2007年03月01日

〈屁〉の恥を身代わりで背負う男もいる〜

 同じ生理現象でありながら男の屁と女の屁は現象の仕方が違う。まあ、男女の差に限らず、いろいろな〈屁〉があるわけであるが、男の屁が現象してもあまり面白くない(かな?)。石川雅望の『しみのすみか物語』には男の〈屁〉の話(「義清放屁せる事」)がある。音成のテキトー訳で紹介すれば、こんな話である。


 高貴なる人、忍んで遊女のもとへ行き酒を飲み興じ、おおいに遊びなさった。座もかなり盛り上がり酔いも加わって、いい気分の真っ最中、この遊女、か細いながらうっかり屁をこいてしまった。
 かたわらにいた惟光という人、これが機転のきく男で、すぐに立って「恐れ入ります、殿の御前でとんでもない過ちをしてしまいました。実を申せば昨夜より腹を下しておりまして、かくも思慮なきことを犯してしまったのです。あれれ、またしても、またしても我慢できません〜」と言って、大きな音で三つ四つ続けて鳴らしたので、初めの屁も惟光がやったんだろうと合点し、みんなで大笑いになった。
 夜も更け人も寝静まってから、その遊女は惟光を呼んで「あなたの身代わりで、大恥をかかずにすみました。本当にうれしゅうございます。これはわたしの心からの感謝のしるしです」と、立派な小袿(こうちぎ)に袴(はかま)をつけて贈った。
 惟光の友達で、よしきよとかいう者がいたが、これを聞いて羨ましがり、いつか自分にもそのような場面があればいいな、と思っていた。八月十五夜の名月の夜、同じ高貴な御方が、この遊女のもとに行って、いつものように遊び興じなされたが、すっかり夜も更け、物音も静まってしまうころになって、またも遊女はとりはずし、ハッキリこき出してしまった。
 よしきよ、それを聞くや、あわてて、浅はかにも「さあさあ、わたしも続いて屁をひりますよ〜」と大声を張り上げたので、なんともはや座が白けてしまった。殿をはじめ、みんな興ざめしてお帰りなさったとさ。


 ここでの男の〈屁〉には、あまり恥が付着しているようには見えないね。女の〈屁〉の肩代わり(恥の身代わり)を面白可笑しく語っているわけだが、惟光の如才なさに対して、よしきよの浅ましい不器用さが示される。何かにつけ、こういう男たちはいるよなー。

 そうなんだけど、この作品が今ひとつ迫力を欠くのはなぜだろうか。よしきよのお粗末な振る舞いが迫力を欠いているからだろうか。それに比べれば惟光の粋な振る舞いはそつなく描かれて可笑しく、笑わせる。この辺が作品の眼目となっているわけだが、まあ、こういう男たちの振る舞いは〈屁〉的現象という観点からみれば、どちらも身過ぎ世過ぎの陳腐な振る舞いに過ぎず、別に〈屁〉でなくともありうる話だからね。

 むしろ、騒動のもとになっている遊女の〈屁〉に着目すれば、自分の意思を越えて放発する屁の不気味さ(可笑しさ)が深いところで作品を支えているといえる。この二連発は前に取り上げた「遊女放屁せる事」の遊女とパターンは同じである。つまり、制御不能で跋扈するリアルな〈屁〉だね。遊女の二連発のとぼけた(そして切実な)味わいがこの作品を支えているわけだ。

 ここでは男は自分の〈屁〉を(無作法とは思っても)恥じてはいない。一般に〈屁〉の恥は男よりも女の方が強い。もちろん男だって恥ずかしいには違いないのだが、男が(立場や心理が)優位にある状況では、女に向き合う男の恥は相対的に減じるのである。そういう余裕がこの作品の男たちの振る舞いである。

 かくして〈屁〉の作品がリアルに表現されるとは、やはり深く恥が介在して表現されるところにあるのではないか。

 一言=そもそも〈屁〉は人間の重大な瑕疵なのか。この放屁癖の遊女はそれからどうなったのだろ〜か。


posted by 楢須音成 at 23:17| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月04日

