2008年01月05日

屁詮議に神様が登場するのは何でだろ〜ヵ

 身内が集う正月には騒動が起こることがあるねー。
 そのとき、一家の主は上機嫌で酒杯を傾けつつ音のしない屁を、こっそり何ら罪人の顔をせず(恐らく多分)放発したのだった。鼻をつまむニオイ源に対して湧き起こる疑惑と追及の視線の交錯。やがてそれは老若男女入り乱れて屁詮議(誰が屁をしたかの詮索)となる。まわりが身内であるがゆえの気安さ、また許し難さもあって、その場の者たちは濡れ衣を着ぬよう、表面は冗談めかしてワイワイガヤガヤ「お前だろ」「違うわよ」「じゃ誰だ、君か」などと譲り合うばかり。証拠はないものの、実は犯人の目星はついているのだ。すました顔で鼻をつまみ屁詮議に加わっている(常習犯の)当の一家の主を名指しできないだけなのであ〜る。

 はてさて、そこではとにかく我々は、その〈屁〉は「自分でない」という事実または願望を実現しようとする熾烈な闘争に突入しているのであった。

 日本の〈屁〉の神様(屁ひりの神)は、こういう場面に登場する。
 紛糾している屁詮議の場で屁ひりの神がすることとは、冷厳に〈屁〉をした「犯人を指摘する」こと。この神様は普通「べろべろの神」とも呼ばれているのだが、「べろべろ」とは「べろ=舌」に由来するらしく、真理をのたまう(正直な)神様の含意があるのである。

     べろべろの神すかし屁に呼出され

 そもそも日本の〈屁〉の神様は古事記にも出てこないし、その出自は曖昧で、系統だった神格の正統性がない。まあ、とにかく江戸時代になって川柳やまじないの中に存在が記述されるようになるのだが、この神様は広く全国各地で出現を要請されてきた。

 福富織部が『屁』の中で屁詮議について語っていて、ここでも神様(べろべろの神)が見え隠れしているので引用してみよう。
 此の放屁者詮議の方法は、地方々々に依つていろいろある。關東地方では木の枝を折つて鈎(かぎ=L字の形)となし、それを兩手でもみ廻しながら、「べろべろの鈎は、誰れが放(ひ)つた、彼が放つた、放つた方へ、ツル向け」と云つて、鈎の先の向かつた者が放つたことになる。叉、「屁と火事は元から出る」と片端から一二三と順に數へて行つて、最後に當たつたものが放つたことになる方法もある。
 之が陸中の方へ行くと、「なむさい、むさい(或いは臭い)べろべろの鈎は、とうたい鈎で、誰や放つた、彼や放つた、放つたものにちよつちよつ向け」と云う。上總の方では、「べろ、かべろ、正直~で、誰が屁を放つた、放つた方へつんむけ」となる。日向の延岡では、「かねじよかねじよ、誰の方を向くか……」といふのであるが、文句は多少異なつてゐても其のやり方は大體同じである。
 南方熊楠氏の説に依ると、紀州地方では満座の中で屁を放つた本人が確かに知れぬ時、「一極(いちきわめ)めの法」と云つて、その砲手(うちて)を露はす。其の時歌ふ詞がある。いま、和歌山縣田邊地方のものを述べると斯うである。
 屁放(へーへ)りへないぼ(尻に出來る腫物、甚だ痛む)放(へ)つた方へちやつと向けよ、猿の尻(けつ)ぎんがりこ(胼胝Callosity=タコの方言)猫の尻灰まぶれ、屁放(へ)つた子は、どこの子でござる、此の子で厶(ござ)る、だーれに中(あた)つても怒り無し。
 思ふに、屁を放りながら、默り隱す奴は、天罰を受けて臀(いさらい=尻)腫れるか、猿の尻のやうに堅くなるか、猫の尻の如く灰に塗るべしと脅す意味だとある。
 舌を出して黄色かつたら其の者が放つたことになるのは、各地方共通の穿鑿(せんさく)法であるらしい。

 織部は屁詮議の空転に決着をつけるものとして、唱えごと(=まじない)をする習俗を紹介しているわけである。その根拠として屁ひりの神が呼び出されている。この神様は〈屁〉の指摘に善と超能力を認められた神には違いないのだが、犯人が知れたからといって、ありがたく感謝されるというものでもないようだし、とても希薄感が漂う神様ではあるわけさ。ともかく「犯人を指摘する」という、多分ただそれだけのために登場願ったもののようだね。

