2007年06月01日

言葉の連打で〈屁〉のリズム感を出す

 この「屁」という文字の発音は「ヘ」(または、ヒ)である。我々の言語空間には、意味的に〈屁〉に関連するわけではないものの、「ヘイ」「ヘー」「ヘッ」「ペ」「ベ」というような「ヘ」系列の音韻が充満している。滑稽時事放談をまとめた『抱腹百話』(1910年、大月隆著、文学同志会刊)は、その序文から「おなら尽くし」であるが、本編に収められた「屁を論ず」は「ヘ」系列の音韻をリズミカルに連打している。

 まず、序文を引用してみよう。

 熟々(つらつら)案じ奉るに、凡そ眞面目なるものは欠伸(あくび)の如く、於道化(おどけ)たるものは放屁(おなら)の如し。欠伸(あくび)千里の長きも豈(あに)お奈良の大佛(だいぶつ)の世界無比なるに鹿(しか=如か)ざらんや。されば欠伸(あくび)は飽日(あくび)なり、放屁(おなら)はお奈良なり。彼地(かのち)に春日(かすが)の社あり、春日はハルヒと讀みハルとは腹の張る事なり。腹張れば屁を發す。屁を發すれば人笑ふ。人笑へば腮(あご)をはづす、腮(あご)をはづせばお臍(へそ)を宿變(やどがえ)す。されど本書は之を以て滿足せず、更に一歩を進めてまさに尻より欠伸(あくび)を發し、口より放屁(おなら)を發するの妙境(みょうきょう)に到らんと欲す。乞う眼玉をパッチリと開いて見よ、鬼が出るか佛(ほとけ)が出るか。
 迷痴嘘八百念(めいちうそはっぴゃくねん)某月某日

 序文がこうだからといって、別に〈屁〉の本というわけではない。〈屁〉の話は「屁を論ず」の一編だけである。序文もそうだが、どうも〈屁〉を語るとこういう戯文になってしまうね。以下に引用するが、一体全体ここに何を読み取れというのだろうか。

 屁は兵(へい)と讀み叉平(へい)と讀む。兵(へい)法に伏兵(へい)、突貫あるが如く、すかし屁(べ)、握り屁(べ)等あり。海に太平(へい)洋あれば、韓国に平(へい)安道あり。支那に韓信と云ふ兵(へい)法家あれば、日本に源平(ぺい)二氏の戰あり。官幣(へい)大社に靖國神社ありて兵(へい)士の霊を祭り、越前に永平(へい)寺と云ふ御寺ありて、南無阿彌陀ブーツと佛の屁(へ)帳開帳をなし。能書ばかり立派で屁(へ)糞の萬金丹あれば、馬鹿に匂ふ鼬の最後屁(ぺ)あり。京都を平(へい)安の地と云へば、朝鮮の舊都を平(へい)壌と云ふ。年始状に平(へい)素の疎遠を謝すと書けば、平(へい)凡投書は没となる。人を拜するに平(へい)伏し、人に怒るを不平(へい)と稱す。昔徳川家康公天下を取り、諸大將を集めて祝賀の際誤って屁(へ)を發し、人々思はず失笑したるに。島津公進み出でゝ、天下太平(へい)に御目出度う御座いますと述れば、伊豆守も叉進み出でゝ天下の兵(へい)權御家に納りて御目出度う御座いますと述べた。そこで諸侯皆感動して、ヘイ々々々々(へいへいへい)と云ひしより、旦那が番頭と呼べばヘイと答へ、番頭が小僧と呼べば叉ヘイと答へ、七兵衛(べい)八兵衛(べい)權兵衛(べい)と云ふ名も出來。藝妓娼妓もヘイ今晩はと云ふに至れり。

 序文が「おなら尽くし」なら「ヘイヘイ尽くし」という感じだね。とにかく「へい」の連打で思いつく限りのエピソードの断片を集めてある。そこには筋の通った脈絡もなく、意味ありげな意味も取り立ててないわけさ。それにしても日本語は「へ」が多い言語だねー。このリズミカルな親和性は何だろうか。

