2006年07月03日

〈屁〉の用語を分類してみた

 屁にまつわる言葉や表現はいろいろある。それらを集めてみると〈屁〉というものの深層が少しばかり見えてくる。山名正太郎の『屁珍臭匂臭』に「屁(おなら)用語事典」という章が設けられていて、屁に関する100語あまりの用語が集められている。無理に集めた感もないではないが、なかなか面白い。これを選んで次のように分類してみた。(語釈は一部補足して紹介する)


@屁(そのもの)を指す言葉
いしつきべ(石突屁)=プッと出す屁
Wind=英語の屁。俗語のFartは放屁すること
おならぶる=honorableの発音から転じて屁(英語にそういう意味はない)
かふう(下風)=かざしものことだが、屁をさす
ガス(瓦斯)=(気体、臭いから転じて)屁
じゅずべ(数珠屁)=連発する屁
すかしっぺ(透かしっ屁)=すかし屁。すきま風のように、こっそり、音なく、まばらにする屁
せつなべ(切な屁)=我慢しきれず苦し紛れに思わず出す屁
てんしき(転矢気)=屁。落語に出てくる
どくがす(毒ガス)=屁。毒気、天然ガスとも言う
なぎなたべ(長刀屁)=プー(と長く出し)、プルッ、プルッ(と振るように)する屁
にぎりべ(握り屁)=屁を掌中に受けて握った屁。それを人にかがせる悪戯
はしごべ(梯子屁)=初めに(梯子の縦木を)ブー、ブーと二つ長く出す。次に(横木を)短く出して両端にくさびをプップッと打ち込む。五段梯子はこれを五回、七段なら七回、十三段なら十三回繰り返す
ぶしらべ=すかし屁(秋田)
屁玉=屁。明治時代の子供のおもちゃ(樟脳にモチの粉をつけて火をつける)

A放屁という行為や仕草や状態を指す言葉
いっぱつやる=一発出す
おと(音)なしのかまえ(構え)=放屁の時の仕草
がくせい(学生)=よく放屁するやつ
きょくひ(曲屁)=技術的・曲芸的な放屁
きらす=放屁をちいさくすること(伊勢物語)
ちべ=放屁のこと(栃木)
にれんぱつ(二連発)=続けての放屁

B屁を介して(屁に託して)新たに意味付与した言葉
いいだしべ(言出屁)=臭いと言い出した者が放屁の当人→最初の発言者が当人ということ
きつねのへだま(狐の屁玉)=毒菌のたぐい
さいごっぺ(最後屁)=追い詰められたイタチの屁→最後のきつい一発。窮余の一策 
へをひりあう(屁をひり合う)=「屁食い同士」とも言い、連れ添う夫婦の仲。異体同心
へっぴりいしゃ(屁っぴり医者)=ヤブ医者
へっぴりがくもん(屁っぴり学問)=役に立たぬ学問
へっぴりごし(屁っぴり腰)=上体を前にかがめ、尻を後方に突き出した姿勢。及び腰
へっぴりじゅしゃ(屁っぴり儒者)=エセ学者
へぼいんきょ(へぼ隠居)=無力の人
へぼたゆう(へぼ太夫)=下手な浄瑠璃語り
へぼけん(へぼ拳)=下手くそな拳、打ち手
へぼりゅう(へぼ流)=技が拙劣なのに一流のように振る舞う流派
へろへろや=飛ばない矢、力のない矢
へりくつ(屁理屈)=つまらない、道理に合わない理屈
ひがん(屁眼)=肛門

C屁を使った名詞
へくそかずら(屁糞葛)=アカネ科の蔓性(つるせい)の多年草で、もむと悪臭がする
へごき=ナマズ(静岡)
へこきぐさ(屁こき草)=どくだみ
へたれむし(屁たれ虫)=くさがめ。カメ目ヌマガメ科のカメで、悪臭を出す
へっぴりむし(屁っぴり虫)=ゴミムシ類。特に、ミイデラゴミムシをいう。悪臭を出す
へったれまめ(屁たれ豆)=そら豆
へっぴりまめ(屁っぴり豆)=塩豆。そら豆。屁の材料になる豆
へぶくろ(屁袋)=盲腸
へのこ=男根
へご=弱虫(北陸)
へぼ=下手、臆病者
へこし=ふんどし
へなちょこ=未熟者
へげたれ=アホ。いくじなし
へすべいもん=おべっか使い(鹿児島)
べそ=げっぷ。おくび(山口)
べら=おべっか
べらぼう(便乱坊)=(人をののしって)ばか、アホ
へらずもの=役に立たぬもの

