2008年02月24日

候文で〈屁〉を語るとは

 歴史的仮名遣い(古〜い遺跡を語るようなすごい言い方だねー、と昔から思うんだけど)を使う人は現代でもいるが、いまどき候文を使う人はいないね(いるかもしれない?)。口語としては早くに廃れてきて、鎌倉時代には手紙とかに使われる文語体になっていたらしい。

 まあ、文章語というのは、多かれ少なかれ紋切り型であり、形式的であって、いささか堅苦しいものではあるが、そこが文章心理の効用(形式にことよせて語る)にもなっているわけさ。

 候文は江戸時代の文章(公用文、実用文)に広く使われ、明治になっても学校で教えられた。使われなくなった現代からみると、持って回っていかにも物々しく感じられる文章には違いない。これで〈屁〉を語った文がある。福富織部の『屁』にある戯文を紹介してみよう。
醫者をョむ文
 藪醫者(やぶいしゃ)殿に頭を下げてョむのは、誠に強腹(ごうはら)の事乍(なが)ら、用事のある時は仕方なき事故(ことゆえ)、手紙壹本(いっぽん)差出候(さしだしそうろう)。然らば昨夜手前共の神様の佛壇へ猫が犬の糞を垂れ候故(そうろうゆえ)、此奴(こやつ)悪い奴だと存じ、矢庭(やにわ)に半弓の鐵砲(てっぽう)を振廻して、只(ただ)一捻(ひね)りに踏殺して呉れんと追駈(おいかけ)候處(そうろうところ)、流石(さすが)は鳥類だけあつて、塀を越えて泳(およい)で逃れるの際、鼬(いたち)の屁を放つ掛けられ、身體(からだ)一面眞黄色に相成(あいなり)、殆んど屁功(へいこう)致し候間(そうろうあいだ)、後學の為め一寸(ちょっと)御來診の上、命に別條のない藥を頂戴致し度(たく)此段(このだん)屁突(へいつく)張つて奉願候(ねがいたてまつりそうろう)。

同返事
 損書(尊書をかける)這見(拝見をかける)致候(いたしそうろう)。然れば奇君(貴君をかける)儀(ぎ)昨夜屁間(へま)を働き鼬に屁を放つ掛けられ、御困りの由、成程(なるほど)奇君の如き澁紙色(しぶがみいろ)の身體へ、屁の上塗りをすれば餘程妙な物にて、定めし一種飛び離れた五色外の色艶(いろつや)が出來致し候事と存ぜられ候。然る處、豫(かね)て誤笑痴(ごしょうち)の通り、清盛さんは屁の病と稱す如く、鼬の最後屁を放掛(ひっか)けられたるは、如何なる迷醫(めいい)にても鼻を撮(つま)んで逃げる奴、迚(とて)も屁癒(へいゆ)は覺つかなきのみならず、奇君は全體(ぜんたい)面(つら)の皮の厚い質(たち)にて、何程(なにほど)藥を差上候(さしあげそうろう)ても、是までに藥代診察料とては、目腐銭一文も御遣し(つかわし)相成候(あいなりそうろう)ことは更に無之(これなく)、醫者にして藥をロハで呑(のま)れては、何とも醫者仕方なきに付、屁々拜々(へいへいはいはい)と参上致し兼ね候間(そうろうあいだ)是より君の名を屁氣野屁左衛門(へのへのへいざえもん)と御改め、其の屁色のまゝ御暮し相成候方(あいなりそうろうかた)、却りて人の目につき一際(ひときわ)可笑觀屁(おかしかんべい)と存じ候に付、此段(このだん)御屁ん事(ごへんじ)旁(かたがた)申進候也(すすめもうしそうろうなり)。
(西森武城著 滑稽作文)

 最初の手紙は医者への要請だね。仏壇に糞をした猫を追いかけたのだが、イタチの最後ッ屁をひっかけられてしまった。全身が黄色くなったので、あなたの後学のためにも、ちょっと来診していただき、薬を頂戴したい、と医者に訴えている。もちろん、おふざけである。

 これに対して医者の返事。手紙の主をさんざん嘲弄しながら、これまで少しの金も払ってもらったたことないし、タダで薬を飲まれるのは嫌だし、参上いたしかねるとキッパリ断っている。こちらをいつものテキトー訳(逐語訳ではない)してみる。
 尊書(損書)拝見(這見)しました。さて奇なる君は昨夜へまをしてイタチにへをひっかけられてお困りとのこと。なるほど奇君のような赤黒い肌の体にへの上塗りをすれば何とも奇ッ怪、きっと五色以外の飛び離れた色つやになっているのではないかと思います。ところで昔から、御存じ清盛入道はへの病気だったと言われているように、イタチの最後ッぺをひっかけられたのでは、どんな迷医も鼻をつまんで逃げるもので、とてもとてもへのへー癒(平癒)は無理です。もともと奇君は面の皮の厚い人ですし、これまでどんなに薬を差し上げても、薬代や診察代をビタ一文頂いたことはありません。医者が薬をタダ飲みされては何とも慰謝にもなりませんし、ヘイヘイハイハイと気軽に参上などできませんので、これからは奇君は名前を屁気野屁左衛門と改め、そのへの色のまま暮らしていかれることが、かえって人の目についてひときわ可笑しかんべーと思います。なので、御へン事かたがたこのことをおすすめする次第です。

 大体こんな感じの断り状である。
 可笑しいね。イタチの最後ッ屁で体が黄色くなったので治してほしいという、あり得ない事実から出発しているやりとりだが、そういう虚構性から強引に敷衍していく手際が面白可笑しいわけなのだ。ここはただただ〈屁〉の言葉遊びと連想で引っ張っているね。

 患者と医者。切り込めば突っ返すという洒落っ気たっぷりのぶつかり合い。その応対ぶりは「毒を以て毒を制す」であって、虚言と架空の倍返しといった趣だ。実体のある内容はな〜んもないのである。

 候文をまとって〈屁〉が意味ありげに振る舞うときのこの笑いは、候文(という実用の形式)なのに実は(まともに相手にすべき)意味がないという背離によって生まれているんだね。このとき〈屁〉は候文によって面白可笑しく構築し直されているというべきだ。

 まあ、候文は現代では死語である。いまどき候文を〈屁〉には関係なく真面目に使っても笑われる。このように候文で〈屁〉を語っても面白可笑しさは半減しているのかもしれないけどね。


ラベル:死語 医者 候文
posted by 楢須音成 at 16:03| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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