 しかしながら、我々にとって屁ひりの神の登場は屁詮議に活路を見出すものなのだ。
 その場の誰もが犯人を断言できないとき、屁詮議はいつまでも続くことになるね。たとえ犯人がわかっていたとしても、それを口にできないときがあるのが屁詮議の心理戦なのである。しかし、神様にはそんな人間界のことは関係ない。

 神様は「べろ、かべろ、正直~で、誰が屁を放つた、放つた方へつんむけ〜」と言われれば、必ずや誰かをひょいと指さす。

     べろべろの神すかし屁のぬしをさし

 このとき、心浅ましき凡人は懐疑するかもしれない。屁ひりの神はいつも正直(正確)なのだろうか、と。しかし、それはしてはならない態度と言わねばならない。

 なぜなら屁ひりの神は、その場の全員の合意のもとに呼び出されたのだ。我々はまじないの呪文を唱えながら、身の危険も何もかも、すべて引き受ける覚悟ができているはずだ。それは終わりのない屁詮議(日常)に決着をつける我々の根源的な決意の儀式(のパターン)なのである。どんな神様でも神は神さ。我々は、我々自身を超えるものに敬虔である。というか、そうであらねばならないのであ〜る。

     屁ひりの神は正直で嫁安堵

 決着がつけば、そこには(一人を除いて)濡れ衣を着ずにすむ幸福がある。真犯人が(誰であろうと)指摘された以上、真理は貫徹されたのである。屁ひりの神の指摘の段階で、濡れ衣という問題は(個人を超えて)決着してしまったのだ。泣いても笑っても「べろべろの神すかし屁のぬしをさし」なのである。

 濡れ衣というこの世の不幸を(納得ずくで)解決するために屁ひりの神は登場する。我々は一致して神様を呼び、難問の解決を願い、神様の前で捨て身の賭けに打って出る。屁詮議の決着に屁ひりの神の降臨と調停は有効である。その調停によって我々は厳しい現実を受け入れる。濡れ衣すらも。しかし、決して決して濡れ衣を正当化するためにお呼びするのではない。

 もちろん、神様の指摘が一家の主をハズしたとしても、誰も文句を言ってはならないのであ〜る。


posted by 楢須音成 at 10:33| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

続・屁詮議に神様が登場するのは何でだろ〜ヵ

 誰が〈屁〉をしようと一向に気にしない人も、実は一番してはいけない(と気にしている)のは自分の〈屁〉なのである。なぜなら、他人の恥はともかく、自分の恥は許せないからだ。我々は常に他人の前で〈屁〉を抑制して〈屁〉のない自分を装っているわけさ。

 もちろん、我々は自分一人のときだけは何発〈屁〉をしようとかまわないし、それを恥じることもない。そこに誰もいなければ、それがえげつない音を発しようが、鼻モゲるほどのニオイを充満させようが、問題とするに値しない。それは自分だけの生理現象であり、まあ、退屈なときのお尻のタメ息のようなものであり、ときには密かな愉悦を感じての吐息だったりするのだ。つまり自分の〈屁〉は、音は心地よく、臭くもないのである。(なかには一人のときの自分の〈屁〉に罪悪感や恥を感じる自虐的な人もいるが、そんな殊勝な人は一般的ではないはずよ〜)

 このような我々の基本的な態度の心的構造は少しばかり複雑だね。不可避に生産され腸内に膨満する〈屁〉というものを抱え込んだ我々は、放発の瞬間、そこにいた他者と関係を持つ限りにおいて、それを自分の恥とするのだが、そこに誰もいなければ、無感覚ないしは愉悦を覚えてしまう。このとき〈屁〉は、見られる(というか、存在を知られる)羞恥という点ではペニスかヴァギナと同じような身体の感覚圏内にあるが、粗相した異音異臭の透明(見えない)気体という醜悪な身体性によって、他者の前では恥辱・嫌悪が強烈に呼び覚まされるのである。(しかし、性器との類比には〈屁〉が性的なものに昇華していく根拠があるのだけれども)

