2008年04月01日

狂歌における〈屁〉のおかし味

 国文学者の金子実英が狂歌について解説している(歌謡俳書選集十『蜀山家集 全』所収の「狂歌小史」1927年)。金子は狂歌の起源を万葉集の戯咲歌(ぎしょうか)や古今集の俳諧歌(はいかいか)に求めている。これらの歌は「おかし味」の表現によって特徴づけられるが、戯咲歌と俳諧歌の「おかし味」は質が違うと指摘している。
万葉の戯咲歌(ぎしょうか)は大抵内容そのものに可笑味(おかしみ)があり、其の可笑味が短歌の形式によつて表現されて居る。之に較べると古今の俳諧歌(はいかいか)は、別段可笑しくもない事をば、可笑味のある言葉で以て詠まれて居るのが多い。歌の修辞が段々進んで来た結果と見るべきであらう。狂歌としては戯咲歌の方が一等勝れて居る。何となれば戯咲歌の可笑味は言葉が描写する可笑味であるが、俳諧歌のそれは言葉が創造する可笑味であるからである。可笑味の性質としては言葉が創造する可笑味は、第二次的のものであるからである。江戸時代の狂歌も大体は古今集のそれの様に、言葉の可笑味であつて、内容の可笑味ではない。だからまことにくだらない。

 まとめると、こうなる。
万葉の戯咲歌=おかし味のある現象を「言葉が描写」する→第一次的なおかし味の発生
古今の俳諧歌=おかし味を「言葉(の表現)が創造」する→第二次的なおかし味の発生

 あるいは、金子は次のようにも言い換えている。
万葉の戯咲歌=卑俗な(ありのままの)滑稽/内容上のおかし味
古今の俳諧歌=優雅な(言語遊戯的な)滑稽/言葉上のおかし味

 ここから、江戸時代の狂歌はおおむね古今集の俳諧歌の系統であるが、本来の狂歌らしい正系の狂歌は戯咲歌の系統であるというのが金子の主張である。示されている実例をあげる。

大伴家持の戯咲歌
 石麿に吾もの申す夏痩によしといふものぞ鰻とりめせ
 痩す痩すも生けらばあらむはたやはた鰻をとると川に流るな

 大伴家持が石麿という激痩せの人に「痩せっぽちの石麿にもの申す。夏痩せに効くというウナギを捕って食べてみたらどう」「いやいや、痩せっぽっちでも生きておればこそ。もしかしてウナギを捕ろうとして川にはまったりしないように」とからかっている。

古今の俳諧歌
 山吹の花色衣主やたれ問へど答へず口なしにして(素性法師)
 梅の花見にこそ来つれ鶯のひとくひとくと厭ひしも折る(読人しらす)

 こちらは「山吹の花色(黄色)の衣の主は誰なのだろうか、いくら問うても答えないのは(黄色の染料はクチナシなのだし)口がないからさ」と色にまつわって技巧的に掛け合わせた言葉を選んでいる。次の歌も「梅の花を見に来たのに、鶯のやつが、ひとく(人が来た)ひとくと鳴いて私を厭がったので枝を折ってやったよ」と鳴き声と言葉を引っ掛ける技巧で成り立っている。どちらも、そのこと自体のおかし味は薄いのだが、連想や語呂合わせの言語遊戯によって笑いに走っているわけである。
と言つて古今集時代には俗意俗調を以て、ありの儘の滑稽を尽した狂歌らしい狂歌が無かつたと言ふのではない。
  竹馬はふしがちにしていと弱しいま夕かげに乗りて参らむ
「袋草子」に出て居る壬生忠見の歌である。内裏から召された時に乗物が無いと答へると、重ねて、では竹馬にでも乗つて来いとあつた際に詠んだものである。或は、
  昔より阿弥陀ぼとけのちかひにてにゆるものをばすくふとぞ聞く
藤原輔相字藤六がある下司の家へ入つて、家人の留守中に鍋の粥を抄ひ上げて食べようとする時、折悪しく見つけられ、三十一字の詭弁を弄したのである。「宇治拾遺物語」に見えて居る。探せばいくらもあらう。是等は所謂俳諧歌とは多少趣を異にする。狂歌らしい狂歌である。
つまり優雅な滑稽、言葉の上の可笑味を旨とする俳諧歌と、卑俗な滑稽、内容の上の可笑味をねらふ狂体の短歌が共に存在したのである。さう言ふ短歌を狂歌と呼んだのは鎌倉時代以後であらう。しかとした名称が与へられなかつた程、俳諧歌に圧倒されて居たのである。けれども圧倒はされても、之が後世の狂歌の正系である事に疑はない。正系ではあるが此の種のものは至つて少い。

