2007年02月04日

「ハンカチ」「監禁」「おなら」の紙一重

 いつの頃からか「○○王子」とかいうような言い方が流行っている。最近では「おなら王子」。そもそもの発端は「早稲田実業高校の斎藤佑樹投手(ハンカチ王子)が泊まった旅館で、ナインティナインの岡村隆史が、斎藤投手も使った酸素カプセルの中でおならを連発…というフジテレビの番組に高野連が抗議」という騒動。番組で岡村が「おなら王子」を自称して顰蹙を買ったという次第だ。ひたむきにプレーする選手の気持を愚弄し、番組内容は教育の一環である高校野球の目的から逸脱していると、高野連は怒ってしまった。

 まあ、お咎めなしの「ハンカチ王子」も随分きわどいと思うけどね。マウンドでハンカチを使っただけで「ハンカチ王子」とは、愚弄と紙一重ではないか──と、とる人もいるだろう。もっとも、言われた斎藤選手も(内心は知らないが)意に介さないみたいだし、「ハンカチ王子」はさわやかさの代名詞みたいになって流布してしまっている。なぜか世間に受けたわけさ。

 王子の中には「監禁王子」っていうのもあった。陰惨な性癖と金持ちで美形(?)の外見を結んで「王子」の乱発ではないかと思うが、もちろん、「監禁王子」は賞賛と紙一重である──と、とる人もいるだろうさ。

 こういうきわどい(どう受け取るかで180度違う結果を招来する)命名をする、おちょくり(ひねり)の精神は常に諸刃の剣であるが、よかれと思って口にし(いつまでも)「ハンカチ王子」を唱え続ける人たちやマスコミには決定的な無神経さが潜んでいるようだ。

 それはこの際どうでもいいとして、「おなら王子」である。このときの「おなら」は「ハンカチ」とか「監禁」とは違うのだろうか。まず「おなら王子」は自称したという点で、そもそも出自が違うのはわかる。

 「おなら」を連発した →「おなら王子」と名乗った

 という、自分の行為(放屁)に伴う自分自身への命名によって「おなら王子」は成立しているわけさ。そこには@斎藤選手が自ら「ハンカチ王子」と名乗るのと同じ構図A「おなら」は「ハンカチ」ほどのさわやかさがなく、といって「監禁」ほどの陰惨さもないB時事(話題)性をまとい「ハンカチ王子」あっての「おなら王子」である…といった点が指摘できる。(こう見るとなかなかの笑いネタである)

 岡村は相方の矢部浩之とともに、彼らが受け持つラジオ番組(フジ系のニッポン放送)でこう弁明したという。


 岡村「高野連が怒ってますけど、逆に僕が遺憾です。ハンカチ王子を“オナラ王子”と言ったわけではなく、僕(自身)がオナラ王子と言っているのに、球児の気持ちを踏みにじるとは意味が分からない。高校球児にこれを見せてくれ。それで“バカにされているみたいで腹が立ちます”というのなら、説明に行きます」
 矢部「(抗議に)選手は一切関係ないやろうね」
 岡村「ホンマです。中居が怒るのなら分かる。“何をカプセルの中で屁(へ)をこいてくれんねん”と。これ佑ちゃんにも見て聞いてほしい。バカにしてますか?と。僕らもレベルは違いますが、高校時代、クラブ活動をしていた。選手の気持ちは分かる。バカにするようなことはしない」
 矢部「宿の人にも迷惑かけて。申し訳ないですよ」
 岡村「ほんまですよ。僕ら泊まりに行きます。サッカー部で。理解に苦しむというか、意味が分かんないです。ビックリしました。これは誠に遺憾です」
                            ※以上、1/13のスポーツニッポン


 音成に言わせると、当事者の弁明というより論点ずらし(とぼけ)だね。自分は馬鹿にする気持なんかない→だから(選手を)馬鹿にしていない、という開き直り論法である。

 しかし、先に指摘した@〜Bにある岡村の行動(番組)は「ハンカチ王子」のパロディなのである(なかなかのパロディである)。もちろん、岡村が斎藤選手(や球児)を馬鹿にしていないのはそうかもしれないが、身を挺してパロった(おちょくった)ことには違いないわけだね。単に笑いをとったというのではなく、馬鹿にしていると騒がれるのは、実はこういうパロディも諸刃の剣であることを示しているわけさ。