 我々は〈屁〉の存在を極力隠蔽する。この隠蔽は自分にも他人にも(すべての人間に)組み込まれた心的構造であることを知っている。つまり、それは「私は醜悪な〈屁〉をするが、あなたもするさ。でも、私はあなたの前では絶対しないし、あなたも私の前ではしないよね〜」という、我々の公然の合意事項なのである。ただし、それを決して口にすることはないし、ほとんど意識することもない合意事項として心的に構造化されているのだ。

 誰かがこっそり〈屁〉の一発を放散すると、犯人捜し(屁詮議)が始まる。これは、お互いが(自分の屁を)隠蔽しているという、合意の共犯関係が崩れるからだ。誰かの裏切りに我々は腹を立てる一方で、とても慌てる。濡れ衣を恐れ、疑心暗鬼に陥る。この状態は精神的な苦痛をもたらさないわけにはいかないね。仮に自分が犯人であったとしたら、いよいよ隠蔽に隠蔽を重ねるわけだから、暴かれそうな状況は危機的な苦痛をもたらす。切迫する苦痛から逃れようと、ついに全員が犯人捜しを始めるのである。

 屁詮議という場が構成される根源の動機は、濡れ衣を着ぬため、あるいは自分の〈屁〉を隠蔽するためという自己防衛にあるが、自分の無罪の証明はかなり困難であるね。考えてみると、
(1)犯人を特定する物証がない。
(2)全員が自分は犯人ではないと主張する。
(3)老若男女貴賤を問わず誰もが〈屁〉を抱えているのであり、犯人の可能性がある。(屁は平等に宿る)
 ――という点で無罪の立証はかなりの困難をきたすのである。

 こういう集団の状態は疑心暗鬼の張り詰めた均衡といえる。もっとも、内心の緊張とは裏腹に屁詮議の場というのは、表面は穏やかなものである場合が多い。怒りをこらえてお世辞を言うのと同様の、ある種の屈折した心情がそこにはある。そのうえ、延々と犯人捜しは空転するのだ。我々は議論の場での堂々巡りを嫌うし、議論の蒸し返しに疲れるのだが、屁詮議の空転は、これまた疑心暗鬼の不毛の荒野である。(1)〜(3)の同時成立が維持される限り、誰もが平等に疑わしいまま犯人は浮かび上がってこない。

 このようなとき、我々には「苦しい時の神頼み」という行動パターンがあったね〜。

 これは、古代から世界各地で神判や神明裁判という公認の「制度」としても存在してきた。要するに神意によって事の真偽や正邪を判断しようという呪術的解決法ないしは制度が用意された。日本でいえば、『日本書紀』に出てくる盟神探湯(くかたち)が知られているが、そこでは正しい人は熱湯の中に手を入れてもヤケドをしないという神判が行われている。

 神判というスタイルで神意(正義や真実)を聞くには、我々は理性を超える関門(テスト)を通過しなければならないのであるが、熱湯どころか真っ赤に焼けた鉄を握ったり、毒を飲んだりすることだってアリなのだ。だから、「みんなで毒を飲むぞ。屁をした奴だけが死ぬのだ。神よ!告げたまえ〜」という具合に、神判によって過激に屁詮議の決着を図ることも考えられるのである。

 毒を飲むのに比べたら、屁詮議に屁ひりの神が登場して〈屁〉をした者をひょいと指さすというのは、神頼みの中でもすこぶる穏健な方法だね。見方によっては「これは不幸者を決める単なるクジ引きではないか」となるわけだが、ただの引き当てるクジではなく、しっかりと神様が登場してお裁きをしてくれる(神意を示す)神判として機能(演出)しているんだよ。

 そもそも屁詮議が過激に走らないのは、すでに指摘したように基本的に〈屁〉が共犯関係の中で隠蔽されるものであるからだ。さらに、屁詮議の場における我々には(1)〜(3)の条件を貫徹している、平等に全員が被疑者であるという受け身のスタンスが混入しているからである。過激な神判の別の側面(神の不在)は拷問であ〜る。自分たちにそういう過激さを引き寄せるのは「百害あって一利なし」ともいえるわけさ。