D屁を使った形容詞・動詞など
へぼう(屁坊)=下手、無力
へぐれんこつ=つまらない(熊本)
へげん=つまらない。だめ(九州)
へちぐそかける=人の言うことに反対して、けなす(長崎)
へちくる=いじる。もてあそぶ(岐阜)
へちげな=変なこと
へちまぐ=ゆがむ(富山)
へちゃ=鼻の低いこと
へちる=すねる
へっとくさい=息苦しい
へともおもわず(屁とも思わず)/へともせず=なんとも思わない。気にしない
へなぶる=あざける
へぬるい=手ぬるい。まだるっこしい。
へのかす=くだらない。役に立たない。無益
へぼうり(へぼ瓜)=末端に実ったうり→味がない
へぼくそ(へぼ朽)=取るに足らぬ
へだいなし=取るに足らぬ。たわごと(福島−群馬)
へみ(屁見)=木戸銭を払わずに観覧すること
へもひっかけぬ=でんで相手にしない
へろへろ=空腹、力のないさま

E屁の故事成語めいたもの
へのさんとく(屁の三徳)=@腹すいて良しA尻のチリを払って良しB人にかがせて気持ち良し
へのぼうこん(屁の亡魂)=何の役にも立たぬこと
へはいちげい(屁は一芸)=屁も立派な一つの芸であること(「臭けりゃ逃げい」と続く)
へはくすりせんぷく(屁は薬千服)=屁は薬千服に値する健康の証であること
へはわらいぐさ(屁は笑い種)=屁は笑いのたね(「たばこは忘れ種=たばこは憂さを忘れさせるもの」と続く)
へひってのしりすぼめ(屁ひっての尻すぼめ)=失敗したあとで、慌ててとりつくろったり、ごまかそうとすること
ゆめにへをふむ(夢に屁を踏む)=空のまた空→手応えのなさ
じんこうもたかずへもひらず(沈香も焚かず屁もひらず)=沈香のいい匂いでもなく、臭い屁でもない→可もなく不可もなし。平々凡々
ひゃくにちのせっぽうへひとつ(百日の説法屁一つ)=ありがたい説法も屁一つで台無し→長い間の苦労が小さな失敗で水泡に帰す
へとかじはもとからさわぐ(屁と火事は元から騒ぐ)=最初に騒ぎ出した者が、しでかした張本人である
へのかっぱ(屁の河童)=何の造作もないこと
へをひるこはそくさい(屁をひる子は息災)=放屁する子は健康


 このような〈屁〉にまつわる言葉はこれに尽きるものではないが、大体の傾向はうかがえるね。総じて良い意味ではないものの、〈屁〉の属性をとらえて人間の振る舞いや社会関係に言葉の意味を敷衍しているわけである。こういう言葉が構成されてわれわれはコミュニケーションする。〈屁〉はぷんぷんと息づいておるのさ。まあ、〈屁〉にまみれた言葉なんぞ使いませんわ、という人もいるだろうけどね。(屁はするでしょうけどさ)

 ともあれ、音成は家庭における至上のワガママは「屁の三徳」に尽きると思っておるよ。


posted by 楢須音成 at 21:34| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 閑話一発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

〈屁〉の存在感とは何だろ〜ヵ

 放屁は生理的には排泄行為であるが、糞尿の排泄とどう違うのだろうか。ここのところが、〈屁〉を考えるときにとても大事なポイントになるのだが、要するに様々な場面で糞尿とは扱い方が違うわけだね。屁の存在感は独特なのさ。

 糞尿の排泄といえば「便所」であるが、この便所というものも人間の諸相を照らす実に興味深い現象である。便所論の大家、李家正文の『厠(加波夜)考』(1932年、六文館刊)にこんな一節がある。(この本は名著だよ)

