2008年02月01日

同質と異質のオナラ三国志

 人間の放屁が文化現象であるという認識は、それが単なる生理現象ではないという「気づき(視点)」によって明らかとなる。放屁という行為のただ事ならぬ様子について、日本、中国、韓国の差異を考察する一章を用意した『裸の三国志――日・中・韓 三国比較文化論』(金文学著、1998年、東方出版刊)によれば、三国のなかでよくオナラをする順番は、一位が中国、二位が韓国、三位が日本であるという。

 日本人=人前で放屁する人をほとんど見かけない。
 韓国人=駅のトイレとか銭湯など、放屁をする人を割合よく見かける。
 中国人=路上、バス、地下鉄、映画館、教室、パーティなど、どこでも放屁する人を見かける。

 このように金は三国のそれぞれの放屁を観察しているが、こんな現代小咄も紹介している。
 公共の場所で誰かがいきなりポーンと鳴らしたとする。このとき、日本人ならば当事者は顔を赤らめ、まわりの人たちは默ったまま笑おうともしない。むしろ自分が疑われるのではないかと心配する人もいる。
 韓国人なら当事者が赤面しながらニッコリ笑い、まわりの人も悪気なく笑う。
 中国人なら放屁をした人が笑いながらまわりの人に向かって「いったい誰がやったんだ」と陽気に話しかける。
 さすが「放屁文化」の大国、中国人だねぇ。

 これらの観察は日本人はあまり屁をしない(頻度が低い)ということを示しているわけではないと思うね。人前ではしないだけ。もともと(草食性の)日本人はよく屁をする民族である。この三国の差は羞恥心のあり方を示しているように思われるわけさ。

 金は特に中国人の放屁についてその文化の特性を語る。東洋一の放屁文化だと言っているが、その理由の一つを中国人の食性に求めている。豆類、ジャガイモ、サツマイモ、饅頭などの油っぽい中華料理はよく屁が出るというわけだ。また、韓国人は日本人より肉食を好むと指摘している。この食性と屁の関係の論議は大雑把すぎるにしても、三国の比較は面白いと思うね。誰か志のある専門家に是非検証してもらいたいものだ。

 金が描く中国人の放屁は他国の他人事として見ればスゴイ光景になっている。
 (至る所で中国人が放屁することを述べて)ことに蒸し暑い夏に、満員電車に乗ると、体臭や口臭、靴の臭いにオナラの臭いまで混ざって死ぬ思いになることもよくある。
 「誰がこんなガスを……場所柄を考えてよ」と、たまらず文句を言い出す若者もいる。
 銭湯での放屁の風俗図は最も見物だ。衛生状態があまり良くない銭湯の中で平気でオナラをする人が多い。湯船の中でオナラをすると気泡が起きて水面に上がってくる。それが面白くて若者たちが放屁試合をする光景にもよく出会う。
 日本人や韓国人の目には、中国人がいかにも不衛生に映るかもしれないが、それは生活感覚、生理感覚の違いなので、速断するのは誤解を生じるもとになりがちである。きわめて清潔好きな日本人や韓国人と違って、中国人にとっては余計な排泄物を体外に排出してしまうことは恥ではなく、日常生活の習慣そのものなのである。

 中国では街中でタン(痰)を吐く人が多く、北京オリンピックを前にして、北京市内でタン吐き禁止キャンペーンが始まったとか聞くと、屁についての金の説明がかぶってくるね。もちろん、国や民族によって生活・生理感覚の基準が違うわけだから、屁やタンをまき散らすことが直ちに不当ということではないにしても、外国人を意識したエチケットに照らして禁止を強制せざるを得ないことにもなる。

 しかしまあ、放屁禁止キャンペーンというのは聞かないねェ。そもそも屁は見えない物体であるし、実害といっても一過性のものであるし、ゆえに後始末がウヤムヤではあるわけで、屁(ごときもの)で、まなじり決してキャンペーンを張っても腰砕けになりそうだ。笑っちゃう? (タンでも十分笑えるんだけどさ)

 金は放屁がお盛んな中国人は「屁」の字と縁の深い民族だとも指摘して例をあげている。
 毛沢東が『人民日報』一九七六年元旦の社説で、旧ソ連修正主義に対して発した「不許放屁(デタラメ言うな!)」というのはあまりにも有名な話である。敵の理論を「屁」で攻撃したのは中国人にふさわしい発想ではなかろうか。

