2006年11月11日

河童は〈屁〉の化身なり

 ことわざに「河童の屁(または屁の河童)」というのがある。「取るに足らん」「容易である」というような意味だが、なぜそんな意味になるのかといえば、水中でする屁は勢いがない → 取るに足らない(つまらない)からだという。そこから「そんな仕事は屁のカッパ(朝飯前)」みたいな感じでも使うわけだね。
 ではなぜ「河童」なのだろうか。(別の説では「河童の屁」は、もともとは「木っ端の火」だとさ。水とは全然関係ない)

 この「河童の屁」の起源譚の真相は不明であるが、河童とくれば屁というように関係が成立しているのである。川柳には「すかしても音のするのは河童の屁」「聞いた事かいだ事なし河童の屁」とかある。

 大体、この河童というのはUMA(Unidentified Mysterious Animal=未確認動物)なのだろうかね。昔から目撃談は数多くあり諸説があるのだが、実在する物証の客観性が保証されているわけではなく、現在のところ空想上の動物となっている。
 
 福富織部の『屁』の「河童の屁」のところを見ると、屁というよりも河童についての記述に終始しつつ、河童の実体は「詳らかでない」とし、その屁については「さらに詳らかでない」と投げ出している。
 織部は資料を典拠に、河童の姿や呼び名の分布の考証を紹介したりしているけれど、そもそも屁はどこへ行ったんだというような、屁には関係ない記述なのである。
 河童とは、どんな動物か、『言海』には『水陸兩棲の動物、形(かたち)三四歳の童の如く、面(めん)虎に似て、身に鱗甲あり、九州の山中の淡海に多しといふ、詳かならず』と、正直に白状してゐる。この河童の放屁が、どんなものかは、生物学者もまだ説明してはゐない。『随筆珍本さえづり集』には此の河童の干物を見た記事が出てゐる。
(中略/長々と河童の干物の記事を引用したあげく)
 不幸にして、放屁のことには言及してゐない。よつて、此點は『詳しからず』としておくより致方はない。

 一方、中重徹の『一発』では、資料として『水虎(すいこ)新聞雑記』『山島民譚集(柳田国男)』『一話一言(大田南畝)』を示している(水虎とは河童のこと)。なかでも大田南畝(蜀山人)が紹介している河童目撃談が面白い。大田はこんなことを伝聞している。

 ――海中から赤子の泣く声がしたので船を回して網を打つと、鰯(いわし)網に河童が十四、五匹入ってきて逃げ出そうとした。棒かいで打ち据えたが粘り着いて一向に利かない。一匹が船の上に飛び込んできたのを、とまをかけてその上から打ち殺した。このときまでは確かに赤子の泣き声がしていた──という。
 河童の泣き声は赤子の泣き声同様に御座候。打殺し候節屁をこき申し候。誠に堪へがたき臭ひにて、船頭など、青くさき臭ひいまだ去り申さず候。尻の穴三つ有之候。総体骨なきやうに相見え申し候。屁の音はいたさず、すっすっとばかり申し候。打ち候へば首は胴の中へ八分ほど入り申し候。死に候て首引込み申さず候。

 これは目撃した人の手紙の引用である。いやはや何とも「見る」「聞こえる」「嗅ぐ」の三拍子揃って凄まじい情景である。ここでは河童の屁がしっかり記録されている。事件の真偽の程はわからないけどねー。

 ところで音成は、河童とは〈屁〉が実体化した(目に見える姿をとった)ものであるという仮説を持っているのさ。屁と河童の属性を少しばかり検討してみよう。

=確かに存在しているが見えない(目撃することができない)→ ニオイ(悪臭)がある → 音を発する(あるいは発しない)
河童=存在しているかどうか不明(目撃の信憑性が薄い)→ 生臭いニオイがする → 鳴き声を発する(あるいは発しない)

 さて、このように見て何が読み取れるのかと言えば、屁と河童がコラボレーションする密接な関係性の類似である。屁も河童もどこか似通った怪しい存在といわねばならん〜。音成はこう考える。

 屁は確かに存在して、自分の存在を主張している。というか、屁の存在を我々はよ〜く知っている。我々はこれを隠蔽したい意思を持つのだが、無情の屁はそこにしっかり漂ってしまう。
 一方、河童は(いるのかいないのか)怪しげに存在している。もちろん目撃談がある以上、自分の存在を主張している。「見た」とか「いた」とか報告する目撃者や伝聞者は、そういう体験を実体化しようとする切なる意思(期待)を持っているわけだね。なのに、河童の詳細な物証をあげるほどに客観的な信憑性は疑われてしまう。

 片や「有るのではないか」と疑われ、片や「無いのではないか」と疑われる。ベクトルは見事に正負に分かれる。つまり、正反対の怪しさにおいて似通っているのである。

 屁と河童が表裏の関係で結びついている(求め合っている)のだ――そこでは「河童の屁」だろうと「屁の河童」だろうとどうでもよろしい。不死鳥のようによみがえる河童談義や民話の深層において〈屁〉は河童に化身しているのさ。

 いやはや(ニオイと音の連想の果てに?)屁と河童を結びつけたのは誰だったのか。初めて屁に火をつけたのと同様に実に画期的だったね。

 思えば、燃屁は〈屁〉の光明面を示したが、河童は〈屁〉の暗黒面を示していると言わねばならん〜。


posted by 楢須音成 at 08:05| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。