「一體、便所と云う語は大小便をするところ、ゆまり、くそまるに便利な所の意(南海寄師傳にも便利之事とある)であるが、此の便所に行くに就ては色々の異語が用ゐられている。例えば、便所にゆく、厠にゆく、おかはにゆく、せんちに參る、ばりをつく、タンボにゆく、ウラにゆく、お小用する、用足し、おかんじよする、御不淨する、ゴフにゆく、シンカク或はレーホにゆく等の隠語もある。(中略)或は漢語で上厠、登厠、赴厠、屋頭(「群書要語」に俗命如厠爲屋頭とあり)等々々異名と行く或は爲(す)ると云う動詞と結び合わせて如何程になるか分かつたものではなく、地方によつても此の用法は異なる。(中略)外國では便所に行く to go to the back(武信 New J.E.D.)to go to the water closet-lister(Stauderd J.E.D.)to go to wash one's hand(三省堂 GEM.D.)I have necessity to go stool等の月並式はさて置いて、米国のlet we go to church(教會に行く)や Let we go to Mrs Johnson 等のようにジョンソン女史がW・Cの代名詞となる如きは全く雲を掴む如き話で、これも亦隱語の一つであろう」

 つまり、ゆまり(放尿)やくそまる(脱糞)には(便所という)便利な場所が用意されているわけだね。しかも李家が示すように、便所に行く人間の動きに対する表現は、なかなかに多彩である。その多彩さの襞には人間心理の諸相がビッシリこびりついている。

 さて、人は誰でも便所は屁もする場所であると思っているのだろうか。李家は便所が屁をするところでもあると例証をあげている。

「上厠(じょうし)すると云う事は只に屎(くそ)まりゆまる所ではないといつた實證をあげる。

 昔々あつたとさフツポン國放屁の國のかたほとりに爺(じじ)と嫗(ばば)があつたとさ。夫婦かけむかいの遠慮なき暮しゆへ心置きなく屁を放るばかりが一つの楽しみに或日山へ臭かりに行き嫗は厠やへ屁を放りに行き、前の川にて手を洗はんとしける折節川より一ツの芋が流れて來たりしかば、拾ひとりて家に歸りける。夫婦は此の芋を食しけるより不思議や俄に若くなり、女房はだゞならぬ身となり程なく、臨月になりければ芋の如くなりたる男の子を安々と生み落としける(諺下司話説)

 この(文章は)生まれたる屁男と未來の妻なる放屁の舞と糞壺に落ちる迄も夫婦の契を結ぶと云う話のはしがきで、著者は山東京傳、寛政八年の刊行である。また、若殿が便所に入て手を洗わぬので小姓が尋ねると『屁を放りに參ったのぢや』と(いう話もある)。或は

 屁を放りに雪隱へゆく賢婦人

 と云う句もあり、大月隆氏の屁を論ずの中には(放屁のマナーを述べている)

 次に發する方法は以下の如し。
 第一法 雪隱に入りて發すべし、誰にも遠慮もいらずして宜し。
 第二法 成るべく人の居らぬ處にて發すべし。然らざれば臭きにヘイ口す。
 第三法 もし人中にて腹張て辛棒なり難き時は「御免」と斷りて而して後に發すべし。」

 以上のように放屁の場所として李家は便所を挙げている。ただし、糞尿(を出すこと)と比べれば何とまあ日陰者扱いであろうか。要するに便所は放屁の「避難所」であって、李家の実証にもかかわらず、屁が正しく場所を得たものではないわけさ。よくよく考えれば、屁はどこにも身の置き所がない。まあ、開き直れば、責任は持てないが、屁はどこで出そうとかまわんとも言えるのだね。

 表社会の日常生活において屁は厄介者である。屁を隠蔽した(仮面?)夫婦、恋人、きょうだい、隣近所…つまりは人間社会の有り様には、生理的な屁が社会化し精神的な〈屁〉に昇華して、社会関係や人間関係を複雑化しているところの〈屁〉的現象を内包している。

 糞尿のための「便所」は「屁」のために用意されたわけではない。屁の存在感をいうとき、排泄という類似性から便所と結びつけられやすいのだが、便所の奥深い文化性に包容されて屁は(希薄な)存在をそこで許されているに過ぎないのさ。

 本来的に「屁」は「便所」とは全く無関係である。
posted by 楢須音成 at 22:06| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月16日

続・〈屁〉の存在感とは何だろ〜ヵ

 そもそも屁を排泄するための場所はない。というか、屁の排泄はどこでもよいというのが本質である(もちろん、制限はあるけどね)。〈屁〉というものの存在感をたどっていけば、こういう「居場所のなさ」が根底にあることがわかる。