〈屁〉的現象のパターン化とは何だろ〜ヵ

 巷の屁談義は今日も倦むことなく繰り返される。それが人間界における〈屁〉の振る舞いのパターン化であることは自明だね。そうさ、屁の話はたちまちパターン化し、陳腐化しやすいのである。個人が惹起する現象として出発しつつ、〈屁〉はパターン化によって語り継がれ、人々に共有されるわけさ。

 もちろん、そういう類のものは〈屁〉に限らない。例えば〈恋〉も〈愛〉も同じさ。あなたの家の屁談義と同様に、世間には恋愛談義がゴマンとあるわけだけど、我々はそういうパターン化された凡庸な恋愛を体験したり見聞したりして語り継いているわけである。(パターン化という凡庸さは、これはこれで素晴らしい)

 語り継がれる民話の世界を見ても、日本の世間というものの断面を示す、パターン化された話の宝庫であるね。そこに登場する〈屁〉の話としては「屁ひり爺」や「屁ひり嫁」は代表的なパターンになっている。そういうパターンの系譜を辿ることは民話研究の一つのようだが、そういうパターン化の起源に一体何が生起していたのかは興味深いじゃないか。

 民話の「屁ひり嫁」については前に考察してみたが(「嫁は屁をして幸せになれるだろ〜ヵ」参照)、話がパターン化していく遷移を辿りながら、その起源を究めてみんとしたわけなのさ。そこに音成が見たのはパターン化に秘められた「社会的現実」っていう奴(ありきたりだねー)だったのであるが。

 何度か取り上げてきた「遊女の屁」も定番のパターン化を示している。大体こんな流れになるかね。男女の仲に絡めて〈屁〉の粗相を面白可笑しく語っているわけさ。(石川雅望の作品を紹介した「〈屁〉を恥じる女がジタバタして深みにはまる〜」参照)

 @客の男と一緒にいる遊女がうっかり〈屁〉を粗相してしまう。
 A遊女はそれを粗相と気取られぬよう体面を保つ振る舞いや言い訳をする。
 B男は一向に気にしないか、平気で屁をするほど気が置けない仲だと思っている。
 C一件落着(尻に締まりがないと思われずに済んだ)と思ったところで、遊女は不覚にもまた〈屁〉を粗相してしまう。
 Dそれでも男は女の尻に締まりがないとは気がつかない。

 この流れ(男女の配置や心理の絡み)の骨子(抽出)をパターンと呼ぶにしても、この流れを単に「男女の心理の齟齬」などど解釈し表現して事足れりとするのは皮相である。これは〈屁〉の話なのであるからして、語るに〈屁〉を外してはいかんさ。

 実のところ@〜Dの流れは「筋」であってパターンではないと言うべきだ。「筋」が似ていれば、それは単に「似た話」というわけである。であれば、「筋」だけ借りてパターンを外している(換骨奪胎した)作品はあるだろうね。

 ──運転自慢の女が狭い道でうっかり運転を誤って男の車を電柱に接触させた。男はビックリして車より女を気遣った。女は運転が下手だとは思われたくなくて、男に「もし車をぶつけたらあなたがどうするか(私を大事にしてくれるのか)試してみたのよ」と、とっさの言い訳。「馬鹿だね、車より君が大事に決まっているさ、大丈夫かい」と男が言ったそばから、またもや女は車体を電柱にガリガリと接触させた。男は(涙を隠して)「はははは、何回ぶつけても愛しているさ〜」。

 この話の「筋」は「遊女の屁」に確かに酷似しているから、同じパターンと言いたくなるね。しかし、これをもって「同じパターン」というような言い方はしてはいけないのである。(「筋」や「心理」だけに着目してパターンと認識してはいけないと言っているのさ。それをパターンと言いたいならパターンのパターンであ〜る)

 運転女の話は「遊女の屁」の話と同じパターンではないのである。

 では、パターン化した〈屁〉的現象という場合に、その「パターン」とは何であるのか。もう少し「遊女の屁」を追い詰めてみなければならんね。
posted by 楢須音成 at 14:18| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月09日