 中国語では「屁」を使った表現が多いようだ。金が挙げているのは次のような例。フツーに日常的表現で「屁」という字が躍っているが、どうやら軽んじて馬鹿にした感じをこめて使われているようだね。

 屁股=尻
 屁話=つまらない話・くだらない話
 屁事=つまらない事
 屁眼子=尻の穴(肛門)
 你知道個屁=(相手をけなして)何がわかるかッ
 你放狗屁=馬鹿なことを言うなッ
 狗屁不値=何の値打ちもない
 狗屁不通=理屈に合わない
 有屁就屁=話があれば言え

 こう見てくると、日中韓の屁の文化は興味深いテーマだね。この三国は〈屁〉においてそれぞれが個性的なのだ。少なくとも三国三様の姿(心的構造)は思想風土をも深く深く支配しているに違いない。そういう〈屁〉の民族的実態は究められてもいいはずであ〜る。


ラベル:三国志 中国 韓国
posted by 楢須音成 at 23:25| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月07日

〈屁〉の観念性を孕んだ花になる〜

 屁糞葛(ヘクソガズラ)という植物がある。葉や茎から発する悪臭がもとでこんな名前を付けられたのである。そこまでズバリ言わんでもと思うし、あからさまで遠慮がないというか、まあ、あっけらかんとしているといえばいえるね。感心するのは、ヘクソカズラは季語として、正統に詩歌に詠み込まれていることだ。

 Googleで「ヘクソカズラ」を検索してみたら54,000件もヒットした。植物愛好家が丁寧な解説をしてくれている。まあ、この名前には同情的な人が多いね。姿は可憐な花なのだ。ちょっとリンクを辿ってみるといくつか俳句や短歌が拾える。結構ある。
みなでかぐへくそかづらのへのにほひ 三宅やよい
へくそかづらてふ名にも似ず花やさし 新倉美紀子
団塊の世代へくそかずらかな     中島まゆみ
葛を吹くへくそかづらを吹きし風   後藤夜半
表札にへくそかづらの来て咲ける   飴山實

くだらぬ物思ひをばやめにせむ 何か匂ふは屁臭葛か        若山牧水
秋さればへくそかづらの花にさへ うすくれないゐのいろさしにけり 尾山篤二郎

 広辞苑では「アカネ科の蔓性多年草。山野・路傍などに普通。葉は楕円形。全体に悪臭がある。夏、筒形で、外面白色、内面紫色の小花をつけ、果実は球形、黄褐色に熟す。ヤイトバナ。サオトメバナ。古名、くそかずら。漢名、牛皮凍。季語、夏」とある。ヤイトバナ、サオトメバナという別名を持っているね。

 ヤイトはお灸のこと。ヤイトバナとは、紅紫色の花の中心がお灸をすえたあとのように見えるからとか、子供が花冠をはりつけてお灸遊びをしたからとか言われている。サオトメバナ(早乙女花)というのは、その可憐な花の姿からだろうけど、賞めすぎという人もいる。まあ、どちらも、ありがちな(普通の)ネーミング法ではあるね。

 しかし、いくら臭いとはいえ、可憐な花にヘクソカズラという命名はどういう動機なのか。古きを訪ねると万葉集にヘクソカズラの歌が一首だけ出てくるが、そこでもそのココロはうかがい知ることはできない。
 さうけふに延(は)ひおほとれる屎葛 絶ゆることなく宮仕へせむ 高宮王(たかみやのおおきみ)
 ※ソウキョウ(カワラフジ、サイカチ)の木にからみついたクソカヅラのように、絶えることなくいつまでも私は宮中にお仕えします。

 ヘクソカズラは、昔はクソカズラと言ったことがわかる。そこに、あとになってトドメを刺すように、これでもかと「糞」の上に「屁」を付けたわけだ(意地悪な強意=イジメか?…笑)。まあ、イヌフグリとか草木にはとんでもない名前もある。これなども「犬の金玉袋(ふぐり=陰嚢)」を連想させない、春に咲く可憐な青紫の花だ。平然と詩歌に詠まれている。別に奇をてらっているわけではないからね。
いぬふぐり星のまたたく如くなり  高浜虚子
犬ふぐりはりつきて咲く地べたかな 細見綾子
犬ふぐり野川かがやきついて来る  米谷静二

