2007年12月01日

それは美しい屁の人!

 人生には「美しい屁の人!」と叫んでしまう感動もある(かもしれん〜)。まあ、そういう告白はなかなかしにくいものではあるだろうが、屁に導かれて美的感動を味わうことはあるんじゃないか。溝口白羊の『屁の喝破』(1914年、本郷書院刊)に「屁の藝術的氣分」という一編があり、告白(?)と考察があるのである。書き出しはこうだ。
 屁はこれまで單なる機能の産物として見られた。だから予(よ)も然(こ)う云う意味に解して吾々の屁を説明した、態(わざ)と現實の屁の醜汚(しゅうお)な内面をさらけ出して、メスの裂傷から流れる壞血(かいけつ)病患者の血の泉のやうな腐れた惡習で人々の感覺を鋭く刺戟した。

 屁というものを「機能の産物」として語るとは、屁を身体からの排泄物(物体)として分析的に語るということである。
 溝口は『屁の喝破』の記述を屁という物質の分析や発生過程や食物との関係を語るところから始めている。それが次第に社会との関係を語り、ついに116頁目(全298頁)の「屁の藝術的氣分」に至って芸術を見出すところに突入する。屁の芸術とは何か。次第に内面的な議論と化していくのさ。
 然(しか)し予は屡々(しばしば)此の醜汚なる屁の臭さの中に、崇高な霊的の生命と美しい詩歌的氣分の蕩漾(とうよう)するのを見出した。自分自身の屁の中に生命を見出したばかりでなく、人の屁のにほひの中にも、他の凡(すべ)ての生物の屁の音の中にも、力強く自分と流れ合う所の屁の生命の大なる動きを見出した。昏冥(こんめい)な闇の中にも、凡ての光のない海洋の深い底にも、微細なる屁が盛んに醗酵し発生して居ることを吾々は官能を透して感じる事が出來る。

 自分自身の「屁に生命を見出す」とは、そこに感動という内面性(生命)を投下して(屁と)ともに生きることである。
 溝口は、自分の屁の臭さ→他人の屁の臭さ→すべての生物の屁の音という屁の連鎖の中に「崇高な霊的の生命」と「美しい詩歌的氣分」を感じ、ついには深海の底で微細な屁が盛んに醗酵し発生している甘美で官能的なイメージに没入してしまう。深海から無数に湧き上がる微細な屁の泡とは、何とまあ、詩的な想像力であろうか〜。

 さて、ここまでで、我々が〈屁〉というものに向き合う態度の変遷というか、位相の違いを見出すことができるね。〈屁〉というものはアクビのようなわけにはいかない生理現象なのだし、口笛のようなわけにはいかない人為的行為であって、そこにはまぎれもなく増殖していく〈屁〉の観念の運動がある。観念をさいなむニオイと音という条件は避けて通れない関門であるが、そこを通過することで観念化の視界が開ける(ようなのだね〜)。

 この独特の関門通過によって〈屁〉は単なる生理現象や人為的行為から、ある段階へと昇華していくのである。
 予は或る時、九段阪を重い荷を擔(かつ)いで上つた勞働者が、靖國社前の馬場へ來ると其處(そこ)のベンチへ荷を下ろして、憚(はばかり)りも無く放屁したのを聞いた事がある、それは夏の日の正午頃の事で、烈しい太陽の照射の下に、カスメルされた全東京の細胞は、生き乍らの假死(かし)の状態にだらけた睡りを貪つて居た。予は何氣なく其勞働者の前を通り過ぎると、直ぐ後ろで變(へん)なにほひがした、餘(あまり)り手近であつたのと思ひがけなかつたのとで、驚いて振向くと、そこには異様な臭氣が夢の樣に漾(ただよ)うて、Auguste Rodin の彫塑に見るやうな若い勞働者が、正に屁を放り終わつて、まだ其緊張した筋肉の弛緩しない刹那の姿勢を取つて居た。生命の顫動(せんどう)は、彼れの筋肉ばかりでなく、彼れの周圍(しゅうい)の大氣にも力を及ぼして、凡てのものがまだ活動の力を示して居た、どんな藝術家が、肢體(したい)の向け方や、關節(かんせつ)の曲げ方やに注意して、人體の運動を創造しても、此刹那の運動から静止に急轉(きゅうてん)していく眞の氣分を表現することは出來まいと思つた。况(ま)してや死滅の粘土を人の外形に臨模(りんも)して、自己の内部生活の貧弱を自ら曝露(ばくろ)した形式的非藝術的の偶像を、耻づかはしげも無く展覽會に陳列してるやうな連中には、到底此氣分の蕩漾を觀取する事は出來まいとも思った。それに叉怖らく自分にも、此の刹那の偉大なる強い運動の感じを完全に再現する事は出來まいとも思つた。美しい屁の人!予は燒くが如き烈日の下に、いつまでも立つて見て居た。