続・〈屁〉的現象のパターン化とは何だろ〜ヵ

 ある〈屁〉的現象がパターンに昇華するとき、それは、ほかの現象のパターン化と変わるものではない(はずである)。パターンを様式とか類型と言い換えると、意味の通りは少しよくなるかもしれない。ここでは〈屁〉的現象を捉えた「作品」を念頭に置いているということで、少し気取って「様式」という言葉も採用しておく。

 さて、「遊女の屁」のパターン(様式)化を辿ってみることにしよう。前回この話の「筋」を提示したが、これは、江戸の小咄の「筋」から抽出したものであった。その小咄と対比させてみる。カッコ内が小咄である。

 @客の男と一緒にいる遊女がうっかり〈屁〉を粗相してしまう=(馴染みの客の床で一発やってしまった女郎が)

 A遊女はそれを粗相と気取られぬよう体面を保つ振る舞いや言い訳をする=(すました顔で、「必ず笑いなんすな。わっちゃあ、ぬしを客衆とは思いせんぬ。やっぱり亭主だと思いんすによって、こんな恥ずかしいことをしんした。かならず悪く思ってくんなんすな」)

 B男は一向に気にしないか、平気で屁をするほど気が置けない仲だと思っている=(「なに、おれが悪く思うものか。そう心に隔てのないのが、やっぱりありがたいわな」)

 C一件落着(尻に締まりがないと思われずに済んだ)と思ったところで、遊女は不覚にもまた〈屁〉を粗相してしまう=(「そういってくんなんすりゃあ、わっちもうれしいけれど」という口の下から、また一つ、ぷいとひれば)

 Dそれでも男は女の尻に締まりがないとは気がつかない=(客「ハテ、疑い深い」)※「下司の知恵」1788年

 まことに簡潔で小気味のいい小咄であるが、遊女と客のやりとりのとぼけた味わいは秀逸だね。似た話が江戸期には頻出した。「遊女の屁」が少しばかり「筋」を変えながらあちらこちらで語られた動機は、この@〜Dの「筋」に潜むパターン(様式)のインパクトが切実だったからである。

 このような巷に流布していた話を下敷きにして石川雅望は彼自身の「遊女の屁」を描いたわけだが、@〜Dの「筋」がどうなっているか雅望の作品を分解し、現代語訳で示す。カッコ内が訳文。

 @女が粗相する=(色ごのみの男、心通わせていた遊女のところに出かけ、二人寄り添い寝ころんで語らっていた。この遊女、便意を催して厠に行きたいと思い詰め、気もそぞろに語らっているうちに、思いもよらぬ大きな音で高やかに鳴らしてしまった)

 A女は体面を保つ振る舞いをする=(さすがにバツが悪い。黙っているわけにもいかず、男に向かって「ただいまの音、お聞きなさいましたかしら」と言う)

 B気にしないようにする男=(男は何と言っていいかわからず「愛しい人よこちらへいらっしゃいな」などと話をそらそうとするが、)

 A女はさらに、さらに体面を保つ振る舞いをする=(女は「いやいや」と拒み、身を隠しながら言うのだ。「およそ夫婦の語らいは、神に誓って仏に祈って、古歌にあるように『松山の波』にかけ『野中の清水』を汲んで、変わることのない、忘れることのない契りを交わすものですけれど、人の心に秋風が立てば、次第にお互いよそよそしくなって、最後は別れてしまうものですよね。というのも、もともとの愛情が軽々しいもので、かりそめの、いい加減な心で逢い始めたものであれば、うつろう心もまた軽はずみに流れていくのです。本当に誠実な人はそうではありますまい。だからこそ私は恥を捨てて、あなたの心を見ようとしたのです。どうですか、ただいまの音で私を思ってくださる御心は冷めてしまったことでしょうね。ならば御心は薄情なのでございます」)