 「ハンカチ王子」と聞いて、愚弄している(された)と感じる人もいる。
 「監禁王子」と聞いて、賞賛している(された)と感じる人もいる。
 「おなら王子」と聞いて、馬鹿にしている(された)と感じる人もいる。

 こういう紙一重の世界はルールがない。善意が悪意になり、悪意が善意になり、何でもないことがどちらかに偏する。どちらか一方の受け取り方が組織(学校とか)、世間、社会を覆い尽くすときの狂騒は、どっちにころぶかわからない点で恐ろしい〜。

 もっとも「おなら」の場合の紙一重は少々独特かもしれない。
 他人をからかって「おなら」を連呼する奴が連呼すればするほど、裏ではしっかりおならを粗相している(かもしれない)という当然の推測によって、そいつの背信的振る舞いを浮き立たすのである。そのことに気づけば、からかう方も笑っちゃうのである。そういう意味では、ナインティナインの自虐パロディは正直な振る舞いなわけさ。「おなら」を咎める方も「おなら」から無縁ではなく、次第に腰砕けになってしまう。そりゃ、まあ、〈屁〉は平等な生理現象であるからして、愚弄のネタとしては何やら意気阻喪させる愛嬌振りもまた持っているのである。

 まあ、気位の高い上品な人は決して人前で「おなら」とは発音しない。まして「おなら王子」など、口にするのはもってのほかであ〜る。(岡村サンはエライ=下品ね)


posted by 楢須音成 at 11:07| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月11日

〈屁〉を和漢の古典で語ってみた〜

 軽妙な〈屁〉のエッセイが戯作と紙一重で成立しているような場合があるね。江戸の狂歌師(宿屋飯盛)で国学者でもあった石川雅望(まさもち)の狂文集「吾嬬那萬俚(あずまなまり)」(1813年)の中に『放屁』という一編がある。笑いもあれば卓見もありというあんばいで、なかなかに面白い。(「俳句─俳文」に対して「狂歌─狂文」というわけさ)

 雅望の『放屁』は和漢の古典を縦横に引用して〈屁〉の真髄(?)を吐露している。少し〈屁〉文献に通じている人なら、全編これ出典は「ハハン」とわかる話ばかりである。話の構成は戯作っぽくはあるのだが、「屁」という字の音韻の起源などは卓見であ〜る。雅望は昔の人は放屁音を「ヘツ」と聞いたのだと言っている。

 短い一編なので訳を試みた。(音成の訳は逐字訳ではなく、解釈入りのテキトー訳なので悪しからず)