 かくして狂歌には二つの流れがあるのであるが、その正系とは、万葉の戯咲歌に発する「おかし味」をはらむものなのであ〜る。

 金子が言ってきたことは「おかし味」というものの成り立ち(本質)をふまえているわけだね。この「おかし味」には「内容上」のものと「言葉上」のものがあって、より本質的なのは「内容上」のものだというのである。まあ、それはそう。何か(おかし味の)現象が先行しなければ言葉もないのだから、つまりは人間の表現力というものは、眼前や脳内の現象に対し、次第に言葉の自律運動を取り込むことによって現象を超えようとする(=現象を支配しようとする)と言わねばならないのである。

 さて、ここで〈屁〉である。〈屁〉は現象である。しかも〈屁〉はそれ自体によって「おかし味」のある現象であるといえるね。だから〈屁〉の狂歌は正系に属するのだよ。(なぜ〈屁〉がおかしいのかは、これはこれでまた別の議論になるのだが)

 しかし当時としても、あまりに卑俗すぎるためか、万葉集にも古今集にも〈屁〉は詠まれることがなかった。詠まれるようになったときには、すでに狂歌は和歌に対して一つのジャンルとして成立していた(意識されていた)のである。それが鎌倉時代以降だ。狂歌がのびのび開花するのは江戸時代だが、このとき〈屁〉は有力な現象(題材)として百花繚乱した。例えば、こうである。
七へ八へ屁をこき井出の山吹のみのひとつだに出ぬぞよきけれ(四方赤良)
※七重八重とばかりいくつも屁をこき、井出の山吹のような黄色の中味がひとつも出なかったのはめでたいなあ。(太田道灌のエピソード「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」を下敷きにしたパロディ)

すかし屁の消えやすきこそあはれなれみはなきものと思ひながらも(紀定丸)
※すかした屁の消えやすくはかないことこそしみじみ心が動かされるなあ、中味のないものだと思いながらもね。(そもそも屁は「実体がない=実がない」わけである)

ひいふつとすゐはの征矢の高なりはぶゐさかんなる響なりけり(竹杖為軽)
※ヒイフッと放たれて飛んでいく水破の矢の高鳴りは、武威(ブイ)さかんな響きであるよ。(矢を放った人が屁をこいたのを見て矢の高鳴りを笑ったのか、な?)

へゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝへゝゝゝゝゝゝ(加保茶元成)
※解釈自由の「へ」のリズム。洒落っ気。(回文の歌として詠まれたもの。シュールだねー)

 こんな調子で堂々と〈屁〉が登場するようになる。〈屁〉の狂歌を眺めていると、そこに表現された〈屁〉の「おかし味」というものは「内容上」と「言葉上」の両方において成立したものであることがわかるね。

 さらに狂歌に登場する〈屁〉は技巧的だ。言葉の遊戯の頂点をめざそうとしている。もともと「おかし味」の一翼を担っていた〈屁〉というものは、異音・異臭の無作法ゆえに、当たり前の顔してサラリと詠めないのである。それは相当の人格と技量を要する。(ビールと液晶ぐらいの?…笑)

 そもそも人は昔から〈屁〉と聞いただけで笑ったり仰天したりするのだし、そのまんまで、行為も言葉も屈折した「おかし味」を誘発するのだ。こういう〈屁〉だからこそ「おかし味」の表現は加速せざるを得ない。しかも我々がする〈屁〉談義といっしょで、表現の陳腐化もめっぽう早い。詠み手は陳腐化の危機にもめげず、しゃにむに〈屁〉の狂歌は新手の技巧や趣向に爆走していくことになるのである。