 B気にしてないのに心外だと批判する男=(男は驚き「どうしてそんなことをおっしゃる。『羽をならべ枝をかわさん』と契ったのを偽りだと思いなさるか。少しばかりの過ちがあったとしても、契ったことをどうして違えましょうか。そのように疑いなさるのは、何とも心外ですよ」と答える)

 C女はまたしても粗相する=(女は内心「うまくやった」と思って「それではこのような過ちをしたからといって、御心に嫌気がさしたとは思われないのですね。なんとまあうれしい御心でございますわ」と言って、寄り添おうとしたとき、またまた大きな音を鳴らしてしまった)

 D真相に気がつかない男=(男、顔を袖でおおって「どうしてそのようにひねくれて疑うのですか」)

 以上のように場面は@→A→B→A→B→C→Dと展開する。
 この雅望の作品では(ア)「A→B→A→B」という繰り返しで「筋」が少し起伏する(イ)女の理屈が長く、より巧妙である(ウ)このため男は女に少し批判的に対抗している…などの点で、若干印象が違うかもしれないけれど、パターン(様式)は同じである。
 
 雅望の手にかかると「遊女の屁」の展開は(ア)技巧的(イ)誇張的(ウ)批判的…であり、語りが細やかになっているわけだね。語りは作者の技量に負うものだが、この場合(ア)〜(ウ)は作品構成のなかで創造的な仕掛けになっている。もちろん、仕掛けのネライはパターン(様式)を浮き立たすためにあるのは言うまでもないさ。

 パターン(様式)は「筋」を同伴者にして一つの振る舞いを現象させているのであるが、このときパターン(様式)の核心には(ほかのものに転化できない)リアルな現象が生起している。この場合、まさにそれが〈屁〉であり、「遊女の屁」なのである。

 そこには「遊女が〈屁〉を男の前で二度も粗相する」という行為が核心としてあり、インパクトになっていて、そこから遊女の(言い訳の)振る舞いがリアルに現象してくるのさ。

 それは核心になっている行為(二度の粗相)から出発し、言い訳の振る舞いに及ぶ遊女の「心の道行き」がパターン(様式)化されたものなのである。見方を変えて言えば「〈屁〉に裏切られる遊女のリアクションの物語」というパターン(様式)であ〜る。

 重要なのは、行為の核心にある「遊女」と「過剰な〈屁〉」との結びつきがないとパターン(様式)は完成しないことだね。結びつきの必然(リアルさ)をうちに秘めたパターン(様式)こそが、パターン(様式)と呼べる。そういうパターン(様式)こそが、リアルな現象の(世間における)遍在や偏在を指し示し、現象の本質に迫る類型(典型)に辿り着くのである。

 遊女や〈屁〉を「遊女の屁」からとってしまったら、それはパターン(様式)ではなく「筋」になってしまう。前回、取り上げた「運転女」のストーリーがそうであった。
 かくして、パターン(様式)のなかに「遊女」と「過剰な〈屁〉」とが結びつくリアルさ(必然)が存在していれば、〈屁〉のリアリティが保証されるのである。(「運転女」のストーリーの展開レベルにおいては「女」と「運転」の結びつきは〈屁〉ほどにリアルではない。男女を入れ替えてもこの話は成立するが、「遊女の屁」にあっては男女を入れ替えることはできない)

 となれば、パターン(様式)において核心となるリアルとはそもそも何であろうか。なぜ「遊女」と「過剰な〈屁〉」はリアル(必然)な核心になり得るのか〜。
posted by 楢須音成 at 22:50| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月18日

続続・〈屁〉的現象のパターン化とは何だろ〜ヵ

 世間のなかで人間のやることは、基本的に繰り返しなのであるから〈屁〉的現象は「どこでも」「いつでも」「多くの人」のお尻で連続または同時的に生起しているわけさ。繰り返しとは、たくさんの同じ振る舞いがこの時空間(人間界)で連続または同時的に生起することだね。人間の振る舞いのパターン化の発生は、言うまでもなく、こういう繰り返しがもとになっている。