 屁は胃や脾臓の気が大腸にあふれ、それが下って「下風」となったものである。クシャミ、アクビ、セキ、シャックリと何の分けへだてがあろうか。しかしクシャミやシャックリは人なかでもするが、屁となると自分も恥じるし、そのうえ人も無礼だと怒ってしまい、刀の柄に手さえかけるものであってみれば、軽々しくはひりにくいものさ。
 そうは言っても、世の中に人がいる限り、男女の区別なく、屁をしない人はいない。屁を隠すのが世のならいなら、音無川の音をたてぬがごとく、カカトを尻に押し当て「我が名もらすな」とばかりに神様に祈るだろう。かくして、まこと偽りのない世であれば、人のまたぐらはいつも臭かろうよ。
 順徳院の御代に、屁ひりの判官代(ほうがんだい)という人がいて、御所にあっても放屁したが、全くお咎めを受けることなく、ひって、ひって、ひり散らし、宮内大輔にまでのぼりつめた。
 また、忠家の大納言は、忍んでいった女房の思わぬオナラの一発によって、出家せんと思い詰め鼻をつまんで逃げなさった。
 本院のおとど(左大臣の時平)が訴え事を聞いておられたとき、訴訟文を持ってまかり出た男が、高々と屁をこいたので、笑癖があったおどどは我慢できなかった。右大臣の菅公(道真)に向かうなり「この者の訴えを聞いてやって下されい」と任せてしまい、そんなに腹の調子が悪いのか、と手をすり涙を流して笑いなさったそうだ。
 このおとどのことはよいとして、後世にあがめ尊んだ天神様(道真)の御前で「沈香は焚かず」に屁をひるとは何事であるか。しかし賤しい身分の男が、やんごとない書に記録され今に伝わっているのは、あやまちの高名と言うべきか。
 仏が在世のとき、ひどく豆を食べ過ぎ腹を張らしていた僧がいたが、なむぶツぶツ、と屁をこいたので、仏は外に出てひれと戒めなさった。まことに百日の説法も、このあやまち一つで、聴衆の信心も冷めてしまうのである。説法で粗相した僧賀のひじりのほかは、尻で金鼓(こんぐ=寺の楽器)は鳴らしてはいかん。
 屁にはそれぞれ異名がある。はしご屁は由緒あるワザであるし、にぎり屁は悪ふざけ。いきみ屁は無理にひること。格別に罪が深いのはころし屁である。屁ひりの神の紙線香(遊戯の一つ)もひった奴へはたなびかないし、腰巻が黄色いね、とあらぬ濡れ衣を着せて、関係ない人を泣かせるのである。
 ある儒者先生の説では、屁は本音「ブウ」、去声に発して音「スウ」と言われたのだが、そうだろうか。これでは唐の学者、陸徳明(りくとくめい)も尻をまくって逃げ出してしまう音韻ではないか。
 愚考するに、屁の字は唐音で「ピイ」の音であり、「ピイ」とはひるときの音声であろう。我が国で「へ」と呼ぶのも、これまたひるときの音声ではなかろうか。これを先生のように「ブウ」の一音のみとするのは、一をひって二をひらざる(一を知って二を知らざる)ヘッぴり儒者の狭量な見解といわねばならん。昔の人のみやびな耳には、この音声を「ヘツ」と聞いたのである。「ブツ」というのも「はひふへほ」の通音ではあるが、昔の人は「ヘツ」と聞いたに違いない。
 口から出るものを「へど」というのは、これもまたその音声である。蝉を「せみ」、カラスを「から」と名付けたことなどは、すべてその音声によるのだと物知りが伝えている。
 清の李笠翁(りりゅうおう)先生の十種の小説のなかに、他人の屁は臭く、自分の屁は香ばしいとある。屁にすら自他の差別があれば、まして才能・技芸に秀でて暮らし向きがよい連中にかかると、そういう手前勝手も言うであろう。
 昔、唐の趙襄子(ちょうじょうし)が便所に入って、大きな屁をこいた。屁に殺気の音があり心が騒いだので、踏み板を覗いてみると、自分を狙って隠れている予譲(よじょう)を見つけた。趙襄子は半分糞をしかけていたが、厠を飛び出し、尻を揉み揉み命令して、ついに予譲を捕えたのである。
 また越王の勾銭(こうせん)は呉王の夫差(ふさ)に敗れてケツを嗅ぐハメになったが、屁とも思わぬ顔つきだった。やがて最後には呉国の方が討伐されて越国の褌(越中褌…笑)になってしまった。
 この支那の話はどちらも屁の徳であって、一人は危険をまぬかれ、一人は望みを達したのであるよ。嗚呼、かくも屁の徳は大いなるかな。或いはイキバリ或いはスカス。締めたり弛めたり、これぞブウブ(文武…笑)の道である。
 誰かの言葉に、男子たるもの世にあって、焼芋のような芳ばしき評判を得られないのならば、人生最期に一つ屁をひり、臭みを万代に残すべきであると。私はこの言葉に感ずるところがあり、へっぴり腰を引っ立てつつ、河童の屁という文章を書いた。誉めるか貶すか、とんとわからぬが、ケツの口でものを言う男であるわいと、世間の人はへへへと笑うに違いない。
 ※この文章を書き終わる頃、いつもの親しい連中が来て、あれこれ喋っているうちに、心外にも臭いにおいがしたので、ありゃ誰がしたんだ、こりゃ臭い、などと言って騒ぐが、名乗り出る者はいない。さては屁玉が外から飛んできたのだろう、という人がいたので、ならば私が魂結び(たまむすび)して屁玉を鎮めましょう、と詠んだ歌がこれ。

すかし屁のぬしは誰とも知らねども ふるうてくれな下がひのつま(屁をすかしたのは誰か知らんが、着物の下前の端っこをゆらすのはやめてくれ〜)



