2007年09月02日

〈屁〉で文芸に名を成す虫がいる〜

 日本文芸史上、有名な虫といえば「屁ひり虫」がある。秋の季語でもある。
 しかし、よくよく聞けば(言葉にすれば)ヘヒリムシとは露骨な名前だねェ。〈屁〉とくれば、高尚な感興において一般には、口にするのもはばかられる(ハズである)が、屁ひり虫においては全く意に介するところがない。(もっとも、この語を採用するしないで人を選ぶけどね)
 俺よりは遙か上手ぞ屁ひり蟲(おれよりははるかじょうずぞへひりむし)    一茶
 屁ひり蟲は智なり蟷螂は勇也(へひりむしはちなりかまきりはゆうなり)    鳴雪
 屁ひり蟲俗論黨をにくみけり(へひりむしぞくろんとうをにくみけり)       虚子
 清少のすさびに漏れて放屁蟲(せいしょうのすさびにもれてへひりむし)    紫影
 秋風に尻やぬけゝん屁ひり蟲(あきかぜにしりやぬけけんへひりむし)     太虚
 蟲の屁のいつまで臭き我手哉(むしのへのいつまでくさきわがてかな)    田士英
 一燈の秋を惜めば屁ひりむし(いっとうのあきをおしめばへひりむし)      燕郎
 草の葉の蟲の屁よりや黄みけん(くさのはのむしのへよりやきばみけん)    瓦全
 此蟲を屁ひり蟲とは申すなり(このむしをへひりむしとはもうすなり)       蘇子

 以上は溝口白羊の『屁の喝破』に紹介してある俳句である。こうならべてみると、屁ひり虫の奇妙な存在感は思いのほかあるね。

 といっても、万人にとって(見たことのない人は)屁ひり虫の詳しい実体は不明であって、「屁をする臭い虫がいるんだなー」という程度のものであろう。辞書を引くと「ゴミムシ・オサムシ・カメムシなど、特にミイデラゴミムシのように、捕えると悪臭・ガスを放つ昆虫の俗称。へっぴりむし。へこきむし」(広辞苑)とある。要するに臭い昆虫が存在しているのであるが、それが人間の屁と結びついた命名になり何やら滑稽なものを醸している。そこには(人間の)屁の属性をふまえて存在感を見ているわけだ。

 そして、なぜか〈屁〉が虫に結びつくことによって発想が広がっていくのである。たかが虫一匹に情緒も政治もイジケもユーモアも虚無も…一切を封じ込めることが可能さ。〈屁〉の含蓄は兜(かぶと)に勝るのであり、そういう芸当はカブトムシではできません〜。

 ここが〈屁〉の不思議。〈屁〉が結びついたのは悪臭の小さな虫であるが、虫に〈屁〉を封じ込めて(見えない〈屁〉を虫に仮託して)表現の幅を広げるのである。〈屁〉の視覚効果とでもいうべきか。虫を見て、虫以上の〈屁〉の展開(表現)を妄想するのである。虫は擬人化も可能だしねー。

 もちろん、俳句や川柳には〈屁〉を直接詠んだものもある。

 雛棚や隣りづからの屁のひびき(ひなだなやとなりづからのへのひびき)   一茶
 馬の屁に吹きとばされし蛍かな(うまのへにふきとばされしほたるかな)   一茶
 竹の屁を折節聞くや五月闇(たけのへをおりふしきくやさつきやみ)     其角

 作者で判断すれば、このあたりが俳句。次は川柳。(音成にはどれがどちらやら区別がつかんのだが)

 馬の屁にころりと落ちた玉椿(うまのへにころりとおちたたまつばき)
 にぎり屁のように早わらび草をわけ(にぎりべのようにさわらびくさをわけ)
 音も香も空へぬけてく田植の屁(おともかもそらへぬけてくたうえのへ)
 屁のような月を息子は内で見る(へのようなつきをむすこはうちでみる)

 屁ひり虫の句に比べると、〈屁〉の含蓄が薄れて(表現は)ストレートな感じ。これならいっそ〈屁〉を口にせず、次のような川柳の表現こそが数段面白いと思う。
 こたつから猫もあきれて顔を出し(こたつからねこもあきれてかおをだし)

 見えない〈屁〉を猫の所作だけで表現しているわけだね。

 一言=つまりは、物言わぬ屁ひり虫の所作に、能弁な人間の〈屁〉が託されているのであ〜る。



posted by 楢須音成 at 01:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月08日

花のいのちは短し――女の〈屁〉の色気

 日本人は女性の〈屁〉に無関心ではなかった。興津要と中重徹の『新編薫響集・おなら文化史』には「おんなの屁」という章が設けられて、江戸時代の川柳や小咄などをもとに考察している。
 古今東西、イデオロギーのいかんをとわず、若い女性の放屁には恥じらいがつねにつきまとっていて、それがまた不思議な色気をかもしだす場合もあった。