 繰り返し可能という凡庸さこそがパターン化の属性なのであるが、凡庸であることを馬鹿にしてはいけないさ。凡庸と陳腐とはしっかり区別したいね。〈屁〉の表現論において(エッ?…笑)、凡庸とは「遊女が男の前で二度も〈屁〉をすりゃ、イヤでも振る舞う言動」の類似現象がどこにでも湧き出て存在している(しうる)ことをいう。

 そこに至らない(どこにも湧き出ない)現象は陳腐なのである。つまりは〈屁〉をしたところで、注目されず、話題にもならず、何より本人自身が気にもとめず、社会的立場の緊張感がない人がいくら〈屁〉をしても陳腐なだけさ。(音成のような凡人がいくら〈屁〉を連発しても陳腐なだけ〜)

 パターン化されたものは「筋」が一人歩きし、一方で常に陳腐に陥る危険をはらんでいる。注目されなくなり、話題にもならなくなり、何より本人自身が気にもとめなくなり、社会的立場の緊張感が喪失してしまえば、それは陳腐化である。それはリアル(必然)さを喪失した現象と化すのである。

 例えば、役割を入れ替えて、男が〈屁〉をして言い訳を重ねる話に組み替えてみると、なぜか退屈なだけの話になる。男では切実感がなく、この場合のパターン化は遊女の言い訳こそが眼目である。

 それでは「遊女→老女」「客→老人」などど緊張を欠いた関係ではどうか。やっぱり陳腐化は進むのである。リアルじゃなくなる。単なる〈屁〉談義になるのさ。


 ――少々惚けがきている遊郭通いの老人の前で一発粗相した遣り手ババァが、すました顔で、その老人に言う。「笑いなんすなよ。わっちゃあ、ぬしをただの客衆とは思いせんぬ。やっぱ長年の気の置けない客だと思いんすによって、こんな恥ずかしいことをしんした。かならず悪く思ってくんなんすな」「なに、気にするかいな。幸い、年取ればにおいがないのが、やっぱりありがたいわな」「そういってくんなんすりゃあ、わっちもうれしいけれど」という口の下から、また一つ、ぷいとひれば、「オイオイ、くさいぞ」(「下司の知恵」を勝手に改稿)


 こういう話は、面白可笑しいかもしれないが、弛緩した情景でしかないね。それは老人と老女の関係の弛緩であって、二人がやっているのは通りすがりのズッコケた会話である。

 前回、触れたようにパターン化にはリアルな核心が必須であるが、リアルとは、それ以外のものではあり得ない、かけがえのないものである。しかし、それだけではリアルではない。それは人口に膾炙し、表現(パターン化)されなければならない。あるいは表現されて、人口に膾炙されるものである。(音成の〈屁〉はオリジナルのものだが、ほかの人には全然リアルじゃないのさ。鼻はつまんでも、陳腐で誰も見向きもしない〜)

 このときのリアルは、唯一の存在を示すのではなく、あるインパクトをもって世間に遍在または偏在して現象してくるものとしてある。そして「遊女が男の前で二度も〈屁〉をすりゃ、イヤでも振る舞う言動」は、我々にそれを唯一(ユニーク)であるように思わせるもの…として立ち現れてくる(心的な共振現象となる)のである。リアリティはそのときの輝きであるわけさ。

 さて、江戸期に限らず遊女という存在は世間のなかで独特の社会的立場を形成してきたのである。遊女は男性上位の社会連鎖(特に夫婦関係の時代的変遷)において、女性の〈性〉の囲い込み(女性への単婚の制度化)が次第に進むなかで、そこからはじき出されて〈性〉を職業とした(職能を発揮した)女性たちである。

 結婚した女性(一人の男だけと関係を持つ)と遊女(多数の男と関係を持つ)のどちらが幸か不幸かの議論はしないが(どちらにも幸と不幸はあったと思うが)、両者の社会的立場は全く対照的な境遇に立脚しており、両者は男性(上位社会)に対して全く別様の緊張関係を強いられていたと言わねばならない。

