2006年08月05日

生物界における屁の意味

 人間ばかりが屁をするのではない。そのことに人類は早くから気づいていたに違いないのである。そして、どうも人間の屁とは位置づけが違うことを悟るに至るのである。まあ、これは改めて言うまでもないことだね。

「人類の屁は過剩の膓瓦斯の自然的排漏であつて、何等の目的を有するものではないが、他の生物には之を生存競爭上防禦の武器に供するものがある」

 溝口白羊の『屁の喝破』ではこのように指摘して、生物界の弱肉強食の中で屁を防御の武器とする動物や昆虫を紹介している。@イタチAスカンクBキツネCカメムシDヘヒリムシ…など、これらは追い詰められて困惑の絶頂に達したときに、ガスまたは分泌液を放出するのである。臭気に触れて相手が悶絶すればしめたものさ。

 @B→イタチの最後屁。緊迫した状況で放ち、相手の辟易動乱に乗じて逃げ去る。キツネも最後屁をするという。(緊急時に屁が出るというのは一種の反射運動なんだろうね)
 A→スカンクは臀部に腺を持ち、外敵に劇臭の分泌液を浴びせかけ悶絶させて逃げ去る。(厳密には屁とは言えないね)
 CD→昆虫類で攻撃を受けたり触られたりすると異臭を出すものがあるが、俳句の季題にも入れられているのがヘヒリムシ。ミイデラゴミムシ、ヘッピリムシとも。肛門腺から黄色い霧状の液体を発射する。「俺よりは遙か上手ぞ屁ひり蟲」という一茶の句があるが、日本文芸史上、無視できない有名な昆虫である。(異臭を発する虫はたくさんいるけどね)

 以上、生物界では発する屁が目的を持っている(身体の機能になっている)わけさ。

 ところが、人間の場合、ほかの生物と全く違う点は「自然的排漏であつて、何等の目的を有するものではない」ということなのであった。考えてみると、これ(屁は無意味であること)は凄いことじゃないか? ここに屁が〈屁〉的現象となって立ち現れてくる基盤があるんだよ。

 生理的な身体現象として「意味がない」地平から、〈屁〉はわれわれの精神に光明面と暗黒面の影響を与え続けている存在である。
 われわれは生物界の屁に戻ることはないのか。


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2006年08月14日

〈屁〉を語るとき冷静でいられるか〜

 人は〈屁〉をあえて語ろうとすると、どうも力んでしまう(構えてしまう)ようだね。人様々にいろいろな反応があるけれど、屁の属性(音やニオイ)に引っかけて、ことさらに話を面白可笑しくしたり、いささか語り口が大仰になったりする。そこには、〈屁〉というもの(屁談義)が繰り広げる独特の世界があるんだね。(このブログもそういう呪縛から逃れられない〜)

 明治30年代に正岡子規が提唱した写生文(の手法)によって〈屁〉が作品化されている。まあ、それが真性の写生文なのかどうかは知らないが、高浜虚子が『屁』という一文を「ホトトギス」に発表しているのさ。写生文とは、短歌・俳句の方法論である「写生」を散文にも移入して、ありのまま見たままに写し取ることがモノの本質を示すのだ、というような姿勢で書かれた文章だね。そんな手法で〈屁〉はどう語られるのか。

 虚子の一文を福富織部の『屁』からの引用で示す。こういう書き出しである。


「或夜どうしても寐られぬ。一時を聞く、まだ寐られぬ。二時を聞く、まだ寐られぬ。どうかして寐たいと思ふと愈(いよいよ)寐られぬ。或僧に教はつた通り南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛とお念佛を誦(とな)へて見る、ますます寐られぬ。アゝ、弱つたナァ、と思つてゐるとふと横腹が突張つて來るやうぢや。放屁を催ほしたのである。そこでふと斯ういふ事を思ひつく。これから屁を十だけ奮發して放つて見やう。其うちには必ず草臥(くたび)れて眠るやうになるであらう。さう決心すると間も無く、第一發を放す。いかにも冷性なやつが無造作にスーと出る。しかも其スーがあまり短い方でない。可成殘して置くやうにせぬと後が困ると思つたが、長い尾を引いて殘り無く出てしまふ。そこで第二發の工夫をする。徐(おもむろ)に乳の下あたりから腹を撫で下ろす。膓の迂曲鹽梅を考へて、臍の周圍を撫でまはす。程なく何處かに固まりが出来たやうで、だんだん其固まりが大きくなつて來るやうで、終(つい)に首尾よく第二發を放す。まだ下腹部に一點の凝りが殘つて居る」