 この平然と詠まれるところが何ともなところだ。もちろん、句に悪い印象などみじんもない。さりげなく句は早春の道端の鮮烈な光景を浮かび上がらせるのだ。このとき「犬の金玉袋」は言葉通りの意味をなしてはいないわけさ。意識は(普段は違う意味で使っている)「犬の金玉袋」を口走りながら可憐な花を真面目に意識しているのである。ここに名前(言葉)の不思議がある。そういう意識(命名)の二重構造(落差)は意味性の輝きを隠微にリフレッシュする仕掛けとでも言おうかね。それは日常性が淘汰される構造の一つだ。この心的運動の刺激は純真でもないかな。

 さて、ヘクソカズラの場合、同型とはいえ少し様子が複雑である。イヌフグリは小さな果実の形状が「犬の金玉袋」に似ているためにそういう名前が付いたというのだが、ヘクソカズラは臭いニオイだからなのだった。片や視覚(形状)で、片や嗅覚(ニオイ)である。ニオイからストレートに形象化されたのは「屁」であり「糞」であった。このニオイは糞便臭という、人類にとって最も根源的な悪臭なのだ。ヘクソカズラはこのニオイをいつも発していて、まあ美人が常時、透かし屁をしているような状態なのだねー。
  
  ヘクソカズラ=可憐な花→臭いニオイがする→屁、糞
  イヌフグリ =可憐な花→果実が犬のふぐりに似ている→犬、ふぐり

 ここで気がつくのは、ヘクソカズラ(屁と糞)は見えないものから連想されていることである。嗅覚によって花が不意撃ちされている。もともとの古名がクソカズラだったわけで、当初は「糞」だけの連想だったのだ。これに「屁」が付いた理由は端的に「糞」だけでは物足りなかったからなのさ。つまり「屁」こそが表現の構図の本命なのである。

 可憐な花にニオイが漂うとすれば(糞など見えないのだから)むしろ屁でなければならないのであ〜る。

 前出の詩歌を味わってみよう。「団塊の世代へくそかずらかな」とか「みなでかぐへくそかづらのへのにほひ」とか、ヘクソカズラは風景を超えて我々にある種の観念性や行為を呼び起こすことも可能にしているね。イヌフグリ(の姿)は「犬ふぐりはりつきて咲く地べたかな」のように風景の中に慎ましく輝くのみだが、ヘクソカズラ(のニオイ)は我々のいろいろな思いや動きを分泌するのである。ヘクソカズラにあるのは、まさに〈屁〉ゆえの功徳(〈屁〉の観念性)と言わねばならない。

 ヘヒリムシも功徳の多い虫であったよなァ。

 一言=「糞」葛に「屁」を付けたのは美人の(糞ではなく)透かし「屁」に耳を澄まして思いを語るスタンスなのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 07:36| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

屁をこく自由の国の一家

 例によってアラノ星(PLANET ARANO)では屁毒が問題だ。最悪の場合には致死に至るのだから、それに屁なんて誰でもするのだから、その一発が危険極まりないのである。最近も事件発生。シャイナ国の屁衛生管理の悪い食品会社が、ウカツにも冷凍芋に他国の屁毒を付着させて売り出したため国中が大騒ぎになった。

 もっとも、シャイナ国は歴史的に多民族国家で、国民相互の屁の免疫性はとても高い国民性ではあったのだ。ゆえに、付着した程度の屁毒にあたっても食中毒症状程度で済んだのだが、たまたまシャイナ国を訪れていた外国人は致命的なダメージを受けて死者が続出してしまった。この事態に弱腰になった(?)政府は第三国の報復を恐れて国境線に軍隊を配備して屁武装した。

 アラノ星では国家間の人や物の行き来は厳しくチェックされてはいたのである。何しろ微量でも異国人の屁にあたると死んでしまうのだからさ。アラノ星において国際的であること、すなわち屁衛生的であること(人前で絶対屁をしない)は国家間における近代的マナーなのであって、この恐ろしい自分たちの屁の取り扱いを巡ってこそ同盟や協定が結ばれ、平和が維持されるという屁の政治力学が展開しているわけである。

 今回の冷凍芋だが、芋の原産は芋作りが得意な隣国のチョイナ国だったのである。シャイナ国はそもそも原産国チョイナにおいて屁毒汚染が行われたと主張した。ふむふむ、チョイナ国では屁毒を濃縮した屁爆弾を実験しており、大気の屁毒汚染が問題視されていたのだからね。そりゃ怪しいわー。