 ともあれ、とにかく神様が登場すれば、それは神判だ。屁詮議の場の全員が一致して(嫌々ながらであったにしろ)呼び寄せた屁ひりの神に願をかける集団行為は、自らの「真実」を獲得しようとする自己中心の行為の集合体である。その集団行動は一方的に押し付けられる神判(裁く者と裁かれる者という関係)に導かれたのではなく、全員が「濡れ衣を着ないぞ」という決意と期待をこめて自らを担保に、正直の神様を呼び寄せたのである。まあ、つまり、それは平等な条件下の賭けなのだね。

 こうなると、どんな結果が出ようと文句が(言いたくても)言えないさ。毎度、競馬で損しても、宝籤が当たらなくても、後になって「詐欺だ」と騒ぐ人はいない。それは納得ずくで参画してしまったシステム(装置)なのだ。

 しかし、そうは言っても、今も昔も人は現実という不条理の世界で神様(の裁き)を素直に信じるだろうか。

 損得勘定を含めて何かを不条理であると感じたときに、我々は不条理というものを知るのだが、不条理への怨念は広く深く世の中に渦巻いているよねー。怨念のある限り、世の中に公平や平等などありはしないのさ。そもそも現実は不条理なのだ。だ〜からこそ我々は、人生の賭けに打って出るのだが、そのとき自分が払う犠牲(担保)の勇気と崇高さは、神様(の裁き)の意志と崇高さに匹敵する。そういう(不遜だが、神と)等価の錯覚が我々を身震い(陶酔)させる。我々が神様(の裁き)を信じるのは、自分を超えたものと〈崇高さ〉をキャッチボールする、そういう一途な心的構造(運動)なのだ。

 話は〈屁〉だったね。だから、膠着した屁詮議で「じゃあ、神様を呼ぼう」という提案は、理不尽の一語で容易に却けられない衝動があるだろう。しかし危険には違いないね。濡れ衣を着るかもしれない危険を冒して参加せねばならないのだ。このときの決意(心の飛躍)は、自分を超えたもの(神様)に導かれ迫られ、自分を賭して受け入れる神聖なる賭けである。

 こうした場面は全員が同じ(平等な)地平にあるのが条件だ。同じであること(みんなで渡ること)によって文句(異議)が言えない。そして神判の結果、あっさりと犯人は指摘される。指摘は「真実」だ。「真実」とは神様が犯人を裁断し我々に啓示した、その「世界」である。その「世界」に濡れ衣などは存在しないのだった。

 かくして何はともあれ、真犯人は挙げられ濡れ衣の危機は去るのだが、あるいは懐疑的な人がいるかもしれない。本当に彼は犯人なのか、濡れ衣ではないのか、と。しかし、我々は屁詮議という時空間(集団)を神様との「共同体」として契約したのである。神様への懐疑はタブー(禁忌)なのだ。

 そのとき、神様の裁断を受け入れるのに何の後ろめたさがあろうか。

 その場に全く関係のない第三者が、屁ひりの神の神判を理不尽(不公平)であると観察したとしても、屁詮議に参加した当の我々にとって神様が示した「真実」が真実なのだ。第三者が濡れ衣の人の存在を観察したとしても、当の我々には文句(異議)などあり得ない。第三者が真犯人の存在を観察したとしても、当の我々には神意以外の「真実」などあり得ないのである。

 しかも自分が神意によって犯人になったとしても、我々はそれを受け入れる。つまりそれは、古代の盟神探湯で熱湯に手を突っ込んでヤケドするのと同じだ。あるいは、ヤケドする前に受け入れるのと、同じだ。そこには、不条理の解決を願う観念の自己運動が臨界値となり、自爆するように受け入れてしまうアンビバレントな「真実」というものの本質があるのさ。

 しかしながら、それでもなお「真実」に抗して「私ではない」と主張する人がいるとしたら、それは自らが神様になるほかないだろうね。そういう神様志向の人ばかりだと、平等や公平が民主主義を装うことによって終わりのない屁詮議を繰り広げるほかないであろうよ。

 かくして屁詮議に屁ひりの神が登場するのは、全員が納得して現実世界の「真実」を受け入れる通過儀礼の一つなのであ〜る。それは全員でルビコンを渡る共同体の後戻りできぬ意志なのだ。
posted by 楢須音成 at 01:34| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月19日