    どこでどうするか娘の屁をきかず(どこでどうするかむすめのへをきかず)

 なんて不思議がった句があるかとおもうと、

    おとなしうみせてかかとで屁を殺し(おとなしうみせてかかとでへをころし)

 なんていう楽屋裏をぶちまけた句もあり、

    尻と顔両方へでる娘の屁(しりとかおりょうほうへでるむすめのへ)

 などとおもわぬ失敗に、顔にもみじを散らす娘ざかりの愛らしさもあり、

    屁の論に泣くのもさすが女なり(へのろんになくのもさすがおんななり)

 などと、屁の臭さに騒ぎたて犯人捜しの争いに泣き出す者もでてくるのも、女ならではの色気のある光景だった。

 まず、女性の屁の「不思議な色気」を指摘しているね。「娘」に始まる女性の一生の変遷に合わせて屁の様相もまた変わってくるのだが、娘以前を無邪気な「子供」時代として区分すると、「子供」→「娘」→「嫁」→「姑」という女の一生があるわけである。流れにそって同書から「嫁」と「姑」の川柳を抜き出してみよう。
 花も恥じらう花嫁の屁

    一大事花嫁どうか屁が出そう(いちだいじはなよめどうかへがでそう)
    嫁の屁は五臓六腑をかけめぐり(よめのへはごぞうろっぷをかけめぐり)
    後架(便所)でも花嫁尻をすぼめてる(こうかでもはなよめしりをすぼめてる)
    村の嫁かかとのわれへ屁をはさみ(むらのよめかかとのわれへへをはさみ))
    屁をひって嫁は雪隠でにくがり(へをひってよめはせっちんでにくがり)
    屁をひった嫁は酒でものんだよう(へをひったよめはさけでものんだよう)

 老境に立ちいたった姑の屁

    姑ばば咳と同時に一つひり(しゅうとばばせきとどうじにひとつひり)
    姑の屁をひったので気がほどけ(しゅうとめのへをひったのできがほどけ)
    念仏と屁ばかりひっていい姑(ねんぶつとへばかりひっていいしゅうと)

 一人の女性における、周囲の評価や本人の自覚の変遷は実にシビアである。老境は「色気」が劇的に剥離する〈屁〉的現象と言わねばならん〜。娘や嫁の「色気」はどこかにスッ飛んで、単なる咳や念仏と同じ行為になってしまっている。厳密には、同じというのでもなく、老境の〈屁〉には、その変貌・変遷の歴史がこめられていて、あまりの今昔の感に可笑しみや悲しみ(?)が滲んでくるのであ〜る。男性の場合も同じだというかもしれないが、女性の場合はその落差が大きすぎるのさ。
 この「おんなの屁」の章ではもう一つ大事な指摘がある。
 同じく年ごろの女性でも、下女の放屁となると、色気のないことおびただしい。
 ○とりはずし
 下女のおさんがかまどの前で、苧をうみながら、ぶうととりはずし、はっと思ってうしろをみれば、久介がいたので、そ知らぬ顔で口真似をしてごまかそうと、口でぶうぶうというと、久介がうしろで、
「なるほど、おさんどのは口真似が上手だ。はじめにしたのとすこしもちがわぬ」
(『はつわらい』天明年間)

 というのがあるかと思うと、また、
 ○お屁が高い
 むすこと下女と色ごとになり、九つ(午前零時)の鐘を合い図に、むすこが下女のところへ忍び込む約束をして、その時刻になったので、そろりそろりと下女の部屋へ這いかけ、めざす相手の下女もわからぬほどのまっ暗やみを探しまわり、下女が二、三人並んで寝ているなかで、ようやく相手の下女に探りあたると、
「若旦那さまか」
「おふくか」
 という拍子に、ぶっと一発。
 下女「しっ、お屁が高い」
(『梅の笑』寛政五年)

 これもまた、色気のないことおびただしい。

 ここでは下女という階層が下の女性にとって、屁は「不思議な色気」を醸すものにはなりえていないことが指摘されている。これは身分差がもたらしている〈屁〉的現象なのである。

 かくして、江戸川柳や小咄には、男性か女性か、嫁か下女か、というような対立軸もはらんで、娘・嫁から姑へといたる女性の一生が〈屁〉を介して微妙に作品化されているのがわかる。性差、身分、立場の変遷を〈屁〉は忠実に現象させており、そのときどきの羞恥が定位する〈屁〉というものが、一生の中で揺れ動いていく社会現象であることを如実に示しているんだね。