 こんな調子。一読すれば、雅望という人の〈屁〉についての通人ぶりと戯作の精神に感心するわけさ。雄弁に〈屁〉を語る手際はお見事。エピソードを並べていき、〈屁〉を語る気分がエスカレートしていく妙味がこの作品のポイントである。最初に改行なしの原文を読んだときにはゴチャゴチャした印象だったが、改行を入れてみると、簡潔に場面転換していく、ノリのいい構成になっているではないか。

 ここに詰め込まれているのは@屁の生理的根拠A恥や無礼という現象B屁の隠蔽C屁の出世D屁の出家(未遂)E屁の訴えF坊主の屁G異名が示す屁の四態H屁の音義I身勝手な屁J屁の徳は文武の道K人の最期屁L仲間内の屁…と多彩。何の脈絡もないような〈屁〉つながりであるのに、これが面白可笑しく読ませるんだね。

 一言=詰め込まれたエピソードが回転しつつ、人生論風の〈屁〉的現象が雅望の「下がひのつま」から見えてくる〜。
posted by 楢須音成 at 19:33| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月14日

〈屁〉を恥じる女がジタバタして深みにはまる〜

 今昔物語のような説話集仕立ての作品が石川雅望にある。この『しみのすみか物語』(1802年)の中に「遊女放屁せる事」という一編があって、前にも紹介した遊女の屁の小咄を彷彿させる筋立てである。遊女の屁が雅望の手になるとどうなるか。

 例によって音成のテキトー訳をやってみる。こんな話である。


 色ごのみの男、心通わせていた遊女のところに出かけ、二人寄り添い寝ころんで語らっていた。この遊女、便意を催して厠に行きたいと思い詰め、気もそぞろになって語らっているうちに、思いもよらぬ大きな音で高やかに鳴らしてしまった。さすがにバツが悪い。黙っているわけにもいかず、男に向かって「ただいまの音、お聞きなさいましたかしら」と言う。
 男は何と言っていいかわからず「愛しい人よこちらへいらっしゃいな」などと話をそらそうとするが、女は「いやいや」と拒み、身を隠しながら言うのだ。「およそ夫婦の語らいは、神に誓って仏に祈って、古歌にあるように『松山の波』にかけ『野中の清水』を汲んで、変わることのない、忘れることのない契りを交わすものですけれど、人の心に秋風が立てば、次第にお互いよそよそしくなって、最後は別れてしまうものですよね。というのも、もともとの愛情が軽々しいもので、かりそめの、いい加減な心で逢い始めたものであれば、うつろう心もまた軽はずみに流れていくのです。本当に誠実な人はそうではありますまい。だからこそ私は恥を捨てて、あなたの心を見ようとしたのです。どうですか、ただいまの音で私を思ってくださる御心は冷めてしまったことでしょうね。ならば御心は薄情なのでございます」
 男は驚き「どうしてそんなことをおっしゃる。『羽をならべ枝をかわさん』と契ったのを偽りだと思いなさるか。少しばかりの過ちがあったとしても、契ったことをどうして違えましょうか。そのように疑いなさるのは、何とも心外ですよ」と答える。
 女は内心「うまくやった」と思って「それではこのような過ちをしたからといって、御心に嫌気がさしたとは思われないのですね。なんとまあうれしい御心でございますわ」と言って、寄り添おうとしたとき、またまた大きな音を鳴らしてしまった。男、顔を袖でおおって「どうしてそのようにひねくれて疑うのですか」。
 何ともおかしい男女の語らいである。


 雅望によれば、この作品集は旅人が様々な物語をするのを聞いて書き留め反古にしていたものを、女の子が仮名にしてと頼むので、筆のすさびに少々創作をまじえて書いたのだという。その反古に「しみ」という虫がところを得て棲み着いていたのが「しみのすみか」と名付けた由来である。

 原文は和漢の古典からの引用が効果的に使われた上品な擬古文となっている。平安の男女を思わせるような言葉のやりとりである。この話のオチのパターンは当時広く流布していたようで、遊女と屁のいろいろな小咄になっているわけさ。中重徹の「一発」に紹介してある話を紹介すると─。


 馴染みの客の床で一発やってしまった女郎が、すました顔で、「必ず笑いなんすな。わっちゃあ、ぬしを客衆とは思いせんぬ。やっぱり亭主だと思いんすによって、こんな恥ずかしいことをしんした。かならず悪く思ってくんなんすな」「なに、おれが悪く思うものか。そう心に隔てのないのが、やっぱりありがたいわな」「そういってくんなんすりゃあ、わっちもうれしいけれど」という口の下から、また一つ、ぷいとひれば、客「ハテ、疑い深い」
                                ※「下司の知恵」1788年