 まあ、これでは話の収拾がつかないので、大月は「屁の製法」「屁を発する方法」に話を続ける。これはまともな論であって、あんまり面白くない。これではつまらんと思ったのだろう。大月は再び意味なき「へ」の連打に立ち返るのである。

 さて叉屁の効用如何と云ふに、鳥羽僧正の屁合戦の繪卷物には、尻の穴を開いて屁を發し、敵味方入亂れて戰ひ、屁糞玉に楯の破るゝ圖あり、また忠臣の楠正成は千早城に於て、屁糞の熱湯を以て寄手を惱し。昔より兵を以て天下を取り、叉兵を以て城を乘取らる。兵に勝ちて太平となり、叉兵に破れて平氣で居られぬ騷ぎとなる。日露の戰爭には大兵を滿洲に送り、露兵を逐まくり、蓋平を占領す。叉海には東郷平八郎氏、旅順に閉塞隊を指揮し、平和に復して後守備兵を置く。兵に近衛兵あり、憲兵あり、歩兵あり、砲兵あり、騎兵あり、工兵あり、輻重兵あり。要塞砲兵あり、屯田兵あり、猶叉海軍に水平あり、機關兵あり、信號兵あり、猶叉徴兵令ありて常備兵、予備兵、後備兵、補充兵、國民兵あり。造兵廠ありて兵器を製造し、兵學校ありて兵を養成す。兵の必要なること斯の如くにして、叉何人も無くてはならぬは紙幣貨幣である。諸君奮つて我國をして益々富コク強兵、ブー運長久ならしめよ。まだまだ屁理屈は澤山に所持すれ共、餘りヘタの長談義は反つて御迷惑と存じ、ここらあたりで御免を蒙る、ヘイ左様なら。

 屁の効用を語ると言って、何を語っているのやら。ただただ「ヘ」の連打ばかりが小気味よく響く。とってもリズミカルなところが心地よい(かな?)。「屁を論ず」とは言いながら「屁を語る」という感じになってしまったわけだが、じゃあ、この〈屁〉の世界って何なのだというと、「ヘ」つながりでリンクされた語彙とエピソードがつくる〈屁〉の万華鏡であるね。そこでは、どんな結びつきもアリだ。そして例えば「常備兵、予備兵、後備兵、補充兵、國民兵…」と連呼されるとき、しっかり〈屁〉がリンクされていて何やら面白可笑しくなるのである。

 オチのある笑い話を集めた本ではあるけれど、どうも〈屁〉だけは収拾がついていない。言葉の連打に徹して、自分でも言っているが、「ヘタの長談義」の一編であ〜る。

 では、収拾がつかないときの便利な合い言葉「ヘイ左様なら」。


ラベル:抱腹
posted by 楢須音成 at 07:41| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月03日

糟味噌の屁の匂ひなるかな

 耳で聞く言葉というのは、しばしば誤解をまねくことがあるね。あるいは、言葉をひらがなで書いても同音異義語や文節区切りってものが、いったん音だけの世界に還元されて再び意味を再構成されるわけで、そのとき意図していた意味と受け取られる意味が変わってしまうことがあるのさ。福富織部の『屁』にその見事な一例が紹介してある。

 昔、ある歌人が、非常によく出來て居る庭園を見て早速筆を執つて

    のとかなるはやしにかゝるおにはまつ
        かすみそのへのにほひなるかな

 墨痕彩かに大和假名で書いた短冊を送つた、ところが主人は

    喉が鳴る早や死にかゝる鬼は待つ
        糟味噌の屁の匂ひなるかな

 と意解したからたまらない。早速歌人に其の非禮を詰問したが、其歌意は斯うである。

    長閑なる林にかゝるお庭松
        霞ぞ野邊の匂ひなるかな

 この場合は濁点を打たない仮名表記の習慣もつまづきの原因である。いやはや読めば読むほどに、どっちにも解釈できる。だけど、どうして屁と思い込むような誤解をしてしまった(してしまう)のだろうか。勝負は最初に一読したときの直感だねー。

