2008年02月18日

〈屁〉の喧嘩に勝者はいない〜

 悪い噂を立てられたり、中傷されたりすることがあるね。それが真実でない場合は腹立たしい限りだが、実は事実であったとすると、まことに苦々しいものとなる。もっとも、それが屁(が臭い)ということになると、苦々しいというより敗北感がひとしおだ。

 福富織部の『屁』に出典は不明だが、こんな江戸の小咄が載っている。音成のテキトー訳で紹介してみよう。
 禄高の少ないある武家の奥方が女中の二三人と、忠義な実盛役の斎藤森右衛門をお供につれて江戸橋あたりを通ったときのことだ。近くの髪結所に若い衆が四五人いて「あの奥様はいいケツをしているなァ」「いやァ、あれは臭いぞ」などと喋っているのが、森右衛門の耳に入った。森右衛門、立ち止まって「おのれ何をぬかす、大事な奥さまを臭いなどとは聞き捨てならぬ。今一度ぬかしてみよ」と刀の柄に手をかけ抜かんばかり。だが、江戸者の常でこれぐらいの脅しではビクともしない。「何のことでェ、赤鰯(さびた刀)をひねくり回してどうする気だ」「けしからん奴め、なぜ臭いと言いおった」「臭いから臭いと言ったがどうした。とんだ間抜けの阿呆ゥじゃねえか、あんな頬べたの赤い女に、臭くねえのがあったら二つとねえ首をやるべい」「いいや、臭くはない」「いや、臭い」と大喧嘩。当の奥方は橋のたもとに立って待っていたのだが、ふと懐からそっと手をやって嗅いでみて言った。「コレコレ、森右衛門、是非はともかく、どうあがいても喧嘩はこっちの負けじゃ」

 なかなか含蓄の深〜い話ではないか。作品の眼目は最後のオチにあるのだけれど、口さがない江戸の町人や、一途な忠義者や、頬の赤い奥方が登場しての町なかの立ち回りに笑ってしまう。これは要するに、よくある現象としての〈屁〉の真実が表現されているのであるさ。

 町人たちの初めのうちの「臭い」は(ダサイとかのイメージっぽいもので)必ずしもナマの屁を意味しているわけでもなかったのだろうが、喋ったり喧嘩しているうちに次第に屁は具体味を帯びていく。ついには奥方のナマの屁として決定的になるやりとりが眼目になっているわけである。

 しかし、最後の奥方の言葉が放射する、その笑いはどこか複雑ではありませんかね。心から笑えますか。馬鹿正直なのか天真爛漫なのか、奥方の潔く負けを認める姿勢からは、ほとんど敗北感(悔しさ)は伝わってこないのだけど、我々の笑いはその振る舞いの表層だけに焦点を結んでいるのではないようだ。

 なぜなのか。そもそもは自分の〈屁〉もまた臭いからである。これは逃れられぬ自分自身の根源的な(悪臭の)認識なのだ。だから、そういう〈屁〉を指摘されると傷つく(恥ずかしい)ことになる。ところが、奥方にはそういう素振りがない。なぜか〈屁〉を隠蔽しない人なのだった。

 奥方の意表を突く振る舞いによって我々は裏切られたのである。奥方は「屁の真実」を語っているには違いないが、そもそも人は〈屁〉を隠蔽するのであるから、実は「人間の真実」の振る舞いではないのだ。

 奥方には「屁の真実」を語ろうとするときの、あって然るべき心の葛藤がないね。屈託がないのだ。こういう人を目の当たりにすると、まあ、笑うわけである。ここは(普通には)女らしく恥ずかしがったり、慌てて隠蔽したり、ごまかしたりしてほしい。それが我々が期待する観察(観賞)の一般的な枠組みなんだけどね。

 一方〈屁〉は万人が抱え込んでいるものであって、誰も無縁ではいられない(場合によって深刻な恥をもたらす危険な)代物である。とにかく臭いという烙印は羞恥の極みなのであるから、奥方を笑いながらも、我々は自分を振り返る意識の陰で居心地の悪さを感じないわけにはいかない。そもそも自分の〈屁〉は臭いのだし、人のこと笑える?

 いや、それでも笑ってしまう枠組みが、この小咄の含蓄なんだけどさ。奥方は身分はそう高くなくとも、恥を感じなくてはならない立場にあることは暗黙の前提だね。人生(世間)のお作法という意味では誰だって〈屁〉は恥じねばならない規範であるのに、奥方は(身分にもかかわらず)少々ずれていらっしゃる。このずれが馬鹿(愚女)なのか無垢(聖女)なのかは問わないにしてもね。

 奥方がこんな調子で、遠慮のない町人たちの黒を黒だと暴こうとする下馬評は少々あざとく、忠義な森右衛門の黒を白だと言い張る態度は少々向こう見ず。そういう三者のちぐはぐな振る舞いが織りなす江戸の〈屁〉の風景というわけである。

 こう読んでくれば、自分が背負っている「屁の真実」の受容がどういうものであるかがわかるね。しかも〈屁〉は自分だけが背負っているんじゃない。奥方も町人も森右衛門も、そして読者も〈屁〉はどうあがいても臭いのだよ。そういう現実を隠蔽している(あるいは隠蔽しようとしている)ところに、〈屁〉というものは悲劇喜劇を現象させる。誰でも全員〈屁〉は臭〜い。その真実をこの小咄は笑いの陰からふっと教えてくれるのさ。

 一言=誰でも〈屁〉が臭いのに喧嘩になるのは、自分以外の人の〈屁〉が臭いのは許せないからであ〜る。


posted by 楢須音成 at 00:28| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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