 それにしても〈屁〉というものは、万葉と古今の「おかし味」の歴史的発展の果てに、二つの系統を統合する現象として躍り出たのであり、めでたく開花したのであ〜る。それができたのも正系であるがゆえである。まあ、川柳とは違って〈屁〉の言語遊戯が横溢するのは狂歌の一人舞台だねェ。


posted by 楢須音成 at 00:33| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月06日

死に臨む〈屁〉

 死に対して〈屁〉はどのように現象するだろうか。死んだあとは〈屁〉が出ない(現象できない)というのは自明のことのように見えるが、その通りである。ただし、間際の〈屁〉は残された者にとっては不可思議な余韻を残している。
さる道心者(=仏門の人)往生せられしが、「日頃は随分の(=身分相応によくできた)人にてありしが、臨終に屁を放られた」と語る。傍なる人聞いて「そのやうなこともあることさうな。先年われらが親仁(おやじ)の臨終の時、さる長老さまの仰せらるるは、必ず必ず臨終が大事ぢゃほどに、取はづし給ふなと、親仁に返す返す仰せられし。しからば取はづして、死ぬる人もあると見えた」
(『囃物語』1680年)

 笑っていいのかどうか迷ってしまう会話だが、臨終の〈屁〉を真面目に語っているとぼけた雰囲気。そういうことがあるのだ。ここで思い出すのが次の俳諧である。臨終の〈屁〉の滑稽なシーンとして詠んでいるのだが、単純に笑うわけにもいかない。しかし、親を受けとめる、何かおかしくも、やがて切ない深い気持ちにならないだろうか。
にがにがしくもをかしかりけり
  わが親の死ぬるときにも屁をこきて
(山崎宗鑑編『新撰犬筑波集』1530年前後刊)

 しかし、これには賛否両論あったようで、貞門派俳諧の元締め(松永貞徳)は手厳しく評している。
いかに俳諧なればとて、父母に恥を与ふるは道にあらず。儒道はいふに及ばず、仏道にも不幸はいましめ給ふぞかし(中略)人の親のと、せめてありたらば、この句よりもなほ付心もまさるべし。わが親ならばいかでかをかしかるべき。それををかしと思ふことの心あるものは人の子にてはあるまじ。畜生にもおとりたるものなり。……
(付句集『淀川』の中の評言。1643年)

 貞徳は怒り心頭だ。自分の親の〈屁〉を暴露して恥を与えるとは何事か。これが他人の親のことなら、まだしもその技量は認めてもよいが、自分の親ぞ。犬畜生にも劣るわい。というのである。

 儒者じみた貞徳を痛烈に批判した人はいた。例えば、屁文集『一発』(1977年、葦書房刊)をまとめた中重徹は道徳的に文学を語ってしまう貞徳の俗人ぶりをこう指摘した。
 この句がそれほど親不孝なのかどうかはの議論はともあれ、それを親不孝と思うところに貞徳の文学観のあさはかさとその俗人ぶりがうかがえる。そして皮肉なことに右の批判は結果的にはこの句の価値を一段と高らしめるにいたった。元来「をかしみ」は緊張が大なれば大なるほど効果的なのである。

 臨終という「緊張」が〈屁〉に対する無限の気持を現象させるのだ。その「緊張」の深み(臨終の人)からおかし味が現象してくる。死の間際の一発は残された者への最後の意図せざるプレゼント(粗相)なのである。

 しかし、この世にまだ未練を残してしまうと、なぜか〈屁〉は自分の存在を主張する実直さにしかならないようだね。そういう間際の〈屁〉を近代的なリアリストが目撃して記録している。
私たちはとうとう夫人を失った。私はその息を引き取るところを見た。彼女の一生は才気と思慮のある婦人のそれであり、彼女の死は賢者のそれであった。いとわずてらわず宗教上の義務をはたした清澄な魂、その点からは、カトリック教が私に好ましく思われたといっていい。生まれつきまじめなひとであったが、病気のおわりには、一種の陽気さを持つようになった。それもむら気のない、ごく自然なものであり、悲しい境遇を理性でまぎらせようとしているにすぎなかった。べったり病床についたのは最後の二日だけで、それもみんなとしずかに話すことをやめなかった。とうとう話ができなくなり、いよいよ臨終の苦しみとの格闘にはいったとき、一つ大きいおならをした。「よろしい!」ねがえりしながらいった。「おならが出るような女はまだ死んじゃいません」これが口にした最後の言葉だった。
(ルソー『告白録』井上究一郎訳、1764〜1770年)