 大体、全部ひらがなで書くと急には意味が取りにくいわけさ。当然ながら読む速度は遅くなる。ひらがなばかりの幼児の本は大人には読みにくい。我々はふだん漢字で表記されるものをひらがなで「見る」とその文脈とともに一瞬迷うものである。幼児の側に立てばそれが普通なのだが、かれらは極めて悠長である。ゆっくり見て音を確認し(思い出し)て、読んでいる(意味を把握している)わけさ。

 そこで純真な幼児のつもりになって「ゆっくり」見てみよう。

のとかなるはやしにかゝるおにはまつ かすみそのへのにほひなるかな

 見るという行為はまず全体に目配りするね。この歌を先入観なしに「見る」と、どういう単語が思い浮かぶだろうか。そりゃ、知っている単語だね。凡人の場合は「おに(鬼)」「まつ(待つ)」「みそ(味噌)」「へ(屁)」「にほひ(匂い)」などとなるのである。まあ、これが素養たっぷりの文人ともなれば、「のとか(長閑)」「まつ(松)」「かすみ(霞)」「のへ(野辺)」「にほひ(匂い)」などとなるわけである。(歌の素養があれば頻出単語だもんね)

 このような最初の一読の直感(着眼)に導かれて、意味はたちまち構成されるのさ。では、「へ」を「屁」と解して歌人の非礼を詰問した主人は教養のない凡人であるのか?

 織部がどこからこの話を引用してきたのかわからないが、その紹介は主人の凡人ぶりを笑う小話になっている。まあ、それでもいいのだが、音成は思うのである。実はこの主人は、最初の一読で二つの意味(屁と野辺)を理解したのではないか。それを踏まえて歌人に怒ってみせたのではないか。さらに言えば、歌人もまた二つの意味をこめて歌を贈ったのではないか。

 そう考えてこのエピソードを読むと、二人の応酬は実に風雅(この風には二つの意味あり)で、味わい深いではないか。まさに〈屁〉の表現とはこのように表(野辺)と裏(屁)の世界を行き来するもの。同じ一発の〈屁〉が悲劇にもなれば喜劇にもなるように、〈屁〉の表現は我々の悲喜劇にビッタリ寄り添って現象してくる。

 かくして真の風流人とは、これまた〈屁〉も風流と看破し、常に二つの世界を股にかける人でなければならないのであ〜る。
ラベル: 味噌 匂い
posted by 楢須音成 at 21:38| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月10日

人が〈屁〉のジキルとハイドになるのは何でだろ〜ヵ

 我々は〈屁〉を恥じる。それは他人に自分の屁(の放出)を知られたときだね。知られなければ恥ではない。知られなければ、それは存在しないも同然だからだ。もちろん、屁は放出された瞬間に〈屁〉となるのであるから、放出前の腸内ガスの段階では〈屁〉ではない。それは恥ではない。〈屁〉はそういう存在なのである。我々は〈屁〉と因果な関係だねー。

 こういう小話がある。福富織部の『屁』(1926年)から引用する。

 或醫院へ治療に来た婦人の患者が院長の前でつい取外した。すると流石(さすが)は院長。「どうも私は近頃耳が遠くなつて」と云つたから、その患者も氣まりの惡い思ひをせずにすんだ。これを聞いた代診は早速應用して見ようと待つて居た。或る日やはり婦人患者が一發放した。代診はこゝなんめりとばかり。「エヘン私は近頃耳が遠くなりまして、今の屁も何にも聞えません」

 医者の前で〈屁〉を粗相した女性患者は、それが医者の耳に届いていなければ恥を感じないわけさ。我々は他者の存在の有無で〈屁〉を恥じたり恥じなかったりするのである。

 我々が抱え込んでいるこういう状況をどう見ればいいのだろうか。投げ込まれている社会関係(人間関係)のあり方や〈屁〉に向き合って生じる心的反応(リアクション)を通してみると、我々の内なる〈屁〉のジキルとハイドが浮かび上がってくるではないか。ジキルとは「恥じる」ことであり、ハイドとは「恥じない」ことである。これが同居している。(ジキルとハイドとは、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説に拠るわけだが、いわゆる多重人格の類比で言っているのではないので、念のため。ここでは自我の同一性が保たれた人格の中で生まれてくる相反する二つの心的志向を意味している)