 このほか、結婚式で屁を取り外して井戸に身を投げた花嫁の落語や、人前で恥をかかそうと嫁に屁をなすりつけるが「音の出る屁は長生きする」と言われて「いまのは私の屁」と浅ましく反応する姑の小咄が紹介してある。〈屁〉にあらわれる女性の振る舞いの終末を、章の締めくくりでは「いやはやどうも……元女性ともいうべき老醜のあほらしさよ! ああ、花のいのちは短くて……」と評しておる。
ラベル: 女性
posted by 楢須音成 at 13:46| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月15日

〈屁〉はなぜ軽蔑されるのだろ〜ヵ

 どの民族にしても〈屁〉は軽蔑するだろうね。そりゃ、ま、我家においても三位一体(見えない、臭い、音がしたり・しなかったり)の〈屁〉を発生させることは禁じられているし、それが不可避の現象であったとしても蛇蝎のごとく忌み嫌われる。だけど多分、離婚の原因になるようなアフリカほどタブーじゃないよなァ。

 アフリカ大陸における〈屁〉については、O・呂陵の『放屁という覚醒』(二○○七年、世織書房刊)に詳しい。そこに紹介されている松園万亀雄の『グシイ・ケニア農民のくらしと倫理』(一九九一年、弘文堂刊)は、ケニア西部高地の南西部に位置する高原に住むグシイ族の民族誌であるが、この中でもグシイのタブー(禁制)の一つとして〈屁〉が指摘され考察されている。その事例は示唆に富んでいるものばかりである。

 そもそも〈屁〉がタブーであるとはどういうことなのか。松園は「性、排泄、放屁、身体露出、身体接触にかんする異常なまでのつつましさ――禁制――がグシイの行動規範の核心である」と述べて「性行動、性器とその周辺、裸体、排泄など、いわゆるシモネタに関連した言動や情景にグシイがいかに過敏に反応するか」を描き出している。

 興味深い事例の中で、とても印象的なのは「ロバはなぜ軽蔑されるのか」という一節だ。
 屁のついでにロバのはなしをしておきたい。
 古今東西、ロバを愚鈍な動物の代表とみなし劣等視する社会はおおい、グシイもその例にもれない。グシイのばあい、それはロバの行動や動作が彼らの恥の感覚をいたく刺戟し、ほかの動物以上に目の恥をあたえることに関連している。背骨がひんまがるほどの重たい振りわけ荷物をつけて歩かされながら、糞をたれ大きな屁を連発するさまはじつに壮観で、それをみればグシイの心情はあるていど理解できる。
 ロバは排泄や放屁の傍若無人さ、それに突然立ちどまってテコでもうごかない依怙地さと、急に暴れだして、あらぬ方向に走り出すといった癇癖などから、じぶんでじぶんの身体を制御できない動物の典型とみなされており、そのためにグシイはロバを軽蔑するのだ。
 ロバの直情径行な性格がグシイの女たちにたいへんな心理的恐慌をあたえることがある。
 青空市場には、着飾った女たちが大勢あつまってくるが、荷駄をおろして身がるになったロバがときおり驚天動地の挙にでて、彼女たちのどぎもをぬく。(中略)
 突然、雄のロバがかけだして雌の体にのしかかろうとする。雌はいやがって逃げる。二頭のロバが追いつ追われつしてかけまわり、マーケットの広場はたちまち騒然たる修羅場となる。(中略)
 たまげるのは、そんなことではなく、女たちの泡をくったような狼狽ぶりだ。売り手に買い手、ひやかし組の区別なく、若い娘もママたちも「オーペ、オーペ」と仰天したときの女性特有の声をあげながら、てんでに走りだし、広場のまわりの店舗にかけこんだり、その裏手にまわったりして姿をかくそうとする。老婆たちは唖然としながらも比較的おちついている。男たちはというと、女たちが右往左往するさまを目でおいかけながら薄ら笑いをうかべている。こうした対照あざやかな反応の差は、性にたいするグシイの羞恥心をしめすと同時に、性にかんする男の攻撃性と女の消極性という二元的な対立をはっきりしめしている。
 (中略)ロバについて彼らがまっさきに連想するのは、こうした直情径行ぶりであり、そのためにロバはグシイ文化のなかで異端視され軽蔑されているのだ。棒きれを手にロバを追うのはたいてい年のいった老婆だが、グシイにいわせれば彼女たちはとっくに「子どものように恥をわすれてしまった」から平気なのだそうだ。

 ここに描き出された情景はロバと人々の反応を語って重層的に意味がある。ロバや人々が示しているものは何であろうか。そして結局、ロバはなぜ軽蔑されるのだろうか。語られていることから抜き出してみる。

軽蔑されるロバの振る舞い
(1)背骨が曲がるほど過酷な荷物を背負わされて歩きながら、傍若無人に糞を垂れ屁を連発する。
(2)突然立ち止まって依怙地にテコでも動かなかったり、急に暴れだしてあらぬ方向に走り出す癇癖がある。
(3)市場で荷駄を下ろした身軽な雄のロバが突然駆け出し、雌の体にのしかかろうとして大騒ぎになる。