 チョイナ国ではこの指摘に激しく反発し、国境に屁武装の軍隊を配備して「陰謀だ。あり得ない。無実だッ」と断言した。するとシャイナ国は、採取分析された屁毒がチョイナの毒であることを明らかにし、さらに一歩踏み込んで「友好を阻害し我が国を混乱に陥れようとする(チョイナの)浪漫派へロリストの仕業だッ」と主張した。

 この浪漫派とは、農業国チョイナ国の貧しい芋作農民から台頭した秘密結社で、屁の自由を求め「屁をこく自由の国」を標榜し、所構わず屁をこく社会の実現を主張する一派だった。もちろん、「その言や愚の極みぞ、やたら屁をして死んだらどうするか、あほッ」と激しく弾圧された。そりゃそう、屁毒がきつい(一番くさい)のはチョイナ国人の特徴なんだからさ。自由な屁を許したら下手すれば亡国の主張にもなりかねないのである。

 自由を求めるあまり(確かにアラノ星人にとって放屁は極上の快感だが…)、現実(相手に死を含むダメージを与える毒性)を忘れた(かのような)チョイナ浪漫派の主張は、周辺国でも警戒された。というか、享楽的でアナーキーな危険思想にしか見えなかったのである。しかし彼ら浪漫派は、屁の自由を通じて人間性の解放を夢見ており、敬虔な芋作によって日々の糧を得つつ、主ヘリストを讃美して放屁高吟・放屁三昧する「浪漫生活」を理想とした。

 もともとチョイナ国特産のサッツマ芋はアラノ星人の一番の好物であるのだが、くさい屁毒をエネルギッシュに産出せしめる危険と背中合わせの要注意食品である。それゆえにサッツマ芋を麻薬のように扱い、輸入を禁じている国もあるほどだ。治安が安定して国民も冷静なシャイナ国では禁輸はしていないものの、加工パッケージされた冷凍芋として準薬物扱いで販売されていた。

 さて、冷凍芋の騒動では、チョイナ国もシャイナ国も過敏になって、相手を非難するばかり。閉鎖的なアラノ星の国家間においては、何もしていない振る舞いが無罪の根拠であり、被害者であることが優位の証しでもある。もともとの芋自体には問題はないとすれば、考えられる推理は次の通りだ。

(1)そもそも、チョイナ国民は屁毒が強く、国はそれを濃縮して兵器開発を行い国土を汚染している。サッツマ芋が汚染されていた可能性は高いだろう。ただし、チョイナ国は国外に持ち出されるものすべてにチェック体制は万全と宣言し、芋は完璧なクリーン環境で洗浄済みだったと主張しているのだ。

(2)だがだが、冷凍芋の屁毒がチョイナ国のものであることは明らかである。もちろんだからといって、輸出の主要な相手国という友好関係があるのだから、チョイナ国の意図的な悪意の行為があったと見なせるものではないだろう。

(3)まてまて、それではシャイナ国の食品会社の工場の意図または過失という疑いはなかったのだろうか。そりゃ疑いはあるわけだが、企業が自滅するような悪意は論外であろうさ。食品会社は完璧にクリーンな環境を公開したし、さらにまた食品に屁毒を盛る自虐的な自国のヘロリストの侵入は絶対不可能とする施設と警備を強調した。だから、恐らく最初からサッツマ芋に付着していたのだろう。

(4)はてさて、ではシャイナ国が主張したチョイナ国の浪漫派による仕業という説は一方的すぎないか。この説は自分の国が原因ではないと主張する割には、何ら明確な証拠(事実)を提示していないし、歯切れが悪いね。察するに多分、チョイナ国に潜り込ませているスパイ情報に基づく憶測ではないのか。強硬に主張してしまうと、情報ルートがバレる恐れがあるに違いないから、ここは嫌疑を匂わせる先制的なサゼッションによって、チョイナ国の対応(不手際の反省)を求めたものであろう。

(5)いやいや、以上は事件の真相の表面を穏健に解釈するものだ。この事件が落着する筋書きには、実はシャイナ国の深い策謀があるに違いない。真相は逆にシャイナ国のヘロリストが国内攪乱を意図してチョイナ国の屁毒を持ち込んだらしいのだ。これを隠蔽するためシャイナ国はチョイナ国の仕業として転嫁しようとしているのだろう。

(6)ほおほお、そんなことが言えるのなら、この事件は、チョイナ国の防諜機関がシャイナ国に滞在する第三国の外国人を謀殺するためにやったのだという情報があるぞ。ネライはシャイナ国ではなく第三国の攪乱だ。チョイナ国でのサッツマ芋の出荷の段階か、潜入したシャイナ国の食品工場の段階か、どちらかで屁毒の混入が実行されたのだろう。

(7)ふむふむ、さすれば事件は陰謀だ。しかし、事実は何がどっちでこっちやねん。両国ともに国境の軍隊を増強しているが、戦争になるんか?