 炎天下の往来で筋骨たくましい労働者が誰はばかることもなく放屁したのである。異様なニオイ(にほひ)を「夢の樣に」漂わせ、放屁した後の緊張のとけない若者のストップモーションの一瞬に、遭遇したのである。溝口白羊は新体詩運動にかかわった詩人でもあり、詩的な気分というか、世界に喚起される感興には敏感だった。そこには「刹那の運動から静止に急轉していく眞の氣分」があったのだ。この「眞の氣分」が溝口がめざす「芸術」あるいは「芸術的世界」であ〜る。
 叉或る夕暮、――何か知ら今日一日に世界が死滅の墓穴に入つて行く樣なメランコリツクな雨の夕暮であつた。晝(ひる)から夜に移る瞬間の沈静が、現實のとよみから我等の魂ひを引離して、激しい孤獨の寂しさと悲しさを切實に味はせる時、自分はふと屁がしたいなと云ふ衝動を尻に感じた。そしてプウと高調の音で屁を放たうとする瞬間予の眼の血膜(けつまく)は火の樣に熱して、瞳孔は燃えんばかりに光輝き、胸は激しい力を湛(たた)へて隆起し、筋肉は板の樣に緊張し、生命力の全體が集注的に流れ出さうとするのを覺えたが、頓(やが)て徐(おもむ)ろに凡ての力が自己に還流し來たる時、こゝに何となき愉快なる疲勞を感じた。

 これは逆に自分が放屁する感興であるね。このあと、深夜の寂寞を破る放屁の響き、快い調子の歌に伴奏する朗らかな放屁メロディー、(行き暮れた漂浪のコスモポリタンが旅で聞く)家族の屁を笑い合う賑わしい声――などを挙げて、溝口は「予は放屁程、眞の人生の悲哀、愉樂、苦痛、絶望、感激をさながらに表現し得る音樂はあるまいと思ふ」とまで言う。その定義がすごい。「屁の音樂は、器楽が持つているやうな全伎巧的な音樂でなく、人生の深奥を流れる或る物から、筋肉の線を傳うて、内部的衝動によつて力強く鳴出づる自然の諧調である」と。

 かくして〈屁〉は当然に詩(ポエトリー)でもあるのだ。溝口はもともと詩人であるだけに、日本の詩の歴史を粗描しながら(現代の)詩人を批判している。そして結語。
 詩は單に網膜に映つた影象の表現でないと共に、單なる器能的感覺の表現に満足すべきものではない、况(いわ)んや何等(なんら)思索を伴はざる單純なる感興の表現に止まるべきものではない、生活と何等交渉のない、生命のない詩は屁よりも劣るものである。中心生命から流動する生命のリズムの表現でない拵(こしら)へものゝ詩は、嚴肅(げんしゅく)なる意味に於て藝術と云はれるべきものではない、而して此意味に於て、屁は凡ての要素を含む本然(ほんねん)の詩である。僞らざる詩である。

 それにしても、この溝口の記述は戯文に徹しているのかね。どこまで本気なのか。まあ、ほとんど本気ではなかろうか、と思うのだが、これは〈屁〉というものを称揚した芸術論なのである。馬鹿な、という向きは〈屁〉を〈愛〉と置き換えてみればよい。ほとんど次元の同じ話になっているではないか。

