2006年11月19日

本格的に〈屁〉を論じる人がいた

 思いがけなく本格的に〈屁〉を論じた先駆的なエッセイを読んだ。素晴らしい。『豆栗集』(生田虎蔵著、1913年、私家版)という本で、この中に「屁の研究」というエッセイがあるのである。これまで明治末からの宮武外骨、溝口白羊、福富織部と先駆的な〈屁〉の探求者たちの「研究」の系譜を辿ったけれど、この生田虎蔵を外すわけにはいかないね。その観点(分類や分析)はなかなかのもの。相当の見識をもって考察を試みている。

 まず、この「屁の研究」の章の構成から紹介しておく。
 
「屁の生理學
   一〜三
 屁の言語學
   四〜七
 屁の文學
   八〜十一」

 生田は大きく三つの観点を示しているが、幅広く資料を参照しつつ、単なる解説という域を越えて〈屁〉を論じる姿勢を示しているのである。日本古典、漢籍、フランス文化や言語などへの造詣はなかなかのもの。かなりの教養人であることをうかがわせるね。特にフランス語やフランス文芸との比較の論点は、当時として(現在でも)独自性を持っている。本格的な批評の出現ととらえたい。

 内容の概略を示す。


 屁の生理學 → 屁は生理的なものと病理的なものがある。健全な肉体は容易にガスを体外に駆逐するが、これが駆逐されずに蓄積すると諸種の病原を醸す。ガスは腸内で糞臭を帯びるが、病的屁は熱のためにさらに激臭を帯びるのである。屁の色が黄色というのは糞色に彩られたことをさしているが、そうであれば糞中の胆汁色素の量によって変化する糞色に従い、ガスは鮮黄色から暗褐色に至る色彩を帯びると言わねばならない。放屁を促す材料としての食物はいろいろあるが、それらは硫化水素を生じさせる要素を多量に含有するからである。
 腹壁の力を強固にし放屁材料を食し、意のままにガスを放発する練習を積めば一芸に達することができる。風来山人(平賀源内)の「放屁論」の屁っぴり男の如きは練習によって可能であろうが、その跋に「屁っぴりが得意なのは母が夢に火吹竹をのむと見て懐胎した」からだというのは最近科学を知らぬ戯文家の戯れである。「兼葭堂雑録」も屁っぴり男の芸を伝えて「前代未聞の奇観」と言っている。古来、放屁薬と言っているものがあるが、その製法は明らかでない。こうした奇薬の効果は判断できないけれども、ガス製造の要素を精選すれば放屁薬の製造も容易だろう。
 ガスは消化不良や神経的疾患によって病理的に生ずることがあり、これを「膨満」と称するのである。これは消化不良で生じたガスが神経組織に影響し、さらに神経組織が消化機能に影響する段階に至ったものである。熱病その他の急性疾患の終期に腸内ガスの膨満を来すのは不吉な症候である。また腹壁や腹壁に連続する諸器官に疾患がある者は往々にしてこの膨満が生じ、逆に膨満をもって諸疾患が生じることもある。
 この膨満の際に強烈な臭気のガスが放発される。こういうときは放屁材料となる食物を慎み、駆風剤を用いて放発すべきである。駆風の簡便な方法はハッカ水を飲むか、ミカンの皮をかじることも効果がある。また、放発には肛門に管を挿入する方法もあるが、運動を試みるとか、マッサージするとか、要するに腹壁の運動を強固に導く方法が効果的である。

 屁の言語學 → 「放屁論」にある屁の語源の解釈は、言語学上は平凡にして他愛がないし、「放屁論後編」に至ってはふざけ過ぎである。「屠龍工随筆」には「(腹より尻までその気が)経(る)」を「屁」と真面目に解釈する姿勢がまだしもある。大阪では「お包みを落す」の語があり、滑稽の趣において見るべきところはあるが、言語学上においては益ないものである。このような語源については、いまだに「屁理屈」がまかり通っている。自分はその一切を「屁にも足らざる」ものとみなす。
 インドヨーロッパ語の屁の語源を探ってみると、
 梵語(サンスクリット語)=Pard
 ギリシャ語=Parde
 ラテン語=Peditus
 となっているが、リトアニア語、アングロ・サクソン語、古ドイツ語、新ドイツ語、古英語、新英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、オランダ語、ロシア語に関して、その系統をたどることができる。
 <系統図省略>
 これを見れば、古代より近代に至る屁の各国語は皆、ハ行、ファ行、バ行であることがわかるだろう。ハ行、バ行、ファ行、パ行は声音学上通じているのである。屁の文字は放発の音響に由来する擬声辞である。残念ながら、まだ各国の語彙の中に透かし屁のスウと鳴る擬声辞を見出すことができていない。
 また「屁」の文字を用いて諸種の字句ができあがっているわけである。
 <「屁食い同志(親密な間柄)」など10例ほどを挙げる>
 中国に屁の異名として「転矢気(てんしき)」の語があるが、「善庵随筆」に詳しい解釈がある。
 <善庵随筆を引用=転矢気は「矢気」が肛門に迫って外に漏れず、音を立てて反転することをいう。俗に言う「屁かえり」のこと。「矢」を「失」とするのは誤り。「矢気」とは矢のような気配の意味であり、屁である。「失気」は「矢気」が放出することであり、放屁のことである。放出すべき「矢気」が内に反転することを「転矢気」というのである>
 欧米の言語の中に日本語と同様に「屁」の文字を用いて諸種の字句を作るものを探してみた。フランス語から集めた字句を以下に紹介する。フランス語ではPetと書いて「ぺ」と発音するのである。日本語の「へ」とよく似ているではないか。