 同じ臨終のおかし味でも、ここには「まだ生きていますよ」といっている〈屁〉があるのだ。このリアリストは淡々と見ているだけで、下手すれば皮肉ともとらえかねない目で「臨終の苦しみ=〈屁〉」として見ている。リアルといえばリアルだが、日本人のように恥を媒介とした臨終の深みは見えてこないように思われるね。

 そこではキリスト教社会と日本社会における臨終の様相の違いが〈屁〉の現象を通じて浮かび上がっている。残された者にとって、その〈屁〉は片や「理」「苦」を支えとしているのだし、片や「情」「恥」を支えとしているのだった。

 我々日本人は、死後の世界にまで「情」や「恥」を持ち込んでしまうんだね。江戸の川柳はこう言っている。地獄では〈屁〉は閻魔大王にきっちり報告されるのさ。
かぐ鼻はすかした迄も帳へ付け
かぐ鼻は眉をひそめて言上し
かぐ鼻は鼻をつまんで言上し
※「かぐ鼻」というのは、死者の生前の行状を地獄の閻魔大王に見る目(男の鬼)ととも報告する女の鬼のこと。

 このように地獄にまで〈屁〉がついてまわるのが日本人なのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 12:50| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月12日

漫説「屁のP音考」

 古代日本語ではH音「ハ行(はひふへほ)」は存在しなかったらしいんだね。それはP音「パ行(ぱぴぷぺぽ)」だったというのだけれど、そのことを言語学者の上田萬年が「P音考」(1903年)で考察している。P音「ぱぴぷぺぽ」は「本居翁などが半濁音の名稱の下に、これを以て不正鄙俚(ふせいひり=不正で野卑)の音なりとし、我國には上古決してなかりし音なりなど説き出されしより、普通和學者などいふ先生たちは、一圖(いちず)に其説を信して」いるが、実はそうではないというのである。

 古代にH音は存在せず、P音だったということになると、例えば「旗=ぱた」「光=ぴかり」「船=ぷね」「屁=ぺ」「星=ぽし」だったわけである。つまり、P音が清音なのであり、その濁音が「ばびぶべぼ」なのだ。確かに唇音(しんおん)であるP音とB音はつながりの親和性がいい。H音は喉音(こうおん)だね。時代が下がると、P音「パ行」→F音「ファ行」→H音「ハ行」という変遷がうかがわれるのである。
B音の出しC音は、決してハ行(H)音にもあらず、ファ行(F)音にもあらず、即ち純粹なる唇的C音パ行(P)音ならざるべからず。如何となれば、今日のH音は決して唇音にあらず、純粹の喉音なればなり、而して又同時に、濁音Bは Fの如き摩擦的音にもあらざればなり。

故に悉曇韻學(しったんいんがく)の上、支那韻鏡學(しないんきょうがく)の上にては、P行は純粹C音の位置に置かれ、B行が其濁音の位置に立ちしこと、決して疑ふべからざる事實なり。しかるに中古以降、音韻の學衰ふると共に、音を音として研究せず、文字の上よりのみ音を論ずる似而非學者出て來りて、終に半濁音などといふ名稱までを作り、大に世人を惑はすにいたりたり。