 このようにロバは(1)→(3)と過激化する無軌道ぶりを示す。歩きながら傍若無人に糞を垂れ屁を連発し、急に動かなくなったり、あらぬ方向に暴れたりするロバは「身体を制御できない」愚鈍さ、だらしなさ、無秩序さを示している。松園は「じぶんでじぶんの身体を制御できない動物の典型」であり「そのためにグシイはロバを軽蔑する」と核心を指摘するのだ。
 
 まず「身体制御」の可不可が人間の倫理観や羞恥心に深く根ざしていることに注意したい。では、なぜ身体を制御できないことは恥ずかしいのか。制御とは何か。

 生活において、制御(や節制)がないとは「だらしがない(きちんとしない)」「下手糞(うまくできない)」「不潔(きれいにしない)」「乱暴(暴力を抑えられない)」「傍若無人(勝手に振る舞う)」「屁をこく(がまんしない)」…等々、規範(身近には作法やルールなど)からの逸脱を示す。
 このときの方向(意味)づけられた制御(の行動や観念)は文化を成立させる基本なのである。(制御のなさが敵対行為になり嫌われるという現象は、動物同士の世界でも、仲間内で確保した食物の奪い合いなどに露骨に現れる。動物の集団の形成には、お互いを認め合うときに生じる、制御という心的機能がいくらかでも必要なのだ)

 しかし、生理に根ざしたものを制御する「身体制御」が「文化現象」だということは実感としては見えにくいかもしれないね。我々は普段あまりそれを意識しないのだが、例えば〈屁〉や〈ゲップ〉や〈涙〉は制御された文化として現象しているといわねばならないのだ。
 生理を我慢したり解放したりする(何気ない)所作は、個人の単なる生理現象を超えた文化現象なのである。文化現象は規範であり秩序に沿うものであって、我々はそうやって生理を現象させている。

 もちろん、文化というものは、逸脱それ自体も(禁制として)包み込むのであり、規範や秩序からの逸脱は羞恥や嫌悪をを刺激する。文化現象は規範と無秩序の表裏の現象である。規範や秩序の側に立てば、逸脱は無秩序に転落しており醜い。醜いことが我が身に起これば嫌悪や羞恥の対象は自分自身になるが、ほかに起これば相手に嫌悪を覚える一方で、相手を恥ずかしい存在と思うわけさ。

 ロバは「普通の動物」としての慎ましさすらかなぐり捨て、人間の使役をするという絶対服従の規範からも逸脱した(禁制などどこ吹く風の馬鹿気の至りの)制御のなさによって、醜悪そのものである。。

 ロバの(1)〜(3)の振る舞いは、規範の側からは嫌悪であり恥である。ロバが究極の制御不能(雌への性行動)をさらけ出す市場の場面(3)は、驚天動地の醜悪さだ。嫌悪がロバはもちろん見る人の恥まで刺激し、その恥は嫌悪をますます刺激する。ロバへの嫌悪と、見る人の恥の双方向性は、醜悪なロバの振る舞いが自らを映す鏡だからだ。だって、ロバのように自分も〈屁〉をする危険はあるのであり、いつも意識下では「〈屁〉をする=ロバになる」可能性に縛られているのだから。(もっとも、市場の女たちの混乱は〈屁〉を飛び越えて性的羞恥を刺激しているからだ。この混乱は「性行動をする=ロバになる」という構図になる)

 しかし、それでも自分はロバ(のように無制御)ではない、ロバとは違う、という確信はロバに対する強い強い軽蔑に転化する。ここに軽蔑がしっかりと胚胎するのだ。軽蔑は嫌悪や恥から自分を隔絶(無縁化)しようとする心性だ。だから軽蔑は、常に嫌悪や恥と表裏一体なのである。(ただし嫌悪や恥は、必ずしも軽蔑と表裏一体ではない)

 人間もロバと同じように屁をする身体構造だね。しかし、人はみだりに〈屁〉はしない。してはいけない。制御しなければいけないという文化を持っている。我々が〈屁〉を軽蔑する(あるいは嫌悪したり恥ずかしいと思う)のは、制御を外すからである。あらゆる制御力こそ人間にとっての(善悪は問わず)至上の価値なのさ。

 かくして、あたり構わず糞をたれ大きな屁を連発するロバは〈屁〉そのものとして軽蔑されている。無様で愚鈍な存在として軽蔑されている。まして〈性〉の制御不能は究極の醜悪であり、ロバは嫌悪と恥と軽蔑にまみれた存在になってしまうんだね。