 このような詳細な描写が延々と続き、10発目へと至る状況が語られるのである。屁が出る様相をまとめてみるとこうなっている。

 一発目→冷性な屁が無造作にスーと出た。
 二発目→どこかに固まりができて、それが一発目ほど無造作でなく出た。下腹部に凝りを残している。
 三発目→ここが急所と思うところを押すと、キュッと音がして痛快な屁が出た。
 四発目→全身に力をこめ特に下腹に力を入れてみる。非常に熱性な屁が辛うじて出た。
 五発目→腹ばって尻を突き上げると、無造作に出た。
 六〜九発目→更に一段高く尻を上げるがうまくいかず、体をひねったり、各所を叩いて、ようやくのことでプップップップッと続けて出た。


「(プップップップッの九発目の後で)がつかりして轉げるやうに仰向けになる。全身に甚だ疲勞を覺える。欠伸(あくび)が出る。涙がポロポロとこぼれる。少しウトウトしたかと思ふと自然に幽霊のやうな九發であつたかと朧ろ氣ながら考へる。
 果たして此の思ひ附きは功を奏して第十發に達せぬうちに熟睡することが出來た。翌朝十一時まで寐た」


 このような次第で虚子は眠りを得るのであるが、ここに描かれた〈屁〉とは一体何であろうか。概ね〈屁〉は笑いを醸す。虚子の『屁』も@可笑しいと思って読めば可笑しいけれど、A詳細な描写に徹していると思えば冷静な境地を感じる。まあ、写生文の趣旨からすればAということになるね。

 @とAが同時に成立する(二重化する)ところに〈屁〉の呪縛があるわけだが、音成としてはAを強調して、読者に取り入ることなく(読者を面白がらせる意図を出さず)、〈屁〉に関してこれほど冷静に観察に徹した(表現した)ものは近代においてあまりない作品と思うのさ。つまり、同時代的に見てこういう(あるがままの)表現を獲得しようとした先駆的な例なのである。

 虚子はこの文章で〈屁〉を面白いとも、可笑しいとも、嫌だとも、恥ずかしいとも言っていない。何の理屈もつけていない。眠りたいという動機に基づいて単に生理現象をそのまま(表現するスタンスで)淡々と表現してるわけだね。結果的にどう読者に迎えられたか知らないが、これは〈屁〉に関して十分新しい試みであった。

 この『屁』では、直接に屁が描かれたわけではない。屁を出そうとする虚子自身の振る舞いが描かれているばかりである。屁は見えないので直接的な描写にはならないということもあるが、われわれは〈屁〉を身体現象としてとらえ、そこに発生する人間の振る舞いを描くことになる。更に進めば、心理の考察やら附会やら主張やら結構な理屈がつく表現になるのである。それを〈屁〉の笑いの構造に基づいて面白く語ることは一般的スタイルだね。
 しかし虚子は自分の振る舞いだけを語るにとどめたわけさ。

 それにしても、十発に向かって七転八倒する様は可笑しいね。真面目になればなるほど、〈屁〉は面白可笑しい領域を確保するのである。そこには〈屁〉が醸す笑いの構造があるのさ。力まず冷静に語りつつも、もちろん虚子はそれを十分意識したはずである。

 一言=屁を出し切った人間の深〜い満足を描いている。羊を数えて寝ようとする振る舞いを描いたところで、羊は〈屁〉には及ばないのであ〜る。
posted by 楢須音成 at 02:29| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月19日

〈屁〉の諸相を人間界に究める〜

 屁が〈屁〉たる所以は人間がそれを発するからである。〈屁〉は人間的(文化的)な現象であって、生物界の中でも特異な現象と言わねばならないのであるが、そこに目をつけた猫がいる。『屁の里行脚記』(楠本藤吉著、1979年、私家版)は猫が人間の〈屁〉の諸相を探訪する様を描いた中編の物語である。

 漱石の『吾輩は猫である』も人間に視線を投げる猫の目を通して描かれるが、この作品はそこから猫が語るというスタイルを拝借しているわけさ。楠本は「はしがき」で自分のスタンスをこう解説している。