 形骸化された詩に比べたら〈屁〉は人生をうがつ観念化の懐が深いのだ。

 そのとき「美しい屁の人!」という感動が湧き上がってくるのは、すでに屁が生理現象を越えて我々の前に現前していることを示す。といって、ニオイや音の異様さによって〈愛〉のように観念(妄想)100%(に近い)というわけでもないので、凋落の危機はリアルにあると言わねばならないのも事実である。

 音成はどんなに素晴らしい〈屁〉をしても「美しい屁の人!」と呼ばれたことはない〜。


posted by 楢須音成 at 07:55| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月08日

屁は放棄すべきものか否か

 アラノ星(PLANET ARANO)では屁は自分自身(と嫁を除く家族=一・二親等の血族)には無害だが、他人には(その他人度が増すほどに)有毒だった。だから民族が違うと屁は極度に危険であり、簡便にして有効な国家間攻撃の武器ともなり得た。

 ところが、絶対平和主義のその国では、たとえ無害であったとしても、自分よりほかの人様の前で絶対に屁をしてはいけなかった。それは至上の道徳であり、最も厳しい戒律になっていたのだ。

 禁屁(きんぴ)の徹底ぶりはすさまじく、とにかく他人に屁を想像させてはいけないのだし、屁というものがこの世に全く存在しない「かのように」振る舞わなければならないのだし、この世界に屁があるのを絶対に無視するのであるから、屁は決して存在を明かさない透明人間のようなものだった。しかし確かに、昨日も今日も明日も屁は国民一人ひとりの大腸のどこかにうごめいているのであった。

 その国では、憲法においては「屁をしないことを心の欲するところとし、国家および国民間の屁武装を個人の責務において放棄することを宣言する」とあり、これがかの陶酔的絶対屁和主義と呼ばれる屁武装放棄宣言だった。(隣国あるいは多くの国では憲法において屁武装中立を宣言しており、同じ平和主義でも屁をめぐって国家方針が違うのだ)

 それで、禁屁のその国では、止めることのできない屁の処理はどうしたのかというと、個室で便所で野原で山で森で海浜で…孤独に一人こっそり素知らぬ顔でしたのである。しかし禁屁の一方で、そのすさまじく隠蔽された屁は実に実に快楽だったのだ。お尻から解放されるとき(音がし)、解放されたあと(ニオイがし)、たちまち屁はすこぶる快感な物質として機能した。もちろん、これは自分だけの陶酔境の深〜い密かな愉楽である。

 アラノ星人にはそもそも他人を殺傷する屁は罪深いという認識が見られ、これにまたその背徳めいた快楽は欲深い汚れという、とぎすまされた原罪意識があり、そのために罪と快楽を止揚するへリスト教がその国では広く深く信仰されていた。聖者とは全く屁をしない人であるばかりか、超絶した精神をもって腸内に屁を発生させない人のことであり、そのことによって罪と快楽から解脱した聖者の判定がなされ得るとした。

 その国では屁は存在しない(ようにみなす)ことが至高の輝きだった。

 もちろん、にもかかわらず、「あら〜、そこにいるのねェ、やっぱり〜」というのが屁の暗くしぶとい存在感である。無視すればするほど、人は屁と向き合うことにならざるを得ない。しかも、そうやって心のどこかで屁と向き合っていることすら隠さねばらないのであって、当然のことながら心にもお尻にも締まりのない人というのはいるものだから、そういう人は犯罪者となったのである。

 禁屁を犯した者は二つのタイプがあった。
(1)確信犯=わざとやる人
(2)粗忽犯=うっかりやる人

 このうち、どちらが多いかというと、ほぼ半々であるが、国民の約十五パーセント(人口比)が犯罪を犯す中で、その三分の一が禁屁令違反であった。ほかの犯罪と違って、禁屁を犯した者はその一発が人を殺(あや)めることになるかもしれない危険人物であって、理由を問わぬ重罪であり、裁判もなしに即収監されて塀の向こうに隔離された。

 収監される先は禁屁を犯した者たちだけのブーピースー監獄であり、そこで裁かれた囚人たちには誰一人個室が与えられず、お互いがお互いを大腸に充填した危険なガスで威嚇しながら大部屋に同居していた。誰かの過ちや信念の一発はとても危険だったが、それによって誰かが死んだとしても監獄側はおかまいなしであり、危険分子の好ましい消滅ぐらいにしか考えていなかった。