 平安期の市井の生活を活写した『新猿楽記』(平安後期、藤原明衡著)を見ると、当時の遊女の境遇をこんなふうに記述している。これは男の眼(当時の文人貴族)から見た遊女である。平凡社の東洋文庫(川口久雄訳)から現代語訳を引用する。


 十六の君は、遊女や夜発などといった川船宿の女たちの女主人であり、遊女のたまり場である江口や河尻の中でも名の通った美女である。この女は、上流の淀川筋で男たちを遊蕩させるなりわいに熟達しており、また北嶺の坂本で恥知らずの色里の風習を習い伝えている。昼は、大笠をかついでいって、日傘の影で身分の上下を問わず男たちにその身を任せる。夜は夜で、船に乗って、水ノ上で船端を叩いて、淀の川口を往来する旅人たちに想いを懸ける。そもそも、この女は、相手をえらばず淫欲にふけり情事をほしいままにし、わざを尽して、伏臥したり仰臥したりして養生の道を尽す。琴絃・麦歯の名器をもって、龍飛・虎歩の房事を行うのに、至らざるなしといわれる。
 それだけはなく、かの女の声音は、かの西方浄土の迦陵頻伽(がりょうひんが)という鳥の鳴き声のようであり、かの女の容顔は天女のようである。歌で有名な遊女の宮木や小鳥の歌う歌も、かの女に比べれば競争相手にならない。声のきれいなので有名な遊女の薬師や鳴戸の声も、ものの数ではない。こういう状態だから、どんな男たちも、かの女にかかっては、目を惑わし心を蕩(とろ)かさないではいられない。[さりながら]あわれ、年の若い時は体を売って身過ぎはできるけれども、やがて色気の衰えた後は、どうして餘命をつなぐのであろうか。


 描かれた遊女は容姿艶麗、声音艶美にして、すこぶる性技に長けた女性で、川船宿の遊女たちの女主人でもあるという、遊女のなかでも特権的な地位にあるらしいが、明衡は「色気が衰えた後は、どうして餘命をつなぐ」のかと皮肉な視線を向けている。

 ここには遊女の危機的な境遇が示されている。もちろん、そんなことは当の本人が十分承知していることではあるね。遊女には常にそういう生活の(見通しへの)緊張感があるに違いないのであって、それと表裏をなして、情を通じた男(客)との持続的関係の保持を希求する言動があるのである(愛人から単なるリピーターまでの振幅はあるにしても)。

 そういう遊女にとって〈屁〉は男を取り逃がすという甚大な危機をもたらすのさ。明衡の記述に〈屁〉のことなど一切出てこないが、男を蠱惑してやまぬ遊女が〈屁〉を粗相することなどあってはならぬのである。

 ほかの誰よりも(男の妻よりも)男を蠱惑する優位性を持ちながら、常に遊女は境遇の危機にさらされ、意図しない〈屁〉の一発に動揺してしまう――そういう振る舞いが切実なのは当然で、そこにリアルの源泉があるのである。

 つまりは「遊女の屁」という〈屁〉的現象のパターン化の核心にあるリアルとは、遊女という社会関係の核心に触れているわけさ。我々は明衡の記述を単に当時の時代風景として読み流すこともできるが、遊女が世間に(表と裏の制度として)存在していた当時は、形を変えてどこにでもある(ありうる)風景としてリアルに読まれたわけなのである。(明衡とて皮肉や同情の裏で遊女には魅了され、人ごとではあるが深刻な危機を感じていたのであ〜る)

 このような遊女の存在を踏まえれば「遊女の屁」は遊女の羞恥や、あらぬ振る舞いをするおとぼけを表現しているだけではなく、男と女の〈性〉関係に踏み込んでくる社会関係を封じ込めたパターンとして昇華している。世間という社会関係は精神の深奥から良くも悪くも我々を常に脅迫的に追い立ててくるが、遊女にからみつく〈屁〉とはまさに境遇の危機を今にもたらすリアルな悪夢そのものなのさ。

 我々は、意図とは裏腹に二度までも出てくる〈屁〉に笑いを見ると同時に、意識せずともリアルな悪夢を見ている。それを共有することによって、単なる〈屁〉談義ではない〈屁〉的現象のパターン化が成立するのである。