「Pet de noune.(ぺ・ド・ナーヌ)直訳すれば屁の屁也。實は菓子の名にて中味に空氣を入れフックリと膨らしたる物也。
 Pet d'ane.(ぺ・ダーヌ)直譯すれば驢馬の屁なれど我が屁臭葛と同じく、其莖(くき)に惡臭ある液汁を有する一種の薊(あざみ)也。
 Pet-an-Diable.(ぺ・トー・ヂアブル)惡魔に屁の意なれど實は舊巴里の一町名也。
 Pet honteux.(ぺ・トントー)恥づべき屁、即ちすかし屁也。すかし屁は卑怯也」
 <など、フランス語から10例を挙げて紹介している>

 屁の文學 → 鳥羽僧正の「屁合戦」と風来山人の「放屁論」は絵画と文学における我が国の屁芸術の最大傑作である。「放屁論」の冒頭は古今の名文として膾炙しているが、その結語は当時の文人墨客に対する嘲罵になっている。
 また屁に関する川柳、狂歌、俚諺(りげん)の類がある。
 <20例ほどを挙げる>
 さらに屁に関する事実や逸話も多くある。
 <「鹿の子餅」「放屁論」などの古典からから紹介。また山口県萩に伝わる事実談も、真偽はわからないとして紹介している>
 西洋には屁の詩があり、2首を選んでみる。
    ■
「みかど若し屁をひり給へば
 左の大臣薔薇の香すと宣ひ
 右の大臣いみじう嗅ぎまさん」
    ■
「屁ひり得ざる時
 人に死の苦しみあり。
 一度音を立てて出づ
 人始めて生きたる心地す。

 屁の力斯く強し
 生を救ひ、叉死を與ふ。
 されば屁の力まさに、
 帝王の力と等しかりける」

 また西洋にも屁に関する逸話などが少なくないのである。
 <フランスの話を2編紹介している>
 最後に18世紀の頃ノルマンデーのカン市に自由放屁会なる団体があったことを紹介する。同市のフロラン書店から発行された「放屁術」と「屁砲兵」の中に記事が載っているのである。会の目的は「放屁の自由を束縛する僻見を破壊するに在り。されば會委員たる者は全力を擧げて放屁の自由を或いは言論を以て或いは行為を以て、其同市民間に傳道し叉普及」させることであった。
 <さらに会の詳細について紹介し、次のように締めくくっている>

「昔放屁を以て蝋燭(ろうそく)の火を消さんと欲し努力連発の結果、遂に誤ッて蝋燭の玉子とじを製造するに至りたる癡漢(ちかん)ありと傳(つた)ふ。屁の研究未だ以上を以て盡(つ)くしたりといふに非ざれども、高唱力説の結果、或は誤ッて玉子とじの醜を再演せんことを恐れ姑(しばら)く茲(ここ)に擱筆(かくひつ)す」


 大体、以上のような概要である。
 この中で、「屁の言語學」におけるインドヨーロッパ語への見識と「屁の文學」におけるフランスへの造詣が特筆ものである。

 「屁の言語學」では、生田はサンスクリット語のPardに「屁」の祖型を認め、その分岐図を示しつつ欧米言語において「屁」が「放発の音響に由来する擬声辞」であるとし、日本語も同様であるとしている。〈屁〉に関してこういう冷静な論じ方(掘り下げと論証)は全く先駆的ではないか。生田は源内を称揚しつつも〈屁〉を論じて戯文に陥るのを批判しているが、生田の眼目は「科学的」に論じること(示すこと)である。その批評の水準は高いと言わねばならん〜。

 「屁の文學」は、どちらかと言えばエピソードの羅列になっているが、紹介してあるフランスの話は『おなら大全』(ロミ&ジャン・フェクサス著、高遠弘美訳、作品社刊)にも入っているものである。先駆的な紹介になっている。

 宮武外骨、生田虎蔵、溝口白羊、福富織部と〈屁〉をめぐって、それぞれオリジナリティのある成果が積み上げられているのである。


posted by 楢須音成 at 23:49| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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