 さて、我々がジキル(恥じる)になりきってしまうと、こんな〈屁〉の悲劇も起こる。林基の『百姓一揆の伝統』(1955年、新評論社刊)から引用する。

A<ジキルの極致のパターン>
 大分県直入郡の昔話にこういうのがある。
 あるところに嫁が来た。姑がつれて村歩きしていたところが、ある家が嫁さんがおじぎをした時に、ついおならをしてしまった。その家の人が、「おへまでちょうだいしてありがとうございまする」といった。庄屋かなにかの意地の悪いかみさんだったのだろう。それで嫁は村歩きがすんで帰るとすぐ首をくくってしんでしまった。
 それで大騒動になって、意地の悪いことを言った人もとうとう首をくくらざるをえなくなったというのである。

 一方、我々の中にはこういう人もいる。全く〈屁〉を恥じないのである。明治の陸軍大将・兒玉源太郎のエピソードを『屁』から引用する。

C<ハイドになり切るパターン>
 死んだ大將兒玉源太郎伯が、参謀本部に或る重大な會議の開かれた時、將星雲の如く集つて、謀議の眞最中、ブーツと一つ、大きな屁を發砲した。折も折、殊には場所柄とて誰一人笑ふものもなく氣の毒さうに、皆默りこくつて了つたが、大將一向平気なもの、将軍たちの顔を見て、大きな口を開いて「ワッハゝゝ」と笑つた。その大膽不敵さには、一同呆氣に取られてしまつた。

 以上の二つの話は対極的な人間の振る舞いを示しているね。「そりゃ若い嫁と大将軍では、そうなるのも当たり前だ」などと軽く考えてはいかんよ。まあ、なぜ嫁は恥じて大将軍は恥じないのかということも追究すべきテーマではあるのだが、それについては横に置いておく。ここでは人間の振る舞いの極端なパターンとして抽出したのである。

 もちろん、ジキル(A)とハイド(C)の間に展開する人間の振る舞いも存在するね。我々にはこちらの振る舞いの方が普通である。『屁』から江戸の小咄三編を引用する。

B<ジキルとハイドが相克するパターン>
 新築祝ひの宴に招かれた男、席上ブイと洩した。流石に、氣はづかしく、畳の目をぎゆぎゆと押し乍ら云つた。「ここでもない、ここでもない」(注:新座敷の畳の目を押して音がするのは安普請の証拠。あたかも音がしたかのように振る舞って自分の屁の恥を転化しようとしている)

 初會の床にて女郎ぶいのしぞこなひ 客「こりやたまらぬ匂だ」 女「おゆるしなんし、此おならには譯がありんす、わたしが母十死一生の時、毎月一度づゝ御客のまへで恥をかきんせうと、觀音さんへ大願かけんした」と、いふ口の下から、叉ぶいのしぞこなひ、「オヤうれし、來月分もしてしまうた」

 嫁の前で爆發させたが、姑は怖い顔をして「何ですね不作法な」と叱りつけた。嫁はとんだ冤罪だが逆はずに詫言(わびごと)をして、「放屁する人は長命ださうですね」というと、姑「然(そ)うかえ、それなら今のは私だよ」

 屁に限らず恥ずべき行為はしてはならないのであるが(何を恥ずべき行為と断じ、なぜ恥じるかはさて措くとして)、ウッカリ〈屁〉をした場合、人は追い詰められる。誰も気づかなければ知らん顔をするだろうが、仮にそうであったとしても、外部に示す態度には以上の(A)〜(C)の三つのタイプが観察されるのである。

 注意しなければならないのは、そうした態度をその人の性格(性癖や節操)としてしまうのは早計であり、人は場合により(A)〜(C)を使い分けているというべきなのである。〈屁〉に関して清廉潔白な(つまり、全く〈屁〉をしない)人はいないさ。

 ジキルとハイドが我々の心の深層に潜んでいると言わねばならん〜。彼らは〈屁〉の一発に覚醒して同時に起き上がってくるのである。もう少し突っ込んでみる必要があるね。
ラベル:ハイド ジキル
posted by 楢須音成 at 00:15| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月18日