 さらに上田論文の面白い(わかりやすい)指摘は次の部分だろう。要するに「ぱぴぷぺぽ」は発音しやすいものであり、オノマトペに多用されており、日本人にとても理解・発音しやすいという指摘である。なるほどね。
殊にパピプペポの音は、誠に發しやすき音にして、一歳にみたざる小兒すらが、能く發し得る所のものなり。現に國中いづれの處にゆくも、オノマトポエチックに用ゐるパチパチ、パラパラ、ピシピシ、ピンピン、ポツポツ、ポンポン等の音は、普通に發音せられ、又理解せらるるにあらずや。上古の日本國民が、外國音を練習するに當りて、此の發音に苦しみしといふ事は、聊か不思議の至りなりといふべし。よりて思ふに、これは恰も今日のハヒフヘホが、ワヰウヱヲにうつりゆきて發音せらるるが如く、上古のパピプペボは奈良朝以前にありて、次第にハヒフヘホにうつりゆきたるにはあらざるか。

 そこで「屁」なのであるが、この論を当てはめると実にわかりやすいではないか。現代では「へ」「ひ」と発音するが、本来は「ぺ」「ぴ」ということになる。中国文学者の藤堂明保の解説はこう言っている。
そこをガスが抜けようとすれば、必ずピイと妙なる音を発するだろう。その音をとって(中国語では)屁(ピイ)と発音し、(現代の)日本ではそれを屁(ヒ)と読んでいる。
(『漢字まんだら』1972年)

 かくして「屁」の音を真似るお口の格好からしてもP音がふさわしかろうということになるのだね。もともと「屁」の音は「ぱぴぷぺぽ」系列であり、必然的に濁音「ばびぶべぼ」へと転化するのがわかるのであ〜る。(こうした〈屁〉にまつわる音のクオリアにつていは以前に取り上げた)

 さて、このような「ぱぴぷぺぽ」が「はひふへほ」になるのはなぜか。つまり、「屁」の「ぺ」または「ぴ」が「へ」「ひ」になるのはなぜなのか。このP音からH音への変移は、筋肉の発声運動の省力化というか、お口の動きが減る(唇の省力)方向に発音するようになったからというのだけどね。

 とすれば、ここから音成の独断。そもそも「屁」にとって「ぱぴぷぺぽ」や「ばびぶべぼ」は擬音としての親和性は極めて高いわけさ。みんな破裂音だから元気もよろしい。それはそうなのだが、実は〈屁〉は無作法にして(恥ずかしいものであり)隠蔽性が高いのであるから、元気があってはいかんのである。ここから「屁」はそっと、ささやくように発音しなければならないのだね。「ぺ」は「へ」にならざるを得ないし、「ぴ」は「ひ」になるのである。もちろん、これは発声運動の省力化という流れにもかなっているわけなのさ。

 そいういう背景をふまえれば、江戸の狂歌師にして戯作者である石川雅望(宿屋飯盛)の次の説もうなずけるではないか。
 愚考するに、屁の字は唐音で「ピイ」の音であり、「ピイ」とはひるときの音声であろう。我が国で「へ」と呼ぶのも、これまたひるときの音声ではなかろうか。これを先生のように「ブウ」の一音のみとするのは、一をひって二をひらざる(一を知って二を知らざる)ヘッぴり儒者の狭量な見解といわねばならん。昔の人のみやびな耳には、この音声を「ヘツ」と聞いたのである。「ブツ」というのも「はひふへほ」の通音ではあるが、昔の人は「ヘツ」と聞いたに違いない。
(音成訳『放屁』1813年)

 みやびな人が「ブー」「ブツ」を「へー」「ヘツ」と聞く(言う)のは、他人様の前で〈屁〉は元気があってはならん〜という自らに課した日本人の矜持のようなものなのである。

 以上、音成の「屁のP音考」終わりッ。
posted by 楢須音成 at 00:00| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月18日

恥じる〈屁〉と〈性〉の違いとは何だろ〜ヵ

 あなたは隠れてならば少しも恥ずかしがらずに〈屁〉をする(はずであ〜る)。どういわけか、我々は〈屁〉というものを孤独な(一人だけの)営為にしてしまって、ほかの人の前では恥じるのだ。同じように隠れてするものにセックスというものがある。これもどういうわけか、孤独な(いや二人だけの)営為にしてしまって、ほかの人の前では恥じる。(まあ、厳密には恥じない人もいるにはいるんだが、それは別の議論になるね)