続続・屁詮議に神様が登場するのは何でだろ〜ヵ

 一家の主なのであるから(特段の理由にもならんかな)親族内で起こっている現象の観察者として振る舞ってみたい。いま透かした〈屁〉の犯人を特定しようと全員一致で神様を呼び出したところだ。この屁詮議のルビコンを渡った全員が(観察者である音成の)眼前にいるとしようよ。そこには一人の犯人が挙げられている。観察によれば、その犯人は間違いなく「濡れ衣」を着せられているな。しかし、このとき濡れ衣の犯人を含む全員は屁ひりの神(べろべろの神)の神判を受け入れているのだ。その(濡れ衣の)犯人である我が甥は「エー、俺なの〜」と、指摘されて初めて気がついたようなウッカリ者の声を発し、犯人であることをなぜか納得してしまったところだ。(馬鹿言え、誰がそんなもん納得するかッ、徹底抗戦だッ!という人はいるだろうねえ。ま、ここは、半信半疑でもとりあえず、心から納得していると思ってほしいのだが)

 神判による屁詮議の決着は民主主義ではないのである。あくまでも決着は神頼みであって、事が紛糾して何が何やら分からない状況下においては「苦しい時の神頼み」へと詮議(集団)は一致して傾いてしまうのだ。それを鼓舞するスタイルは様々あれどもね。

 このときの全員の「真実」を極めんとするその思いは崇高なものである(はずだ)が、透かした〈屁〉の罪を暴くという状況は、全員が容疑者である(誰かが犯人である)という点で特異なものである。これは神様の判定によって、豊作の吉凶とかを聞くようなものとは違うのだし、王の埋葬とともに埋める殉死者の決定のように(指名の)誇りを付与されるものでもない。つまりは、泥棒が自供しないので神意(犯人の指摘)を聞く状況であるが、泥棒を含めた全員が容疑者となって神意を望んでいるという、いささか異常な状況であるというわけだね。

 もちろん、泥棒(行為)の洗い出しというようなもんじゃない。誰かの〈屁〉の洗い出しなのである。それは全員が疑わしく持っている〈屁〉という身体性を暴くことであり、それゆえに〈屁〉には一種の共通感覚が共有されているのである。まあ、それは〈屁〉の共通感覚(共犯関係)に全員が呪縛されているということなのであるさ。だから、その倫理性は実に奇態(「わたしもするが、あなたもするさ、するよね…」と恥をキャッチボールする心的運動)というべきだ。

 すでにもう「バレちゃ仕方ねえなー」という顔をした甥は犯人の振る舞いをしている。そして、ついに真犯人はすまし顔で無実の人として他人事のように振る舞っているのである。(そりゃ、人のいいアンタの甥が罪をかぶっているだけだろ、嘘つきの真犯人を追及しろ!という人はいるだろうねェ。しかしここは、やはり甥の覚悟を賞賛してほしいのだが)

 どうして屁詮議に神様が登場すると、こんなことになってしまうのか。

(A)大多数(とにかく自分でない犯人が挙げられホッとする人たち)
(B)真犯人(隠蔽しおおせて大多数といっしょにホッとする人)
(C)冤罪人(濡れ衣を着て犯人であることを切なく認識する人)

 観察者にとって「B=C」ならば何の疑問もないのだが、「B≠C」であるところにこの事態への疑念がわく(かもしれない)のである。つまり、(B)の振る舞いは理解できるにしても、(C)の(濡れ衣を引き受ける)振る舞いは如何なる理由なのか、と。

 ここに至る屁詮議は神様の登場が契機をなす。紛糾する詮議に全員が「ならば、神様に聞こうじゃないか。みんな覚悟はいいな」「いいよ」と同意して神様を呼んだのである。覚悟(同意)したのはその場の「みんな」なのであって、そのとき「みんな」は神様(自分を超えるもの=真実)を前提に、つまり神様に願をかけるという行為を通じて、ひとまず真実(犯人でないお墨付き)獲得の資格が平等に与えられたのである。

 ここには、犯人をも平等に扱う徹底した民主主義的態度がある〜。

 そういう平等という関門(ここでは同意という決断)を一度くぐることによって全員は生まれ変わる。つまり、みんなで納得する。毎度毎度損をする競馬や宝籤が問題化しないのは、そういう「泣いても笑っても誰でも当てる可能性がある」という平等が確保されるからだ。そうさ、どんなに確率が低くても幸福者がいる(自分かもしれない)という可能性の平等があれば、文句は出ないのだ。

