2008年03月01日

〈屁〉を止揚する「自屁否定」とは何だろ〜ヵ

 男と女の会話はしばしばすれ違うことがある。まして〈屁〉ともなると最初から妥協の余地がないものだ。
 (屁をこいたでしょ)いいえ、こいていません。(でも、臭いですよ)いいえ、私じゃありませんよ。疑うんですか。(でも、私じゃないし、やっぱりあなたね。このニオイはあなたのもの)いいえ、違います。ニオイは私のものに近いのかもしれませんが、私のものじゃないですよ。(でも、じゃあ、だれが?)あなたの可能性もあるのでは。断定はしませんが。(じょ、冗談じゃないわよ。私の純白のハレのこの結婚式で屁などこくものですか)そうかもしれませんが、来賓たちの前で第三者的にはあなたの可能性も否定できないのでは。(何ですって。臭くて死にそうな私なのに)間もなくお色直しだから席を外せるじゃないですか。(そんなの関係ないでしょ。あなた、屁をこいたんでしょ)いいえ、こいてませんが。幸いここはみなさんからは遠く離れていますから、このニオイが気づかれる心配はありませんよ。(だから、あなたなんでしょ。こきましたよねッ)そもそも屁は臭いものなんですから、そういう不都合な真実はいったん棚上げにしませんか。(だから、だから、だからッ、あなたなのね)いいえ〜、ゼンゼン私はこいてませんよ。

 いつも〈屁〉が介在する状況には微妙な心の論理のやりとりがあるね。そういうときの〈屁〉への向き合い方(心理)は、場合によって万華鏡の模様ように多彩に異なって見えるのだが、自分の〈屁〉を「否定する」あるいは「否定したい」という点で広い共通性を持っている。これを「自屁否定の論理」と呼ぶならば、その論理展開はいろいろあるものだ。

 最悪(?)なのは〈屁〉をしたのに「していない」と否定を貫徹してしまう論理である。発生している(臭いという)影響は認めるが、原因(が自分であること)は否定するという見え透いた態度は、まあ、〈屁〉においてはよくあるパターンかもしれない。このときは、相互の立ち位置や利害や力関係などによって、濡れ衣や身代わりという現象を発生させることにもなるわけだね。

 夫婦間では、この「自屁否定の論理」はどのような展開になるのか。夫婦の〈屁〉の変遷を語っている『妻のオナラ』(三浦朱門著、2006年、サンガ新書)では、夫の前で〈屁〉の羞恥心を剥落させていった妻の姿を描いていた。ついに妻は毎朝轟音を発する目覚ましオナラで夫を起こすようになるのであるが、まあ、これは「自屁否定」が〈屁〉に「無頓着→肯定→夫との共有」へと止揚されていったのであるね、多分。

 そもそも我々が全く〈屁〉をしないということはあり得ないのだから、およそ夫婦(つがいとなる特別な人間関係)は結婚後、意識しようとしまいと何らかの解決策をとっている(に違いない)。このときの態度にA面とB面を仮定してみた。

A面(否定的擬制)
(1)二人とも相方の前では放屁をしない。二人の一切の放屁を隠蔽し、存在しないもののように扱う。全く話題にしない。
(2)夫または妻の一方が相方の前で放屁をするが、二人とも放屁を無視し存在しないもののように扱う。全く話題にしない。
(3)二人とも放屁を自由にするが、放屁を無視し存在しないもののように扱う。全く話題にしない。

B面(肯定的擬制)
(1)二人とも相方の前では放屁をしない。二人の放屁を隠蔽し、あたかも存在しないもののように扱う。しかし、他人の放屁は他人事として話題にすることはある。
(2)夫または妻の一方が相方の前で放屁をするが、相方の反応(嫌がる、非難する、笑う、面白がる…など)をめぐるやりとりを通じて話題にする。
(3)二人とも放屁を自由にするし、話題にもする一見して天真爛漫の夫婦。

 A面というのは、存在する〈屁〉に頑なに反応しようとしない態度である。もちろん、心的には〈屁〉を否定(抹殺)している。B面は、存在する〈屁〉に反応するが、一定の価値観(条件付きの放屁許容の基準)を持っており、自分の無罪(礼節との相殺)を陰に陽に主張している態度である。A面とB面のどちらにしても「自屁否定の論理」は働いていて、その拠って立つ論理構造の複雑さを垣間見させるではないか。