 その頃、チョイナ国の芋作農民の一家が緑の丘陵をのんびりピクニックしていた。眼下には広大な芋畑が広がっている。父親が朗々とヘリストを讃えて高吟しながらブウと一発こくと、母親と三人の子供たちも尻を振り振り明るく屁をこいて笑い合った。一家の屁は山からのさわやかな風に乗って芋畑の方にずんずん流れていった。そこでは屁は自由だった。どんな音もニオイも許し合えた。もたらされるのは極上の快楽だったのである。もちろん、そういう屁の毒性は強い。
ラベル: 軍隊 浪漫
posted by 楢須音成 at 22:29| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月18日

〈屁〉の喧嘩に勝者はいない〜

 悪い噂を立てられたり、中傷されたりすることがあるね。それが真実でない場合は腹立たしい限りだが、実は事実であったとすると、まことに苦々しいものとなる。もっとも、それが屁(が臭い)ということになると、苦々しいというより敗北感がひとしおだ。

 福富織部の『屁』に出典は不明だが、こんな江戸の小咄が載っている。音成のテキトー訳で紹介してみよう。
 禄高の少ないある武家の奥方が女中の二三人と、忠義な実盛役の斎藤森右衛門をお供につれて江戸橋あたりを通ったときのことだ。近くの髪結所に若い衆が四五人いて「あの奥様はいいケツをしているなァ」「いやァ、あれは臭いぞ」などと喋っているのが、森右衛門の耳に入った。森右衛門、立ち止まって「おのれ何をぬかす、大事な奥さまを臭いなどとは聞き捨てならぬ。今一度ぬかしてみよ」と刀の柄に手をかけ抜かんばかり。だが、江戸者の常でこれぐらいの脅しではビクともしない。「何のことでェ、赤鰯(さびた刀)をひねくり回してどうする気だ」「けしからん奴め、なぜ臭いと言いおった」「臭いから臭いと言ったがどうした。とんだ間抜けの阿呆ゥじゃねえか、あんな頬べたの赤い女に、臭くねえのがあったら二つとねえ首をやるべい」「いいや、臭くはない」「いや、臭い」と大喧嘩。当の奥方は橋のたもとに立って待っていたのだが、ふと懐からそっと手をやって嗅いでみて言った。「コレコレ、森右衛門、是非はともかく、どうあがいても喧嘩はこっちの負けじゃ」

 なかなか含蓄の深〜い話ではないか。作品の眼目は最後のオチにあるのだけれど、口さがない江戸の町人や、一途な忠義者や、頬の赤い奥方が登場しての町なかの立ち回りに笑ってしまう。これは要するに、よくある現象としての〈屁〉の真実が表現されているのであるさ。

 町人たちの初めのうちの「臭い」は(ダサイとかのイメージっぽいもので)必ずしもナマの屁を意味しているわけでもなかったのだろうが、喋ったり喧嘩しているうちに次第に屁は具体味を帯びていく。ついには奥方のナマの屁として決定的になるやりとりが眼目になっているわけである。

 しかし、最後の奥方の言葉が放射する、その笑いはどこか複雑ではありませんかね。心から笑えますか。馬鹿正直なのか天真爛漫なのか、奥方の潔く負けを認める姿勢からは、ほとんど敗北感(悔しさ)は伝わってこないのだけど、我々の笑いはその振る舞いの表層だけに焦点を結んでいるのではないようだ。

 なぜなのか。そもそもは自分の〈屁〉もまた臭いからである。これは逃れられぬ自分自身の根源的な(悪臭の)認識なのだ。だから、そういう〈屁〉を指摘されると傷つく(恥ずかしい)ことになる。ところが、奥方にはそういう素振りがない。なぜか〈屁〉を隠蔽しない人なのだった。

 奥方の意表を突く振る舞いによって我々は裏切られたのである。奥方は「屁の真実」を語っているには違いないが、そもそも人は〈屁〉を隠蔽するのであるから、実は「人間の真実」の振る舞いではないのだ。