続・人が〈屁〉のジキルとハイドになるのは何でだろ〜ヵ

 不覚にも人前で放った一発の〈屁〉の恥ずかしさはたとえようもない。そのとき我々が選択する態度について、前回、三つのパターンを考えてみたわけだが、人の心の深奥には、まぎれもなく〈屁〉のジキルとハイドがいるのであった。その現実を否定してはいかんね。潔癖な裁判官であっても、はたまた清純な乙女であっても、その心には、いつも〈屁〉のジキルとハイドがあらわれて相克しているのであ〜る。

 三つのパターンはこうであった。
(A)ジキルの極致のパターン → 深く恥じる(粗相した花嫁が恥ずかしさのあまり自殺した例)
(B)ジキルとハイドが相克するパターン → 少し恥じる(粗相を誤魔化し隠蔽の態度に出た例)
(C)ハイドになり切るパターン → 恥じない(ワザとぶっ放して露悪的な態度で振る舞った例)

 対極的な態度である(A)と(C)から考えてみよう。
 まず、(A)の深く恥じ入るという心的状態(ジキル)は〈屁〉を粗相をした罪深き自分を否定することによって許しを請うている(ように見える)。

ジキルの内なる声「屁をしてしまいました、私は何と恥ずべき存在でしょうか、どうぞ許して下さい。私の屁は永遠に封印します。本当に本当に申し訳ございませんでした〜」

 しかし、こういう態度は、そうやって一方的に「罪=恥まみれ」を自覚するだけなのか?
 うがった見方をすれば、過激な自分の〈屁〉の封印(自殺)というものは、封印できない恥をかかされた相手へ当てつけしているのじゃないのか。それって、随分な自己顕示ではないのかねー。

 そう見ると〈屁〉のジキル(恥)とは、少々複雑な様相である。そこには(1)相手に成り代わって自分を裁くことで責め(非難)を引き受ける(2)それを自己の抹消(自殺)という形で実現させる潔さ(孤高の決断)によって誇示(自己救済)する…という、自虐の心理劇が内蔵されていると見なければならない。

 100%開花した恥は赤面にとどまらず、表層の態度として、贖罪、自虐、自棄、自責などへの展開を示すことになる。遂には完璧な〈屁〉の封印によって、「あなただって〈屁〉はするくせに、怨みますーッ。でも、あなたには、永遠に〈屁〉を封じることなどできないでしょう?(できるはずがないッ!)」と孤高の自己を誇示し、逆説的な自己救済を図っているのであるさ。

 もちろん、清純な花嫁がそんな心の闇(怨み)を抱えるなんてあり得ないと考えるのは自由である。しかし、それは清純な花嫁は決して〈屁〉をしないと考えるのと同じであ〜る。

 一方、(C)の全く恥じないという心的状態(ハイド)は〈屁〉の行為を露出させることに全く無頓着で恥じる気配がない(ように見える)。

ハイドの内なる声「屁をしてしまったが、私とてこれは仕方がない。誰だって屁はするし、そもそも屁に悪気はないし。何が悪いんだよ〜。ブー(臭いか?)」

 ハイドにおいては〈屁〉は封印されず、恥が封印されているわけだね。このとき〈屁〉に無頓着を決め込むのは、相手の責め(非難や同情)に対する防衛なのではないのか(な?)。(同情を受ける者にとって、その同情が罪に情けをかけられていると認識した瞬間に、同情が非難と同じになることがある)

 うっかり〈屁〉を粗相すればあわてるさ。できれば全く無視したい(無かったことにしたい)のだが、そうはいかないので無頓着(という態度)を決め込むのである。もちろん、世間のルールとしては恥じねばならぬのであるから、無頓着はルール違反ということになる。ここで無頓着(無恥を振る舞う)は相手の非難や同情に対抗する自我の防衛壁になっているわけなのさ。無頓着とは純真無垢のことではない。