 しかしながら、囚人同士は自己防衛の危機管理によって、大部屋におけるお互いの秩序は存在していた(安定していた)のであり、言ってみれば、それぞれが屁武装中立の不干渉主義をベースにせざるを得なかったのである。

 ただし、確信犯と粗忽犯は分離して収監されていたのであるが、というのも、粗忽犯の場合はお尻の締まりがないために、いつも暴発の事故・事件が発生するのである。そこで確信犯の側から部屋を分けるように強い要求があり、それが今に続いているのであった。

 そもそも粗忽犯は本来、屁の一発の意図性はない、重度のうっかり者だと考えられているのだが、それだけに制御の利かないお尻は常に(不意に暴発する)危険という側面を持つわけであるので、被害の度合いは結構大きなものがあった。しかも、粗忽犯は余儀なく時には我知らず屁をするのであるから、それを悔いる限りにおいては善意の人であるという点で、悲惨なものがあった。

 かくして概して平和なのは確信犯の大部屋であり、いつも問題発生しているのは粗忽犯の大部屋であったけれど、部屋の空気はどちらも緊張していた。とにかく他人の屁の一発に、赤の他人同士の囚人たちは身構えていた。その国の道徳によって「屁を肯定し操ること」を悪と見るならば、確信犯の大部屋には「悪意の緊張感」があり、粗忽犯の大部屋は「善意の緊張感」が空気となって漂っていたわけである。

 隣国の屁武装中立主義者からは、その国は人権(人が生来持つ屁の権利)を否定する暗黒国家としか見えず、ブーピースー監獄は人権無視の象徴的存在として非難されていた。

 しかし、その国は憲法の下に、屁を認めていないのだし、ブーピースー監獄の連中を認めでいないのだし、屁を固く固く禁じているのである。だから、その国では誰も屁をしない(ように見える)のであった。
ラベル: 道徳 憲法 監獄
posted by 楢須音成 at 17:28| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月15日

人はなぜ〈屁〉の濡れ衣を着せたがるのだろ〜ヵ

 世間には〈屁〉の身代わりを買って出る酔狂な「天運」の人がいるかと思えば、泣きの涙で濡れ衣を着せられる「非運」の人もいる。濡れ衣は冤罪ともいうが、もちろん、それは痛烈に心外なことであり、ときに人生の深刻な危機にもなるわけだね。

 これまた酔狂なことであるのだが、世間には誰が屁をしたかをすこぶる熱心に詮索し評議する人たちがいて、これを屁詮議(へせんぎ)というのである。人知れず屁をしたとしても(そのニオイとかを)誰かに感づかれると、まずはこの屁詮議が繰り広げられる。往々にして犯人は見つからぬ。すると、いたずらに紛糾してしまい、疑心暗鬼になってしまい、やがてそのうちに「非運」の人が出てしまうのさ。

 このとき、否定すればするほど嫌疑は深まるんだね。屁詮議が始まると必死の覚悟が必要なのである。身に覚えのない濡れ衣を着ぬために。(たとえ身に覚えがあってもね)

 だから、慌ててその場を離れようとしたり、何気に顔を赤らめたり、少しでもお尻を振ったりするのは危険であり、間違いなく身の破滅である。そういう恐ろしい場面は、よくよく考えると〈屁〉に特有の、こっけいにして独特の現象ではないだろうか。そこには余儀なく人前にさらす〈屁〉という恥辱に転落する人間の振る舞いのどん底がある〜。

 密室に数人がいるなかに、どこからか〈屁〉がにおったとしよう。それぞれは身構えるに違いない。身に覚えのある犯人も、自分ではないのに犯人になるかもしれないその他の人たちも、名指しされる恐怖におののくのだ。(もちろん、このような状況での各人の心的動きや振る舞いは、その人の性別や立場や性格や嗜好…あるいは民族性などによって相当に違ってくるのは当然である。全く意に介さない人、大騒ぎする人、とぼける人、怒鳴る人、泣く人、笑う人、喜ぶ人…まあ、あらゆる人間の振る舞いというものがあるわけだが、日本人一般の振る舞いは基本的に「まず恥を恐れる」という心的な根源から分岐してくるのであ〜る)