「この屁話の取材にはたま君(猫)を採用したのだが、彼は、屁の資料を集めながら、畜生の立場から人間の性癖や慣習を看破している。特に万物に対する態度や行動を厳しく批判しているのだが、これは人間の反省面を指摘していると思いたい。考えてみると、我々は長い間万物の霊長の座にあぐらを組んだままである。時代の流れるに従って現代に来てみると、いつの間にか、気付かぬまま人間(霊長)であることを見失っている。これはとるに足らない猫の人間観だが、お聞きいただければ幸いです」


 楠本は猫と化し、屁の資料を集めて語っている。明確なストーリーがあるわけではなく、屁の里である農村や飼われている家族の様子(屁にまつわる人間模様)が、一見無造作に猫たちの講釈付きで延々と語られるのである。その人間の諸相は実に可笑しいね。猫のたま君は農村の人間関係(放屁の様)をバランスよく観察しており、屁話の積み重ねの中に、屁を抱え込む人々(昭和50年代の北九州の農村)の姿が浮かび上がってくる。

 この作品は文学的あるいは戯作的な作品性から見れば幼い表現にとどまるものの、終始一貫して(テーマとして)人間の〈屁〉をトータルに追究している点では近・現代文学史上でも類がない。何でも最初にやる人はエライと思うが、決して文学史に現れない作品にも素朴だけれど卓越した取り組みはあるもんさ。

 冒頭のエピソード(「屁の始末記」)を紹介しよう。飼われている家の爺さんが家族団らんの夕餉の席で一発かましたために、家族全員を巻き添えにする騒ぎが描かれる。


「『ブリッ』と言う音が無言の部屋の一角から響いた。疑う余地はない、屁である。この『ブリッ』と言う音の表現はむしろ『パリッ』と言った方が当を得ているようである。音が高くて大きい上に圧力を感得した。八十にもなる老人のものとは思われない代物だが、音源から見て爺さんの屁である。震源地の吾輩が、前肢を立てたのだから近年では珍らしい爆発である。爺さんの屁なら常々親しんでいるのだが、多くはすかし屁か、だらしないものばかりだった。吾輩は之が年寄りの相場と思っていたのだが、今日は余程瓦斯量が多く、からだの調子もよく、尻の扉も締がよく、絶好のコンディッションだったのだろう、事前に膝組んだ左膝を上げ、からだを右に傾け、尻を少しすかした格好などから考えると、若気の一発を狙っていたと思われる。それにしても年寄りのものとしては全くの奇蹟である。それであって当本人の爺さんは空吹く風である。他事(よそごと)のようであると言うか、百年前の出来事のような顔をしている。まさか、犯人を遁(のが)れる気でもあるまい。
 『年寄りは汁物が一番いい、歯も入らねば喉の辷りもいい』と言いながら汁椀を取り上げて箸で椀の中を二三度ゆすってグット一口吸った。
 食卓には主人夫婦と老夫婦の四人が、四角の卓を一人一辺づつ囲んでいる。年のせいであろうが、この異例の大屁にもかかわらず笑う者はない。或いは年寄りの常習癖に馴れているのか、それとも人間誰しもの生理現象だから、当然の事と思っているのかも知れん。若し孫たちが居ったら爆笑したであろう、鼻をつまんだであろう、屁の主を詮議したであろう。或は不平や抗議を訴えたかも知れない。序(ついで)に爺さんは一家総攻撃の的になったであろうが、幸いにも孫二人は握り飯を食い散らして隣の部屋に行き、玩具箱を持ち出してあれこれといぢりながら遊んでいる。
 それでも婆さんはこの音を聞くと同時に爺さんの顔を見た。並外れの大屁に『マー』と言いたげな顔である。別に抗議する考えはないらしいが、爺さんが『ごめん』とも『すまん』とも言わない上、他人の迷惑我関せず態度である。よりか、台風一過のすがすがしい様子であったり、壮者に劣らぬ大屁に誇りさえ持っているように見える。この有様を見て、婆さんは腹立たしくなったらしい。が、目立つ程の角は立っていない。『爺さんとしたことが年のとり甲斐もない、ご飯をたべようとする時に屁など出して無作法な』と軽くたしなめた。抗議と行きたいのだが年の功である。挑戦すれば抗戦と来る。こんなことで家の中に波風を立たせたくないのである。それでも何とか返事があるだろうと、期待しながら爺さんの顔を見た」


 このあと、爺さんと婆さんの応酬があり、爺さんの「ふかし芋やら、おかずやら、芋攻めにあっちゃあ屁も出るさ」という居直りに、ついに婆さんが諦めたところで、嫁が口をはさんで話は思いがけず飛び火していくのである。

