2007年01月03日

新年を祝う〈屁〉的な心境

 狂句や狂歌は〈屁〉の一発のなりふり構わぬ面白可笑しさを追究してやまない。そこでは定型の(伝統の)音韻が心地よいリズムになっているわけさ。もちろん、年頭を祝う気持ちも表現されている。


     初日の出まづ元旦のおとし玉(団々珍聞)

     めでたうと門過ぐる子の放屁こそ 年のはじめのお年玉かも(鶴州)

     ひり初めて快き屁の玉の春 今年も不異の報せなるらん(竹林閑人)


 新年の改まった気持からか、ほかの狂句、狂歌に比べると何となく真面目くさった感じがするね。酒も入ったところで新春の生活エピソードを託してみよう。


     粗相してとりはずしたり年ひとつ 昔は屁とも思はざりしが(麦原笛成)

     湯の中の屁のたまたまにあう夜半 はみも浮くばかり嬉しかりけり(読み人しらず)


 とりあえず、身辺は「屁和(へーわ)」であ〜る。


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2007年01月07日

江戸の遊女の〈屁〉の扱い方

 人は古来から〈屁〉には右往左往してきた。よくよく考えてみれば〈屁〉をめぐって我々はそれなりに心の準備をしなければならないわけさ。下ネタをアンソロジーした『臍下たんでん』(手塚正夫著、1963年、光源社刊)にある〈屁〉の章は、女性の〈屁〉のエピソードをいろいろ取り上げている。(「たんでん=譚伝」ということらしい)

 女性と〈屁〉というのは一つのテーマだと思うけれど、そこには何やらエロティックな趣もあるね。この本では、江戸の遊女の〈屁〉にスポットが当てられているが、それは江戸の屁文学で好んで取り上げられたのである。手塚が選んだ話を紹介してみよう。手塚は小咄はどこかとぼけていて、オチがピリリときいていなければ味がないと言っている。

「或る粋き人、遊びに行き、騒ぎくたびれ、夜更け寝入りし床の中にて、女郎取りはずし、屁をひり、びっくりして客の聞付けしかと思い、ぬからぬ顔にて、『もし、よう寝なんすの。今のは何んでありんす』という。客目をさまして、『貴様の屁さ。さてさてそれでこそ、其方の心中が見えた。おれを心易く思い、まことの夫婦と思い、打解けたる心ゆえに、出たものであろう。さりとは嬉しい』と、思いの外に喜べば、女郎はまた一つひりけれど、客とりあえず、『さてさて疑ぐり深い』」=手塚評:「傾城はすっとばしても恩にかけ(なじみのあなただから失礼したのよ)」のよい例である。

「さる女郎、お客のいる床でとりはずし、お客『こりゃたまらぬ匂いだ』女『おゆるしなさんせ、これには深いわけがありんす。わちきの母は九死に一生の病気をしなんした折、毎月一度ずつお客の前で恥をかきんすから、どうぞ直してくんなましと、観音さまに願をかけんしたゆえ』という口の下より、またもやとりはずし、女『オヤうれしい、来月分もしてしまった』」=手塚評:なかなかの傑作のオチである。

「お客と寝たる女郎ブッと一発もらせしが、さすがにきまり悪く、足にてぱたぱたふとんを持ち上げ、しきりに匂いを消さんとせしが、お客『モシおいらん。何をしているんだえ』女『アレごらんよ、あすこにきれいな帆かけ舟が通りんすゆえ、見ているところでありんす』お客『なるほど、あれは肥料船だ』」=手塚評:これは理にオチて、おかし味がない。

「かむろが客の前で放屁して笑われける。姉女郎はひそかに新造をおのが部屋にまねき、かむろ衆はまだよいが、こなさんたちは大事なこと、たしなんだがよいぞや。そしてこなさんは屁の工夫をしなさんしたか。まだであろう。大事のことじゃが教えておこう。おならの出そうで、こらえられぬ時、無理にこらえていると、おくびに出るものじゃ。そのような時には紙をよくもんで、いしき(しり)にあて、そっとつつんでたもとへ入れて捨てるがよい。それも屁の殺しようがわるいと、外へ匂うぞと、ねんごろに教えける。座敷へ出でけるおりから、かの新造屁の伝授を得て、おいど(しり)へ気をよせけるゆえ、しきりにおならが出そうになるゆえ、ふところより紙をとり出し、これをもんでふところへ入れ、あんばいよく屁をつつんでとりすてる。さて窓より外へ投げしに、折あしく格子にあたり、紙がつぶれてブウ」=手塚評:最大の傑作である。