 幸福者ではなく、一人だけ不幸者を決める屁詮議の場合は(奈落に落ちる可能性はあるが)逆に幸福者になる可能性は大きいのであるから、期待も高まる傾向にあるね。それだけに、そのことは(危機と隣り合わせで)参加意欲が高くなる傾向にあるね。

 ひとたび集団が傾向を辿ると流れは加速する(ことがある)。このとき神様は自分を超えるものとして存在する。それは被疑者としての居たたまれない存在である自分を受けとめて(助けて)くれる(はずの)ものだ。「苦しい時の神頼み」はそういう状態だ。

 人間の自己保存運動は他人のことはどうでもよく無節操が原則である。特に「苦しい時の神頼み」のときは二者択一的に(都合よく)決着をつけたい気持ちがストレートに出るだろう。有利不利の利害関係は神様の前でいったん解消されている。それぞれが胸を張るのは、危険を顧みず(神を疑うことになるので顧みてはいけないのだが)神様に身を委ねた潔さ(勇気)ゆえにであるが、その心は単純である。

(A)大多数 → 無実を晴らして下さ〜い。
(B)真犯人 → 我が罪を隠蔽して下さ〜い。
(C)冤罪人 → (Aの中にいる。この世にまだ存在しておらん〜)

 人間は勇気を共有したり、競い合うといっそう奮い立つ。そういう狂躁の中で神判を仰ぐのである。その神判は(A)と(B)の祈願の異質性(身勝手さ)を包含・包容するものであって、それぞれが神判に参加する勇気を見せつけつつ(身勝手な)祈願をしているわけだね。
 
 かくして神判が下されると衝撃(驚きと安堵)が走る。犯人が指摘されたのだ。

(A)大多数 → やれやれ〜(助かったッ!)
(B)真犯人 → やれやれ〜(ワタシじゃないのだッ!)
(C)冤罪人 → あ〜(ワタシになってしまったのだッ!)

 神様が示した指摘には誰も文句(異議)は「言わない=言えない」のである。文句を言うのは神様の否定となる。神様を頼んでおいて結果に異議を唱えるのは反則なのだ。言を翻したり二重基準を持ち出したりのご都合主義(二枚舌)は、どこに行っても嫌われる背信行為だね。もともと人はこれを意識せずに繰り広げる自己欺瞞の存在とはいうものの、神様が登場すると一元化(二枚舌の禁止)が促されるものなのだ。(まあ、人間って奴は神様の前でも二枚舌を使うんだけど、倫理志向的には禁止である)

(A)大多数 → 願い通りの結果
(B)真犯人 → 願い通りの結果
(C)冤罪人 → 願わない結果

 こう見ると神様の非情さがよくわかる。しかし、不公平ではない。「泣いても笑っても誰でも当てる可能性がある」という平等があらかじめ確保されていたのだからね。自分を賭して、他者との関係においても、心的運動においても、段階を積み重ねて通過した結果なのだからね。

 だから、そのとき人は、神様は生贄・犠牲を要求していると思わざるを得ない。悪くない(犯人でない)自分が、悪い(犯人である)とされたのは、自分の(犠牲をいとわぬ優れた価値の)せいなのだ。つまり、自分は「選ばれし者」である、と。

 こういう自己否定と自己肯定が表裏となった(否定を肯定=価値に転換する)無限の自己合理化は、心の旅路が万策尽きたときの逃げ道ではあるが、神様との対峙においては絶対の輝きを帯びる。

    べろべろの神すかし屁のぬしをさし

 この瞬間に我が甥は、神判によって人間にもたらされる幸福と不幸は(それが神様の価値判断とは全く無関係であることによって)等価である、と気がついたに違いない。神様は常に自分を超えており、神様が要求しているのは生贄・犠牲である、と。

 このとき甥は生贄・犠牲を買って出た(自ら引き受けた)のである。

 つまりそれは「身代わり」ということだが、〈屁〉の身代わりがどういう心性であるかは以前に考察したことがある。まあ、そういうことだ。屁詮議の決着は誰かが引き受けなければ収まりがつかない。集団の不安は拭えないのである。まさに甥は、屁詮議の中心人物(犯人=主役)の座が与えられ(選ばれ)引き受けたのである。