 この「自屁否定」というものは、例えば日本人に生まれてこなければよかったという否定にもかかわらず、日本人であるという実存を背負い込んでいる構造に似ている。我々は〈屁〉をしたくなくても〈屁〉をしてしまう存在だ。だから、ここから〈屁〉に向かう否定の態度と論理(観念)が生まれるのである。

 さて、A面夫婦は他人行儀で何だか冷めた切った関係のようにも思われるね。一般的にはB面夫婦が多いだろう。冒頭に展開した男女の会話は、本来B面(1)の夫婦がうっかり透かしてしまって均衡が破れ、(2)に陥って空転しているのであろうとか、もともと夫は(1)で妻は(2)のタイプではないかとか解釈できる。

 結婚当初の恥じらいを捨てて目覚ましオナラを発するようになった妻の場合は、A面かB面かはわからない感じ。段階として(2)または(3)の域に近づいているようだが、夫婦関係は固定しているものではなく経年変化する曖昧さがあるのであるし、関係や態度は相手や状況次第でパターンをはずすものではあるしね。

 A面(3)やB面(3)になると少々特異な夫婦のあり方であるが、ここまでくると、飛び抜けてくる。次の引用は作家の石坂洋次郎が朝日新聞に書いた「老いらくの記」というエッセイである。中重徹の『一発』に収録されている。B面(3)としていいだろう。
(前略)私たちは引き揚げることにした。隣のお屋敷の緑濃い庭園を眼下に見下ろす、狭いが明るい出口の廊下でごたごたしている時、老人性おしゃべりの私は……、
「太郎君、小百合ちゃん。きれいないい住宅だね。しかし、子供は生まれてないし、小百合ちゃんは男である太郎君の大きなオナラを聞きながら、一日々々とユウウツに過ごしているのだろうね」
とつぶやいた。
 すると、間髪を入れず、小百合ちゃんは大きな声でさわやかに答えた。
「いいえ、オナラでしたら、岡田でなく私の方のお家芸でございますの。先生方にも聞いていただこうかしら」
 私達は圧倒されて、開いた口がふさがらない思いだった。世の女性たちよ、オナラというものも、心がけしだいでは、自分の装飾にすることが出来るものなのだ。(話が少しそれる。私が聞いている範囲では、欧米ではオナラについてもまったくの男女同権だということだったので、欧米生活の長い人々に真相を聞いてみたが、どちらにしても歓迎される現象ではなく、具体的にはよく分からないということだった。しかし、私のように古い感覚の日本人としては、自分の女房にポカスカもらされたんでは、ユウウツきわまりない。男女平等の観念に徹している男性たちの実感をききたいものだ。音だけでなく、あいつは臭いですからね)
 ともかく、そのことがあってから、少なくも私は、小百合ちゃんに対して、幅が広く、厚味のある人間性を感じさせられるようになった。(後略)

 これは、ひょっとしたら「自屁否定」が止揚された「究極の」B面(3)ではないか。つまり、そこには我々のような凡人を超える、品格となる〈屁〉の格というものが存在しているのではないか。小百合さんはそのことを教えてくれているのではないか。
 しかし、それは〈屁〉をめぐる天性の資質という問題なのかもしれん〜。どんなに天真であっても品のない中途半端な〈屁〉はユウウツきわまりない〜。


posted by 楢須音成 at 20:08| 大阪 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月08日

続・〈屁〉を止揚する「自屁否定」とは何だろ〜ヵ

 自分が今こっそりやってしまった屁(例えば、透かし屁)を否定するのは嘘をつく行為であるが、自分は全く〈屁〉をしない人間であると主張するのも嘘をつく行為である。この二つの嘘(自屁否定)は、もちろん区別されねばならない。前者は倫理的に問題のある嘘であり、後者は存在論的にも問題のある嘘なのであ〜る。

 前者の嘘は、リアルにそのときの自分が「恥ずべき行為=〈屁〉」をしたかどうかを言っていて、行動上のあるなしをめぐるものだ。要するに、自分は〈屁〉をする(ように存在に組み込まれている)にしても、今はしていないのだと言っている。

 後者の嘘は、自分は「恥ずべき行為=〈屁〉」をしない存在自体なのだと言っていて、一般的な人間からの超絶を宣言しているに等しい。しかし、人間は誰でも〈屁〉をするのであって、これは例外がないから、言葉通りの主張はそもそも誤謬だね。存在論的に〈屁〉の否定を主張したいと願望しても、せいぜい、自分は限りなく〈屁〉をしない(制御している)人間であるとか言うしかないのだ。