 こういう小咄のほか遊女については◇客の前で取りこぼした遊女が大笑いされ、「あちこちいいふらされるに違いない」と羞恥と絶望で自害しようとしたが、笑った客の方も驚いて止めに入る騒ぎとなって「この事一切口外申すまじきこと」を証文に書いてやっと自害を止めさせた◇遊女が二階へ上がりしなに取りはずし、座敷にまで聞こえて大騒ぎになったが、幇間が罪をかぶって事は収まった。そのあと幇間は恩を着せて毎晩のように小遣いをせびった──というような話を紹介している。

 さて、遊女と〈屁〉の情景が語られるとき、これだけの話の中からもわかることがあるね。遊女と客の二人だけの密室の放屁ならば「愛すればこその〈屁〉」に恥も罪も封じ込められる(笑ってすませる)わけだが、多くの客の前での放屁となると、恥も罪も段々厳しくなっていくのである。これは〈屁〉が社会化していく(ここでは危険になっていく)一つの段階を示しているわけさ。どちらにしても、あらゆる場所で〈屁〉はきわどい存在であるとは言えるね。

 この本は「貞女」「女闘」「処女割り」「奇女」「淫魔」「娼婦の体」「堕胎」「混浴」「自慰」「屍愛」「刺青」「ふんどし」「立小便」「姫と小便」「トイレット」「糞尿」「おとし紙」などについて広範にウンチクを傾けている。ここに〈屁〉が入っているのである。
posted by 楢須音成 at 17:17| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

〈屁〉における無頓着とは何だろ〜ヵ

 人前で平気で放屁するような、全く〈屁〉に「無頓着」な人がいたりする。女性でもそういう人がいてビックリしたことがあるよ。一般的には(人前では)放屁は異様な行動の一つと見なされるわけだね。まあ、人間は迷惑の及ばぬ限り、どうあろうと勝手なわけだけれど。

 さて、世の中に〈屁〉を全く意に介しない(ように見える)人がいるのはどういうことだろうか。福富織部の『屁』に「名流屁くらべ」という一節があり、明治大正のセレブな人たちの放屁エピソードを通して彼らの〈屁〉に対する「処し方」がまとめられているが、みなさん、ようやるわい。いくつか紹介する。