 さて、密室で誰のものともわからぬ〈屁〉が発生した。これは特定しやすい音よりも、特定しにくいニオイによって発覚するケースが多いに違いない。〈屁〉の犯人は必ずいるのだ。なぜなら、これは自然現象ではなく人間の現象なのであるさ。発覚後に想定される我々の振る舞いを考えてみよう。

(1)密室の人たちが全くの赤の他人 → あたかも〈屁〉が存在しなかったかのように振る舞う(平等に恥を封印しようとする)
(2)知り合いと他人が混じっている → 集団がグループ化(身内集団に分裂)し、その仲間内で屁詮議が始まる(恥の対象=嫌疑を仲間と一致して異集団あるいは集団外の個人へ向ける)
(3)全員が知り合い → ただちに屁詮議が始まる(各人が対等に誰かに恥をなすりつけようとする)

 まあ、厳密には、集団内の各人の性別や立場や性格や嗜好…などによって振る舞いは細分化され混沌とするのであるが、以上は大体の傾向であ〜る。(1)〜(3)の相違点とは、その場に居合わせた人間の「親密度」によって行動形態(屁詮議の向かうところ)が違うということだね。

 このうち(1)の場合は屁詮議が成立しにくい。電車の中などで〈屁〉のニオイが漂ったようなときはこのケースである。

 次に(2)のような場合は集団内で屁詮議が始まるが、異集団間で屁詮議はない。グループAとグループBが電車に乗り合わせてニオイが漂ってきたとしたら、仲間内の屁詮議はなされるが、基本的にグループAとBとの間に対話(詮議)はないのである。つまり、赤の他人(異の)関係においては〈屁〉の名指しは、とっても「危険」なのだということさ。そこには危機感がある。なぜならば、犯人は常に異集団にいる(と詮議される)のであるが、違うかも知れないという隠蔽された不安もあるのである。

 ただちに屁詮議が始まる(3)は、全員が知り合いである場合だ。知り合いであるというのは、ある種の親密な関係をいうのであって、赤の他人でも状況次第で、日本人同士とか同県人同士とか男同士とか同じ職場の者同士とかご近所同士とか…まあ、いろいろ伸縮自在にそのつどの共同体的な関係性は生まれるわけである。そこでなされる屁詮議は熾烈といえば熾烈(必死)であり、それぞれが我が身に降りかかる火の粉を払わんと振る舞うのであるよ。

 このように見てくると、極論すれば、屁詮議において一人一人の心の内は、事実はともかく犯人は誰でもいいのである。自分以外であれば…。そこには、いわゆる正義とか道徳とか倫理はない(ように見える)。

 人が他人に〈屁〉の濡れ衣を着せようとするのは、一つには、なりふりかまわぬ自己防衛の発露なのであるが、そのとき犯人を特定しようとする心的運動は、自分以外へとむけて仁義なき闘いを始めているのである。
ラベル: 濡れ衣 屁詮議
posted by 楢須音成 at 17:12| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月18日

続・人はなぜ〈屁〉の濡れ衣を着せたがるのだろ〜ヵ

 どうも〈屁〉の濡れ衣は、痴漢の濡れ衣などとは若干様相を異にするようである。そもそも〈屁〉は罪かもしれないが、法律上の犯罪にはなりにくい。痴漢は意図してやるが、濡れ衣が発生するような場面での〈屁〉はうっかり、あるいは余儀なくやってしまうものなのだ。不意に出現する〈屁〉は「自他ともに」驚天動地の災難であると言わねばならない。

 この我々の動揺は〈屁〉の根源における「自他の共犯関係」が揺らいでしまったことを示すのである。〈屁〉の濡れ衣を引き起こす「共犯関係」を解きほぐしてみよう。

 少し話がそれるが、ニオイが現象するものに、我々は口臭という不快なものを持っているね。我々はこれを否定(忌避)するし、あれこれ除去の努力をするものだが、究極のところ、これを「存在するもの」と容認せざるを得ない。そして「お口のエチケット」という落としどころ(解消策=積極的意義)を公認し用意するわけだ。まあ、歌ったりキスしたり喋ったり食事したり…多方面で活躍するお口の、やむを得ぬ汚れ・疲労みたいなものであるとして、お手入れが必要というわけだね。口をすすいで禊(みそ)いだあとは身も心もさっぱりしている。自他ともに自信回復するのである。