 どういうことか。熊に追い詰められたときに死んだふり(非存在の擬態)をするのは、「あなたが追い詰めた、生きている私はここにいませんよ〜」と相手の関心を自分からそらそうとする行為だね。
 同じように「あなたが追い詰めた、恥じなければいけない私は恥じていませ〜ん」という、恥の場面で相手の追及を逃れる「死んだふり」が無頓着(無恥)なのである。つまりは、恥の回避行動という意味では、大臣の無頓着は花嫁の自殺に等しい。

 注意すべきは、このジキル(A)とハイド(C)は一人の人間の心性において同時に存在しているという不思議である。(A)だけが存在することはできず、(C)だけが存在することもできない。つまり、(A)がなければ(C)もなく、(C)がなければ(A)もないのである。人間が持つ〈屁〉への心性(恥)はそういう二つの極を同時に持つ心的構造であって、どちらかが選択されている(あるいは封印されている)と見なければならないのだ。

 屁に向き合うジキルとハイドの両極端の振る舞いは表裏の関係にあり、一方が選択(あるいは封印)されて表明される。そして、そのこと(一方を選択したこと)はすっかり忘れ去られている(意識していない)のである。

 では、何をもってどちらかが選択されるのか。それは「そのときの状況と相手によりけり」だ。「我を忘れるほど深く恥じ入る」ことで対処する相手と、「恥を封印して開き直り恥じない」で済ます相手がいるということである。言い換えると、そのときの立場や状況によって自分の〈屁〉に対する態度は変わる〜。

 もっとも、普段は我々は人前でジキルになりきることや、ハイドになりきることはほとんどない。我々が振る舞うのは〈屁〉のジキルとハイドとの間にある中途半端な態度(B)である。自分を曖昧にしてしまう態度(恥じてもいるし、恥じてもいない)なのである。そこでは、相手との距離を測り、立場を考慮しつつ、ジキルとハイドの葛藤が行われ、さまざまな態度が表出することになる。

 この辺はもう少し考えてみよう。
ラベル:ハイド ジキル
posted by 楢須音成 at 00:38| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月23日

続続・人が〈屁〉のジキルとハイドになるのは何でだろ〜ヵ

 恥をともなう〈屁〉に関する人間の行動には、一つの人格の中に〈屁〉のジキルとハイドが見え隠れしているのであった。繰り返して、もう一度まとめてみれば次のようになる。

 ジキルは「屁をしてしまいました、何と恥ずべきことでしょう、本当に申し訳ございません〜」(=降伏)という態度をとる。ハイドは「屁は誰でもする生理現象さ、仕方ないじゃないか、お前だってするじゃないか、何が悪いんだよ〜」(=不服従)という態度をとる。我々には両極端の態度があるわけだね。

 このジキルとハイドは一見正反対ではあるが、我々の心性の振幅と受け止めれば、事と次第で〈屁〉をした人間はどちらの態度もとりうることが理解される。その人が、そのとき軸足をどちらに置こうとするかによって、態度は一変するのである。次の話はその一例。福富織部の『屁』から引用する。

 或全盛の太夫なじみの客の側(そば)にて、ぶつと取りはづしけるを、客は気の毒に思ひて、小唄など歌ひて紛らかしけるに、華車(かしゃ=遣り手婆ァ)がいふやうは「太夫様かいな、あゝ輕忽(きょうこつ=あきれちゃうね)」といへば、太夫くわつと上氣して、華車に云ふやう「お客様さへ紛らかしてくれなさるに、華車様、聞えぬ(納得できない)」とねだりけるを(文句を言ったのを)客聞きて、「誰もあるならひぢや」といへば、太夫がいふやう、「それでも、お前、愛想が盡けう」「なんのいの(どうってことないさァ)、なじみのおれぢやもの」太夫喜び、「あゝ嬉しや、それで氣がゆつくりとした」といひて、叉ぷうぷうぷうと殘りを皆こいた。(輕口大K柱)

 赤面し意気阻喪していたに違いない太夫は、客の言葉に救われてジキル(恥)からハイド(無恥)へと軸足を変えたのである。深く恥じ入っていたところに発せられた遣り手婆ァの意地悪な非難は、他家での挨拶の最中に粗相した花嫁に発せられた「おへまでちょうだいしてありがとうございまする」という心ない一言と状況は同じであるが、太夫の場合、恥は相手(遣り手婆ァや客)との関係の中で揺れ動いていて、やがて太夫は軸足をコロリと変えてしまったのである。

