2006年11月27日

続・嫁は屁をして幸せになれるのだろ〜ヵ

 並外れた屁をする嫁を離縁するが、屁に利得があるとわかるなり復縁する――という「屁ひり嫁」の民話(前回、要約で紹介した話を参照して下さい)を致富譚として見る場合の、その致富願望を分析してみよう。

 まず、致富願望(の方向)を登場人物に即して見てみると、
 @嫁=私が幸せになるように富ませてね(富をもらたしてね)
 A夫=我または我家に富をもたらしてくれよな
 …と、微妙に異なる方向を持っているわけさ。ここには、同じ富(梨とか反物とか)の獲得をめざしながらも、立場による心理の乖離があるわけだが、夫の身勝手さに対して、恥と不幸をさらけ出した嫁の立場(願望)は何とも切実(リアル)だね。

 嫁の立場は恥ずかしい〈屁〉によって危機にさらされているのである。そして、一方で〈屁〉そのものが富をもたらす祈りの対象(富を生み出す力)になっているわけさ。
 この転換構造(不幸を幸せにする)を付与されて〈屁〉は祈りのシンボルに昇華している。もちろん、そうなる根拠は〈屁〉に内在する(破壊的な)力にあるわけさ。

 民話の語り手や聞き手は、嫁や夫の立場を行ったり来たりしながらも、ついには「嫁の屁」を自らの(切実な)致富願望として引き受けるのが正当である。直接的に富を獲得する願望が成就する資格は嫁にしかないのだから、話の世界に心を預けるとき嫁に寄り添うほか道はない。要するに嫁に同情しない限り、この民話は語れないし聞けないはずなのである。(人権とか権利とか女権というような観念に発する近・現代風の同情とは違うよ)
 しかしながら、語り手や聞き手のそういう心的振る舞い(同情)は隠蔽され、嫁(の屁)を笑い飛ばすことがもっぱら表出するんだね。そこでは嫁の(切実な)願望を忘却し、夫の身勝手さに鈍感になっている。ただ面白可笑しい「嫁の屁」の話として流布させることになってしまうのである。(そのとき、社会的な関係の常として、嫁に同情するような振る舞いは、一般的=合意事項ではなかったのさ。それが言い過ぎなら限度があったのさ)

 それでも民話の語り手や聞き手の意識下には(隠蔽された)「嫁の屁」がリアルに突き刺さっていると言わねばならないんだね。自らが導く面白可笑しさの背後で「屁のように扱われる嫁」を感じていた。なぜならそれは社会的な関係の中で定着していた嫁の姿なのである。「嫁の屁」とは嫁の存在そのものであり、嫁は家族や隣近所に必ずいたのである。

 「屁ひり嫁」の民話が全国に分布するのは、このようにして語り手や聞き手の心に刺さっていた「嫁」が広く遍在していたからである。「嫁」の姿は〈屁〉そのものだったのだ、というのが音成の解釈だが、「嫁」と〈屁〉がリアルに結びついたとき話は爆発的に広がった。その広がり方を見ると、相当の切実さ(嫁の現実)とリアリティがあったんだろうと思うね。そして逆説的な〈屁〉の破壊力もまた嫁の姿にほかならんのだよ。(このような笑いの陰に忘れられた残酷さや、本当は深刻な話が笑話として流布するのは民話の一つの構造である)

 話の結末は嫁が望むハッピーエンドである。〈屁〉が富を獲得することによって、周囲は妥協点を見出してくれるわけだね。「復縁する」「部屋を造る」「考えを改める」などというオチを用意する。だけど本当の現実では、「嫁の屁」が富を獲得することはあり得ないこともわかっている。
 あり得ないんだけれど、ここは(あり得るつもりになって)「復縁する」「部屋を造る」「考えを改める」しか方法はないんだという現実の処世訓(夫婦の関係性の保持)を示しているのが裏のオチなわけである。そこに嫁の幸せがあったのかどうかは嫁に聞いてみたいよ。

 さて、以上の話を嫁にしてみたら、何で「嫁」が〈屁〉なのよ、と怒り出した。現代の「嫁」はすでに〈屁〉ではないのかもしれんが、今も昔も〈屁〉的現象に結合(仮託)した現実は検証に値すると思うんだけどねー。


posted by 楢須音成 at 22:03| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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