 お尻の〈屁〉はこういうわけにはいかない。我々は究極のところ、自らの〈屁〉をなぜか容認できないのである。だから〈屁〉に関しては「お尻のエチケット」というものはない。ワザと〈屁〉をしてにおわないのを自慢する人はいないし、うっかり〈屁〉をしてにおわないからといって自信は回復しない。そもそも自分にも他人にも〈屁〉は存在してはいかん〜のである。(なぜ容認できないのかは別の議論。同じ肛門から出てくる〈糞〉にはエチケットが公認されているんだけどね)

 日本では一般に〈屁〉は(とても)無作法な行為だね。他人に対して〈屁〉を無作法と(批難)するなら、自分の〈屁〉も同等に(あるいはそれ以上に)無作法=禁止となる。だから人は〈屁〉を知らない方が幸せであるが、知ってしまっているのだから極力無縁(知らないふり)を装わねばならない。かくして我々の世間の平和な表層には〈屁〉は存在しないのである。しかし〈屁〉は各人の大腸に潜んで放散されるのをしっかり待っているわけさ。しばしば〈屁〉は過剰に膨満するから、不本意ながら押し出される。我々は人知れずこっそり〈屁〉をしないわけにはいかない。

 このことは公然の秘密だね。つまり、我々の〈屁〉の根源における「自他の共犯関係」とは「あなたもこっそり〈屁〉をするし、私もしますが、これを認めてしまっては無作法の放置ですよね。困りましたねェ。どうにも居心地が悪いですねェ。ならば、どのみちこっそりやっているわけだから、もともと〈屁〉なんぞないのだということ(無視)にしてしまいましょ、ネ!」という具合に成立した、相互の黙契のことをいうのである。我々は本来、面と向かって「あなた〈屁〉をしましたね」とか「あなた〈屁〉が臭いですよォ」とは言ってはならない(そもそも人前で〈屁〉をしないから、そんなことは言わない)文化(黙契)を持つのである。

 要するに〈屁〉は隠蔽されるのだ。お互いに隠蔽(無視)するという「共犯関係」があるわけさ。そして、濡れ衣が発生するような状況を考えてみると、この「共犯関係」が破綻してしまっているのであ〜る。

 それは、どこからともなく発生元不明のまま、約束違反の〈屁〉が漂ってくる(あるいは、音が響く)状況である。我々は大いに狼狽せざるを得ない。やがてそこには、疑心暗鬼の心の修羅場が現前するのだ。

 前回考えてみた密室の3パターンを見直してみよう。集団の親密度によって振る舞いが違っていたね。

(1)赤の他人同士の密室 →〈屁〉が存在しないとみなす(してはいけないことをした者がいるという不安定な状況であるが、まだ相互の黙契が機能しており、それぞれが事実を封印しようと振る舞う)
(2)身内と赤の他人の密室 → 身内集団とその他に分裂し身内で屁詮議が始まる(身内で一致して異集団あるいは集団外の人へと嫌疑を向ける振る舞いをする)
(3)全員知り合いの密室 → ただちに屁詮議が始まる(各人が対等に誰かに事実をなすりつける=濡れ衣を着せる振る舞いをする)

 このように「自他の共犯関係」の破綻が濡れ衣が発生する心的な基盤なのである。そして、最も親しき者の間で濡れ衣は熾烈な暗闘となるのであ〜る。

 世間には気の弱い人がいて(正直者とも言うが)屁詮議で早々と名乗り出る人もいるし、訳あって身代わりになる義侠の人もいる。そういう場合は濡れ衣は発生しないね。このとき「共犯関係」は犯人の出現で復元・維持されるのである。ということは、濡れ衣というのも「共犯関係」を維持するのための心的な保存運動ということなのだ。
posted by 楢須音成 at 22:34| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月21日