 ところで「遊女の屁」に登場する男の危機意識のなさもまた、男たちの世間の現実かもしれんねー。
posted by 楢須音成 at 14:05| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月24日

対極的な〈屁〉の民族性

 人間は〈屁〉に対して羞恥と嫌悪を抱く(場合がある)わけである。面白いのは、その度合いというものが人種によって特徴があることさ。前に南方熊楠が語った〈屁〉のエピソードを紹介したが(「君は〈屁〉を恥じて故郷を捨てるか」参照)、そこで熊楠はアラブ人の〈屁〉を取り上げ、フランス人や日本人を比較していた。

 熊楠が指摘したのはこうである。
 ――アラブ人は〈屁〉を恥じて故郷を捨てるほどだ。そして〈屁〉を毒物のように忌み嫌っている。日本人もアラブ人ほどではないが、やはり〈屁〉を恥じる民族だ。ヨーロッパ人は古来あまり〈屁〉を恥じない傾向があったが、現在はかなり改進している──と、まあ、端折ってまとめてみた。

 この人種の違いはなぜだろうかと思い続けていたのだが、本日、音成は仮説を用意したのであ〜る(笑)。社会心理学者である井上忠司の『まなざしの人間関係』(1977年、講談社現代新書)のなかにヒントを見つけたのさ。(この本には〈屁〉のことなどは一行も出てきませんので、念のため)

 井上は、まなざし(視線)に着目してその意味を問い、民族間の「視線の作法」ともいうべき振る舞いの違いを踏まえて日本人を位置づけようとしているのだが、このなかでE・T・ホールの説を紹介しながら「対人間(たいじんかん)の距離」という観点を持ち出している。「対人間の距離」とは、人間が他人と対面するとき、その間に生じる一定の距離のことである。この距離は親密なら縮まり、疎遠なら開くわけだね。
 この本から少し引用する。


 ホールにしたがえば、日本人とアメリカ人とでは、一般に対人間の距離はアメリカ人より日本人の方が大きい。したがって、日本人とアメリカ人とが立ち話をする場合には、もしも日本人のほうが日本の標準値をたもつとすると、たぶんアメリカ人はよそよそしく感じることであろう。反対に、アメリカ人がアメリカの標準値をたもつと、日本人はつよい威圧感をおぼえざるをえないのである。
 ところが、そのアメリカ人がこんどはラテン系の人たち(メキシコ人など)と話す場合には、対人間の距離は、さきにのべたアメリカ人と日本人との関係がちょうど逆転するという。つまり、ラテン系の人たちにかれらの標準値をたもたれると、アメリカ人は息苦しくなり、その逆にアメリカ人にかれらの標準値をたもたれると、ラテン系の人たちには、アメリカ人の振る舞いがよそよそしくうつるのである。
(中略)
 さらに、アラブ系の人たちは、ラテン系の人たちよりも対人間の距離が小さいといわれる。アラブ人の人と対面して口角あわを飛ばすとき、こちらの顔にそのしぶきが多少ともかかるのはやむをえない。

 つまり、どういうことかと言えば、対人間の距離は日本人→アメリカ人→ラテン系→アラブ系の順で密着するというのである。ここに相手との接し方の違いが振る舞いとなって表出するわけだね。なぜ対人間の距離が違ってくるのかはさて措くとして、日本人が相手との距離を最もとるという観察は、なるほどと思う。

 そこで音成が考えたのは、屁の一発の影響度合い(音とニオイ)は密着度が高いほど深刻だということである。アラブ人が〈屁〉を忌み嫌うのはコレダ!、と。

 しかし、熊楠は最も距離をとる日本人も〈屁〉を恥じる民族だと指摘している。対人間の距離の対極にいる人種が恥に関して同じ傾向を示すのであれば、音成の愚考は的を射ていないことになるね。対人間の距離が大きい日本人は〈屁〉の羞恥は低いと見るべきなわけである。