 嫁は、芋をふかしたりおかずを料理したのは自分なので幾分かの責任を感じ、それに芋ばかり食わしているようで間が悪い。そこで「子供やお婆さんに喜んで貰おうと炊くんです(屁を出す責任は自分にもあるんです)」と殊更に孝心を示す。

 婆さんは内心で痛くご満悦と思いきや、そのうち目元が厳しくなって「芋をふかすのが自分と孫のためだったら、自分は嫁と類罪であり孫と共犯である。屁の元凶にされるのは悔しい」と色に出てくる。そして「今年は芋があんまりたくさんできたもんだから、みんな食べてしまわないともったいないから(経済のことを考え)毎日煮てもらおうと頼んでいるのですよ」などと弁解じみたことを言ってしまった。

 それまで二合の酒をチビリチビリ飲んでいたこの家の主人が突然、口を開く。普段は我関せず人関せずの人間なのだが、語調に毒気を含んで「今年は芋をたくさん作って悪かったなあ」と言い放ったのである。一座はシーンと静まりかえる。しかも「もう来年は作らん」と宣言する。

 爺さんは「好きにしろ」の態度。婆さんは息子の荒れ模様に落ち着かない様子だが、自分の一言が原因とは思っていない。嫁は夫の乱心を抑えるのは自分だと取りなそうとするが、全く無視される。夫は「今かますに入っている芋はみんな親戚にくれてしまう」と憤然として声を荒げ、聞く耳を持たない。

 そのとき遊んでいた子供たちが乱入してきて「芋は誰にもやらん」と父親の失言取り消しを迫る騒動になる。父親はあっけなく子供たちの軍門に下ってしまう。爺さんは「おれの屁が大きく祟ったねえ、すまん、すまん」と悠然と煙草に火をつける…。

 こんな一家の他愛もない夕餉の風景が描かれているわけさ。屁の一発で連鎖する微妙な心理の推移が面白可笑しいわけだが、もちろん、こういうことは〈屁〉に限った心理の綾ってわけではないけどさ。
 目次を引用しておこう。

1.吾輩は迎え養子
2.屁の始末記
3.猫にも屁あり
4.屁の呼び名
5.一人居の屁
6.機関銃屁
7.屁の個体説
8.屁の詮議親しき仲をかき乱し
9.屁の主は座り方で決着
10.お寺参りの屁
11.ボン プン ネー カン プン
12.安爺さんの屁
13.空気銃と母子の名乗り
14.屁の美徳
15.屁歩調
16.プンは屁の代表
17.屁の音色
18.屁の音と匂で人間を鑑識
19.芋は屁種
20.下痢後の屁
21.屁を拾う
22.癌臭と気分屁
23.炬燵屁
24.瓦斯粒子
25.屁のストライキ
26.有難くもない屁のお蔭

 これを見ると「屁の資料」が結構な範囲を持つ考察であることがうかがえるね。猫に仮託した空想と脱線も入っているが、1〜26までエピソードをつなぎながら、楠本の〈屁〉に対する持論が展開されて、相当の執着と観察なのである。

 「お寺参りの屁」は隣村のハイカラの美人の奥さんが寺の説教の最中に放屁を催して我慢するエピソードである。


「この奥さんは今此処まで来ているのだから『すかし屁』といかねば近所あたりが面倒だ。爆音を立てたからとて、不平小言は言わないにしても美人が台なしである。それに比ぶればすかし屁は、音を立てないで瓦斯だけ出すのだから人は気づかない。臭が広がって或は疑われるかも知れんが、此の際だから少し位の加害者の責を負っても止むを得まい。音のように加害者がはっきりしないで、どこからともなく広がるのだから、知らぬ存ぜぬような顔をして居ればそれ迄だ。併しこのすかし屁は、失敗すれば『ピーン』と出る。堅固にしてある扉の隙間から僅づつ出るのだから、音は細いが長引くから危険千万だ。長い時間、全勢力で安全を期したものが、一瞬にして水泡となるのだから恐ろしい。それだけあって、このすかし屁の操作はむづかしい。今にも突き破らんとする激しい圧力の瓦斯を、満身の力で裏門内に停(とど)めながら、静かに開扉し、ほんの僅づつ、音にならないように、無気力にして、徐々に出さねばならぬのだから、長い時間油断はならない。全身全霊の辛苦は以前にも倍する程で気も遠くなるのである。
 (中略)
 どうやらこの奥さん、すかし屁に突入したようだ。眉をつり上げ口を一文字に結び、呼吸をピタリと止めている。刻一刻、微に臭が流れ出した。途中、呼吸をしたのであろう、二、三回途切れたのだが成功したらしい。あたりに気づかれないように、おさえたような溜息をついた。天晴なり。でかしたり。吾輩は我事のように嬉しくて、尾をあたり構わず大きく振った。奥さんの顔には温かい血がよみがえり、もとの器量よしの多恵子さんに戻った」