 ここで倫理的とか存在論的というのは〈屁〉を否定する根拠の所在を言っているわけさ。〈屁〉において倫理的とは「自分は人前で〈屁〉をしない礼節をわきまえている」という確信であり、存在論的とは「私は存在構造上から〈屁〉などしない」という事実になる。ただし、存在論的な否定は誤謬なのであるから、それを免れるためには「自分は限りなく〈屁〉をしない(制御している)人間である」と主張を代替せざるを得ず、それは極めて倫理的な態度の誇示に滑り込むことになる。

 このように自分の〈屁〉を否定する「自屁否定」の倫理的・存在論的な根拠を辿ってみると、結局は倫理的なところに帰着してしまうのだが、人間は存在論的な根拠(私は〈屁〉をしない人間である)を「装う」ことによって日常を振る舞っている。そういう自己欺瞞の〈屁〉的現象を背負っているのだ。つまり、我々には〈屁〉はあるのに〈屁〉はない(ように振る舞っている)のである。実際には、人間はお互いに〈屁〉をする存在であると密かに認識し合っているのにね。
 
 この世間では、そういう〈屁〉の擬制が築かれている。「自屁否定」の根底にあるのはそれだ。

 もう少し掘り下げてみよう。夫婦関係における「自屁否定」についてA面とB面という観点を用意したね。A面というのはどんな場面であろうと〈屁〉を無視して話題にしない態度である。B面というのは場面によって強弱はあるが〈屁〉を無視しないで話題にする態度である。どちらも「自分」の〈屁〉を意識して振る舞っているのだが、その根底にあるのが「自屁否定」という擬制なのである。

 ここでは夫婦関係ではなく一般的な他人との関係を念頭に置いて、そこに展開する個人の〈屁〉の心的擬制に焦点を置いてみる。
 よくおならをする娘、嫁入りに、婆と下女を連れて行き、まさかのとき羞(はじ)をかくすようにいいつけた。拝堂の時、思わず一つとりはずし、右手の婆を見て、
「まあ、この婆やったら」
 しばらくしてまた一つとりはずし、左手の下女を見て、
「まあ、この娘(こ)ったら」
 しばらくしてまたまた一つやらかし、左右を見たら、婆も下女もいない。そこで、
「まあ、このお尻のあなったら」
(新婦屁)

 このやりとりは中重徹の『一発』に紹介されている中国の小話である。B面世界の笑い話となっているね。ここでは〈屁〉は忌避されつつも無視されず(できず)、自分の〈屁〉なのに他人に転嫁する娘の欺瞞的な言葉を介して恥がキャッチボールされている。拝堂に臨んだ三人が(屁をこきながら)一言も発せずにすまし込み、まわりも一切知らん顔していたら封印されたA面世界ということになるわけさ。

 このように人間がとる振る舞いはA面とB面が表裏になっている。

 A面(否定的擬制)→〈屁〉を存在しないものとして(装って)話題にしない。
 B面(肯定的擬制)→〈屁〉を存在するものとして(装って)話題にする。

 このA面とかB面とかいうのは、人間関係が構成する各人の心的なスタンスのことである。ある家庭、あるグループ、ある民族というように人間関係は、関係性の観念化の程度に応じて一定の心的なスタンスをとるのだ。家風とか社風とか民族風とかいうものはその反映である。(まあ、我が家の場合はもちろんB面タイプなのだが、あなたの家ではA面タイプかもしれないわけさ)

 ややこしいのは、夫婦関係で見てきたように、集団においても、A面タイプだからといって〈屁〉をしないわけではないし、B面タイプだからといって〈屁〉は自由というわけではないのである。特にB面の「話題にする」という振る舞いは多岐にわたって出現するものだ。嫁入りで〈屁〉をした娘のように自分じゃないと悪あがきする人もあれば、奇矯にも〈屁〉をして自慢する人やら、他人の〈屁〉を不届き千万と追及する人…etc もいる。さらにややこしいのは、いままでA面だったのに、だんだんB面になるとか、その逆もあったりする。一般に日本では関係が親密になるほどB面傾向が顕著だと思われるが、全人類的に見回せば家族やグループや民族がA面だからといってそこに親密さがないというものでもないようだ。

 では、A面とB面を分けているポイントをもう少し整理してみる。

 A面(否定的擬制)→自他ともに〈屁〉はないものとして振る舞われていて、自他ともに〈屁〉を隠蔽する(あるのにないと見なした状態とする)→自他の恥の無視による無化
 B面(肯定的擬制)→自他ともに〈屁〉はあるものとして振る舞われているが、自分には〈屁〉は関係ない(制御の範囲にある)ように位置づける→自他の恥の注視による無化