 かくして、ジキルとハイドという二極の存在は、否定すべきものを自ら現象させたこと(放屁)、あるいは現象させうること(屁意)に対して発生する心的な基本構成となっているのだ。〈屁〉の恥のあらゆる態度は、この二極間で(二極に引き裂かれながら)現象している。

ジキル(A)= 深く恥じ入る→屁に対する無条件降伏→罪を認める=自己否定・自虐(に潜む他者への当てつけ・恨み)

ジキル&ハイド(B)=恥をできるだけ遠ざけたい→屁からの逐電→罪の曖昧化=自己韜晦・隠蔽(に潜む他者への恥の転嫁)

ハイド(C)= 全然恥じない→屁に対する絶対不服従→罪を認めない=自己肯定・厚顔(に潜む他者からの防御・逃避)

 さて、このような我々の心性は何故に発動するのであろうか〜。

 これらの(A)〜(C)は最終的には、自分の恥の回避行動として解釈されるものである。ジキルもハイドも恥を無化するための態度の表出という点では一つ穴のムジナであって、我々は自分の恥に直面し、さまざまに取り得る態度によって恥を回避しようとしているのである。

 このときジキル(A)の方に軸足を置いている(引っ張られている)人は自らが内に秘めているハイド(C)を感じるし、ハイド(C)の方に軸足を置いている(引っ張られている)人は自らが内に秘めているジキル(A)を感じるに違いない。そういう背離が「後ろめたい」のである。後ろめたさとは、自分を打ち消そうとするもう一人の自分がいるやましさである。それは(A)(B)(C)において通底する構造である。

 一般に我々の態度はジキルとハイドが相克する(B)にあるのだった。それは、後ろめたさを伴って(A)と(C)の両極間のある地点の意識の混合濃度のようにして表出する。屁をして恥じる、あるいは開き直るという〈屁〉的現象を複雑にしているのは、この後ろめたさや意識の混合濃度が人さまざまに一様でないことに加え、相手との関係において劇的に変化するからなのである。

 このような我々の心性は恥を直視しようとしない一種の自己欺瞞である。それは(A)←(B)→(C)の振幅の中で徹底して一貫している。どうあがいても逃れられない。

 藤島茂のエッセイ集『トイレット監督』(1961年)にある次のシーンもまた、〈屁〉の恥から目をそらす心性をレポートしている。

 女性もうっかりおならをして、恥ずかしいとか言っているうちはまだいいが、中年ともなると図々しいのがある。よくうちへ遊びにくるおばさんはとても教訓好きで、なんでもひとことお説教をしないとおさまらない。
 こないだも、居間のソファに坐って話しているうちに、あんまり話に力が入りすぎて、きばった瞬間、とほうもなく大きいのを放った。あんまりなので家内が、「まあ」と大声で笑うと、おばさんは平然たる顔をしてきっとにらみ、
「なによ。なにがおかしいのョ。ただのおならじゃありませんか。そんなことでいちいち笑ってるようじゃ、あんたもまだ幼稚ね」といった。おならをしておいてひらき直られ、その上、こってりお説教されたのでは合わない。
 だいたいなにか悪いことをすれば、あやまるのがふつうだ。子供なんかでも、叱ると素直に、
「ゴメンナサイ」
とあやまる。ところが親のほうが腹を立てたり、あんまり意気込んだりして、つい深追いしすぎると、いったんひるんだ子供のほうでも、こんどは逆に攻撃に出てくるものだ。こうなると、むこうは一種の正当防衛みたいなことになって、滅法つよくなって手がつけられなくなってしまう。

 ここには恥に転んだ〈屁〉が自らを否定していく宿命がある。追いつめるとますます頑なになる我々の心性の振る舞いは固く固く正当化される。そもそも我々は自分の〈屁〉の直視に耐えられないのだ。

 ジキルとハイドは〈屁〉を直視しない我々が姿を変える二つの化身であ〜る。
posted by 楢須音成 at 07:34| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。