 奥方には「屁の真実」を語ろうとするときの、あって然るべき心の葛藤がないね。屈託がないのだ。こういう人を目の当たりにすると、まあ、笑うわけである。ここは(普通には)女らしく恥ずかしがったり、慌てて隠蔽したり、ごまかしたりしてほしい。それが我々が期待する観察(観賞)の一般的な枠組みなんだけどね。

 一方〈屁〉は万人が抱え込んでいるものであって、誰も無縁ではいられない(場合によって深刻な恥をもたらす危険な)代物である。とにかく臭いという烙印は羞恥の極みなのであるから、奥方を笑いながらも、我々は自分を振り返る意識の陰で居心地の悪さを感じないわけにはいかない。そもそも自分の〈屁〉は臭いのだし、人のこと笑える?

 いや、それでも笑ってしまう枠組みが、この小咄の含蓄なんだけどさ。奥方は身分はそう高くなくとも、恥を感じなくてはならない立場にあることは暗黙の前提だね。人生(世間)のお作法という意味では誰だって〈屁〉は恥じねばならない規範であるのに、奥方は(身分にもかかわらず)少々ずれていらっしゃる。このずれが馬鹿(愚女)なのか無垢(聖女)なのかは問わないにしてもね。

 奥方がこんな調子で、遠慮のない町人たちの黒を黒だと暴こうとする下馬評は少々あざとく、忠義な森右衛門の黒を白だと言い張る態度は少々向こう見ず。そういう三者のちぐはぐな振る舞いが織りなす江戸の〈屁〉の風景というわけである。

 こう読んでくれば、自分が背負っている「屁の真実」の受容がどういうものであるかがわかるね。しかも〈屁〉は自分だけが背負っているんじゃない。奥方も町人も森右衛門も、そして読者も〈屁〉はどうあがいても臭いのだよ。そういう現実を隠蔽している(あるいは隠蔽しようとしている)ところに、〈屁〉というものは悲劇喜劇を現象させる。誰でも全員〈屁〉は臭〜い。その真実をこの小咄は笑いの陰からふっと教えてくれるのさ。

 一言=誰でも〈屁〉が臭いのに喧嘩になるのは、自分以外の人の〈屁〉が臭いのは許せないからであ〜る。
posted by 楢須音成 at 00:28| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

候文で〈屁〉を語るとは

 歴史的仮名遣い(古〜い遺跡を語るようなすごい言い方だねー、と昔から思うんだけど)を使う人は現代でもいるが、いまどき候文を使う人はいないね(いるかもしれない?)。口語としては早くに廃れてきて、鎌倉時代には手紙とかに使われる文語体になっていたらしい。

 まあ、文章語というのは、多かれ少なかれ紋切り型であり、形式的であって、いささか堅苦しいものではあるが、そこが文章心理の効用(形式にことよせて語る)にもなっているわけさ。

 候文は江戸時代の文章(公用文、実用文)に広く使われ、明治になっても学校で教えられた。使われなくなった現代からみると、持って回っていかにも物々しく感じられる文章には違いない。これで〈屁〉を語った文がある。福富織部の『屁』にある戯文を紹介してみよう。
醫者をョむ文
 藪醫者(やぶいしゃ)殿に頭を下げてョむのは、誠に強腹(ごうはら)の事乍(なが)ら、用事のある時は仕方なき事故(ことゆえ)、手紙壹本(いっぽん)差出候(さしだしそうろう)。然らば昨夜手前共の神様の佛壇へ猫が犬の糞を垂れ候故(そうろうゆえ)、此奴(こやつ)悪い奴だと存じ、矢庭(やにわ)に半弓の鐵砲(てっぽう)を振廻して、只(ただ)一捻(ひね)りに踏殺して呉れんと追駈(おいかけ)候處(そうろうところ)、流石(さすが)は鳥類だけあつて、塀を越えて泳(およい)で逃れるの際、鼬(いたち)の屁を放つ掛けられ、身體(からだ)一面眞黄色に相成(あいなり)、殆んど屁功(へいこう)致し候間(そうろうあいだ)、後學の為め一寸(ちょっと)御來診の上、命に別條のない藥を頂戴致し度(たく)此段(このだん)屁突(へいつく)張つて奉願候(ねがいたてまつりそうろう)。