 この〈屁〉と〈性〉は行為としてゼンゼン違うのだが、少なくともそれを他者の視線(もっとも〈屁〉は見えないんだけどさ!)から隠し立てするという点では似たような心的構造を持っているね。要するに〈屁〉も〈性〉も人前では恥ずかしい〜。

 もちろん、この二つが同じように恥ずかしいとは言っても、恥ずかしさが現象してくる源や、向かう方向は違うのだけどね。まずは〈屁〉と〈性〉の我々の振る舞いを例示しておこう。
 メトロクレスは、ついうっかり教え子たちの前でおならをした。恥ずかしがっていえのなかにかくれているところへ、クラテスがたずねて来た。そして慰めたり、理屈をこじつけたりしたすえ、自分みずからの無作法をごらんに入れようと、メトロクレスと競争でおならをし合い、かれにその小心をすてさせた。しかもそのうえに、かれをそれまでくみしていた上品な逍遙学派からひっこぬき、それよりも気楽な自分たちのストア学派に入れてしまった。
 われわれがお行儀がよいとほめることを、つまりわれわれが隠れてならばすこしも恥ずかしがらずにすることをただ人前でだけあえてしないことを、かれらはばかげたことだと言っていた。そして、自然や習慣やわれわれの欲望がちゃんと公表してしまっているわれわれの行為を上品ぶって隠し立てすることを、むしろ不徳であると考えていた。ある人が、さる哲学者がちょうどあれをやっているところに来あわせて、いったいなにをしているのかときいたところ、「人間をひとり植えているのだ」とすまして答えた。にらを植えているところを見られたほどにも赤くならずに。
(関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』1580年)

 さて、何かで紛らそうとしている〈屁〉と〈性〉の「恥ずかしさ」がここにはあるわけである。当事者たちの恥を隠蔽するジタバタぶり(振る舞いの帰結=向かう方向)をまとめてみよう。

〈屁〉の隠蔽=(慰めてもらう/理屈をつける・つけてもらう/他者と競争する/同類の仲間になる)→集団化(行動の共有)
〈性〉の隠蔽=(上品ぶったり隠し立てをするのは不徳と考える/意味を高次に言い換える)→メタ言語化(超越的言い換え)

 こうみると、我々は〈屁〉において恥を紛らすためには「あなたもするし、私もするし…何も恥ずかしいことはない」と許し合う(信念的)結社的な仲間意識が有効である。また〈性〉においては「本来それは人間の(必然の)営為である…何も恥ずかしいことはない」と断言する(理念的)人類的な仲間意識が有効なのであ〜る。

 この〈屁〉が示す「(お互いに)する=隠さなくていい」という認識は相互に相殺的なものである。これを結社の仲間意識に類比したが、これは行為を正当とするイデオロジカルな「集団化」によって恥を無化するものだ。この場合〈屁〉は世間的には無作法なのだから、集団は内閉的で外との対立を意識している。ここでは、同一行動の共有で身体運動を直視する仲間意識によって、現実(恥)と折り合っている

 一方〈性〉の「(それは普遍的)である=隠さなくていい」という認識は(一応)絶対的なものである。こちらは人類的な仲間意識に類比したが、これは行為を正当とするイデオロジカルな「理念化」によって恥を無化するものだ。この場合〈性〉は本来的な当然の行為なのだから、その観念は開放的で人類規模の理念性を意識している。ここでは、言語によるメタ表現の積み重ねで身体運動を普遍化する仲間意識によって、現実(恥)と折り合っている。

 このように我々が縛られている〈屁〉も〈性〉も、人間以外の動物にはない意識運動の産物(観念)であるのだが、その心的構造は全く同じというわけではないのだね。〈屁〉は行為への同調である(行為性が高い)のであり、〈性〉は理念への同調である(理念性が高い)のである。子供が面白がってブーブーと〈屁〉を放り合うのは行為への同調であり、医者の前で〈性〉が(言い換えられながら)すまして語られるのは理念への同調となるわけだ。

 もちろん〈屁〉や〈性〉において、行為や言語への同調は(対照的に)それぞれのレベルでどちらも達成されてはいる。そうではあるのだが、隠蔽の方向がどちらを向いているかは明確に違いがあるのだ。