◎原坦山(曹洞宗の禅僧)
 禅門の妙諦を迫られ、ブーッと一発、握り屁を客の鼻先で開いた。客はたまらず鼻をつまめば、和尚「臭いかな、それが臭いうちは、まだお若い、精々工夫さっしゃい」と喝破した。
◎児玉源太郎(陸軍大臣)
 参謀本部に将軍たちが集まって謀議の最中、ブーッと大きく発砲した。一座は笑う者もなく気の毒そうに黙りこくる。児玉は一向平気で、皆の顔を見てワッハハハと大口開けて笑った。
◎野村靖(政治家。フランス公使などつとめる)
 普段から屁を平気でする癖があり、スペインのホテルで夫人と令嬢同伴のアメリカ公使と隣り合わせに泊まったときも、遠慮会釈なくやっていた。隣から令嬢の笑いが漏れるのを聞き、野村はことさらに空砲を発した。驚きあきれた側近(加藤恒忠)が注意すると「隣は年長にして公使たる俺の屁とは思っていまい。君の屁と思っているだろう。俺は君の上司なんだから君の屁として責任を負担してはどうか」と押しつけた。
◎曽我廼家五郎(喜劇俳優)
 大阪中座の舞台で「心中天網島」を出したとき、ある場面で、どうしたはずみか五郎が一発ブーッと出してしまった。相方の十郎は「イヤ屁じゃない起證ぢゃ」と真面目にとっさの台詞を言ったので、まわりの役者も観客もドッと笑った。
◎橋本独山(京都相国寺管長)
 娘たちに「私たちの将来心得になるような公案を」と頼まれて固辞したが、どうしてもというので「三三九度のときブーッと取り外したと仮定して、その時どう詫びをしたらいいか、これ以上の詫びはないという言葉を考えなさい」と言った。みんな唖然呆然となった。
◎荒川高俊(自由民権家)
 舌禍を買って石川島監獄につながれていた。教戒師が説教中に透かし屁をしようとしてつい正座が乱れ、看守が「こらッ、何しちょる」と声を張り上げた。高俊は「ヘイ、ヘイ」とこらえていたのを思い切り一発ぶっぱなした。
◎乃木希典(陸軍大将)
 引退して那須野にいた。客があり「世の中になすべき事も多かるに こんな処で何を那須野か」と一首。将軍、答えて一首。「爲すこともなくて那須野に住む我は 茄子とうなすを食うて屁をこく」
◎中江兆民(自由民権家)
 同志の栗原亮一が支那から戻ってきて兆民の前で「土産を進上する」と四つん這いになり豚の鳴き声を真似た。兆民は「では、祝砲を」と尻をまくって響雷のような一発を放った。
◎松村介石(宗教家)
 ペリーが浦賀に来たとき、その砲声に我国人はいかに驚いたかことか、という教師の講義の最中に、ぷうッと一発。教師は烈火の如く怒ったが「出もの腫もの処嫌わずと申します、どうぞ悪しからず」と平然としていた。
◎西田天香(宗教家)
 無一物を提唱して奉仕生活の天香は、至る所で雄大荘厳なる屁を発して傍人を驚嘆せしめた。天香曰く「この世にこれという欲望は少しもないが、強いて欲望を言えば、ただ一つ、それれは何時如何なる時でも、自由に気ままに勝手に、放屁を許させていただくことだ」
◎長岡外史(陸軍中将)
 道楽の庭いじりの最中に屁を催した。誰もいないのを見すまして轟然一発。ところが、隣家の夫人が子供を遊ばせながら、この音を耳にした。「あきれた。人格者じゃないわ」と夫人は眉をひそめて隣近所へ喧伝して回り中将の名声を落とした。
◎福地桜痴(ジャーナリスト・劇作家・小説家)
 吉原の名妓小せんを侍らせて、浅酌低唱の折柄、ふいと立ち上がり様に、ブーッと一発。小せん慌てて鼻をつまむ。桜痴「悪食が好きでな。毒消しを貰って大分吐いたので俺は大事ないが、残っていた毒素が屁になって出たようだ。お前かいだか。そりゃいかん。間違いがあるといかん。すぐ松本君(陸軍の軍医総監)のところへ行け。一刻も早く行った方がいい」と急き立てる。気分を悪くした小せん慌てて松本のところに行くと、松本「何か毒気を嗅いだな、どうだ」とピタリと当てた。「まごまごしていると、毒素が血管をめぐって一命にかかわる。わしが毒消しの薬をあげる」と薬を処方した。翌朝には小せんは気分回復したが、この一件は福地と松本の悪戯だった。
◎押川清(野球人)
 早稲田大学野球団が初めてアメリカに遠征したロサンゼルスのホテルで、早大野球名物の放屁を盛んに続けて、異臭室内に充ち満ちた。同室の陶山選手が堪えかねて抗議。「よしよし、失敬した、然し君、これならよかろう」と、くるりと尻をまくって肛門へ香水をふりかけた。

 好き嫌いは別にして、登場するのはいずれもそうそうたる人たちである。我々一般人のような一生ずっと貧乏くさいままの〈屁〉とは違って、要するに宗教家、軍人、政治家、作家、選手といった社会的地位を築いた人たちの〈屁〉のエピソードだね。ここでは〈屁〉は勲章のようになっているわけさ。また、彼らは〈屁〉に対してある種の無頓着さを獲得しているようなのだ。

 これは一体どういうことだろうか。以上のエピソードでは〈屁〉がその現場において@格別に誇らしいものになっているわけではない。もちろんA羞恥を喚起しているわけでもない。そして、そんな話を聞けばB一般人は笑わないわけにはいかない。こういう構図を用意するのである。

 この構図に隠された〈屁〉に対する無頓着とはどういう境地なのか。
posted by 楢須音成 at 23:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月20日

続・〈屁〉における無頓着とは何だろ〜ヵ

 いろいろな場面における〈屁〉に対する「無頓着」という境地がいかなるものか、事例にそって検討してみよう。前回紹介したエピソードから要点を抽出し、タイプ別に分類してみることにする。(エピソードの真相は単純に割り切れるものではないが、一つの解釈ということで)

タイプ(1)=屁をうっかり粗相する迂闊な人
 ◎曽我廼家五郎=芝居の演技中に大きく鳴らした。(思わず取り外した)

タイプ(2)=屁を遠慮なくする人
 ◎児玉源太郎=会議の席で大きく鳴らした。(屁を堂々と鳴らし笑い飛ばした)
 ◎松村介石=講義中に平然と鳴らした。(屁を認めよと開き直った)
 ◎西田天香=唯一それが許してほしい自分の欲望だと言って至る所で鳴らした。(屁を認めてほしいと願った)
 ◎長岡外史=庭いじりの最中に誰もいないので鳴らした。(一人なら屁に遠慮がなかった)