 もちろん我が甥は、余儀なくして身代わりになる自分は〈屁〉をしていないという自分だけの真実を確保している。それは誇りを持って殉教する崇高な振る舞いなのである。それを知るのは神様(と真犯人)だけなのだ。神様と密かに交わす自分だけの真実という契約ほど崇高なものはない。それが「選ばれし者」だ。

 神様に認められることほど尊いものはないだろう。それは自分の〈屁〉を隠蔽した真犯人を見返す(絶対的な倫理的優位性を確保する)ことでもある。神様が介在することで濡れ衣は、いつの間にか崇高な身代わりとなるのだ。

 甥が真犯人であることを信じた娘は鼻をつまんで、涙すら浮かべて侮蔑している。最初から音成の方を(不審な目で)見ている嫁は神様を信じられない目をしている。だけど、みんなの結論は出たんだよ。実際、親族の屁詮議は終息に向かっていく。やがて話題はほかに転じる…。

 屁詮議に神様を呼ぶことに(嫌々?)同意したのに神様を信じられない嫁のような人間はいるんだよね。まあ、神判にもかかわらず、そういう人間は自分が犯人になると悪あがきする。泣き出すかもしれん。厄介だ。そういう人間ばかりが集まってしまうと、屁詮議は終わりがなくなってしまうんだからさ。

 しかし、多数決で決めるべきでない屁詮議においては、神懸かりでない(神判に依らずに)終息はなかなか困難だろう。日本の屁ひりの神は影の薄い神様ではあるけれど、自分を超えて君臨する神様としての効用は大きいと言わねばならないのだ。

 世間に正直者ばかりだったら屁詮議なんてそもそもないし、神様なんか必要ない〜。
posted by 楢須音成 at 12:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月28日

〈屁〉的に幸せになった犬がいる〜

 自分の放屁をもてあますことはないだろうか。それが行き過ぎて、過剰というか制御不能というか、いきなり人前で暴走したとしたら、たちまち人格を疑われたり、職を失ったり、命を奪われたり…、まあ、大袈裟だけど、そういう重大な人生の局面を招来することになる(と妄想してしまうのだけどね)。そういう危機意識がいつも〈屁〉の背後にはあって隠れているのさ。

 これは人間の話ではないが、運命が自分の屁によって決定された犬の物語がある。絵本『おなら犬ウォルター』(ウィリアム・コツウィンクル/グレン・マリー作、オードリー・コールマン絵、三辺律子訳、サンマーク出版刊、2006年)である。ある一家に引き取られた犬が実は「おなら犬」であったというところから話は始まる。これはアメリカの現代童話。全米100万部のベストセラー絵本だそうだ。
「ともかく、ひどいにおいだわ。おふろに いれてやってちょうだい」
おかあさんが、ようすを 見にきた。「まだ、におうわ」
さいしょに、いやな よかんがしたのは、そのときだった。
おふろのそこから、ブクブクッと 上がってきた あぶくが、なによりのしょうこ。
「ちょっと きんちょう しているだけよ。おなかの ちょうしが おかしいとか」
おかあさんは、そうであることを いのりながら、いった。

でも、そうじゃなかった。ウォルターのおなかは、おかしくなんかなかった。
けんこうそうのもの だったのだ。そう、ウォルターは、おなら犬、だった。

 この場面は子供が犬を洗い、犬はおならをし、お母さんはニオイ消しを噴射している浴室である。犬の迷惑そうな、困ったような顔には何とも言えぬ雰囲気があるんだよねー。よくよく見ていくと、ウォルターの顔は困惑も喜びも悲しみも全編これ同じではないか。しかし、この犬の同じ表情が(子供たちや我々の想像に様々に訴えかけて)山あり谷ありの場面ごとに異なる意味を放っており、絵本の心理表現の味わい深い仕掛け(眼目)になっているね。

 とにかくウォルターは、どこでも、のべつ幕なし、昼も夜もおかまいなしにおならをするのである。医者に連れて行くわ、食べ物をかえてみるわ、よかれと思えることはすべて試してみるが、効果なし。
そのうち、おならはぜんぶ、ウォルターのせいになった。
たとえば、アーヴおじさんがうっかり ブッ とやってしまったばあい、
ウォルターのそばに いきさえすればよかった。
あとは、こういうだけだ。「こら、ウォルター!」
そうすれば、みんなが かわいそうな ウォルターを じろりと見る。