 似たような話は手塚正夫の「臍下たんでん」にも紹介されていたね(「江戸の遊女の〈屁〉の扱い方」参照)。こちらの遊女は自分の屁を「今のは何(の音)でありんす」ととぼけるのだが、男は「お前の屁だ」と承知している。あららバレたかと思ったが、意外にも男が「おれを心易く思い、まことの夫婦と思い、打解けたる心ゆえに、出たものであろう」と喜んでしまう。そこにまた遊女の一発。男は「さてさて疑ぐり深い」とあきれる話である。

 さて、雅望の創作は、こういう江戸のしもじもの話を下敷きにしたものであろうが、平安の擬古文で上品さを醸しつつ、心理の綾にとぼけた可笑しみを増量して作品の質を格段に上げている。筋立ても語り口も繊細になっているのは雅望のネライであり技量だね。

 話は@女が意図せず屁をしてしまうA女はその粗相を取り繕うために意図してやった(ワザと大恥をかいた)かのように主張するAそして恥をかいて零落した(無作法な)自分を愛せるかと開き直って男を逆襲するB男は驚きつつ女に愛を確認(主張)するCその途端にまたもや女は粗相するD男は(女の尻のしまりがないのだとはつゆ疑わず)ナント疑い深い女だと戸惑い、あきれる…という筋立てである。雅望流の展開は男女のやりとりが繊細なだけに、言葉を尽くす女の欺瞞的な振る舞い(これを可愛いという男もいる?)を浮き立たせる。このしつこく言い募る女のリアクションが眼目になっているわけさ。

 男は女の欺瞞に気づかない鈍感さ(純朴さ?)で応えるのだが、小咄に比べれば、雅望の筆致は屁や女の振る舞いに辟易している男の様子をしっかり滲ませているね。女の「勝利」が確定したかに見えた瞬間、またもや制御できぬ女の屁が放発して、すべてをぶち壊しにするかと思いきや、疑うことを知らぬ感度のズレた男(女が願うように振る舞う男)の一言が可笑しく響く。

 まあ、他愛がないと言ってしまえばそれまでだが、ここには紛れもなく〈屁〉が恥をキャッチボールしながら現象しているわけさ。それにしても制御を逃れ跋扈する〈屁〉は、そいつの人間性を浮き彫りにしてやまぬわい。

 一言=今も昔も可笑しく哀しい〈屁〉のリアクションさ。これは素直に「ごめんなさい」が言えず、なりふり構わずあらぬ方に振る舞ってしまう、女の〈屁〉的現象であ〜る。
posted by 楢須音成 at 23:10| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

討論番組は放屁合戦という現象

 芸とは本来、話芸に発祥したものだそうだ。話芸と言えば、テレビでよくやっている討論番組、これも話芸だね。少し前にテレビで団塊世代をテーマに討論番組をやっていた。たまたま途中から見たんだけどね。やはり、面白可笑しく浮き立つのは参加者の芸風である。

 ここでは参加者は芸人なんだね。まあ、討論番組だから参加者の論争の盛り上がりを味わうのが正しい鑑賞法だろうさ。しかし、番組意図は必ずしもそこ(定年退職を迎えた団塊の世代が国家経済や地域社会に及ぼす影響とか問題とか課題とかを論ずる)にはないね。テレビでは毒舌も正論も漫談になるわけさ。

 討論会場(スタジオ)の論者集団は「団塊世代の一般人」「非団塊世代の一般人」「評論家や事業家の著名人」というグループ構成で、ここに「団塊−非団塊」「一般人−著名人」という対立軸(?)がクロスして、これが微妙に言動の不協和音(論点錯綜)を醸すという、わかりやすい構成になっていた。

 思えば団塊の世代は、出生数が多い世代という特色(だけ?)で標的(論争の対象)にされてきた「幸せ」と「不幸せ」を背負っている。団塊(ひどく数が多い)という、戦後世代の中でも明快ゆえに特異な存在理由で、いまだに毀誉褒貶かまびすしい。

 それにしても、世代論にはまりこむと、どの世代も自分たちが一番損な世代だと思い込んでいる貧乏根性を丸出しにするのは、何でやろねー。その割には、随分なナルシシストなんだけど。