タイプ(3)=屁を遊びの道具にする人
 ◎野村靖=隣人の受けをねらってワザと鳴らした。(調子に乗って屁でふざけた)
 ◎福地桜痴=屁を毒素に見立て悪戯を仕掛けた。(屁で芸妓をもて遊んだ)
 ◎押川清=屁に文句を言われて尻に香水を振り撒いた。(悪ふざけをエスカレートさせた)

タイプ(4)=屁で気持や意思を表現する人
 ◎荒川高俊=獄につながれた立場で鳴らした。(屁で反抗的に振る舞った)
 ◎乃木希典=〈屁〉をもって心境を詠んだ。(屁を文芸にした)
 ◎中江兆民=自分の〈屁〉を祝砲と称して鳴らした。(祝う気持ちを屁で表現した)

タイプ(5)=屁を人生の謎解きにする人
 ◎原坦山=〈屁〉自体を禅の公案にした。(屁で相手を煙に巻き困惑させた)
 ◎橋本独山=娘たちに〈屁〉を粗相したときの対処法を問うた。(屁による難問で相手を困らせ唖然とさせた)

 さて、観察するとタイプ(1)から(5)まで、うっかりにしろ、ワザとにしろ、出してしまった屁を恥じることがない点は共通しているが、ここでいう無頓着とは「他人から忌み嫌われる〈屁〉に対して羞恥を抱かないことである」と明確にしておこう。果たしてこれらの人々は無恥なのであろうか。あるいは恥とは無縁な天真爛漫なのであろうか。はてさて、どういう無頓着なのであろうか。

 この無頓着とは選択された態度であるに違いない。無恥や天真爛漫はしばしば無頓着の背景をなすものであるが、彼らの振る舞いは無恥でもなければ天真爛漫でもない。むしろ彼らは〈屁〉に対して非常に自覚的(意識的)であると思える。どのように自覚的かといえば、暗黙のうちに相手(周囲)の存在を感受した(意識した)振る舞いになっているわけさ。

 このことは〈屁〉の観念化が相手(周囲)を意識すればするほど進むことを示しているね。そして無頓着に見えながら、相手(周囲)と相対する緊張感はタイプ(5)に近づくにつれて高まっていると観察されるのである。そこでは羞恥が「完全に」かどうかは別として「封じ込め」られている。この「封じ込め」を自然体で行っているところが彼らの本領なのである。

 江戸の遊女は〈屁〉を一生懸命隠そうとしたね(「江戸の遊女の〈屁〉の扱い方」参照)。この場合は羞恥の「表出」に翻弄される振る舞いとなっていたのを思い出そう。恥を回避するために彼女たちは健気に〈屁〉の事実を隠そうとしたのである。

 無頓着な人たちは自然体による「封じ込め」の境地にあって、自分の〈屁〉の事実を隠そうとはしないのだが、といって、心底から誇ろうともしていない(誇るべきものでもない)のである。あくまで無頓着。自然体。注意すべきは、ここで彼らは〈屁〉の恥を知らないわけではないことだね。彼らの無頓着とは単に物事を気にとめないというのではなく、知っていて「知らない」を装うことの本質を有するのである。(こういう心的状態は病のような、深い深い我々の精神の構造なのさ)

 見方を変えれば、彼らはブリブリ〈屁〉をたれ、〈屁〉を話題にする下品な連中であるにすぎないではないか。それなりの社会的地位や立場にあぐらをかいて恥を押しつける(人の嫌がることをする)傲慢な連中ではないか。その対極にある遊女は何と健気なことだろうか。

 無頓着な彼らのエピソードが笑いを誘うのはセレブな人たちの〈屁〉だからである。しかも彼らは見たところ恥じる様子がない。ご本人たちが「無頓着」に〈屁〉をただの「音」「(遊び)道具」「テーマ」として撒き散らす姿が、あきれたり怒り出したりする周りの様子と重なって、我々には他人事として笑いがもたらされる。

 しかしながら我々は、遊女の〈屁〉と比べて、ついつい彼らに立派な〈屁〉を見てしまうんだよねー。なぜか。それは恥から解放された振る舞いに我々があこがれているからなのさ。あこがれの対象として彼らは(話の中で)立派である。彼らは無頓着によって、音高く、生臭い世俗の〈屁〉からは超絶している(ように見える)。