 糞尿が便所に居場所を見つけるのはなぜだろうか。
 便所によって、人間の身体内に発生した糞尿は身体外に出てくると同時に人間社会に受け入れられる構造になっているわけさ。この構造とは、物を生み出したり流通させていく社会の機能性と、それを担う人間が紡ぎ出す文化性も内包した生産の仕組みのことである。糞尿は決して否定されることなく堂々と存在してきた。つまりは、臭かろうが、汚かろうが、どうあっても糞尿は役に立つ(処理される)存在なのである。

 それに引き比べて居場所のない屁は無益だね。その無益さは徹底している。例えば、〈屁〉に関する用語を100語並べても(「〈屁〉の用語を分類してみた」参照)、そこに見えるのは、あまりに軽く扱われる(ように見える)〈屁〉の現実である。軽い笑い、さらには軽い負の評価が大半を占めるのである。軽いという現実は、〈屁〉はちゃんとした実学の対象にもならず(なりきれず)、表現の表層を流れているからなんだよ。人間社会における〈屁〉の機能性や文化性を見出し、糞尿と拮抗する存在感を打ち出すことは絶望的なのだろうか。

 糞尿と兄弟分の屁がこのような扱いを受けてきた歴史的経緯は屁の属性に起因するのはいうまでもない。その出てくる所や臭気(悪臭)において同じにもかかわらず、屁は「実用性→(ほとんど)なし」「可視性→なし」「異音→発生する」という現実を抱えているわけであるが、ここが〈屁〉の存在感の起点となっているんだね。

 屁の存在をわれわれが意識する過程を追ってみよう。まず、「見えない(透明)」という属性が第一のポイントである。次に見えない実体に「悪臭」があって独自の存在を主張するわけだが、同時に「異音」がして発生元を特定するわけさ。ただし、屁にはパターンがある。このパターンを経て屁は〈屁〉となるのである。

 パターンはこういう組み合わせである。
 @悪臭あり+音あり=発生元を示して存在を主張している(羞恥の極み。または無恥の極み)
 A悪臭あり+音なし=発生元を隠して存在を主張している(知らぬ顔は倫理的に問題)
 B悪臭なし+音あり=発生元を主張している(屁の芸人はこのタイプの屁のようである)
 C悪臭なし+音なし=存在しないのと同じ(本人だけの秘密)

 これらの組み合わせにはまり込みながら、われわれは屁に対する制御権があるようでない。屁の発生(ニオイや音)をコントロールしにくいわけだね。糞尿でも同様だというかもしれないが、屁では「ちょっとおトイレに」とは言えないし(言ってもいいけど、それは嘘になる→嘘は後ろめたい)、糞尿に比べて屁はかなり不定期発生物(いつ催すかわからない)である。つまり、居場所のなさや突発性を抱え込む屁はかなり制御しにくいといえるのである。

 やっかいなのは、このとき屁はわれわれの心的情況として隠蔽を前提とした存在(屁をすることは恥ずかしい)になっていることなのさ。糞尿の排泄も羞恥を喚起するというかもしれないが、人は(便所を用意して)糞尿の排泄をことごとく隠蔽はしない。屁とは羞恥の質が違うことに気づかねばならんよ。

 屁が糞尿とは違う羞恥を喚起する存在になった大きな理由は、人間の倫理性に根ざしていると思うね。われわれは単純に自他の「嘘」を嫌う。他人の嘘は許し難く、自分の嘘は後ろめたいわけだね。主義主張の以前に嘘は人間の関係性をそこなうアクションとして基本の前提(認識)なのである。

 〈屁〉の羞恥の深層はこの「嘘」に根ざすものなのさ。その羞恥は思いのほか深い。そもそも屁は見えないのに存在を主張するのである。姿を見せず(実体なし)に悪臭や異音で自らを際立たせようとする存在の形は、根底において狡猾であり「嘘」である。悪臭や異音だけは実に生々しいわけだね。ここに存在の隠蔽と存在そのものへの羞恥が表裏の関係で発生してくる。それが他人の屁だったら排他の材料になるのである。つまり「見えない」のに「臭う」「聞こえる」という三位一体の屁は、無作法という文化規範へと追いやられるのである。

 生理的な屁が人間の心的情況をまとって〈屁〉的現象となる(存在感を漂わす)とき、このような屁の三位一体に潜む「嘘」や、すでに触れたように、屁そのものが制御しにくいという意識下の危機感があるのである。

 〈屁〉の存在感は、その表層は軽いが、その深層は深く重いと言わねばならん〜。
posted by 楢須音成 at 09:56| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 断片考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月23日