 …とまあ、つまりは「恥の無化」という心的な振る舞いが根底にあると言わねばならないのである。そして、めざすところは同じだが、恥となる〈屁〉を「無視」するか「注視」するかということがスタンスの違いを生んでいる。

 もちろん「恥の無化」を実現するためには「自屁否定」を徹底させなければならないのだが、そこもまた〈屁〉の擬制構造の世界なのである。

 〈屁〉の無視(超越的隠蔽)→自他の〈屁〉を聞いても嗅いでも隠蔽して「黙秘(沈黙)」
 〈屁〉の注視(現世的受忍)→自他の〈屁〉を聞いたり嗅いだら受忍して「自供(告白)」

 いわば我々は永遠の〈屁〉の被疑者なのだ。そもそも〈屁〉は生まれながらの原罪(のようなもの)である。その罪に対して黙秘と自供は表裏の関係にある。被疑者たる我々は黙秘あるいは自供によって心的な解放と防衛を(正反対の態度で)希求している。それが「罪=恥の無化」ということだ。

 だたし、黙秘や自供をどう重ねても、背負った原罪は原罪であって消えることはないだろう。しかしそれでも、それが嘘であっても、沈黙や告白という人間の営為は、我々の心の平安に大いなる作用をもたらしていることも否めない。そこに含まれる「自屁否定」のあらゆる振る舞いは「恥の無化」という、なかなか到達できない心の旅路の果てをめざして、もがいたりあがいたりしているのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 19:26| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月13日

続続・〈屁〉を止揚する「自屁否定」とは何だろ〜ヵ

 人間は(美女であろうが美男であろうが…)誰でも〈屁〉をこくのである。こくのはいいが、そういう行為や屁そのものを隠そうとするものだから「こらこら、ちょっと待て」というか何というか、少々ややこしくなる。ま、かく言う音成も「自屁否定」にかけては人後に落ちないのだよ〜。

 ともあれ、我々の「自屁否定」の擬制構造は「恥の無化」を志向しているというのが、これまでの探求であったわけである。そして、その「恥ずべき行為=〈屁〉」は存在論的には否定できず、自分は限りなく屁から遠い存在である(=〈屁〉を完璧に制御している)という、自分の振る舞いの倫理的根拠によってのみ否定できるのであった。

 では、自分の〈屁〉の倫理的振る舞いは「恥の無化」を達成するのであろうか。残念ながら、どのように完璧に制御しても屁ガスそのものは身体内に存在(発生)しており、いつかそれは外に出て〈屁〉になってしまうのであるから、根本的に恥は無化できないのである。自分の〈屁〉がこの世界に存在すること、それが恥というものなのである。

 それでも礼節をわきまえ人前で〈屁〉をしない、うっかり粗相もしない、という完璧人間であれば、かなりの程度に恥を感じることはないね。しかし、完璧人間はいないのだ。そもそも礼節という心的コントロール(制御)の強度は〈屁〉の場合、身体的な制御力に大きく依存するのであるが、身体の偶発的な変動(不調・変調その他)によって〈屁〉は、心ならずも取り外すという不慮性につきまとわれている。このため、我々には潜在的にして顕在的な放出の危機感が常にあるのであり、それが増すほどに恥を鼓舞されるのである。(だから体調が不調・変調のときほど我々は、恥=危機感の強度が高いのであ〜る)

 このように「自屁否定」は身体に根ざして完璧には遂行することができないものなのだ。にもかかわらず、夫の前で自由闊達に〈屁〉をする吉永小百合さんのエピソードのように、それを乗り越える(ように見える)人たちがいる。それに、こういう人もいるわけさ。
 男のなかには、人と話しながら「ブーッ」と一発やって、まるで何事もなかったかのように、平然として話を続ける人がいる。眉ひとつ動かすでもなく、もちろんあやまったりはしない。
 ああ公明正大にやられると、聞いてるこっちの方があわてて、すっかり落着きを失ってしまう。しかし、こういう堂々たるおならをするには、なんと言っても人物がものを言うようだ。貧弱なやつがブーッとやったのでは、かえって椅子からからだが浮き上がるように見える。おならをするのも、途方もなく大きなウソをつくのとおんなじで、やっぱり人の器量の問題であろう。
(藤島茂『トイレット監督』1962年)