 しかし、そういうことも芸風ということである。

 激しさを競う討論(論争)番組では(どこの番組や…笑)芸風がクッキリとあらわれる。偉大なる論者といえども、その芸が及ばず「下品」「わがまま」「恐喝」「デタラメ」「馬鹿」の言動に零落する。卑小なる論者であっても、その芸の巧妙さによって「上品」「謙虚」「忠告」「正論」「賢者」の言動に躍進する。芸風の乱舞をもってハチャメチャ混乱のうちに終わるのは面白いけどさ。

 もともとテレビという媒体は出演者の立居振舞(言動)を鑑賞するところから始まっている。昔は居ずまい正して観たもんやという。そこには観られることを意識して芸があったはずではないか。ならば、もっと盛り上げねばならん。面白くなければいかん。演出やがな。やらせやがな。と、テレビがエスカレートするのは芸がはらんでいる宿業であ〜る。

 テレビが先導した討論のワザがあるね。著名人がやると迫力がある。まずは「人の話を聞かん(さえぎる)」「自分を過信する(どなる)」「曲解する(一で十を判断して嗤う)」「相手にしない(わかるように無視する)」「生き様を脅す(相手を否定する)」という、我が子だったらお尻ペンペンする振る舞いである。

 最近は一般人にまで(公の場で)それが浸透し始めておるわ。

 いろんな芸があって上手い下手もあるように、屁にもいろいろあるもんだが、討論番組はまるで放屁合戦であるね。意外だったのは、その放屁合戦の幕間に、シンガーソングライター(嘉門達夫)が団塊世代をパロった替え歌メドレーを披露したとき。いつもはバタ臭く現金に世相・世代をおちょくる嘉門の歌声が、何と清らかな聖歌のように聞こえました。笑ったわい。これが、ホンマもんの芸や。それまで臭気ぷんぷんの会場やったけれど、歌い終わった後に一瞬臭みが消えた。

 放屁合戦が終われば参加者は、ただの人に戻るんだろうな。いや実は、知り合いが出演しているのを見て驚いてしもうたんやがなー。
posted by 楢須音成 at 23:56| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 独舌漫語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月25日

君は〈屁〉を恥じて故郷を捨てるか

 古今東西〈屁〉に恥が伴うのは同じ現象であると言わねばならないが、そのあらわれ方は随分と違うのさ。洋の東西に通暁した博覧強記を自在に発揮した南方熊楠の『十二支考』(1914年〜)の中に「珍談」としてアラビア人(アラブ人)の放屁談と考察がある。この本は十二支の動物にまつわる話題を民俗誌的な記述で展開していて「馬に関する民俗と伝説」の章に(馬とはほとんど関係ないのに)〈屁〉が出てくるのである。

 熊楠の語りは〈屁〉の恥の民族的な差異に注目しているのだが、採録されている話や考察の概略を抽出してまとめてみる。


 @アブ・ハサンという男が商売で成功した。妻を失って若い娘と再婚することになり、多くの人を招いてもてなした。宴もたけなわ、アブ・ハサンは新婦の房へ入ろうと、うやうやしく立とうとして、うっかり一発高く放屁してしまう。客たちは彼が恥じて自殺することを恐れ、わざと大声で雑談して聞かなかったふりをしたが、アブ・ハサンは新婦の房へ入らず便所へ行くふりをして庭に飛び下り、馬に乗って泣きながら走り出て、そのままインドに渡ってしまった。その地では王の近衛兵にまで昇りつめ、面白可笑しく十年を過ごした。そのうち急に望郷の念に駆られ、王宮を脱走してアラビアに舞い戻った。まだ誰か自分のことを覚えているかと、ひそかに聞いて回っていると、ある小家で母親が少女に「お前はアブ・ハサンが屁をした晩に生まれた」と言っているではないか。自分の屁が年号同然になっているのを知り、大いに落胆し、以後、長く他国に暮らし終わった。