〈屁〉の隠蔽=行為化によって恥を無化する
〈性〉の隠蔽=言語化によって恥を無化する

 同じ隠蔽でも〈屁〉と〈性〉で、このように意識運動の方向が違ってくるのはなぜなのだろうか。つまりは、それは恥ずかしさの違いということになるのだが、羞恥というものの根幹に触れてくるものなのであろうねー。
posted by 楢須音成 at 16:56| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月25日

続・恥じる〈屁〉と〈性〉の違いとは何だろ〜ヵ

 現象する〈屁〉は「恥ずかしい」という心的現象として生起している。他者を気にして恥ずかしいのは〈性〉も同じであるが、この二つは全く同じ心的現象というわけではなかったね。つまり、恥から逃れようとする我々のジタバタは、無作法な〈屁〉においては行為性(行為への同調)を志向し、快楽的な〈性〉においては理念性(理念への同調)を志向しているのだった。

 そりゃまあ、そもそも両者は全く違う行動なのである。そのように相違する根底には〈屁〉と〈性〉の異質性がうかがわれるわけだね。行動(振る舞い)の基本構造の要素を単純化して抽出してみる。

〈屁〉=一人でする(強い拡散性あり)/秘匿的/無作法/無目的生理/不快/根底に現象の否定がある
〈性〉=男女二人でする(弱い拡散性あり)/秘匿的/作法/有目的生殖/快/根底に現象の肯定がある

 ただし、経験に照らしてみても、各要素は状況に応じて変化する随意性を相当はらんでいるのであり、正反対に揺れ動いてしまう振幅がある。例えば、人に隠れてする密かな〈屁〉が快感である人は多いだろうし、快不快というものは表裏一体で現象することがあるのだ。それでも〈屁〉や〈性〉というものを、精錬抽出していけば、このように両者が意外にも対照的な現象であることが示されるね。

 一人に現象する〈屁〉は強い拡散性(他者への影響=見境なく襲いかかる異臭異音)があり、世間的には無作法とされているため秘匿(禁止)される。男女に現象する〈性〉は弱い拡散性(相手の多数化=しかし相手を選ぶ行為)があり、世間的には(認知された場合には)作法が用意され(作法の陰に)秘匿される。両者が同じように秘匿されるのは、明るみに出ると恥を喚起するからだ。

 ここでいう作法・無作法の「作法」とは「社会規範」あるいは「規範意識」である。見境のない異臭異音である〈屁〉は隠す(秘匿)という「規範(ルール)」から逸脱するから、恥ずかしい気持ちになるのだ。一方の〈性〉もまた逸脱するのは同様であるが、逸脱した〈性〉が恥ずかしいのには、やや複雑な深層構造がある。

 どちらも表層は「隠さなければならない」という規範から逸脱するから、とりあえず恥ずかしいわけだが、異音異臭という否定現象の〈屁〉は隠すにしても、肯定現象である〈性〉を隠すのはなぜかという疑問があるね。肯定現象という位置づけは〈性〉が生殖という生存の目的を実現しているからである。そもそも生殖は(ほかの動物を見ても)合目的な活動であり恥じるものではないはずだ。なのに、それが恥ずかしいところに羞恥の構造の深層があるのだが、なぜ恥ずかしいのか。

 音成が採用している考えは〈性〉が人間独自の「快感現象」であるからという理由であ〜る。

 動物の生殖行為が快であるとして、人間の場合は快(だけ)が暴走してしまうのだ。動物の生殖が快であるとすれば、このとき動物は「生殖=快」であって、これはほとんど身体現象に属する。ところが人間の場合は「生殖=快」の「快」が身体現象から遊離して「快だけ」が自己増殖してしまう。快の自己目的化とでもいうべきこの快感追求(妄想)こそが人間の〈性〉の「快感現象」なのだった。

 つまり「快感現象」そのものが恥ずかしさを内蔵している。もともと生殖行為に付随していた快が、生殖に関係なく一人歩きしてしまう(欲情し快をむさぼる)ということは、本来の目的(本能)からの逸脱なのである。それが心地よければよいほど(そして快感追求が大きければ大きいほど)逸脱感は増大する。ここに〈性〉の羞恥が生起する基本構造があるのである。