続続・人はなぜ〈屁〉の濡れ衣を着せたがるのだろ〜ヵ

 これまで考察してきた我々の〈屁〉の振る舞いから濡れ衣へと向かう心的な道筋が浮かび上がってきた。まとめておけば、次のようになる。要するに〈屁〉というものは自分が原因になるのはイヤだけれど、この世に出現した以上、誰かがそれを引き受けなければ場が収まらないのである。

(ア)赤の他人同士では濡れ衣は発生しにくい。〈屁〉は無視したい。
(イ)しかし親密な者同士では〈屁〉は無視できない。
(ウ)無視しないとなると発生元を特定しなければならない。
(エ)もちろん発生元は自分以外でなければならない。
(オ)このとき真犯人の思いも同じで、彼は無実の人へと人格変換している。

 この「共犯関係」の崩壊(濡れ衣のターゲット探し)という修羅場では誰もが身構えるね。(ア)のように全く赤の他人同士であれば、まだ黙契は崩壊していないのだから、知らないふり(無視)をしてすまそうとする。しかし、ことはそう穏便ではない。音やニオイが禊(みそ)ぎのできない忌み感をまき散らしながら漂流したのだから。

 このとき〈屁〉をした人の驚愕はさらに大きいに違いない。うっかりやったのだからといって罪の軽減はないのである。バレていない限りにおいて、自分の〈屁〉の事実は固く固く固く封印しなければならないと決意するだろう。

 誰もがそれを「自分ではない」と表明したいが、絶対にそれは自分から表明(発言)できない。全く犯人を特定できない状況にあっては、疑われる根拠つまり〈屁〉は全員が平等に抱え込んでいるのだから、妙な素振りは一切できない。そもそも人はいつも〈屁〉を孕んでいるのであるし、それを取りこぼすことはないと100%断言できる人はいないのであるし、ここで自分が抜け駆けして「あたしじゃないですよ〜」などと声を上げたとしたら、自分以外の全員一致で犯人であると断定される(濡れ衣の)危険だってあるのだ。こんな川柳がある。

    屁の騒ぎ放(ひ)り手は中にすまして居

 しかし、騒ぎの中ですまし込んでいるうちにも、着々と濡れ衣を形成する空気は醸成される。このとき〈屁〉をした人もしない人も全員が「自分でない」という「事実」あるいは「願望」に強く強く一体化しているんだね。その一体化度合いが強烈であればあるほど、裏側に張り付いた「(誰がやったんだという)怒り」あるいは「(バレるかもしれないという)恐怖」によって、自分以外の誰かへの熱烈な指弾はいや増すのである。なりふり構わぬこの心的運動は神がかりにも似た一途なものであって、とにかく「自分でない」ならば、証拠があろうとなかろうと誰が犯人でもよいという無差別な心境に達してしまうのだ。

 いやはや、確信に至った「自分でない」という心的運動は激しくキリモミし、全員が体を硬くして膠着状態に陥ってしまう。こうなると、わずかな嫌疑のきっかけで場の「空気」の流れができてしまうんだね。
 例えば、沈黙に耐えかねて、思わず「あれ、いま〈屁〉をしたの誰よ〜」などと言ったら最後、「おいおい、そりゃ君じゃないのか。言い出しっ屁っていうもんなあ」と老獪に切り返されて、いつの間にか犯人になってしまう。あるいは、「○○さん、あなた〈屁〉をしたでしょ」とキッパリと名指しされてオタオタしているうちに、いつの間にか犯人になってしまう。または、「あらどうしたの、モジモジしちゃって」とかナントカ何でもない素振りを怪しいと断定されて、いつの間にか犯人になってしまう。

 このような展開は、突き詰めれば全員がさまざまな言説で「自分でない」と主張しているわけである。しかし、全員が「自分でない」ことはあり得ないのである。犯人は必ずいなければいけないのだから、しかも自分でなければ基本的に誰でもいいのだから、場の「空気」が嫌疑を特定して怪しい人物を指し示せば、無言で衆議一致して「その人=犯人」が自然成立してしまう。「ち、違う。違うってば」と濡れ衣を主張しても、まともに聞いてくれる人はいないのだ。(聞いたら最後、詮議は振り出しに戻る=捜査続行になるんだからさ)

