2006年11月25日

嫁は屁をして幸せになれるのだろ〜ヵ

 何かのテレビ番組を見ていたら、妻の放屁を聞いたことがない夫は意外に多い、というようなことを言っていた。まあ、聞きたくもないという人も多いだろうけどね。もちろん、妻が屁をしちゃいかんというような決まりはない。妻だって屁はしとるはずさ。だけど、「嫁」という立場で振る舞うときに、いつの頃からだろうか〈屁〉は御法度になった(ようである)。

 民話に「屁ひり嫁」というのあるが、同型の話が全国に分布している。福富織部の『屁』では、その一つを北国の伝説として紹介してある。こんな話である。

 ──もらったばかりの嫁がひどく顔色を悪くしているので姑が「嫁子(あねこ)嫁子なにして汝(うね)の顔色が悪いダァ、腹でも痛いのかァ」と聞くと、どこも痛くないと答える。更に問えば「そんだら白状(しゃべ)りますが、俺(おら)は本当は屁が出たくてそれで顔色が悪いのし」と言う。姑は何も顔色が悪くなるまで屁を我慢することはない、出していいから早く放れと言うが、嫁は大屁で姑を吹き飛ばしては大変と尻込みする。大丈夫だからという姑にうながされて尻をたくって屁をしたところ、姑は吹き飛ばされ、当木にしがみついたまま厩(うまや)の破窓(はそう)にひっかかって、降りるに降りられなくなった。そこに夫が帰って来て母親を助けた。事情を聞いた夫は自分も吹き飛ばされては事だからと、嫁を離縁してしまった。
 嫁は実家に帰るには具合が悪いし、往来で立っていると、向こうから牛を引いた牛方がやってきた。牛方は喉が渇いて梨の木に梨がなっているのを取ろうとしたが、一つも落ちてこない。嫁は梨などは屁で落とせると牛方に言う。牛方が信用しないのを見て嫁は「そんだらもし俺(おら)が落としたらお前の女房にして連れて行ってくれるか、そんだら落とす」と言う。牛方が喜んで了解すると、嫁は木を吹き揺らして梨を落とした。牛方は大喜びで、その梨と嫁を牛に乗せて連れて行った。

 この最後の部分が、一説では、
 ──馬方とカケをした嫁が多くの梨を取ったのを見て、送ってきていた夫は嫁を手放す気がなくなって連れ帰った。

 または、こういうバリエーションもある。
 ──馬方とカケをして梨をひり落とし、馬七匹と七駄の木綿や魚荷を得る。送ってきていた夫は嫁を手放すのが惜しくなり家に連れ帰って丈夫な小屋を造ってやり、嫁が屁を催せば、そこに入れた。それが部屋(へや)の始まりだ。

 あるいは『みやぎ艶笑風流譚』(佐々木徳夫著、1997年、無明舎刊)にある「屁ひり嫁」になると、随分とエロっぽくなっている。

 ──ある家に器量のいい娘がいた。心配事があり嫁の話をことごとく断っていたが、どこで見初めたか大百姓の息子が仲人を立ててきた。「実は、おしょすいげんとも(はずかしいが)、娘に並はずれだ屁をする癖があってね」と言えば、「そんなごどすか。屁なら誰でもたれすぺちゃ」と一笑されて、縁談が調った。ところが、半月もしないうちに婿殿が仲人のところにやって来る。「誰にでも喋れるごどでねえが、屁をする癖があるごどは百も承知でもらったども、まさが夫婦の営みの時までそれが及ぶどは思わねがすた。腰を動がす度に音は出る。力いれっと、よげい大ぎぐなる。興ざめもいいどこでがす」と離縁を申し出る。婿殿の両親は嫁が気に入っていたのだが、致し方なく嫁を手放すことになってしまう。
 婿殿が送って嫁の里への途中、荷車を引いていた人が坂道で難儀していたが、気の毒がった嫁が腰巻きまくってボーンと一発やったら荷車は難なく坂を上がった。婿殿は屁の勢いにたまげてしまった。
 それからしばらく行くと、木綿屋(反物屋)が喉を渇かして恨めしそうに柿の木を見上げていた。嫁は屁で落としてやると言うが、木綿屋は信用しない。嫁は「ほだら賭(かけ)すか。もし落どすたら、馬っこど反物、皆いだだぐがらね」と木綿屋と約束する。嫁はまた腰巻きまくってボーンと一発。柿の木はグラグラ揺れて、柿はボタボタ落ちてきた。木綿屋は仕方なく反物と馬を渡した。こんな嫁を目の当たりにした婿殿は物は考えようで、この嫁は「宝嫁御」だと思って、家に連れて帰った。

 以上のような話のバリエーションは全国各地にあるわけだが、核になっている大体の基本の筋立てはつかめるね。要約すれば「気に入られた嫁がいる。この嫁は大きな屁をする癖があり嫁自身それを憚っている。許されて屁をするのだが、何もかも吹き飛ばすほどの大屁(過剰な屁)に周りは仰天する。これはかなわんと嫁を離縁しようとする。ところが、この大屁が富をもたらすことがわかり復縁する(あるいは新たな縁を結ぶ)」となる。

 何とも現金な話だが、ここには〈屁〉というものの扱われ方の明暗が端的に示されているわけさ。我々は常に〈屁〉の明暗を行き来している存在だね。

 ここで嫁の気持ちになってみよう。@もちろん屁をすることは恥ずかしいワAまして並外れて大きな屁は超恥ずかしィBその屁が制御できないのよねェC出物腫れ物所嫌わずって言うけど、私の場合は物理的被害まで与えてしまい誰も許してくれないのD嫌だと言われれば一言もないわけよ。ホント、絶望だワEでも(恥を捨てて開き直れば)大屁も役に立つことあるのよーFそんな私のサクセス・ストーリー聞いて下さ〜い。

 このときEFにおける〈屁〉の反転攻勢はぬけぬけ(生き生き)と行われる。面白いね。

 嫁の周囲の人間は、まあ、少々であれば寛大な姿勢を示すのだが、それが限度を越える(物理的被害を生む)に至っては排斥の側に回る。このとき〈屁〉は全くの無用ものである。単に害をもたらすだけのものは存在できない。もともと〈屁〉は何の役に立っているかわからない無目的な存在なのである。そういう〈屁〉が嫁のサクセス・ストーリーに転じるファクターとして機能するところが、この民話の眼目なわけだね。

 一般にファンタジーはあり得ないことを平気で語り、その動機は功利的だったりする。「屁ひり嫁」の場合も、富を得たいという致富譚としてとらえてみれば〈屁〉は致富願望を実現する祈りの対象に昇華しているんだね。〈屁〉が、である。なぜ〈屁〉であり「嫁」なのか。こんな話がなぜ全国に分布するのか。

 もちろん話の構成は「嫁」でなくてはならないのだし、〈屁〉でなくてはならない。「嫁」と〈屁〉がセットで登場してくるところに注目しなければならないのだが、それは@〜Dの地獄を抱え込んだ嫁こそが、登場人物の中で最も恥をになっている存在だからなのである。言い換えれば、恥によって虐げられた最下層の存在なのである。底辺の深みからの祈りこそリアルなのである。(まだこの段階の祈りは、我々貧乏人が宝籤を買うような功利の祈りじゃないからね、念のため)

 その行き場のない恥の深層からの祈りに重ねて致富(の祈り)を語るところに、この民話の構造があるのである。それにしても、嫁は屁をして幸せになったというオチを聞いて、あなたは爽快な気分になるだろうか。ホントに嫁は幸せになったのか?


posted by 楢須音成 at 18:56| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。