「ほけんじょに もどすしかない」おとうさんは、いった。
「そんなのいやだ」ベティとビリーは、さけんだ。
「ウォルターを どこにもやらないで!」
「いいや、あした おくりかえす」
ふたりは ないた。ウォルターは おならした。

 屁の濡れ衣や、排除の論理や、制御できない屁の跋扈は、それが犬の屁であることによって深刻さが軽減されているが、これが人間の〈屁〉であった場合には人間同士の絶望的状況をもたらすわけさ。大人の冷徹さに対置して、子供たちの嘆きには、ウォルターへの深い同情と、身体(屁)が原因で人間関係を(醜悪にも冷酷にも)壊してしまう人間存在の脆弱さへの怖れを内蔵していると言わねばならないのである。このとき、ウォルターを排斥する父親の無情は鈍感さを取り込んだ冷酷以外の何物でもないわけだ。

 自らの危機を感じてウォルターはもう屁はしないと誓ったものの、浅ましくも空腹に耐えかねて(屁が出る)禁断のビスケットをたらふく食べてしまう。
これは、じゅういが たいこばんを おしたものだったけれど、
たべたら ますますおならが出たという しろものだった。
もちろん それはわかっていたのだが、ウォルターはもう がまんできなかった。
そして ひとふくろぜんぶ、たいらげてしまった。
「ふう、うまかった」ウォルターは、まんぞくげに つぶやいた。
それから ソファまでいって、ごろりと ねっころがった。
すると、おなかがガスで、みるみるふくれはじめた。
「こりゃ、まずいぞ」ウォルターはおろおろしながら、つぶやいた。
このガスを 出したらさいご、おそろしいことになるのは 目に見えている。

 子供にとって〈屁〉は身近な存在であるだけに、その無軌道な跋扈ぶりを見せつけられると我が身に照らして脅威ともなるだろう。日常生活で一面親和的な〈屁〉が実は凶暴であることをウォルターの屁を通して知ることになる。刻々とウォルターの屁の放出の秒読みが始まるのだが、ここで一発逆転の状況が生まれる。

 家に泥棒が侵入してくるのである。まあ、それからどうなるかは容易に想像がつくだろうが、まさになるようになるハッピーエンドとなる。屁で泥棒を撃退するわけさ。
「よくやった、ウォルター! これからも、ずっとうちにいてくれ。
おなら犬でも、かまわん」

 何とまあ、この現金なおとうさんの叫びは、その瞬間、ただの臭い屁が価値転換の観念(感謝や有用性の認知)の衣をまとった〈屁〉となっているわけさ。この絵本を一読して、これはどこかで似たような話があったよなー、と思ったのだけどね。放屁少年を描いた『サンダーパンツ』(イギリス映画、2002年)という映画では、屁で地球の危機を救うという宇宙規模のストーリーが展開し、ここでも〈屁〉というものの価値転換(有用性)が描かれていた。

 映画では「弱点(屁)は弱点なのか? それはうまく活用するんだ。そうすれば夢はかなうよ」という主人公の言葉があったのだが、この絵本にある「わかってもらえないとか、みとめてもらえないとおもっている、すべてのみなさんへ」という献辞と対応しているメッセージだね。つまり〈屁〉は、うまく活用するものだ、役に立てば認められる、努力すれば報われるという暗喩なのだが、現実には転落の危うさをはらまざるを得ない。それでも、それは社会参画への意義を見つけ出そうとする健全で向日的な精神の運動を示している。

 認められたおなら犬ウォルターは一家と幸せに暮らしましたとさ、というのがこの絵本の結末だ。それにしても、一家を包むその〈屁〉的な幸せというものは、一体何だろうねェ。考えてみると、放屁三昧のウォルターの屁は物質的にも行動的にも何の変化も起こしておらず、変化を起こしたのは人間の側(の関係性の認識)なのである。

 そもそも屁はどこまで行っても〈屁〉になるだけであって、ただの空気に変わることはない。その背後にある、もてあます〈屁〉の危機意識は消えることはないだろうから、ウォルターが得た〈屁〉的な幸せはどこか不安定な負の余韻を残しているとしみじみ感じるねー。

 一言=作品が〈屁〉を題材とすることでハッピーエンドに何やら気がかりな陰影(暗黒面)を与えてしまうのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 23:17| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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