 これが単に無神経(無頓着)な振る舞いというのであれば、その態度の根底にも「恥の無化」はあるのである(参照)。ところが、藤島が驚嘆したように公明正大な徹底した「無視」ということであれば、すでに見たA面(3)の〈屁〉の振る舞いになっているわけだ。小百合さんの場合はB面(3)の振る舞いであった。

 A面(3)→放屁は自由だが〈屁〉を話題にせず公明正大
 B面(3)→放屁は自由だし〈屁〉を話題にして天真爛漫

 注目すべきは、藤島も石坂洋次郎も、これができるのは「人間の器量の問題」であるとしていること。そして我々ときたら、全く平気で〈屁〉をこく人を前にして「あわてて、すっかり落ち着きを失って」(自分で勝手に動揺し)ヒシヒシと圧倒されるのだ。相手の「器量」を感じてしまうのである。卑小で馬鹿にしているような人の〈屁〉だったらこうはいかない(だろなー)。

 A面とB面の(3)の極致で何が起こっているのだろうか。それは擬制構造である「自屁否定」の果てで何やら身体的・心的な反転(擬制の解消)が生起しているのではないのか。

 このA面とB面の(3)は、どちらも放屁を自由にしているわけであり、身体は解放されているね。これが100%(気兼ねなく)許されているならば(多分とても)幸福だろう。そういう状態は想像できないことはないな。しかし、A面では放屁を話題にしないが、B面では話題にするという違いがある。話題にする・しないというのは、言語化する・しないという意識なのだけどね。これをテレビCM表現との類比で考えてみた。(少々古いCMでスイマセンね)

 A面(3)の極致→〈屁〉を言語に解放せず沈黙で「私心のない公正さ」を表出→CM例「男は黙ってサッポロビール」(注1)
 B面(3)の極致→〈屁〉を言語に解放して言葉で「邪心のない純真さ」を表出→CM例「燃え尽きるように散ったゴッホの魂の色〜美しい日本の液晶。シャープ」(注2)

 例えば、このようなCMにおける表現技法が成功させている爽快感のように考えてみるわけであ〜る。言葉を削ぎ落としたCM(沈黙で語りかけるビール)と、言葉を重ねて物語ったCM(告白するように語りかける液晶)が、商品の訴求という同じ目的に向かって振る舞っていることから類比すれば、A面とB面の(3)は表裏の関係で〈屁〉の極致を表出するのだといえないか。CMの「ビール」と「液晶」を〈屁〉に置き換えてみればよい〜。(「(私は默って)屁」とか「燃え尽きる〜美しい私の屁」とか。ははは、ちょっと強引だな)

 まあ、いずれにしても、放屁自由の身体的解放のなかで初めてとり得る二つの対照的な態度によって、我々は「自屁否定」の擬制構造が解消する境地に達するのではないか。

 それは擬制の終焉であり、いわば〈屁〉からの解脱であり、超克である。要するに、そこには否定も肯定もなく、止揚された自由な〈屁〉が存在するだけ(か?)。しかしまあ、人間の境地として(深い詮索は音成にはお手上げだが)並の人間には達成できないだろうな。容易ではない。だから、人間の「器量」とか「天性の資質」とかを考慮せざるを得ないのだし、それが正直な実感でもあろう。

 我々のような平凡人は最初から境地=器量を転落しており、私心や邪心をむんむんさせて〈屁〉を振る舞い「自屁否定」しているのであ〜る。


(注1)音声はBGMだけ。渋面の沈黙男・三船敏郎がビールをゴクリと飲む。すかさずそこに「男は黙ってサッポロビール」のキャッチコピー。1970年代前半にサッポロビールが展開しインパクトを与えた。

(注2)吉永小百合の(天女のような)ナレーションに導かれて、ゴッホの「ひまわり」やアルルのひまわり畑がフルスペックハイビジョンの映像美で強烈にアピールされる。2007年秋から現在も放映中。

posted by 楢須音成 at 21:48| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月19日

平安京の〈屁〉のニオイはどこに

 いにしえの都は臭かった――平安京を「嗅覚」で分析した『平安京のニオイ』(2006年、安田政彦著、吉川弘文館刊)は面白かったのだけれど、残念ながら〈屁〉が出てこなかったのであ〜る。もちろん、ニオイとくれば、平安京にも〈屁〉はあったはずさ。

 ニオイというものは本来的に視覚性に欠けている(見えない)ので、もともと視覚が基本になっている描写(表現)には適さない(表現しにくい)のだが、「ミカンのニオイ」とか「潮のニオイ」とかのように視覚に根拠を持つニオイは、まだ表現の安定感がある。さらにニオイの「感じ」を伝えようとして「ミカンのつんつんしたニオイ」とか「潮のふくよかなニオイ」とか描写すると、「ミカン」や「潮」を足がかりに次第に主観的なニオイをにじませる表現になってくるのである。