〈屁〉は時局を諷刺する武器となる〜

 幕末から明治にかけて時局が大きく動いたとき、〈屁〉は日本人の有力な(?)表現材料となった。つまり、〈屁〉をもって時局を諷することが一つの傾向となったわけである。このことを福富織部の『屁』では、「屁から見た幕末側面史」「屁から見た明治大正側面史」の節を設けて検証している。

 このときの表現形態として狂歌や狂句が独特のスタイルを持った。『屁』からいくつか引用する。(訳は音成の珍訳で)


<黒船が浦賀に来たときのもので、屁でアメリカを吹き飛ばす意気込みを示すが、幕府はどうも対応が煮え切らない。その曖昧に苦慮していた様を諷した>

 くれてやるかさねてくるな毛唐人 大日本のぶいにおそれよ
 (屁をくれてやるわい、何度も来るな毛唐ども、大日本のブイ=武威を恐れよ)

 ぶいぶいと放す鐵砲こはくなし だましすかすに困るアメリカ
 (ブイブイやっても恐れんぞ、毛唐どもはだましや透かし屁に困っておるよ)

 ことはりやへのもとならばぶいもせめ さりとては叉すかしぬるかな
 (理屈をこけば、屁の国ならばブー攻撃も方法さ、なのにまた透かし屁をしとるわい)


<アメリカのあとにロシアも来た。このとき彗星が西の空に現れた。何の予兆かと人心不安な世情を醸すが、尾を引く彗星(ほうき星)は屁の如しとして、ブーうん長久天下泰平のほうひ星と笑い飛ばす>

 君が代やくさ木もなびく放屁星
 (あなたの御代に臭いやつらも服従させる放屁星です)

 曇らざる夜にすいと出る放屁星 武威にくさきもなびくしるしぞ
 (晴れた夜にスイと現れた星は放屁星、ブイブイの勢いでやつらを服従させる合図だよ)


<公武合体によって攘夷を断行しようとする攘夷派の島津和泉(薩摩)が上洛し、その動きが天下の耳目を集めた。その和泉の動きを諷した>

 泰平をこき出すものは薩摩いも はらの具合もなほる下々
 (泰平の屁を生み出すのは薩摩どんのいもさ、しもじもは腹の具合もよろしいようで)

<大原三位が勅使として関東へ下向したとき島津家も随行した> 

 大原になる程薩摩くわされて あとは泰平こくと安康
 (なるほど、大原に大きな腹になるほどいもを食わされ、あとは泰平の屁をこけば安泰だ)


<幕府は江戸市中の警護を置いたが、士風堕落して庶民からは冷笑された>

 へをたれて仕舞巡邏の供まもり 鑓(やり)ももじりも繩でからげる
 (屁をたれて一日の最終警備の一団が行く、ヤリもモジリもだらしなく縄でからげておるわ)


<鳥羽伏見の一戦を題材にした諷刺画にある狂句。官軍が徳川軍に屁を放っている>

 十九川(とくがわ)に泡をふかせる河童の屁

<尾張は大政奉還後に朝廷と幕府の間でいろいろ斡旋をしたが、倒幕派に一蹴されて鳥羽伏見の戦いとなった。そのときの尾張の気持ち。>

 臭けれど尾州はじつと見物し

<会津の負け戦をすか屁に見立てた>

 すかをしてくさみは殘る會津の屁

<高松は徳川の親藩だったが、鳥羽伏見で一敗地にまみれたので、音高松の尻すぼみと諷された>

 打出しの音高松の尻すぼみ
 (最初の勢いはどこへやら高松は尻すぼみになってしまった)


 こんな調子で狂歌、狂句が並ぶが、〈屁〉がいろいろに見立てられて表現を獲得しているわけさ。時局の動きがことごとく〈屁〉に染まって戯画化され、お笑いぐさとなっている。激動の時代であればこそ、歌や句の定型の中で〈屁〉は闊達に場所を得ているといえるね。

 これらの狂歌、狂句の定型の中から漏れ出てくる〈屁〉の有様は、身体から出てくる屁のように、その時どきの放屁の姿態を彷彿とさせる点で表現の幅(とぼけた味)を得ていると思うよ。

 一言=しかしながら〈屁〉の諷刺はパターンにはまりやすく今ではあまり通用しない表現であ〜る。
posted by 楢須音成 at 01:50| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月29日