 A二人の商人が伴って行くうちに一人が放屁してしまったのを、ほかの一人が怒って殺そうとした。放屁した商人は財物をすべて投げ打って助命された。ところが、この放屁のことを他言しない約束だったにもかかわらず、言い散らされてしまい、放屁した商人はたまらず故郷を脱走してしまった。三十年後に故郷に帰る途上、川辺で休んでいると、水を汲みに来た女たちが自分の年齢を語り合っているのが耳に入った。そのうちの一人が放屁した商人の名をあげて、某生が屁をひった年に生まれたと明言するではないか。商人は、これじゃわが臭名は消えることなし、と悟り、直ちに他国に逃れて三度と故郷を見ることはなかった。

 Bあるアラビア人が屁を催して逼迫する急な事態となったが、天幕から遠く離れた地まで駆けて行き、小刀で地面に穴を掘り、その上に尻を置いてひり込むとすぐに穴を埋め、音もニオイも誰にも知られないことを確かめて、やっと安心して戻ってきた。

 Cアラビアのある港で一水夫が灰を一俵かついで屁を一発取り外すと、まわりの一同まるで無上の不浄に汚されたように争って海に飛び込んだ。

 Dアラビア人が集まったところで、ある人がフランス人のローランに「フランス人は屁を我慢する徳があるか」と問うた。「無理に我慢するのはすこぶる体に悪い。といって、ひって人に聞かせてしまうのは極めて無礼である。が、それがために一生の醜名を負うような事ではない」とローランが答えると、一同みな逃げ去った。(昔はフランス人は音さえ立てなければ屁をひっても悔いなかったらしい)

 Eジェフールの説に、古代ローマ人は盛礼と祭典の集会においてのみ屁を禁制したが、ほかの場所ことに食事のときの放屁を少しも咎めなかった。ただし、アプレウスの書には、イチジクの一種は放屁剤とされて婦女は避けて食べなかったとあり、婦女はなるべく屁を控え慎んだらしいという。

 F屁の慎みはローマ時代に比して今のヨーロッパ人は改進している。

 G屁とかシャックリとかいうものはこれを普段からほしいままにしていると、所を嫌わずどこでも平気で出すようになるし、これを我慢していると習い性となって、即座に出てくることはない。

 Hアーネスト・ハートなどは人との語らいで区切り同然に屁をしていたが、これは年をとって惚けただけの話。今日満足なヨーロッパ人で、音さえ立てなければ放屁はかまわんなどと主唱する者はいないし、まして上流や真面目な人はそんな話さえしない。

 Iある国の元首の重病を伝える公報に屁が出るときの様子まで載せてあった。昔は帝位を譲ろうと言われて、汚らわしいと川で耳を洗った変人もいた。近くは屁を聞いて海に入ったり、屁を聞かせまいと砂にすかし込むかたくなな人民もいる。そうまでなくとも、高貴な人の屁など誰も期待しないし、聞きたがりもしない。それを公報に載せて職分を尽くしたと思い込むのは、論語にある羊を盗んだ父を訴え出た正直者と同じである。こんな場合、子は父のために隠し、父は子のために隠すところに本当の正直があるものだ。このような無用の事を聞かせて、人種や風俗の異なる民に侮蔑され、鼎の軽重を問われるきっかけになった例は少なくない。

 J日本人は古ローマ人のごとく屁を大目に見ることなく、アラビア人ほどでなくても、むしろアラビア人流に厳しく忌んだと思われる。これは日本固有の美風であって、屁の排出の様子まで公報する外国風はいただけない。


 とまあ、大体以上が熊楠の〈屁〉に関して述べた概略である。ここでは〈屁〉の羞恥が民族間で違うことが指摘されているわけだね。〈屁〉を語っても熊楠の地理的・歴史的な目配りや見識の深さは面目躍如たるものがある。原文は語り口調で縦横に論旨が飛んで一見錯綜するのだが、このように〈屁〉の所だけ抽出しても極めて論理的な考察になっているのさ。

 それにしても〈屁〉を恥じて故郷を捨てるとはどういうことか。こういう恥の深さは笑いを通り越して〈屁〉というものの不気味さをも示すが、それほどけがらわしいものとされたのか。B〜Dのエピソードによれば〈屁〉は最強の毒物に等しいね。そこで疑問だが、アラビア人にとってこういうエピソードは笑いを喚起する(笑い話となっている)のだろうかねー。

 熊楠は何かにつけ西洋模倣に陥る(外に基準を設ける)弊風を〈屁〉に託して語っているが、外を基準に、過度に内を卑下(反省)する心性は今も各界に健在であ〜る。
posted by 楢須音成 at 11:24| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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