 非視覚的な〈屁〉は、誰がしたかは別にして出所(つまり肛門)は明らかであるが、徹頭徹尾その正体を見せないで漂う存在だ。これは同じ気体でも視覚性のある「煙」などとは違うのであるし、ニオイを伝播して心地よさを喚起したり時には暴力的な脅威をもたらす「風」とも違う。また、平安京にはニオイだけが漂う、ある種のガス体(酸素とか水素とかはニオイも色もないので発見以前の非存在)も存在したかもしれないが、ガスなどという概念は近代になってからのものなので、この頃の〈屁〉はガスですらない。

 で、平安京の〈屁〉の認識はどうだったんだ?―というのが、この本を手にした動機。まず本のねらいを語っている部分を引用しておく。
 そこで人が生活をする以上、生活から切り離せない排泄・廃棄物・死などがあり、生活のにおいがあったはずである。近年こそ清潔志向も相俟って生活臭はしだいに遠ざかりつつあるが、そうした様々な臭いは昭和の時代の半ばまでは当然の如く私たちの生活環境にもあったし、それをさして不快にも思わなかったはずである。
 同様に平安京にも様々なにおいがあったはずである。日常的なにおいは記録にとどめられることは無く、明らかにすることは困難だが、排泄や死の臭いはある程度想像することが出来る。また、われわれのにおいの経験から、生活環境に存在したであろうにおいを推測することも可能であろう。本書では、そうした平安京のにおいの一面を掘り起こし、平安京の生活環境が、私たちの感覚からすれば、決して住み良いところではなかったであろうことを述べてみたい。
 その一方で、香の文化を芸術にまで高めた平安貴族の世界が、臭い(不快なにおい)の環境のなかで、匂い(心地よいにおい)に囲まれて生活していたであろうことも述べる。現代でもそうであるように、一方に極端にかたよったにおいの世界があったわけではない。平安貴族が臭い環境の中で、匂いをどのように感知していたのかについても述べていく。

 なるほどね、ニオイをこのように見るならば、我々の〈屁〉はどのように位置づけられるのか。それは身体から発する生活臭であろうが、糞尿とも違うし、やはり独特の位置づけがあるのではないだろうか。かくして、この本に〈屁〉を辿ってみると、トイレを考察する章に〈屁〉に関する記述があったのであ〜る。
 『古今著聞集』の話はこうである。

 女房の局に密かに通う法師が、ある夜、この局で「しと」(尿)がしたくなり、女房に「いずくにか、穴ある」と尋ねる。女房は「その棹の下にこそ、穴は侍れ。探りてしたまえ」と教える。法師は穴を見つけたのだが、折悪しく「屁」をしたくなり、尿とともに屁がでるのを堪えていたところ、女房は穴がわからないのだとのだと勘違いして、教えるつもりで手を法師の脇へ差し入れたため、法師はくすぐったがり、「穴に取り当てたる摩羅もはづれて、しと散々にはぜ散ら」せてしまう。その結果、「隣の中へだての、穴のありけるしと(尿)通りて、遣戸のそばに寝たりける女房の顔にかか」ってしまうのである。

 保立(道久)氏は、女房の局のような部屋にも、わざわざあけたものか、ただの節穴に過ぎなかったのかは別として、小用のための「穴」があったと指摘する。さらにこの「穴」は、おそらく部屋の隅の方にあったにちがいないが、法師と女房の会話から、「穴」の存在は当然視されていたように思うと述べ、この「穴」は女性も使用するものであったのではないかと推測している。また「穴」が竹製の衣紋掛け(「棹」)に懸けられた着物の後側になり、そこに褻(日常、ケガレ)の場として隠されていたとするのである。

 これって「穴」を説明するために〈屁〉はたまたま出てきた記述になっている。ここでは〈屁〉は考慮されていないのだ。この話は(滑稽な〈屁〉の話として)音成も知っていて、女房といい関係だった法師が〈屁〉を我慢した挙げ句に「屁と小便」を粗相する失敗談である。いつか〈屁〉の制御について考えるときに取り上げてもいいなーと思っていたものだ。(だって、屁と小便をしたいときに屁を我慢すると小便は出ないし、小便をすると屁も出でてしまう。何でやねん、というより、これは格別に危機的状況なのだよね)