同返事
 損書(尊書をかける)這見(拝見をかける)致候(いたしそうろう)。然れば奇君(貴君をかける)儀(ぎ)昨夜屁間(へま)を働き鼬に屁を放つ掛けられ、御困りの由、成程(なるほど)奇君の如き澁紙色(しぶがみいろ)の身體へ、屁の上塗りをすれば餘程妙な物にて、定めし一種飛び離れた五色外の色艶(いろつや)が出來致し候事と存ぜられ候。然る處、豫(かね)て誤笑痴(ごしょうち)の通り、清盛さんは屁の病と稱す如く、鼬の最後屁を放掛(ひっか)けられたるは、如何なる迷醫(めいい)にても鼻を撮(つま)んで逃げる奴、迚(とて)も屁癒(へいゆ)は覺つかなきのみならず、奇君は全體(ぜんたい)面(つら)の皮の厚い質(たち)にて、何程(なにほど)藥を差上候(さしあげそうろう)ても、是までに藥代診察料とては、目腐銭一文も御遣し(つかわし)相成候(あいなりそうろう)ことは更に無之(これなく)、醫者にして藥をロハで呑(のま)れては、何とも醫者仕方なきに付、屁々拜々(へいへいはいはい)と参上致し兼ね候間(そうろうあいだ)是より君の名を屁氣野屁左衛門(へのへのへいざえもん)と御改め、其の屁色のまゝ御暮し相成候方(あいなりそうろうかた)、却りて人の目につき一際(ひときわ)可笑觀屁(おかしかんべい)と存じ候に付、此段(このだん)御屁ん事(ごへんじ)旁(かたがた)申進候也(すすめもうしそうろうなり)。
(西森武城著 滑稽作文)

 最初の手紙は医者への要請だね。仏壇に糞をした猫を追いかけたのだが、イタチの最後ッ屁をひっかけられてしまった。全身が黄色くなったので、あなたの後学のためにも、ちょっと来診していただき、薬を頂戴したい、と医者に訴えている。もちろん、おふざけである。

 これに対して医者の返事。手紙の主をさんざん嘲弄しながら、これまで少しの金も払ってもらったたことないし、タダで薬を飲まれるのは嫌だし、参上いたしかねるとキッパリ断っている。こちらをいつものテキトー訳(逐語訳ではない)してみる。
 尊書(損書)拝見(這見)しました。さて奇なる君は昨夜へまをしてイタチにへをひっかけられてお困りとのこと。なるほど奇君のような赤黒い肌の体にへの上塗りをすれば何とも奇ッ怪、きっと五色以外の飛び離れた色つやになっているのではないかと思います。ところで昔から、御存じ清盛入道はへの病気だったと言われているように、イタチの最後ッぺをひっかけられたのでは、どんな迷医も鼻をつまんで逃げるもので、とてもとてもへのへー癒(平癒)は無理です。もともと奇君は面の皮の厚い人ですし、これまでどんなに薬を差し上げても、薬代や診察代をビタ一文頂いたことはありません。医者が薬をタダ飲みされては何とも慰謝にもなりませんし、ヘイヘイハイハイと気軽に参上などできませんので、これからは奇君は名前を屁気野屁左衛門と改め、そのへの色のまま暮らしていかれることが、かえって人の目についてひときわ可笑しかんべーと思います。なので、御へン事かたがたこのことをおすすめする次第です。

 大体こんな感じの断り状である。
 可笑しいね。イタチの最後ッ屁で体が黄色くなったので治してほしいという、あり得ない事実から出発しているやりとりだが、そういう虚構性から強引に敷衍していく手際が面白可笑しいわけなのだ。ここはただただ〈屁〉の言葉遊びと連想で引っ張っているね。

 患者と医者。切り込めば突っ返すという洒落っ気たっぷりのぶつかり合い。その応対ぶりは「毒を以て毒を制す」であって、虚言と架空の倍返しといった趣だ。実体のある内容はな〜んもないのである。

 候文をまとって〈屁〉が意味ありげに振る舞うときのこの笑いは、候文(という実用の形式)なのに実は(まともに相手にすべき)意味がないという背離によって生まれているんだね。このとき〈屁〉は候文によって面白可笑しく構築し直されているというべきだ。

 まあ、候文は現代では死語である。いまどき候文を〈屁〉には関係なく真面目に使っても笑われる。このように候文で〈屁〉を語っても面白可笑しさは半減しているのかもしれないけどね。
ラベル:死語 医者 候文
posted by 楢須音成 at 16:03| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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