 この点が長いこと引っかかっていたのだが、あれこれ関連する(?)軸を入れて、次のように考えてみた。新しい観点は「嫌悪」と「食性」である。日本人とアラブ人の比較を示す。

         日本人    アラブ人    _  
羞恥の強さ      強      強(実は、微?)
対人間距離     大      密
屁音の影響     微      強
臭気の影響     微      強
視線の強さ      微      強
嫌悪の強さ      微?     強
食性の違い     草食     肉食     _ 

 特に注目してほしいのは「嫌悪」と「羞恥」という軸である。どうも、この二つは根っこが違うのに、表出する振る舞いとしては同じじゃないのか? 音成は「羞恥」と「嫌悪」を混同してはいけないのではないかと考えるのである。

 一発の屁の影響を体験に即して愚考すると、音とニオイの影響は密着度合いが高いほど、(羞恥より)嫌悪が強く出てくるのではないだろうか。つまりは、アラブ人は羞恥の強さは実は「微」なのである。上表の「羞恥の強さ」のアラブ人のところを「微」にすると、日本人とアラブ人はキレイに対照的な関係になるのである。

 そのように考えて、熊楠が紹介していたアラブ人のエピソードを読み直してみたら、アラブ人の振る舞いが嫌悪に根ざしたものだとして全く違和感がないではないか。そういうことだったのかー。

 音成の仮説をまとめるとこうなる。
 @日本人は対人間の距離が大きいので〈屁〉の影響(実害)が小さいが、対人間の距離が小さいアラブ人は影響(実害)が大きい。
 Aこのような対人関の距離のため、アラブ人は直接的な音とニオイに先導され自他の屁に(羞恥以上に)嫌悪を感じ、日本人は立場を意識する観念的反応が先導して(嫌悪以上に)羞恥を強く感じる。
 B嫌悪と羞恥は発生して成長してくる道筋が違うが、態度に表出する振る舞いは同じようなものになる(ことが多い)。
 Cこのような日本人とアラブ人の振る舞いの傾向を助長しているものとして、両民族の食性の違いにも原因が求められる。

 補足して説明する。
 嫌悪には身体的に感じる音やニオイからの忌避感が根源にあり、直接的で感覚的な反応である。これに対して、羞恥には身体的に制御できない〈屁〉の暴発への危機感が根源にあり、暴発した場合の相手との関係に及ぼす影響を顧慮せざるを得ない(そして隠蔽したいとする)観念的な反応である。(ここには恥というものの成り立ちの姿があるように思うが、その辺の議論は「年取れば恥も忘れるおならかな」も参照してほしい)

 さて、次に人種の食性を持ち出したのはこういうことである。
 人間は何でも食べる雑食ではあるけれども、農耕民としての日本人は、まあ、草食性だね。遊牧民としてのアラブ人は肉食性である。この食性の違いが〈屁〉に及ぼす影響はどんなものか。結論から言うと、草食性は屁が出やすく、臭さ加減は弱い。肉食性は屁よりゲップが出やすく、ただし屁の臭さが強いのである。

 屁にしてもゲップにしても、出やすい(頻度が高い)ということは制御しにくいということ。あるいは制御を逃れて、うっかり出す危険度が高いのである。このオゲレツなものを制御しにくいことは〈屁〉の羞恥において甚大な影響を及ばす。危機感が恥の強度を増すわけだね。外国では屁よりゲップが無作法(恥ずかしい)という説を聞くが、ゲップの頻度が高い人種においては、さもありなんである。(この辺の議論は「屁はポックリ病の原因なのか?」も参照してほしい)

 こんなわけで、アラブ人が〈屁〉を嫌悪し、日本人が〈屁〉を恥じる背景には、食性の違いも理由になっていることがわかるわけさ。
 では、この対照的な人種に対して、ほかの人種(ヨーロッパとか)はどうなのか。嫌悪と羞恥の関係を突き詰めていけば、ヨーロッパ人が〈屁〉に寛容であった理由もわかるかもしれん〜。
posted by 楢須音成 at 04:55| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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