妻のオナラに含羞と含蓄をこめて

 久しぶりに書店をのぞいたら『妻のオナラ』(三浦朱門著、2006年、サンガ新書)という本が目に入った。これは一応、見分せねばなるまいと手に取った。副題に「夫婦のための幸福論」とあり、内容は〈屁〉を通じた洞察をもって老年を迎えた夫婦の関係を論じたものであった。

 そこに〈屁〉はどう登場するのか。
 最初に「はじめの寓話」として紹介している夫婦に〈屁〉が登場するのさ。話に登場する夫は毎朝、目覚まし代わりに妻の放屁で目を覚ますのである。そういう夫婦の〈屁〉にまつわる馴れ初めから「(旅の宿でバイクの空ぶかしで目が覚めて妻の放屁を懐かしみ)あの音を来世でも聞くことになるのか」と達観するまでの「深い関係」について語っている。

 〈屁〉が登場するのはそこまでで、あとは〈屁〉が通奏低音のように響いてはいるものの、〈屁〉の議論があるわけではない。それにしても、「妻のオナラ」とは直截な書名であるね。音成的にはいい書名と思うが、一般的には〈屁〉をここまで(書名に)出すもんか? 「妻のクセ」「妻のイビキ」「妻のネゴト」「妻のハギシリ」でもなく、「妻の特技」「妻の荒技」「妻の出番」でもなく、「妻のオナラ」なのである。

 ここでは〈屁〉が夫婦の絆の媒介物として扱われているわけさ。その扱われ方が象徴的であるとともに、具体的に〈屁〉なんだね。「はじめの寓話」での〈屁〉とはこんな具合である。(新刊本のネタバレごめんなさい)

 @婚約前に彼女の奇妙な振る舞いに戸惑いを覚えた。(デートのときに、具合が悪そうにちょっと休みたいというので、慌てて休む場所を探してきて案内すると、もう平気なのでもっと雰囲気のいいところに行きたいと元気を取り戻していた)
 A新婚旅行中に思い出して問いただすと、妻は恥ずかしそうにオナラがしたかったのだと告白した。
 B結婚して半年後、ある日の夕食後、食器を持ち上げようとした妻が屁をしてしまった。彼女は台所に駆け込んだかと思うと、夫に早くこちらに来いと呼ぶ。何だと思って行くと、ニオイをかがれるのが嫌なのだと言う。夫はそれは俺にとって香水みたいなものだと妻を気遣った。
 Cそのうち妻には毎朝目が覚めると屁をする習性があることを知った。妻は朝のトイレでそれをやっていた。
 Dやがて妻は目覚めとともに轟音を発するようになった。夫が轟音で目を覚まし身動きすると、妻は平然と「お目覚めになった? そろそろ起こさなければ、と思っていたの」と言うのであった。
 E旅の宿でバイクの音に目覚めたとき、妻のそのオナラを懐かしく感じた。

「つまりこの本は、そのようになった夫婦、もはや異性としての相手への興味はなくなったものの、別の絆で深い関係を結ぶようになった男女の間が、どのようになるのか、またどのようになったほうが、楽になるかを書こうと思っている」と三浦は述べている。

 この夫婦の〈屁〉のエピソードは多角的な分析の視点を内包している(と思う)が、〈屁〉の羞恥や夫婦の秩序(関係)は変遷していくものだということを具体的にわかりやすく物語っているわけである。

 もっとも、@からEに至る夫婦の姿はこれだけでは一面的である。まったく男の視点だし、夫は妻の前で屁をしなかったのかとか、子供たちはどうだったんだとか、〈屁〉をめぐる家庭環境にチェックをいれたくなるね。(それでも〈屁〉をもって夫婦論を展開しようとした意図は素晴らしいといわねばならん〜)

 この本は夫婦間の〈屁〉の変遷(臭い仲)を前振りとして、老年を迎える夫婦のあり方を多岐に論じる。その根底には〈屁〉のエピソードでうかがえるように、男女の性的な関係が色濃く影を落としている。〈屁〉が媒介する関係にはそういう含羞と含蓄があるということだけれど、それは〈屁〉が人間の前で多様に立ち現れてくる一つの道筋なのさ。

 まあ、そう力んでみたところで、〈屁〉を掘り下げていっても夫婦論にはならず、夫婦論を掘り下げていっても〈屁〉論にはならんだろうねー。
posted by 楢須音成 at 15:00| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献探索 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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