 しかし人間界において彼らとて無頓着をもって〈屁〉の恥から逃れられるものではない。知っていることを知らないとするこの無頓着は〈屁〉を制覇しているわけではないのである。しからば、無頓着にもう一歩迫らねばならぬのではないか〜。
posted by 楢須音成 at 15:44| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月26日

続続・〈屁〉における無頓着とは何だろ〜ヵ

 これまで見てきたように、〈屁〉に対する無頓着には、どうやら「恥」が介在していることが断定されるのであるが、ここで前回見たタイプ(1)〜(5)の人々をもう一度整理してみることにする。

 タイプ(1)から(5)へ至るのは〈屁〉の観念化が進む進化の道筋なのである。(1)「うっかりやってしまう」→(2)「遠慮がなくなる」→(3)「遊び・悪戯をする」→(4)「自己表現の気持ちや意思が入る」→(5)「謎解きにしてしまう」という過程は、次第に〈屁〉を有意味な存在として観念化していく(意味付与していく)振る舞いなわけである。つまり、言いかえれば〈屁〉が意図せず自然発生(粗相)するところを起点にして、我々の心的な運動が人為化(意図的な行為)のステップを辿っていく(高度になっていく)流れを示しているわけさ。

 ここには共通して無頓着という態度の表出があるわけだが、「恥」はどこにあるのだろうか。そもそも無頓着とは「恥」に対する無感覚な様子を指していることではないのか。それは他人から忌み嫌われる〈屁〉に対して羞恥を抱かないことである。

 タイプ(1)〜(5)の人たちを一見すると、(1)から(5)に向かって闊達な態度あるいは悟りを含んでいくように(俗世を超脱していくように)見える(かな?)。何といっても(5)は僧侶の振る舞いだもんね。さすれば(1)の段階はまだまだ児戯に等しいわけさ。

 しかしながら、意識するにしろしないにしろ(1)から(5)に向かっては、天然自然の無頓着とはおよそかけ離れた観念化という変質が進んでいるのを知らねばならない。そこでは無頓着は一つの自己欺瞞として機能している。要するに恥ずかしいことを相対化し無視するに至る、観念化の取り繕いが態度として表面化したものなのであるのさ。

 知っていることを知らない振りするのと同じであって「私は〈屁〉なんか、な〜んも気にしていません」という態度は、逆説的に気にしていることを示すのである。そういう態度は精神の運動(倫理)としては後ろめたい。その後ろめたさに鈍感になってしまえば〈屁〉の無頓着は完成するのである。そういう自己欺瞞なしには誰も〈屁〉に豪快に(無頓着に)はなれない〜。

 大体〈屁〉は自分だけの問題ではない。相手あっての〈屁〉なのである(誰もいないところで一人で出した屁は存在しないに等しい)。タイプ(1)〜(5)の人たちは〈屁〉をめぐって周囲と切り結ぶ中で無頓着を選び取った。それは相手が恥ずかしがること、怒ること、嫌がること、あきれることを知り尽くして振る舞っているのである。無頓着を武器にしているわけだね。

 ところが、江戸の遊女たちはこのような無頓着を武器にできただろうか。彼女たちはそれはできず〈屁〉を隠すことで健気に防戦した。それは、タイプ(1)〜(5)の振る舞いととどういう違いがあるのだろうか。

 結局のところ(1)〜(5)の人たちはセレブな人たちであることが注目される。つまり、地位、立場、身分、名声といった社会的に高位にある(と思われている)人の振る舞いとしてあるのさ。低位の者が無頓着を装ってはただの無礼であって、シャレにならないのである。そういう意味では、無頓着というのは何とも権威的で傲慢なものだと言わねばならないね。

 この〈屁〉の無頓着が醸す笑いとは、本来そうあってはならない立場の人が平気で〈屁〉を現象させて波紋を起こし、本人や周りのリアクションが連鎖していく構図にあるわけだが、本人が天然自然の無頓着を表の顔としているところに、〈屁〉の恥が封印されているのである。(まあ、そうであれば、どこかで無頓着のほころびが出てくることもあるかもしれないけど、それはそれで笑える)

 人と人の関係の中では〈屁〉の発生は誰にとっても気持ちのいいものではない。そこでは〈屁〉を隠すのも狭小な振る舞いだが〈屁〉を晒すのも卑小な振る舞いという人間の現実がある。かくして我々は、どうあっても〈屁〉というものの暗黒にはまっている存在なのであった。
posted by 楢須音成 at 23:17| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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