 グシイにおいてロバは(屁に象徴される)制御の崩壊した醜悪の極致なのであり、人間が〈屁〉をすることも醜悪と同列に見なされてしまう。まさに〈屁〉は「ロバ」だから、軽蔑されるのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 18:07| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

続・〈屁〉はなぜ軽蔑されるのだろ〜ヵ

 我々が自他の〈屁〉(という行為)を軽蔑するのは、本質的に「制御」のタガが外れたことへの嫌悪や恥に起因する。軽蔑する以前に我々はそれを嫌悪したり、恥と見なしたり(自ら深く恥じたり)しているのだね。もちろん、見えないとか、臭いとか、音がする・しないとかの不快な属性自体も十分軽蔑に値するが、実はそういうものを制御できないことが、より根本の問題になっているのである。

 松園万亀雄が『グシイ』の中で描いたロバは、制御のタガがはずれている劣等動物の極致である。まあ、人間のように文化を持たないロバにとって、屁は制御するもしないも、生理的に赴くままの振る舞いに過ぎないのではあるが、それを見る人間にとっては制御のタガが外れている〈屁〉そのものであり、ロバのすることなすこと愚鈍で醜悪なもの(典型)に見えてしまうのである。

 松園は市場でのロバの暴走と、グシイの人たちの右往左往ぶりを描いた。ロバは突然駆け出し、ついに雌ロバへの性行動に及ぼうとしたのだ。

暴れるロバに対する人々の振る舞い
(ア)直情径行なロバの行動に(娘も母も…)女たちは泡を食って狼狽し、恐慌をきたす。
(イ)男たちは目で追う余裕があり、薄ら笑いを浮かべて見ている。
(ウ)老婆たちは唖然としながらも落ち着いていて、棒きれを手にロバを追う役目をして事態の収拾をはかる。

 あわてふためく(ア)〜(ウ)のグシイの人たちの反応は「パニック→平静→沈着」という心理の幅を見せて、性別・年代別に分化している様子が示されているね。若い娘や母親たちは逃げまどい、男たちは薄ら笑いを浮かべて眺め、老婆たちは棒きれを手にロバを追う。これはどういうことなのか。

 市場の情景は、ロバが愚鈍で醜悪な基本生理の延長で、無軌道な(しかし種を保存する)性行動をとっているのに対して、グシイの人たちはどこか役割分担して対処しているような印象を与えるのである。
 もう少し整理してみる。

(A)娘や母=嫌悪と恥のルツボ→逃げまどう
(B)男たち=(嫌悪と恥)笑う→見てるだけ
(C)老婆=(嫌悪と恥)あきれる→収拾する

 つまり(A)→(C)となるにつれて態度は冷静沈着になっているのであるが、だからといって彼らのロバに対する評価が違っているのではない。嫌悪と恥は不動であるものの(B)や(C)はその嫌悪や恥から心的に距離をとることができている(対象化している)というべきだ。そういう三者にあるのは社会関係(立場)の相違である。

 ロバの暴走が〈性〉に関することであるのには注意すべきである。立場による反応の相違は〈性〉に限らず〈屁〉においても出てくるものだが、松園は「性行動、性器とその周辺、裸体、排泄など、いわゆるシモネタに関連した言動や情景にグシイがいかに過敏に反応するか」ということ、それも万人一様でないことを描き出しているわけだ。(もともと〈性〉は〈屁〉と違って「嫌悪から出発していない恥および羞恥」を現象させるものだ。必ずしも〈性〉は嫌悪を喚起しないものの、醜悪なロバの無軌道な性行動は猛烈な嫌悪や恥を喚起している)

 嫌悪と恥のルツボ(パニック)と化すのは「若い娘や母」であり、見ている「男たち」はそれを笑う余裕がある。男の余裕は、松園が性的な力関係を指摘するように(グシイの)男性上位(優位)社会の男の立場に起因している。手を下さないで見ているだけの冷たさには、ある種サディスティックな眼差しもあるだろうさ。自分の嫌悪や恥を封じ込めるのに、社会的優位に立つことやサディズムは有効なのである。(ただし、男たちから嫌悪や恥が消えているわけではない)

 あきれている「老婆たち」は、まあ、あきらめの境地であろう。逃げないで事態鎮静の処理をするという極めて現実的な行動(制御)をするのは、ある種お役目としての社会の位置づけ(要請)があるんだろうね。とすれば「若い娘や母親」は「老婆たち」の過去の姿なのであるし、ここには一連の女の一生を見なければいかん〜。

 おおまかに言えば、男たちが傍観的な役割を変えないのに、女たちは介入的に役割を変える(変わる)のである。これを「制御」の観点から見ると、自らの制御に成功しているのは(C)→(A)という順になる。