 安田は都市構造や災害などの記録や、今昔物語や源氏物語などの文献を渉猟しながら、平安京のニオイを探索・推定していく。昔の都市は糞尿や死骸の処理に悩んでいたことがよくわかる。都市の異臭は地区、街区、場所、住居などの生活空間を濃くも薄くも満たしていた。

 が、結局のところ、法師の〈屁〉だけがちらりと顔を出したきり、ついに最後まで〈屁〉はテーマの流れから浮かび上がってこなかった。残念。安田が言うように日常的(当たり前)だったり、関心のないニオイは記録されなかっただろうしね。まして〈屁〉などは隠蔽(無視)されたんだろうな。糞尿や死骸の臭いに彩られた都では貴族たちが香の文化を育み、匂いの理想を追い求めたのだったが、そこに〈屁〉が入り込む余地はなかったんだろうな。貴族の濃密な香の文化の極致では、異臭である体臭の芳香化を夢見るという倒錯的にして観念的な嗜好(エロチシズム)へと昇り詰めているのに。糞便臭の〈屁〉ではこうはいかんか。(ついつい不満口調になってしまうねェ)
 『源氏物語』後半は、薫の君の体香、移り香がにおいの中心となる。
 源氏の君最晩年(52歳)を描く幻の巻では、「すぐにそれとわかる匂いがただよって隠れようもないほどである」とする薫の君の身体から発する芳香(御人香)のこうばしいことは、この世の匂いとも思われない(「香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず」)。不思議なまでに、薫の君の立居のあたりから遠く隔たったところまでただよう追風も、真実百歩の外まで匂ってゆきそうな風情が感ぜられる(「まことに百歩の外もかをりぬべき心地しける」)のであり、この薫の君のする芳香にことのほか張り合う気持で、あらゆるすぐれた香をたきしめる(「わざとよろづのすぐれたるうつしをしめたまひ」)匂宮(兵部卿宮)がいる(匂宮の巻)。
 「源中納言は、かうざまに好ましうはたき匂はさで、人柄こそ世になけれ」(紅梅の巻)とあるように、薫の君ははたき匂わさなくとも、生まれつき匂いを発するのである。薫の君はちょっと身じろぎしただけで、身体から芳香がただよい(「うちふるまひたまへる匂ひ)、動けば紅梅の花よりもきわだった匂いを漂わせる(「立ち寄るけはひの花よりもしるくさとうち匂へれば」)。それは薫の君が帰ったあとまで香ばしさが残りただようほどに強い匂いである(「なごりさへとまりたるかうばしさを、人々はめでくつがへる」)(以上、竹河の巻)。こうした特別な体香をもつ薫の君と、それに劣らず香をたきしめる匂宮という人物設定が『源氏物語』後半のにおいの描写を特徴づける。

 ここまでくるのなら例えば、いい匂いのする〈屁〉とかでエロティシズムを漂わせる文学が開花してもいいんじゃないかねー。こういう場面を〈屁〉で置き換えると、なかなか凄いことになる。しかし、後世の〈屁〉の歴史的展開を見ても、そういう方向には走っていないわけさ。

 一つには多分、古来から日本では〈屁〉を気にするときは、ニオイよりは主に音だったというのが音成の意見である。体臭などとは違って、なぜか〈屁〉はニオイの文化(情報の表現)ではなく音の文化の方になびいたのではないか。ニオイのこの本で〈屁〉が登場しないホントの理由はそれかな?
posted by 楢須音成 at 07:40| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月23日

〈屁〉の凄味におののく一発がある〜

 芸の凄味というものに、つくづく感じ入ることがあるね。大昔だが田舎者の音成少年が、フォーク系の歌手が(売れてる人も売れてない人も)何人も出てくるマラソンコンサートというものを初めて体験したときのこと。疲れ果てた終わりの方で、何だかなー、ちょっと場が違うんじゃないの〜という感じで、ギラギラした歌謡曲の歌手が登場したのである。何を歌ったのか全く思い出さないのだが、いやー驚いた。マイクなんか関係ない圧倒的な声量と肉厚な表現力を間近に見て(聴いて)ぶっ飛んだ。

 次の場面は、桂小五郎の愛人だった芸妓・幾松がお座敷で新選組の面々にセクハラされてるところに、助っ人で飛び込んだ幇間の権介が、場をとりなそうと必死の芸を見せるところである。芸に免じて場をおさめるというのは、古来よりある処世のワザだが、きわどく危険なワザである。下手糞な芸では逆効果なんだからさ。斬り殺されても文句は言えん〜。(ここは、長唄をうなる♪気分で声を出してみてほしい…)
「それじゃ、お囃子さん『二人椀久(ににんわんきゅう)』といきやしょう」
 部屋の隅で小さくなっていた囃子方の芸妓に声をかける。
「幾松姐さん。いい喉聞かせておくんなさい」
 彼女にも目くばせして、手早く尻はしょりした。
「いざ」

