、いっしょにこき合うという相互の行為が説得的なのである。(一方〈性〉は行為よりも理屈や言葉が先行して説得的に振る舞うのだったね)

 ところが、このような行為性の先行も場合によりけりである。我々の〈屁〉は恥をまぎらすのに、お互いに屁をこき合うというスタイルをとるにしても、よくよく考えてみると、こういうことができるのは限られたチャンスだね。つまり(屁をこき合う)相手がいないとダメなのだが、多くの場合、我々は(相手にされずに)孤立してしまうのではないだろうか。

 さて、そういうときの我々の振る舞いはどうなるだろうか。行為が失墜した情況(同調する相手がいないとき)には、メトロクレスのようにメゲてしまうか、一人メゲないで周囲に対抗しなければならないのだが、このとき我々は言い訳に饒舌だったりするんだよね。つまり、メゲないで周囲に対抗するためには言葉(理屈)に追い込まれるのだ。
 私はどうしてこうオナラが出るのか、自分でも不思議なくらいである。それも豪快な、カラッとしたのならいいが、いつも陰気でしめっぽい。その上臭い。子どもはおとうさんのをかぐと鼻がひんまがるとか、飯が二、三日まずいとか言い、夏など家内はうちわでバタバタあおぐ。自分でも臭いなァと思うことがある。
(中略=病的なオナラ癖の海外での記述が延々と続いて)
 それからピッツバーグの映画館の中で、かなり臭いのを一つすかしたが、隣席のH君はもちろん感じて私をひじでつついたが、広くアメチャンの小麦・肉できたえた身体から出る「香料」と、どっちがいいかが、わかって参考になったことと思う。しかし、いくら臭くとも彼らは紳士で、どんな場合でも人に赤面させるようなことをしないし、言わないからえらい。
 とにかく、私のは病気で、おなかのどこかに悪いところがあるのであろう。なにも好きこのんで、こんなことをやっているのではないが、身体の関係でどうにもならない。
 病を人の主とすれば、おならは私の主である。
(佐藤弘人『はだか人生』1958年)

 これを自分の〈屁〉の(恥をまぎらす)言辞だと思って読むと可笑しいね。何しろ佐藤の〈屁〉は家族から疎んぜられて孤立し、誰も共有してくれない。外出先でもあきれられている。それもこれも佐藤の〈屁〉は音もなく、極めて臭いからである。自分でもあきれている。そのことを(赤の他人にカミングアウトして)露悪的に延々と書いている。そういうスタイルで〈屁〉を書いている。

 この露悪的な態度は、肝心の同調する(してくれる)相手がいないという状況下にありながら、相手がいるときと同様の心的段階を無理やり歩もうとしていることなのだ。佐藤の振る舞いは「嫌々ながら」→「半信半疑」→「自分から」→「喜んで」と推移する心的段階の「自分から」に対応し、「喜んで」に近づいているわけである。

 言葉を重ねて事情や解釈を書くことは理屈をこねていることだね。佐藤は家族や仲間からの〈屁〉の孤立化の中で用意周到に理屈をこき始めているのだ。行為で同調する相手がいなければ、結局そうやって理屈に走らざるを得ない宿命となる。まあ、これは特に無音異臭の透かし屁の場合には孤立して、ありがちなことなんだよね。音がない〈屁〉は共有が難しいのだ。

 ここには行為への同調を遮断された〈屁〉のショートカットが余儀なくされている姿がある。つまりそれは、ならば言葉(理屈)に同調してもらおうという代替の振る舞いなのだ。〈屁〉が理屈をこいているわけである。「病を人の主とすれば、おならは私の主である」という哲学者風の断言的言い捨ては、やけくそな開き直りになるのだが、病気と同じように、とにかく〈屁〉は不可避なのであり、正当に認知されることを要求しているのである。

 ここで、まさにそのとおりと周囲が納得(同調)すれば、佐藤の振る舞いは成功裏に目的を達成するね。しかし、それがかなわぬ願いであることは佐藤自身がよく知っている。アホな理屈で誰が鼻がもげるような悪臭の屁を共有するか。この文章から漂ってくる笑いはそういう同調の分断から発生しているのであり、佐藤はなりふり構わず〈屁〉を振る舞う永遠の変人として刻印されるのであ〜る。

 まとめれば、このようになる。
(1)そのとき〈屁〉の行為の同調は一気に達成されるのではなく(同調に向かう)心的段階が存在する。
(2)幸いにも同調の相手が出現し、心的段階が最終局面に達するなら、行為の同調(エクスタシー)が実現する。
(3)不幸にして相手が出現しないなら、心的段階だけが最終局面をめざし(理屈をこいて)言葉での同調(説得・納得)を実現しようとする(はずである)。

 この(2)や(3)において、恥の無化が成功するかどうかは保証の限りではない。だからこそクラテスは身を挺して屁をこき説得にあたったのであり、佐藤はことさらに言葉を費やして熱心に理屈をこいたのである。その努力においてクラテスは成功し、しかし佐藤は失敗したのだ。(佐藤の場合、それは予定されたものではあるけれど)

 クラテスが求めたもの=行為への同調(屁をこき合う)→(最終の心的段階で)可能
 佐藤が求めたもの=言葉への同調(屁理屈に賛同する)→(賛同はほとんど)不可能

 それにしても(無音異臭の透かし屁を正当化する)理屈への同調(賛同)の引き出しに失敗することがわかっていながら、そしてその失敗にもめげず、佐藤は何を求めて理屈をこくのだろうか。ここで佐藤が意図しているのは「笑い」なのだね。屁をこき合う同調の代わりに笑いを引き出すことで〈屁〉の恥の無化を狙っているのだ。

 恥と笑いの関係については、これはこれで面倒な別の議論になるのだが、ここで佐藤が笑われるという事態は(恥を未解決のまま)賛同を引き出す代わりに笑い(という同調行動)を獲得することであり、擬似的に〈屁〉の同調行動を代替しているのである。笑いとはこれまた別様の対人関係における同調行為なのだ。

 まあ、これは何と言うべきか。つまりは笑われて(笑いをとって)ごまかすということになるのだが、笑われれば恥が全く無化されるわけではない。(にしても、我々は本来の意図ではないにしても何らか結果を得れば、気をまぎらすように心は安心立命に傾くことができるのである…)

 かくして〈屁〉の恥を回避しようとする我々のジタバタは終わりなき日常にいつも突入している〜。
posted by 楢須音成 at 07:13| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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