(A)女 …パニクる当事者
(B)男 …笑ってる傍観者
(C)老婆…あきれる救援者

 嫌悪や恥の表出が、こうした立場あるいは役割の違いによって変化するとは、嫌悪や恥をバランスする心的な軸足の位置が社会関係で動くということである。同じロバを見て、人々が(A)〜(C)に分化するのは、軸足で変わる自らの制御のあり方の違いを示しているのだ。

 我々が抱く〈屁〉に対する軽蔑とは〈屁〉の制御ができない愚鈍や醜悪(に対する自分の嫌悪や恥)から隔絶しようとする心的な反応なのであった。グシイでは愚鈍で醜悪なロバは、まさに〈屁〉そのものとして〈屁〉を極端な姿で体現している存在になっている。我々の〈屁〉への嫌悪や恥や軽蔑は社会関係(立場)に応じて制御され、例えばグシイでは(A)〜(C)のような行動となって表出してくるのだった。

 屁をする種族である人間よりも(もちろん、ほかのどんな動物よりも)制御がないロバは(嫌悪と恥の極みにあり)軽蔑に値する。そんな醜悪なロバが発情して暴れまくっては社会(市場)の混乱は免れない。誰かが幕引きすることになるが、ここではパニクるのも女性なら幕引きするのも女性というグシイ社会の構造になっているのさ。

 この場合、男性が傍観者に徹するというのも随分なものであるが、まあ、我家においても、誰かが透かし屁をしたとして、娘も嫁も一緒になってパニクっておるが、音成は騒ぐことなく傍観(泰然自若)しておるし…。

 それにしても、グシイ社会における老婆の存在は何か奥行きのある社会の構造を感じさせるではないか。
posted by 楢須音成 at 14:38| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月24日

続続・〈屁〉はなぜ軽蔑されるのだろ〜ヵ

 民族を越えて〈屁〉は大なり小なり軽蔑される。その軽蔑の度合いはグシイ社会では、傍若無人に屁をするロバに象徴される。ロバは壮観なほどに屁をする愚鈍で醜悪な動物なのである。

 グシイのロバに見られるように〈屁〉に対する制御のなさが嫌悪や恥を喚起し、軽蔑を生む。このときの異音異臭は嫌悪や恥や軽蔑を助長するものであっても、それ自体が本質ではない。我々は動物社会の行動や秩序とは別の文化を形成したが、制御に対して格別の価値を置いてきた。文化現象は精緻な(心的かつ身体的)制御の体系なのであ〜る。

 すべての民族が〈屁〉を大なり小なり軽蔑するのは、もちろん自らの制御のあり方にもからんでいる。グシイの青空市場での人々の態度を見れば、軽蔑という反応も、我々の社会関係や構造(つまりは、制御)の中で機能している態度であることがわかるね。グシイの社会構造を松園万亀雄は家族関係から細かく分析している。

 最初に松園は「欧米の現代家族では夫と妻、親と子といった家族内の地位と役割よりも個々のメンバーの個性が重視され、それを前提にしたうえで家族のまとまりやメンバー相互の責任が強調されている」と指摘する。これは現代日本でも同様で、食事のテーブルを囲んでも和気あいあい、気兼ねなどない付き合いをしていて「家庭内のタブーは最低限におさえられている」という。

 このときの礼儀作法は、むしろ家族以外の人との付き合いや、子供が成長して社会に出てからの身の処し方として機能しており、「家庭でしつけられ世間で応用するためのもの」である。

 対極にあるのがグシイの家族である。家族成員は分離と断絶が強調されている。「父、母、息子、娘の地位と役割は厳密にさだめられており、それぞれが地位に応じた距離をとり忌避行動をまもっている」のである。礼儀作法はまず、家族のメンバーを中心に家族の中で厳格に展開する。そこには、さまざまのタブーがあり、形式ばった尊敬関係があるという。
(グシイ社会では)子どもたちは親とくに父親を敬遠するし、親といっしょにいるときの彼らの身体表現はとてもつつましやかだ。親と子が気軽に会話をかわし、おもしろい冗談には声をあげて笑い、そばでは小さな子どもが勝手にはしゃぎまわっている、といったうちとけた家庭だんらんの光景はグシイではまずみられない。グシイの家族倫理は家庭内の地位と役割イメージを固定化しその純粋性をたもつことに最大の価値をおいており、逆にわれわれ現代日本の家族はこうしたイメージの純粋性にはあまり関心をはらわなくなってきたのだともいえる。