 ♪たどりゆく今は心も乱れそろ 末の松山思いの種よ

 座は急にパッと明るくなった。
 (中略)
 ♪干さぬ涙のしっぽりと 身にしみじみと可愛遊佐の それがこうしたもの狂い
 ♪ブーブーブブブ ブブブビビッ

 巨大な放屁音に居並ぶ新選組の面々肝をつぶした。
 ♪知恵も器量も皆淡雪と消ゆるばかりの物思い
 ♪ブビビビブブブビビビービブブー

 尻を落し、中腰のまま権助は舞い始めた。
「立ちっ屁というのははじめてだ」
 この芸はいままであまりやったことがない。腹の中の空気が端から漏れるのである。
「人間必死になれば出来るもんだな」彼は自分で自分の芸に感心してしまった。

 ♪思いざしなら武蔵野なりと 何じゃ綾部の薄盃を……

 ここで三味線と笛が長々と入る。屁を小刻みに連射しなければならない。
 彼は真っ赤に上気した顔を打ち振った。
 いつの間にか座に居並ぶ侍たちも手を握りしめて聞き入っている。

 得体の知れぬ〈屁〉を前にして、固唾をのんでいる侍たちの腹はさぞかし痛いほど緊張していたことであろう。このあと、めでたく幾松の救出は成功する。侍たちを唖然とさせた〈屁〉の凄味によって場はとりなされたのであ〜る。東郷隆の小説「放屁権介」(1986年)は幕末の大坂・京都で放屁芸をもって幇間になり、勤皇方について間諜のようなことをしながら、〈屁〉をこきこきスリリングに激動の時代を生きた人物の物語である。

 作品の中の〈屁〉は曲屁(きょくひ)という「芸」として現象している。こういう作品の眼目は何といっても芸の頂点(凄み)の描出である。頂点が描かれなければ面白くならないが、この作品では単に放屁の巧みなことばかりでなく、下手すりゃヤバい「命の危機」と隣り合わせにして凄味を浮き立たせ、効果的に盛り上げている。作品のポイントになる技巧だ。

 クライマックスは、蛤御門の変の争乱で、桂小五郎といっしょに京都から大坂に逃げ延びようとして番所で引っかかった場面。「我々はちっとも怪しい者ではない」という証に曲屁を披露することになる。小五郎が唄い、権介がこく。
「では、いくぜ」

♪漢(から)にては放屁というもの
♪上方にては屁をこくといい
♪関東にてはひるといい
♪都のお女中はオナラというなり
♪その語(ことば)は異なれども
♪鳴ると臭きは同じことなり

 桂が唄い出した。流石、三本木で浮き名を流しただけあって、彼の喉は玄人はだしである。これならまず立派に芸人で通るだろう。
 権介は、例の立ちっ屁で舞いながら、

♪その音に三等あり……

 で、まずブッ、と巨大な音を出し人々をびっくりさせた。いつもの手である。その後、
 
♪ブッと鳴るもの上品にして、その形円(まる)く
♪ブウとなるもの中品にして、その形飯櫃形(いびつ)なり
♪スーとすかすもの下品にして細長くして少し平たし

 で、音を少しずつたわめて出しすぼめた。
 その技最も精妙。
 プルプル、ビリビリ、ブウブウとひり分け、三味の音が終る頃には、桑名藩兵、通行人、駕かき、馬方までが、手を打ち足を踏み鳴らしたという。
「わかった、その方ら、通行あい許す」
 番所の指揮者は、あまりのおかしさに、両眼へ一杯涙をためていった。
 後年、木戸孝允伝の中に、木戸公自らちょんがれ節を唄い番所を抜けた、とあるが実際には、これである。

 そのときの、やんや、やんやの大喝采は凄かったろうな。この辺が権介の頂点であったようで、その後のエピソードは〈屁〉のようにかすんで伝わっているばかり。それで、この放屁権介って実在の人なのか。もちろん、小説では実話だと強調して出典も列記してあるのだけどね。ふーん。

 一言=人間追いつめられると思わぬ力を発揮するにしても、天性の素質ってものもあるのであ〜る。

posted by 楢須音成 at 00:07| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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