 このすかし屁の描写はリアルだね。この作品は屁を隠蔽しない猫が、屁を隠蔽しようとする人間の諸相を描くことによって、リアルさととぼけた味を出しているのさ。

 猫たちのエピソードも散りばめながら、たま君は「ちょん子さん」と「二位子」さんという二匹の雌猫と同時恋愛を成就する結末になる。たま君はこれ(自分が恋人に共有される)に抵抗を感じながらも、あっけらかんとした雌猫たちの様子にこれが猫族のあり方なのかと悟って、人間の屁のせいで自分は「人間臭く」なってしまったというオチになる。

 物語の表現性や文学的深みはともかく、〈屁〉をこれほどの執着と観察で、このように集積した意義は深いのである。

 一言=観察したままに〈屁〉の振る舞いが活写されている。人間の切実な実録(資料)を素朴な虚構(物語)で描いた作品であ〜る。
posted by 楢須音成 at 23:54| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

「その黄色い屁は私じゃないよ」は可能か

 テレビで〈屁〉が取り上げられることはあまりないが、たまにはあるもんだね。先日、少し酔が回っている耳にテレビから「おなら」「おなら」の連呼が押し寄せた。『トリビアの泉』(フジテレビ系列)である。この局は以前にも別の番組で〈屁〉を目撃したことがある。どちらも実証的な取材・検証で屁の科学を究めようとしていたのであ〜る。

 今回の『トリビアの泉』のムダ知識は「自分が放出したおならを体から離す最も効果的な行動は?」というものであった。つまり、この回答は、透かし屁の場合に悪臭のニオイ発生源としての責任を回避する有効な手段になるわけさ。

 番組によれば、屁は平均的に5cm/秒で肛門から上方に放出され、半径1.5mに拡散するという。そこで被験者が各界の専門家のアイデアに基づき、ジャンプしたり走ったり一回転したりと様々に体を動かして、まとわりつく屁を体から離そうと試みるのである。専門家の議論は延々5時間というから笑う。

 出た結論は「放屁してお尻を叩きながら横向けに走って移動する」というものであった。「横向け」というのが重要なところで、前後に動くと気流の関係で屁が体にまとわりつくのである。
 さらにニオイ回避策のもう一つの回答は「放屁するときズボンをつまんで袋状にしてそこに溜め微動だにしない」というものである。こちらは徐々に拡散して薄まっていくのを待つわけだね。
 なるほどねー、これが科学かい。

 番組で気がついたことがある。被験者が放屁して様々に体を動かすときの屁の動きを黄(金)色の霧状のガスでCG処理していたのだが、そのガス体はなぜ黄(金)色なんだろうか。もちろん、屁は無色であり、番組では気体の動きをわかりやすくするために色をつけたわけさ。白とか青とか赤とかじゃダメなのか。まあ、ダメじゃないけど、ここは黄(金)色なのである。

 屁からの連想は「黄(金)色」を導く。これは糞の兄弟分という意識下の連想であるに違いない。吐く息や風の動きなど、見えないものに色をつけることはあるけれど、黄(金)色(が似合う)と万人共通に思う(心的傾斜がある)屁は結構ユニークではないか。
 しかも、黄(金)色という色は下半身に位置するのと上半身に位置するのとでは、イメージが随分違う。下半身的には「糞」だが、上半身的には「金」である。この表裏性において我々は存在しており、〈屁〉的現象もまたその表裏性に揺れ動いている。

 さて、以前の別の番組(『闘え三賢人』)では屁のニオイを消すことがテーマになっていて、活性炭を仕込んだ座布団やパンツで驚異的に屁のニオイが消えることを実証していた。活性炭の効果は音成も以前紹介した(「屁のニオイを90%消す方法」)。ニオイも色はない存在物だけれど、これすら我々は黄(金)色に染めかねないねー。
posted by 楢須音成 at 14:46| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月31日