 松園はグシイの文化と社会関係の核心的で伝統的な価値は、このような「尊敬」に付随して「恥」もあると観察している。(グシイの羞恥心を衣服の変遷を通して詳細に検討しているが、ここでは触れない)
 親と子という隣接世代の人間はおたがいに分別をはたらかせ、一定の距離をとり、尊敬しあわなければならない。彼らはおたがいに恥の人なのだ。
 子どもにとっては、じぶんの実の親だけでなくオジやオバも彼らの配偶者も恥の人であり、結婚後は妻(夫)の両親とそのキョウダイ、イトコも恥の人になる。中年かそれ以上の年齢になって、じぶんの子やオイ、メイが割礼をうけるとしごろになれば彼らも恥の人となり、さらに彼らが結婚すれば、その配偶者とキョウダイたちも恥の人になる。
 ようするにグシイにとっては、血族と姻族をふくめて上下の隣接世代の人間は、なんらかのつきあいがあるかぎり全員が恥の人であり、忌避の関係が生じる。その忌避のていどは同性より異性にたいして、オジ、オバよりも兩親にたいして、そして実の両親よりも義理の両親にたいしてつよいといったぐあいに性別と親族関係のとおいちかいによって濃淡さまざまだ。(中略)
 忌避の関係は、さわる、みる、たべる、はいる、といった身体動作と言葉づかいのほか顔の表情によってもあらわされる。子どもは親とその世代の人間がいるところで、不快感の表現である舌打ちをしてはいけないし、相手の目をみすえてもいけない。また、煎ったトウモロコシやモロコシをたべるときのようにモグモグ口を動かすのは、相手を愚弄する攻撃的な表情とされ、絶対にやってはならない。(後略)

 このような恥という忌避の関係性の中では〈屁〉の一発がどういう意味を持つか。それは問うまでもなく、絶対に絶対にやってはならない粗相であ〜る。
 ところが、グシイには忌避関係と正反対の冗談関係という構造があるのだ。

 「冗談の人」(アバント・ブエチェチェ)とはじぶんと同世代のひと、および親子をとばしたひとつおきの世代の人びとをさす。つまり、キョウダイやイトコ、それに祖父母と孫が冗談の人ということになる。義理のキョウダイも基本的には冗談の人だが、姻族であるためにそれなりの遠慮と気がねは要求される。
 冗談関係にある人びとのあいだでは、わいせつなことがらも平気で口にすることができる。相手を最大限に侮辱し、けなすために、そのひとの母親をひきあいにだして「おまえのかあちゃん、なんとかかんとか」式のきたない言葉をあびせたり、あるいはそのひとと母親とのインセストを示唆するような罵倒の表現をつかうことはおおくの社会でみられるが、グシイにもその種の表現がいくつかある。(中略)冗談関係にある結婚前の青年たちが夜、だれかの独身者小屋にあつまって猥談でもしているような雰囲気では、こうした侮蔑語がときおり出る。
 恥の人のまえでは禁句とされている中傷、ひやかし、呪いの言葉も彼らのあいだではゆるされているし、雑談のなかで相手の傷口に塩をこすりつけるような中傷誹謗をすることもよくある。「ゆるされている」というのは状況を的確にいいあてていないかもしれない。むしろ、彼らはそうすることで相手への親愛の情がいっそう増幅してつたえられると信じているのであり、中傷され侮辱されたがわも威嚇的な身ぶりと効果的な言葉によって反撃することがその場の座興になることをしっている。
 彼らはたんに言葉のうえで冗談をいいあうだけでなく、おおげさに相手をたたくまねをしたり、とっくみあいをはじめたりもするし、また許可なく相手の小屋にはいりこんで品物を無断借用するといった、通常のエチケットに反するような行動をとることもよくある。

 ここでは〈屁〉の一発は許されるだろうか? 多分許されると思う。(松園の記述はそれには触れていないけどね)
 興味深いのは、グシイでは父方および母方の祖父母と孫とが冗談関係にあるのである。つまり、グシイにとって祖父母はキョウダイのようなものなのだ。
 祖父母はいつも孫のことを気にかけているし、子どもがおおくて母親の世話がいきとどかないときなど、孫のひとりふたりはいつも祖父母の家で寝とまりしている。実家の親に、半年や一年あずけっぱなしにして、ときどき子どもの顔をみにいくという母親もいるし、そんな母親を非難するものはだれもいない。割礼をうける年齢にちかくなっても、そのあとでも、孫は平気で祖父や祖母と同じベッドでねることができる。そのほか親にたいしてしてはいけないといわれることは、祖父母にならなんでも平気だし、祖父母もそれをよろこんでくれる。
 小さいとき父親にぶんなぐられそうになって、ちかくの祖父母の家に逃げこんだというおもいでは、男女にかかわらずたいていのグシイが持っている。父親は祖父母とは忌避の関係だから、家のなかに踏みこんで子どもをたたくことまではしない

