2006年06月30日

〈屁〉の映画は屁で始まりパンツで終わる〜

 まれに〈屁〉を描いた映画を観ることがあるが、正面切って取り上げている作品はほとんどないのである。〈屁〉(の深層)が映像表現しにくいことは、アダルトビデオの性表現にも通底してる問題だね。そんな中で、小津安二郎の『お早よう』(1959年)はストーリーの展開にからめて〈屁〉を効果的に使った映画である。

 この作品は〈屁〉がテーマというわけではないものの、〈屁〉を人間の振る舞いの自然な延長ととらえてユーモラスに織り込み、作品の重要なファクターにまで高めているのさ。映画は〈屁〉に始まって〈屁〉で終わるのである。素晴らしい。

 場所は東京郊外の住宅地。隣近所の家族の交流が描かれるのであるが、この交流は重なり合う三つの層(子供たちのレベル、奥さんたちのレベル、だんなたちのレベル)があり、物語の進行と背景を立体化している。主となるストーリーは、テレビを買ってもらえずに反抗する林家の兄弟を軸に、とうとう林家にテレビがやってくるまでの人の動きをユーモラスに描いている。──などと、当たり前に観てしまうと、〈屁〉はどこに行ったんだということになるんだよ。

 ここは〈屁〉に着目して鑑賞してみなければいかんね。

 映画は冒頭、登校する少年たちの放屁遊び(額を押してもらって、プーと一発出す)シーンから始まる。放屁の「タイミング」と「快音」が求められるわけだが、どうしても下手な少年が一人いて、音にはならず屁じゃなくて実≠出してしまうのである。それは、その少年のパンツの中の秘密なわけさ。

 少年たちはテレビを観るのが大好き。テレビは憧れの的(昭和30年代相撲のテレビ観戦は大人気)だったが、どの少年の家にもテレビはない。
 仲良し三人組の少年たちの関係はこうなっている。
 @大久保少年 → 〈屁〉を操る父を師とする放屁遊びの達人。遊びの考案者らしい。
 A林兄弟 → 放屁の技量上昇中。テレビをねだって、買ってくれない親に反抗する。
 B原田少年 → 放屁の技量がなくいつも実≠出す。叱る母は胃腸が悪いので粗相をすると思っている。家ではテレビではなく洗濯機を買った。
 三人は、近所で唯一テレビを持っている若夫婦の家に相撲を観に入り浸り、親に叱られているのである。

 さて、少年たちの放屁遊びは「芸」の競い合いになっている。映画で描かれているのは芸を披露して愛でるという向日性をまとった〈屁〉なのさ。ところが、それに(チャレンジして)失敗する悲しい少年の姿も描いて物語は始まるわけである。(そこで観客は笑うわけだね。リアルな笑いの現場には往々にしてこういう陰りがある=必要悪なんだよ)

 この放屁遊びに象徴される〈屁〉は何を意味するのだろうか。かなり意図的に〈屁〉が物語に織り込まれて展開するのであるが、ヒントになる会話がある。林兄弟がテレビをねだって父親に叱られるシーンで、「大人だって余計なことを言うじゃないか。こんちは、おはよう、こんばんわ、いいお天気ですね、ああそうですね、あらどちらへ、ちょっとそこらへ、ああそうですか、なるほど、なるほど・・・・」と大人の口真似をして口答えするシーンがあり、大人の日常生活で際限なく繰り出される無駄(?)な会話を皮肉っている。実はそういう無駄が大事なんだと映画は繰り返し言っているんだけれど、一般の大人から見れば〈屁〉ほど無駄なもの(馬鹿なもの)はないわけさ。

 つまり、言葉の(無駄に見える)振る舞いに〈屁〉を対置させているというのがこの映画を観る音成の視点になるわけだが、放屁遊びは少年たちにとっては無駄どころか仲間同士を確認し合う振る舞いになっている。それがため原田少年はパンツの中の失敗を繰り返しながらも遊びを捨てられないのである。

 言葉と〈屁〉の対置で小津は「言葉」を語ろうとしたのか。あるいは〈屁〉を語ろうとしたのか。もちろん、音成の確信は〈屁〉さ。言葉と〈屁〉の違いは、単純に〈屁〉は言葉ではないということ。〈屁〉は言語化せずにそれ自体で存在しているモノなのである。そういうモノのやりとりが放屁遊びである。

 そこには言葉を超えた交流があるわけだね。まあ、言葉と〈屁〉は、言ってみれば「こんにちは」という言葉と「キス」という行為の対比(関係)と同じようなものだと考えられる。ただし、残念ながら〈屁〉は関係性を築く行為とは見なされないね。大人の世界で〈屁〉は排除される。

 映画の中では〈屁〉を操る者を通じて〈屁〉は「われは〈屁〉なり」と自らを主張する。そのときの人間の振る舞いが可笑しい。原田少年のように〈屁〉に失敗する者は孤独である。その孤独に耐えて彼は大人にならなければならないわけさ。大人の世界は言葉で〈屁〉を無化する世界である。無駄とはいっても、言葉と〈屁〉では質が違うわけで、〈屁〉を隠蔽する(無作法で恥ずべきもので無駄なものだと意味づけする)ことによって大人の世界はできあがっているんだね。

 この作品で描かれた〈屁〉は実にコミカルである。登場する女性は〈屁〉(の存在)を全く認識していない(無視している)し、男性(大人)は認識はするが無駄なことと一顧だにしない。ここには大人と少年の世界という図式ができあがる。もっとも、映画では周到にも、大久保少年の家で父親が放屁して家族の絆を作っている、とぼけた〈屁〉のバリエーションを描いて単純な図式を突き崩すのだが。(このほかにも、この映画の含みのある緻密な構成には本当に感心するね)

 少年たちの世界の〈屁〉の存在感は軽いようで重く、原田少年を孤独感でさいなむ暗黒面を見せる。決して〈屁〉は万人に平等ではないし、経済的不平等などと違って〈屁〉の不平等は誰に愁訴もできず致命的であるほかないのである。

 映画は少年の洗ったパンツが風に翻るところで終わる。われわれは「お早よう」という一言を獲得するために、パンツの中を通過してきたことを忘れてはいかんよ。

 一言=誰にだってパンツの中の秘密の一つや二つはあるんじゃないか〜。


posted by 楢須音成 at 18:04| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 作品探求 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。