〈屁〉の事実はなぜか他愛ない

 糞尿や便所とともに語られることが多い〈屁〉であるが、類縁性が断定されて同族と見なされているわけだね。李家正文の『厠(加波夜)考』でも〈屁〉の記述があったし、糞尿や便所についてのエッセイ集『厠談義』(杉戸清著、1960年、実業之日本社刊)にも〈屁〉の一節が設けられている。

「『厠談義』の中で屁のことを書くのは、多少関係が薄いと思われるが、これも考えようでは、くその分家か子分のようなものであるから、ちょっと載せてみることにする。どちらにころんでもそうたいしたことではない」

 などと杉戸は言いながら、九十編あまりの話のうち、〈屁〉に関しては「袋の屁」「曲屁」「屁をかます」の三編をまとめている。杉戸のスタンスは〈屁〉を軽く見なしている様子ではあるものの、〈屁〉を必ず扱わずにはおれないのさ。逆にそういう振る舞いによって〈屁〉というものの存在が、いよいよ際立ってしまっていると思うね。(杉戸の博識を見ると相当の〈屁〉の「愛好家」である。杉戸は下水道の専門家で名古屋市長だった人)

 それにしても糞尿や便所の話の後に〈屁〉が出てくると、色合いの違いに驚く。杉戸は〈屁〉に関して特別の考察をしているわけではなく、古今東西のエピソードを紹介して軽く批評しているだけであるが、微に入り細を穿った糞尿や便所の考察と比べると、いかにも〈屁〉は軽いのさ。〈屁〉はいくらウンチクを傾けてもとりとめがない。
 次は「袋の屁」の一節。

「しかし屁も馬鹿にならぬことがある。むかし東京駅で、ピストルで撃たれた浜口首相の腹部の手術が、うまくいったか、いかなかったかを判定するのに、ガスが出るか出ぬかで、お医者さんも国民もおゝいに心配し、同氏の『屁』を待望したことがあった。やっと幾日目かにガスが出て、一同愁眉を開いたが、これは連結手術が、完全に出来たか否かということであって、それがうまく出来ていなければ、どこかへ逃げてしまって、正常な屁にはならぬからであろう。
 お座敷や会合の時、何かの都合で座が白けてしまって、まことに具合の悪いときに、誰かが屁をしたために、皆が笑って、それからはおおいに話がはずんで、大変にうまくいったというようなこともある。
 そのようなわけで昔から屁には、三つの徳とか五つの徳があるといわれている。すなわち『おなかがすいて、気が晴れて、お尻の掃除がよく出来て、笙ひちりきの音がして、おまけに人を笑わせる』というような俗言である」

 このように話をつないでいく色合いの軽さに比べると、次の「大名の便所」の一節は事(史)実の重みがある。

「江戸時代に、大名が旅行するとなると、なかなか大変であった。先番と称する武士が、長持に黒塗りの樋箱(といばこ)を納めたのを持って、今夜の御宿泊所、すなわち本陣へ先着する。そしてその箱に乾いた砂を敷いてお待ち申し上げる。さて殿様が御到着になって、用を達せられると、その砂を再び樽詰めにして、御在所へ持ち帰ったのである」

 浜口首相の屁も事実であるが、史実としては他愛がない(ものに感じる)。〈屁〉の事実は笑いとともにすぐに風化する(笑い話になる)のである。この落差は何なのだろうか。糞尿や便所の扱いは処理をめぐって、つまりは身体と関わる実業を語るわけだが、〈屁〉の扱いは実のない虚業を語るようなものである。なぜか〈屁〉は意味の薄い(無価値と見なされる)存在へと身をやつしてしまう。

 それでも我々は〈屁〉を語らずにはいられない。厠談義に〈屁〉は必須と言うべきなのである。杉戸はわずかに三編の中で〈屁〉のエピソードを自在に展開している。その他の九十編との対比によって〈屁〉は浮き立ってはいるけれど、九十編と同じくらいの目配りや骨格で〈屁〉が語られてもいいと思うのさ。

 ちなみに、この本の目次から章の構成を拾ってみる。

  ふん尿いろいろ(11編)
  厠いろいろ(17編)
  しりふき(5編)
  用便風景(10編)
  あちらのはなし(12編)
  厠の歴史(8編)
  ふん尿の汲み取り(12編)
  ふん尿の利用(3編)
  ふん尿のしまつ(11編)
  屁のこと(3編)

 最後は「屁をかます」という一編で締めくくられている。

posted by 楢須音成 at 22:26| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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