 忌避関係や冗談関係はそこだけ取り出せば、多くの社会で見出せるかもしれないが、グシイの社会ではそれらがワンセットで存在しているのが特徴だ。つまり、同世代間や祖父母と孫の間にある冗談関係は、以上の引用からもうかがえるように、常に親と子との忌避関係とワンセットで存在しているのである。松園はこう指摘する。
 冗談と忌避という対照的な行動パターンをくみあわせた人間関係のありかたは「そのような傾向がある」とか「そんなひとがおおい」とかいうなまやさしいものではなく、絶対的な道徳や倫理にささえられた社会制度としてその社会のメンバー全員の日常の行動を細部にわたって規制し強制している点で、私たちの社会にもみられる同類の現象とはことなっている。
 門閥や社会階級、さまざまな職業集団、官僚制といったものを発達させてこなかった社会は、そのかわり男女差、年齢差、世代差、血族と姻族、血縁関係のとおいちかい、男系と女系、などのような、人間が集団をつくっている以上かならずそなわっているものを、せいいっぱい活用してきた。そうやってメンバーをグループわけし、そのなかに支配と従属、協調と対立、親和と忌避、依存と保護など、さまざまな人間関係を持ちこみ、それを道徳や規範とすることで社会の秩序をいきわたらせようとしてきた。グシイの忌避と冗談の関係は、そうした努力がもっとも精緻なかたちで表現されたひとつの典型だとおもわれる。

 繰り返しになるが、松園は「冗談と忌避という対照的な行動パターンをくみあわせた人間関係」が男女差、年齢差、世代差、血族と姻族、血縁関係、男系と女系など、人間が囲い込まれる基本的な集団化の(観念の)中に、縦糸横糸となって強く強く編み込まれていると言っているわけだね。

 忌避と冗談は道徳や規範の整備という形をとり、家族や集団の中の支配と従属、協調と対立、親和と忌避、依存と保護などにおいて、独自の社会関係や構造を作り上げる。松園はそこに門閥、社会階級、職業集団、官僚制などの制度を発達させた社会とは全く違うダイナミズム(原理的活力)を見ているのさ。
 息子は排泄や裸をみせることなど、じかに性とむすびつくような行為については父親どうよう母親に対しても気をつかうが、その一方、母親にたいしてはより親密な感情をもち、いろんな相談ごとをすることができる。進学、就職、結婚など人生の大事はおかねがかかることもあって、とうぜん父親の許可がいるが、そのばあいでも直接父親と談判するのではなく、たいていは母親をとおして父の反応をきく。(中略)
 性的な恥は母親と娘のあいだで、いちばん弱い。これはおそらく男子が介在しない女どうしの関係だからだろう。男たちは母と娘について「恥なんて、あったとしても、ないもどうぜん」とか「母と娘は姉妹のようなものだ」といういいかたをよくする。こうした女子特有の同性親和は義理の母娘の関係でもみとめられる。
 (中略)
 息子と両親との関係は割礼をさかいにして劇的に変化するが、母と娘との関係はほとんどかわらない。母親にたいして一般的な尊敬の態度が要求されるだけだ。

 こう見てくると、家族の中では父親の権威が絶対で、母親がそれに次ぐ。このように、子どもは両親と基本は忌避関係にあるものの、母親とは密着しており独特の関係であるのが注目されるのだ。打ち解けた冗談関係にある祖父母のうち、とりわけ祖母と孫との関係は密着したものであろうと思われる。母親や祖母という(女性の)存在には、子どもが成長・拡張していくときの緊張関係を受け止める緩衝的な役目があるのである。(人類史は男性優位に傾倒していると見えながら、こういう女性の、男性の逆をいく相補的なポジションが時系列的に連続し、変化し、機能している。力強いねー)

 以上のことをふまえると、発情したロバが暴走しているグシイの青空市場で、老婆がとった振る舞いの道筋(役割)が社会関係の中に浮かび上がってくるではないか。

 ロバを追う老婆は「子どものように恥をわすれてしまった」から平気なのだとグシイ(の男)は批評する。騒ぎを収拾するためにロバを追うのは、むしろ恥ずかしいことなのだ。恥を忘れることは恥である、という強い倫理感が作用するだろうからである。(実際には老婆は恥を忘れているわけではない。恥を忘れたように振る舞っているだけである)

 グシイでは「忌避と冗談」の社会関係の中に「醜悪なロバ=〈屁〉」が現象する。そのとき激しい嫌悪と恥とともに(それらから自分を隔絶しようとする)倫理(制御)に昇華した軽蔑が胚胎する。そして「ロバの醜悪」→「嫌悪と恥」→「軽蔑」→「老婆の後始末」へと円環していく道筋の中で、老婆は嫌悪や恥や軽蔑を乗り越えて(混乱を処理する制御の姿を見せつけ)男たちに拮抗する優位性を現実世界に(そのときだけかもしれないが)確保しているように見える。

 もちろん、グシイ社会に限らず、我が家にも〈屁〉はしばしば現象しているわけさ。しかし、どうも老婆の役が欠如していて、いつも混乱の極みなのだよ〜。
posted by 楢須音成 at 00:00| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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