    屁の論に泣くのもさすが女なり
    ※屁の論=屁詮議

 真犯人を知るのは真犯人のみだ。かくして〈屁〉の真相はほとんど闇に落ちるのであるが、人生は真実のみで成り立っているわけではないさ。一見投げやりな諦観を装って開き直り〈屁〉の濡れ衣の現実を受け入れることもまた、我々のしぶとい態度選択なのである。例えば、「はい、はい、わかりました。何を言ってもダメなんですね。私ですよ。私がやりましたわよォ」という自虐的な態度表明である。

 自虐とはいっても、これは、ギリギリのところで犯人であることの認知(自供)をぼかし(拒否し)つつ、〈屁〉の恥を引き受ける身代わりになることのヒロイズムを呼び寄せる態度だ。罪をかぶることは、その場の(罪をなすりつける卑怯な)人間たちからの精神的優位性を確保する。その場の人間もその少し余裕の態度に「あるいは違うのかも」と思い思わされる(ので後ろめたさがもたげるのだ)が、いまさら決定を覆すような面倒はしない。このとき真犯人は「すまして」周囲の人間たちに溶け込んでしまっている。人格転換している彼はすでに嘘を嘘とも思わぬ(というか、香ばしい嘘の)人生を素知らぬ顔で始めているのだ。

 もちろん、濡れ衣を着せられれば、怒り出す人や泣き出す人もいるさ。あるいは、身代わりを装いながら実は真犯人であるというアクロバットな人もいる。〈屁〉の濡れ衣の現場は、まあ、誰もが「自分でない」とのたうつ阿鼻叫喚の巷なのだから何でもアリといえるだろうね。人は〈屁〉の嫌疑から抜け出そうとして困難に直面したとたん、誰にでもいいから濡れ衣を着せてでも、危機を逃れようとする自己中心の世界にはまり込むのであ〜る。

 愛に満ち満ちて親密度が究極になった人間関係にあるとしても、濡れ衣の泥沼からの脱出の困難さに我々はへこたれない。

    あなただと屁を譲り合ふむつまじさ

 だから、まあ、我が家においてはこんな感じかな。

 ※川柳は福富織部の『屁』に収録されているものから引用。
ラベル: 濡れ衣 川柳
posted by 楢須音成 at 07:24| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月27日

〈屁〉で心境を語ってみたい〜

 街を行けば、いつもの年末風景である。暖冬である。世間のことは浮き世、憂き世ともいって我々を囲い込んでいるけれど、今年もいろいろありました。なーんてオセンチに言ってるうちにも人生カウントダウンしてますな。音成は自らを〈屁〉にけつまずいた愚かなる人と思うけれど、まあ、四方赤良(大田南畝)の狂歌にある、
おろかなる人はぶつとも放屁ともしらではかなき世をやへひらん
※愚かな御仁は(仏も法もわからんように)ブーッと出しても自分の屁とも思わないで、このはかない世間を渡りながら屁をし続けるんだろうなァ。

 みたいな愚かなる人かな。もちろん赤良は、自分のことを愚かなる人と言っているわけなんだけどさ。あるいは、
山里にしりごみしつゝ入りしよりうき世の事は屁とも思わず
※山里に逡巡しながらも隠棲したが、そのときからこの世間のことは屁とも思わんわィ。

 とかいうのもある。これも〈屁〉を介して赤良の超俗・脱俗の意識性が表明されているんだね。狂歌の〈屁〉とは言っても、ただ面白可笑しいだけの表現ではない。〈屁〉が保持する思いは深いんだよ。と思えば、
おはしたの龍田が尻をもみぢ葉のうすくこく屁にさらす赤はぢ
※はしための龍田姫(身分低くてもつつましき女ではある女中)が尻をモミモミこっそり(もみじ葉の薄く濃い色づきのように)さらした屁の真っ赤な恥よなァ

 とか、他人様に分け入って振る舞う現実の我が身は、中途半端な透かし屁みたいな赤恥をさらすだけだったりね。などと、自分の思いを〈屁〉に求め、今年は赤良を読みながら終わるよ。

 一言=今では〈屁〉が保持する心の表現性を誰も探求しとらんわ〜。
posted by 楢須音成 at 23:34| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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