 ところが、異性との快感や快感追求を想像したり感覚することで欲情し、それによって羞恥が生起してくる深層の逸脱を、我々は顕在的にはほとんど意識しないのだね。それぐらい我々は、生殖から遠ざかって〈性〉を自己目的化している。その逸脱ぶりは、欲情していることすら意識せずに、ただただ恥ずかしい感情として受けとめるほどさ。

 かくして〈性〉は本来のあり方(生殖)からの逸脱を生み出して後ろめたい(恥ずかしい)ものとなる。しかし、逸脱はしていても〈性〉は必要であるため、秘匿し通すことはできない。となると、この世間に存在理由を確立するには、理由のある作法(恥ずかしくないもの)として定位しなければならないわけである。単なる生殖の結びつきを越えて、盛大に結婚式を挙げ、疑似恋愛の遊郭を作り、性道徳を流布させるといった儀式化や制度化を進めて〈性〉を定位して、羞恥を無化(秘匿)していくのだ。

 まず本来のあり方(生殖)からの逸脱(原初的な恥ずかしさ)があり、さらにその上に定位した「作法」からの逸脱(観念された恥ずかしさ)があって、二重の逸脱となるわけである。

 さて、我々が追究しているのは〈屁〉であった。異音異臭の否定現象としての〈屁〉は「不快」だね。世間的には文句なしに無作法とされる現象だ。ここには快である〈性〉のように、肯定現象になり得る存在理由が何もないように見えるんだよね。そもそも〈屁〉は何のために存在しているのかわからない。この無目的に見える生理は異音異臭で自他を悩ませる。あってはならない無作法なのである。

 このように〈屁〉というものは否定現象としてあるわけだが、肯定現象の〈性〉に比べればストレートに恥ずかしいといえるね。〈性〉のような二重構造は基本的にはないのだ。

〈屁〉=それを見せることは「無作法」→かなりストレートな恥ずかしさ
〈性〉=それを見せることは「作法に反する」→言い訳じみた恥ずかしさ

 注意したいのは、同じ「作法」でもそこに機能している我々の意識運動は必ずしも同じではないことである。

〈屁〉の作法(人前で〈屁〉をしない)=嫌がられることを「避ける」ために作られた作法→自然反射的な意識運動が機能している
〈性〉の作法(人前で〈性〉をしない)=目的外の快感を「糊塗する」ために作られた作法→作為観念的な意識運動が機能している

 二つの作法の成立は人間の不可避の現象ではあるけれど、直面したとき「避ける」(禁止する)のか「糊塗する」のかの対応の違いは大きい。「避ける」という自然反射的な作法と「糊塗する」という作為観念的な作法を出現させる意識運動は、対極的なものといえる。そして「避ける」あるいは「糊塗する」ことによって生まれる作法から逸脱するときには、我々は恥ずかしく思うわけである。

 すでに見てきたように、恥ずかしさをまぎらすために〈屁〉の隠蔽は行為への同調(相互に屁をこきあえば恥ずかしくない)を志向し、〈性〉の隠蔽は理念への同調(理屈づけや言い換えをすれば恥ずかしくない)を志向するのだったね。これは要するに〈屁〉は同じ行動で恥を無化するのが効果的(気持ちスッキリ安心立命)なのであり、〈性〉は理屈(言葉や制度)の積み上げで恥を無化するのが効果的となるのであ〜る。

 このことを「避ける」「糊塗する」の意識運動と重ね合わせてみると、次のようになるだろう。

〈屁〉の隠蔽=お互いに相手と同じ行動を志向する→自然反射的に行為への同調に向かう意識運動
〈性〉の隠蔽=言語化・理論化・制度化を志向する→作為観念的に理念への同調に向かう意識運動

 かくして、我々が振る舞う〈屁〉と〈性〉の隠蔽は、それぞれの羞恥の深層の基本構造にそって行われていることがわかるのさ。

posted by 楢須音成 at 22:31| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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